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「白馬の騎者」をめぐって

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「白馬の騎者」をめぐって

その他のタイトル Uber den ?Schimmelreiter

著者 橋村 良孝

雑誌名 独逸文学

巻 19

ページ 162‑176

発行年 1974‑04‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/00017836

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「白馬の騎者」をめぐって

橋 村 良 孝

テオドール・シュトルム TheodorStorm (18171888)の文学は,周 知のように,その故郷「海辺なる灰色の町」1)フーズムの風土と切り離し ては考えられない.たとえ作品の素材が外国から移入されたものであって も,その作品の背後には絶えず北ドイツの暗くて重い気分が感じられ,そ こには憂鬱な雰囲気や孤独の悲しさが漂よい,自分の内部や過去への追憶 などが見受けられる.初期の作品には特に悲しげな追憶の情感が充ちてお り(「みずうみ」 Immensee,1849), 中期の短編になると, 彼の現存の核 心,心理的な問題が中心になっている.例えば「三色すみれ」 ViolaTri

colar (187 4)や「水に沈む」 AquisSumbersus (1876)など.そして晩 年に於ては個人的な罪の問題が影を潜めてしまい,環境の力や人間自身の 先天的な限界との戦いに敗れて,無罪過のまま滅びゆく人間こそ真に悲劇 的だという考え方が示され,運命に逆って倫理的試錬に耐える人物の姿が 浮彫にされている.一般にリアリズム文学の中心にあるのは,たとえそれ が社会的な諸々の問題を扱っている場合に於いても,あくまでも「人間」

であり,特にその心理的機能と生理的条件との相関関係が追求され,また その人間も市民としての勤めを伴った日常性の中で観察されることが多 ぃ.この場合自我の発展にとって必要なものは運命共同体への奉仕であ り,協調性ではないだろうか.詩的リアリズムの人間像には,次代の自然 主義とは異なって,人間を物質力の所産と見倣したりはせず,何か古典主 義的な道徳律といったようなものを感じさせるものがある.例えば「永遠 に変ってはならぬもの, それは人間性への努力なのだ」というケラー

‑162‑

(3)

(Gottfried Keller)の表現は,この時期の文学が市民的ヒューマニズム への最後の戦いであることの証左であろう.この市民的秩序尊重のモラル を盛った写実的技法に最も適したジャンル,それは散文作品をおいては考 えられない. ドイツ文学の群星の一つとして,文学史の一頁に不滅の輝き を残したリアリズム作家シュトルム,彼は限りなく人生を愛し,2)芸術家 としての使命を忠実に守り続けようとした.3)その彼が晩年に書き残し 彼の集大成とでもいうべき 「白馬の騎者」 DerSchimmelreiter 手だてに彼の文学の核心に触れてみたい.

「白馬の騎者」はシュトルム自身の言葉,,……esist  mein langstes 

Stuck……"4)を借りるまでもなく,最も長い作品であることはいうまで

もないが,その内容にも多くの問題を内包する作品でもある.詩人シュト ルムの創作の契機に関しては定かではないが,既に小品「レーナ・ヴィー LenaWies (1870)  の中で, 少年時代のやさしい友だちで,シェヘ ラザードのように,尽きることのない話の泉であった,,レーナ・ヴィー ス から「生涯を通じて一番美しい話をきいた居間」で, 「津波の荒れ狂 う夜,堤防の上にあらわれ,災禍がせまると馬もろとも堤防の裂け目に飛 び込む白馬の騎者の幽霊の伝説•…••」の話を聞いていることを推察する 5) この作品が「白馬の騎者」執筆の契機となり, 多くの知識をこの

「やさしい友だち」から得たものと思われる.そしてまたテオドール・モ ムゼン (TheodorMommsen)宛の書簡 (18432月13日付)並びにカ ール・エルンスト・ラーゲ (KarlErnst Laage)の説6)に依ると,どう やらこの作品も,「グリースフース年代記」 ZurChronik von Grieshuus  (18831884)や「ハーデルスレーヴフースの祭」 EinFest auf Haders levhuus (18841885)と同様に他郷の題材を彼の故郷の地に移植したこ

