石 川 伍 一 日 記 を 読 む ︵ 一 ︶
大 里 浩 秋 は じ
め に
︱ 山 口 さ ん の 退 職 を お 祝 い す る
本号 は山 口建 治教 授の 退職 を記 念す る特 集を 組む との こと で︑ すで に退 職し てい る私 にも お声 がか かっ た︒ あ りが たい こと であ る︒ 山口
さん は︑ 鈴木 陽一 さん と共 に︑ 中国 語学 科創 設を 準備 し︑ 私を 創設 一年 前か ら神 奈川 大学 に呼 んで くだ さっ た恩 人で ある
︒私 の方 が年 だけ は上 だが
︑就 任以 来ず っと
︑大 学の 諸事 情を 理解 しつ つ学 科を どう 運営 すべ きか をい ち早 く考 えて いる
︑頼 りに なる 先輩 であ った
︒こ こで は︑ 印象 に残 って いる こと の三 つに 触れ て︑ 山口 さん への 感謝 の言 葉に 代え たい
︒ 一つ は︑ 神奈 川大 に来 たば かり の頃
︑白 楽駅 周辺 の簡 単な 構え の複 数の 飲み 屋に 何度 も誘 って くれ て︑ 杯を 重
ねな がら
︑駆 け出 しの 私を 学校 の雰 囲気 にな じま せよ うと あれ これ 話を して くれ たこ とで ある
︒そ の後 も二 人で
︑ ある いは 学科 の同 僚と 一緒 の席 で何 度も 飲ん だけ れど も︑ 最初 の頃 の︵ 今で も変 わら ない が︶ ぶっ きら ぼう なが らや さし い山 口さ んと の出 会い は貴 重な 思い 出で ある
︒ 二つ には
︑学 内共 同研 究助 成を 受け て戦 前中 国に 置か れた 日本 租界 に関 する 資料 の有 無と 現地 の今 がど うな っ てい るか を調 査す るチ ーム に山 口さ んを 無理 やり 誘っ て︑ 二〇
〇〇 年に 中国 に出 かけ た時 の失 敗談 であ る︒ 南京 第二 歴史 檔案 館に 行っ て資 料を 見︑ 蘇州 では 当時 蘇州 大学 にい た厳 明さ んの 協力 を得 て日 本租 界の 迹を たど った とこ ろま では よか った のだ が︑ 蘇州 から 上海 に戻 った 翌日 には 帰国 とい う時 に︑ 孫安 石さ んと 私の 数時 間後 に一 人で 上海 に戻 って きた 山口 さん のリ コン ファ ーム が遅 れて キャ ンセ ル待 ちを する しか ない 状況 に陥 った
︒翌 朝早 くに 飛行 場に 駆け 付け たも のの チケ ット を手 に入 れる には 至ら ず︑ 結局 私と 孫さ んは 予定 の飛 行機 に乗 り︑ 山口 さん は一 日遅 れの チケ ット を買 って 帰国 する 羽目 にな った ので ある
︒先 に日 本に 戻っ た二 人は
︑ど うし て山 口さ んの 分の リコ ンフ ァー ムを 一緒 にし なか った か反 省す るこ とし きり
︑あ とに 残さ れた 山口 さん は腹 立た しか った に違 いな いが それ を表 に出 すこ とは なく
︑ま もな く蘇 州調 査の 報告 書を 提出 して くれ た︒ 歴史 が専 門で ない から と躊 躇し てい た山 口さ んだ が︑ 力作 をも のし てく れた のに 感心 した
︵山 口建 治﹁ 蘇州 日本 租界 と片 倉製 糸﹂
︑﹃ 人 文研 究﹄
№一 四九
︶︒ 三つ には
︑い つの こと と限 定す るこ とで はな く︑ 学科 の主 催で
︑あ るい は人 文学 研究 所の 日中 関係 史研 究会 が 開い たシ ンポ ジウ ムや 講演 会や 映画 会に
︑さ らに は非 文字 資料 研究 セン ター の研 究会 など に積 極的 に参 加し て︑ 質問 や意 見を 出し てく れた こと であ る︒ 大学 は社 会に 開か れた 窓の 役割 を果 たす べき だと 言わ れて 久し いな がら
︑
相変 わら ず自 分の 研究 に閉 じこ もる 傾向 が強 い現 状に あっ て︑ 自分 たち の研 究成 果や 関心 のあ りか をわ かり やす く学 生や 市民 に伝 えた いと して 私な ども 及ば ずな がら 努め てき て︑ それ が今 や﹁ 社会 貢献
﹂の 名で 各種 取り 組ま れる よう にな って いる のは うれ しい こと で︑ 山口 さん がそ うし た動 きの 理解 者と して 協力 して くれ たこ とを あり がた いと 感じ てき た︒ 山口 さん
︑こ れか らも 自分 の信 じる 研究 の道 を 固に 進ん でく ださ い︒ 以下
には
︑山 口さ んが 私の 退職 記念 号︵
﹃人 文研 究﹄
№一 八五
︶に 論文 を発 表し てく れた お返 しの つも りで
