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(1)

マックス•ウェー・ハーの理解祉会学に関する若干の批判

一 五

私はこの小論文に於てマックス・ウェーバーの理解社会学

V e r s t e h e n d e S o z i o l o g i e

に於ける社会学論を特にその社 会的行腐

s o z i a l e s H n n d e l n

に関する判論を中心として検討し︑更にそれに関し芳干の批判を加えてみたいと思うので

先ず理解社会学の要旨を検討することから始めよう︒ウェーバーは科学を二大別して自然科学と文化科学に分けるの

であるが︑その際文化科学としての社会諸科学は凡て経験的現実態に関する経験的知識を探求するところの現実科学︑

(

二 1

あるいは経験科学︑さらには又事実科学なのである︒ところがこの経験的現実態︑あるいは現実の生ぱ我々に対して直 接にあらわとなっているそのままの様式に於ては我々の内に或は外に継起し︑叉並存して生起消減するところの諸々の 過程の絶対的に無限なる多様性

t m e n d i i c h e M a n n i g f a l t i g k e i t

なのである︒つまり現実の生ぱ有限なろ人間精神にとつ ては絶対的に無限なる多様性である︒それ故無限なる現実態の有限なる人間精神によろ凡ゆる認識は常に現実態の

i

の有限なる部分のみが科学的把握の対象となり︑その部分のみが知るに値するという意味で本質的であるべきであると

( 2 )  

いう前提の上に立つているのである︒即ち社会科学は凡て無限に多様なる現実態の諸々の有眼なる部分を夫々特殊的に

理解祉會學に関する若干の批判

. 

ーバ

ーの

(2)

富 大 経 済 論 集

して一面的なる観点の下に取扱うものであるが故に︑現実の社会現象そのままの客観的な科学的分析というものはあり

( 3 )  

得ないのである︒かくして諸々の科学の研究領域の根底にあるものは事物の実質的た聯関ではなくして問題の恩惟的聯

→ こ

( 5 )

関であり︑科学は経験的現実態の思惟的盤序を目指すものであると言われるのである︒それでは一体︱つの特殊的祉会 科学としての社会学はそうした経験的現実態の如何なる跳分を取扱い︑更には経験的現実態を如何なる観点や範疇のも とに盤序するのであろうか︒ウェーバーはここに経験的現実態に於ける社会的行為を主題とする理解社会学を主張する

のである︒我々は次にこの社会的行為を主題とする理解社会学の内容を検討しなければならない︒

その経過と諸結果に於て因果的に説明せんとする科学であるという︒

ウェーバーは先す社会学を定義して社会学とは社会的行為を解釈しつつ理解し︑そうすることによって社会的行為を

そしてその際行為とは人間の態度

Ve

rh

al

te

n

それが外的な行為であろうと内的な行為であろうと忍従であろうと︶に一人あるいは多くの行為者が主観的な意味

SU , 

bj

ek

ti

ve

r  S

in

n を結びつけろ場合に︑叉その限りに於てその人間の態度を意味するのである︒叉社会的行為とは一人あ

るいは多数の行為者によつて思念せられたる意味

ge

me

in

te

r

Si

nn

  に従つて他人の態度に関係せしめられ︑且つ他人の

( 6 )  

態度によつて行為の経過の方向を決定されている行総を意味するのである︒この様に理解社会学は社会的行為を行為者

によつて主観的に思念せられた意味

意すべきことは思念する

me

in

en

とは単に理知的合理的に思惟することのみならす更に情意の作用をも含むのであり︑

叉行為者によつて思念せられた意味が主観的であるというのはそれが決して客観的に妥当する意味や更には何らかの客

( 7 )  

観的に正当なる︑或は形而上学的に解明せられたる真理的な意味を指すのではないということである︒尚叉行為とは上 に述べたように行総者によつて主観的に恩念せられたる意味を有する限りに於ける人間の態度を指すのであるから︑単

( 8 )  

なる反射的な︑従って主観的に思念せられたる意味の結びついていない態度は行為ではないと言われるのであるが︑こ

su

bj

ek

ti

v  g

em

ei

nt

er

S 

in

n

に結びつけて理解せんとするのであるが︑この場合注

. . . . . .  

/  . . . .  

(3)

きであろう︒

て検討することにしよう︒

マックス・ウェー・ハーの理解社会学に関する若千の批判

一 七

の点も充分注意すべきところであろう︒然しこれ等の説明と並んで上述の社会的行危に関する規定は更にご庶注目すべ

この社会的行葛という概念は理解社会学の中心をなすものであろから︑我々はその内容を更にご肘立入っ ウェーバーに於ては上述のように社会的行危とは一人あるいは多数の行腐者によつて恩念せられたる意味に従って他

人の態度に関係せしめられ︑且つ他人の態度によつて行銹の経過の方向を訣定されているような行為を意味するのであ

ウェーバーは史に之を定義してそれは他人の過去及び現在の態度あるいは未来に期待せられろ態度によってその 方向を快定せられたる行為であると言う︒然しこの場合他人と呼ばれるものは一人であろこともあれば非常に多数のこ

