東欧と冷戦の起源再考ハンガリーの転機:1945〜
1949
著者 羽場 久?子
出版者 法政大学社会学部学会
雑誌名 社会労働研究
巻 45
号 2
ページ 1‑56
発行年 1998‑12
URL http://doi.org/10.15002/00006655
東欧と冷戦の起源再考
〈東欧にとっての冷戦の意味〉Ⅱ東欧にとっての冷戦の起源と近年の史料・研究動向一近年における東欧戦後史の研究の変化二束欧にとっての冷戦の起源研究Ⅲ戦後東欧の政治状況とハンガリーの位置Ⅳ戦後ハンガリーの国内状況と内政の転機一ハンガリーの政党状況二内政の転機としての諸段階(索拙)(1)小艇業者党瞥記長コヴァーチの逮捕三九四七、二)(2)小膿業者党党首、簡机ナジ・フェレンッの亡命C九四七、五)(3)総選挙での共産党の敗北(転換の失敗)二九四七、八)(4)ユーゴスラヴィァヘの接近(一九四七、九~一二) l目 次
〈冷戦の起源論争〉 ’序・問題設定〈冷戦とは何であったか〉
ハンガリ「の転機:一九四五~一九四九I
場久泥子 羽
1
ソ述「術国」の問題点について、アメリカの冷戦史家ギャディスは、史料の公開によって「ソビエトの国内状態が
外部の専門家が考える以上にひどい状態であった」ことを論じてL塾。
しかし節二次世界大戦後のソ辿の経済的疲弊、国内の政怖不安が明らかになるに従い、むしろなぜアメリカはそのような国に対して「冷戦システム」を作ろうとしたのかという理由づけが必要となろう。これについては近年、冷戦(2) は「想像上の対立」であったとい・フヵルドァの主張が出てきている。対してソ述は戦後ヨーロッパ世界にどのように I序・問題設定一九八九年の東欧、および一九九一年のソ連邦における社会主義体制の崩壊の中で、冷戦システムそのものが崩れ、「ポスト冷戦」の時代において、結局冷戦とは何であったのかがさまざまな形で問われ始めた。加えて、旧来、読むことのできなかった史料が次々と公開され、それを基礎に、冷戦が各国に及ぼした彩恕の検討が改めて始められてい る。(5)ユーゴスラヴィァの除名と社共合同(一九四八、六)(6)教会の抵抗の終息(一九四八、一二)(7)モスクワ派の権力蝋掻と自立性の喪失二九四九、五)Vハンガリーの戦後外交政策の転機二九四七~一九四八)(1)パリ識和会議(一九四七、二~六)(2)トルーマン・ドクトリンとその後(一九四七、三)(3)マーシャル・プラン(一九四七、六~七)(4)コミンフォルム会議(一九四七、九)(5)ソ迎雌撤退の倣回二九四八、一二)まとめ
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東欧と冷戦の起源再考
最初に、冷戦がなぜ、いつ、どのようにして起こったのかに関し、旧来の一般的冷戦史観と、それに対する東欧の側からの疑問を対時しておきたい。
冷戦とは、戦争をしているわけではないもののきわめて敵対的である対抗関係であり、主として、第二次世界大戦
後に生じた、米ソ関係の緊張状態を指すとさ池麺。
そこでは、冷戦開始の理由としては、次のように説明される。l、政治・経済体制の違い故の、ロシア革命(すなわち第一次世界大戦末期)以来の、相互の不信と術疑心。
2、第二次世界大戦後、戦後世界についての合意がなかった結果、ソ連が東欧に対して影響力を拡大すると、アメリカは不信感を高め、ソ連の勢力拡張を押さえ込もうとした。
3、米ソ両国政府とも、自国の政策を国内(影響圏内)で正当化するために、相手国の脅威を強調する傾向があり、それが相手国の警戒心をさらに強めた。これは主として「西側」の観点を基礎としたものであり、それに対して「東側」の研究は、史料の制約ゆえに充分
なものは存在しなかった。それでも以下の一般的疑問が提示できよう。
3 1、相互不信と猫疑心により最初に分断政策を開始したのはどちらであったのか。 対応していこうとしたのかを新たに史料によって具体的に検証しなおしていくことも必要となろう。本稿は、そうした「大国」それぞれの思惑による冷戦が、戦後のヨーロッパ束半分の再編にどのような問題を引き起こしたのか、またそれに対して東欧の小国はどのように対応し自国の国家建設を行っていこうとしたのか、という問題に焦点を当て、冷戦の起源を新しい状況の巾で問い直そうとする試みである。〈冷戦とは何であったか〉
在各囮で、冷戦そ(〈冷戦の起源論争〉 2、影響力の拡大はソ連の一方的なものなのか。4
3、脅威の強調と排除はソ連と他の連合国とではどちらが勝っていた処狸・
これに対し、’九九一年の社会主義体制崩壊後のロシアから、新しい史料が現れ始めた。特に、’九九一一年に公開された史料は、ソ連が最後までマーシャル・プランに参加する意図があったにもかかわらず参加できない条件枠組みが作られていたことが描かれ、旧来の冷戦史観を検討することを余儀なくさ也煙。また東欧の史料の公開状況も、現
在各囮で、冷戦そのものに対する歴史の見直しを辿っている。冷戦の起源の時期設定については、諸説の論争がある。冷戦を社会主義目資本主義のシステムとして考えれば、さかのぼってロシア革命以降という考え方も可能であろう。しかしここではとりあえず第二次世界大戦後とした上で、
その時期の諸説について論じることとする。冷戦の起源については、次のような時期設定が基本的なものであろう。
l、一九四六年二月のケナンのX論文や、六月のチャーチルのフルトン減税「鉄のカーテン論」に始まるとするも
2、一九四七年三月のトルーマン・ドクトリンに始まるとするもの、
3、一九四七年六月から七月にかけてのマーシャル・プランに始まるとするもの、4、その後、一九四七年九月のコミンフォルムの開催以降とするもの、5、一九四八年からの各国での粛清の始まりと多党派の駆逐とするもの、など。冷戦の起源は、主にポーランドやギリシャから論じられることが多かった。ポーランド梢勢などを考えれば、lも
の
、
こう考えた上で、近年のロシア・東欧の史料公開や研究の雅礎に立てば、l、2は時期尚早のプロパガンダ的な判断であるといいうる。ソ述から見た場合、3、マーシャル・プランの時期に、連合国間の相互信頼関係が決定的に崩
れ、4、コミンフォルムの大会での政策転換があったのであり、少なくともマーシャル・プランの時期までは、連合国との共存が模索されていた。ホフマン・メイァらの『マーシャル・プラン』の議論でも、ボウイは、アメリカの対
ソ認識の変化とヨーロッパが分断された時期を。九四七年冬の退くから一九四八年春」としてL窪・
さらに、戦後東欧の巾で当初グレーゾーンに屈し、比較的長期に目山な体制が容認されたハンガリーから見れば、
考冷戦の影響が同国に飛び火し政莱転換を迫られていったのは、コミンフォルムの開催以降、5、一九四八年から一九
j岬四九年の秋の国内での反対派諸勢力の排除が完成されていくまでの時期に求めることができよう。ハンガリーの二四」 唾からの分断は、最も遅い時期に属する。