︑ これ まで 長く 関心 を抱 きな がら 十分 には 進め てこ なか った 石川 伍一 に関 する 研究 を今 後深 めて いく 手が かり とし て︑ 彼の 日記 を紹 介さ せて いた だき たい と思 う︒
一 ︑ 石 川 伍 一 と 彼 の 資 料 に つ い て
石川 伍一
︵一 八六 六~ 一八 九四
︶は
︑二 十九 年の 生涯 のう しろ 十年 をほ ぼ中 国大 陸で すご して
︑そ のう ち最 初 の二 年は 生活 基盤 を作 るこ とに 苦闘 し︑ その 後は 荒尾 精が 主宰 する 漢口 楽善 堂の 活動 に参 加し て各 地の 地勢 調査 に従 事︑ さら にそ の後 は海 軍の 軍事 情報 収集 に動 員さ れ︑ 日清 戦争 勃発 時海 軍の 指示 で留 まっ てい た天 津で 逮 捕・ 処刑 され た人 物で ある
︒世 にい う﹁ 大陸 浪人
﹂の はし りの 一人 とも いう べき 石川 伍一
︵以 下は 伍一 とす る︶ は︑ 私の 郷里 秋田 県鹿 角市 十和 田毛 馬内
︵当 時は
︑鹿 角郡 毛馬 内村
︶で 生ま れた こと から
︑同 郷で 同年 生ま れの
東洋 史学 者内 藤湖 南と 並ん で︑ 私に とっ ては 子供 の頃 から 馴染 みの 人で あり
︑い つか はこ の人 のこ とを 詳し く調 べて みた いと 思っ てい た︒ そし て︑ 長い 時間 を経 て一 九九 八年 にな って
︑﹁ 石川 伍一 のこ と﹂ と題 する 小文 を本 誌に 発表 した
︵﹃ 人文 研 究﹄ 第一 三五 集︶
︒そ の時 に頼 りに した のは
︑主 には 伍一 の弟 漣平 がま とめ た﹃ 東亜 の先 覚石 川伍 一と その 遺稿
﹄
︵人 文閣
︑昭 和十 八年
︶で ある が︑ 小文 を出 した 翌年 漣平 の子 息悌 男氏 夫人 和子 さん にお 目に かか る機 会に 恵ま れ︑ お宅 に保 存さ れて いた 伍一 の自 筆資 料︵ 日記 や︑ 論文
・手 紙の 草稿 など
︶を 含む 関連 資料 を見 せて いた だき
︑ 二〇
〇一 年に はそ れら を鹿 角市 先人 顕彰 館に 寄贈 して いた だく こと にな った
︒こ うし て︑ 上記 漣平 著で 一部 引用 され てい る伍 一の 原文 を含 む多 量の 関連 資料 に目 を触 れる 機会 を得 るこ とに なり
︑さ らに
︑少 しず つで ある が︑ 中国 側で 発行 して いる 複数 の資 料集 の中 にも 伍一 に関 する 資料 があ るこ とを 知っ た︒ さて
︑上 述の 小文 を書 いて から もか なり の時 間が 経っ て︑ 今を 置い て伍 一の こと に取 り組 む時 間は ない と感 じ るに 至っ た︒ そこ で︑ しば し本 誌を 借り て伍 一関 連資 料を 紹介 しつ つ︑ これ まで の伍 一理 解の 補充 を試 みる こと にし たい
︒そ の手 始め は︑ 伍一 が中 国に 渡っ た年
︵明 治十 八年
・一 八八 五年
︶か ら翌 年に かけ て綴 った 日記 を解 読し て︑ それ に解 題を 付す こと であ る︒ 今回 はそ の︵ 一︶ とし て明 治十 八年 七月 から 十月 まで の分 の解 読文 を載 せ︑ 以後
︑︵ 二︶ と︵ 三︶ と続 け︑
︵四
︶に 解題 をま とめ て載 せる つも りで ある
︒解 読文 は︑ 原文 中の カタ カナ は ひら がな にし
︑人 名を 除く 漢字 の旧 字体 は新 字体 に改 め︑ 適宜 句読 点を 付し てい る︒ また
︑︹
︺に よっ て文 字 の不 足を 補っ たと ころ があ り︑ 解読 でき なか った 文字 は□ で示 した
︒ なお
︑解 読に 際し て︑ 常民 文化 研究 所田 上繁 教授 に援 助し てい ただ いた
︒
日記が書き込まれた黒い薄皮風の手帖、留め金付き、横13.6センチ、縦8.6センチ、
厚さ1.5センチ
日記の1ページ、明治十八年八月二十八日の日記 2枚とも、鹿角市先人顕彰館・石井加奈子さんに撮影をお願いした
二 ︑ 明 治 十 八 年 七 月 か ら 十 月 の 日 記
七月 二十 二日 水曜 曾根 君依 托の 用件 に依 り︑ 将に 上海
︑長 崎等 の地 に赴 かん とす
︒今 夕七 時頃 同昌 の寓 を発 す︒ 招商 局碼 頭よ り夾 船に 乗し 海晏 に上 る︒ 海晏 は天 津上 海間 航海 船の 中大 にし て佳
︑且 つ快 なる もの なり
︒ 舟中 に寝
︒ 七月 二十 三日 暁起 来出 てゝ 見る に︑ 昨夜 泊せ し所 と異 なれ り︒ 蓋し 寤寝 中此 に至 るな り︒ 之を 問ふ に果 して 深 夜発 して 此に 到る と︒ 留ま る十 数刻 下午 五六 頃発 す︒ 満潮 なり