ともあり︑叉既知の人であることもあれば未知の人であることもある︒例えば交換行葛に於て行鯰者が相手より貨幣を受

け取るのは将来多数の未知の他人が交換に於てその貨幣を受取って呉れるだろうという期待によつて自己の行危の方向

( 9 )  

を決定しているからである︒兎に角人間の行為は︑それが行危者によつて主観的に思念せられたる意味に従って他人の

態度によって方向つけられているか否かということによつて︑社会的行鯰と非社会的行第に分たれるのである︒ウェー

バーが非社会的行為の事例として挙げていろものには次のようなものがある︒先す外的行為では経済行鯰が単に個人的 な生産消費に終始する間は︑即ち単に事物の態度の期待によつてその方向を決定せられていろ限りは非社会的行鯰であ

る︒然るにこの経済行為が第一二者の態度を考慮に入れて決定せられる場合に始めて社会的行為となる︒即ち消費に於て

第一二者の将来の欲望を考慮し︑それによって自己の節約の仕方を決定するとか︑或は又生産が第一1一者の将来の欲望を基

礎としてその方向を決定せられるという場合に始めてその経済行為が社会的行箆となるのである︒次に内的態度では瞑

( 1 0 )  

想や孤独な祈りのような純梓に個人的な態度も同様にして社会的行腐ではない︒或は自転車に乗った二人の者が単に衝 突せるような場合は決じて直ちに社會的であろのではなく自然現象と等しい事件であるが︑然し彼等が互に衝突を避け

(4)

富 大 経 済 論 集

( 1 1 )  

ようとする行為や衝突の後の罵言︑喧嘩︑論争等は社会的行為である︒或は叉多数人の類似行為は社会的とは言われな

い︒例えば街上で多数の人が降雨に会して同時に傘をぴろげるという場合︑その行為は何等他人の行為によつて方向を

決定せられたものではなく︑多数の人が凡て等しく雨に濡れるのを防ごうとして為したものであるから︑単に群衆的に 類似せる行為であって祉会的行為ではない︒同様に人種はその成員の態度が何等かの点で類似していても︑それが人種 的共同態となろためには成員相互が意味的に関係づけられていなければならないのである︒更には叉社會的行為は他人

の態度によつて制約せられた行第と同一ではない︒例えば群衆に制約せられた行総の如く個人の行為は彼が一定の地域

に集合している群衆のうちにいるという単なる事実によつて強く影響せられるものであり︑又地域的に分解している公 衆も印刷物の媒介等によつて個人の上に同時的に或は継起的に影響を及ぼし︑個人によつて多数人の態度であると感ぜ られる態度を通して個人の態度を群衆的に制約することが出来る︒即ち個人は自己を群衆や公衆の一部と感するという 単なる事実によつて特定種類の反応活動︵或種の集団的暴行の如き︶を可能ならしめられると同時に又他の種類の反応 活動︵反省を促がす勧告に応することを拒むが如き︶は妨げられる︒かくして個人が群衆の内にあるという単なる事実

によつて個人が一人一人分散している場合には生じないような色々の感情︵例えば快活︑憤怒︑興奮︑失望︶が生する

のである︒然しながらこの場合には個人の態度と彼が群衆内にあるという事実との間には意味的な関係は存しないので

あるから︑唯単に群衆という事実によつて反応的にのみ惹起せられた行為︑従つて意味的にはその事実に関係せしめら

れざるものは概念上社會的行為とは言えないのである︒同様に叉他人の行為の単なろ模倣も︑それが他人の態度によつ

て意味的にその方向を決定せられることなしに唯反応的に起ったものである限り︑概念上社会的行為ではない︒人が他

人の行っていることを自分にとつても適合的なものだと考えることによつて自分も叉それを採用するという事実は祉会

的行為ではない︒何故ならこの行為は他人の態度によつてその方向を快定されているのではなくして︑行為者が他人の

一 八

(5)

前に述べたようにウェーバーに於ては行為とは意味の結びついている限りでの人間の態度を指し︑従つて叉社会的行

為も他人の態度によって自己の態度が意味的に珂解の可能な仕方で方向づけられることを必要とするのであるが︑

G 1 5 )  

限り社会的行為とは︑そこに一人もしくは多数という差はあるけれども︑兎に角常に専ら個々人の態度を指すのである︒

即ち理解社会学は︑その方法として理解を用いるために︑その対象としては個人及びその行為を終極の統一体︑あるい

マックス•ウェーバーの理解祉会学に関する若千の批判 ろうか︒我々は更にこの点を検討しておかねばならない︒ 態度を観察することによつて一定の客観的可能性のあることを知り︑この可能性によつて自己の行為を方向づけているに過ぎないからである︒

b彼の行為は他人の行嵩によつて因果的には決定されているが︑意味的には決定されてい

ない︒之に反し他人の行為が︑それが流行であるとの理由によつて︑或は伝統や模範であり身分上高貴なものであると

考えられるがために︑更にはその他類似の珊由によつて模倣せられる場合には︑

は第一二者の態度に意味的に関係せしめられるのである︒尤も群衆的に制約せられた行危や模倣は共に流動的な概念であ

つて︑展々伝統的行為に於て見受けられるように社会的行為の限界上にあり︑従つて非祉会的ということ︑即ち単に反

応的に惹起せられるということと社会的ということ︑即ち意味的関係の存在ということは実際には区別し難いものであ

( 1 3 )  