戦冷このように、冷戦の起源は、一律に時期設定できない。あたかも、ソ連、英米それぞれの側から氷が凍っていくよと欧うに、ソ連と英・米の周辺の重要地点から、一二~四年間をかけて、広がっていったのである。束ソ連がヨーロッパ戦勝国と北〈同することによって何とか欧米の信籾と援助を狸得しようとし、にもかかわらず欧米 込まれていったかであろう。 根拠がないわけではなく、ギリシャ・トルコの観点からすれば、2が重要であろう。しかし冷戦を(旧来自立していた)「傾域」への影響力として見たとき、ポーランドやギリシャは「歴史的に」ソ連、英国の一定の(合意に雄づいた)勢力範囲であったとも言いうる。これらの地域は、冷戦でなくともそれぞれの勢力圏として承認される可能性はあったし、事実チャーチルの発想は歴史的勢力圏のそれであったといって良かろう。「冷戦の起源・開始」とは、そうでない地域、いわゆる歴史的にソ連・イギリスの勢力圏にないグレーゾーンが、いかに分断され、それぞれに組み5
冷戦を、大国間のシステムとしてのみとらえるならば、ギャディスのいうように、冷戦を「長期の平和陰○コ、勺88」と規定して、現実に「熱戦」が起こらなかった、長期の安定したシステムの時代、としてとらえることを正当化することも可能となろう。また、この大国の二極椛造が崩れることによって、地域の紛争が多発し始めた、故に、二大同 の側はヨーロッパからソ連を排除しようと試み、その結果、ソ連の孤立化と硬直化・急進化が促されるという柵図は、6 第一一次世界大戦後のみならず、ペレストロイカの時代のゴルバチョフの「欧州共通の家」の提唱とその挫折、近年のNATO・EU加盟問題の試みに至るまで、きわめて類似した特徴である。
その点を考えると、冷戦の起源を語る際、現在少なくとも次の三つのことが疑問として提示できよう。一つは、冷戦の起源として、旧来の冷戦史観でいわれてきた「ソ連の膨張主義」に対して、むしろ「ソ連膨張主義」や「ソ述異質諭」を政治・経済戦略の口実としてつかうことによって「排除の論理」を正当化しようとする伝統的な
西欧・アメリカの外交政策の検討が、災は敢要なのではないか。
第二に、従来冷戦の起源では、一般に米ソ関係とその下での勢力圏分割が重視されてきたが、冷戦を二国対立としてではなく、「二極対立」という「鎖域」の構図としてとらえるならば、冷戦の中でヨーロッパという緬域が西と東に分断されていく経緯の研究が必要なのではないか。さらに第三に、冷戦を「航域」ととらえるとすれば、実は、米ソ関係以上に、分断されていく「ヨーロッパ」、それも歴史的に英ソの勢力圏下とみなされる地域ではなく、これまでの歴史的航域から切り離され、「冷戦」の中でこ
そ分断され大幅な政策変更を迫られていく「小国」の地域からの検討が尖は不可欠なのではないだろうか。本研究は、こうした問題意識から、あらたに冷戦の起源を見直そうとするものである。本研究は、こうした問題意誰
〈東欧にとっての冷戦の意味〉
考にもかかわらず、第二次世界大戦は、こうした問題を何も解決できなかった。そればかりか、新たなソ連国境の拡 癖張、ドイツの分断などによって、不安定な国境線をめぐる潜在的対立と、英・米によるソ連の排除(孤立化)は継続 唾した・第一次世界大戦以来の国境線をめぐる民族・領土問題と、第二次大戦後のソ連邦とヨーロッパ東半分の分断・ 繊排除政策にもっとも影響を受けたのは、東欧諸国であったといえる。
と欧欧米およびロシアの側に、このようなヨーロッパの小国から見た「冷戦認識」、すなわち自らの一思図と無関係に排東「除され分断された側から見た冷戦認識への理解と反省が必要であろう。それがない限り、冷戦終結後再び、西側の理 題」にあった。 の支配は、地域を「平穏」に保つ意味で貢献したのだ、と言う解釈も可能ではある。しかし、現実に、そのシステムの下で、彼らの意に添わない形で、戦後処理の問題(領土・国境問題、それに付随する政治・経済・社会問題)を、一九二○年から引きずったまま分断されて、ナチズムの影響下に入り、さらに第二次世界大戦後は「解放」後ソ連の影響下におかれた東ヨーロッパの諸小国の側から見れば、冷戦とは、その二極の一方に組み込まれてから一九八九年の最終的「解放」に至るまでの、長期にわたる「自己決定機能」の喪失あるいは「自己統治機能」の喪失の時代であったといえる。冷戦による世界の二極分割により、その主体の政策や意図とは大幅に異なる形で、「ヨーロッパ」から排除されていった東欧の側から冷戦の起源を問い直すことは、米ソの世界戦略ゲームとしての冷戦とは異なる、冷戦が小国の社会と個人に与えた「人間の顔」とその苦悩が見えてくるのではないか。そもそも、第二次世界大戦を招いたのが、第一次世界大戦後の戦後処理の問題点皿敗戦国ドイツと社会主義化したロシア・ソ連邦の孤立、複雑な多民族地域である中・東欧の新興諸国に対する「国境の政治的線引き⑭民族・領土間7
念(自由主義と市場主義)の勝利という価値判断の下に、冷戦に代わる新たなヨーロッパ統合というシステムにおい8 てグローパリズムの名の下に、再び(ロシアの)排除の論叫と小国における独自の自己決定権の制限とを、雌反省に繰り返すことになる可能性があるとはいえないだろうか。(1)j・ギャディス「冷戦史の悲劇」『中央公論」一九九四年二几号、四○三頁。]・伊・OB臼の.尋劃・こぎ。§宛の冒詩『畠g巨一冑、蔑め§〕・○×『・a・】g『.(2)富煙旦昏]。。『・自胃罫5月q一言列&§引石員蔚骨向日〒尋図g昌日・四国◎六二のEのg・川口桶久治・鈴木一人「グu-パリゼーシ劃ンと国民N家」付木仏店、一九九七年、一WⅡ~一四六画。(3)「冷戦」の一般的規定については、打倒瓜「冷戦」『現代政流学馴典』大学敬行社、一九九一年。冷戦側係の文献としては、〕。。。Fのミヨ○且鳥目:。月評。§」且員鳥…(・&⑯円§ピミ旨gぼ爵載ら⑪。・g三・く・§ぬ.g巨冒、恩§⑯§2℃患pP己巴・富・言OBE]。].g働園旦蒼9冨胃ト・づぃ:曰』の田・悶さ目篇SE》§(・§§旨.8.ヶ]勺の。§』・厄・【一○コごこ§の勺・のコロロー8.盲の日日】。□巴の]:CO・口【の『の口8』の『の・○○旨口・三コ目。、の【の『]・亘○・コの里・QE}冒貝・ロ、§荷・己▲い’己②。卜・目・ロ・§のh・]声§三冊§・お;§蔦§8骨SE》冒試R;目2-百『呑鼠p員骨ざ』(,;&gヨョ§隊員局程‐巳心町・no白日ワ】ロロ日く⑩『ぃご刃の冊・己司の・の8〔【『の『幻・円『厨・目③§§同S8:且骨g衝ゴミ骨い・8員尹§氏一さ鳥目8’。§§m88月・員骨宛§8-吝載』b園.』b合・己のα・ルイス・ハレー『歴史としての冷戦』サイマル出版、一九七○年。油井・中村・豊下「占倣改難の国際比較』三省堂、一九九四年。(4)こうした問題についての優れた邦語の実証研究として、伊東孝之「東欧に関する連合国の戦争目的一九四一~一九四五」『スラヴ研究』二一、二二、二一一一、二六号、一九七六、一九七八、一九七九、一九八○年。(5)シ零日・重量・目。「○コ。菖ご一塁⑦Q《◎句・ロのEの一一一員・』⑤自営§・自:尊い息・Z○・m・巳①砲・ェ:一三:一雪三三・Rnで冨冒巴貝后bEm目四・コ・髻日のロ百目琶:菖目ロの。目の】5つe・曽詞:雪重・国の〒
