『寒風』成立の経緯−川端康成と日戸修一の関係を 軸にして−
著者 西村 峰龍
雑誌名 國文學
巻 96
ページ 253‑271
発行年 2012‑03‑01
URL http://hdl.handle.net/10112/9196
執筆された昭和十五年頃︑国家は﹁痢病﹂を強制隔離を必要と
するコレラなみの伝染病であると喧伝し︑﹁無痢県運動﹂や﹁撤
病﹂者の強制隔離政策︑結婚にともなう断種などを国策として
推し進めていた︒一方では︑近代以前から続く﹁撤病﹂は﹁業
病﹂であり︑遺伝するものだという認識が人口に贈炎しており︑
﹁痢病﹂は﹁コレラなみの伝染病﹂でかつ﹁業病﹂であると認識
され︑差別の対象となっていた︒なぜ︑川端はこのような状況
下で隔離政策を遂行する側の療養所の医官を批判する作品を執
筆したのであろうか︒この疑問への回答こそが本稿の目的とす
るところであるが︑少し急ぎすぎたようである︒ひとまず︑﹁寒
風﹂について説明しておく︒冒頭に引用した作品﹁寒風﹂は左
記の順番で独立した短編小説として発表された︒
①﹁寒風﹂︵﹁日本評論﹂昭和十六年一月号︶
序 ﹃寒風﹄成立の経緯
l川端康成と日戸修一の関係を軸にしてI
︵1︶川端康成の小説﹃寒風﹂には次のような記述がある︒
﹁死屍を鞭打ち︑人格の真相を発かねばならぬ程︑故人は大人
物でも大作家でもなかったのだ︒﹂
﹁その医師は同じやうな文章を再三書いたまた痢院の訪問者に
も話したとみえ︑私がまんまと故人に顔されてゐたといふこと
が︑私の女房の耳にまで入った︒﹁霜されりや︑結構ぢやない
か︒願してもらへたら︑ありがたいとするさ︒﹂と︑私は苦笑し
た︒﹂
︷ワ︾︸ここで述べられている故人とは﹁痢病﹂を患った作家北峰民
雄であり︑故人を非難した文章を再三書いた医師とは︑北牒が
隔離されていた療養所全生園の医官日戸修一である︒﹁寒風﹂が
西
村峰龍
・・バー一一
始まり︑川端は︑北篠が送ってくる原稿を選別して文芸雑誌に
紹介するようになる︒北像は︑﹁痢病﹂を憎み恐れながらも︑﹁痢
病﹂を患った自己と真筆に向き合う事で︑名作雨のちの初夜﹂
を書き上げ︑第二回﹁文学界賞﹂を受賞する︒北篠はその後も
旺盛な執筆活動を続け︑著作集﹁いのちの初夜﹂が出版される︒
川端はこの著作集に序文を寄せ︑療養所に検閲制度がある事を
書き︑療養所側に北燥の文学活動への理解を求める︒川端と北
候の関係は︑昭和十二年十二月五日に北悌が腸結核で亡くなり︑
幕をとじる︒
︵5︶北膝の没後︑川端は生前の北煉を振返る﹁追悼記序﹂や﹁北
︵6︶像民雄と廟文学﹂を立て続けに発表する︒また︑﹁北牒民雄全︵7︶︵8︶集﹂を編纂し︑﹁北牒民雄全集上巻編纂の僻﹂では再び療養所の
検閲制度について改善を求める︒
しかし︑この文章が思わぬ批判にさらされる︒批判したのは
前述の医官日戸修一である︒川端と日戸とのやり取りはこの時
期から始まる︒
従来︑川端と日戸とのやり取りの全容は︑先行研究や川端の
評伝では明らかにされてこなかった︒しかも︑先行研究では五
︵9︶十嵐康夫が﹁川端康成﹁寒風の虚櫛﹂﹂で日戸が北煉を非難した
文章は﹁はっきりとは確認できていない︒﹂﹁その︿若い医師﹀ 一一五四
②﹁冬の事﹂︵﹁改造﹂昭和十六年二月号︶
③﹁赤い足﹂会改造﹂昭和十七年四月号︶
︵3︶その後︑一二作を一編にまとめ﹁寒風﹂と題して単行本﹁朝雲﹂
に収録される︒
三作の梗概は﹁寒風﹂は冬の夜明け前に︑作家の私が面倒を
みていた若い鋼作家の死を知らされ︑知らせを受けて出版社の
編集者と翻院に赴き葬儀費用の工面を行う様子が描かれ︑その
後︑場面が転換し︑北海道から上京してきた母親との対面時の
状況やその時の心境と反応が記述される︒
﹁冬の事﹂では若い翻作家に谷漂の名が与えられ︑痢院も武蔵
野郊外と書き込まれる︒そして︑谷津の死の次の日作家の私が
﹁出版社の人﹂とともに翻院を訪れた時の様子と若い医師が書い
た鯛作家への批判に対する怒りと擁護の感情が瞥かれる︒
﹁赤い足﹂では︑廟院での谷漂の友人で文学仲間の宮村︑倉木
などとの面会した時の心境と︑彼らから聞いた谷津の臨終時の
情景が記される︒
︵4︶﹁寒風﹂の中で描かれている谷津のモデルとなった北篠は昭
和九年八月十一日に自身の文学への熱情と痢者として生きる事
への不安を書いた手紙を川端に送り︑同年十月十日付の川端か
らの返信を受け取る︒この時から川端と北候の書簡での交流が
本章では︑﹁寒風﹂の先行研究を検証し︑疑問点を洗い出して
いく︒初めに序でふれた江草恵子﹁﹁寒風論﹂l川端康成と北条民雄﹂
を考察する︒
︵Ⅱ︸江草は﹁寒風﹂成立時の状況について︑川端秀子の言を引い
ているので左記に引用する︒ けである︒
本稿では︑﹁寒風﹂の成立の経緯を分析することによって前述
した疑問﹁なぜ︑川端はこのような状況下で隔離政策を遂行す
る側の療養所の医官を批判する作品を執筆したのか︒﹂について
回答する︒また︑その過程において︑川端と日戸とのやり取り
の全容が明らかになり︑川端の伝記的研究にも寄与できるもの
と考える︒
︑︑十二月に入りましてまた主人はたくさんの﹁借稿﹂をか
かえて暖香園に行きました︒﹁文芸春秋は昨夜から鷲尾さん
泊りこみで︑今渡したところ︒今朝川奈へ行って貰ひ︑そ
︒︒今1つL