るが︑然し概念上では両者を区別することは可能なのである︒

ウェーバーに於ては以上の事例によつて明かなように社会的行鯰とは飽くまでも他人の態度によって意味的に方向つ

而もウェーバーに於てはこうした社会的行為こそが︑社会学の唯一の対象とまでは

( 1 4 )  

言えないにしても︑祉会学の中心的事実︑即ち科学としての社会学の構成的事実を形作っているのである︒そして実際 ゥ で

1バーはこうした社会的事実を主題にし︑ けられた行為を指すのであるが︑

その模倣行為は被模倣者の態度あるい

その意味や類型ゃ規則性等に関し極めて精密な理論を展開しているので

ある︒然しながらこうした祉会的行為のみが社会学の中心的な構成的事実であるということは一休何を意味するのであ

(6)

富 大 経 済 論 集

( 1 6 )  

はそのアトムとして取扱うのである︒何故ならそれのみが我々に理解し得るものだからである︒其故社会学的な鍛察方法

にとつてはそうした意味的に解釈し得る個人の行為を更に心理的な︑或は化学的な︑更にはその他の意味外的な過程に

分解し︑それ等の単なる複合体として取扱うことは出来ないのである︒尤もその他の観察方法︑例えば心理学や生理学

にとつては此の意味的に解釈し得る行為が更に諸々の対象に分解されて取扱われ得るわけである︒そして叉意味外的な

自然現象も社会学にとつては意味的行為の条件︑あるいはそれが主観的に関係する対象として観察せられることは言う

までもない︒然しそれ等は決して理解社会学に於ける本来の対象ではない︒理解社会学に於ける本来の対象は飽くまで

も意味的に理解し得ろ個人の行為であり︑行為の意味聯関である︒理解社会学の観察方法にとつては個人が意味的行為 の上限であり︑且つそれの唯一の支担者である︒其故例えば国家︑組合︑封建社会︑株式会社︑家族︑軍隊等の如き諸

々の社会形象

s o a l N i e   G e b i l d e

を現わす概念は社会学にとつては人間の特定種類の共同行為のための範疇に外ならない

のであり\従って社会学はそうした超個人的な社会形象をそれに関与せる個々人の理解の可能な行為に還元することに

よって始めて理解し得るのである︒そうした社会形象をその超個人性に於て捉えることは避けらるべき実体的な把握な

のである︒勿論法学的観察方法に於ては例えば国家は個人と同様に法人格として取扱われるが︑然し社会学はそうした

社会形象を個々人の理解の可能な行為に還元して理解せんとするのである︒つまり行為を理解しながら解釈せんとする

( 1 7 )  

社会学にとつてはそうした社会形象は専ら個々人の特殊なろ行為の経過及び聯関として取扱われるのである︒ウェーバー

の理解社会学に於てはこの様に諸々の社会形象は凡て常に個々人の意味的に理解し得る行為に還元して取扱われるので

あり︑ウェーバーはこの方法を個人主義的方法

i n d i v i d u a l i s t i s c h e M e t h o d e

と呼ぶのであるが︑然しこの場合注意すべ

きことはウェーバーによれば此の個人主義的方法は決して個人主義的な価値判断

i n d i v i d u a l i s t i s c h e W e r t u n g

を意味す

るものではないということである︒従つて社会主義経済と言えども社会学的には個人主義的に︑即ち個々人の行為から

四 〇

(7)

理解されねばならないのである︒つまり個人主義的な還元の方法は方法上の操作なのであって︑決して価値判断として

( 1 8 )  

の個人主義を意味するのではない︒

ウェーバーは上に述べたように凡て社会現象は社会的行稿に還元されて社会的行銹の場而で捉えるべきであるという

個人主義的方法を主張するのであるが︑

こうした立場はウェーバーの社会関係や社会団体の概念規定のうちに明瞭に硯 われている︒先ず社会関係について観ろならば︑社会関係とはその意味内実に従つて一定の予知し得るような仕方で互 に方向づけられている行銹が曾て生起し︑現に生起しつつあり︑将来も叉生起すろであろうという可能性

C h a n c e

から

成るのであり︑

正にそうした可能性のみから成ろのである︒それは国家︑教会︑組合︑結婚等の社会形象が問題となる 場合にも全く同様なのである︒そして此のことは︑これ等の概念に関する実休的な見解を避けるために︑常に確認され

(19

>)