とになるらしい.エーリッヒ・シュミット (ErichSchmidt)に宛てた手 (188522日付)の中で述べているところでは,数年間,彼はこの 作品の構想を胸に抱き,試験的にこの題材に取り組んでいたのであるが,

‑163‑

(4)

再三,彼はこの仕事を中断し,他の比較的軽いと思われる仕事7)を優先さ せている.シュトルムにあってこれまでなかった新しい課題に対するこの

ためらい

陦躍と回避は肉体的な衰えと年齢からくる気弱さの為なのか,それともこ の対象に対する人間的かつ作家としての責任感情から起ったものであろう か.彼の作家としての詩的精神から判断して後者だと思いたい. この題材 は,偶然に彼のものになったのではなく,いわば−彼が探し求めていた

−とでもいうべき題材の一つなのである. ところでシュトルムは,伝説 の真実性と関連性を強調する為に, この作品の構成に於ても他の多くの 作品と同じように, 当時ドイツに於て流行していた,物語のなかに物語 をはめ込み,一連の物語にいま一つの物語の枠を与えるという,,Rahmen‑

erzahlungC<の形式を彼独自の方法で用いている.そして外枠物語と内枠 物語の舞台には同じ環境と土地が設定されていて,外枠物語は簡潔に報告 されてあり,内枠物語に重点がおかれている. この二つの枠組は同一テー マ, つまり ,,SturmHut@$によって結び,互いに密接に交錯させている.

しかも聞き手の仲間が段々と少なくなるにつれて,物語も外面から内面へ と進展し,枠物語の舞台は旅館の客間から,老教師の部屋へと移り, ここ で気持のよい環境を用意し,語り手と聞き手との会話の中に,主人公ハウ ケ・ハイエンと彼の家族の運命についての報告がなされるという形式で物 語の終末に至るのである.作品本来の筋の中心は(はっきりと章とか節に よって区分されている訳ではないが)三段階に分かれていて, その各々 に於て独立した見せ場を持っている.第一章では主人公ハウケ・ハイエン の青春時代と父の遺産相続に到るまでの奉公時代が扱われており,第二章 では堤防監督官への出世と堤防建設が,そして第三章では家庭での彼の生 活,病気そして没落が描かれていて,各章のクライマックスとして,氷投 げの場面,堤防構築に於ける村民とハウケの衝突,大津波の晩が構成上,

効果を上げている.

第三章は,第一章及び第二章と異なり,一見表面的には静止的で,動き

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に欠けていると思われるが,実は不安と内的緊張で満たされていて,その 不安と内的緊張のうちに,ハウケと家庭をむさぼり食う災が準備されてお り,ハウケの形姿はその作品全体の深さと内的な力強さをあらわしてい る.物語全体は最後の破局への準備であり,最初から,一見付随的に見え る出来事がすべて最後の破局のモチーフずけに用いられており, シュトル

ほぐ

ムは表面的な緊張を強めては解しながら,事件を準備し,そして互いに関 連させて, クライマックスを作り出すという技法を用いて, この「白馬の 騎者」に於いて葛藤文学の典型を示したのであるとも言えよう.

主人公ハウケ・ハイエンを正しく理解する為には, まず作者シュトルム がこの作品の推稿から脱稿の間に「影法師」EinDoppelganger(1886) と「ある告白」EinBekenntnis(1887)の両短編を書きあげている事に 注目しなければならない.つまりこれら二つの作品は,言い換えるならば