pfof の日戸修一氏にも照会したが︑氏に関した川端の叙述にはもう一つわからないところがある︒﹁虚構﹂もあるとだけ付け加えておきたい︒﹂と述べられるなど二人のやり取りが無かったかのように扱う論まで存在した︒
くどいようだが︑川端が﹁寒風﹂を執筆した昭和十五年当時︑
﹁痢病﹂は国家が強制隔離を必要とするコレラなみの伝染病であ
ると喧伝し︑﹁無痢県運動﹂を推し進めており︑﹁翻病﹂者に対
する差別が公然と行われていた︒このような状況下︑川端は隔
離政策を遂行する側の療養所の医官日戸に対する批判を作中で
展開しただけでなく︑﹁廟は遺伝でなく伝染だといふことが︑ま
だ一般によく徹底していない︒﹂﹁廟は死人の骨からもうつると
いふ迷信がある︒﹂と現在でこそ常識となっているが︑当時とし
ては稀有な廟病にたいする認識を示している︒しかし︑従来の
伝記的研究では川端と日戸との関係については明らかにされて
こなかった︒
そのため︑﹁寒風﹂の先行研究においても︑川端と日戸のやり
取りの全容を踏まえて﹁寒風﹂を分析する論は無かった︒﹁寒
風﹂の分析を主題とした︑始めての本格的研究とされる︑江草
︵川︶恵子﹁﹁寒風論﹂I川端康成と北条民雄﹂も例外ではない︒江草
の論では川端との日戸との関係の一部分についてふれているだ
︵週︶これらを踏まえた上で︑江草は﹁義眼﹂の最終部分と﹁寒風﹂ ︵唯﹀このことは川端の瞥簡からも確認できるので左記に記戦する︒ の帰りのバスに︑小生温泉駅へ出てゐて渡すといふ﹂︵十二月十三日附の私あての手紙︶まるで曲芸のようなことをやっています︒これは軽井沢を題材にした﹁義眼﹂という作品です︒ の冒頭削除部分とを検証する事によって︑﹁義眼﹂と﹁寒風﹂は当初は一つの作品として柵想された事を明らかにしている︒
江草は川端の﹁文学的自叙伝﹂から﹁連想のながれにしたが
いがちな私の作風﹂との言を引き﹁寒風﹂が確たるテーマ意識︑
構成のもとで書かれたものではなく︑﹁義眼﹂の最終部分の﹁私
ははっとして︑その子が義眼入れたのだと︑初めて知った︒﹁あ
あ︑動くよ︑同じに動くよ︒﹂と︑私は子供の首を抱いて答へた
ものだが︑まさかあの子の義眼ではあるまい︒﹂と﹁寒風﹂単行
本所収時の冒頭削除部分﹁義眼の人と言えば︑遥々樺太から病
院に来てゐた︑その子供一人しか︑私は知らなかった︒もっと
も二︑三年前に︑翻院へ行った時には︑或ひはそれと気がつか
ないで︑義眼の人達とも出会ってゐさうであった︒撤患者は盲
目になり易く︑痛みながら腐る眼の摘出手術を施すと私は聞い
てゐる︒痢院で死んだ若い作家の小説にも︑盲人が風呂場で義
眼を洗ひ︑流し場に落として︑破れ砕けるありさま︑書かれて
いたと思ふ︒﹂を引いて﹁寒風﹂はく義眼︾から︑﹁瀬﹂患者へ︑
﹁廟﹂患者から︑﹁瀬﹂院で死んだ若い作家北牒民雄へと流れる︑
連想による心のはしりによって書かれたものであると述べてい
る︒しかし︑江草の考証方法には問題があると言わざるを得な
い○ や言Lミアソ幻〆
川端康成から川端秀子へ
昭和十五年十二月十二日伊豆東温泉暖香園より神奈川県鎌
倉市二階堂三二五川端秀子あて︵速達︶
文芸春秋は昨夜から鷲尾さん泊りこみで︑今渡したとこ
ろ︒今朝川奈へ行って貰ひ︑その帰りのバスに︑小生温泉
駅へ出てゐて渡すといふ︑苑然曲芸︒三十二枚しか書かず︑
例によってほんの序文なり︒その後を今より日本評論に香
きまたその領きも改造に書く︒一作を三誌に分け同月発表
など︑無茶で道義にも反するが︑事情やむを得ず︑別の小
説など考えている余裕もなし︒とにかく三つとも間に合ふ
だろう︒頗る元気︑安心せよ︒︵略︶
︷脚︶江草は川端秀子の著作から﹁これは軽井沢を題材にした﹁義
眼﹂という作品です︒﹂との言を引いて﹁義眼による連想﹂の根
拠としているが︑この文章には続きがあり︑川端秀子は左記の
続いて﹁例によってほんの序文なり︒その後を今より日
本評論に書きまたその綱きも改造に書く︒一作を三誌に分
け同月発表など︑無茶で道義にも反するが︑事情やむを得
ず︑別の小説など考えている余裕もなし︒とにかく三つと
も間に合ふだろう︒﹂︵手紙同前︶﹁義眼﹂は未完のまま終わ
っているような小説ですから︑その続編を書きつぐつもり
だったようです︒
でも話はうまくつながらず︑ふと三年前の暮に亡くなっ
た北候民雄さんのことが頭に浮かんでそれを小説にする気
になったのではないかと推察します︒﹁日本評論﹂一月号に
のったのは︑﹁義眼﹂とはまったく関係のない﹁寒風﹂とい
う北峰民雄さんのこと書いた小説だったのです︒なぜ三年
もたって北峰民雄さんのことを書いたのか不思議ですが︑
丁度同姓の北煉誠さんの出版記念会が十二月にあったのも
暗合めいています︒主人はそういう暗合に割と弱かったの 傍線部の﹁北篠誠の出版記念会﹂ついては北像誠が﹁川端康
︵腸︶成・心の遍歴﹂で
と述べている︒この事から﹁北牒誠の出版記念会﹂が正確な日
時はわからないながらも十二月に開かれた事は北篠誠側からも 昭和十五年も押し詰まって︑私は出征した︒浅見淵氏の厚意で︑竹村書房から︑それまでの︑短編を一本にまとめ﹁春服﹂として出版できた︒氏に題字と序文をお願いした︒︵中略︶
十二月︑レインポーグリルで︑﹁春服﹂の出版記念会が開
かれた︒同時に私の壮行会となった︒もう出征は﹁死﹂に
つながる時代であった︒その席上私は︑川端氏にあの赤い
櫛をいただきたいと頼んだ︒おそらく︑生きて還る事はな
いだろう︒二度と小説を書く事もあるまい︒赤い櫛と処女