ていなければならないのである︒即ちウェーバーに於ては社会関係とは特定の社会的行葛が特定の竃情の下に必す一定

の様式をもつて行われるという可能性を意味し︑この可能性は現にその行為が停止されていても︑

て例外の事実が発生しても原則として客観的に賀存していると考えられる︒

人的に恢存持続すろ根拠をそうした社会的行為の可能性の客観的存続に求めることによってそれ等の実体論的解釈を排 除しようとしたのである︒次に団体について観るに︑団体とは外部に対して統制的に制限され︑或ぱ封鎖された社会関

係に於て特定の人々︑即ち指導者や時には普通代現権をもつ行政幹部がその秩序遂行の目的をもつて行危し︑

つて秩序が保証されている時の社会関係を指すのである︒

をもつて行銹する可能性の有無に依存し︑

叉偶然の事情によっ

この様にウェーバーは国家や教会等が超個

それによ

つまり団体の存在は特定の人々が団休の秩序を遂行する目的 この行危の可能性が欠如している場合には社会関係はあっても団体は存在し

( 2 0 )  

ないのである︒叉この可能性が存する限り︑個人の交替があっても社会学的には団体は存在するのである︒この様にゥ ェーバーに於ては社会関係や団体や更には社会形象は凡て個々人の特定の社会的行為が起り得るという可能性に還元し

マックス•ウェーパーの理解祉会学に関する若干の批判

(8)

( 1 3 )  

G 1 4 )  

( 1 2 )  

( 1 1 )

G  

es am me lt e  A uf   s i i. tz e  zu r  Wi ss en sc ha f  t s l eh r e , 

43   0  wi rt sc ha ft   un d  Ge se ll sc ha ft ,  S.

 U

f.   Wi rt sc ha f  t  un d  G es el ls ch af   t ,   S .  ll f.  

( 1 0 )  I b i d. , S .   

1 1  

I bi d . ,  S . 

1 1  

( 9 )  

( 8 )  

( 7 )  

( 6 )  

( 5 )  

( 4 )  

( 3 )  

( 2 t )  

( 1 )  

て説明されるのである︒之が就会的行為を坪解社会学の中心的な精成的車実であるとして個人主義的方法を主張するこ

との帰結なのである︒

我々は今までウェーバーの狸解社会学に於ける社会学論を特に社会的行鯰に関する珊論を中心として検討して来たの

宮 大 経 済 論 集

ウェーバーの社会学論や社会的行為論はこの外に尚極めて重要な問題や更には優れた精密な思想を多く含ん

でいることは言うまでもない︒然しながら我々はこの小論文に於ける当面の検討と批判という課題を一応上述の範囲に

制限したいと思う︒

Ge sa mm el te u  A fs at ze   zu r  W is se ns ch af ts le hr e, S .   1 60 ,  1 7  0 .   Ge sa mm el te   Au fs at ze   zu r  Wi ss en sc ha ft sl eh re ,  S .  17 1  I bi d . ,  S .  17 0  I bi d . ,  S .  16 5f .  I bi d . ,  S .  16   0  Wi rt sc ha ft   un d  Ge se ll sc ha ft ,  S . 

1 .  

Wi rt sc ha ft   un d  Ges el ls ch af t,  S ,  1 .   Wi rt sc ha ft   un d  G es el ls ch af t,  S .  2 .   Wi rt sc ha ft   un d  Ge se ll sc ha ft ,  S.  

1 1  

Ge sa mr ne lt e  Au fs ii tz e z ur S  oz io lo gi e  u.  

z ia l p ol i t ik , S .   4 82   Ge

sa mm el te   Au fs ii tz e 

zur~issenschafts1ehre,

S .  50 3  Ge sa mm el te   Au fs ii tz e  zu r wi ss en sc ha ft sl eh re , 

S .

 

5

03   Ge sa mm el te   Au fs at ze  z ur  W is se ns ch af ts le hr e, S .    3f .  Ge

sa mm el te   Au fs ii tz e z ur W  is se ns eh af ts le hr e,  S .  4 30 1 

(9)

であるが︑次にそれに関し若干の批判を加えることにしよう︒

我々ほ前節に於てウェーバーの踵解社会学に於ける社会学論を特に祉会的行捻に関すろ迎論を中心として検討したの ウェーバーは上述のように理解社会学を規定して社会的行銹を行銹者によって主観的に思念せられた意味に結びつけ

て踵解せんとするものであると言うのであろが︑

行危に求め︑

この規定によれば先ず第一に社会学は専ら社会的行為を対象とする科 学であるということになる︒先すこの点から批判してゆくことにしよう︒尤もウェーベーは珊解社会学の対象を社会的

その課題を社会的行危の意味聯関の珂解にあろとすることによってそうした社会的行銹の意味聯関を心珊 的な︑或は化学的な︑更には意味外的な要素や過程に分解して取扱うことや更には又謡々の社会形象を最終単位として 取扱うことを拒否しながらも︑尚他面に於ては従来の生物学的な社会学や心踵学的な祉会学の存立を承認するような態

•G1)

度を採つているのである︒即ちウェーバーは踵解祉会学を何人にも強いられるべきものではないと述べているのである︒

ワルターは之を説明してウェーバーは自己の社会学を輝解的文化科学たらしめるためにのみ理解社会学に局限するので

マックス•ウェーパーの理解社会学に関する若千の批判

( 2 0 )  I bi d. , 

S .  

