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シーリー夫人とジェイムズ兄弟の血縁関係 : 系譜 の詳細と"いとこ"同士の交流

著者 礒 英夫

雑誌名 新島研究

号 108

ページ 89‑109

発行年 2017‑02‑28

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2018.0000000218

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―系譜の詳細と いとこ 同士の交流―

礒 英 夫

Ⅰ.はじめに

日本では現在、夫婦別姓の可否が様々な視点から議論されている。ここで その賛否を論ずる余裕はないが、英文で書かれた書簡や系譜などで当然のよ うに使われるMrs. のついた呼称には注意してかかる必要がある。婚姻が成 立し夫方の姓にMrs. をつけて呼ばれ始めると、即座に女性の旧姓(maiden name)に秘められた生い立ちや系譜が見えにくくなる。だからこそ、思い 入れのある旧姓をミドルネームとして残す既婚女性も少なくない。

われわれは「シーリー夫人」(Mrs. Seelye)という表現を何の疑いもなく 使用している。そのため、夫人が旧姓ジェイムズ(James)をミドルネーム として残しているのに、その背後に隠された系譜的事実にはなかなか関心が 及ばない。

新島襄は、アマースト(アーモスト)大学を卒業した年の夏、ヒンズデイ ルのフリント夫妻宅からシーリー夫妻に手紙を送った。日付は1870年7月 25日。その結びに、次のような文章が見える。

I am getting tired now. So I shall not write any further. Please give my kind regard to Mrs. James and your children. If you can, please write me and inform me how your family are now. I shall be delighted to hear some good news from you.

(阿部正敏『新島襄とアメリカ(新島襄英文書簡集)』大学教育出 版、2001年、p.97)

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2行目で「よろしく伝えて下さい」と書いている相手のMrs. James(ジェ イムズ夫人)とは一体誰を指すのであろうか。この素朴な疑問から、シーリ ー夫人の旧姓ジェイムズに対する探求が始まり、シーリー夫人とジェイムズ 兄弟が「いとこ」であることが判明した。

Ⅱ.シーリー夫人の故郷と生い立ち

結婚前の名前は、エリザベス・ティルマン・ジェイムズ(Elizabeth Till- man James 1833-1881)。エリザベス(婚前のシーリー夫人をこう呼ぶ)は 1833年7月1日、ニューヨーク州の州都オールバニーで生を受けた。1843 年生まれの新島襄よりわずか10歳だけ年長になる。父親は牧師のウィリア ム・ジェイムズ(Rev. William James 1797-1868)、母親はマーシャ・ルクリ ーシア・エイムズ(Marcia Lucretia Ames 1798-1886)。2ヶ月後の9月8日、

同市の第一長老派教会で幼児受洗。同教会は2年前に改築され、当時市内随 一の美しさで評判を呼んでいたが、後に勢力を増した会衆派教会の所有に移 った。

エリザベスは、幼少のころから神に仕える父親の影響もあって、礼節と慈 悲の心を自然に育んでいった。7歳上の姉アンナと年子の妹キャサリンの3 人姉妹だが、第2子の兄は死産で、名前もつけられぬまま神に召された。年 子の妹とは特に仲が良く、日曜礼拝の教会で一緒に賛美歌を歌うのが好きだ った。その美声は新島も後になって認めている。

当時のオールバニーの人口は州内で2位の24,209人で(1830年国勢調 査)、ニューヨーク州北部の政治、経済、文化の中心地であった。ちなみに、

1825年に全通したエリー運河により、ハドソン川とエリー湖を結ぶ交通の 要衝としてますます栄え、入植者の数も急速に増えていた。しかし、オール バニーと西隣りのスケネクタディー(Schenectady)間の運河には閘門(水こうもん

位差を調節する遮蔽壁)が多く時間がかかったため、翌年には二つの町を結 ぶ鉄道建設が認可され、1831年に州内初めての路線(まだレールは木製、

薪を燃料とする機関車に天蓋はなく、客車も馬車ほどの大きさ)が英国人機 関士を招いて開通した。所要時間は40分。これ以降、ミシシッピ川以東で

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運河と鉄道の熾烈な開発競争が始まる。

エリザベスがジュリアス・ホーリー・シ ー リ ー(Julius Hawley Seelye 1824-1895)と結婚した(父親が自ら式を執り行う)のはオールバニーだが、

新居と赴任先はこの隣町に決め、長男ウィリアムがそこで誕生したことは意 外に知られていない。新郎29歳、新婦20歳。ちなみに、新郎の弟クラーク

(L. Clark Seelye 1837-1924)はこの地のユニオン大学(Union College)に入 学したばかりで、同居先の母方叔父ローレンス・P.・ヒコック(Laurens P.