著作集の﹁春服﹂を青春の証しにしたかった︒ ではないでしょうか︒﹁改造﹂の分は遅れて二月号︑十七年四月号に出て︑これが後に﹁寒風﹂の名で一つにまとめられることになります︒
・・施し 拠としているが︑様に書いている︒
確認できる︒また︑川端はこの時出版された﹁春服﹂に﹁北候
︵略︶誠﹁春服﹂序﹂と題した序文を寄せている︒
︵略︶北牒君はこんどの汽車切符の世話をしてくれ︑昨日の
朝東京駅に見送ってくれた︒送り送られつ︑私はこれらの
人の遠い旅の美しさを心に描いて︑希ひとするのである︒
青年の﹁春服﹂と軍服︑また令嬢の花嫁衣装︑私もまた自
分の出発の装ひを改めて︑幸多い再会の日にそなへよう︒
昭和十五年十二月八日新大阪ホテルにて
︵昭和十五年十二月二十日竹村書房刊︶ ている川端がほんの三年前の出来事を忘れているとは考えづらい︒
﹁寒風﹂が江草の指摘にある様に﹁連想による心のはしりによ
って書かれた﹂とするならば︑﹁寒風﹂執筆時に︑直前に瞥いた
同姓の北候誠の序文から︑序文執筆時とほほ同じころの三年前
に亡くなった北篠民雄へと連想が流れた可能性も否定できない︒
︵鳩︶川端秀子は﹁主人はそういう暗合に割と弱かったのではないで
しょうか︒﹂と述べており︑その可能性を排除した江草の考証方
法には問題がある︒
江草の論考については﹁義眼﹂﹁寒風﹂﹁冬の事﹂の三作はも
ともと一作として書かれていたものが三作に分割されたという
部分については首肯できるが﹁寒風﹂が﹁連想による心のはし
り﹂によって響かれたとすることについては考証方法の杜撰さ
もあり納得できない︒
江草の﹁連想による心のはしり﹂や川端秀子の﹁暗合﹂によ
って﹁寒風﹂が書かれたとすると川端がなぜ﹁寒風﹂﹁冬の事﹂
を書いた一年後に﹁赤い足﹂を執筆したのかが説明できない︒
また︑﹁寒風﹂の末尾にだけ﹁附記︒もとより小説︑これを一廟
作家の伝記的資料と見る人あらば︑誤りなり︒作者﹂と書かれ
ているが︑﹁義眼﹂﹁冬の事﹂の末尾には何も書かれていない︒ 表五八
序文に書かれている日付は﹁昭和十五年十二月八日﹂とあり
︵Ⅳ︶前記した川端秀子宛瞥簡に﹁文芸春秋は昨夜から鷲尾さん泊り
こみで︑今渡したところ︒今朝川奈へ行って貰ひ︑その帰りの
バスに︑小生温泉駅へ出てゐて渡すといふ﹂とあり日付は﹁昭
和十五年十二月十二日﹂とある事から﹁北候誠﹁春服﹂序﹂は
﹁寒風﹂の執筆直前に書かれたものであることがわかる︒
また︑﹁北候誠﹁春服﹂序﹂が書かれた昭和十五年十二月八日
は北燥民雄が死去した昭和一二年一二月五日のほぼ三年後にあ
たるのである︒北燦の臨終後にわざわざ療養所まで弔いに行っ
が鎌倉に私を訪ねてきた事に力点を置くかの違いはあるものの︑
内容に極端な差異はなく︑前述した﹁追悼記序﹂と﹁寒風﹂と
同様に文章の構成は共通している︒
﹁追悼記序﹂と﹁赤い足﹂では︑出てくる名前が違うものの療
養所の友人二人がお互いをモデルとして小説を書いたことにふ
れている点は共通している︒
羽鳥の﹁寒風﹂は﹁追悼記序﹂の小説化であるとの指摘は︑
これまで見てきたように共通点が多数あるため納得してしまい
そうだが︑ここで一つの疑問が浮かぶ︑なぜ川端は北牒の死去
から三年もたって﹁追悼記序﹂を小説化しようと考えたのであ
ろうか︒また︑江草の論考について指摘したことと重なるが︑
川端がなぜ﹁寒風﹂﹁冬の事﹂を書いた一年後に﹁赤い足﹂を執
筆したのかについても羽鳥の指摘からは説明できない︒
本章での先行研究の検証から﹁寒風﹄の成立について三つの
疑問が出てきた︒
①﹁冬の事﹂から﹁赤い足﹂が書かれるまでに一年ものあい
だがあいているのはなぜか︒
②﹁寒風﹂の末尾には﹁附記︒もとより小説︑これを一廟作
家の伝記的資料と見る人あらぱ︑誤りなり︒作者﹂と書
かれているが﹁冬の事﹂の末尾には書かれていないのは
今毎厘しゾノ 北係について何も書いていない﹁義眼﹂の末尾に付記がついていないのは分かるが︑﹁寒風﹂と同様に北篠について書いている﹁冬の事﹂の末尾に付記がついていないのは不自然である︒
︵い︶次に羽鳥一英が﹁北条民雄と川端康成﹂において﹁寒風﹂は
﹁寒風﹂執筆以前に書かれた﹁追悼記序﹂の小説化であるとの指
摘について考えてみたい︒
﹁追悼記序﹂と﹁寒風﹂では︑遺骨を受け取りに来たのが﹁追
悼記序﹂では﹁父親﹂だが︑﹁寒風﹂では﹁母親﹂になっている
点と北牒が小説を書いている事を﹁追悼記序﹂では﹁うすうす
知っている﹂が︑﹁寒風﹂では﹁自分の息子が小説を書いてゐる
といふことさへ知らなかった︒﹂という二点の相違があるが︑作
家の私︵川端︶の家に親が遺骨を受け取りに来て︑北篠の書い
た本を見せるという構成は共通している︒
﹁追悼記序﹂と﹁冬の事﹂は︑作家の私が療養所へ駆けつけ︑
その後︑場面が転換し︑故人が鎌倉に私を訪ねてくるという構
成は共通している︒﹁追悼記序﹂では︑療養所での様子が詳しく
書かれているが︑これは追悼記という文章の性質によるものだ
ろう︒﹁冬の事﹂では︑故人が作家の私を鎌倉に訪ねてくる前
に︑東京で一泊した時の出来事が詳しく書かれている︒﹁追悼記
序﹂と﹁冬の事﹂では︑療養所での描写に力点をおくか︑故人
なぜか︒
③川端は北僚の死去から三年もたってなぜ﹁寒風﹂を執筆
したのか︒
これら三つの疑問については︑次章で川端と日戸のやり取り
の全容を考察したうえで答えを導きたい︒
一一