2 6 

( 1 9 )  

( 1 8 )  

( 1 7 )  

G豆 ︶

G16

>)

Wi rt sc ha ft   un d  Gese

ll sc ha ft , 

S .  

1 3  

Ge sa mm el te u  A fs ii tz

e zu

r  Wi ss en sc ha ft sl eh re , 

S .

5

 

12   Ib id .,

S

 

.  

41 5  Ib id .,  

S .  

41 5f .,  5 13 f.   wi rt sc ha

f  t 

un d  Ges el ls ch af t,

S

 

.  

6f   Ge sa mm el te u  A fs ii tz e z ur W  is se ns ch af ts le hr e,  

S .  

51 8f . 

(10)

( 2 )  

あるということを自らよく意識していたから理解社会学を唯一の社会学とは言わなかったのであるとしている︒然しそ れにしてもウェーバーは矢張り社会的行為を社会学の中心的な構成的事実であるとし︑社会学の独自の範疇を社会的行 為に求めるのである︒従つて碑解社会学に於ては諸々の社会関係や社会集団は凡て個々人の社会的行為に還元すること

によって理解されるべきであるという所謂個人主義的方法が採られ︑そうした社会形象をその超個人性に於て捉えるこ

とは実体論的把握として排除されるのである︒然しこうした社会学の対象論は果してそのまま是認せられ得るものであ

ろうか︒我々は端的にこうしたウェーバーの対象論は狭過ぎると言わざるを得ない︒社会学の対象という問題に関しては

成程現在尚議論がないではない︒然し我々は現在社会学の独自の対象あるいは基礎的範疇としては単に社会的行為のみ

( 3 )  

ならす更に社会関係や社会集団を挙げることが出来るのである︒勿論特定の科学の基礎的範疇は最初から先験的に一定 不変のものとして定立されるものではないから︑社会学も今後特定の領域に於ける認識成果の充実によりそうした領域 を包括する範疇を史に新たに獲得し得るということは当然予測され得ろところである︒然しながら社会学の現在の段階 に於ては社会的行為と社会関係と社会集団とがその基礎的範疇を構成しているのである︒更に言うならば社会学は歴史 的祉会的現実に於ける社会的行総と社会関係と社会集団との構造及び変動を理論的に叉歴史的に探求せんとするもので ある︒この意味に於いて社会的行為のみを対象とずる理解社会学は祉会学の対象を過少に評価せるものであると言わざ るを得ない︒勿論ウェーベーは社会関係や社会集団をも取扱っているのであるが︑然しそれ等の社会形象は凡て所謂 個人主義的方法に従って個々人の社会的行為に還元して狸解されるべきであると言うのである︒成程社会関係や社会集

団は現実の実在関係に於ては常に個々人の社会的行葛に媒介されているのであり︑更にはそれ等一二者は現実的には相互

に底礎づけの関係に於て結びついているものである限り︑社会関係や社会集団はある程度までは社会的行危という蔵点

から理解されることが可能であり︑叉必要でもある︒.然しながら社会的行為と社会関係と社会集団の三者は同時に叉朋

四四

(11)

らかに歴史的社会的現実に於ける一二つの異質的な契機である︒即ち諸々の社会関係は決して単に特定の意味内実に従つ て一定の様式に於て社会的行為が相互に行われる可能性というととには憲きないところの客観的な構造や形態を有する 普遍的な関係形式であり︑従って之は特に所謂形式社会学が社会学の独自の対象として主張したものなのである︒叉諸

々の社会集団も決して単に特定の人々が団休の秩序を遂行する目的をもつて行為する可能性としては捉えられ得ないと

ころの客観的な構造や形態を有する超個人的な統一体なのであり︑従って之は従来早くから社会学の独自の対象として

取扱われているものである︒其故祉会学の甚礎的範疇としては社会的行総と並んで社会関係と社会集団が挙げらるべき

であり︑社会学は単に社会的行為の意味や類型や規則性や特徴等を論するに止まらず︑更に社会関係や社会集団の類型

や構造や機能や歴史的発展等を探求すべきものである︒

四五

つまり繰返して言えば社会学は歴史的社会的現実に於ける社会

的行為と社会関係と社会集団との構造と変動とを踵論的に叉歴史的に探求すべきものである︒この意味に於て我々はウ

ェーバーの社会的行為のみを主題とし︑諸々の社会関係や社会集団の如き社会形象は個々人の社会的行銹に還元して理

解すべきであるという狸解社会学の個人主義的方法には賛同することが出来ない︒ウェーバーの個人主義的方法に於て

は計会学の対象は個々人の社会的行為のみに制限され︑超個人的な社会形象は正当に取扱われ得ないことになるが故に︑

( 4 [

︶ 理解社會学は言わば﹁個休本位の社会学﹂となb︑社会の学としての社会学としては無説することの出来ない難点を含

むものと言わざるを得ない︒勿論ウェーバーの個人主義的方法は前述のように方法上の操作として採用されたものであ

b︑決して価値判断としての個人主義を意味するのではない︒然しながら人間の認識に於ては常にその対象が方法を規定

し︑叉同時に逆にその方法が対象を規定するという交互的な循環関係が存するのである︒だからウェーバーの個人主義的

限するということになるのである︒ 方法は例え方法上の操作として採られたものであるにはしても︑それは必然的に社会学の対象を個人主義的な問題に制

フライヤーがウェーバーの方法的個人主義は心ならすも実質的内容的な個人主義に

マックス•ウェーパーの理解社会学に関する若千の批判

(12)

