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イギリス公使へルムの本国への麺報(1947.11.27.)

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史料 5. イギリス公使へルムの本国への麺報(1947.11.27.)

「ロシア露は東へも西へも動く兆候が見られない)

(イギリス外交史料館史料FO371/67222.No.1450.TopSecret,271lb…berl947)

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今協定は、法務局によって確認され、史料は外務省

から大蔵省に送られ、「以

後は、外務省でなく、大蔵省がこの問題に責任を持つ」

として外務大臣は関与しな

いこと、資料は極秘資料として厳重に保管されること

が、’九四九年九月一四日

に決定さ礼趨(史料6)・

以後は、史料でも、在留

、、ソ連軍維持のための財政

交渉の話が延々と続いてい

く。内務大臣、外務大臣を歴

任した共産主義者の民族派

ライクは、’九四九年五月

に逮捕され、奇しくもソ連

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東欧と冷戦の起源再考

史料6.ソ連正の残留についてソグェト・ハンガリー条約.(194.12.6.)

「条胸の写しは外務省から大正省へ..…以ut、外務街はこの日田には関与しない」

(ハンガリー国立史料蛸史料.ハンガリー・ソ連関係伍秘文谷.DLHamr-SzovjGth…s olatokSエi[oruantilkosiratai・’945-1964.XIX-J-l-j、20-1V-483.1941.9.14付けの 文谷.コピー不肝可.ワープロで写し取ったもの)

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史料

7.1956年のハンガリー事件に際して国連軍の介入を拒否するビラ(1956.】1.1.)

「国連軍がハンガリーへ?外国軍はもうたくさんではなかったか?,、ンガリーの土地に はハンガリー軍のみを!ロシア軍は出ていけ、しかし代わりの軍隊もいらない.…j

(1956.plakatjaiesroplapjai(1956年.プラカードやビラ.パンフレット集),

oktober22-nove■ber5.,Budopest,1991.)

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軍残研の協定が結ばれ極秘資料とし て処理された九月一四日の二日後の 一六日から二二日にかけて、公開の 粛満裁判に付され、ティトー主義者、 アメリカの手先として死刑判決を受

以後、ハンガリーは、チェコ、ポーランドと異なり、ソ迎軍が講和後も

残矧し続け、ナジの諮っていた「ソ 連軍が撤退すればハンガリーは民主 化」という希望は失せ、ソ連叩の暗

黙の圧力下で、自立的な政治・経済・社会述営の雄樅を失われていくこと

になる。

たとえソ連軍が撤退しても、ハン

ガリーに民主主義政権が存続することはあり得なかったと考えることも

できよう。ソ連噸はチェコから一九 比裡。

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しかしソ連は、以後ハンガリー・ルーマニアへの駐留とこれに対する駐留国の財政的な支援を保証され、中欧の首 都を走って黒海に流れる広大なドナウ河流域をソ連軍の管轄下に置くことにより、東中欧、南欧の軍事・政治・経済。

問が当然出てくるであろう。 四五年一二月に撤退しているが、チェコは一九四八年二月のクーデタ以降、急速に「ソ連化」していった。

しかしルンデスタッドも、チェコではソ連軍は何の役割も果たさなかったが、ハンガリーと東独では決定的役割を 果たした、と書いてL型。何より、戦後のチェコの外交政策は、民主主義政権の時代から密接にソ連と結びついてい

た。またチェコでは共産党は強力であり、軍が残らなくても組織化は可能と思われた。

それにたいして、ハンガリーの政府の多数派(小農業者党、社会民主党)は、常に西とコンタクトを取り、共産党

の民族派はユーゴスラヴィァと関係を持っており、ソ連の信頼できるチャネルはモスクワ派だけであった。

かなりのソ連軍が残留したことは、パリ講和会議の条項とは異なり、国際法上の問題となるのではないかという疑

ソ連軍の残留が国際法上の問題とならなかったのは、以下の理由が挙げられよう。l、「必要な軍」の規定が暖昧であり、何らかの数値がどこにも記載されていなかったこと、

2、ハンガリー政府が、共産党を中心にこのソ連軍の残留を早期に承認する手続きをとったこと(ただし、一二月

三○日の時点で、外務大臣ライクの署名が「代理」のラーコシ・マーチャーシュになっているのは、ライクを初めとして共産党内部の間でもこの残留に疑問を抱く声があった可能性も暗示している)、

3、当時の国際状況。一九四七年一二月末から一九四八年一二月という時期が、既に軍。経済・政治すべての点で 東欧に対する米英の最後の関心が放棄されてしまいつつあった時期であり、積極的な反対行動を起こすにはほど

遠かったこと。

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東欧と冷戦の起源iIF吟

皿輸椛をも文配する展望が附けることとなったのである。こうしてドナウ流域における束中欧、南欧地域の「自立的

発展」は傾なわれることになる。

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東欧と冷戦の起源iii考 こ化九リさ法一パ択 こさ五条れ にれ五約、

ハンガリーが「自己統治機能を喪失していく」過程、すなわち主権を制限されていく過程は、ラーコシを中心とする小スターリンの役割が際だっているにせよ、通説に反してかなり遅いものである。(旧来とくに日本では、一般に枢軸国であるルーマニア、ブルガリアとハンガリーを同一視してかなり早い時期に共産主義化を設定していた)しかし完全なソ連化の時期は以外に短い。スターリンの死後直後の一九五三年から始まった束中欧の自立性回復の試みは、ハンガリーでは一九五六年秋の蜂起に発展した。一九五而年にオーストリアの国家条約が、遅れに遅れて採択され、以後オーストリアは中立となり、ソ連取は伽返した。一九五六年のハンガリー事件で、共産党と一般民衆が、パリ条約第二二条に鑑み、「ソ連叩の撤退」を要求したことは、当然の権利であったといえる(しかし、その直前の一九五五年の兀月に、ワルシャワ条約機櫛が飢設され、その結果駐刑ソ連軍は新たにワルシャワ条約機構軍として合

ここに同じ江六年の改革でもハンガリーとポーランドとの間に決定的違いが存在した一つの歴史的背景が存在する。 ポーランド共産党改革派のゴムウカは、ソ連共産党との友好を継続しつつ、国内問題においては国内の共産党が解決

以上、ハンガリーを杣に、東欧と冷戦の起源を再考する試みを行ってきた。ここで明らかにしたかったのは、紛争を避けるという意味での冷戦の「長い平和」という機能とは異なり、小国の側から見た冷戦とは、「自己統治機能」を徐々に喪失し分断されていく過程であったということである。ここでは冷戦の果たした主権の制限過程としての役割が見えてくる。(それはソ連だけではなくイギリス・アメリカについてもそうである) まとめ

ていたのである)。

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