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国民会議派独立運動の諸段階――「ガンディー時代

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国民会議派独立運動の諸段階――「ガンディー時代

」について―― (インド特集II)

著者 山口 博一

権利 Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア

経済研究所 / Institute of Developing

Economies, Japan External Trade Organization (IDE‑JETRO) http://www.ide.go.jp

雑誌名 アジア経済

巻 11

号 11

ページ 2‑26

発行年 1970‑11

出版者 アジア経済研究所

URL http://doi.org/10.20561/00052431

(2)

1970110004.TIF

国 民 会 議 派 独 立 運 動 の 諸 段 階

一 一 「 ガ ン デ ィ 一 時 代 」 に つ い て ー ←

は じ め に I 1の 段 階 H 2の 段 階 E 1の い 階 IV 4の 段 階 V 5の 段 階 VI 6の 段 階

ii:  :~:めに

小請は,

f

虫立達成後円インドの理解にとり不!lj 欠の前提となる1947年の分離独立に関する研究の 一部をなL,インドの独立運動ゅ歴史における iIf 

ンデf一時代」 (191947年〕につL、て政治史的以 検討を行なおうとするものである。その重点は独 立運動史における主要な主体であるインド国民会 議派(以ド会議事

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と略)におかれているので,その 意味ではガンデ、イ一時代ばかりでなくガンディー についての試論でもある。

このように主題を限定したため仁、,j、論に

n ,

(1)ザシディ一時代の社会経済史的時側面ヲ(2)全イ ンド回教徒連盟(以下連盟と略)や左翼諸政党とくに インド共産党,および(3)独立運動史におけるガン デ、ィ一時代以、前の諸時期とくにそれに直接先行し てその諸前提を形づくった190518年の時期,な どに':)"、ての分析ほほとんどふく主れておらず,

これらの諸点をふくめたより縫合的なガンディ一 時代についての検討は他日にゆずることとする。

しかし,,j 、論にお L 、て ι ,これんの ;iY; :,',~ の汚察に-,J-

吋 山

ぞら

口 陣

すむための若干の配慮は行なう予定である。

小論は,会議派運動史の観点から, 191947年 の時期を,(1)l!Jl9年のずンディーの全インド的な 政治舞台への登場にはじまる段階,(2)1927年のイ ギリス政府によるインド統治法改正の必要性を検 討するためのサイモン委員会の桂命をもってはじ まる段階,(3)19:n年〈ハガンヂィーによる院英非協 力・不服従運動の中止につづく段階,(4)1939年の 第2次大戦開始にはじまる段階,(5)1945年のその 終結につ/く段階,(6)1947年2月のアトリー・イ ギリス首相の期限付インド撤退声明にはじまる段 階,の 6段階に区分しているが, それぞれの段階 について事態の推移は追うにしても政治史的叙述 をなすのではなく.47年の分離独立の実現との関 連におU、てそのおのおのの段階における政治史的 帰結を明らかJこすることを試みようとしている。

ガンデf一時代の会議派運動史tこついてはすで にいくつかの通史がかかれている。小論は,それ らのうちでもっとも新しく,もっとも包括的なも のとみられるマジュムダール(R. Majumdar)の

『インド独立運動史』〔f1)の第 3巻にたいする 2 次的分析を基礎としたものである。しかし, 同氏 がのぺてU、るように本書でさえも「バイオニア的 著作j 2〕でしかない。小論はマジュムグールの 足らざるところを他のいくつかの著作にたいする 2次的分析によ−て補うとともにむ子のI次資料

(3)

Ⅰ 第1の段階

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をも用い,

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:掲の段暗区分の4二二ろみとともに 二,三の新しい理解を提示しようとつとめている

(珪:n

(注1) R.  C.  Majumdar, History of the Free‑ do川 島fovementi India,3 vols.  (Calcutta, 1962

〜 

G:,).本書はt;)( C、みで合,\十1O ジ:歩近いであ る が , イ ン ド 独 立 運 動 史 を 悶 つ の 時 期 に わ け , 第1 176318631時期, ./.: 2'寸断。〜 190γ lt:J 生活 1 巻‘:~o;3190518年 の 時it)!42巻,江(4 191947年 の 時 期 を 第