うことの意義を或る程度までは認めるのではあるが︑然しそうした個人︑主義的方法が遂に社会関係や社会集団の如き社 会形象を社会学独自の対象として確立することが出来す︑その意味に於て理解社会学が結局個人本位の社会学になって

いる点を非難せざるを得ないのである︒然しながらウェーバーの理解社会学に於けるこうした個人主義的傾向あるいは

主観主義的傾向はこの点のみに止まらす更に他の幾つかの点にも硯われていると思う︒我々は更にそれ等の点に関し吟

味を進めねばならない︒

従つてつまり行為者の思念する主観的意味を基礎として社会的行為を理解せんとするのであるが︑

矢張り一種の主観主義的傾向あるいは個人主義的傾向が含まれている︒ウェーバーに於ては例えば社会学あるいは社会 科学に於ける国家の研究とは国家を超個人的な客観精神として明らかにすることではなく︑多数の個々人の事実上の行 為をそれ等の行鯰者が国家について懐く主観的意味︵特定国家に所属すろという意識やその国家の法に服従するという

(7

) 

自覚や自国の強大を喜び︑或は国家の弾圧を怖れる感情等︶に結びつけて迎解することに外ならないのである︒かくし てウェーバーに於ては諸々の祉会形象が個々人の社会的行為に還元して理解されるのみならず︑そうした個々人の社会 的行為を科学的に理解する根拠が行為者の思念する主観的意味の理解の可能性に求められるのである︒勿論我々も特定

の社会的行為の充全な理解のためにはそうした行為者の恩念する主観的意味を考慮する必要があり︑叉そうすることの ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑理解社会学は前述のように社会的行為を行為者によって主観的に思念せられた意味に結びつけて理解するものであり︑ 理解社会学が社会的行為を対象とし

富 大 経 済 論 集

( 5 )  

推移していると言えるのは蓋し適評というべきであろう︒然しウェーバ1

個人主義的方法を主張せるにも的拘らす︑尚

( 6 )  

実際の研究に於ては決してそうした立場のみに狭く囮踏していないことは諸家の批評せる通りであるが︑こうした矛盾 は一っには個人主義的方法そのものの内的鋏陥に基因するものに外ならないのである︒以上の如く我々はウェーバーの

従つて諸々の社会形象をも個々人の社会的行為に還元して理解すべきであるとい

この規定のうちには

四六

(13)

四七

可能である場合があることを認めるのであるが︑然し実はそうした主観的に思念された意味の理解ということは決して 安易自明なこどではなく︑厳密に考えるならば行鯰者が主観的に恩念する意味というものは決して凡ゆる場合に我々に

( 8 )  

とつて直接完全に理解されることの出来るものではない︒我々が直接に則解し得るのは決して行冗者の主観的な思念内 容ではたくして︑行︵局によって表現された客観的な意味なのである︒従って社会的行総が凡て行為者によって主鍛的に 思念された意味に結びつけて踵解されることは元来不可能なのであり︑又社会学は決して社会的行銹を凡て常に行為者 の主観的に恩念された意味を某礎として踵解すろ必要はないのである︒成程社会学の一つの課題はウェーバーの言う如 く行葛の意味聯関の輝解にあり︑而も意味的に列解し得ろ行危の珊解に存するのであるが︑然しその意味の判解とは先 す第一に客観的な意味あるいは客観化された意味の踵解であり︑客観的な意味の表現である限りの社会的行為の踵解で あって︑そうした客観的な意味の背後に潜む行危者の主観的な意味や恩念の蝿解は特定の場合に限つてのみ問題とされ るのである︒社会学が個々人の社会的行総に於ける主観的な思念や感情を一々踵解することは不可能なるのみならず︑︐

( 9 )  

叉不必要である︒ウェーバーの言える如く社会科学的認識は凡て無限に多様なる現実態に於ける個別的諸現象のうちか ら我々が意義を与える特定の有限なる部分のみを知るに値するものとして選び出し︑それのみを因果的説明の対象とす

るものであb

︑従って社会学も沢して社会的行危の客観的な意味の外に同時に常に主観的な意味を一々暉解する必要は

叉︑王緞的な意味の岬解が必要なる場合にしてもそれは常に客観的な慈味の迎解を前提とし︑それとの聯関に於て のみ行われねばならないのである︒この意味に於てウェーベーが判解社会学を規定して社会的行危を行鯰者によって主