Hickok 1798-1888後に学長)が教授兼副学長を務めていた。実は、この叔父

は前任のオーバーン神学校でジュリアス(同級生にABCFMのN. G. Clark が在籍)を教えており、卒業後、最初の赴任教会(First Dutch Reformed Church)を斡旋し、推薦のスピーチを行った。

Ⅲ.血縁関係にある男性名の整理

ここで、エリザベスの系譜を明らかにする前に、血縁関係にある男性の名 前を整理しておく。何故なら、同姓同名の名前が頻繁にでてきて、混乱を招 く恐れがあるからである。

ウィリアム・ジェイムズ(William James)の場合

1.曾祖父 (William James of Curkish, Ireland 1736-1822)アイルランドの 農夫

2.祖父 (William James of Albany 1771-1832)移民でオールバニーの 実業家

3.父親 (William James, D. D. 1797-1868)神学博士で長老派教会の牧 師

4.従弟 (William James, the philosopher 1842-1910)哲学者 5.息子 (William James Seelye 1857-1931)シーリー夫妻の長男 6.従甥 (William James 1882-1961)哲学者の二男、ハーバード大学卒

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ヘンリー・ジェイムズ(Henry James)の場合

1.叔父 (Henry James, Sr. 1811-1882)神学者、哲学者ウィリアムと小 説家ヘンリーの父

2.従弟 (Henry James, the novelist 1843-1916)小説家、生涯独身 3.従甥 (Henry James 1879-1947)哲学者の長男で父の書簡集2巻を刊

Ⅳ.エリザベスの両親

父親のウィリアム・ジェイムズ牧師(Rev. William James)は、1797年6 月1日、オールバニーで双子の弟として生まれた。この年の3月4日、「建 国の父」と呼ばれ、アメリカ独立に貢献したジョン・アダムズ(John Ad-

ams 1735-1826)が、アメリカ合衆国第2代大統領に就任している。新生ア

メリカは、まだ州の数も少なく発展途上の国であった。

双子の兄の名はロバート・ジェイムズ(Robert James 1797-1821)。この兄 弟は、母親が双子出産という難産のため死亡したので、母親の愛情を知らぬ まま成人した。少年時代には、家庭教師として第一長老派教会の牧師のジョ ン・マクドナルド(John McDonald)を招き、基礎的な躾や知識が施された。

ウィリアムは、14歳になるとニューヨーク市北方の小さな町フロリダの アカデミーに送られ、寮生活を始めた。成績優秀だったので2年次への大学 編入が許可され、1816年、19歳でプリンストン大学を卒業、長老派のプリ ンストン神学校に入学した。

卒業後オールバニーへ戻り、1820年に長老派教会で按手礼を受けた。し かし、翌1821年、父親の商売の一部を受け継いでいた双子の兄ロバートが 24歳で急逝する。そのためもあってか、まもなく体調を崩し、養生も兼ね スコットランドの大学に2年間留学。帰国後、ニューヨークやクラークソン などの教会で説教を重ね、1824年11月24日、マーシャ・ルクリーシア・

エイムズ(Marcia Lucretia Ames 1798-1886)と結婚した。

母のマーシャは、1798年8月2日、やはりオールバニー生まれだが、父 親は肖像画家のエズラ・エイムズ(Ezra Ames 1768-1836)、母親はチッポラ

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・ウッド(Zipporah Wood 1775-1836)で、いわゆる職人画家の家庭で裕福 ではないが穏やかな生活を送った。

父ウィリアムは、若い牧師として、話術の才にも恵まれ人を惹きつける性 格だったので、その説教は大いに人気を集めた。特に、1828年の独立記念 日に、ロチェスター第二教会で行った「信仰と愛国心」についての説教は、

後に印刷して配布されるほどだった。その後、1831年からスケネクタディ ー第一長老派教会、1834年からオールバニー第三長老派教会に奉職。エリ ザベスが、この間の1833年に生まれたことは先に述べた。

その前年の1832年に、大富豪の父親が急逝すると、紆余曲折があったが 若くして多額の遺産を相続することになる。この言わば不労所得が生真面目 な青年を生涯悩ませることになる。連夜の煩悶のすえ、聖職に身を置くもの として、少しでも社会に還元しようと決断する。その結果、様々な慈善活動 に忙殺されるようになるが、群がる人々の甘言や裏切りを経験する。やがて 精神を病み、本来の務めに割く時間が少なくなっていった。

1873年に編集を開始し(シーリー夫妻も賛同のうえ協力)、1876年に刊行

した Grace for Grace という父親の書簡集に、当時頻繁に襲っていた神経

異常を告白した部分がある。

The trouble in my head, which when I saw you was passing away, is now pronounced by all physicians to be a nervous derangement, which, to say the least, is alarming enough to make one serious. There is certainly no natural prospect, as far as I can see or learn, or a speedy change for the better. . . . He believed all this physical suffering to bring me more thoroughly into the state of union with God.