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Ⅱ東欧にとっての冷戦の起源と、近年の史料・研究動向”田の(・1.,日bご
|、近年における東欧戦後史の研究の変化一九八九年前後から、東欧では、戦後史研究の大幅な認識の変化があった。旧来の公式の社会主義体制の歴史観では、一九四五~一九四八年は、「人氏民主主義の時代」、「民主主義革命から
社会主義革命への輝かしい過渡期」とされて謹辿。
それが、’九八○年代後半における東欧・ソ連の状況の変化と、歴史の見直しの進展の中で、ハンガリーでは、一
九八九年の歴史委員会の報告書において大きな変化が現れた。そこでは、一九四七年後半からの時期を、自立性喪失の時代とし、「ソヴェト・モデルを引き写し、ハンガリーの伝統とは異なる外国の諸機関が導入された」、.九五六
老年(のハンガリー事件)は、民衆蜂起であり、民族独立闘争であった」と書かれるに韮っ(樫・ 榊ただしこうした状況は、一九八九年の社会主義体制の崩壊後九年を経て、また、当時の民主主義政椛が次々と崩壊 唾し、新たに社会主義政党が政権についていく中で、国際的な方針(市場化とヨーロッパ統合)に変化はないものの、 総歴史観については、若干修正されてきている。
と欧たとえばハンガリーの一九五六年事件については、’九八九年の「歴史の見直し」が出るまでは公式には「反鹸命」束であったが、その後は民族解放剛争と修疋され、一九八九年の転換以降は、八九年の転換を導いた氏族独立革命とし 仙保隆行「マーシャル・プランに対するソ述の対応」『ロシア研究」一九号、一九九四年。岩川賢治「ソ述のヨーロッパ政簸」石井編「一九四○年代のヨーロッパの政治と冷戦』一九九三年。(6)『意ミロ『“盲(』酉目・巴・耳の国ゴーの望四○{{ヨロココ:CO目『一の⑪冨巴①『・ミの⑫(く】⑦這勾8]】8句。旨○口』の忠・もつい②.彊・9
二、東欧にとっての冷戦の起源研究
東欧の側から見た場合の冷戦の起源についての研究は、英米がソ迎を排除し、その結果としてソ連が英米協調政策を放棄するなかで、東欧が、どの時期まで、どの程度、戦後、独自の国家・社会建設の方向性を定めることができたのかという、自己決定権の制限と限界の時期を探る問題と重なる。これは国により、また国内の各機構によっても諸段階がある。また、国内でも、政党、部局、さらに個人によって、同一時期においても認識の度合いが大きく異なる。第二次世界大戦後、冷戦の進行の結果、ヨーロッパの東半分が分断されソ連の影響下にはいるという、東欧の政治的変化については、既に当時から多くの人の関心を呼び、セトン・ワトソンの「東欧の革命」やフェイトーの『スターリン時代の東欧』『スターリン以後の東欧』などをはじめ多くの著作が出されてきた。
その中でハンガリーは、東欧の中でも比較的特殊、あるいは暖昧な位置を占めており、旧来は「冷戦」とソ迎の罪
を問題とする岐人の材料であるポーランドなどに比べて、必ずしも一般的には注目されてこなかった。
しかし、一九七○年代末から八○年代にかけ、旧来の冷戦研究の正統派とレヴィジョーースト(修旺主義派)との対立をこえる、いわば現実派・史料実証派として机次いで東欧戦後史の比較研究およびハンガリーを中心とする冷戦の見直しが現れてきた。 て高く評価され、多くの回想録も川された。しかし史料の公開の中で五六年評価は次第に甲乙つけがたいものとなり、一九九六年一○月の四○周年の記念式典においては鳴り物入りの評価は影を潜め、国民の間の世論調査でも、やはり革命と反革命の両刀の側而があったのではないか、国民の解放記念日としては三川一五日(ハプスブルク帝国からの
独立)がより一般的という現実的認識が多数を占めてきてL麺。
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こうした巾で、東欧各耐とアメリカの外交関係をつぶさに検討したルンデスタッドの『アメリカン・ノンポリシー」、
東欧国内の政体の比較を検討したロスチャイルドの『多様性へのⅢ冊』が州され、またハンガリーのソ巡閲係に焦点
考を当てて論じたものとしてガティの「ハンガリーとソヴェト。ブロック』、ハンガリーと英米関係を論じたものとし 耐てマックスの「アメリカ、イギリスとハンガリーのソヴェト化」がそれぞれ川さ礼越。
i蝿一九八九年、九一年の東欧・ソ連の社会主義体制の崩壊以降、東側から●も、新史料の公開の開始により、新たな研 織究が始められた。一九九一一年に、タフニェンコ、ナリンスキーらにより、ソ連は最後までマーシャル・プランに建設
と欧的に参加する川意があった》」と、東欧について●も、一九四七年の七Ⅲ四日頃まで、参加を要請する態度をとっていた、束(6) という』、の史料が公附された。 一几八○年代前後から、ルンデスタッド、、スチャイルド、ガティなどが、第三の見解に近い形で新たな研究を側始し、英米と同様、ソ連の対東欧政簸も国により傾域によってかなり異なっていたし各国の対応も異なっていたとする研究が出され始めた。 Ⅲ来、冷戦を呼び起こした原因の一端として言われる「ソ連の膨張主義」については、歴史的に三つの流れがあるとして、ルンデスタッドがまとめている。
第一は、ソ連は戦争終結時に、既に、全ドイツに対する東欧の組織化を意図していたとする、ケナンらの説。第二は、ソ連は戦争初期には共産党による東欧の制御は考えていなかった、東欧への拡大はソ連の安全保障の結果
であるとする、ドイッチャー、ハレーらの説。
第三は、ソ述はそのような叩純に一画した政簸を東欧に対して採ってきたわけではないとする、七トンⅡワトソン、 であるとする、ドイー
第三は、ソ述はそ(
ウラムらの説で延麺。
こうした状況をふまえつつ、ハンガリーの内政と外交を分析しながら、諸史料と近年の研究による諸事実を提示し、東欧にとって、ハンガリーにとっての冷戦の起源を考えていくことが、本稿の課題となる。
ここではとくに、一九八○年~九○年代の新しい研究状況や近年ハンガリーで出されているモノグラフなどを利用
しながら、ハンガリーの国立史料館のソ連関係の極秘史料、およびハンガリー政治史研究所にある、共産党幹部会と政党間会議の極秘史料を中心に、一部ロンドンの外交史料館のハンガリー関係史料、アメリカの句幻□のと国立史料 館のハンガリー関係史料を利用しつつ、検討することと土型。
(1)出』冒巴・くぎ§§ミミ§颪§日溜(・ョ&息息冒(ハンガリー革命労働運動史)、口目⑨□のい【・§の.尼公‐、、]・]。.(2)目『88』菖臨§行(「社会評論」特集号)、』の⑪P{の:貸〆目『酔巨、‐膜こうしたハンガリーにおける歴史の見直し
このように欧米の研究が深化しソ連の史料公開が進む中で、まずポーランドで、ついでハンガリーやチェコでも対