絨的に思念された意味に結びつけて典解し︑

その経過と諸結果を因果的に説明せんとする科学であるというのは不充分 不徹底であり︑主観主義や個人︑翌義の非難を免れないと思う︒我々は今迄に瑾解社会学に於ける所謂個人主義的方法が 内容的にも個人主義的傾向を含み︑又社会的行総を主観的に恩念された意味に結びつけて迎解せんとする立場が一種の

マックス•ウェーパーの理解祉会学に関する若千の批判

(14)

富 大 経 済 論 集

主観主義に陥らざるを得ない所以を明かにして来たのであるが︑然しそうした個人主義や主観主義の傾向は更に彼の社

会的行為に関する規定を吟味する時一層あらわになって来る︒我たは更にその点を吟味しなければならない︒︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

ウェーバーによれば前述のように社会的行為とは一人︑あるいは多数の行為者によって思念せられたる意味に従つて 他人の態度に関係せしめられ︑且つ弛人の態度によってその行為の経過の方向を決定されている行為を意味するのであ

る︒つまりウェーバーに於ては社会的行為とは他人に関係`つけられ︑この関係によってその経過を方向づけられる行為︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

であって︑而もこの関係が行為者によって主観的に意識されていることが必要なのである︒其故ウェーバーの立場は

社会的行為あるいは行為の社会性を所謂心的相互作用ということによって説明せんとするものであり︑正しく心的相互 作用説に外ならないのである︒然しこうしたウェーバーの心的相互作用説に於ける如く社会的行為あるいは行為の社会 性を行為者によって思念せられたる意味に従って他人の態度に関係せしめられ︑この関係によってその経過の方向を規 定せられる行為に求める限り︑そうした条件の存在せない行為は凡て非社会的な行為とな

b

︑その結果人間の行為のう ち或るものは社会的行為であり︑他のものは全く社会性を持たない個人的な行為であるということになる︒従って更に は叉個人は或る時には社会の内にあり︑他の場合には社会の外に出るということにもなり︑人間は社会の内にいなくて も人間たり得るということにもなる︒共故結局之は社会性を持たない個人の先在を前提し︑個人を社会の先なるものと

( 1 0 .

︶ 

するアトム的な個人主義の立場に帰惰せざるを得ないのである︒つまり心的相互作用説は行為の社会性を説明せんとし

てアトム的な個人主義に陥り︑却つて行為の社会性の否定に終るという内的矛盾を含んでいるのである︒共故ウェーバ

ーの立場は決してそのまま承認されることが出来ない︒それでは行為の社会性の根拠は一体何所に求められるべきもの

であろうか︒この場合先す考えられ得る立場は︑我々の社会的行為のうちには行為者が主観的に意識することがなくて も他人に重大な関係や影響を有するものが訣して少くなく︑そうした行為も現実には他人への関係や影響の故に依然と

四 八

(15)

して社会性を持つ行葛として取扱われ得るのであるから︑行腐者が他人への関係を主観的に思念するということを行為 の社会性の不可鋏条件とは説ず︑こうした条件を行為の社会性から除去してしまうという立場である︒つまり祉会的行

為を単に他人に関係づけられ︑

的相互作用説に対して単に相互作用説と呼ばれるのであるが︑

的相互作用説より整合的であり︑

定は明かに過剌な主観主義や主観的な心踵主義たるを免れないのである︒然しながら相互作用説と呼ばれるものも果し

て完全であろうか︒我々は更に一層立入って吟味を進めねばならない︒

この関係によってその経過を方向つけられる行為とみる立場である︒この立場は前の心

その限り具体的である︒

四九

この相互作用説は行為の社会性の説明としては確かに心

この立場から説るならばウェーバーの社会的行為に関する規

一体相互作用説は行為の社会性を他人に関係せ

この関係によってその経過を方向づけられるという他人との相互的な行為階関に求めるのであるが︑然しこ

の立場に於てもそうした他人との相互的な行銹聯関が直接親実に存在することを社会的行為の不可鋏条件と説るものと

単にそうした条件が広く直接間接たるを問わす何等かの仕方と程度に於て存在し跡づけられ得ることを社会的行為の不 可鋏条件と視るものとでは社会的行鯰は内包的にも従って又外延的にも著しい相異を生するのであるから︑両者は厳密

に区別されねばならない︒先す他人との相互的な行為聯関が直接現実に存在することを祉会的行為の不可鋏条件と説る

立場に於てはそうした行為喘関の硯実的な生滅と共に行葛の社会性が生滅することとなり︑従つて人間は或時には祉会

の内に入って社会性を獲得し︑叉或時には社会の外に出て社会性を喪失することとなるのであり︑更には又人間は社会

の外にあって社会性を持たなくても人間たり得るということになるのであるから︑之は結局前の心的相互作用説と共に

アトム的な個人の先在を予想する個人主義に帰着し︑人間存在の根源的社会性を説明することが出来ないのである︒其

故行為の社会性の条件としてはそうした相互的な行銹聯関が直接現実に存在せなくても箪に広く何等かの仕方と程度に

b行為の社会性は他人に関係づ於てそれの存在が認められ跡づけられ得るならば充分であると説るべきであろう︒マックス•ウェーバーの理解祉会学に関する若干の批判

(16)