(Harold A. Larrabee, The Fourth William James in Colby Library Quarterly, Vol.9, No.3[March 1970], p.33,本書からの引用は今後簡 略形式で本文中に示す。)

「私の脳の異常は、先日お会いした時には治まっていたのですが、今また 医者全員から神経障害と宣告されました。これは控えめに言っても、深刻に

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受け止めるべき警鐘です。自然に治らないことは明白ですし、私の知る限 り、直ぐに快癒することも期待できません。」(中略)そして、牧師は続け る。「これら全ての肉体的苦痛が、神との一体感をさらに完璧なものにして くれています。」この後、ウィリアム牧師が説教檀に立つことは稀になった。

神学上の話題にしか関心がなく、ユーモアに欠ける人物と評されていたウ ィリアム牧師だが、こんな一面もあった。今後は、知人にならって義理の息 子をジュリアス・シーザーと呼ぶことにするというのである。当然、シーリ ー夫人はシーザー夫人となる。

My dear Caesar :

We have a man in this town of the name of Durant . . . he called you Julius Caesar. . . . I never corrected him once nor changed my countenance. I have merely to announce that you have now a name which will stick. So with the distinguished consideration due to so eminent a personage, and with my kind regards to Mrs. Caesar, I remain, ever honored Caesar,

(Colby Library Quarterly,Vol.9, No.3, p.26)

ウィリアムは1868年2月15日逝去、アルバニー田園墓地に両親とともに 眠っている。

Ⅴ.エリザベスの姉妹と兄

1826年生まれの長女アンナ・マクブライド(Anna McBride 1826-1907)

は、オールバニー法律学校の学部長も務めた弁護士のアイザック・エドワー ド(Issac Edward 1819-1879)と結婚、6人の子供をもうけた。楽しみにして いた第1子にウィリアム(1856年生)と名付けたが、3ヶ月で他界。続く5 人の子供たちの2人も夭逝してしまう。当時の記録には、新生児のおよそ半 数が結婚適齢期まで生存できないとの記述が見える。

1830年、ウィリアム夫妻に待望の男児が生まれたが、死産であった。そ うでなければ、エリザベスにも兄ができ、この家族にもウィリアム・ジェイ

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ムズ(William James)という名が受け継がれていたかもしれない。

1834年、エリザベスの年子にあたる妹キャサリン・バーバー(Katharine Barber 1834-1890)が誕生、この妹とは生涯濃密な関係が続いた。彼女は晩 年にアマーストへ転居、一時期シーリー宅で一緒に暮らしている。精神不安 定な一面があったが、誰にも親切でそのうえ筆まめであった。後に、患者と して精神科医ウィリアム・ヘンリー・プリンス(William Henry Prince, M. D.

1817-1883、ハーバード大卒)に接触するうち、医師から熱烈なプロポーズ を受け結婚。子供には恵まれたかったが、このお人好しで贈り物好きな妹が 中心となって、哲学者で従弟のウィリアム・ジェイムズ家との交流が始ま る。

Ⅵ.エリザベスの母方祖父

エリザベスにとって母方の祖父にあたるエズラ・エイムズ(Ezra Ames 1768-1836)は、看板などの細密画の職人から人気の肖像画家へと登り詰め た人物で、同時代の著名人の肖像画を数多く残している。中でも、ジョージ

・ワシントン大統領やニューヨーク州知事や副大統領を歴任したジョージ・

クリントン、その甥で同じ州知事を務めたデウィット・クリントン(「エリ ー運河の父」と呼ばれ、稀代の大工事を完成)の肖像画は有名である。

また、次の章で紹介する父方の祖父にあたる有力実業家ウィリアム・ジェ イムズの肖像画も描いていた。このことから、二つのことが分かる。祖父ウ ィリアムは事業に成功し、オールバニーの名士として認められていたこと、

加えて肖像画に1822年作とあることから、祖父同士はエリザベスの両親の 結婚(1824年)前にすでに交流があったことの二点である。エズラ・エイ ムズの肖像画の数は延べ500点を超える。晩年には、貧しい人々を対象にし たオールバニー農工銀行(Albany Mechanics and Farmers Bank)の頭取も務 めた。芸術家で経済界の仕事についた人は後にも先にもいないと言われた。

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Ⅶ.エリザベスの父方祖父

父方の祖父にあたる実業家ウィリアム・ジェイムズ(William James of Al- bany 1771-1832)が、この系譜探求の中心人物と言って差し支えない。彼の 人生こそ、典型的なアメリカ成功物語であった。この家父長の系譜に、エリ ザベスやジェイムズ兄弟がつながる。

ピューリッツァー賞を受賞した伝記作家のルイスは、その著「ジェイムズ 家・その家族の物語」( The Jameses : A Family Narrative )の序で、次のよ うに述べている。

R. W. B. Lewis called the James family perhaps the most remarkable family the country has ever known as regards its literary and intellectual ac- complishments.

「ジェイムズ家は、文学や知的業績において、この国が知りうる最も傑出し た家族である。」

1771年12月29日、アイルランド北部の貧しい農家に生まれ、18歳の時 わずかばかりの現金とラテン語の文法書を携え、ひとり新天地の土を踏ん だ。1793年、22歳の時にオールバニーに流れ着き、小さな店で店員として 働き始める。やがて、持ち前のハングリー精神で、町の中心地に自分の雑貨 店を開きそのチェーン店化にも成功する。この商売は、1819年に息子のロ バートに譲ったが、2年後に24歳の若さで急逝しほかに継ぐ子供がいなか ったため、1824年にこの商売は閉じた。ウィリアム53歳の時である。

その時までには、生来の先見性と決断力と強運を味方にして、他の様々な 分野に進出していた。最も力を入れたのは不動産業であった。グリニッジ・

ヴィレッジの1ブロック、成立したばかりのイリノイ準州に40平方マイル

(100平方キロ)強の広大な土地を取得。加えて、エリー運河の開通を見越 して、開発会社に投資を行い運河沿いの広大な土地も買い占めていた。1825 年の完成以降は、投資資金の回収に目途をつけ、暴騰した土地の売却益で莫