︒朦 朧模 糊の 裡に 太沽 の村 落と 砲台 とを 望み
︑ 渤海 に出 つ︒ 七月 二十 四日 晝猴 山島 に至 る︒ 此辺 無数 の小 島あ り︒ 近く 一島 上燈 台を 認む
︒蓋 し先 に過 きし 時見 し所 の者 な り︒ 五時 頃煙 台に 着す
︒上 陸上 埜氏 に面 し書 状及 ひ東 大人 依頼 の物 件を 届け
︑佐 野及 森︑ 白須 三君 に会 し書 状 を達 し︑ 及ひ 談話 少刻 出て 上船 す︒ 白須 君送 り至 る途 に松 延領 事に 遭ふ
︒江 口氏 之事 を聞 くに 長崎 にて 面会 し たる 由︒ 湾内 に留 まる 一時 間許 にし て発 す︒ 支那 軍艦 五 碇泊 し居 れり
︒ 七月 二十 五日 海天 茫々
︑記 すへ きな し︒ 七月 二十 六日 八時 頃陸 を見 る︒ 十時 過呉 淞砲 台前 を過 き︑ 申江 をU る途 に日 本郵 便船 に遭 ふ︒ 十二 時頃 上海 に 達す
︒直 に崑 山路 に至 り大 浦氏 に面 し︑ 磺硫
︹マ マ︺ 及ひ 其他 電信
︑陶 器︑ 茶等 の事 を談 す︒ 同氏 右縷 々遅 延 を弁 し︑ 曰く 今日 已に 送れ りと
︒同 氏直 に長 崎行 を決 し予 か行 を止 む︒ 依り て予 か托 せら れし 事を 同氏 に托 せ
り︒ 七月 二十 七日 天津 に向 て書 状を 海晏 に托 す︒ 四時 頃︵ 盤城 艦此 日十 一時 長崎 に向 て出 帆す
︒因 て長 崎於 栄様 の 書状 を吉 井氏 に托 せり
︒夕 暮吟 香氏 之宅 に到 り書 状を 渡し 寝台 之事 を問 ふ︒ 同氏 引受 けさ るに 非ず
︑買 人あ ら ば売 るへ し︑ なけ れば 引取 るへ しと の事 なり
︒同 氏松 桃衣 服店 の事 を言 ふ︒ 領事 館佐 藤氏 に書 状を 達し 委細 を 頼む
︒ 七月 二十 八日 領事 館に 届を なし
︑芝 罘よ り依 頼さ れた る書 籍を 呉氏 に送 致す
︒松 尾へ 掛合 ひ置 きた り︒ 此又 呉 氏に 面会 し︑ 衣服 店の 事を 言ふ
︒吟 香氏 に到 り衣 服店 の方 一時 立替 の事 を托 願せ り︒ 海晏
号由 天津 招商 六十 七時 にし て上 海に 達す
︒乃 ち二 晝夜 と十 九時 間な り︒ 河中 に碇 泊せ しは 十二 時余 なり
︒ 太沽 号天 津由 怡和 八十 二時 にし て天 津に 達す
︒乃 ち三 晝夜 と十 時な り︒ 河中 に碇 泊せ しは 二十 四時 なり
︒ 在申
江記 事 始め
︵七 月二 十二 日︶ 予の 天津 を発 する や︑ 在 一旬 崎陽 周日 事当 さに 整ひ
︑来 復一 月を 費さ ゞる の算 なり き︒ 而る に人 事紛 擾常 に支 吾︑ 人生 万事 不如 意︑ 此際 に鞠 躬意 を尽 せど も︑ 更に 其殊 功も 見へ す︒ 人に 托し たる 事は 角 其の 痛痒 相関 せさ る故 に︑ 尽力 怠慢 勝に て一 日三 度其 門に 至て 未た 成ら さる こと もあ り︑ 実に 腹立 たゝ しき こと 可笑 しき こと 憂き こと もあ り︒ 又世 界は 常に 活動 変遷 する と同 しく 人事 も移 易し て︑ 今日 の事 は昨 日の 事と 異な り︑ 予定 予想 之外 に出 るこ と多 し︒ 左れ は︑ 予か 長崎 に行 かさ るも 永く 上海 に滞 在せ しも
︑左 程異 しむ へき
にあ らす
︒七 月の 二十 六日 に上 海に 着し 大浦 氏に 用事 乃来 の 由を 話す
︒同 氏曰 く︑ 我帰 らす んば 此事 決し て弁 せず
︑我 帰ら ん︑ 君の 長崎 の用 事我 代り 尽く 弁し 来る へし
︒是 に於 て遂 に長 崎に 行か ぬこ とと なり ぬ︒ 其後 聞け は家 君も 東君 も未 た在 崎な りと かや
︑左 らば 前き に行 きし なら は︑ 尊顔 をも 拝し 高諭 をも 聴く こと を得 へか りし に︑ 惜し きこ とし たり
︒上 海在 留は 三十 四日 間な り︒ 熱す る時 は午 時九 十四 五度 に上 り︑ 涼し きは 八十 五六 度に 下る もあ り︒ 左り 乍ら 常に 風通 しも 能く 家屋 の建 築も 善か しか
︑至 て凌 きよ かり し︒ 晝前 後十 時よ り四 時 外出 不出 来︑ 漸く 朝夕 奔走 を為 す余 地を 与ふ るの み︒ 尚ほ 流汗 常に 衣を 湿ふ す︒ 公園 は常 に涼 風あ り︑ 日の 暑を 洗ふ へし
︒明 月は 高く 清空 に懸 り︑ 玲瓏 水清 から ずと 雖も 河あ り左 右よ り来 り前 に合 し淼 渺大 湖の 如く
︑園 趣画 し得 て妙 なり
︒草 花の 珍美 なる 者極 めて 多し
︒音 楽も あり
︑貴 紳令 嬢馬 車を 馳せ 車を 飛は せ椅 子を 持ち 来り 満場 隙地 なき に至 る︒ 此三 十四 日之 内十 日は 天津 の回 報を 待ち