ソ関係にかんする国内の極秘資料の公開が始まり、それに基づいて研究が開始され始めた。これまでのところ、そうした史料は、一九八○年代にあらわれてきた各国の多様性やハンガリーの特別な位置を補強するようなかたちとなっている。しかし一九九四年から一九九六年のハンガリーの研究状況では、とりあえず、西側の研究を紹介し、またア
メリカ・ロシアで新たに発掘された史料を翻訳。刊行していく作業、それに加えて、本国で新しく公開され始めた極秘資料を読破しつつある、という状況であった。他力、’九九○年代には、ギャディスらを中心にポスト修正主義派の研究が強化され、冷戦は長期の平和であった、あるいは今や我々は(当時の状況を)知りうるとして、膨大な史料研究に基づく冷戦の再検討がアメリカで始められ てL麺。しかしギャディスらの見解は、結局アメリカの冷戦体制を肯定するものとして、東欧研究の側からは納得し
がたい部分も多い。12
東欧と冷戦の起源再考
(6)先にふれた、タフニェンコ、ナリンスキーの論文。(7)]・P・の四目賦里目・凋円§§§『計い(貰・青閏sqa鳶9瓦ミミ.F・目・貝己⑪⑭。」・伊・○四Q臼の・弓:。こき。§恩‐冒蔦冒駒g嵐一百『、房Sq6x〔・貝]①臼.(8)筆者は一九九四年から一九九六年にハンガリーの科学アカデミー歴史学研究所とイギリスのロンドン大学スラヴ東欧研究所で在外研究を行ってきた。閲覧し収集してきた史料は次の通りである。ハンガリーの史料は、|っは旧ハンガリー社会主義労働者党(共産党)の党史研究所の政党関係史料(現在は、ハンガリー国立史料館の現代史史料館分館)、今一つはハンガリー国立史料館の外務省史料、特にソ連関係の極秘文書である。ハンガリーの歴史資料は通常三○年間たつと公開されるが、ソ連関係の極秘文書が見られるようになったのはソ連解体後ようやく一九九四年頃からである。’九九四年の段階では筆者も国立史料館で極秘史料をひもとき始めた最初の研究者の一人であり、史 (3)⑭、6.一・ワの『』9m》」く響②㈹8貝且四「朝凹新聞』一九九六年一○月二六日(4)○の一『P目□の⑰日・・息③煙ミヨ計冒菖・冨も。』§(・民一s且⑭同口吻§剴向ミ82℃島‐ご心司ロミ§②ミミミ巷§S岱口巷・『a⑲いい③員冒』旨‐§伺い』』。&③ロミ愚巨曾貝③駒・弓「・ョ⑪。‐。、一・‐国⑦『ぬの。.]①『⑭.b・色、.□・の]○・による分析。○の【○mの句・【の目、P宛筐いいs§ロ(意弓、②』忌斡§、ト召昔ロ討巨吻冒』冒・三の員○『口○○斎・巳の⑬・芦②BOCの旨の○ヶの『・吻冒』冒叱邑帛》ヴミ《8一国濤偏。pご香こ・勺の。、巨冒国○○六⑪》]①の⑪・PC巳⑫国口]一⑦・曰●胃。。一旦ヨロ「P②田莨。q・Zの乏閏・『六・』Cの『。(ハレー「歴史としての冷戦』サイマル、一九七○年)困巨、ロの①(・ローミロ(の○コ目善①恩②局ミ:⑩§詞8.一員3嵩・旧oBoPBg・旨口9国・白ロ日向§冒凰・苫§且○○③爵§8●『胃国莨。q旦吻。ご§、ご翼凰応凶晴》ず罫u一角℃』司局bロ『・Zの三国○鳥・己のP(5)○の}『ドロロ:⑫BPS量・]○の8ヶ幻○房い◎厩]P幻③(ミョSC旨③『軋邑・○〆[Ca・』cmPoゴロ『]の②の⑪三・帛轡畠ミビロ再旦暮⑮m8忌耳四○DCロ『ゴロ日〕c、の・の日ロ』の]富・冨囚×・恩③[ミミい§⑮②.Q§&ミロ貫目aS⑮の。§蔦葛○ヨミ弟{冒陀月莨b怠‐S島・国口⑫忌日。‐b8p巨○ロ○m目ロゴの.]の⑪口 の概観は、羽晒一八-二九頁。 羽場久温子「ペレストロイカ下の東欧》『多様性への回帰」」「外交時報」Z○・局のP’九八九年七/八合併号、
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料館からは「ハンガリー人も読んでない史料」であり心して読むようにいわれた。しかし英国から戻った一九九六年の段階ではかなりの研究者が極秘史料を読み、モノグラフを書き始めていた。l政治史研究所(旧党史研究所・現国立史料館の現代史史料館分館)の史料や○房涛巴目。。白い且豆蔵月庁の炉のぐの]註『シ『O三‐百日・としては以下のものを主に使用した。①。m○日・缶〆冨勺芹のぐの穴の目⑪厨のぐの』穴mb8o〕口8⑰一『go穴、旨〕一のョか目の、〕へ国・』へ属・』ヘの].(共産党の活動関係史料)党大会、スパイ事件、民族独立戦線綱領、国際状況)⑬『←『。且.シ三m田口『【・ョ目厨日限『芹【。B○日】す】N・再めい、-3斤○六m甚冒【忌旦の・閂・戸揖8.『、い・国六○庁・S8・』』8.(ハンガリー雌〈産党中央委員会史料)党大会、党会議、中央幹部書記局秘密文書、政党間会議、左派ブロック、外務委員会史料・・ソ連、ソ連外務省、ユーゴ関係、軍関係。g⑪〔・目・冨凋百『・【の乱、肝シごm旨】丙88.一日巴(ハンガリー・イギリス関係)2国立史料館史料:○『⑫凪、。②いのく璽威【シ『◎ぽくロョとしては以下のものを使用した。潴貝’]堂・富臼田日‐のNCぐ〕の日日o百℃8.-日○六閏、。『旨。日六・⑫一「口目印]①念‐]①g・△‐員の‐。》】い‐。.g‐。・園‐。》暖‐。。(ハンガリー・ソ連関係縦秘文書)ハンガリーの講和条約とソ連の見解、ハンガリー外務省とプダベシュトのソ連大使館関係者との会合、ハンガリーのソヴェト代表部、ソ連大使館軍事アタッシェと下部機関、ハンガリー駐留中のソ連軍の紺織維持のための活動、パリ講和会議のハンガリー関係第二二条のハンガリー頒土に駐留するソ連軍に提供される諸条件(*ソ連軍撤退の撤回条件にかんする極秘資料皿コピー許可おりず)、赤瀬への補給品、ハンガリー領土に臨時に駐留するソ連軍の兵士と諸機関の活動にかんする 4イギリスの史料は、外務省公文書館(勺ロgo幻の8a○霞8)にあるハンガリー関係、ソ連関係の史料であり、集めたものは以下である。》」こには党閥係、対ソ関係の貴愈な資料が存在する。国1踵の。句。且的口○段8℃:二・宛①8日○日8 3○⑪]、の①q,恩ロロ昌冒くいロ(旧小農業者党外務委員卯ナジ・フェレンッ派)作成の内務省史料【○.8℃、】。⑩℃の「.シ ●、
【一切、口己Pb坤耳⑫吊冨日勝』3.□・穴ロョの貝ロョ・穴(スパイ事件、小農業者党の分裂にかんする史料)。これは一九九八年に刊
ものは以下である。こ》史料(ハンガリー関係) 行史料として出版された。 秘資料皿諸問題。
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東欧と冷戦の起源再考
