︿論
説﹀
財 界 人 た ち の 政 治 と ア ジ ア 主 義
村田 省蔵
・藤 山愛 一郎
・水 野成 夫
松 浦 正 孝
は じ め に 一 村田 省蔵
︵一 八七 八~ 一九 五七
︶と 実業 アジ ア主 義 二 藤山 愛一 郎︵ 一八 九七
~一 九八 五︶ と選 良ア ジア 主義 三 水野 成夫
︵一 八九 九~ 一九 七二
︶と 浪漫 アジ ア主 義 お わ り に
は じ め に
従来の政 治史 にお いて
︑財 界が 政治 に対 して 大き な影 響を 与え て来 たこ とに つい て︑ 具体 的に 論じ られ るこ とは ほと んど なか った
︒し かし 財界 と政 権と の関 係に 注目 して 整理 する と︑ 様々 なこ とが わか る︒ 例え ば︑ 第一 次世 界 大戦 の前 後か ら財 界出 身の 政治 家が 入閣 する 事例 が増 え︑ 五・ 一五 事件 によ って 政党 内閣 が命 脈を 絶た れて から 戦
後初 期の 第一 次吉 田茂 内閣 まで
︑衆 議院 に議 席を 持た ない 財界 出身 者が 入閣 する 枠が あっ た︒ また
︑戦 後政 党が 本 格的 に再 始動 して から も︑
﹁一 九六
〇年 体制
﹂の 始ま る前 の岸 信介 内閣 まで は︑ 事実 上財 界を 代表 する 政治 家が 議 席を もた ない まま で入 閣し て
( )
いた
︒と すれ ば︑ これ まで の政 治史 に︑ もう 少し 財界 人の 名前 の入 った 歴史 を加 筆し
1
ても 良い ので はな いだ ろう か︒ 本稿 にお ける 財界 とは
︑資 本主 義や 経済 シス テム の確 立・ 維持
・発 展な どに 関わ り政 治権 力と 関係 を持 つ︑ 経済 界に おけ る権 力核 のこ とを 指す
︒そ の実 態は
︑渋 沢栄 一を 始め とす る財 界世 話業
︵和 田豊 治︑ 郷誠 之助
︑井 上準 之 助︑ 池田 成彬
︑結 城豊 太郎 ら︶ を中 心に 明治 以降 次第 に形 成さ れ︑ 第一 次世 界大 戦後 に確 立さ れて いっ た人 的ネ ット ワー クで ある
︒そ れは
︑戦 時体 制の 中で 姿を 変え
︑戦 後の 財閥 解体
︑公 職追 放︑ 世代 交代 や独 占禁 止法 制定 など と 共に 再編 され
︑新 たな 政治 経済 シス テム の下 に組 み込 まれ てい
( )
った
︒
2
いわ ゆる
﹁一 九五 五年 体制
﹂を 経て
﹁一 九六
〇年 体制
﹂に 至る 初期 の戦 後政 治を 織り 成し た吉 田茂 派と 反吉 田派
︵鳩 山一 郎︑ 岸信 介ら
︶は
︑そ れぞ れに 有力 な財 界人 を閨 閥・ 支援 者と して 擁し
︑そ のこ とが 戦後 の政 治経 済構 想と 深い 関わ りを 持っ てい た︒ 吉田 や吉 田派 を支 えた のは
︑池 田成 彬︑ 宮島 清次 郎ら 戦前 から 活躍 した 大物 財界 人を 始 め︑ 九州 炭鉱 王の 家に 生ま れ吉 田の 娘和 子と 結婚 した 麻生 多賀 吉︑ 宮島 の後 継者 であ る桜 田武
︑小 林中
︑永 野重 雄︑ 水野 成夫 らい わゆ る﹁ 財界 四天 王﹂ らで ある
︒彼 らは
︑金 融や 鉄道
︑紡 績な ど従 来型 の産 業出 身者 が多 く︑ 第 三次 吉田 内閣 に厚 生大 臣と して 入閣 した 和菓 子の 老舗 虎屋 の店 主黒 川武 雄に 見ら れる よ
( )
うに
︑比 較的 ドメ ステ ィッ
3
クな 問題 関心 を持 って 政治 に関 心を 寄せ た者 が多 いよ うに 思わ れる
︒ 一方
︑反 吉田 派陣 営に つい て見 ると
︑例 えば
︑長 女安 子が 鳩山 一郎 の長 男威 一郎 と結 婚し たた めに 鳩山 を支 援し た石 橋正 二郎 のブ リヂ スト ンは
︑戦 前か ら満 洲・ 朝鮮
・台 湾・ 青島
・上 海・ タイ に工 場を 建設
︑戦 時中 はジ ャワ
・ スマ トラ の米 蘭系 接収 工場 を委 託経 営し
︑航 空機 関連 工業 にも 進出 する など
︑植 民地 当局 と提 携し て﹁ 大東 亜共 栄
圏﹂ 域内 で飛 躍的 に発 展し たグ ロー バル 企業 で
( )
ある
︒岸 信介 を支 援し た藤 山愛 一郎 の大 日本 製糖 は台 湾や ジャ ワな
4
どに 進出 し︑ 藤山 は戦 時中
︑中 国に も華 人資 本と の合 弁会 社を 作
( )
った
︒同 じく 岸を 支援 した 永野 護は
︑鉱 業界 や鉄
5
鋼業 界と 強い つな がり を持 ち︑ 戦後 フィ リピ ンや イン ドネ シア など との 戦後 賠償 問題 に積 極的 に関 わっ た︒ 河野 一 郎を 支援 した 河合 良成 は︑ 番町 会事 件で 投獄 され 無罪 判決 を受 けた 後︑ 満洲 に渡 って 満洲 国総 務庁 顧問 とな った
︒ そし て小 松ト ラク ター の満 洲進 出を 手伝 った こと が縁 とな って 一九 四七 年に 小松 製作 所︵ 後の コマ ツ︶ 社長 に就 任︑ 東南 アジ アへ の戦 後賠 償の ため 建設 機械 を輸 出し て︑ 重機 メー カー であ るコ マツ がグ ロー バル 企業 とな る礎 を築 い た︒ 河合 は︑ 第一 次吉 田内 閣で 厚相 とな り︑ 五二 年の 総選 挙で も吉 田の 勧め によ って 出馬 し当 選し たが
︑吉 田と は その 後疎 隔し