︑七 日は 競売 の方 に待 ち︑ 其外 種々 待ち たる こと あり
︒真 に事 をな した るは 十日 位な るへ し︒ 此間 に高 橋︑ 尾本 の両 友は 帰り
︑東 洋学 館は 閉校 し︑ 牟田 は金 子に 寄客 と為 り︑ 長野 は帰 郷︑ 外諸 生離 散︑ 寺 田君 黒田 参議 に従 て宜 昌に 赴く 二旬 にし て帰 る︒ 日本 軍艦 清輝 来る
︒金 田一 氏に 会ふ を得 たり
︒黄 口に 虎列 剌に て死 した る日 人二 三人 あり たり
︒畠 山よ り手 紙あ り大 学校 に入 たり との こと 外種 々の 論︑ 天津 より 家君 の信 を送 来︑ 東大 人手 紙之 事に 付き 云々 此弁 解致 し︑ 安保 のこ と外 云々
︒牟 田君 より 返信 此又 天津 より
︒東 京舎 弟に 砲の 事の 調を 頼み
︑畠 山及 片岸 大兄 に信 を送 る︒ 郷里 母君 及安 保に 送信
︒ 宗方 より 詩を 贈る
︒ 欧米 回覧 日記 一冊 を借 り見 る︒ 記事 詳細 明瞭
︑自 ら其 地を 履む か如 し︒ 世益 の書 なり
︒
回津 記 八月 二十 八日 晴 此日 漸く 用事 を終 ゆる を以 て︑ 明払 暁出 帆の 太沽 号に て煙 台︑ 天津 に赴 くこ とに 決し たり
︒是 より 先き 領事 館 呉氏 より 東京 の泥 工北 京に 行く へき 者三 人を 同伴 致︹ し︺ 呉よ との 依頼 あり しを 以て
︑八 時過 上船 すへ き約 束に て領 事館 に至 りし に︑ 呉氏 の子 太五 氏両 三日 前に 着し
︑官 より 同氏 に泥 工を 同道 世話 する こと を命 しあ る由 なり
︒ 大に 都合 も好 く︑ 我は 前に 船に 上れ り︒ 碼頭 不分 明に して 行き つ戻 りつ 走っ ては 荷物 を顧 み︑ 又還 り又 走り 急き て鉄 綱に 蹶き
︑漸 く之 を遠 く黄 口の 端に 見出 した り︒ 時に 汗は 流れ 身体 は疲 れ復 た歩 すへ から す︒ 強て 車に 上り 北京 路に 至り
︑帰 り崑 山路 に寄 り永 く厚 情を 受け しを 謝し
︑船 に還 る時 に呉 氏及 ひ工 人は 上船 中な り︒ 一応 の挨 拶を 述べ 寝に 就く
︒ 八月 二十 九日 此暁 四時 出帆 せり
︒ 此度 は呉 氏と 同伴 にて 好き 話相 手な れは 終日 室内 にて 談話 し︑ 又た 出て 外を 窺は す︒ 此夜 は余 程風 波荒 く︑ 船 揺動 し嘔 吐を 催す 人も あり たる 由︒ 八月 三十 日 記す へき こと なし
︒ 八月 三十 一日 晴 前九 時半 頃煙 台着
︒直 に呉 氏と 領事 館に 至る
︒白 須君 と談 話︑ 上埜 君︑ 花坂 君に も面 す︒ 気候 温和 山水 明媚
︑
実に 羨し かり き︒ 十一 時半 帰船
︑十 二時 頃出 帆︒ 仏軍 艦八 余 碇泊 し居 れり
︒ 九月 一日 雨︑ 曇 前日 より 風波 起り 沖に 碇泊 する 能は す︑ 進て 河口 内に 泊す
︒前 八時 頃な り荷 を移 す︑ 茶︑ 砂糖 なり
︒后 四五 時 頃開 行︑ Uる 少許 浅瀬 に上 け泊 す︒ 九月 二日 晴 前六 七時 頃進 行︑ 此日 は晝 に は天 津に 着す へし とて 皆々 勇み 立ち 朝飯 をも 食は す︒ 船は 両三 度も 浅瀬 に上 け︑ 且つ 天津 より 下流 壱二 里︵ 日本 里︶ の所 に泊 す︒ 殆と 一時 過な りし
︑夾 船を 雇ひ Uる
︒船 行漫 中に して 引き 走る
︒ 天津 客舎
︵紫 竹林 同昌
︶に 着し たる は四 五時 なり き︒ 此日 は朝 より 気分 悪頭 重身 熱出 て事 を為 すに 懶し
︑且 食事 不充 分な るか 故力 出て す︒ 客舎 に着 し︑ 曾根 君に 面し 諸方 より 書状 を呈 し︑ 飯を 食ひ 寝に 就き
︑熱 の為 に寝 る能 はす
︒此 度の 航海 は総 て百 六時 乃ち 四晝 夜と 十時
︑太 沽碇 泊を 除き 八十 二時 間乃 ち三 晝夜 と十 時間
︑慢 甚し
︒重 慶︑ 新南 陛に 追付 れた り︒ 九月 三日 晴 此日 決算 を追 覧に 供し
︑荷 物を 夫々 方付 け︑ 曾根 君の 疑問 等に 答へ
︑気 分不 常早 く就 寝︑ 食す る能 はす
︒佐 々 木君 訪問 菓子 を投 恵す
︒ 九月 四日 晴 此日 は一 日臥 床飯 を食 ふ能 はす
︒何 事も 成す なく
︑碌 々床 上に あり
︒晩 佐々 木君 訪問 キナ エン 薬を 貰い 飲み た り︒ 前に 曾根 君よ り下 痢薬 を戴 き両 三度 服し たり
︒時 々大 便あ り︒
九月 五日 晴 此日 より 咳嗽 し熱 気は 散し たる 様子 に食 気も 進み たれ は︑ 晩上 領事 館 散歩 した り︒ 遠隔 なる 故苦 しか りし