「白馬の騎者」への予備研究なのである. 「影法師」の社会的な犠牲者ジ ョン・ハンゼンと「ある告白」の超人であり救世主のような性格のフラン ツ・イエーベの両者の融合によって新生児ハウケ・ハイエンをシュトルム は生み出したのである. これら二人の性格の特徴は極めてはっきりと少年 ハウケ.ハイエンの無口で,人と接することを自ら避けようとする性格に 受継がれていることが, ハウケの日常生活の中に見受けられるし,更に は「ある告白」の主人公の持っている高慢さも, 「ここいらの堤防は,て んでなっちゃいないね/」 (259)という風に,反抗的な自負を伴なった批 判的な性格までも持ち合わせている. 「まあ堤防監督官のところへでも持 ち込むんだね,模様替はそれからだよ/」 (259)と父テーデ・ハイエンが 皮肉たっぶりに言ったこの言葉こそ,主人公ハウケ・ハイエンの人生目標 .なのである. 「ある告白」の主人公は経済的にも社会的にも恵まれた存在 であったが,ハウケ・ハイエンは全く不遇である.海鳴りに向って「きさ またちになにができるか/,人間になにひとつできないのとおんなじだ /」(260)と怒声を交えたこの笑い声を投げるが, これこそ正に自然に対

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する挑戦,否そればかりか人間,つまり規則に縛られた社会に対する挑戦 状であった. 「影法師」の主人公ジョン・ハンゼンの場合と同様,ハウケ・

ハイエンの最大の障害は経済的貧困なのである.だがハンゼンとは対照的 に,彼は社会的地位を獲得する.彼は計算された目的への追求,天分,そ して幸運な偶然によって着実に社会的な階段をのぼっていく. 「お前こそ 堤防監督官にうってつけの男だ/」(293)と,彼を知ること誰れよりもあ つかった父テーデ・ハイエンが残した言葉に激励されながら,絶えず眼前 に揺曳しつづけるこの目標を追及して,老堤防監督官に仕える一介の下働 きから,下男頭となり,やがて主人に代って事実上の監督官として,一切 の堤防事務を管掌するに至るまでになる.息子の将来を思って遺産として 残してくれた20畝あまりの土地も彼を目標へ一歩近ずける一要素ではあっ たが,何と言っても彼の得た最大のものは,老堤防監督官の娘エルケの愛 である.老堤防監督官の死後,後継者の問題がもちあがった時,「すぐにも 私の父の,今では私のものとなっております屋敷の土地をつけ加えて,

ご自分の財産だとおっしゃることが,おできになると存じます. これだけ 合わせれば,堤防監督官としての資格はもう十分ではございますまいかし ら」(303)と,彼女は堤防監督官長官に説明するのである.才能とか実績 よりも,金と「足の下の粘土」 (302)が問題になる社会の中で,当然のこ とながら起ってくるのが嫉妬と憎悪である.下男頭オーレ・ペーテルスと の少年期の敵対関係は,漸増のあとを辿り,後年村の一勢力ともなり,堤 防委員の職責にもつくにいたるオーレ・ペーテルスは,遂に堤防監督官ハ ウケ・ハイエンの努力を駆遂し去ろうとする反対勢力の主謀者として,強 力ではあるが,頑迷固晒,迷信的傾向をさえおびた見解をもって,絶えず ハウケの進歩的,建設的な意見と対立する.

偏狭で物質的な周囲の世界に逆らってまでも自己の目標追求に飽くこと を知らないこの自負心に富んだ若い有能な青年の魂の中にはいつか「誠実 や愛情と肩を並べて, (否定されるべきはずの)名誉欲と憎悪の念」 (297)

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が大きくなる. この事は,ハウケがエルケと結婚し,堤防監督官になって からも変らなかった.仕事に対する誠実さと独創による衝動から堤防修復 を村民に強要した時, 「前の堤防監督官は親父のお蔭げ, こんどの奴は女 房のお蔭げで堤防監督官になったんだ/」 (306)と,村民たちはハウケを 侮辱することによって復讐する.ハウケと村民とのこの亀裂は次第に拡大 して行く. フランツ・ツユトケルト(FranzStuckert)も指摘している8)

とおり, これは古くから何度も繰返されては,膿を出してきた,個人と社 会,偉大な人間と可もなく不可もない人間との葛藤であり,それはまた避 けることのできない如何ともしがたい葛藤なのである.