︑満 洲時 代の 人脈 や経 歴な ども あっ て︑ 反吉 田の 鳩山 派の 金庫 を支
( )
えた
︒同 じく 河野 一郎 や大 野伴 睦
6
を支 援し た高 碕達 之助 は︑ 東洋 製缶 支配 人と して 北洋 漁業 に関 わり
︑そ の後 満洲 重工 業総 裁と な
( )
った
︒こ のよ う
7
に︑ 反吉 田陣 営に は︑
﹁大 東亜 共栄 圏﹂ や大 日本 帝国 の外 縁・ 周縁 部で のビ ジネ ス経 験を 持っ た財 界人 が多 い︒ ま た後 述す るよ うに
︑岸 の支 援者 であ った 藤山 愛一 郎や 経済 団体 連合 会副 会長 だっ た植 村甲 午郎
︑同 会長 だっ た石 川 一郎 らは
︑統 制経 済・ 計画 経済 に親 和的 であ った
︒こ れも
︑自 由経 済論 者が 多か った 吉田 陣営 との 違い であ る︒ 本稿 は︑ 村田 省蔵
︑藤 山愛 一郎
︑水 野成 夫と いう 三人 の重 要な 財界 人を 取り 上げ
︑彼 らの 戦前 から 戦後 にか けて の足 跡の 交錯 をた どり
︑そ れを 通じ て財 界と 戦後 政治 との 関わ りを 新た な角 度か ら照 射す るこ とを
︑第 一の 目的 と する
︒そ のう ち村 田に つい ては
︑別 稿で 詳細 に分 析を 加え る
( )
ため
︑本 稿で は簡 単に 扱う
︒三 人の 財界 人た ちの 政治
8
的位 置づ けは
︑そ れぞ れ大 きく 異な るが
︑戦 前か ら戦 後に かけ て大 きく 変化 した こと にお いて は共 通で ある
︒三 者 三様 の軌 跡の 変遷 は︑ 戦前 と戦 後と の断 絶性
・連 続性 につ いて 理解 する 興味 深い 材料 を提 供し てく れる
︒ 村田 省蔵 は︑ 戦前 は海 運に おけ る戦 時体 制確 立の ため 海運 自治 連盟 を結 成し て理 事長 に就 任し
︑一 方で
︑日 本を
﹁大 東亜 戦争
﹂に 導い た大 アジ ア主 義の 旗振 り役 とし て活 躍し た︒ 第二 次近 衛文 麿内 閣で は逓 信大 臣兼 鉄道 大臣 と
して 入閣 し︑ 東条 英機 内閣 が成 立す ると 東条 首相 の求 めに 応じ てフ ィリ ピン の陸 軍第 一四 軍最 高顧 問に 就任
︑引 き 続き 初代 フィ リピ ン大 使に なっ た︒ 敗戦 後は A級 戦犯 容疑 者と して 巣鴨 拘置 所に 収監 され てい る︒ とこ ろが その 後︑ 村田 は日 本国 際貿 易促 進協 会の 初代 理事 長と なっ て︑ 共産 中国 との 国交 回復 に尽 力し た︒ なお 村田 は︑ 吉田 茂 とは 政治 的立 場が 異な って も︑ 吉田 に率 直に それ を進 言す る関 係で あっ た︒ 藤山 愛一 郎の 場合 は︑ 戦前 は藤 山雷 太元 日本 商工 会議 所会 頭の 長男
︑結 城豊 太郎 元日 本銀 行総 裁の 女婿 とし て財 界を 担う プリ ンス たる べく 期待 され た︒ 日中 戦争 勃発 前に は︑ 林銑 十郎 内閣 の佐 藤和 協外 交が 送っ た兒 玉訪 中経 済 使節 団の 最年 少メ ンバ ーと して
︑岳 父結 城蔵 相か ら孔 祥熙 行政 院副 院長
・王 寵恵 外交 部長 に宛 てた 経済 提携 によ る 戦争 抑止 への メッ セー ジを 伝達 する など
︑財 界に よる 戦争 反対 の動 きに 深く 関わ
( )
った
︒し かる に敗 戦後 は︑ 財界 内
9
で嫌 悪さ れて いた
﹁戦 犯岸
﹂を 独り 支援 し︑ 反吉 田茂 陣営 の財 界人 とし て活 躍︑ 岸内 閣成 立に あた って は財 界の 地 位を 擲っ て外 務大 臣に 就任 し︑ 日米 安全 保障 条約 改定 や日 米地 位協 定締 結な どに あた った
︒そ の後 は自 民党 内で 非 主流 派の 立場 とな り総 裁選 に三 度出 馬す るな どす る一 方︑ 日中 国交 回復 議員 連盟 を結 成し
︑日 本国 際貿 易促 進協 会 の第 四代 会長 にも 就任 し︑ 日中 国交 回復 を推 進し た︒ 水野 成夫 の戦 前は
︑日 本共 産党 の闘 士で あっ た︒ 上海 のコ ミン テル ン極 東事 務局 に︑ 日本 共産 党を 代表 して 参加 して いる
︒そ の後 獄中 で転 向し
︑友 人南 喜一 と始 めた 大日 本再 生製 紙株 式会 社が 国策 パル プに よっ て出 資・ 設立 さ れた 関係 で︑ 国策 パル プの 社長 でも あっ た宮 島清 次郎 日清 紡社 長の 知遇 を得 た︒ 宮島 と吉 田茂 との 関係 から
︑次 第 に吉 田や 池田 勇人 らの 信頼 を得 るよ うに なっ た水 野は
︑そ の後
﹁財 界四 天王
﹂と して 財界 内で 活躍 する よう にな っ た︒ 共産 党で の経 験を 買わ れて 主に 労働 問題 にお いて 活動 し︑ 富士 テレ ビや 産経 新聞 社の 設立 に関 わる など
︑反 共 の闘 士と して 活動 する 一方 で︑ 中国 や東 南ア ジア とも 交流 を進 めよ うと して いた とい う︒ 三人 の来 歴は
︑劇 的で
︑傍 から 見る と左 右に 激し く揺 れ動 いた よう に見 える
︒し かし
︑彼 ら自 身は 一貫 した 生き
方を 歩ん だと 考え てい たは ずで ある