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大な資金を得ることになる。

さらには、運河全通により内陸部への旅行者や物流が増えたことを見極 め、地元オールバニーに最大のホテルを建設、矢継ぎ早に運河沿いのシラキ ューズに一流ホテルを取得、当時各地で敷設を始めた鉄道会社やターンパイ ク(有料道路網)建設会社へも投資した。また、シラキューズの製塩会社や たばこ工場を買収、運河の運送業にまで事業を広げていった。請われて、オ ールバニー貯蓄銀行(Albany Savings Bank)やニューヨーク州立銀行オール バニー店(New York State Bank of Albany)の副頭取、頭取も務めた。富が 富を招き、誰もが認める有力実業家としてその名声を確立していくことにな る。

同時に、熱心な長老派教会員としても知られ、晩年には第一長老派教会の 役員を務めた。息子ウィリアムを同じ宗派の牧師に就かせ、再婚で誕生した ヘンリー(Henry James, Sr.)にも神学を学ばせた。しかし、ヘンリーがその 後に見せた自由で奔放な考え方には断固反対し、父子の間に重大な確執が生 まれることになる。

1832年、パリで猛威をふるっていたコレラがアメリカに上陸し、オール バニーにも押し寄せてきた。そのため、何千人もの市民が競うように逃げ出 したが、ウィリアムには資産管理もあって、市を離れるという選択肢はなか った。市当局は緊急に交通を遮断した。ニューヨーク市では、このコレラ大

流行で12,000人以上が死亡したとの記録がある。

7月24日、コレラが猛威をふるうなか、体調を崩したウィリアムは遺書 をしたためた。この内容が余りにも「異常」であったため、現在も法律学校 の教材として使われることがある。結局、ウィリアムはこの年の12月19 日、コレラの影響は不明だが卒中で亡くなった。61歳の誕生日まであと10 日の死であった。

ウィリアムは、都合3回結婚し総勢13人の子供をもうけた。初婚は25歳 の1796年、新婦はエリザベス・ティルマン(Elizabeth Tillman 1774-1797)

22歳で、翌年ロバートとウィリアム(エリザベスの父)の双子を生んだが、

難産だったため、同年23歳で短い生涯を閉じた。エリザベスは、後にこの 祖母の名前をそのままもらい、Elizabeth Tillman Jamesとなる。

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1年後の1798年、メアリー・アン・コノリー(Mary Ann Connolly 1778-

1880)と結婚、娘エレン(Ellen)を設けたが、またも新婦は22歳の若さで

他界。

3回目は3年後の1803年、新婦はキャサリン・バーバー(Catharine Bar-

ber 1782-1859)21歳。2人の間には都合10人の子供(7人の息子と3人の

娘)が誕生したが、第1子ジョンと第3子ヘンリー(Henry, Jr.)はいずれ も夭逝。第4子ヘンリー(Henry James, Sr.)が、後の哲学者ウィリアムと小 説家ヘンリーの父親になる。

Ⅷ.祖父ウィリアムの遺書と遺産

遺書の原則的な条件はこうである。21歳に達していること、その生活態 度 が「極 端 に 不 道 徳、怠 惰、不 名 誉」な 相 続 人(any heir who leads a grossly immoral, idle, or dishonorable life. )は、権利を失うというものであっ た。遺族に衝撃と混乱が生じ、議論が沸騰した。3人の法定執行人は、当初 この条件に合致する相続人を厳しく選定した。その結果、エリザベスの父ウ ィリアムと訴訟に持ち込んだ21歳の叔父ヘンリーが選ばれた。ウィリアム

には2,000ドル(500ドルずつ年4回支給)、ヘンリーには1,250ドルが、年

金として翌1833年から1836年までの4年間支払われた。

1837年、裁判所は、相続人の一部からの訴えを認め遺書は無効との判決 を下した。「不道徳、怠惰、不名誉」という定義を、法的に規定することは 不可能というのが判決理由であった。その結果、法定執行人は新たに不動産 の分割相続にも着手した。評価額は、538,369.80ドル。相続人は子供11人 と寡婦1名。ウィリアムは上記の年金のほかに17,713.86ドルを相続、訴訟 のすえ、不適格とされていたヘンリーもほぼ同額の現金を手に入れた。ヘン リーの母で三人の妻のうち唯一長生きした寡婦キャサリン・バーバー・ジェ イムズ(Catharine Barber James 1782-1859)には、64,504.98ドルが支払われ た。

この新たな分配の結果、各相続人には100,000ドル以上の現金あるいは不 動産が相続された。ウィリアムには、以降年間10,000ドル近くの年金が入

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ってきたと言われる。(Colby Library Quarterly, Vol.9, No.3, pp.20-21)