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舎にわL

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っている。持者 はもともと fンド古代史家であるが、 1952年 に イ ン ド 直川政府教Ti,ャより目、,

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主動史*hi.\/,のため川£.・員 会 が 設 置 さ れ た さ い に , そ の 一 員 に 任 命 さ れ , の ち に 問 委 員 会 の 資 料 収 集 ・ 草 稿 作 製 の た め の 汽 任 者 と な っ

'.' t.こだし Ci)左 £i 会は,L'I 初 •!) 目的そ LII干すことな,55  2手に解散している(Vol.I,  Appendix)。本書は厳衝に 政 治 史 に 限 定 さ れ , 多 く の 新 資 料 を 用 い , 全 体 と し て パうJスの土Jt叙 述 そ(J/ lってレ:'.,,第 3'c'i!i: d て は と く に , カ ン デ ィ ー のii1;価のためμ配 慮 か な 主 れ ている。叙述は19478Jj 15日をもって途切れ,運動 iをそれ以伶:ll\来事;:むiぴつ』T r11解すぞ、円ぷの 配慮はみ九Hv J:__73iiL Majumdar 日告する。

日 2) flfajumdar, xxxi. 

Ci.3)  1.~; t 本来「「 J ド総合併江 HJ L f',げる

44年度。報告をなすものである。

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段 ・ ; i n

竺の段階l土、ザンディーの全イシド的政治舞 台への登場(1919年)からサイモン委員会の任命

(27年〉までをふくむ。

「マハトマI(偉大な魂)として知られるガンデ ィー(18伺 〜1948年)は, 1893年以来南アフリカにあ ったが, 1915ff 初頭イン Hこ帰Lr~ した。婦間後し ばらくt土地方的心活動してL、たが,やがて,;

1 ;

1  次世界大戦直後の時期にインドにおけるイギリス の専制支配が一面ではさらに強化されたことに抗 議して, 1919年4月6日に全国的な規模でノリレタ ル(商店などの芥休業〉士行なろ二 2をよひかiJ

た。これは非常な成功をおさめたといわれる。マ ジュムダーノレによれば「こうして1919年4月6日 のパルタルはガンディーを全インド的な指導者と

してうかび上らせた」(注1〕。この日を皮切りにガ Lディーの指導下に非協力・不服従運動(ii2〕がす すめられたが,ガンディーは早くも4月18日には,

数カ所の地方において民衆が暴力行為に出たこと がこの運動をそこなうものであるとしてその停止 を宣言している。

このように, ガンディーの全インド的舞台への 登場を記念した19年4月の運動はわずか10余日を も1て終店、したのであるが, この彊い期間のみを とってみてもかれの政治的行動の特徴のいくつか がすでにあらわれている。その一つは,かれが非 協力・不服従運動における非暴力性を非常に重視 し,イギ1)スの専制反対のためという政治的な運 動を停止するにあたってこの

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とは直践に関係 をもたない, その意味では非政治的な理由によっ たことである。第2に,さらにこの政治的目的は イヤ、リス支配の打倒・インドの独立達成につなが るものとして認識されていたのではなく,同年 (19年)末における会議派のアムリトサIレ(Amritsar) 大会で明らかになるように, かれはインドの政治 的独立の意義をほとんど重要視していなかったの であり, 支たそれゆえにこそこの場合のように一 つの大きな, しかも発展の過程にある政治的な運 動を非政治的な理由によって停比することが出来 たのである。以上のごつの特徴はのちに20年代か じ30年代にかけてさらにきわセ,たものとなるの どが,この19年4月の場合にも,ちょうどこの運 動のさなかの13日にアムリトサルにおいて英軍に よる無防備の往民の大i民虐殺事件がおき, 15日以 後パンジャープ州がしだいに戒厳令下におかれる

という状況であるIこもかかわらずガンヂfーによ

(4)

る停止がなされたのであるから, それらは問じく 特筆に航するのである。

これまでのところ, ガンディーの運動はかれの 個人的なものであって,会識派は一つの組織体と してはこれになんら関係を有していない。かえっ て,ガンヂfーは,かれが指導的な発言を行なった 最初の会議

i

恨の大会であるアムリトサル大会にお いて,ダース(C.R. Das)などの有力指導者に対立 して,、

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時fマリス議会を通過したばかりの1919 年インド統;