︒む しろ 彼ら から 見れ ば︑ 日本 の戦 前か ら戦 後へ の移 り変 わり の方 が︑ 目ま ぐ るし く変 わっ たの だと いう こと にな るの かも 知れ ない
︒ 本稿 の第 二の 目的 は︑ この 三人 が戦 前と 戦後 とに 跨る 経験 を︑ 内在 的に どう 繋げ てい たの かを 検討 し︑ 戦後 日本 の歴 史を 論じ る手 がか りを 提示 する こと であ る︒ その キー ワー ドは
︑ア ジア
( )
主義 であ る︒ ここ で当 面定 義す るア ジア 主義 とは
︑﹁ 自ら の帰 属地 域を 起点 とし て︑
10
﹃ア ジア
﹄と いう 概念 を使 うこ とで
﹃他 者﹄ を競 争・ 抗争
・排 除の 対象 とし
︑﹃ アジ ア﹄ とい う範 囲の 中で の連 帯を 求め る政 治プ ロジ ェク ト﹂ で
( )
ある
︒日 本を 起点 とす るア ジア 主義 の特 色は
︑① 英国 に代 表さ れる 西洋 帝国 主義 や西
11
洋文 明を 排除
・駆 逐し
︑② 中国
・朝 鮮と の連 携を 中心 に﹁ アジ ア﹂ との 連帯 を掲 げ︑
③ア ジア の平 等性 を建 前と し つつ も天 皇を 頂く 日本 を盟 主と し西 洋へ の優 位を 確保 する もの
︑と まと める こと がで きる
︒大 アジ ア主 義な どの 場 合に は︑
②が 前近 代ま での 東ア ジア 秩序 のス タン ダー ドで あっ た中 華を 中心 とす る華 夷秩 序の
﹁中 華﹂ の地 位を 日 本が 獲得 する 形で 実現 され るこ とを 意味
( )
した
︒
12
しか し︑ 同じ アジ ア主 義で あっ ても
︑そ れぞ れの 系譜 や出 自︑ 環境 など によ って
︑い くつ かの 異な る類 型に 分け るこ とが でき る︒
( )
別稿 では 村田 省蔵 につ いて
︑そ れを 詳し く検 討し
︑実 業ア ジア 主義 と名 づけ た︒ 本稿 では
︑村 田
13
の実 業ア ジア 主義 と対 比す る形 で︑ 藤山 愛一 郎の それ を選 良ア ジア 主義
︑水 野成 夫の それ を浪 漫ア ジア 主義 と呼 び︑ それ ぞれ の特 徴を 分析 する こと とし たい
︒こ の三 者を 分け る一 つの 要因 は︑ アジ ア主 義に おい て重 要な 契機 で ある
﹁会 う﹂ とい う初 期条 件の 位相 であ る︒ 本稿 では 別稿 同様
︑ア ジア 主義 の﹁ 会う
﹂側 面に スポ ット を当 てな が ら︑ タイ プの 異な る三 人の アジ ア主 義を 分析 する こと で︑ 一見 断絶 して いる よう に見 える 彼ら の足 跡の 連続 性を 明 らか にす ると 共に
︑彼 らを 通じ て見 える 戦前
・戦 後の 日本 の断 面を 論じ たい
︒ なお
︑別 稿と はで きる 限り 重複 を避 ける ため に︑ アジ ア主 義に つい ての 詳し い説 明は 省略 して いる ので
︑関 心の
ある 方は
︑別 稿並 びに 関連 著作 を参 照し て頂 けれ ば幸 いで ある
︒
(
︶松 浦正 孝﹁ ビジ ネス
・財 界と 政権 のあ いだ
第一 次伊 藤博 文内 閣か ら第 三次 安倍 晋三 内閣 まで
﹂﹃ 立教 法学
﹄第 九二 号︑ 二〇 一五 年︒
︵ 1
︶同 右論 文及 び︑ 松浦 正孝
﹃財 界の 政治 経済 史﹄ 東京 大学 出版 会︑ 二〇
〇二 年︒
︵ 2
︶松 浦正 孝﹁ ビジ ネス
・財 界と 政権 のあ いだ
﹂二 七~ 二八 頁︒
︵ 3
︶創 立五 十周 年社 史編 纂委 員会
﹃ブ リヂ スト ンタ イヤ 五十 年史
﹄ブ リヂ スト ンタ イヤ 株式 会社
︑一 九八 二年
︒
︵ 4
︶藤 山愛 一郎
﹁私 の履 歴書
﹂日 本経 済新 聞社
﹃私 の履 歴書
経済 人
﹄日 本経 済新 聞社
︑一 九八
〇年
︒
︵ 5
︶河 合良 成﹃ 孤軍 奮闘 の三 十年
﹄講 談社
︑一 九七
〇年
︑二 七六
~二 八八 頁︑ 松浦 正孝
﹁ビ ジネ ス・ 財界 と政 権の あい だ﹂ 二六
~二 九頁 など
︒
︵ 6
︶例 えば
︑牧 村健 一郎
﹃日 中を ひら いた 男 高碕 達之 助﹄ 朝日 新聞 出版
︑二
〇一 三年
︑第 三・ 第四 章︒
︵ 7
︶松 浦正 孝﹁ 財界 人の 戦前 と戦 後の あい だ
村田 省蔵 と実 業ア ジア 主義
﹂黄 自進 編﹃
︿日 中戦 争﹀ とは 何だ った のか
複眼 的視 点﹄ ミネ ル ヴ 8 ァ書 房︑ 二〇 一七 年︒ 本稿 とこ の論 文と は︑ もと もと 一つ の論 文で あっ たが
︑紙 幅の 関係 もあ って 二つ に分 けた
︒こ のた め︑ 内容 的に 若干 の 重複 があ るこ とを 了解 され たい
︒
︵
︶松 浦正 孝﹃ 財界 の政 治経 済史
﹄第 五章 第三 節︒
︵ 9
︶ア ジア 主義 につ いて の本 格的 で示 唆的 な理 論的 考察 とし て︑ 姜克 實﹁
﹃連 帯﹄ とは 何か
アジ ア主 義の 理論 解析
﹂﹃ 岡山 大学 文学 部紀 要﹄ 第 10 六〇 号︑ 二〇 一三 年一 二月
︑が ある
︒
︵
︶松 浦正 孝﹁ アジ ア主 義﹂
﹃ア ジア
・太 平洋 戦争 辞典
﹄吉 川弘 文館
︑二
〇一 五年
︒
︵ 11
︶松 浦正 孝﹃
﹁大 東亜 戦争
﹂は なぜ 起き たの か
汎ア ジア 主義 の政 治経 済史