︒ 帰に は車 に上 れり
︒ 九月 六日 晴 夜洗 澡に 行し に大 に心 地清 々し て爽 かな りき
︒咳 嗽未 た已 ます
︒ 九月 七日 晴 十時 曾根 君の 友 氏と 共に 医院 に行 き診 察を 請ひ 薬を 取り 帰る
︒此 夜熱 出て 咳嗽 甚し
︑曾 根君 より 戴き たる キナ エン を服 し寝 に就 く︒ 九月 八日 晴 九月 九日 同 別に 変り たる こと なし
︒病 院に 行き 薬を 取り 来る
︒此 夜領 事館 に散 歩す
︒前 日の 如く 苦し から す︒ 九月 十四 日 晴 北京 より 前田 氏︑ 鳳文 館来 津︑ 与に 天津 城を 見る
︒大 官の 葬式 あり たり
︒此 夜新 南陛 にて 上海 に帰 る︒ 家君 よ り信 あり 彼地 の模 様を 知る を得 たり
︒此 頃は 冷気 大に 増し 朝夕 は夏 衣に ては 寒し
︒ 九月 十六 日 晴︑ 冷 是よ り先 き予 か回 教徒 とな らん と欲 せし や同 教劉 氏に 托し たる に︑ 此 日本 人回 教徒 とな りた る例 なし
︑因 て 議員 集会 にて 之を 決し 報す へし との 事な り︒ 事の 決す る一 ケ月 内に ある へし と︒ 予其 の因 循日 を費 すを 悲む
︒
九月 十九 日︹ ある いは
︑﹁ 十七 日﹂ とす べき か︺ 晴 午後 回教 劉氏 一回 友を 伴ひ 来る
︒乃 ち書 を呈 し意 を述 ふ︒ 彼大 いに 嘉焉
︑亜 剌比 亜語 二十 八字 及別 に十 二を 書 し与 えて 去る
︒ 九月 十八 日 晴 法軍 艦ア スヒ
ック
Aspic
に水 師提 督レ スへ ー乗 込外
︑サ キテ ール
Sagittaire
法領 事館 前に 泊す
︒此 日白 須君 家 君の 処に 送信
︑此 より 先き 温 より 来信 大に 冤を 陳ふ
︒曾 根君 の旨 を以 て之 を慰 めや れり
︒家 君に 返信 す︒ 九月 二十 日 晴 日 八月 十二 日 此日 午後 同寓 預︹ 豫︺ 君と 天津 北門 外に 遊ふ
︒繁 華雑 踏大 厦巨 家比 軒︑ 大に 城内 と看 を異 にす
︒蓋 し天 津の 銀 座街 なら ん︑ 古着 店︑ 洋物 店︑ 皮衣 裳︑ 皮舗 等目 立ち て見 へし
︒上 海牟 田氏 より 回信 あり たり
︒ 九月 二十 二日 晴 火 八月 十四 日 此日 亦施 医院 に行 く︒ 四五 日前 より 耳朶 裡朦 々朧 々た るを 以て 薬を 請ふ
︒医 乃ち 耳辺 に膏 薬を 貼せ り︒ 其後 腫 れ爛 れた る様
︒咳 嗽未 た全 快せ ず︒ 諸病 身を 犯す
︑心 の弱 りた るに 有ら ねど も身 の閑 に乗 した るも のに や︒ 牟田 氏に 書を 送る 内に
︑大 浦氏 への 送信 あり
︒曾 根君 の用
︑榎 本公 使出 発す
︒公 使は 十六 七日 頃に 来津 あり 帰国 との こと
︒何 の為 めか 呉欽 差か 来訪 し︑ 李中 堂の 宴に も赴 きし と︒ 九月 二十 三日 快晴 水 八月 十五 日 Á日 は八 月十 五夜 に当 れは
︑早 朝店 内に 於て 燈を 点し 種々 の供 物あ り︒ 午後 満身 粟を 生し 寒気 催し たれ は夜 具 引か つぎ 温め たり しに
︑発 熱し 身体 揺々 不舒 服な りし
︒晩 方に 至り 大に 好し
︑店 主の 夕 の 応あ り︑ 満腹 運動
に出 つ︒ 此夜 朦朧 陰繄
︑十 五夜 の好 景を 欠き たり
︒惜 しむ へし
︒深 更に 及て 明月 高く 照し 心身 爽快 なり き︒ 九月 二十 五日 晴 金 八月 十七 日 病気 全く 癒へ たる を以 て医 院に 行き 之を 謝し 薬価 を問 ひし に︑ 医曰
︑此 医院 李鴻 章及 ひ大 官の 人々 の捐 金に 成 り貧 者に 施す もの なれ ば銭 を要 せず との こと 也︒ 若し 強て 銭を 出さ んと なら は之 を貧 者に 施す べし とて 捐金 簿を 出し 見せ たり
︒ 九月 二十 六日 晴 土 八月 十八 日 Á日 早朝 李鴻 章船 にて 上京 した る趣 なり
︒曾 根君 に従 て天 津に 赴く
︒伍 廷芳 を訪 ふ︒ 又種 々東 西を 買ひ たり
︒ 帰路 三義 砲台
︑仏 耶蘇 教堂 を車 上よ り望 む︒ 九月 二十 八日 晴 月 八月 二十 日 早朝 大院 君鎮 遠号 にて 帰国
︑袁 世凱 従焉
︑外 数名 米人 亦随 焉︒ 九月 二十 九日 晴 火 八月 二十 一日 此日 牟田 君に 送信
︑内 宗像 君に 送る 書を 含む
︒木 炭の こと に付 丸屋 の端 書を 添ふ
︒東 京畠 山君 に送 信︑ 上海 に 在り
︹し
︺時 来信 あり
︑此 即返 信︒ 九月 三十 日 朝曇
︑午 烈雨