富 大 経 済 論 集

この関係によってその経過を方向づけられろという条件が直接間接たるを間わず広く何等かの仕方と程度に於 て存在するということに求められるべきである︒然しそれにしても行総の根諒的社会性は単にそうした人間相互の間の 行為的聯関性ということのみに壺きるものであろうか︒否︑決してそうではない︒端的に言えばそうした人間相互の間 の行総的聯関性ということは実は行危の社会性の槻能的外部的形式的なろ規定たるに止まり︑単に所謂必要条件たるに 外ならないのである︒行為の社会性はそうした機能的なる規定や必要条件の外に更に同時に様式の上から︑或は内部的 内実的な充分条件について規定されねば沢して充全とはならないのである︑そして我々の考えるところではそうした行 危の社会性に於けろ充分条件とは個々人の行葛の聯関の根底に存してそれを媒介していろ客観的普遍的なろ社会意識や

行危様式に外ならないのである︒個々人は実は夫々そうした地日遍的客観的なろ社会意識や行危様式を分有し︑それを媒

介することによってのみ相互作用的行危聯関を実現すろのである︒論皿的に言えば個と個との関係は個.と全との関係に

媒介されていると言うべきであろう︒そうした普遍的な社会意識や行危様式と個性的な個人性︑あるいは社会性と個人 性とは人間の行為に於けろ根源的な二契機であり︑社会性のない個人の行鯰や又反対に個人性のない社会的行厖とい うようたものは本質必然的に考えることが出来ないのである︒而もそうした両者は相互媒介的な勁的弁証法的構造聯関

( 1 1 )  

を成しているのである︒共故行危の社会性は単にその必要条件たろ佃々人の間の相互作用的行銹聯関という桟能的規定 に止まらす︑更に同時に一府根諒的にそうした相互作用的行腐賠関を根底に於て媒介していろ客観的普遍的なろ祉会意 識や行第様式に求められることによって始めて充全とたろ︒その意味に於てそうした客観的普遍的なろ社会意識や行総

様式こそが社会性の充分条件に外ならないのであろ︒

ここに至って行冗の社会性の説明は始めて充全なものとなろ︒我

々は前にウェーバーの社会性に関すろ規定が単なろ心的粗互作用説の立場に止まろものであろと非難したのであろが︑

それが今到逹した立場から説ても不充分不徹底たろことの意味が一肝明かになったと言わねばならない︒我々の今到逹

五〇

(17)

した立場から硯るならば前節に示したウェーバーの非社会的行総の幾つかの事例は︑例え他人への意識的な関係や更に

は他人への直接的現実的な関係を有たなくても︑夫々何等かの仕方と程度に於て他人への聯関をー含み︑且つ根源的に客

観的普遍的なろ社会意識や行岱様式を分有すろ行筍なのであるから︑凡て社会的行鯰となる︒勿論客観的普遍的なる社 会意識や行為様式を分有する点に於ては同一ではあっても︑単に間接的にのみ他人への関係を跡づけ得ろ社会的行為よ

りも直接現実に他人への関係や更には他人への五息識的た関係を有つ社会的行官が少くとも桟能的外而的形式的にはそれ

丈具体的蜆実的であろと言えよう︒そして又祉会的行危にはそうした種々の段階や程度が区別せられるべきことも言う

までもない︒然しそれにしてもウェーベーの社会的行銹あろいは行︹局の社会性に関する立場は飽くまでも心的相互作用

説の立場を出です︑従つて主観的な個人主義に帰着せざろを得ず︑その限り不充分不徹底たるを免れないのである︒と ころで叉ウェーバーは前節に示したように社会関係を特定の社会的行為が特定の事情の下に必ず一定の様式をもつて行 われるという可能性に求め︑又団体を特定の人々が団体の秩序を遂行ずろ目的をもつて行総する可能性に求めたのであ ろが︑然し我々の立場ではそうした可能性そのものの根拠が更に問われねばならないのであろ︒ウェーバーは例えば国 家や敦会の集団的統一性や客観的自同性をそうした可能性によって説明せんとするのであろが︑そうした可能性こそ逆 に国家や敦会の客観的普週的なろ集団的統一性や自同性の根源たろ社会慈識や行危様式によって基礎づけられているの

S

である︒つまりそうした可能性を可能ならしめる根拠は実は諸々の社会集団の自己同一的客観的普遍的なろ社会意識や 行為様式に外ならないのである︒ウェーバーの所謂可能性というものによっては祉会集団の集団的統一性の根拠は遂に 確立されろことが出来ないのである︒之は全くウェーベーの上逮の如き社会的行為に関すろ規定や個人主義的方法に於

ける心踵的主観主義や個人主義に某<欠陥に外ならないのであろ︒

我々は以上ウェーベーの開解社会学に於けろ社会学論を特に社会的行危に関する迎論を中心として検討し︑更に之に

マックス

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