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,法の実施に協力すべきことを主張し

ているのである。

ガンヂィーの政治的な活動がこのように会議派 の公式の政,

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とは無関係に展開されたと1、ろこと は, 19年末になじまるキラーファト iKh,lafat〕運 動(〜23年〕の初期の段階についても同様にあて はまる。 三れは第1次大戦における戦敗因の一つ であるトルコボ回教圏のカJIフを擁するところか ら同国にたいするイギリスなどの戦後処理にたい してなされたインド・モスレムの抗議の運動であ る。それはインドのモスレムにかれらの内

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こお けるあらゆる長異をこえてモスレムとしての結束 をよびかけたものである。モスレムとしての結束 を主眼とし, しかもかれらは宗派的には少数派な のである/トら,それは少なくとも潜在的には,宗派 的な多数派であるヒンドゥにたいするかれらの相 対的地位の向上を, しかもイギリスからの特別の 譲歩によって饗得する, という方向を秘めていた のであり??主このような方向は却年代末以降連 盟によってきわめて意図的に追求されていったの である。キラーファト選動の当時においては連盟 はインドのモスレムのあ,,、だにいまf二布ゾJな地歩 をしめてはL、なかったのそれがこのような地歩を しめるようになるのはようやく 30年代後半のこと である。しかし, これはその創立の時からヒンド

ゥにたいするそスレムの結束をよびかけてきた政 党である。その創立は1906年末であったが,これ はその前年のIO月1613にイギリスによって強行さ れたベンガル州の分割にたいする空前の規模での 抗議運動がいまだおとろえをみせていなかった時 期であった。創立大会の決議は、連盟の呂的がイ

ンド・モスレムの間にイギリスにえいする忠誠心 をたかめ, モスレムの政治的利益を擁護すること にあるとし, また,ベンガノレ分割の結果誕生Lた 東ベンガルチ

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におし、てモスレムが多数をしめるに いたったことをさして,分割は多数派住民の利益 にかなうものであるとしているが(1+3),このこと は連盟があたかもイギリスの分前統治政策のー−

1

をになうために誕生した政党であることを示唆し ている。キラーファト運動におャてモスレムの共 通の利益と結束が強調された背貴としてこのよう

な政治団体の活動の歴史があることを見逃すこと は出来ない。

早くからキラ」ブアト運動に共鳴していたガン ヂィーは, 19年11月にその推進体として全イン!?.

キラーファト会議が組織されるとその議長に就任 した。 20年6月にはこの会議によってかれの非協 力・不服従運動の考えにそった具体的な方針決定 のための小委員会が任命されたが,小委員会を構 成した7名の委員はガンデ、イーのほかはいずれも そスレムであった山4)。この小委員会の提案によ って

8

1

日にイギリスの対トルコ政策に抗議す る全インド的なハルタルが行なわれた。会議派は 組織体として, この運動を支持していたのではな 十。それは,19年の年次大会において新しいインド 統治法にたいし」応協力の政策を打ち出してし、る のだから,たとえキラーファト運動に限定したも のではあってもただちに非協力・不服従運動に支 持をあたえることは出来なかった。事実,その執

(5)

1970110007.TIF

行機関である全インド会議派委民会(AICC)は20 fl‑'‑5月末の決議において同年末の年次大会以前}こ 臨時大会を召集してこの問題の討議を行なうこと に決定している。 したがって, 8月1日のハルタ ノレの前後までのキラーファト運動は会議派の公式 な参加によってではなし多分にその外側におい て,コゲンディーの指導

f

に寸すめられてきたので ある{ι5)0 このようた経過および前年の会議派ア ムI)卜サノレ大会でのカ、ンティーの発言から理解し うることは, この大会前後の時期において,ガン ディー自身が,イギリスのインド統治に関しては イギリスとの協力, その対トルコ政策に関しては これとの非協力という両国の態度を示してし、たこ とである。 そして,ガンデーィーの気持はしだいに 前者から後者の面に移動したとい〉てよいであろ う。 この場合におけるノゲンデfーの主観的意図が じレドゥとモスレムの友愛の促進をはかることに あったことについては疑いの余地がないであろ う。これはかれが死の直前に行なqた最後の断食 にいたるまでその終生かわらざる態度であった。