︑夕 晴 水 八月 二十 二日 此日 朝下 痢甚 し︑ 臥床 暖を 取る
︒漸 くに して 治す
︒晩 佐々 木氏 より 書を 送れ り︑ 氏も 亦劇 痢な りと
︒因 り之 を 訪ふ
︒
九月 中記 事 此一 ケ月 は︑ 身体 不快 薬を 飲む 二十 日許
︑臥 床四 五日
︑或 は下 痢或
︹は
︺頭 痛︑ 心身 爽快 なる こと なく
︑事 を 為す に懶 し︒ 独り 一小 室に 起臥 し︑ 看る 所は 語学 の書 及四 書に 過き す︒ 夕暮 常に 遊歩 佐々 木氏 の処 に至 り︑ 故郷 の事 を談 し又 は世 上の 事を 話し éに 客心 を慰 むる 耳︒ 始め 予の 上海 を発 する や︑ 着津 直に 回教 寺に 行く を得 んと
︒ 不幸 病に 罹り 且つ 彼れ 未た 外人 を入 るゝ 例な し︑ 会議 に付 し可 否を 報せ んと
︒其 後遷 延之 を待 つ一 日千 秋の 思ひ 有り し︑ 未た 以て 報を 得す
︒此 一月 を空 く瞬 間に 費し たり
︒而 して 曾根 君の 恩恵 を蒙 る尤 も厚 し︒ 予の 上海 に来 りし より 直に 身を 寄せ 今に 至る
︑一 事も 其恩 に浴 せさ るは なし
︒皆 な其 給を 仰ぐ
︒天 津に 来る 身一 銭の 貯へ なし
︒ 君乃 予か 為め に巨 費を 出し 食せ しむ
︒而 して 予か 為め に周 旋至 らざ るな し︒ 誰か 其恩 に感 せさ らん
︒誓 て涓 埃の 報を 効さ ゞる べか らず
︒之 を此 に記 し以 て後 日に 備ふ
︒ 上海 を発 する 時残 暑未 た焼 くか 如く なり しか
︑着 津旬 日を 経大 に涼 快︑ 秋風 蕭々 朝暮 冷涼 夏衣 堪へ す︒ 予か 上海 を発 する に臨 み︑ 友人 宗方 君予 を送 るの 詩あ り︑ 乃ち 左に 録す
︒氏 は熊 本の 人に して 上海 に相 遇し 顧 蓋の 思あ り︒ 人と 為り 慷慨 有古 烈士 之風 持心 忠誠
︑蓋 亦有 志之 士︒ 送石 川君 伍一 之天 津 羈客 従来 忙送 迎︒ 今日 別君 君何 之︒ 長風 一帆 万重 浪︒ 撚 悠然 捨我 馳︒ 男児 衆散 如萍 跡︒ 会者 定離 今何 疑︒ 独怪 人生 窮与 達︒ 君事 鵬遊 予困 羈︒ 如今 畢竟 無用 客︒ 下愚 於今 未暁 痴︒ 自笑 壮志 堅於 鉄︒ 青山 何処 挙我 卮︒ 回首 世事 多変 易︒ 邦家 前途 使人 悲︒ 鷸蚌 所争 魚人 喜︒ 顓 蕭牆 両応 思︒
勧君 及時 須研 励︒ 丈夫 報国 豈顧 危︒ 文墨 弄世 士所 恥︒ 只当 釈難 固皇 基︒ 君不 見腥 風9 潮東 溟水
︒ 鯨鰐 吼月 驚辺 陲︒ 鳥々 之歌 君休 唱︒ 却使 憂士 不益 怡︒ 別後 只須 長自 愛︒ 暴馮 危身 君勿 為︒ 他年 春風 花紅 路︒ 匹馬 尋君 話旧 時︒ 十八 年第 八月 念一 於上 海客 舎 東肥 放浪 子 冲天 石川
君伍 一北 奥秋 田之 人也 予之 於君 非有 紙鷁 竹馬 之素 乙酉 卒然 相 于申 浦之 浜一 見如 故旧 頗得 相尽 矣君 為人 忠 実欣 立志 於天 下之 務今 茲乙 酉八 月将 游津 沽予 即賦 七言 古風 十四 韻送 其行 云
放浪 子 宗方 大亮 謹記 十月
一日 晴 木 八月 二十 三日 此日 朝来 下痢 の気 あり
︑臥 床暖 を取 る︒ 劉先 生よ り久 く報 なき を以 て︑ 曾根 君予 を張 先生 に托 し暫 く寄 寓せ ん とす
︒其 後予 張先 生を 訪ひ 其答 を得 んと せし に︑ 張氏 自ら 来り 答ふ べし と此 夜張 氏来 り曾 根君 に謂 て曰 く︑ 暫く 劉氏 の答 を待 つべ し︑ 且つ 日本 人を 寓す る人 言を 免れ す︑ 服装 を変 せざ るべ から す云 々︒ 因て 礼拝 日に 曾根 君と 劉氏 を訪 ひ其 報を 得ん とす
︒ 十月 三日 晴 土 八月 二十 五日
此日 北京 より 岸田 の書 籍を 売る に派 出し たる 牧野 氏及 大工 一人 支那 人来 津︑ 同昌 に投 す︒ 此夜 重慶 に上 る︒ 十月 四日 晴 日 八月 二十 六日 前十 時法 教会 堂に 於て 法人 の説 教あ りと 聞き
︑豫 君と 行き 見る
︒堂 内荘 厳寂 人無 し︒ 之を 問ふ に︑ 已に 完れ り 後三 時来 るべ しと
︒ 此日 曾て 曾根 君と 劉先 生を 訪ふ 筈な れど も︑ 曾根 君頭 不 果行
︑予 文雲 を従 へ馿 に乗 し行 く︒ 生れ てよ り始 め て騎 馿極 て乗 り心 地好 し︒ 劉先 生在 家筆 談数 刻反 復論 弁す るも 不如 意而 帰︒ 筆談 別紙 に写 す︒ 十月 五日 晴︑ 朝曇 月 八月 二十 七日 此日 張氏 の寓 に到 り将 に借 居の 事を 定め んと し︑ 曾根 君に 問ふ
︒君 曰く 信来 れり と︒ 出し 之を 示す