﹄名 古屋 大学 出版 会︑ 二〇 一〇 年︑ 三三
~三 四頁
︒
︵ 12
︶松 浦正 孝﹁ 財界 人の 戦前 と戦 後の あい だ﹂
︒ 13
一 村 田 省 蔵
︵一 八七 八~ 一九 五七
と
︶実 業 ア ジ ア 主 義
ビジネス の現 場で 村田 省蔵 の生 まれ は東 京の 郊外 渋谷 の宮 益で ある
︒家 は元 来裕 福な 商家 であ った が︑ 父が 陶器 事業 など に失 敗し て浅 草に 移り
︑父 は歌 舞伎 の市 村座 の興 行に 従う 身と なっ た︒ その 後再 度の 市村 座の 焼失 でさ らに 苦境 に陥 った 父
が︑ 地方 の巡 業先 で失 意の うち に倒 れた ため に︑ 残さ れた 母子 は失 意と 貧困 の底 に沈 んだ
︒そ の後 刻苦 勉励 して 高 等商 業学 校を 卒業 した 村田 は︑ 立身 出世 を夢 見て 大阪 商船 に就 職
( )
した
︒
14
別稿 で記 した よう に︑ 村田 は大 阪商 船が 揚子 江航 路を 開拓 する ビジ ネス の最 前線 に送 られ
︑上 海︑ 漢口
︑重 慶で 八年 足ら ずを 過ご した
︒英 国や 清国 の汽 船会 社な どと 熾烈 に競 争す ると 共に
︑重 慶な どで は未 開発 の現 地に 溶け 込 むこ とに 専念 した
︒こ こで 彼は
︑中 国民 衆の 多く と出 会い
︑同 じア ジア
︵東 洋︶ 人と して の実 業ア ジア 主義 の立 場 を心 に深 く刻 み付 けた よう に思 われ る︒
﹁大 東亜 戦争
﹂へ その 後︑ 中国 で排 日運 動が 盛ん にな ると
︑日 系の 海運 会社 は苦 戦す るよ うに なり
︑大 阪商 船の 副社 長に なっ てい た村 田は 満洲 事変 の勃 発を 支持 して いる
︒日 中戦 争が 起こ ると
︑中 国現 地で の実 業に おけ る競 争の 最前 線に あっ た 大阪 商船 の社 長と して
︑や はり 英国 など と激 しく 角逐 して いた 鐘紡 の津 田信 吾ら と共 に大 亜細 亜協 会の 評議 員と な り︑ 反英 運動 の先 頭に 立っ た︒ この 大亜 細亜 協会 は︑ 日本 を﹁ 大東 亜戦 争﹂ へと 誘う のに 大き な役 割を 果た した イ デオ ロギ ー・ ネッ トワ ーク で
( )
ある
︒村 田が この よう な役 割を 果た すよ うに なっ たの は︑ 実業 の現 場で の体 験か ら︑
15
アジ アか ら英 国を 筆頭 とす る西 洋帝 国主 義を 駆逐 し︑ 代わ って 日本 の商 権を 伸長 させ なけ れば なら ない とい う大 ア ジア 主義 のイ デオ ロギ ーに 共鳴 して いた から であ る︒ また 村田 は︑ 海運 業界 にお ける 戦時 体制 作り のた め︑ 海運 各 社を 結集 して 国策 会社 であ る東 亜海 運株 式会 社を 設立
︑海 運自 治連 盟理 事長 とな った
︒第 二次
・第 三次 の近 衛文 麿 内閣 に入 って 逓信 大臣 兼鉄 道大 臣に なり
︑閣 僚と して 海運 統制 に当 たっ た︒ 村田 は︑ 第一 次世 界大 戦当 時か ら︑ 第 二次 世界 大戦 の勃 発を 予言 し︑
﹁大 東亜 戦争
﹂以 前か ら日 米開 戦必 至を 確信 して
( )
いた
︒
16
﹁大 東亜 戦争
﹂が 始ま ると
︑東 条英 機首 相の 要請 でフ ィリ ピン の第 一四 軍の 最高 顧問 に就 任︑ その 後初 代の フィ
リピ ン大 使と なっ た︒ 戦局 が悪 化す ると
︑日 本の 軍政 に協 力し たフ ィリ ピン 共和 国政 府の ラウ レル 大統 領ら と共 に︑ 命か らが らフ ィリ ピン から 台湾 を経 由し て日 本内 地に 脱出 して いる
︒フ ィリ ピン など で日 本軍 や日 本統 治の 蛮 行︑ 失敗 を見 聞き して きた が︑ それ でも 村田 は﹁ 大東 亜共 栄圏
﹂の 大義 を信 じて いた
︒一 九四 五年 七月 一〇 日︑ 戦 争終 結に 関す る情 報を もた らし た高 木陸 郎中 日実 業副 総裁 に対 して
︑村 田は 米国 への 接近 に反 対し た︒ そし て︑ 重 慶の 蒋介 石と 手を 握っ てソ 連と 接近 し︑ あわ よく ば英 国の 好意 を買 い︑ 米国 の世 界制 覇を 阻止 する ため に米 国を 孤 立さ せよ うと 考え
︑日 華協 会の 総裁 を引 き受 けた 近衛 文麿 に対 する 期待 を示 して
( )
いた
︒村 田は 自分 が一 九四
〇年 に
17
設立 した 長江 産業 経済 開発 協会 だけ でで も行 動し よう とし てい
( )
たが
︑下 村宏 情報 局総 裁︑ 豊田 貞次 郎軍 需大 臣︑ 太
18
田耕 造文 部大 臣︑ 安井 藤治
・左 近司 政三 両国 務大 臣と 共に
︑日 本経 済連 盟会
︵経 連︶ が時 局転 換の 決議 をす べき だ と語 り合 う
( )
など
︑経 連を 基盤 とす る財 界に 主導 させ て鈴 木貫 太郎 首相 に和 平工 作を 行わ せよ うと して いた
︒し かし
19
経連 の井 坂孝 理事 長が 優柔 不断 で動 かぬ うち に︑ 終戦 の日 を迎
( )
えた
︒
20
近衛 文麿 が副 総理 格の 国務 大臣 とし て入 閣し た東 久邇 宮稔 彦王 内閣 を村 田は 高く 評
( )
価し
︑敗 戦後 の危 機を 収拾 す