可○四コ⑪西目mmq⑪〕①s・の⑪囲い・mmms・の『SPS]③Pの。『Cかご『①.①目闇・枢軸国の、家条約への調印と批准、ギリシャ・トルコ問題とハンガリー、ハンガリーへのイギリスの援助、ソ迎耶関係、ソ迎叩の撤退ほか。『○s]wmoく一の一ロゴ一・.帥ら念・m3g.⑪のゴの.mの『⑪Pmmmg・ソ迎外交と「3大囚」の北〈同、外国共産党へのソ迎の態度、チャーチルのフルトン滅説へのソ連の反応、ソ連の外交戦略とその意図。司○臼】ら・ぐ】の戸口ロ】・目Ss・の2』m・の①Sm・の①一m⑪シソ連のギリシャ蜂起への援助、ヨーロッパ北〈産党会議(ワルシャワ)、ソ連圏と比較しての西欧側の回復。5アメリカのハンガリー関係の文書としては、ワシントンの国立史料館史料、国立史料館のハンガリー関係文書(一九四五’’九四九)、ソ迎のハンガリー外交のアルヒーフやマイクロフィルムなどがある。Zg】・ロローシR宣くのい史料(□・の.シ)“ハンガリー関係国]のZ。.『臼.R・の。『一の[出目、口q幻の一目○口、.』の心、,己8.Z:。コローン「、三ぐの⑪史料(□・の。シ)》ハンガリー関係マイクロフィルムpご急目員貫口②・の盲(③ロ§。「§⑩貝C、頁日届罵賜凸凹冒吻。ご§ロミ・ヨヨミ目(邑邑嵐日巳念Abp斡旦、ご菖趣西菖』(百斗鰯』C△q‐閂b《b・これらはまだ充分に整理できてはおらず、本稿ではそのうちの一部、とくにハンガリーと西との関係、およびソ述軍の残留問題をめぐる史料を使って検討したものである。 司○3斤国目恩q”』の心m・心⑪s⑦・念sP台、8.怠臼m・ソ迎・ハンガリー賠価協定、ハンガリー迎合国代表部、ホルティとのインタヴューにかんするメモ、その他。句○②『庁國仁口恩Q”己怠・臼②鷺・田困Pmgmm.、⑪①①『.⑪のg』.、g匡・の〔n・パリ講和会議叩ハンガリー、クーデンホーフ・カレルギーのヨーロッパ統合計画、連合国管理委員会、宗教問題(ハンガリー枢機教ミンッェンティ亜ソ連の反応)、ハンガリーにかんする講和条約草稿、力1ロイ・ミハーイ伯爵のハンガリーへの帰国、ハンガリー首相のモスクワ訪問、ドナウ経済連合の提案。
15
(1) 比較することができる。ルンデスタッドは、「アメリカン・ノンポリシー』で、アメリカの東欧に対する政策と目標に濃淡があったと同様、
現実のソ連の東欧にかんする認識には差異があった、アメリカのソ連膨張主義の認識はソ連の政策の一面的な単純化であろう、としている。その上でアメリカの対東欧政策の実証研究に基づき、ソ連にとっての東欧認識の濃淡につい Ⅲ戦後東欧の政治状況とハンガリーの位置般初に、東欧における戦後の政治状況のアウトラインを概観し、その巾でのハンガリーのおおよその位置を脈認するために、まず東欧の連合政椛の時期区分の年表と地図とを示しておきたい。年表からは、通常、社会主義体制への過渡期ないし「人氏民主主義」の時代と呼ばれてきた一九四五年から一九四八年の時期に、東欧の内政がどのように変化し、議会制比主主義の政椛がどのように機能してきたかについて、相互
て、次のように提示している。
、Ih旨一・う一・J‐卜Iuいl、ソ連にとっての外部地域、西欧にとっての死活地域は、ギリシャ、トルコ、イタリアであった。ここでは共産党が強力でも、西欧との関係を亜祝し、ソ連はほとんど手を出していない。2、ソ連と西欧の中間地域、いわばバッファーゾーンかグレーゾーンと呼びうる地域として、ルンデスタッドは、東ドイツ、チェコスロヴァキア、ハンガリー、オーストリア、ユーゴスラヴィア、アルパーーァを上げている。この地域では濃淡の差はあるものの、具体的な戦後政莱を明確化していない、あるいは中立化することによって、
自国にとっての脅威を減じようとするものである。3、他方、ソ連にとって内部傾域と考えられたのが、ポーランド、ルーマニア、ブルガリアであった。これについ
16
東欧と冷戦の起源再考 戦り域述の決に以が 緊め関上あへ 張がしのる且
同、+--’10
以上の分析の中で、筆者はとくにソ連の政策が暖昧であった「中間領域」に関心を持っている。それぞれの死活地
域に関しては、通常の段階でも合意の下に大国間で分割される可能性があるし、現にソ連とイギリスとの間でその取
り決めがあった。当初中立化ないし友好的である限りに置いて独自の政策運営が行い得ていた「中間領域」こそ、冷戦の緊張の高まりの中で分断化が進められていった地域と考えられるのではないだろうか。筆者はその中でのハンガリーの位置を確認し、検討していきたい。検討事項は次の通りである。ては、イギリスとの合意の上で、ソ連の安全保障についてなくてはならない地域とし、この地域の主権を制限し
ても軍事的安全を確保しようとしてきた。4、最後に、ソ連にとっての死活地域は、フィンランドの一部、カーゾン線以東のポーランド、パルト三国、ベッ サラビァである。これは独ソ不可侵条約の秘密議定書に記された地域とほぼ対応する。ソ連はこの地域を自国の 安全保障の死活地域とみなし、大きな影響力と決定的発言権を行使しようと」樫。 これを、地図および別表の年表と重ね合わせると、ソ連にとっての死活地域と連合政権の長短が相互に重なり合っ ていること、またこのルンデスタッドの区分が、チャーチルが最初にスターリンに提示した有名な一九四四年一○月
のモスクワ会議での「影響圏」案のパーセンテージとも重なっていることがわかる。また、こうした差異は、ハンガリーの史料でも確認される。ハンガリー国立史料館のソ連秘密資料でも、一九四六年六月二日の報告で、ソ連の安全保障政策として、ポーランド・ブルガリアは重要であるが、チェコスロヴァキア、ルーマーーァ、ハンガリーは不確かであり、とくにチェコスロヴァキアとハンガリーの位置づけは微妙である。チェコスロヴァキアはスラブでソ連と友好国であるがハンガリーはそうではない、というソ連のハンガリー大使館からの記
17
表I東欧における各国連合政権の時期区分
111典:Chm「jeSGMiウノル、g("y〔Jrl〔l(hESouie(ノjIoqp90.の時期区分表(lIughSoIo昨WatSon,T7Ic腕8(
ノA1「opmnノセ['obu(ion`NewYo『k・'956.p」69-171)より11回.羽嶋久iId子「ハンガリーの,!i伽と改革」
「古緬改HV[の[F】際jLW三省堂】991年,pp336837.
18
|日連合国(ナチス侵攻圏)
ユーゴスラビア チェコスロバキア ポーランド 国際状況
【戦争直後の状況】
亡命政府弱 共産党強 基本自力解放
5 4 連 5 4
総連社
6 4 新リ グ仰第阿誤 間桷
⑫ユル
-【戦争直後の状況】‐
亡命政府強 共産党強 反ソ感情弱
45.4.
ソ連軍解放 コシッッェ 政府111立
h6.;!、
蕊萄挑
q、「東西のかけ桟」
ID
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瞳
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、1
48.2.
二月駅件 48.6.
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真の連合
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F
共産党一党支配
-【戦争直後の状況】
亡命政府強→弱 共産党弱 反ソ感情強
偽の連合
共産党一党支配
1944年
-2月
-4
-6
-8
-10
-12
」
1945年 44.10.
チャーチル。
スターリンの パーセンテー ジ幽定
-2月45.2.