︒即 母堂 の 肯ぜ ざる に因 て置 く能 はず と︒ 予豈 に失 望せ ざら んや
︒氏 始め 与に 同居 換語 せん と謂 ひし を以 て信 して 疑は さる なり
︒其 齟齬 する 亦天 なり
︒因 て曾 根君
︑佐 々木 氏を 呼ひ 共に 謀る
︑領 事に 托し 電報 学堂 に入 らん とす
︒成 否を 期す る能 はず
︒ 佐々 木氏 の銅 至る
︒ 十月 六日 晴 火 八月 二十 八日 午下 豫君 と仏 軍艦 に至 り之 を見 んこ とを 請ふ
︒士 官曰 く任 意散 歩す べし と︒ 艦は ガン ボー トに して 四砲 を備 ふ︒ 中間 二砲 は長 二間 許に して 口径 二十 四サ ンチ メー トル
︹マ マ︺
︑前 後は 長一 間余 にし て口 径十 サン チメ ート ルな りと 云ふ
︒皆 仏式
砲な り︒ 右腹 にホ ーチ ッキ ス銃 の如 き五 連発 の者 を備 へた り︒
銃な りと 云ふ
︒蓋 し水 雷船 を防 く者
︒
十月 七日 晴 水 八月 二十 九日 東京 舎弟 より 返信 達す
︒ 十月 八日 晴 木 八月 三十 日 牟田 君よ り返 信達 す︒ 是よ り先 き電 報学 堂に 入る を謀 らん
︹と
︺せ しも
︑二 三年 の間 束縛 せら れさ るべ から ず︑ 其資 を給 する の道 なし
︒且 つ事 実後 慮あ り下 辺の 同昌 工跟 班に 入ら んと 欲し
︑曾 根君 之を 趙掌 櫃に 謀り しも 行は れず
︒其 意味 を聞 くに
︑朝 鮮事 変以 後官 日人 に注 目す れば
︑之 を寓 する 後日 の禍 を恐 るな りと
︒乃 ち復 た議 し仏 国教 会に 入ら んと す︒ 下痢 三度
︒舎 弟へ の返 信を 曾根 君に 托す
︒東 君へ 送る 信を 包む 書籍 の事 外数 件︒ 十月 九日 晴 金 九月 一日 是よ り先 き嘗 て佐 々木 氏河 東機 器局 に約 売せ し硫 黄十 万斤 着し
︑此 日引 渡し 量重
︹マ マ︺ を る︒ 余行 き助 く 朝よ り暮 に至 る︒ 佐々 木氏 の西 洋料 理の 夕 に預 る︒ 此夕 洗澡 に行 く︒ 満腹
︒ 十月 十日 晴 土 九月 二日 此日 晨よ り下 痢床 に臥 し暖 を取 る︒ 晡に 至て 已ま す︑ 下す こと 十度 薬を 飲む 三度
︑全 く昨 夜満 腹未 た消 化せ ざ るに 冷せ しに 因る なり
︒ 十月 十一 日 晴 日 九月 三日 此日 も不 舒腹
︑臥 床に 至ら す︒ 十月 十三 日 前霄 火 九月 五日 午時 陰埋 天暗
︑将 に雨 らん とし て雨 らす
︒猛 風大 に起 り黄 塵空 を ひ寒 甚し
︒外 出す る能 はず
︒父 君の 書を 拝
す︒ 十月 十五 日 晴 木 九月 七日 此頃 冷気 日に 増し 寒に 堪へ す︒ 先き に曾 根よ り亜 細亜 協会 報告 を托 され
︑商 況取 調に 付二 三日 忙し かり し︒ 不 案内 故不 便な りき
︒家 君に 書を 送る
︒ 十月 十六 日 金 九月 八日 此日 午下 曾根 君予 か為 に衣 服を 買は んと 天津 に至 る︒ 馬褂 子︑ 褌子 及長 衣を 買ふ
︒ 十月 十七 日 土 九月 九日 此日 張先 生至 り天 主教 師に 告け たる を以 て︑ 明後 月曜 共に 行き 神父 に面 会し 請ふ べし
︑之 を諾 す︒ 十月 十八 日 日 九月 十日 此日 辮子 鞋襪 等を 買︹ ひ︺
︑剃 頭換 衣中 国人 と為 る︒ 店人 皆笑 て能 く像 似す るを 称す
︒曾 根君 の恵 なり
︒ 十月 十九 日 月 九月 十一 日 此日 午前 張氏 と約 ある を以 て張 氏の 宅に 至る
︒張 氏の 家族 見て 語の 通せ ざる を以 て南 辺人 と為 し︑ 氏至 るに 及 ひ遂 に大 笑し たり
︒曾 根君 張氏 と同 伴天 主教 会に 至り
︑支 那人 に面 し神 父に 見る を求 む︑ 神父 在ら ず︒ 曾根 君先 帰︑ 後を 予筆 記略 其意 を述 ふ︒ 彼れ 其意 を取 るも
︑居 処な し通 学す へし と云 ふ︒ 応接 之間 支那 人に 托し て事 を為 すべ から さる を悟 り直 に□ の神 父に 面し 意を 述べ んと す︒ 然る に語 の通 せざ るに 困し 帰り
︑之 を曾 根氏 に図 る︒ 曾根 氏曰 く︑ 法教 会に 於て 英語 を話 せす
︑聞 く佐 々木 氏神 父を 識れ りと
︑共 に行 き托 すべ しと
︒乃 ち佐 々木 氏に 請ひ 共に 至り 待ち 一会 児に して 面す
︒神 父予 等に 英語 を話 し得 るや と︒ 予等 固よ り英 語を 話す 能は ず支 那語 を以
てす
︒彼 此相 交せ ず︑ 乃ち 前の 支那 人を 呼ひ 余か 書せ し意 を代 陳せ しむ