トロッコの上に坐って曽てユークリット幾何学を勉強しながら堤防建 設を夢見て「堤防にいちだんとゆるい傾斜をあたえようとするかのよう に,一方の手をあげて,空間にやわらかな線を描いていた」(258)少年ハ ウケは,今やファウスト的探求心と超人的努力をもって新堤防建設の完成 に適進するのである.そしてこの新堤防は彼に社会的にもそしてまた,彼 の才能そのものにも決定的とも思われる優越となるかのように思われた.

ところ力:彼自身, 自らこの努力に背を向けることになろうとはついぞ気づ かないのである. 「少なくとも,お前が僕を堤防監督官にしたことだけは 無駄にしてはいけないはずだ/そうだろうエルケノこんどこそ,僕が 立派な堤防監督官だってことを,やつらに証明してやるつもりなんだ/」

(310)と,妻エルケに語る言葉の中には,本来村民の為,社会の為に意図 されていたものが,今では彼らに対する自己顕示の手段,つまり現世的な 欲望,権勢欲にとってかわるのである.そしてハウケ・ハイエンの心の中 には「他人に対する反抗とひとりを守る厳しい性質とが巣づくったのであ る.……以前は物静かな叱責の言葉で,正しい道を示してやった未熟者や

なまけもの

怠惰者らが,今では激しくこづきまわされて, 跨然と色を失う」(335)程 までに頑迷で,高圧的で椙介になり,ニイチェの意味するところの異常な までの精力の人となるのである.村民たちの抵抗にも拘らず堤防建設の完

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I

成によって,表面的には,つまり村民との戦いに於ける勝利者となるので あるが, 自己との闘争心,精神力を失ない, 彼は内面的には敗北者とな る.彼の心の中にはただ功名心と憎悪だけが残るのである. 「ハウケ・ハ イエン排水地」 (342)という言葉を聞いた時, もう一度そっと彼は「ハウ ケ・ハイエン排水地」と繰返すのである. 「それはとうていほかの名前で はいえないような響きであった.たとえ誰が反対しようとも,おれの名前 が消え失せることはもう絶対にあり得ない/……ハウケの頭の中では,い つのまにかこの新堤防が世界八番目の不思議にさえなりそうな気持なの である.たとえフリースランド全土をくまなく探してみたって, これに匹 敵するものがどこにあろう/そして彼は馬をかってなにかフリースラン ド人のまっただなかに立っているような思いであった.みんなよりも,首 ひとつだけぬきんでて,眼は鋭く, しかも同情にあふれながら,人々の上 を見わたしているとでもいう風であった.」 (342) この瞬間に住民の共通 の利益を願って力の限りを尽した偉大な一個の人間ハウケを, シュトルム は,彼本来の美徳形式にのっとって,我々の前に全くの誇大妄想者,良心 のない超人として映し出し,天才の不巧の名を残すことと,倫理的,市民 的,現実的な評価に於ける奇妙なまでの違和感を明白にするのである.即 ち彼はハウケ・ハイエンの仕事と人間ハウケ・ハイエンとを峻別すること によって, この相剋を解明するのである.

ハウケの築いた堤防が技術的進歩の証として存在する一方,社会及び自 然に対する挑戦者としてハウケ個人の科が糾弾されると言うことは, フマ ニスムスの観点に立って考えるなら,それは人類の進歩と調和との関係に 於て何を意味しているだろうか.村民から「気位が高い」(225)とか「啓 蒙家」(372)として目されている老教師は次のような注釈をしている.