21
るた め︑ 政治 家・ 官僚
・軍 人に 代わ って 実業 家が 先頭 に立 つべ きで ある と述 べて 井坂 経連 会長 を叱 咤
( )
した
︒そ し
22
て︑ 自ら が会 長を 務め る長 江産 業経 済開 発協 会を 日華 経済 協会 と改 名し て︑ 戦後 経済 経営 に参 画し よう とす る一
( )
方で
︑井 坂ら 経連 最高 幹部 は退 嬰的 であ ると 見て 彼ら には 期待 せず
︑池 田成 彬と 連絡 をと る高 島誠 一経 連常 務理 事 と 23
提携 し自 ら経 連幹 部に 復帰 して
︑財 界の 立場 から 戦後 日本 を変 えよ うと
( )
した
︒終 戦直 後に は︑ 日本 政治 会を 改組
24
して 国家 復興 のた めの 体制 政党 を作 り︑ 多数 財界 人を 入党
・支 援さ せよ うと 考え る大 麻唯 男か ら︑ 政界 入り を働 き かけ られ て
( )
いる
︒村 田が 入閣 した 時の 首相 であ った 近衛 文麿 や︑ 近衛 もメ ンバ ーで あっ たヨ ハン セン
︵吉 田反 戦︶
25
グル ープ の吉 田茂
︑池 田成 彬ら の動 きに つな がる 形で
︑村 田も 財界 の代 表と して
︑戦 前・ 戦中 から の延 長と して の 戦後 政治 に加 わろ うと して いた と見 るこ とが でき る︒
敗戦 後に おけ る実 業の 立場 から しか るに
︑村 田を 待っ てい たの は︑ 占領 軍に よる A級 戦犯 容疑 者へ の指 定で あっ た︒ 九月 一五 日巣 鴨拘 置所 に収 監さ れた 彼は
︑検 事の 取り 調べ に対 して
︑日 本の 満洲 事変 や﹁ 大東 亜戦 争﹂ を擁 護す る意 見を 述べ た︒ とこ ろが
︑巣 鴨を 出所 し公 職追 放解 除に なっ た頃 から
︑村 田は 台湾 との み外 交関 係を 持つ 日本 のあ り方 に少 しず つ疑 問を 抱く よう にな り︑ サン フラ ンシ スコ 講和 条約 発効 後に なる と北 京政 府と の国 交回 復を 主張 する よう にな っ た︒ 村田 は実 業の 立場 から
︑広 大な 大地 と膨 大な 中国 人を 要す る大 陸中 国と の貿 易を 回復 せず には
︑日 本が 立ち ゆ く道 はな いと 考え
︑自 分が 元気 なう ちに 日中 国交 回復 を実 現す る責 務が ある とい う信 念を 固め るに 至っ たの であ る︒ 吉田 茂首 相か ら︑ 共産 中国 を抜 きに 東南 アジ ア華 僑と の貿 易を 行え るよ う協 力を 頼ま れた 村田 は︑ その 不可 なる 所以 を指 摘し
︑逆 に吉 田に
︑大 陸中 国の 現地 を実 際に 見て 調査 した いと 要望 した
︒彼 は︑ 財界 の第 一線 から は引 退 しつ つも
︑大 陸と の貿 易で 成り 立っ てき た関 西財 界の 必要 を代 表す る形 で︑ 共産 主義 や反 共主 義な どの 政治 的立 場 とは 関係 なく
︑中 国や ソ連 など との 貿易 を回 復す る可 能性 を考 えよ うと した
︒そ して
︑一 九五 二年 四月 のモ スク ワ 国際 経済 会議 に︑ 政府 の反 対を 押し 切っ て出 席し よう とし た︒ 当時 は第 三次 吉田 内閣
︵第 三次 改造 内閣 で︶ あっ た が︑ 会議 への 招待 はソ 連に よる 平和 攻勢 の一 貫で ある から とし て︑ 政府 が村 田に 旅券 を発 給し なか った ため
︑村 田 はこ れを 断念 せざ るを 得な か
( )
った
︒
26
個人 的に は吉 田茂 とも 親し かっ た村 田で ある が︑ 対中 政策 など をめ ぐっ ては
︑吉 田と 対立 する 三木 武夫 など とむ しろ 近か った と言 うこ とが でき る︒ 国民 民主 党の 三木 らは 一九 五二
︵昭 和二 七︶ 年二 月農 民協 同党
︑新 政ク ラブ と 合同 し︑ 改進 党を 結成 した が︑ 党内 で総 裁候 補を 選ぶ こと がで きな かっ た︒ 改進 党幹 事長 とし て党 運営 の主 導権 を 握っ てい た三 木は
︑一 時期
︑村 田省 蔵に 空席 とな って いた 党総 裁へ の就 任を 依頼 しよ うと した が︑ 成功 しな かっ た
と
( )
いう
︒一 方︑ 中央 常任 委員 会議 長だ った 松村 謙三 は︑ 大麻 唯男 と共 に︑ 公職 追放 中の 重光 葵を 総裁 に擁 立す べく
27
動き
︑有 力な 総裁 候補 を持 って いな かっ た三 木は
︑重 光に 難色 を示 した
︒し かし 結局 改進 党は 五月
︑三 月に 追放 解 除さ れた ばか りの 重光 を総 裁に 推戴 する こと とな り︑ 六月 重光 が正 式に 改進 党総 裁に 就任
( )
した
︒結 果は そう であ っ
28
たが
︑一 時︑ 三木 が総 裁候 補と して 村田 を招 こう とし てい たこ とは
︑両 者の 政治 的立 場が 近か った こと を物 語っ て いる
︒ フィ
リピ ンと の賠 償交 渉 一九 五一 年九 月の サン フラ ンシ スコ 講和 会議 署名 によ って 本格 化し た東 南ア ジア との 賠償 交渉 のう ち︑ ベト ナム と共 に国 家賠 償請 求権 を行 使し たフ ィリ ピン との 交渉 は︑ 特に 重要 なも ので あっ た︒ 吉田 首相 は外 務省 を賠 償交 渉 の窓 口と しつ つ︑ 財界 人の 永野 護衆 院議 員や 藤山 愛一 郎日 本商 工会 議所 会頭