-4
-6
-8
-10
-12 1946年
-2月
-4
-6
-8
-10
-12 1947
-2月
-4
-6
-8
-10
-12 19
-2
-4
-6
-8
-10
-12
劃
ヤルタ会膿
47.2.
ドイツを除く l【l枢紬五カ国 とパリ111和条 杓
-47.7.
wFl
47.9. ソ連,ついでチェコ,ポーランド,マーシャル・プラン拒否図
1949年49.1.
-2月
-4
-6
-8
-10
-12
コメコン股立
東欧と冷戦の起源再考
19
1日枢軸国
ブルガリア ルーマニア --
1944年2月一 4-
6-
8-
10-
12-
1945年2-
4-
6-
8-
10-
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1946年2-
4-
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12‐
1947年2-
4-
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8-
10-
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1948年2-
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1949年2-
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9
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●真の連合
偽の連合
祖川民妃β民1週
9民民Ⅲ逝閣β民
,刈恵
共産党一党支配
J共1
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、
共産党一党支配
『 今、
偽の連合
、
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4
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〃
真の連合
ノ
偽の迎合
共産党一党支配
民族派共産主義者ラ イク連}(,のら処刑
來欧に対するソ連の影瀞飢域と卵二次'11界大戦 下の剛二|:変更
①AbsoIute8 フィンランドの一部 ポーランド(カーゾン線以東)
パルト三国 ベソサラピァ Inner:
択一ランド ルーマニア ブルガリア
②Middle:
東ドイツ
チェコスロヴァキア ハンガリー オーストリア ユーゴスラヴィァ アルパニア
③Outer:
ギリシャ トルコ イタリア
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図Iチャーチルがスターリンに提示した「影響圏」案
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地図111典:AnlonyPolonsky,TノlcLi化Dimz・
IC応,T/le〃is(o)yQ/EYJs(ellIEwmPcsi"cc1918.
London,1975.羽場ほか訳jl1【’ンスキ『小独蛾 者たち」法政大学111版局,】993(伽域線は,Gcir LllndcstadO刀JeAルノプCq〃M)ルノblicyICI(!。”S BY]sleJwEwmPe,Oslo,1978.に』(づくもの)
111典:KoviicsImre,A化g)U'mszdg〃lqVsz(ilノdsa(ハンガリー のlliIiIi)pToronIo,1979,1).328.
注:,/の「l]は,i1i鉛飛でスターリンが(合意して)つけ/ご()
の.」二から.ルーマニア,ギリシア,ユーゴスラヴィア,
ハンガリー.ブルガリア
20
東欧と冷戦の起源再考
ハンガリーではとくに実質的一党化の遅れ(ないし共産党の脆弱さ)が顕著で、’九四八年一二月まで、一党化は
実現せず、小農業者党左派のティルディ・ゾルターン大統領は、共産党シンパと呼ばれつつ一九四八年七月までその
職にとどまった。そのあとも四八年一二月から小農業者党左派のドビ内閣が組閣されている。加えてハンガリーでは歴史的に社会民主党左派の影響力が最後まで決定的に強く、四八年七月に大統領となった社会民主党のサカシッチの
影響力は無視できなかった。人民戦線の単一候補者名簿による圧勝は、ようやく一九四九年五月であった。
第二は、外交面におけるハンガリーの位置、とりわけ通説と現実の落差の確認である。
スターリン・ノートによれば、ソ連は東ドイツでは、’九五二年四月までドイツ全体の中立化をめざしていたが、
西側の否定的な反応を見て方向転換したとさ拠麺・同様にソ連は繰り返し、オーストリアの中立を要請」煙・
ドイツの中立化が最大の敵を非武装化しておく意図を持ち、フィンランドの中立化が国境周辺の死活地域を危険地 とくに、筆者は、共産党への一党化とユーゴスラヴィア・モデルとの関係、共産党内部のモスクワ派と民族派との関係、そうした中での「自己統治機能の喪失」がどのように行われていったかに焦点を絞りたい。その際、民主主義ないし人民民主主義の概念がどう変化していったかも問題となってこよう。東欧の社会主義化におけるユーゴスラヴィアの位置および人民民主主義の研究については、既に川本では一九七○(4) 年代に百瀬宏氏、一九八○年代に南塚信吾氏の研究蓄積があり、また近年ハンガリーで研究が進みつつある問題でもある。 のだろうか。 一つは、連合政権の実態である。セトンⅡワトソンは、真の連合・偽の連合・共産党の一党化と分けて論じたが、九四七年から四八年にかけての段階的な変容の中で、何がより決定的な転機(国内的、対外的、国際的)であった21
いずれにせよ、この時期については、東欧の内政と外交の双方から、かなり撒密に検証していく必要があろう。本
研究は、その一つの布石にすぎない。すでにポーランドについては現実に立脚した広瀬氏の研究があり、フィンラン
ドについては百瀬氏の代表的な研究が迩誕・筆者は、第二次世界大戦後のハンガリーを基礎に、この時期の東欧と冷
戦の問題に新たな問題を提示したい。二九四四年におけるハンガリーの位置〉ロスチャイルドは、その著書の中で、第二次世界大戦後のハンガリーにふれて、もしホルティがもっとうまく政策転換を行っていれば、あてにならない少数の共産党にはこだわらなかったであろうこと、スターリンが一九四四年一 このことはまさに、「東欧全体にとっての冷戦の起源は何であったか」について、最初に介入を受けたポーランドから、最後にソ連の影響下に入っていくハンガリーないしチェコスロヴァキアとの間に、どれほどの期間の違い、政策の違い、現状の違いがあったか、を考え直す作業と重なる。いずれの国も、連合政権がとりあえずマーシャル・プランまで継続していること、ルーマニアでは四七年末まで国王が権力についていたこと、などにも注意を喚起してお 帯化しないという意図を持っていたとすれば、オーストリアの中立化は、中欧のオーストリアが強国ドイツと結ぶことを避け、東側の影響圏と西側の影響圏の間に緩衝地帯をもうけるという意図を持っていた。ハンガリーあるいはチェコスロヴァキアの行方がこのオーストリアと近い側面を持っていたというのは、|般には唐突かもしれない。しかしルンデスタッド、ロスチャイルドなども旧来の「東欧」の枠組みをはずして考える実証研究を示唆している。いずれにしても、冷戦の開始後ソ連圏に最終的に組み込まれた地域を、最初から同一に塗り込める図式はすでに崩れてきてきたい。 いるといえるであろう。22