「……ソクラテスは毒をのまされたし,主キリストは十字架にかけられた じゃありませんか/このごろではもうそう簡単にもまいりませんでしょ うけれど,でも権力家や頑固な売僧のたぐいを聖者にまつりあげるかと思

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えば,逆に才能のある人物を,わずか頭の高さだけ凡人からぬきんでてい ると言うだけで,幽霊や化けものにしてしまうなんてことは−今日でも 毎日のように行われていることですからね」(371)と.社会のやり口はよ り微細になっているけれども,歴史は,人間というものは変らないもので あることを証明している.即ち個人というのは生涯その周囲の世界に影響 を及ぼすかも知れないし,また支配するかも知れないし,人は一大事業を 成し遂げるかも知れない−けれども最後にはより高次な無慈悲な力によ って滅亡しなければならない存在なのである.生涯を技術の進歩と思想の 啓蒙に捧げたハウケが,人々の想い出の中で,独創的な考案家としてでは なく,災害を予告する亡霊として生きつづけるという事は,それは不可解 な現代社会に対する激しい風刺であり,彼の死の償は真の人類全体の平和 と個人の幸福は,調和なくしてはありえないという証左ではないだろう か.

老教師の会話の内容を,ハウケ・ハイエンと村民=個と社会からハウケ

すがた

と自然=個と自然へと移し, 自然の相をシュトルムは天候と海の自然の力 そしてまた病気,生と死を支配する絶対的な崇高な力として描出してい る..主人公ハウケ・ハイエンはこの自然との葛藤に於いても頑固にして不 屈に振舞うのである.だが彼に下される決定的な一撃は,人間の反抗でも なければ,嵐の海の暴力でもない,妻と子の死である.暗い淵からの最初 の手がさしのべられた時,即ち娘の誕生後エルケが産褥熱に冒された時,

一度は神に向ってハウケは「主よ,私の神よ……どうか私からエルケを召 さないで下さい/妻なしにはおれない私だという事も,あなたさまは,

よくご存知ではございませんか/」 (332)と,絶叫するのであるが,しか しすぐその後で声をおとして「私はよく知っております.あなたさまだっ て,いつも思いどおりには,おやりになれないということを,あなたは全 智の方でいらしやるのですから,願わくばあなたさまのお智慧のままに,

おふるまい下さいますように」(332)と,この不可避な定めさえ認容するの

I

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(10)

である. シュトルムは, ここで「影法師」の場合よりも更にはっきりと 神の仁慈がこの世に存在しないという自己の見解を示している.仮に神 が存在したとしても,その神は自然の無情な徒と共鳴する神であり,全能 の神ではないのである.それ故にハウケは謙虚であらねばならぬ如何なる

いきもの

理由も認めず, 「堤防を守る為には何か生物を捧げなければならない」

(339)という古くからの言い伝えに断固として反対する.運命共同体の一

いのち

員である堤防に働く人々の生命や愛する娘,否それどころか「みすぼらし い小犬」 (388)一匹たりとも,新堤防の犠牲,崇高な権力に対する犠牲と して捧げることに反対し,その「暴虐」 (338)を阻止するのである.妻エ ルケの病気の回復と新堤防の完成によって,一層自己の確信を固くするの であるが,暗い淵からの手が一段とせまり,娘が精神薄弱児であることを 知らされた時,主人公ハウケ・ハイエンははっきりと自然の戒めを感得す るのである.だがこれら一連の自然の警告,即ちエルケの病気,娘の精薄 も,独り,よがりな自己満足に浸りきっているハウケを脅すものではなかっ た.相変らずファウストのように,彼は自分の力の限界をいまだ認識しよ うとはしないのである.だカミこの鉄のような意志をもった男にも,不思議 と弱気のきざす瞬間カヌあった.低地熱に襲われた後の激しい気力の衰え は,病気の回復後に於ても,容易に立ち直ろうとはしなかったのであ る. 「肉体的衰弱が精神の上にものしかかり,何かにつけて満足しやすく なった夫を見て沈痛のおももちで,エルケは夫を見守るのである.」 (352)