︑岡 田勢 一サ ルベ ージ 会社 社長 らを 特 使な どと して 使っ た︒ そし て︑ 五四 年四 月か ら正 式会 談を 始め るこ とに なる と︑ 戦時 中の フィ リピ ン大 使な どの 経 歴を 持つ 村田 省蔵 に特 命全 権大 使を 委嘱
( )
した
︒
29
﹁大 東亜 戦争
﹂で の同 志で あっ たホ セ・ ラウ レル 元大 統領 やレ クト ー元 外務 長官 ら有 力な 上院 議員 を友 人に 持ち
︑ フィ リピ ンを よく 知る と自 認し てい た村 田は
︑こ の交 渉の 行方 を楽 観視 して いた
︒し かし
︑日 本軍 政時 代の 多く の 犠牲 者と 抑圧 に対 する フィ リピ ンの 反日 感情 のみ なら ず︑ 日本 の大 アジ ア主 義が 大き な負 の遺 産と して 交渉 をこ じ らせ
︑交 渉は 混乱 のう ちに 失敗 し︑ 村田 は半 月で 帰国 を余 儀な くさ れた
︒村 田自 身︑ この 時点 では
﹁大 東亜 共栄 圏﹂ の呪 縛か らま だ抜 け出 せて おら ず︑ それ が幻 想で あっ たこ とを
︑思 い入 れ深 いか つて の任 地フ ィリ ピン でい や とい うほ ど思 い知 らさ れた ので ある
︒
周恩 来に よる 衝撃 フィ リピ ンか らの 失意 の帰 国後
︑五 四年 九月 に日 本国 際貿 易促 進協 会の 初代 会長 に就 任し てい た村 田に
︑中 国国 債貿 易促 進委 員会 代理 主席 の雷 任民 の世 話で
︑か ねて より 希望 して いた 大陸 中国 から の招 請状 が届 いた
︒五 五年 一 月に 北京 を訪 れた 村田 は︑ まず 新生 中国 の変 化に 驚い た︒ これ と共 に︑ フィ リピ ンを 皮切 りに イン ドネ シア
︑ベ ト ナム と要 求し て来 た戦 後賠 償に つい て︑ 周恩 来総 理が
﹁過 去の こと は忘 れま す﹂ と述 べた こと に感 激し
︑周 の語 っ た﹁ アジ ア人 のア ジア
﹂と いう 言葉 に心 をつ かま れた
︒共 産主 義と いう イデ オロ ギー とも 過去 の歴 史と も関 係な く︑ 平等 な互 利互 恵の 立場 で未 来を 指向 しよ うと 言う 周恩 来と の会 談は
︑ア ジア 主義 者と して の村 田に とっ て衝 撃 であ り︑ 大き な転 回点 とな った
︒実 業の ため の現 地民 衆と の出 会い に始 まっ た村 田の 実業 アジ ア主 義は
︑周 恩来 と の出 会い によ って
︑経 済的 利益 の枠 をは み出 した 新た なフ ェー ズの アジ ア主 義に 入っ たと 言え るか もし れな い︒ 五五 年五 月日 本国 際貿 易促 進協 会会 長と して 第三 次日 中貿 易協 定に 調印 した 村田 は︑ 翌年 も日 本商 品博 覧会 に出 席す るた め北 京︑ 上海 と二 度訪 中し
︑帰 国後 の五 七年 三月 にこ の世 を去
( )
った
︒
30 (
︶﹁ 自叙 伝﹂ 大阪 商船 株式 会社 編﹃ 村田 省蔵 追想 録﹄ 同︑ 一九 五九 年︑ 二七 六~ 二八 五頁
︒先 述し たよ うに
︑本 章は
︑松 浦正 孝﹁ 財界 人の 戦前 と 14 戦後 のあ いだ
﹂と 内容 的な 重複 があ る︒ 詳し い論 証に つい ては
︑そ ちら をご 参照 頂き たい
︒
︵
︶松 浦正 孝﹃
﹁大 東亜 戦争
﹂は なぜ 起き たの か﹄
︒
︵ 15
︶福 島慎 太郎 編﹃ 村田 省蔵 遺稿
比島 日記
﹄原 書房
︑一 九六 九年
︑三 二三 頁︑ 一九 四四 年一 二月 一七 日の 項︒
︵ 16
︶同 右︑ 五九 八~ 六〇
〇頁
︒
︵ 17
︶同 右︑ 六一 八頁
︑一 九四 五年 七月 二五 日の 項︒
︵ 18
︶同 右︑ 六一 二~ 六一 三頁
︑一 九四 五年 七月 二三 日の 項︒
︵ 19
︶同 右︑ 六四 六~ 六四 八頁
︑八 月一 五日 の項
︒
︵ 20
︶同 右︑ 六五
〇~ 六五 一頁
︑八 月一 七日 の項
︑六 七二
~六 七三 頁︑ 八月 二九 日の 項︒
︵ 21
︶同 右︑ 六五 一~ 六五 三頁
︑八 月一 八日 の項
︒ 22
︵
︶同 右︑ 六五 六~ 六五 八頁
︑八 月二 一日 の項
︑六 七〇
~六 七一 頁︑ 八月 二八 日の 項︒
︵ 23
︶同 右︑ 六七 七~ 六七 九頁
︑九 月二 日の 項︑ 六九 六~ 六九 七頁
︑九 月一 三日 の項
︒
︵ 24
︶同 右︑ 六五 九~ 六六
〇頁
︑八 月二 二日 の項
︒
︵ 25
︶松 浦正 孝﹁ 財界 人の 戦前 と戦 後の あい だ﹂
︒
︵ 26
︶三 木武 夫﹁ 烈々 たる 気魄 と愛 国心 の持 主 村田 先生
﹂日 本船 主協 会﹃ 故村 田省 蔵先 生を 偲ぶ
﹄同
︑一 九五 七年
︒
︵ 27
︶安 藤俊 裕﹃ 政客 列伝
﹄日 本経 済新 聞出 版社
︑二
〇一 三年
︑二 二四
~二 二七 頁︒
︵ 28
︶フ ィリ ピン との 賠償 交渉 につ いて は︑ 吉川 洋子
﹃日 比賠 償外 交交 渉の 研究
﹄勁 草書 房︑ 一九 九一 年を 参照
︒
︵ 29
︶松 浦正 孝﹁ 財界 人の 戦前 と戦 後の あい だ﹂
