冷泉家時雨亭文庫蔵『難後拾遺』考
著者 殿本 佳美
雑誌名 國文學
巻 104
ページ 131‑140
発行年 2020‑03‑01
URL http://hdl.handle.net/10112/00020385
一、 『難後拾遺』成立の背 景 『難後拾遺』
(難後拾遺抄とも) は第四番目の勅撰集である 『後 拾遺集』 (白河天皇下命 ・ 藤原通俊撰) に収載された八十四首 (一 首は『拾遺集』の歌)について難じた歌学書であり、作者は源 経信またはその子であり第五番目の勅撰集『金葉集』の撰者で ある源俊頼とされている。
藤原通俊が『後拾遺集』を撰した際の事情については先行研 究 を 少 し 長 く 引 用 す る。 藤 原 清 輔 の『 袋 草 紙 』
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( 上 巻 故 撰 集 子 細 ) に は「 通 俊 卿 一 人 撰
レ之。 如
レ序 承 保 之 比 奉
レ之、 応 徳 三 年九月十六日奏
レ之。 」 とみえるが、 これについて上野理氏は 『後 拾遺集前後 』
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で「承保二年(一〇七五)九月に天皇と通俊は勅 撰集の編纂を考えたが、その仕事にとりかかるのは、九年後の 応徳元年(一〇八四)六月、完成は応徳三年九月である。通俊 は仕事のおくれを多忙故とするが、勅撰集の編集を大切にすれ ば本務のやりくりをし、他の近臣にてつだってもらうこともで きたかもしれない。承保二年に通俊二九歳、天皇二三歳で近臣 もみな若く、歌人としての自信ももってはいない。いま選定し た な ら ば、 白 河 朝 の 歌 人 の 歌 は 一 首 も 拾 え ず、 彼 ら が 反 撥 し、 それゆえに歌会をひらき、勅撰集を編纂しようとする、摂関政 治 最 盛 期 の 歌 人 の 歌 の み を 収 め ね ば な ら な い。 天 皇 や 通 俊 に、 す ぐ に 勅 撰 集 を 作 る 気 持 ち は な か っ た は ず だ。 」 と 述 べ る。 ま た平田喜信氏は新日本古典文学大系『後拾遺和歌集』の解説で 「 後 三 条・ 白 河 両 朝 に お け る い わ ゆ る 天 皇 親 裁 を 目 指 し て の 政 治動向は、 実は、 外戚の地位を離れた摂関家の衰微ともあいまっ て、天皇と天皇をとりまく新勢力による政治権力の確立を目論 冷泉家時雨亭文庫蔵『難後拾遺』考
殿 本 佳 美
ん だ も の で あ っ た と も 言 え よ う。 ( 中 略 ) 白 河 朝 に お け る 歌 界 のありかたもまた、こうした政治状況と分かちがたく結び付い ていた。この時期、和歌への関心は急速に高まりを見せ、天皇 を中心にした歌会、歌合の度数はいちじるしく増大するが、そ こに参加した者の多くは職事弁官を経験した侍臣や有力な受領 たちなど、親政を推し進める際に積極的な役割を果たした人々 であった。これに比して、摂関家主催の歌会などは次第に影を ひそめ、歌合行事の企ても間遠になっていく。官界における新 しい力関係は、ようやく文芸の世界にも浸透しようとしていた の で あ る。 『 後 拾 遺 集 』 の 編 纂 が 企 図 さ れ、 撰 者 と し て 通 俊 に 白羽の矢が立てられたのは、まさにこのような状況の下であっ た。 」 と 述 べ て い る。 こ の よ う に『 後 拾 遺 集 』 撰 者 の 選 定 に は 摂関政治の衰退という時代背景が深く関わっていたのである。
後 世、 清 輔 は『 袋 草 紙 』( 上 巻 撰
二萬 葉 集
一或 称
二大 同 朝
一疑
二桓 武 時
一事 ) で「 于
レ時 有
二経 信 匡 房 者
。一此 道 之 英 才、 先 達 也。 不
レ奉
レ之、 如 何。 但 或 人 云、 私 撰 之 後、 取
二御 気 色
一云 々。 于
レ時 有
二難 後 拾 遺 云 物
。一世 以 称
二経 信 之 所 為