余談ではあるが、シーリー夫人には父親ウィリアムからどの位の遺産が相 続されたのか。その公式記録はないので、事実のみを報告しよう。アマース トのシーリー宅の敷地は北の第一会衆派教会よりも広く、弟クラークの敷地 のおよそ3倍でカレッジ通り沿いの教授宅の中でも最大であった。また、通 常は学長に選任されるとプレジデント・ハウスに家族ごと入居するが、歴代 学長の中で唯一シーリー学長だけはその邸宅を使用しなかった。

Ⅸ.エリザベスの父方叔父

ヘンリー・ジェイムズ(Henry James, Sr. 1811-1882)は、実業家ウィリア ムと3番目の妻キャサリン(Catharine Barber 1782-1859)との間に、子供10 人の第4子として、1811年6月3日、オールバニーで生まれた。

少年の頃から一風変わった性格で我が儘放題に育った。13歳の時、学校 近くの公園で熱気球上げに失敗、テレピン油を浴びたまま火の付いた干し草 の塊を足でもみ消そうとして大火傷をおった。2度の手術の結果、右脚を膝 上まで失う。この事故による2年間のベッド生活が、思索好きの性格と自己 中心の態度を形作ったと言われる。

成人するにつれ、父親への反抗的態度は益々激しさを増した。飲酒、ギャ ンブル、学業放棄へと続き、ついには父親が設立に寄与したユニオン大学を 途中退学する。そのため、当初は遺産相続の資格を剥奪されていたが、訴訟 に持ち込み相応の遺産を相続した。そのおかげで、生涯世俗的な仕事につく ことはなかったが、知識人との社交、度重なるヨーロッパ旅行、自費出版な どでほとんどを使い果たした。子供たちの教育も自らの信念で行い、大学に 入学させるまでは(小説家ヘンリーはハーバード大学を一年で中退した)、

通常の学校に通わせることはなかった。代わりに、同時代の知識人との接触 や学問的にも文化的にも進んでいたヨーロッパへの旅行には、頻繁に子供た ちを同行させた。

社交性に富んではいたが、同時代の著名な神学者、哲学者、思想家などと の議論では、余りに独善的な意見のため、徐々に敬遠されていったという。

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ヘンリーは、兄ウィリアムにも頻繁に神学上の疑問や当時の教会の問題に つき詰問する手紙を送った。主として、信仰義認(justification)に関する議 論が多かったという。

ウィリアムの没後5年目の1873年、シーリー夫人は、父親の書簡集を編 集するため、すべての父の書簡の委譲を叔父ヘンリーに依頼した。その時の 返信が残されている。

冒頭で、「残念ながらお父上の手紙は一通も手元に残っていません。私は 返信すると直ぐに破棄するのが常でしたから」としながら、神学上の考え方 の相違について、率直に記している。恐らく、シーリー教授も興味深く読ん だに違いない。長くなるが引用する。

They turned chiefly on our theological differences, and were full of that frank intellectual curiosity, eager confession of error and insufficiency of his own view of the gospel, and alert spirit of accommodation to his antagonist, which made him so remarkable and magnetic in personal intercourse. He had the best heart in the world, but his head in matters of speculation disowned its control, and deferred to foreign guidance. I always regretted this habit as pusillanimous, but though it naturally weakened the impression his intellect made upon me, it never for a moment dimmed the immense personal respect and affection I bore him.

(Colby Library Quarterly, Vol.9, No.3, pp.25-26)

書簡の内容として、「主に神学上の考え方の相違を互いに確認する結果と なり、自分の見解に過ちがあれば即座にそれを認め、相手との和解へと導く 心遣いがあった」と述べ、最後に「思弁の話題になると、その頭脳は統制を 失い無関係な助言を優先させてしまう傾向があり、私はいつもこの性格の弱 さを残念に思っていましたが、たとえお父上の知性から受ける印象が弱めら れたにせよ、私のお父上に対する深い尊敬の念と愛情は、いささかも変わり ませんでした。」と、兄ウィリアムの性格の優しさを弱さと断定している。

ヘンリーはプリンストン神学校を一緒に途中退学した友人の妹メアリー・

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ロバートソン・ウォルシュ(Mary Robertson Walsh 1810-1882)と、1840年 7月28日29歳の時、ニューヨークで結婚した。子供は息子4人、娘1人の 5人。この中の長男が哲学者ウィリアム、二男が小説家ヘンリーである。シ ーリー夫人にとっては、全員がいとことなる。

Ⅹ.シーリー家とジェイムズ家との交流

ウィリアム・ジェイムズ(William James 1842-1910)はアメリカを代表す る心理学者、哲学者、プラグマティズム研究の第一人者として余りにも有名 であるので、ここではその詳細な経歴や著作には触れない。ただ、キャサリ ンやシーリー家とジェイムズ一家との家族同士の交流を示す手紙を辿ること としたい。

父ヘンリーの破天荒な生き方に影響されたウィリアムは、当初から心理学 や哲学の道を目指した訳ではなかった。画家になろうとして有名画家の元に 通って挫折したり、家族の期待に応えようと医学を学び医者になったもの の、実際にはその道も自己の天賦の職業(calling)とは思えずさんざん悩み 抜いた。次第に精神を病みはじめ、自ら自殺性鬱病(suicidal depression)に 囚われる。そうした自己の本質と向き合う過程で、ようやく医学を諦めるこ とを決心し、心理学と哲学の道へ歩み出すこととなった。