︒ 30
二 藤 山 愛 一 郎
︵ 一八 九七~一 九八 五︶
と 選 良 ア ジ ア 主 義
村田省蔵 は︑ 上海
・漢 口・ 重慶 など 揚子 江沿 岸を 中心 とす る中 国の 現地 に深 く入 り込 み︑ 中国 人と 同じ アジ ア人 の一 人と して 現地 に浸 透し よう とし
︑実 業に 立脚 した アジ ア主 義を 一貫 して 基盤 とし た︒ 翻っ て藤 山愛 一郎 のア ジ ア主 義は
︑父 雷太 から 引き 継い だ大 日本 製糖 が工 場を 持っ た大 東島
︑台 湾︑ 満洲
︑ジ ャワ とい った 現地 での 実業 の 経験 に︑ それ ほど 根差 した もの では なか った よう に思 われ る︒ 彼を 特に 強く 突き 動か した もの は︑ 日本 軍部 が引 き 起こ し︑ 自分 を含 めた 財界 が止 める こと ので きな かっ た日 中戦 争に 対す る贖 罪意 識で あっ た︒ 彼の アジ ア主 義の 特 徴は
︑生 まれ なが らの エリ ート
︵選 良︶ とし ての
﹁良 心﹂ を拠 り所 とす るこ とで あり
︑そ の対 象は
︑そ の出 自や 財 界人 とし ての ネッ トワ ーク によ って 結び つい た﹁ アジ ア﹂ であ った
︒彼 は政 治家 とし ては 素人 性を 払拭 する こと が でき ずに 理想 主義 的に 行動 しよ うと した が︑ 党派 性を 持た なか った 村田 と異 なり
︑多 分に 党派 的で あり
︑そ の意 味 にお いて 政治 的で あっ た︒
財界 のプ リン ス よく 知ら れる よう に︑ 藤山 愛一 郎は
︑王 子製 紙専 務藤 山雷 太の 長男 とし て生 まれ た︒ 愛一 郎の 母は
︑三 井財 閥
﹁中 興の 祖﹂ とし て知 られ る中 上川 彦次 郎の 妻か つの 妹み ねで ある
︒こ れだ けで も︑ 非の 打ち どこ ろの ない 財界 の プリ ンス であ った
︒さ らに
︑中 上川 の長 女つ やが 後の 財界 の中 心人 物池 田成 彬の 妻で あっ たた め︑ 池田 は愛 一郎 の 義理 の従 兄弟 とし てそ の良 き理 解者 とな る︒ 雷太 は中 上川 の死 後三 井銀 行を 退社 し︑ かつ て自 らが 王子 製紙 社長 の 座を 追っ た渋 沢栄 一の 推挙 で︑ 一九
〇九
︵明 治四 二︶ 年に 倒産 寸前 の大 日本 製糖 の社 長を 引き 受け た︒ そし て︑ 台 湾糖 の生 産を 拡大 し南 洋に も進 出す るな どし て見 事に これ を再 建し 大き く成 長さ せ︑ 他の 事業 でも 成功 を収 めた
︒ 一九 一七
︵大 正六
︶年 から 二五 年に かけ て東 京商 業会 議所 会頭
︵同 時に 日本 商業 会議 所連 合会
( )
会長
︶を 務め るな ど︑
31
財界 にお いて も地 位を 築い てい る︒ 愛一 郎は 慶應 義塾 大学 を病 気で 中退 後︑ 最初 から 社長 学を 学ぶ べき だと いう 父の 方針 で︑ 雷太 の私 設秘 書を 兼ね なが ら︑ 二四 年か らカ ーネ ーシ ョン 栽培 会社 の東 京フ ロリ スト
︑日 本金 銭登 録機
︑池 田化 学︵ 塗料 会社
︶︑ 有隣 生 命で 社長 業を 学
( )
んだ
︒一 九三
〇年 に大 日本 製糖 に監 査役 とし て入 社し
︑怪 我を した 雷太 に代 わっ て事 業を 受け 継ぎ
32
始め
︑三 四年 雷太 の引 退と 共に 三六 歳で 大日 本製 糖社 長に 就任
( )
した
︒そ の後 東京 株式 取引 所理 事や 帝国 劇場 取締 役
33
に就 いた 後︑ 三七 年に は台 湾製 糖社 長武 智直 道の 後を 継い で業 界団 体で ある 日本 糖業 連合 会会 長と なり
︑翌 年末 に 雷太 が死 去す る直 前に は東 京商 工会 議所 副会 頭に 就任
︑一 人前 の実 業家 とし て自 信を つけ てい る︒ そし て四 一年 春︑ 彼は 四三 歳で 東京 商工 会議 所︑ 日本 商工 会議 所の 会頭 に推 さ
( )
れた
︒
34
愛一 郎は 二六 年︑ 団琢 磨夫 妻の 媒酌 で︑ 安田 保善 社専 務理 事結 城豊 太郎 の三 女久 子と 結婚 した
︒財 界で 池田 成彬 とコ ンビ を組 むこ とに なる 結城 豊太 郎が 岳父 とな った こと も︑ 愛一 郎の 人生 を左 右す るこ とに なっ た︒ 父雷 太が か つて 仇を なし たも のの 恩で 返さ れて 以後 心服 する よう にな った 渋沢 栄一 もま た︑ 愛一 郎に とっ て尊 敬す る人 物で あ
った
︒ま た︑ 父の 配慮 もあ って
︑岩 下清 周︑ 郷誠 之助
︑馬 越恭 平︑ 大川 平三 郎︑ 根津 嘉一 郎と いっ た錚 々た る財 界 の大 物や 大政 治家 とも
︑愛 一郎 は顔 見知 りと なっ てい
( )
った
︒好 むと 好ま ざる とに 関わ らず
︑藤 山愛 一郎 は︑ 財界 の
35
主流 であ る池 田︱ 結城 ライ ンに 組み 込ま れ︑ 東京 商工 会議 所・ 日本 商工 会議 所会 頭を 継ぎ
︑当 時の 主要 産業 の一 つ であ った 糖業 界を 束ね る指 導者 とし て期 待さ れて いっ たの であ る︒ この よう に生 まれ なが らの 財界 の指 導者 とし て 期待 され てい たの は︑ 藤山 愛一 郎と