。一通 俊 見
レ之 云々。 」 と、 経信や匡房のような優れた才を持つ者を 『後拾遺集』 の撰者としなかったことに疑問を呈しており、もとは通俊の私 撰 集 で あ っ た と す る「 或 人 」 の 言 も 載 せ て い る。 こ の「 或 人 」 の言について久曾神昇氏は 『歌学大系』 「難後拾遺 」
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の解題で 「誤 とすべきであらう。 」とする。 「当時通俊よりも適当と思はれる 源経信、 大江匡房などがゐた為に生じた説にすぎないであらう。 匡房は特に漢学者であるので暫く別とするも、経信はやはり無 視することはできない。従って奏覧に先立って、経信の校閲を 受 け た の で あ る。 そ の 時 に 経 信 が「 神 妙 之 由 」 を 述 べ た の で、 通俊は、その言を信じて奏覧したのであらう。経信は快く思は な か っ た の で、 形 の ご と く「 神 妙 之 由 」 は 申 し て お き な が ら、 早 速 非 難 を 始 め た や う で あ る。 い は ゆ る 後 拾 遺 問 答 で あ る。 」 と い う。 『 後 拾 遺 問 答 』 は 現 在 散 佚 し て い る が、 『 袋 草 紙 』( 下 巻 故人和歌難)に「後拾遺問答云、
問者、経信卿答者、通俊卿」として六首につ い て 問 答 が あ り、 ま た『 袖 中 抄 』( 第 四 わ か く さ の つ ま ) に も「 後 拾 遺 問 答 云、 ( 中 略 ) 経 信 卿 問 云、 ( 中 略 ) 通 俊 卿 答 云 」 などとみえる。久曾神氏は『袋草紙』に引用された六首のうち 「 二 首 は 現 存 後 拾 遺 抄 に は 見 え な い。 奏 覧 の 後 に 多 少 改 め た 為 で あ ら う か。 ( 中 略 ) 難 後 拾 遺 抄 は そ の 後 に 成 っ た の で あ る。 」 という。
二、 『難後拾遺』の作者
清 輔 は『 袋 草 紙 』( 上 巻 雑 談 ) で『 後 拾 遺 集 』 に つ い て 次 のように述べている。
後拾遺末代規模集也。雖
レ然彼時有
二種々誹謗
一云々。 「末代規模集」 とは芦田耕一 氏
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によれば、 「後拾遺集 (一〇八六 年成立)は「末代」において手本、規範である勅撰集であると い う の だ が、 ( 中 略 ) 当 代 は 末 代 で あ る の で 後 拾 遺 集 が 規 範 に な る 」 の だ が、 と は い え 当 時 は さ ま ざ ま な 誹 謗 が あ っ た の だ という。その後に経信の孫であり俊頼の子である俊恵が清輔に 語ったとして次のように述べる。
又 難 後 拾 遺 と 云 物 有。 世 以 称
二経 信 卿 之 所 為
一。 而 近 年 俊 頼朝臣子息僧俊恵相語云、吾妹女房逝去之後、彼遺物ヲ開 見 之 処、 故 頭 遺 草 少 々。 其 中 有
二件 難 後 拾 遺 之 草 案
。一故 頭 之 手 跡 也。 若 彼 所 為 歟 云 々。 予 案
レ之 若 以
二帥 口 状
一執 筆 間草歟。
この部分について久曾神氏は「経信はすでに七十余歳の高齢 であり、俊頼は明確にしがたいが、三十歳前後であつたやうに 思 は れ、 口 授 を 執 筆 し た と し て も 不 自 然 で は な い や う で あ る。 殊に本書の序に「人によませて聞つれば」とあるは、それを裏 書するやうに思はれる。従つて清輔の推定を認めるべきであら う。 」といい、 作者経信説をとっている。上野氏も「 『難後拾遺』 の著者を経信とすることに、従来、まったく疑問がなかったわ けではないが、内容をみれば、経信以外に著者を考えることは む ず か し い。 」 と さ れ る。 久 曾 神 氏 と 上 野 氏 が 根 拠 の 一 つ と す るのが巻三(一七八) 「わがやどの」歌についての記述である。 以 下 引 用 本 文 は『 歌 学 大 系 』 に よ っ た。 ( ) は 続 群 書 類 従 本を以て誤脱を補訂したもの。 (つくし大山寺といふ所にて歌合し侍けるによめる) 元慶法師 わがやどのかきねなすぎそほとゝぎすいづれのさともおな じうの花