︒而 るに 彼れ 充分 我意 を述 へず
︒神 父予 に云 ふ︑ 汝国 天主 教あ るへ し︒ 奉せ んと 欲せ は帰 国之 を奉 すへ しと
︒遂 に我 意を 通す る能 はさ るを 察し
︑明 日曾 根君 に請 ふて 同伴 し其 意を 貫か んと し︑ 明一 時を 期し 帰る
︒後 此を 曾根 君に 請ふ に君 諾せ り︒ 其後 亦曰 く︑ 聞く 佐々 木氏 知る 所の 神父 今上 海に 在之 周日 を経 て帰 るべ し︑ 其時 徐ろ に計 るべ しと
︒徒 に蔑 視を 受く る勿 れと
︵前 に予 等行 き神 父を 見し
□蔑 視の 風あ りた るを 以て なり
︶︒ 小田 切氏 父の 病を 以て 北京 より 帰る
︒此 夜船 に上 る︒ 十月 二十 一日 水 陰︑ 午下 少雨
︑夜 明月 皓々 九月 十三 日 天津 輸出 入の 取調 終る
︒二 三日 を費 す︒
︵税 関貿 易表 より 訳出
︶之 を佐 々木 氏に 贈る
︒豫 君と 共に 復天 主教 堂 に至 る︒ 神父 に面 し漸 く少 く解 する を得 るも
︑彼 れ疑 なき 能は ず︒ 故な くし て突 然行 て之 を依 頼す
︑彼 安ぞ 信せ ん︒ 其の 窮し 食を 得ん か為 めに 入教 し︑ 熱心 奉教 する 者に 非ず と考 るは 常情 なり
︒故 に古 語夜 光璧 無因 而到 人按 剣而 立︒ 彼曰 く︑ 当時 教会 内役 員満 ちて 置く べき なし
︑汝 若し 教を 奉せ んと 欲せ ば︑ 暫く 糊口 の道 を求 め来 るべ しと
︒乃 ち帰 る︒ 此夜 佐々 木氏 新南 陛に て上 海に 赴く
︑之 を送 る︒ 閔泳 一英 国に 遊学 する 為め 武昌 にて 上海 に行
︹く
︺︒ 十月 二十 二日 李鴻 章北 京よ り回 る︒ 李鳳 包同 道︒ 十月 二十 五日 日 此日 仏天 主教 堂に 行く
︒経 を念 し楽 を奏 し以 て天 主を 拝し 万福 を祈 るな り︒ 信奉 を厚 くし 彼の 信用 を得 んと す
るに 在り
︒ 十月 二十 七日 火 郷里 安保 父よ り返 簡を 領す
︒曾 て上 海に 在り し時 の書 に答 ふる なり
︒ 十月 三十 日 金 此日 前七 時当 地遊 学生 小林 福之 助氏 熱病 に罹 り死 す︒ 此よ り先 き一 月許 風心 地と て臥 し︑ 熱有 りた る由 なる か 服薬 し快 気に 赴し か︑ 十日 前に 熱甚 しく 後食 も不 為︑ 西人 医に 見せ たれ ども 別に 熱を 治す る薬 なし とか や次 第に 身体 も衰 弱し
︑初 めは 支那 客桟 に在 りし か後 領事 館に 引越
︒領 事初 め親 切に し友 人武 藤氏 は始 より 能看 病し たり しか
︑一 両日 前よ り様 子変 り常 に鬼 の迎 に来 るか 如き 事を 口走 りし とか や︑ 遂に 無敢 黄泉 の客 とな れり
︒氏 年二 十五
︑慶 應義 塾卒 業生 なり
︒誠 に可 惜事 たり し︒ 午前 行き 弔ふ
︒ 十月 二十 九日 此日 より 三十 一日 に迠 る三 日間 競馬 あり
︒此 日は 風甚 たし く行 見を 果さ ず︒ 三十 日午 後二 時頃 より 行見 る︒ 西 南門 外平 闊の 地に 在り
︒ 十月 三十 一日 土 晴 Á日 五時 小林 君の 葬式 あり
︑西 人墓 地に 葬る
︒米 人新 教僧 を乞 ひ念 経す
︒墓 は英 仏連 合兵 撃清 の時 死せ し者 の 墓の 前に 在り
︒ 此十 四五 日頃 佐々 木氏 より 皮衣 服を 恵せ られ
︑馬 褂子 を造 る︒ 費皆 な氏 に出 つ︒ 襦袢 も恵 与せ らる
︒
十月 中記 事 異事 なし
︑只 身を 処す るに 奔走 従事 せり
︒回 教徒 に行 き談 ず不 行︑ 寄寓 を張 氏に 托す 亦齟 齬︒ 同昌 に入 るを 謀 る不 出来
︒仏 教会 に入 らん と欲 し︑ 再ひ 至て 不被 入︒ 豫君 の僕 と為 らん とせ しも 曾根 君不 許︒ 常に 自ら 食ら んと 欲し 種々 考思
︑書 を読 むも 心此 に在 らざ れば 記憶 せず
︒自 ら戒 め︑ 志士 時に 随ひ 優に 余裕 ある べし と思 ひ直 せど も︑ 独立 独行 刻苦 の念 盛ん に誠 に猥 らに 徒に 人の 恩を 貪ら さら んと せる なり
︒時 に前 途を 考へ 又其 周遊 の法 を思 ふ︒ 時と して は意 故山 に在 り︑ 常に 家君 の伸 業を 祈れ り︒ 此月 の著 事は 乃ち 予か 剃頭 換衣 支那 装に 改め たる こと なり
︒此 乃ち 予か 清国 に従 事す るの 始門 なり
︒教 師を 請 する を得 ざる を以 て張 は云
︑孝 行な る同 昌の 跟班 あり
︒之 と話 すれ ども 彼れ 字を 解せ ざる 故不 便な り︒ 支那 装都 て曾 根君 の賜 なり
︒