ウィリアムには弟3人、妹1人がいた。先ず年子の弟、小説家ヘンリー

(Henry James, the novelist 1843-1922)は、新島と同じ年に生まれているが、

生涯結婚をしなかった。その代わりに5歳年下の病気がちの妹アリス・ジェ イムズ(Alice James 1848-1892)の面倒をみた。三男のガース・ウィルキン ソン(Garth Wilkinson 1845-1883)は南北戦争で負傷、四男のロバートソン

(Robertson James 1846-1910)は一時アルコール依存症になった。

ウィリアムはアリス・ギベンズ(Alice Gibbens 1849-1922)と1878年36 歳で結婚、二人には5人の子供が授かった。長男を弟と同じヘンリーと名付 け、二男を自分と同じウィリアムと命名した。長男は後に父親の書簡集2冊 を刊行し、二男は絵の道に進み父親の肖像画を遺している。3男ハーマンは 2歳になる前に天国に召された。

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ここに、1885年と思われるウィリアムの手紙が遺されている。宛先は、

シーリー夫人の妹プリンス夫人。手紙では、彼女をKittyあるいはKitty

Princeと呼んでいた。

この私信で、ウィリアムは大事な用件を述べたあとキャサリンに尋ねる。

「シーリー学長は今度の会(ウィリアムの甥が企画したthis ghost investigat-

ing societyがどのような集まりかは不明)に参加してもらえそうかな?」こ

れは明らかに「招待」であると、編者のジュリアス・シーリー・ビクスラー

(Julius Seelye Bixler 1894-1985)は解説する。彼は、シーリー夫妻長女ベッ シーの一人息子で、アマースト大学を卒業しコルビー大学の学長を務めた。

同志社を訪れたこともあると聞いている。

Cambr. Jan’y 2[1885?]

Dearest Kitty,

Here is a somewhat belated happy New Year. . . . I’m just back from Phila. where I had another fever attack. Allright now, but wish vacation lasted a week longer. Went there on Psychical Research Society business.

Will President Seelye join this ghost investigating society? . . . I must be very short. All your letters and cards have been received. Have just had to write eleven(11)letters. The older one grows the worse it gets. God bless you, dear Kitty! Yours, Wm. J.

Alice is upstairs(8 : 30 p.m.)getting the baby to sleep, or she would send love.

(Julius Seelye Bixler, ed., James Family Letters in Colby College Li- brary in Colby Library Quarterly[March 1970], Vol.9, No.4, p.12, 本書からの引用は今後簡略形式で示す。)

「なにか遅れた新年の挨拶になった。(中略)フィラデルフィアから戻ったば かりだが、現地でまた発熱した。今はもういいが、休みがもう一週間あった ならと思う。目的は「心理学研究会」の集まりだ。ところで、シーリー学長 は今回の集まりに参加できそうですか。(中略)この手紙は短くしなければ

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いけない。送ってくれた手紙と葉書はすべて届いている。実は、他に11通 も手紙を書いた。人は歳をとるとますます悪くなるようだ。神のご加護を、

親愛なるキティー!」そして、追伸に「妻は今2階で赤ちゃんを寝かしつけ ている。傍に居れば必ずよろしく伝えてと言うはず」と加えている。しか し、この赤ちゃんが、半年後の7月9日に肺炎で急逝する三男のハーマン

(Herman)であった。

これらの手紙から推測できることは、ウィリアムがすでに自分の家族を含 めて、キャサリンやシーリー家と親密な交流をしていた事実である。同時 に、シーリー学長の都合聞いてきたことで、キャサリンがこの時点でシーリ ー宅近くに住んでいたことが分かる。

実は、1863年にもキャサリンに手紙を書いている。まだ21歳の若さで、

比較解剖学を学ぶ学生であった。その中で、以前キャサリンが自宅に訪ねて 来たときの楽しい思い出を話し、今度はそちらのノーザンプトンのお宅に伺 ってみたいと言う。そして、将来の職業についての悩みを打ち明ける。博物 学者、医者、画家、物乞いと、稼ぎの悪い順に半ば冗談に序列化し、今は医 者を志望しているので、進路を決める前にプリンス医師(Dr. William Henry Prince)に是非会いたいと依頼する。まるで、実の姉と話をしているよう だ。結びに、プリンス医師との婚約を祝って筆を置いている。(Henry James, The letters of William James, Vol.I, Atlantic Monthly Press, 1920, pp.43-45)

次に、妹アリス(妻も同名のアリス)からキャサリンに宛てた手紙を紹介 する。このアリスが最初に Cousin Kitty という言葉を使った。彼女は、

この年1884年に鬱病がひどくなったので、一番頼りにしているロンドン在 住の兄ハリー(Harry=Henry)のところへ緊急避難した。そして、渡英後す ぐの1884年12月に近況を知らせた。

Dear Kitty,

Thank you very much for your note. I was so glad to hear good news of you and that everything in your circumstances was so happy. I had heard of your removal to Amherst and thought of how happy you must be in being so near your dear Bessy. You must give her my love, and tell her how sorry I

(18)

am that we have never met, but perhaps we shall some day, . . . I am settled for awhile here in London in the next street to Harry. His house was too small to hold me, but he is the best of brothers and I see him twice every day. . . .