此 歌 は、 つ く し に は べ り し ほ ど 良 暹 と い ふ そ う の、 わがよみたるとなんいふときゝて、これはふる歌と ぞきくとか侍しは、七十のほうしのわがゝみによめ りしかば、そらごとゝはおぼえずとまうししを、元 慶法師とかきつけられて侍しを、この集えらばれた る人にとひはべりしかば、実源法師がつくしにあり けるほど、元慶というふものゝまさしうよみたりし
を見しなりとまうせば、そのよしをかきたるなりと あるを、実源がつくしにありけることは、資通大弐 のつかひなり。良暹がわが歌とまうししことは、そ のさきのことなり。良暹がふる歌をわがといひける に や あ ら ん。 元 慶 が 歌 と い ふ こ と は そ ら ご と な り。 もし元慶法師が良暹が歌かきていだしたりけるにや ありけん。いづれにてもありぬべきことなれど、空 ごとなりとおもうたまふればかきつくる也。
『難後拾遺』の作者が筑紫にいたころ、良暹が「わがやどの」
歌を自分が詠んだものだといい、それについて「この集えらば れたる人」に問うたという出来事について上野氏は「まず、 『後 拾 遺 問 答 』 の 経 信 を 考 え る べ き だ。 」 と い い、 ほ か に も 赤 染 衛 門 が 詠 ん だ( 一 九 三 )「 な か ぬ よ も 」 歌 に つ い て 書 か れ た「 こ の歌合は、右方にてはべりしかば、そのほどのことはくはしう きゝたまへしなり。 」という立場にあって、 『難後拾遺』成立時、 「 多 く は 没 し、 当 時 活 動 を つ づ け る の は、 七 二 歳 の 民 部 卿 経 信 一人であろう。 」と断じている。 一方、 関根慶子氏は 『難後拾遺集成 』
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のはしがきで 「『難後拾遺』 は、 『袋草紙』以後『古来風體抄』 ・『八雲御抄』等にも『源経信』 の述作として信ぜられ今日にいたっている。今日も著者を経信 とするに異論は殆ど出ていないが、いま一度検討してみる必要 はあろうと筆者は考えている。 」と述べている。
三、 『難後拾遺』の伝本
学 大 系 本、 続 群 書 類 従 所 収 本、 八 代 集 全 註 所 収 本 『 難 後 拾 遺 』 の 伝 本 は 多 く な く、 翻 刻 さ れ た も の と し て は 歌
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の 他、 『 難 後 拾遺集成』に竜氏旧蔵契沖本、神宮文庫本があり、契沖本等と の相違が少ない清水浜臣校本(静嘉堂文庫蔵)は校異や書き入 れが記されている。 それらの伝本を整理されたものをお借りし、 簡略化すると次のようになる。
一、神宮文庫本
一、諸他本
○ 貞和等奥書本(静嘉堂文庫清水浜臣本 ・ 彰考館本 ・ 八代集全註所収本など)
○ 契沖本(竜氏旧蔵契沖本・東大総合図書館片野氏 旧蔵本など)
○その他(歌学大系本・続群書類従本など)
関根氏は神宮文庫本を「諸本のうち独り特異な系統の本文を 有 す る 」 と し、 「 目 下 の と こ ろ 大 き く 二 系 統 と な り、 諸 他 本 は
大 体 三 群 に 分 け て お く の が 便 宜 か と 思 わ れ る。 」 と す る。 ま た その書写年代を近世とし、他本もすべて近世の書写である。
四、冷泉家時雨亭文庫蔵『難後拾遺』
さて、平成十年(一九九八)に冷泉家時雨亭叢書より『後拾 遺和歌集 難後拾遺 』
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