久しぶりで愛用の白馬に乗って堤防を巡視するハウケの瞳は,丁度「新旧 の堤防が境を接している所に..…・ぽっかりと口を開けている…・」(353)

のをはっきりととらえるのである.だカミ最早や彼はかつてのような剛勇不 霧の闘士ではない. 「いつも万事自分の胸ひとつで決定していたハウケが,

今は殆んど問題にもしていなかった堤防委員の人々から,何か一言意見を 聞かずにおれない気持になっていたのである.」 (354)彼の行方をさえぎ るのは,人間の反抗でもなければ自然の妨害でもない.それは自然のたわ

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むれと一見すでに和解しているかに思われた附民の「おだやかな言葉」

(355)であった. 「自然の魅力には, どれほどまでに欺かれるものかと いうことを知らないハウケは,堤防の北西隅に立って,昨日あんなにも憎 然とした溝の,あたらしい土底を探してみるのである. しかし天頂から落 ちかかる陽をたよりに見るだけでは, さしあたりそのありかを見つけるこ とさえできなかったのである. …・昨日の黄昏どきの暗がりに,ハウケは もうすっかりだまされていたにちがいなかった.今見れば,ただ弱いとい う印象があるだけだった.」(356)洪水の起る少し前「……でもお前さん は海のなかだったね……神さまのお慈悲が,ほかの人々にも,およびます ように/」(358)と,まるで予言者のように言い残して死んでいった老ト ウリン・イャンスの言葉が自然の最後の警告としてハウケの心に重々しく のしかかってくるのである.そして旧堤防は表面だけしか修復できないこ と,万一の場合,新堤防の一部を切りおとすこと,換言すれば, 「ハウケ

・ハイエン排水地」を旧堤防の犠牲にすること以外には最早や如何なる防 禦手段もないことを知り, 「わが主なる神さま, ..…・役目のはたしかたが,

おろそかでございました/」 (368)と神に告白するのである.その2, 3 週間の後にはハウケの運命が決するのである.津波が/陸地に向かって 水の山が押しよせるのである. 「まるで広野を住家とするありとあらゆる 恐ろしい猛獣の叫びがふくまれてでもいるかのどとく.」 (365) この猛獣 をハウケは,かつて彼の獲物をかっぱらおうとした一今の海の様に−

老トウリン・イャンスの野育ちの猫をしめ殺したようにはできなかった.

だが彼の構築した頑丈な堤防の光景は,彼を再び勇気づけ「なにか,笑い のようなものがこみあげてくるのである.」 (368)ハウケの名誉心は, の明々白々たる認識のかがやきをもろくもふき消すほどに強烈を極めて,

もう一度彼は超入ぶりを発揮し,堤防切開の緊急手段を徹回させるのであ る.そうしてしばらくの間は今の計画のゆるぎのない正当さに「ハウケ・

ハイエン堤防, これはかならず保つにきまっている.百年の後までも/」

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(368)と,心ひそかに凱歌をあげるのである.だが足許で雷鳴にも似た轟 音がして,脆くもハウケの夢は破れ去る.彼は妻と娘が洪水にのみ込まれ

とき

ていくざまを見た瞬間,完全に打ちのめされ,絶望が,絶望の絶叫が胸か ら湧きおこり,妻と子の名を叫びつづけながら,白馬もろとも荒れ狂う洪 水の中へ身を投ずるのである.