と述べ︑読者に検閲制度の存在を知らしめるとともに︑療養所
当局には一層の寛大さを求めた文章を記す︒
ここで︑療養所の検閲制度についてふれておきたい︒療養所
の検閲制度はモルヒネの流入を防ぐために始められたといわれ
ている︒封書や小包を職員が患者の前で封を切り︑悪いものが 章上の関わりも主にこの時期に行われている︒
川端と日戸との最初の関わりは︑川端が北係存命時の最初で
︵鋤︶最後の著作集﹁いのちの初夜﹂に﹁﹁いのちの初夜﹂飯﹂を寄せ
た事に始まる︒川端はその中で
療養所には検閲があるといふことも︑ここで読者に告げ
ておきたい︒︵中略︶それは必ずしも厳酷に過ぎるとは言へ
ぬかもしれぬが︑北候君がそのために筆を縛られたところ
も決して少なくはないであらう︒北篠君の仕事が︑贋く痢
者全てのためにもいかに役立つかを愛で︑最早世の外なる
ママ運命の人々の心の自由を許し︑且つは文学の本質と使命を
思って︑今一層寛宥の処置を私は療養所に望む︒古来痢者
は多いが︑その真実の姿をよく伝へ得る者は︑後にも前に
も北牒君一人しか現れぬかもしれぬのである
一 ■ −
s
川端と日戸との関係については︑序でもふれたが︑五十嵐が
﹁川端康成﹁寒風の虚柵﹂﹂で日戸が北牒を非難した文章は﹁は
っきりとは確認できていない︒﹂と述べている︒しかし︑日戸が
書いた北像を非難した文章は存在している︒
ここからは︑従来の先行研究では言及されてこなかった川端
と日戸とのやり取りの全容を二人が執筆した文章を通時的にみ
ていくことで明らかにする︒初めに療養所全生園の医官日戸に
ついて少しふれておく︒
日戸は新潟医大で学び︑式場隆三朗と知り合い︑卒業後︑全
生園に赴任し二年程勤務する︒この時︑北降と知り合い交友を
持つ︒北牒没後に国立伝染病研究所に移り︑上司の太田正雄︵木
下杢太郎︶を師と仰ぐ︒川端と日戸との雑誌や作品を通した文
ただ全生病院の検閲を通らなかった︒二三十枚の未完の
小説﹁青春の天形病者﹂と﹁痢を病む青年達﹂とは︑その
検閲に従がって省いた︒︵中略︶しかし︑北牒君の後から文
学の道を歩む痢院の人達のためにも︑検閲者の意を重んじ
ておくべきだと思った︒療養所員の検閲と消毒を経なけれ
ば︑原稿を外に送り出すことは出来ぬのである︒北峰君の
例をみてもその検閲は厳に過ぎるとは言へまいが︑君がそ
のために筆を縛られたところも決して少なくはなかったで
あろう︒この後来る者のためにも︑最早世の外なる運命の 入っていると取り上げた︒しかし︑悪いものの定義は暖昧であり︑窓意的に適用されることも少なくなかった︒また︑療養所内から外部への通信や療養所の同人誌も当然の様に検閲され︑療養所にとって不都合と思われる内容の文章については︑外部に発送されず︑突き返されていた︒療養所の検閲制度について
一刻︶は︑全生園検閲係から川端に宛てた書簡からも伺えるので左記
にしめす︒
康成宛︒
謹啓愈々御清栄の段奉賀上候
陳者毎度本院収容患者に対して種々と御懇篤なる御指導
を賜り誠に有難く御礼申上候扱て先日来故北峰民雄の遺稿
に関して之れが検閲方を光岡良二より申出有之候依て慎重
なる検閲の結果只今御手許へ御送付申上候二編は本院の統
制上之が発表せられるは甚だ面白からざる事と存じられ候
実は故北篠民雄の旧友よりの懇望も有之一応右の二編の遺
稿を御送付申上候候何卒御高覧の上はご迷惑ながら御返却 書簡には﹁本院の統制上之が発表せられるは甚だ面白からざる﹂とあり︑療養所側にとって不都合なものの発表は認めないとの姿勢が伺える︒川端は全生園検閲係からの書簡を受け取ったあとも︑療養所側に検閲制度についての改善を求め︑﹁北候民
︵型︶雄全集上巻﹂の﹁北候民雄全集上巻編纂の辞﹂で 昭和十三年一月四日東京府北多摩群東村山南秋津一六五五
番地第一厘府聯立全生園より神奈川県鎌倉町二階堂三二五川端 被下度伏御依頼申上候
昭和十二年十二月舟一日
全生病院検閲係 敬具
︒②今︑一
■〆
と書いている︒
右記の文章について︑療養所内の﹁北候君の後から文学の道
を歩む翻院の人達﹂の一人︑光岡良二はその当時の感慨を﹁い
︵麓︶のちの火影﹂で
ひかえめではあるが︑いうべきことがすがすがしく述べ
られており︑この全集の上梓された昭和十三年当時︑まだ
こうした制度化にものを番く境遇に置かれていた私どもは︑
﹁最早世の外なる運命の人々の心の自由を許し﹂のところに
来て︑胸を熱くしたものである︒ 人々の心の自由を許し︑且つは文学の本質と使命を思って︑ゆるやかな眼を療養所に望む︒ 役にも立たない︒まして︑北像のやうな変な反抗ばかりしてゐるものには検閲制度は営然必要なんだと思ふ・﹂と感情的に述べた後︑検閲制度については﹁この検閲をどういふ方針でやってゐたのかは僕の別に知らうとしたところではないが︑とにかくよくよく病院に不利で従がって患者によませて面白くないところだけはみんな除外していた筈である︒﹂と当時の療養所当局の強権性を伺わせるような書き方をしている︒その後︑批判の矛先は全集を編纂した川端にも及び﹁北篠は検閲があるからい︑ものが書けないとよく言ってゐる︒もし検閲がなかったらどんなにい︑思ひ切ったものが書けるだらうと世間は思ふ︒現に川端康成なども北牒にころりとだまされて︑愚痴めいて検閲制度を語り北牒に同情してゐる︒今度の全集だって随分ひどいとこ
ろが見える︒療養所は文化機関ではない︒あ︑いふ全集を余り