︑渋 沢栄 一の 嫡孫 で戦 時中 の日 銀総 裁及 び終 戦後 の大 蔵大 臣を 務め るこ とに な る渋 沢敬 三の みで あっ た︒ こう した 出自 及び 経歴 と︑ 怖い もの 知ら ずで 理想 主義 的な
﹁坊 っち ゃん
﹂育 ちの 性格 と が相 まっ て︑ その 後の 愛一 郎は
︑起 伏に 富ん だ人 生を 送る こと とな る︒ 日中
戦争 と藤 山愛 一郎 満洲 事変 後に 政党 内閣 が崩 壊す ると
︑財 界が 政治 の舞 台に 顔を 出す 機会 も多 くな った
︒さ らに 二・ 二六 事件 後︑ 広田 内閣 に代 わっ て成 立し た林 銑十 郎内 閣に
︑岳 父結 城豊 太郎 は大 蔵大 臣兼 拓務 大臣 とし て入 閣し
︑池 田成 彬日 銀 総裁 と共 に︑ 財界 代表 とし て軍 部に 協力 しつ つこ れを コン トロ ール しよ うと する いわ ゆる
﹁軍 財抱 合﹂ 体制 を体 現 する こと にな った
︒す でに 別の 場所 で明 らか にし たよ うに
︑結 城財 政は 佐藤 尚武 外務 大臣 の和 協外 交を 財政
・経 済 の側 面か ら支 える もの とし て機 能し た︒ そし て︑ 陸軍 出先 が進 めて いた 華北 分離 工作 に歯 止め をか け︑ 中国 統一 を 進め る蒋 介石 政権 との 戦争 を回 避す るた めの 道筋 をつ けよ うと した
︒三 五年 一〇 月に 来日 した 中華 民国 赴日 経済 考 察団 への 返礼 とし て︑ 日本 財界 は三 七年 四月 兒玉 謙次 横浜 正金 銀行 頭取 を団 長と する 兒玉 訪中 団を 組織 した
︒訪 中 団は
︑砂 糖・ 紡績 など をめ ぐる 密貿 易や 経済 摩擦 の問 題を 解決 する ため の日 中間 協議 を行 うと 共に
︑両 国の 実業 家 が経 済・ 文化 の側 面か ら両 国軍 部の 衝突 を阻 止す るた めの ホッ トラ イン 開設 など で中 国側 と合 意し たの であ る︒ 兒玉 訪中 団の もう 一つ の重 要な 役割 は︑ 結城 豊太 郎蔵 相か ら孔 祥熙 行政 院副 院長 及び 王寵 恵外 交部 長に 宛て た︑
経済 提携 論に よる 日中 関係 打開 のメ ッセ ージ を伝 える こと であ った
︒結 城の 女婿 であ り使 節団 最年 少の 藤山 愛一 郎 大日 本製 糖社 長が
︑孔 祥熙
︑王 寵恵 と個 別に 会っ た︒ そし て︑ 大蔵 省を 中心 とす る日 本政 府は
︑中 国政 府と の暗 黙 の了 解を 前提 とす る日 中経 済提 携に よっ て︑ 陸軍 出先
︵天 津軍 及び 関東 軍︶ の少 壮軍 人を 徐々 に統 制し
︑日 中衝 突 の危 機を 打開 しよ うと して いる とい う秘 密の メッ セー ジを 伝
( )
えた
︒
36
さら に愛 一郎 は︑ 父藤 山雷 太と 蒋介 石と の友 諠を 以て
︑使 節団 でた だ一 人蒋 介石 との 面会 に招 き入 れら れ︑ 意見 を交 換し た︒ その 後持 たれ た使 節団 一行 との 茶会 で蒋 介石 は︑
﹁あ なた 方日 本の 実業 家に 申し 上げ たい 事は
︑あ な た方 日本 の実 業家 の尊 敬す る大 先輩 であ つた 渋沢 子爵 は︑ 論語 の信 奉者 であ られ るが 其の 論語 の中 に﹃ 自ら の欲 せ ざる こと を他 人に 強い ては なら ない
﹄と 言う 言葉 があ る︒ あな た方 日本 の実 業家 はど うか あな た方 の尊 敬す る渋 沢 子爵 の信 奉す る論 語の この 意味 を充 分理 解し て貰 いた い﹂ と述 べた とい う︒ この 三か 月後 に盧 溝橋 事件 が起 きた
︒ 愛一 郎は
︑戦 争を 回避 でき なか った 無力 さを
︑そ の後 もず っと 恥ず かし く思 って いた と戦 後に 述べ て
( )
いる
︒
37
日中 戦争 が始 まる と︑ 藤山 は中 国に おけ る事 業に 関心 を持 つよ うに なっ た︒ 藤山 は陸 軍の 中で は︑ 満洲 関係 の関 東軍 と別 系統 の旧 支那 班の
﹁支 那を いじ めな いで やっ てか なき ゃい けな いん だ﹂ とい う影 佐偵 昭ら と付 き合 いが あ った とい う︒ 影佐 には
︑汪 兆銘 工作 でハ ノイ に亡 命し た汪 を迎 えに 行く ため 自分 を大 日本 製糖 の社 員と いう こと に して 欲し いと 頼ま れ︑ 協力 した こと が
( )
ある
︒こ の縁 もあ って
︑汪 兆銘 政権 ので きた 三九 年に
︑華 人資 本の 呼び かけ
38
で華 人と 合弁 を組 み︑ 蘇州 に恒 豊麺 粉︑ 香港 に貿 易や 造船 を業 務と する 福大 公司 とい う現 地法 人を 作り
︑藤 山は 社 長と なっ た︒ その 後両 社と も利 益を 上げ るよ うに なり
︑藤 山は しば しば ビジ ネス で中 国に 渡る こと にな
( )
った
︒第 一
39
次近 衛内 閣で は有 馬頼 寧農 相か ら近 衛新 党へ の参 加を 求め られ たが
︑大 日本 製糖 を始 めと する 事業 に追 われ る藤 山 は︑
﹁と ても 政治 にた ずさ わる 余裕 はな い︒ 考え てお きま しょ う﹂ と多 忙を 理由 に断 って
( )
いる
︒
40