ハウケ・ハイエンの死は,ハウケーシュトルムにとって終りでもな ければ救済でもなく 永遠の至福とか絶対的な無への入口を意 味するものではない.それはいわば,ケラーがこの作品を非難したところ の神秘的な現在化であり, この白馬の騎者の姿こそ「灰色の町」をおもって やまない作者シュトルムの郷愁なのである.嵐という嵐をものともせず,

しかもハウケ・ハイエンの名を恥かしめることなく,人類の技術の進歩の 証しとして彼の堤防が存続しつづけるように,彼自身もまた清浄なる精と して,北の海で暮している人々の生活を見守り,時には警告を与え,また 励ます力として,現存の人々の心の中に生きつづけるのである.彼の人生 は今や無意味なものとなったが,彼の死はそうではない. 「神さま,私を おひきとりくださいますように/」 (370)と, 自己の責任を認め,彼は普 遍的な犠牲として身を捧げることに依りその責任を蹟うのである.付言す るならば, この自らに加えた犠牲死は,キリスト教的な身代りとは別個の もので,それはむしろ作者シュトルムの自由な宗教観,神の怒りを犠牲に よってしずめるという古代異教徒的な考え方に由来していると言えよう.

ハウケ・ハイエンの死を神秘的な現在化と見倣すことは,・一見霊魂の不 滅を信じなかったミュトルムにあって,独断的な解釈であると思われるか も知れないが, しかし彼は存在の神秘を,出生と死の不思議の中に見,恐 ろしい死の謎に対する救済を,唯一死を克服する生の力を生じるところ の,即ち種族が連綿とつながって,生命の火が受けつがれるという考えに 求めているのである.そのことは,例えば人類が亡びることなく永遠に続 くという事実に示されている.だから自分自身が子供の中に生き続け,子

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供たちから忘れられないことを何よりも望んだシュトルムにとって,主人 公ハウケ・ハイエンのように, 目に見えぬ罪科や不運によって一家が滅亡 の憂目を見,生命の流れが最終的に断絶することは最大の不幸と考えられ たのである.それ故にこそ,人々から忘れられない為にも, このハウケ.

ハイエンの物語「白馬の騎者」に潭身の力を傾けて, トーマス.マン (ThomasMann)の表現を借りるならば,9) 「金銀細工師」シュトルム はこの作品を見事に完成させ, この雄勁な物語によって,みずからドラマ の叙事文学的姉妹と解した短編小説を,'0)その後二度と到達されることな い高みへと引き上げたのである.

この短編小説の根本的陳述は,理性が,不可解なものの存在を信ずるこ とや真の宗教心への道をとざしているという点にある. シュトルムは人間 の精神の隙路を示しているのではなく,人間の境涯からの逃避口の存在し 得ないことを示しているのである.ハウケの行動からではなく,彼の葛藤 によって, この短編小説の普遍妥当なる超時間的な次元が生じているので ある. この葛藤には−シュトルムの他の短編小説に於いても見られるよ うに一三つの問題がある.即ち個人的・社会的そして普遍的な人間の問 題がそれである.ハウケの人間に対する勤めと傲慢との間の動揺は,人間 の内部に存在する我欲と無私との葛藤を鮮明にしており,そしてまたハウ ケと社会との間に生じた葛藤は,社会と個々の人間の対決そのものなので あり,ハウケの自然の力との葛藤は自然と人間の闘争の象徴なのである.

「白馬の騎者」の特殊性は, これら三つのハウケの葛藤を永遠の闘争とし て見事に表現することに, シュトルムが成功しているところにあると思わ

れる.

I

I

1

l

l

テキスト :TheodorStorm:SamtlicheWerke.NovellenKleineProsa.Vierter Band.Aufbau‑Verlag.BerlinundWeimarl972

(本文中のカッコ内の数字はテキストの引用頁をあらわす. 尚訳文については, 「思 索選書121白馬の騎手』(1949年思索社)の川崎芳隆訳を参照した.)

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注.

1) 「海辺なる灰色の町」とは作者シュトルムの故郷シュレースヴイッヒ・ホルシュ タインの風土を最もよくあらわしている叙情詩,,DieStadt4!の冒頭の言葉.