思慮なしにだした川端氏等の軽卒の罪はとにかく非難していい︒﹂
︵巽︶と不快感を露骨にみせている︒また︑日戸は﹁青年翻医の手記﹂
で北候は療養所の現実の姿を書いていないとして左記のように
述べている︒
︵中略︶例えば北篠の日記にみる療養所は実に冷酷な鉄則
をもち冷たき心をの人々がハードな仕打ちで痢者を取扱ひ 一一畦︵一一
と述べている︒川端の検閲制度についての意見は光岡の指摘す
るとおりひかえめなものだったが︑日戸からの反論を呼び起こ
すことになる︒
︵別︶日戸は︑﹁人間北煉民雄﹂で﹁﹁いのちの初夜﹂賊﹂や﹁北係
民雄全集上巻編纂の辞﹂で川端が求めた療養所の検閲制度の改
善について︑﹁文学なんか︑廟の撲滅事業のためにはおよそ屍の
医者なぞなす手もなく見ているやうになっている︒
私は療養所を前にといた︒痢になったら最善の策は療養
所へゆくことだと結んだ︒
北燥のかいたものを読んで鋼の悲惨と療養所の冷酷のこ
とを混同して同一視している人が多い︒私は北篠民雄の文
学は決して現代の療養所を語っているものでないことや︑
一たい北降が偽装深刻さ惨潜さを反抗的に訴へたんで︑依
然として療養所は痛の楽園であり花園であり︑一人として
こ︑から逃走しやうとするものもないことを屡々かいた︒
︵中略︶一人の批評家は実際勇を鼓してやって来て︑この世
界﹂が平凡な村部落の生活であり精神的平和を維持してい
るのをみて︑ほっとしたといった︒思ひがけないと言った︒
これなら廟になっても心配ないといった︒
北候の作品を読んで療養所へくるのを断念した病人が相
当あるといふ︒その人達にこの私の裸の言葉を伝へたい︒
北牒の日記で療養所の職員なぞは恥を知らぬ鬼のやうに
考えている人がある︒北降の若い間違った反抗心がさう書
いたからである︒ 方は痢病者を管理しようとする療養所当局者の考えに沿った余りにも一面的な考えであると言わざるを得ない︒
ママ当時全生園で暮らしていた光岡は﹁北条の人身攻撃のほかに
も︑療養所を廟の楽園であり花園であり︑それが証拠に誰ひと
りここから逃走しようとするものもないじゃないかというよう
な傍若無人な書き方は︑発表当時も私たちを大いに憤激させた
ものであった﹂︵光岡前掲書︶と怒りを顕わににしている︒ま
た︑北篠存命時に全生園を訪れた日戸の新潟医大時代の師でも
︷勢︸ある式場は﹁北牒民雄君と語る﹂で
永年精神病院で哀れな患者達に接してきた私は︑痢病院
とてもさまで憎くべきものではあるまいと思って出かけた︒
しかし︑予想は裏切られ︑痛ましい廟者の諸相に胸うたれ
た︒︵中略︶私は全生病院をみて︑病気の中で最も悲惨なる
ものは︑精神病でも結核でもなく︑やはり痢だと思った︒
︵中略︶北像君の小説は事実以上に誇張しているのだらう︑
といふ人がある︒しかし︑そう思ふ人は一度病院を訪れて
みるがよい︒北像君は巧みな描写で小説化しているので︑
まだ読むことができる︒ありのま︑を克明に描写したら誰
も読みえないだらう︒
二一恥︑︒|C これらの文章を見る限り日戸の検閲制度や療養所に対する見
廟に関する社会の注目を更に惹いたのは︑北候民雄の呪
証文学︑明石海人の逃避文学であった︒北像は卒然として
現はれ出て数年ののち卒然として逝つた︒しかし︑北牒の
のこした二三の作品は︑社会の人々の人間性をいたく働突
させた︒撤の悲惨さの意味が︑社会の人々の心を打ったの と廟患者を社会が甘やかし︑鰯患者は撤を売り物にしているとまで述べるのである︒
日戸の故人北牒への再三にわたる批判に対して︑川端は沈黙
していたわけではない︒川端は﹁鯛と社会﹂の二ヶ月後に発表
された﹁冬の事﹂で日戸の一連の批判に対して反駁している︒
﹁廟と社会﹂で述べられた﹁瀬患者が社会にあまやかされて︑
翻を売りものにする気分が出て来たことを︑見逃がすわけには
いかないと思ふ・﹂に対して川端は﹁冬の事﹂で﹁若い廟作家を
買ひかぶった世間への抗議らしい︒﹂と述べたあと﹁死屍を鞭打 である︒
北牒は正直のところ文学的出世にはやって︑時には反抗
の余り痢療養所の職員をひどくの︑しっている︒これにつ
いて︑私は屡〃書いたが︑決してい︑ことではないと恩ふ︒
小川女史の﹁小島の春﹂も︑とにかく痢患者をあまやか
してゐる︒
社会が廟に眼をつけてきたのは︑別に悪いことではない
かも知れないが︑この結果翻患者が社会にあまやかされて︑
廟を売りものにする気分が出て来たことを︑見逃がすわけ
にはいかないと思ふ︒ 二六四
と書いている︒式場に言わせれば北篠の小説は﹁事実以上に誇
張している﹂わけではなく︑むしろ﹁巧みな描写﹂によって療
養所の悲惨な現実を読むに耐えるものにしていることになる︒
式場は療養所当局の苦情に対しても﹁北牒君の小説が︑実話で
ない以上どんな筋を発展さしてもいいわけである︒一部分をモ
デルにしたからと云って︑不服も云へないだらう︒病院の宣伝
になる小説︑病院の都合のよい小説を望むのは無理である︒﹂と
述べている︒日戸と同じ医師である式場の態度は︑後に詳しく
述べるが北牒に対して﹁文学が︑人々の恐怖する中世的思想の
痢院を︑科学施設の明るい病院として宣伝して︑痢になっても︑
擦養所へ入院すればい︑といふ安心を興へ得れば︑文学として
︵︶の一つの立派な使今叩を果たしたと田心ふんだ﹂と﹁北篠民雄と私﹂
で述べた日戸と好対照をなしている︒
︵錫︶日戸はその後も北候に対する非難を続け︑﹁痢と社会﹂では