しかし,かれのキラーファト運動支持は,インド び)モスレムをしてかれらかモスレムであるという だけの理由によって結束をつよめてゆくのに役立

ら,かくして長い視野でみた場合μ民大な政治的

,意味をもつことになった。後年かれはのちの連盟 の終身総裁ジンナー(M.A Jinnah)とのあいだに インドのモスレムがひとつの民族を形づくるもの か否かを争うのであるが, キラーファト問題にお いてのかれの役割は,その主観的意図を裏切って,

インド・モスレムがひ、とつの民放をなすとのジン トーなどの主張を間接的iこ校教11,/Sけるにあずかっ ご力あったといいうるのである(

会議派は20年9月のカルカッタ臨時大会におい てガンディー自身の提案にもとづいてキラーファ

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題にd山、てのイギリスの態度およひ前年4月

i)ノ;ンジャープにおけるイギリスの圧制に抗議し て非協力運動を開始することを承認し,ついで同 年末のナグプーノレ大会において正式にこのことを 決定した。 これは会議派にかかわりなくガンディ ーによってはじめられてきた運動を迫認し,また 会議派としてはじめて非協力運動を承認したもの である。 カノレカッタ大会ではいまだに相当強力な 反対がみられたにかかわらず, ナグプール大会は はとんど全会一致に近い形でガンディーを支持し たのであるから位7)'このナグプール大会をもっ て会議派内部におけるガンディーの指導の確立の 時点と一応いうことが出来る。 さきのノリレタノレの 行なわれた

8

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日はちょうどガンディー登場以 前の会議派の最有力指導者であったテイラクの病 没のUでもあったから,結果的にではあるがこの fl 付は会議派の中心指導者の交代をしめすそれと しての蕊味をもっといいうるのである。 カノレカッ タでの決議は前年の年次大会における対英協力決 議を事実上くつがえしたものとみられるが,パン ジャーブでの弾圧はすでに前年の大会以前に発生 してレることであるから,;藍,B

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題i二おかれており, したがe

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カノレカッタ=

ナクプールでの決定は事実上会議派がこの問題を 中心としての反英闘争を行なうことの決定であっ た。形のうえではここにモスレムと非モスレムの あU、だの反英協力がなりたったのであるが(会議派 を非モスレムの政党であるというのではない),それは 前者金後者が支持するという内容をもつのであっ て,いまや会議派がモスレムiニモスレムであるが ゆえの結束を承認し, うながしたことになるので ある。宗派問題についての会議派のこのような政 策はモスレム独自の利益の存在をみとめるもので あり, キラーファト運動の終結後における連盟に

(6)

会 議 派 の 内 部 に 非 協 力 ・ 不 服 従 運 動 の 停 止 後 ,

よ る と ン ド ゥ に たL1一る相対的{歪fl°lfi'ffif呆tハための

主 張 を 会 議 派 と し て 仮 本 的 に 論 舵 し え な かJ》たこ lY19't_

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に お け る 議 会 活 動 に 参 加 す る ご モヲーラ 左ぴj止非をめぐりガンディ一派とダースラ とにつながら川でんる。

le,・ネルー(ジャワハルラルの父) V1~0)士J 立がおこ

ジ〈メwaraj1党 を 結hX.Lて議会活動を行な「}ので あるが' 5年 末 の カ ン プ ー ル 年 次 大 会 で の 決 議 に し た が っ ど ス ワ ラ ー ジ 党 が 議 会 ボ イ コ 、 ソ ト を 行 な 結 局 妥 協 が 成 立 し て 後 宮 が 会 議 派 内 に ス げ ヲ

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し て カ ル カ ノ 々 を 中 心 とL大 枝 模 な 民 英 運 動 に 発

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会 議 派 の 活 動 は 全 面 的ti‑衰退をたど−−,

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キ ラ ー フ ァ ト 運 動 に お い て モ ス レ ム が 独 自 の 利 害 を 有 [ し そ の た め に 結 束 し な け れ ば な ら な い こ と が 強 調 さ れ た fiン デ イ ー お よ び の む に 会 議 派 は こ れ を み と

士山段階の主要な帰結をみると,

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か れ が20年 の り丹治 ら12月 に か け て そ の 中 心 的 指 導 者 の 位 置 を

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こ の 闘 争iこっ/;く2:l年 以 後 の 時 て く り 返3れた。

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に 関 心 を し め さ な か っ た 。 (I 1 ) Majumdar, pp. 15〜16. 