2)FranzStuckert:TheodorStorm.SeineWeltundseinWerk.CarlSchii‑

nemannVerlag・Bremenl955S.121

3)TheodorStorm.BriefeBandl.Aufbau‑VerlagBerlinundWeimarl972 S.504AnHansStormHusuml867.14.Juli

4)Ibid.AnLisbethl888. 10.Marz

5)TheodorStorm:SamtlicheWerke.NovellenKleineProsa・VierterBand S、401‑410

6)KarlErnstLaage:Der ,,Schimmelreiter"im,,DanzigerDampfboot@@. in

SchriftenderTheodor‑Storm‑GesellschaftSchrift20/1971S.72‑75 7)"EinDoppelganger{@ と ,,EinBekenntni3@を指す

8)FranzStuckert:TheodorStorm.SeineWeltundseinWerkS.401 9)ThomasMann:TheodorStormS.7‑26inTheodorStormSamtlicheWer‑

ke.ErsterBand・VerlagvonTh・KnaurNachf・Berlin

10),,.・..・・dieheutigeNovelle,inihrerbestenVollendung,istdieepische SchwesterdesDramasunddiestrengsteFormderProsadichtung.Gleich demDramabehandeltsiedietiefstenProblemedesMenschenlebens;

‑… GleichdiesemverlangtsiezuihrerVollendungeinenimMittelpunkte stehendenKonflikt,vonwelchemausdasGanzesichorganisiert,undde‑

mzufolgediegeschlossensteFormunddieAusscheidungallesUnwesent‑

lichen;sieduldetnichtnur,siestelltauchdieh6chstenForderungen derKunst.$@ (ImBriefanEduardAlberti aml2.Marzl882.) Ibid.

Band2

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Über den „Schimmelreiter"

Yoshitaka Hashimura

In seiner letzten vollendeten Novelle, dem „Schimmelreiter"

(1886-1888), erreicht Storm den Höhepunkt nicht nur seiner in- dividuellen Stilgebung, sondern seines dichterischen Schaffens überhaupt. Dieses bei Storm sonst ganz unbekannte Zögern und Ausweichen vor einer neuen Aufgabe ist nicht nur Folge der beginnenden Altersschwäche; es drückt sich darin vielmehr das Gefühl aus, diesem Gegenstande gegenüber menschlich und kün- stlerisch ganz besonders verpflichtet zu sein. Darum hat er länger und schwerer als mit jedem anderen um ihn gerungen und an ihm festgehalten.

Nach dem Brief an Theodor Mommsen und _dem kleinen Auf- satz von Karl Ernst Laage, scheint dies Werk auch ··· wie in der „Chronik von Grieshuus" und „Ein Fest auf Haderslevhuus"

· · · einen fremden Stoff in die Landschaft seiner Heimat zu verpflanzen.

Und dann um Rauke Haien, den Helden der Geschichte zu ver- stehen, muß man sich daran erinnern, daß Storm während sei- ner Arbeit am „Schimmelreiter" auch die beiden Novellen, ,,Ein Doppelgänger" und „Ein Bekenntnis", vollendete. Denn diese bei- den Werke sind gewissermaßen Vorstudien. Das heißt : Jahn Hansen in „Ein Doppelgänger" und Franz Jebe in „Ein Bekennt- nis" werden in Rauke zu einer Einheit verschmolzen.

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Zuletzt möchte ich zeigen, daß Storm es weniger darum ging, zu diesem Geniekult Stellung von dem Helden Rauke Haien zu nehmen, als die unlösbare Verknüpfung von Leistung und Schuld, Größe und Unmenschlichkeit, Macht und Niederlage zu zeigen.

Die Grundaussage der Novelle besteht nicht darin, daß die Ver- nunft den Weg zum Glauben an das Unauflösbare und zu rechter Religiosität verstellt. Storm zeigt nicht den Irrweg eines Men- schen, sondern die Ausweglosigkeit der menschlichen Situation.

Nicht aus Haukes Verhalten : . aus einem individuellen Konflikt, einem sozialen und einem allgemeinmenschlichen. Das Besondere vom „Schimmelreiter" liegt darin, daß es Storm gelang, alle drei Konflikte Haukes als ewige Konflikte darzustellen.

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