りなかった︒若い芸術家に通有の病弊に過ぎなかった︒騒慢に
自己を守らなければ所詮作家の成長など覚束ない︒﹂と弁護し︑
その後︑北像の療養所での振る舞いに﹁その︑痢作家の気負っ
た厭さを私も薄々感じていないわけではなかった︒しかし︑寧
ろ尚一層気負ふように︑私はけしかけて来た︒︵中略︶故人が撤
院内での騒慢には︑だから私も責任があった︒﹂と述べ︑川端自
身が北候への非難の責任を負う姿勢を見せている︒
﹁狸︶日戸は﹁冬のこと﹂発表後︑すぐに﹁北燥民雄と私﹂で左記
のように弁駁している︒
私は川端康成氏の近作﹁冬の事﹂を改造二月号で読んだ︒
これは一読すればわかるやうに︑死んだ作家北峰民雄を中
心にした全生病院のことどもである︒この小説ならざる随
筆の別な主要の一人物である﹁若い撫医﹂は私のことを書
いている︒この文章を読んで私は川端氏の考へ方が非常に
すぐれたものであり︑殊に私に対する批評︵といふより非
難といふべきだろうか︶大部分当たっていることに蕊頭異
存はない︒私はだからこ︑でこのすぐれた文学者にケチケ
チした言いがかりをつけやうとするのではなく︑この文学
者が書いている文章について一言釈明を加えておきたいと
︒cざ・I
型ジブ ち︑人格の真相を発かねばならぬ程︑故人は大人物でも大作家でもなかったのだ︒﹂と日戸の正義派ぶった抗議にいぎを唱えている︒
また︑川端は日戸の﹁現に川端康成なども北牒にころりとだ
まされて︑愚痴めいて検閲制度を語り北篠に同情してゐる︒﹂と
︵鉛︶の言に対して﹁その医師は同じやうな文章を再一二書いたまた痢
院の訪問者にも話したとみえ︑私がまんまと故人に頚されてゐ
たといふことが︑私の女房の耳にまで入った︒﹁頚されりや︑結
構ぢやないか︒頚してもらへたら︑ありがたいとするさ︒﹂と︑
私は苦笑した︒﹂とやや感情的に反論している︒
そして︑日戸が書いた﹁北候の若い間違った反抗心がさう書
一抑一いたからである︒﹂や﹁北牒は正直のところ文学的出世にはやつ
一.皿︶て︑時には反抗の余り廟療養所の職員をひどくの︑しっている︒﹂
といった北煉に対する人格攻撃めいた文章にたいしても川端は
﹁その文章を読んだ時︑故人の為人の意外な一面が発かれてゐる
とは更更思はず︑さうさ︑その通りで︑先刻承知さと肯ひなが
ら︑しかも極めて浅く聞き流し﹂て︑北候の人格に対しては﹁若
い撤医によると︑故人は甚だしい自己主義の卑俗な小人で︑倣
慢で︑猪疑心が深く︑嫉妬心が強かったといふのである︒私か
ら見れば当然さうあるべきだった︒怪しむにも︑誉めるにも足
気なかった︒﹂と反省の弁を述べている︒
︵調︶難した理由を左記のように述べている︒
北候と私とは可成り親しく交わり︑心おきなく語りあっ
た仲でもあったずけ︑彼と気まづくわかれたことも屡々あ
った︒それはしかし北降の人間の鐙に由来するのではなく︑
彼の文学が廟政策に及ぼす影響を討論したからであった︒
好もしくない多くの障害が社会にいる多くの翻病者の上に
ひTいた︒北牒の文学を読むと療養所はろくな医者はいな
いやうだし︑職員も患者を弾圧ばかりしていて︑さながら
牢獄のやうに陰惨なところだと信じこんで係り官が療養所
ゆきをす︑めても嫌がるのであった︒ 思ふのである︒この文章からは︑療養所当局者が︑当時進められていた隔離
政策を微塵も疑うことなく︑むしろ隔離することが﹁痢病﹂者
のためであると信じ込んでいた姿が浮かびあがってくる︒
日戸の釈明の中身とはこれらの文章からも伺えるように隔離
政策を遂行していく上で︑北牒の文学は妨げとなるから非難し
ただけで︑北篠の人間性を非難したと思われる大人気ない部分
もあったが本意ではないということだろう︒
︵別︸しかし︑日戸は検閲制度については譲らず左記のように書い
ている︒
患者の書いたものを職員が検閲する規則が出来た︒私は
勿論知らなかったし︑関係はなかった︒しかし︑い︑事だ
とは思わなかったが余儀ないことだと思った︒何故そうし
なければならなかったか︑その事情が以上のやうなゆきが︑
りにあることを考へれば誰でもその必要を承認するだらう︒
私は院長とよく語った︒
﹁一人の鋼患者がすぐれた文学者であることは結構です
よ︒しかしその文学がいかにすぐれていても療養所を嫌悪
し︑外にいる患者を恐わがらせるのぢや困りますよ︒どし
どし検閲し︑遠慮なくけづりとるんですな︒国家がアナキ .︒︒︑︒︑
︲●〆●〆
日戸は川端の﹁冬のこと﹂の﹁この痢院の或る若い医師が追
悼記風の文章の中で谷漂の為人を非難した時︑私は故人の可哀
想な死顔を思ひだして︑もう許してやってくれてもょさそうな
ものにと思った﹂をそのまま引用し︑その後に﹁私は何故あん
なにムキになっていたらう︒そんな必要があつたうらうか︑川
端氏の﹁冬のこと﹂について出版社の支配人が言ふように大人
気なかった︒﹂と反省の弁を述べている︒また︑日戸は北牒を非
↓可司eストを弾圧すると同じすよ︒文学なんか︑いつでも出て来
ます︒痢撲滅はうんと桁の外れた大きな仕事です︒﹂ 終わっている︒
川端は日戸の﹁北篠民雄と私﹂を踏まえて一年後に﹁赤い足﹂
を書く︒
川端は﹁冬の事﹂で﹁故人の作品集が初めて出版された時︑
この織院の創立者は︑今は遠隔地の撫院長をしているが︑痢者
のなかからも作家として世に認められる程の者が出るやうにな
ったかと︑涙をこぼして︑祝盃をあげてくれたといふ・﹂と書い