その第一は、ソ迎とハンガリー王国摂政ホルティとの休戦交渉であり、第二は、チャーチルとスターリンとの戦争
米川の蝿事的比率を取り決める(といわれてきた)剛ごとの影響を百分串で表したモスクワ会談であり、第三は、吐く産党のモスクワ活動者会議であった。
ソ連とハンガリー王国摂政ホルティとの交渉では、ホルティは休戦に向けて、敵対の終結、「フィンランド型」の休戦、ドィッボの退去と、英米軍を含む共同占伽を期待し要請した。この交渉はソ連にとって受け入れがたかったが、その後ホルティが国内で準伽不足のまま一九四四年一○月一二日に突如休戦を宴言したことから、ドイツはハンガリ1
者を占拠し、ホルティは逮捕され、交渉継続の可能性はなくなっ(埋。 願同じ時期、英米も、ハンガリーに対しては特別の見方をしていた。イギリスは、ハンガリーは親英的だが、トリア 歴ノン条約による緬土の縮小の是正ゆえにドイツに組みすると考えていたし、一九四四年まで英米はハンガリーを迎合
戦襯国に中立的と考えて、ハンガリーに爆仰を投下しなかった。また四四年一○月の時点でイギリスはハンガリーと1-
と欧ゴスーフヴィァにおいては、ソヴェト軍とイギリスのウィルソン地中海最高参謀の軍は勢力として対等であると考えて東いた。四四年八月の終わり、イギリスのバルカン空軍政策委員会は、「ハンガリーを爆撃するのは誤りかもしれない、 プ(》○ ○月中旬に、イギリス・アメリカに北アドリァ戦線の開設を進めたことは、ハンガリーの共同占領を示唆していたこと、臨時政府は共産党が少なく穏健であったこと、ハンガリーでの施設撤去の激しさは、逆にソ連軍が長期占領をしないのではないかという見通しを持たせたこと、について指摘している(同様の記述は、多かれ少なかれ、フェイトー、パーカー、チャーチルの回顧録にも児ら池墾)・
チャールズ。ガティもその著書で、一九四四年一○月の時点でモスクワでおこった一一一つの出来事についてふれてい23
ソ迎はテヘランでポーランドの主導権を確保し、さらにルーマーーァ、ブルガリアを希望していた。これを読んでい
たチャーチルは、イギリスの地中海への利害として、ギリシャ、トルコの恢有権を主帳し、ユーゴスラヴィア、ハンガリー、チェコスロヴァキア、その他の束中欧は、英ソの共同の影響圏と仮定した。三日後に、ハンガリーはユーゴ
スラヴィァとのバーターからソ連が八○パーセントと修正されたものの、少なくとも当初チャーチルがハンガリーを英ソ共同のものとして考えていたことは重要である。
第三は、モスクワのハンガリー共産党の活動者会議である。これは、一九四四年九月末から一○月七日に開かれた。
ここでは、ハンガリー全土がやがてソ迎班の手により開放される状況下で、レーヴァイは、民主主義革命、巾でもまず民族革命が遂行されるべきであり、その指導者は共産党であると述べた。ゲレーは当面の課題はプロレタリア独裁
ではなく、人氏民主主義の可能性を探ることであり、その性格は資本主義と社会主義の中間の連合政権になるであろうと述べている。スターリンは、当初こうした中間的形態が一○~二○年は続くと考えていたとされる。
また新政権には、大戦間期の権威主義的独裁を遂行したホルティ体制の指導者も含むことが示唆された。ゲレーは、東中欧における漸進主義的アプローチを主張し、彼がめざすべき行動綱領はハンガリーの民族の迎合政権であること、
それゆえ党の名称も共産党ハンガリー人文部からハンガリー共産党へと変更すべきであると述べた。 している。この時点では、
先に見た、チャーチルー
とチャーチル、ソ連のモー
ロトフによってなされた。 なぜなら我々がそこに入り国を統制下におく前に混乱を引き起こすことはイギリスの利益に反しているから」と指摘
してL型。この時点では、ハンガリーは英国側から見て未だ影響圏の範囲内にあるとされたのである。
先に見た、チャーチルとスターリンの「影響圏」分割案については、一九四四年一○月九日、イギリスのイーデンとチャーチル、ソ連のモロトフとスターリンの領土交渉が行われ、そのつめが、それぞれの外相であるイーデンとモ24
東欧と冷戦の起源両考
こうした事実は、ソ迎の対ハンガリー政策が一定しておらず、ソ連はハンガリーをソ述圏に組み込むつもりがなかっ
たように思われるという、ロスチャイルドの研究とも一致土製。
なぜこういった政策をソ連はハンガリーに対してとったのか。いずれにしても一九四四年の時点で、共同占領の可能性、英ソからの同等の距離、ソ連軍の早期撤退の可能性を、
多くの研究者が指摘しているのである。すなわち別の言葉で言えば、この時点では、ハンガリーがソ連圏に組み込ま
れる可能性が未だ透明であったということである。
これらがその後、いずれも崩れていく。どこで、なぜ、どのように崩れていったのか。それを内政と外交との関係から検討することが、本稿の課題である。
(4)百瀬宏「「ソ連・東欧圏」の形成と人民民主主義の変遷」「歴史学研究』四六五号、一九七九年二月。南塚信吾「東欧における人民民主主義概念の変遷lハンガリーを中心にl」(一)(二)「北〈産主義と国際政治』一九八一~一九八二年。(5)星乃治彦「社会主義国における民衆の歴史」法律文化社、一九九四年、一七~一八頁。 ~二九頁。(3)ハンガ”ぬ-ご【云い『。 (1)四口、ロの①[○コ,三四扇・ロ・昏恩回冒g⑤目勾8.』貝3ョも口・』g‐『」・○ゴロ『|の⑰の自・国§、ミピ§Qs③の。ご§四・。□・巴・より作図。羽場久温子「ハンガリーの占械と改革」「占緬改革の国際比較』三省堂、一九九四年。一一一一一一六~三一一一七頁。(2)○の一「P:。の⑫一目・豊。」。§片目」ご目’用》亘曰Q§こ□a②団口切庶§向ミg⑮6℃・O-Fbb・△gLmP「独ソ不可侵条約秘密議定書」のコピー、○国弓国閑自口○口(菖早ご『『向邑ケエゲヨコ勺。『ベ)【○回(FopQop・勺ロワ]一。幻の8a○閾、の》の①8コ。肴。『一口三日□○○口,【ゴの。B「『・曰河口研一ロロシ『O嵐ぐの⑭.z・ぐ・己のm・にて人手)。邦語では、斎藤治子「独ソ不可侵条約」新樹社、一九九五年、二八
ンガリー国立史料館史料、。P・〆只‐]L⑭,PmQoロ○N。、恩へのロ・こぢ・の・口・ソ連の安全保障政策、穴の日のごP・・・【○ぐの恩‐
25
Ⅳ戦後ハンガリーの国内状況と内政の転機ここでは、一九四五年以降のハンガリー国内の政治状況の概観とその転換を見る。当時のハンガリーの政治目標は次のようなものであった。
一つは、ハンガリー(ないし東欧)の将来をどのような方向に求めるか、ということである。第二は、戦争後の講和、とくに額土・民族問題をどのように処理するかと言うことである。第三は、ソ述および欧米に対する態度、ないしソ述・欧米との関係である。
三つは、杣皿に関係しつつ、時期によって、また達成のための手段と条件の変化によって、大きく異なってくる。一の、ハンガリーの将来像については、(1)独裁制とファシズムの排除、(2)民主主義(議会制民主主義)の確
立、(3)戦時経済からの復興、(4)敗戦後の社会復興が全体の課題であり、とくに、旧体制の官僚や公務員を放逐