Please give my love to Kitty Edwards when you write. I have such sweet memories of her and of Cousin Anna. Believe me always, dear Kitty, far or near your loving cousin

Alice James

(Colby Library Quarterly,Vol.9, No.4, p.4)

冒頭の挨拶のあと、ベッシーの話しを始める。「アマーストに引っ越され たとは聞いていましたが、ベッシーさんにますます近くなってどんなに幸せ かと思います。彼女にくれぐれもよろしくお伝えください。」そして、近い うちに是非会いたいと伝える。ロンドンの生活については、兄の家は部屋に 余裕がないので、やむを得ず通り一つ挟んだところに部屋を借りて住んでい ると明かす。

最後に、長姉アンナとその家族への挨拶を頼み、貴女の愛する「いとこ」

よりと結んでいる。では、この手紙に出てくるBessyとは誰か。1884年時 点ではシーリー夫人は亡くなっているので、当然、長女のベッシーである。

彼女はこの年にスミス大学を卒業して、自宅に戻っていた。翌年、新島夫人 にお手製の「裁縫袋」を贈った優しい娘であった。

このように親子が同じ名であることが、しばしば個人を特定することを妨 げる。「新島襄宛英文書簡集」では、両者ともElizabeth(J.)Seelyeと署名 しているので極めて紛らわしい。

次に、良妻で知られるジェームズ夫人(Alice H. James 1849-1922)からの 手紙を紹介しよう。日付が1885年6月18日となっているので、この3週間 後には3男のハーマンが百日咳をこじらせ肺炎で亡くなることになる。キャ サリンは不眠状態が続いたため、医学の知識のあるウィリアムに鎮静剤のブ ロムについてその処方箋を尋ねた。ウィリアムが避暑地探しで不在だったの で、ケンブリッジの留守宅から夫人が代わりに返信した。

(19)

Dear Kitty-

Though I remailed your letter at once it will perhaps be some days before you hear from William as he is changing from place to place in search of summer quarters, and not yet overtaken by his letters. I think I can answer the question you asked about the bromide. Dr. Folsom prescribed it for you as he did for Bob, irrespective of sleep. William, I feel sure, would say,

Continue to take it for the present, whether you sleep or not. . . .

Our baby is having a severe struggle with whooping-cough. I thank you for your kind thought about the dresses for the little boys, but don’t do any- thing of the kind this season, as they have their play suits, and are in fact quite well supplied.

I hope you are living much out of doors. Won’t they let you keep Sam?

Affectionately yours, Alice H. James.

(Colby Library Quarterly,Vol.9, No.4, p.7)

妻アリス(妹もAlice Jamesと署名)は、フォルサム医師の処方箋を伝 え、ウィリアムも同じことを言うだろうと親切に忠告する。「眠れようと眠 れまいと、取りあえずこの薬を飲み続けなさい。」そして、ウィリアムの助 言を待っている間、薬を飲まないといけないので、不明な点は直接フォルサ ム医師に問い合わせるよう忠告し、その住所を教えた。

結びには、赤ちゃんがひどい百日咳に苦しんでいることを伝え、いつも送 ってくれる子供たちへの衣類に対し、お礼を言いながらも遠回しに今後は遠 慮したいと申し出ている。

紙面に限りがあるのでそろそろ終わりにしなければならないが、このジェ イムズ家の書簡集を読むと、キャサリンを通してシーリー家との親密な交流 があったことが分かる。

なお、アマーストでは「上品なシーリー夫人が名高いジェイムズ家出身」

(the gracious Mrs. Seelye of the established James family)であることは広く知 れ渡っておりよく噂にのぼった。ウィリアム兄弟が有名になるにつれ、その 関係を話題にする人も少なくなかった。(Mary Adele Allen, Around a Village

(20)

Green, Sketches of Life in Amherst,The Kraushar Press, 1939, p.81)

このジェイムズ家書簡集は、長女ベッシーの一人息子ジュリアス・シーリ ー・ビクスラー(Julius Seelye Bixlerコルビー大学学長)が、叔母のアンナ

・シーリー・エマーソン夫人(Mrs. Anna Seelye Emersonシーリー夫妻の次

女Annie)の協力のもとに収集したものである。ベッシーは息子が難産であ

ったため、出産6日後に32歳の若さで他界している。

哲学者ウィリアムからの手紙52通、その妻アリスからの16通、小説家ヘ ンリーの12通と妹アリスの1通、弟ロバートソンの2通などが含まれてい る。しかし、先方に送ったシーリー家の手紙は見つかっていない。

Ⅺ.おわりに

哲学者ウィリアム・ジェイムズの長男ヘンリーが、父親の膨大な手紙を2 冊の書簡集にまとめている。その序で、「最良の意味で伝記的だった手紙」

(letters that were biographical in the best sense)も選んだと述べているが、私 的な手紙にも思わぬ事実が隠されている。

アマースト大学のシーリー学長にその類いの書簡集が見当たらないのは残 念だが、同大学とコルビー大学には特別文書コレクションが存在する。ま た、同志社大学にも「新島襄宛英文書簡集」(未定稿3巻)があり、シーリ ー家からの手紙も載っている。現在も定期的にオリジナルとの照合がなされ ているので、一日も早い完成を心待ちにしたい。

その中に、恩師シーリーからの手紙8通、夫人からの3通、長女ベッシー からの1通が発信日付順に整理されている。1878年1月の夫人からの手紙 には、次の記述が見える。

Perhaps you will be interested to hear that my mother is very well this win- ter. She is in Albany and has a very kind and attentive friend with her. My sister Mrs. Prince is comfortably well, though for the past year has been quite an invalid.