−託︶た︒しかし︑前述の日戸の文章では﹁前の院長は北牒の出現を
喜んだ書いているが︑彼はこの日本に自らうち樹てた廟政策に
不利な文学を喜ぶ筈はない︒何かの誤解だと恩ふ・﹂と書かれた
ことを意識したのか﹁赤い足﹂では﹁事務の人はそのやうな昔
の話をして谷津の作品集が初めて出版された時は︑痢者のなか
からも作家として世に認められる程の者が出るやうになったか
と︑この痢院の創立者は今昔の感に涙をこぼして︑祝盃をあげ
てくれたのだ︒﹂と今回は︑川端が北像死去時に全生園を訪れた
時に事務員から聞いた話として出処を明らかにして書いている︒
この他にも︑日戸の﹁さながら牢獄のやうに陰惨なところだ
と信じこんで係り官が療養所ゆきをす︑めても嫌がるのであつ
︵訂︸た︒﹂を意識したのか︑川端は﹁赤い足﹂では﹁ここの患者達の
生活は︑一人の廟作家の小説などから想像していたよりも︑実
:
0 や 〆 、
一二
この文章を見ると日戸にとっては当時︑国策として推進され
ていた翻病者隔離政策を遂行することが第一であり︑いかに優
れた文学であっても隔離政策妨げるのであれば弾圧されてもし
かたがないとの姿勢がうかがえる︒日戸からすると北牒のよう
に療養所の悲惨な現実を描き︑痢病者への隔離政策を妨害して
いる感じられるものは文学とは認めがたかく︑まして︑川端の
ような著名人がひかえめであったにしる療養所の検閲制度に意
見するのは許しがたかったのであろう︒
︿鱒︶日戸の文章は終盤になると﹁私は川端氏が北牒にだまされて
いると言ったとあるが︑それは文学者の神経質で︑療養所が小
説を検閲する理由が川端氏にわからないのだと言ったのだ︒事
実川端氏自身が痢院を知らないからであった︒﹂と述べ︑末尾で
は﹁われわれは廟研究に糟進するものだから︑文学者のやうに
簡単に随喜の涙はこぼせないためもあるだらう︑それにも拘わ
らず私は川端氏の一作を読んで非常に﹁世の中﹂を教えられた︒
しかしその﹁世の中﹂は絶対に私たちが知らなくてもいいとこ
ろであった︒﹂と川端にたいして当てつけるような皮肉を記して
一章・二章でおこなった分析によって︑﹁なぜ︑川端はこのよ
うな状況下で隔離政策を遂行する側の療養所の医官を批判する
作品を執筆したのか︒﹂にたいする答えはすでに出ているように
思うが︑その前に︑一章で示した三つの疑問のうち①と②につ
いて先に答えておく︒
結
①の﹁﹁冬の事﹂から﹁赤い足﹂が書かれるまでに一年ものあ
いだがあいているのはなぜか︒﹂については︑川端も書簡で.
作を三誌に分け﹂と述べているように︑当初一作として構想さ
れていたものが︑﹁義眼﹂﹁寒風﹂﹁冬の事﹂として分割発表され
たのである︒当初の構想では︑﹁赤い足﹂が書かれることはなか
っただろう︒しかし︑﹁冬の事﹂発表後すぐに日戸が﹁北牒民雄
と私﹂で﹁冬の事﹂に対する反論を書いたことで︑再度︑川端
は筆をとり﹁赤い足﹂で日戸の批判に対して答えることとなっ
た︒
②の﹁﹁寒風﹂の末尾には﹁附記︒もとより小説︑これを一廟
作家の伝記的資料と見る人あらぱ︑誤りなり︒作者﹂と書かれ
ているが﹁冬の事﹂の末尾には書かれていないのはなぜか︒﹂に
ついては︑説明するまでもないだろう︒﹁寒風﹂では遺骨を受け
取りに来たのは実際には父親であるが︑作中では母親としてい
る︒また︑北篠の出身地は徳島であるが作中では北海道となっ
︵記︶ている︒など幾つか事実と相違する点がある︒
しかし︑﹁冬の事﹂に関しては︑二章であきらかにしたように
日戸の北牒を批判する文章は存在していることから事実と相違
する点はない︒おそらく川端は日戸の正義派的な態度を批判す
るためにあえて末尾に付記を付けなかったのであろう︒ ・・さ﹂ニプノ
際は明るいらしいというのが︑痢院来て見ての私の印象だった
が︑自分が潟のような業病を背負ってここへ入ってみぬ限りは︑
分からないことかもしれなかった︒﹂と書いている︒これは当
時︑﹁無痢県運動﹂が激しくなるなかで︑隔離政策を妨げる療養
所の陰惨なイメージを強化乃至は肯定する表現をとることが難
しかった事を伺わせるが︑しかし︑その直後に﹁自分が廟のよ
うな業病を背負ってここへ入ってみぬ限りは︑分からないこと
かもしれなかった︒﹂と書く事で︑あくまで﹁鋼のような業病を
背負って﹂いない第三者の意見とすることで︑北像が過度に深
刻さを強調したわけではないとも読める表現になっている︒
ここまでの経過から川端と日戸とのやり取りについては︑全
容をあきらかにすることができたものと考える
れる一連の批判に対して︑川端が故人となった北繰を擁護する
ために書いたのだということである︒
序で示した疑問に答えたことで︑本稿の役割は終えたものと
思うが︑最後に一つ付け加えておきたい︒川端は日戸が一連の
批判の中で検閲制度について再三ふれているにもかかわらず︑
検閲制度について川端は﹁寒風﹂の中で一行もふれていない︒
川端は日戸の北燥への人格攻撃に絞って反論し︑療養所の検閲
制度については日戸の主張を認めたのであろうか︒しかし︑生
前北候は川端に宛てた書簡の中で︑検閲制度について再三不満
を述べていた︒まさか︑川端はその事を忘れた訳ではあるまい︒
今後︑川端の検閲制度に関する態度にはさらなる検証が必要で
あろう︒
また︑従来の川端評伝では︑川端と日戸とのやり取りを記述
したものはなかった︒川端の人物像をより精綴に描き出す意味