(7)広瀬化一『ポーランドをめぐる政治力学』頸草漕房、一九九三年。同『ヨーロッパ分断』中公新謝、一九九四年。百瀬宏『ソヴェト迎邦と現代の世界」滑波恕店、一九七九年。(8)]。⑫8可幻。旨い9旨・宛曾ミミ○ト)ざ§乳曾8.2・ロロ・召・フェィトー『スターリン時代の東欧』岩波現代溌諜、一九七九年、八二頁。ロ厨ロワのSm口『六m『藪口乱房討勾)怠@罫②。貝討‐向ロ②(向冒gQ冒暮⑩い⑮8ミヨミ且ミロ「・三四○『己]一目・$『m・チャーチル「第二次世界大戦」(一)~(四)、河出文庫、一几八三(一九九四)。(9)○す⑪『|の⑫○日一・拍昏其mpqp曽只&②吻○鼠貝、{。。、貝可⑪日・』の、の.□.いい.宛○s⑰、三一口.。ご・a(・・己b・△。L⑬.(皿)、日六の『・8.3『・ロ・局]・(Ⅲ)幻○畳⑫、豆]go》・a(・ロ・の『. (6)のぐのロシ]]、a烏踵いぃ日§。&③」属国目の巨⑩弓飼・曾浬n口②。②冒只ビミ②。ご§刃)』§計同冒g⑩.□ゴーぐの『勿一qで仰『六回目伊Cp-goロロ]①『○・26
一、ハンガリーの政党状況(素揃)
瀞各党派が樅力奪取をめざし戦うこと日体は、政党政治としては当然なことである。川越は、それが、合法的な議論
1
脚の枠内で戦われたのはどの段階まで、いつまでであったか、各政党のめざす政策はどのようなものであったか。どの 唾ように問題の違いが明らかになっていくのか、ということであろう。 繊第二次世界大戦後のハンガリーにおいて、小農業者党は、’九四五年二月の選挙で五七%を獲得し、安定的第一
と欧党を占めた。その後一九四七年まで、小農業者党は、単独過半数の圧倒的強さを誇った。東他力、共産党は、ソ連軍駐翻の最初の選挙で一七%、四七年八月の時点でも二二・三%しかなく、他国に比べて雁 ソ迎、欧米との関係については、ハンガリーは戦後しばらくの間、英ソ間で等距離外交の立場をとっていた。当初、小農業者党と英米とのパイプは太く、またソ連との関係も比較的良かった。英米は、程度や戦略の差はあれ、一九四七年半ば頃まで、ハンガリーを民主主義陣営につなぎ止める姿勢を持ち続けていたのである。 して新しい民主主義政府をいかに作るか、疲弊した経済をいかに立て直すか、戦争から帰側した兵士たちをどのように職に就けるかは焦眉の課題であった。第二の、戦後講和は、一九四六年まで最大の焦点となった。ハンガリーは、ホルティを始めもともと対外的には親
英的であったものの、’九二○年のトリァノン条約による領土の大幅な縮小以降、領土の回復と大恐慌後の農業経済の回復などを望む観点から否応なくドイツに接近していった経緯があった。
講和の締結と、傲士問題の確定に際して、ハンガリーは、その国境線の修正を実現するために、今度はソ連に接近
していく。
27
侍できると一一二口わし処越。
この党は、歴史的に組織労働者と労働組合に影轡力が強く、一九世紀末からの伝統を誇っている。しかし、共産党との対抗関係の過樫で右派は分裂した。イギリスで、一九四五年八月よりアトリー労働党政権が樹立したとき、その外務大臣を務めたベヴィンとは強いパイプを持ち、ハンガリーに社会民主党がいる限り、ハンガリーの民主主義は雑 まず、ハンガリーで最大の政党である小農業者党は、中央派、右派、左派からなり、旧体制のホルティ派や保守層をも吸収して、広範で安定した基盤を持っていた。この党はもともと農民の党というより富農から巾小農の党であったが、第二次世界大戦後の活動の中で広範な農民層をも引きつけていった。小農業者党は、一九四五年二月から四七年二月までは安定した多数派を形成し、四七年五月のナジ首相の失脚までは、強力な影響力を持ち続けた。さらに一九四七年五月のナジ失脚後も、’九四八年九月まで、左派のティルディが大統価の座に残り続けた。小農業者党は、イギリス、アメリカとの関係も親密であり、またパリ講和会議まではソ連でさえハンガリーの安定的支配勢力として小農業者党との関係を重視していた。 史的雅盤の弱さだけではなく、当時大衆にとって期待しうる勢力となりえなかった。これは、かって第一次世界大戦後、一九一九年のハンガリーでの社会主茂革命(タナーチ共和剛)の経験が、まだ二六年前の負の出来率として残っており、その政治的混乱こそがハンガリーの価士の三分の二、人口の半分を削り取る講和を締結させたのだという、大戦間川の体制側のプロパガンダが、深く大衆に浸透していたことともかかわっていよう。
そうした関係をふまえた上で、以下、各政党を簡単に概観しておこう。
〈社会民主党〉 〈小農業者党〉
28
東欧と冷戦の起源再考 態え義過でこなと半一 あの〈な数ノ るコなるをⅡ とミつか取|
さンたブリ{
れフ。ルえノ
、オジず)
一方ルョイIIIC
(1)氏族派とモスクワ派の対立・併存他方共産党は、一九三○年代に、モスクワ派のハンガリー人(たとえばクン・ベーラ)の粛清があり、モスクワの信頼も充分勝ち得ていなかった。国内基盤は脆弱であり、一九四五年の選挙で共産党は、’七・四%、’九四七年八月の不正選挙ですら一一二・三%の得票率しか得られなかった。
モスクワは当初、ポーランドとは異なり、ハンガリーでは脆弱な共産党より、パリ識和会議まではむしろ、国内に圧倒的彩轡力を持つ小農業者党との関係を、少なくとも表面上は良好に保っていた。しかし秘密警察のファシスト摘
発の活動はやがて小農業者党にも及んでいくこととなる。共産党の国内の「民族派」と呼ばれるグループ(たとえばライクら)は、むしろ急進的に権力獲得を急ごうとした。しかし、モスクワから帰国した「モスクワ派」と呼ばれるグループ(代表的には、ラーコシ、ゲレー、レーヴァイ)
らは、漸進的政策をとり、当面の目標を民主主義的連合政権の実行に置こうとしていた。(2)民族派の成長血ユーゴスラヴィアとの関係の強化
一九四七年八月の選挙で共旅党は反対派を排除し懸察力を動員するなど、かなりの不正選挙を行いながら、与党が過半数を取りえず伸び悩んだ。その結果、九月にコミンフォルムの大会でレーヴァイは、「ハンガリーが人民民主主義となるかブルジョワ民主主義、米英帝国主義の拠点となるかの問題は最終的に解決されていない」と総括せざるを 〈共産党〉(多様性と脆弱さ)
コミンフォルムの大会で、ユーゴスラヴィァの代表により、連合政権でなく一党独裁が人氏民主主義の真の形るとされ、刀針転換を余儀なくされて以降、ハンガリーの共産主義者(民族派)は、一党制の模範をソ迎では
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またハンガリーには、最後まで強力な保守勢力が根強く存在した。一九四七年八月の選挙の時点でも、たとえば小農業者党が崩れたあと旧支配勢力を吸収再編した民主国民党(パランコビッチに率いられるカトリックの党)は、不
正選挙でようやく二二・’一一%をしめた共産党についで第二党となり、政権党に並ぶ底力を示した。しかしこの党はあまりにも右翼的・保守的であったので、西欧の民主主義政体にとって、これに依拠することははばかられ、社会民主党の伸長に期待したイギリスを落胆させることとなった。 この党は、理論的には、ビポー・イシュトヴァーンに代表される知識人層に指導され、貧農層に影響を持った。しかしその支持基雛は、一部は社会民主党と競合して、今一つ独自性を打ち出せなかった。ピポーは、戦後ハンガリーの民主主義は、プロレタリア独裁と反動との間で危機に立たされているとして、ハンガリーの独自の民主主義を主張(2) し、当時のハンガリーに大きな影響力を持った。 なくユーゴスラヴィァに求め、これに接近した。
(3)モスクワ派の勝利、民族派の粛清こうした政策の変容を経て、最終的に総選挙で「人民戦線」が圧勝しハンガリーの民族派が駆逐されるのは、ようやく一九四九年五月から九月にかけてのことである。ハンガリーの共産党が権力を獲得していく経緯は、国際情勢に即してみてもきわめて緩慢であった。
K当時のハン》
〈その他の野党〉 〈民族農民党〉
二、内政の転機としての諸段階
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