(同志社人文科学研究所『新島襄宛英文書簡集(未定稿1)』、田中

(21)

プリント,2007年)

シーリー夫人は突如母親の健康に言及する。「この冬は母がすこぶる元気 で暮らしていることを、多分あなたは知りたいでしょう。オールバニーで、

とても親切で思いやりのある友人と元気でいます。」そして、妹キャサリン にも触れる。「妹のプリンス夫人も、昨年は体調が優れませんでしたが、今 はとても元気です。」

ここに、新島が誰をジェイムズ夫人(Mrs. James)と呼んでいたのか、そ の疑問に対するヒントが隠されている。妹キャサリンは当時すでに結婚して

Mrs. Princeと呼ばれており、姉アンナもMrs. Edwardsとなっていた。残る

は、長生きした母親のMrs. Jamesしか見当たらない。しかも、元気かどう か「知りたいでしょう」と書いていることから判断して、以前から二人の共 通話題だったことが推測できる。

シーリー夫人は、この3年後の1881年3月5日、47歳8ヶ月の若さで神 に召された。親より先に逝った娘に、ジェームズ夫人の涙は涸れ果てたとい う。

現在、ジェイムズ家はオールバニー田園墓地(Lot 1、Section 16, Albany Rural Cemetery)に眠る。祖父母と両親の傍らに、従弟の哲学者ウィリアム

・ジェームズの名が。(遺族が後に建立した慰霊碑に氏名を追加。実際の埋 葬地は弟ヘンリーと共にケンブリッジ墓地)

シーリー夫人が、ジェイムズ系統の祖先に花を手向けたとの記録は見つか らない。だが、小説家ヘンリー・ジェイムズは1870年、若死にした従妹の 埋葬に立ち会っている。そして、自分の小説にも登場させた憧れの存在とし て、墓石の名前に星印を刻んだ。

私 事 に な る が、2014年4月22日、ア マ ー ス ト 大 学 図 書 館 のMargaret

Dakin女史(通称Mimiさん)から、今回掲載の「シーリー夫人とジェーム

ズ兄弟の血縁関係」の家系図を、「現地の研究者が閲覧できるようコレクシ ョンに加えたい」というご要望があった。北垣宗治名誉教授のアドバイスも あり、これを含めシーリー家の家系図11種と関係資料(英文)をアマース ト大学図書館に寄贈させていただいた。

(22)

参考文献

1.Katharine Hastings,

William James of Albany, N.Y. and his descendants with notes on some collateral lines,

(The New York Genealogical and Biographical Society, 1924)

2.Harriet Seelye Rhees,

Laurenus Clark Seelye,

(Houghton Mifflin Company, 1929)

3.Theodore Bolton and Irwin F. Cortelyou,

Ezra Ames of Albany : Portrait Painter, Craftsman, Royal Arch Mason, Banker ,

(The New York Historical Society, 1935)

4.Mary Adele Allen,

Around a Village Green, Sketches of Life in Amherst,

(The

Kraushar Press, 1939)

5.John Warner Barber,

The History and Antiquities of Every Town in Massachusetts,

(The New England Historic Genealogical Society, 1839, Reprinted in 2014)

6.Henry James,

The letters of William James, Vol.I & II(Atlantic Monthly Press, 1920)

7.John W. Burgess,

Reminiscences of an American Scholar,

(AMS Press, Inc., 1966)

8.Harold A. Larrabee, The Fourth William James in

Colby Library Quarterly, Vol.9, No.3,

(Colby College, 1970)

9.Julius Seelye Bixler, ed., James Family Letters in Colby College Library in

Colby Library Quarterly, Vol.9, No.4,

(Colby College, 1970)

10.Howard M. Feinstein,

Becoming William James,

(Cornel University Press, 1984)

11.R. W. B. Lewis,

The Jameses : A Family Narrative,

(Anchor Books 1993)

12.The Learning Bible, Contemporary English Version,(American Bible Society)

13.Amherst College Library,

Julius Hawley Seelye Papers,

〈http : //asteria.fivecolleges.edu/

findaids/amherst/ma31.html#list-ser2〉 ,

(accessed 30 April, 2014)

14.新島襄全集編集委員会『新島襄全集』全

10

巻(同朋社出版,1985年)

15.同志社社史資料編集所『同志社新島遺品庫収蔵目録 上・下』(北斗プリント,

1977

年)

16.阿部正敏『新島襄とアメリカ(新島襄英文書簡集)』(大学教育出版,2001年)

17.同志社人文科学研究所『新島襄宛英文書簡集(未定稿

1, 2, 3)』(田中プリント,

2007

年)

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