でも本稿で明らかにした事実や川端と北候の関係を記述した評
伝の出現が望まれる︒
︹注︺
︵1︶雑誌初出﹁寒風﹂については以後﹁﹂で︑﹁寒風﹂﹁冬の
事﹂﹁赤い足﹂の三作全体しめす場合にはごで表記する︒
暑:︑L一mグロジ ③の﹁川端は北煉の死去から三年もたってなぜ﹁寒風﹂を執筆したのか︒﹂については︑序で提示した疑問﹁なぜ︑川端はこのような状況下で隔離政策を遂行する側の療養所の医官を批判する作品を執筆したのか︒﹂への回答によって解消されるだろ︑っO
紙幅も残り少ないが︑今一度︑川端が﹁寒風﹂を執筆するま
での一連の流れを振り返っておきたい︒
川端は北牒没後に﹁追悼記序﹂や﹁北候民雄と鯛文学﹂︑﹁北
蝶民雄全集上巻編纂の辞﹂など北燦を追想する様々な文章を書
いた︒その後︑北篠を追想した文章が︑日戸からの非難を招き
﹁人間北降民雄﹂では﹁現に川端康成なども北牒にころりとだま
されて︑愚痴めいて検閲制度を語り北降に同情してゐる︒今度
の全集だって随分ひどいところが見える︒療養所は文化機関で
はない︒あ︑いふ全集を余り思慮なしにだした川端氏等の軽卒
の罪はとにかく非難していい︒﹂とまで言われてしまう︒また︑
川端が日戸の非難をふまえた上で︑﹁冬の事﹂を書き︑その後︑
日戸が﹁北牒民雄と私﹂で﹁冬の事﹂に弁駁し︑川端が再び﹁赤
い足﹂で北候について書いたことは既に見てきた︒
これら一連の流れから導き出される答えは︑北像の没後︑日
戸が三年にわたって展開してきた北候に対する人格攻撃ともと
②﹁朝雲﹂︵昭和二十一年四月十二日新潮社︶
※収録作品は﹁朝雲上﹁わかめ﹂﹁父の名﹂﹁十七歳﹂﹁冬
の曲﹂﹁小切﹂﹁故人の園﹂﹁ざくろ﹂﹁寒風﹂﹁挿話﹂
③﹁二十歳﹂︵昭和二十三年十一月三十日文芸春秋社︶
④﹁虹﹂︵昭和三十年十一月三十日角川書店︶
⑤﹁川端康成全集第九巻﹂︵昭和二十五年三月三十一日
新潮社︶
⑥﹁川端康成選集第四巻﹂︵昭和三十一年七月二十日
新潮社︶
⑦﹃川端康成全集第五巻﹂︵昭和三十五年六月三十日
新潮社︶
⑧﹁川端康成全集第五巻﹂︵昭和四十四年四月十五日
新潮社︶
⑨﹁川端康成全集第七巻﹂︵昭和五十六年一月二十日
新潮社︶
︵4︶北牒民雄の略歴については高山文彦の評伝﹁火花l北条
民雄の生涯﹂︵平成十一年八月十五日飛鳥新社︶によった︒
︵5︶﹁文学界﹂昭和十三年二月
︵6︶﹁科学ペン﹂昭和十三年三月科学ペン社
︵7︶﹁北牒民雄全集上巻﹂昭和十三年四月創元社 一一七つ
また︑本稿では︑﹁寒風﹂﹁冬の事﹂﹁赤い足﹂については煩瑛
になるため注はつけないが引用する場合には﹁寒風﹂︵﹁日本
評論﹂昭和十六年一月号︶﹁冬の事﹂︵﹁改造﹂昭和十六年二月
号︶﹁赤い足﹂二改造﹂昭和十七年四月号︶を底本としてい
る︒文章の引用については旧字体で記されているものについ
ては新字体に改めて記載した︒
︵2︶﹁撒病﹂は現在では差別語として認識されている︒また
﹁痢﹂は古代から続くその語に内包された差別性を含んでい
る︒しかし︑﹁寒風﹂発表時にはハンセン病という言葉は使わ
れておらず︑﹁寒風﹂でモデルとなった北牒はその生涯を通じ
て﹁痢病﹂と向き合い︑戦ってきた︒川端はそのような北篠
を見守り︑教導した︒この川端と北像の関係性を尊重するた
めにも本稿ではハンセン病ではなく︑﹁痢病﹂と表記する︒な
お︑本稿において使用する﹁痢病﹂の表記にはハンセン病者
を差別する意図は一切ない︒
︵3︶﹁寒風﹂以下の順番で単行本や文庫︑選集︑全集に収録さ
れた︒また単行本収録時に大幅な削除が行われている︒
①﹁朝雲﹂︵昭和二十年十月二十五日新潮社︶
※収録作品は﹁朝雲﹂﹁故人の園﹂﹁冬の曲﹂﹁十七歳﹂﹁わ
かめ﹂﹁小切﹂﹁父の名﹂﹁寒風﹂
注7に同じ
昭和五十六年十二月沖資舎 注7に同じ﹁芸術至上主義文芸﹂犯平成八年十二月﹁武庫川国文﹄弱平成二年三月﹁川端康成とともに﹄昭和五十八年四月﹁川端康成全集補巻二﹄昭和五十九年五月新潮社﹁文芸春秋﹂昭和十六年一月号注uに同じ昭和四十七年四月二十八日二見書房﹁川端康成全集第三十四巻﹄昭和五十七年十二月二十新潮社注廻に同じ注︑に同じ﹁日本近代文学廻集﹂昭和四十四年十月﹁いのちの初夜﹂昭和十一年十二月創元社﹁北礁民雄全集下巻﹂昭和五十五年十二月東京創元
﹁医時公論﹄昭和十四年三月十八日医時公論社
﹁望郷歌﹂昭和十四年九月一日山雅房 ︵妬︶﹃望郷歌﹂昭和十四年九月一日山雅房︵︶﹃科学ペン﹄昭和十六年四月一日科学ペン社︵記︶﹁科学随筆線﹂昭和十五年十一月一日人文閣︵調︶注型に同じ︵釦︶注記に同じ︵釦︶注記に同じ︵銘︶注幻に同じ︵認︶注に同じ︵弘︶注に同じ︵鍋︶注に同じ︵弱︶注訂に同じ︵訂︶注訂に同じ︵詔︶﹁寒風﹂の事実と相違する点については︑五十嵐康夫が
﹁川端康成﹁寒風の虚榊﹂﹂︵﹁芸術至上主義文芸﹂躯平成八
年十二月︶で指摘している︒
︵にしむらみれたつ/本学博士前期課程修了・
名古屋大学文学研究科博士後期課程在学中︶
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〆 今 、 一 、 グ ー 、 〆 ー 、 〆 二 、 一 、 − 、 一 、 グ ー 、 〆 = へ 〆 へ 〆 へ ノ ー 、 〆 ー 、 〆 冨 へ 〆 ‐ 、 〆 へ グ ー 、
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