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( I :l) H.Philips,  The Evolution of India  and 11kistan,1858 to 1947, Select Documents (Lon‑ don,  1%2), p. 194.I;iJ −\サノ、統治山肢後の.);

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(7)

Ⅱ 第2の段階

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(注4) Majumdar, p. 72. 

(注5〕'vfajumdar'〕略(↓表(pp.81〜出)Lr _:のよ う心経氾を めしてし ' ;'。

ぐIt6 ) Majumdar Itガ ン デ iー が そ の キ ラ ー ア ア

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‑65, 92

(注7) Majumdar, pp. 87〜88,  97‑100. 

(注8) Z¥fajumdar, p. U7. 

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2 の 段 階

これは, 1919年インド統治法の規定にしたがっ て統持制度検討のためにイギリスが任命したサイ モン委員会のインド到着にたいする 28年2月3日 の全インド的ノ、ルタノレで幕をあけ, つづいて開始 されたガンヂィ一指導下の会議派による大規模な 非協力・不服従運動が突然に中止された33年5月

をもって終る。

数年間のスランプの時期のあと, 会議派はこの ハルタルの余波をうけゥつ28年12月のカルカッヲ 大会をもってふたたひその活動を話発なものとし た。ょの大会ぎの会議

i i

誌の決定l土U、わゆる下ル一 報告に基礎をJ:jU、たものである。 これより先,各 政党は会議派のよびかけによって主政党協議会を ひらヤて統治市I]度について協議L, モ千ラノレ・才、

/しーを議長;とする小委員会を設置してサイモン委 立会の調主に対抗する立味をもった憲法草案の起 車を委嘱したJ1/)草案は28年8ll  lこ上の協議会

;ニよーyて承認されたが, これが[インド憲訟の諸 原則を定めるため山委品会報告j

1

な才》ち芋LEい一 報告である(主i'1)。その骨子iま,第ilこ,インドが ヴナ♂,オーストヱヲリア, 南アフリカ,アイノレラ ンドと同等の自治領の地位をうるべしとするので

あ り , 第2に,その場合には連邦下院および各州 議 会 (

1 1

克昔話〉はそれぞれ宗派治JIでなャ合同の選 挙区苦手jを原以jlとすべしとするのである〈連邦上院は 州議会によって選出きれるから結局連邦・州、|の全体を通 じて合同選挙区制が原則となる)o ちなみに,当時の 現行法である1919年統治法においては,議会の権 限自体がはなはだしく制約をどうけているうえに,

たとえば連邦下院の場合, 145名の定員中42名は任 命制でのとりの103の議席のうち30がモスレムに,

2がシーク教徒に記分されていた。かくしてすで に宗派別選挙区制が選挙制度のひとつの重要な柱 をなしていた。

会議派のカノレカッタ大会はこのような内容のネ ノレー報告を全面的に支持し, 1年聞の期限を付し てその受諾をイギリスに要求した。このネル一報 告の承認に関してはとくに右にあげた骨子の第2 点 一 台 同 選 挙 区 棋 の 要 求 が 重 要 で あ る 。 こ の 要 求は, 現行統治法の原良jlや連盟の立場に対立し,

また実にキラー:7?ト運動にお打る会議派自身の 態度にも反して,モスレムtこ, また他のし、かなる 宗派にも,宗派としての政治上の独自の利害関係 をみとめることの和否を意味してし、るからであ る。このことは実際には会議派の方針の大転換を 意味して

ν

た。ネル一報告の立場をその後の会議 派がひきつ/九、て主張してヤたならば連盟の要求

(対同それはパキスタシ創設要求にまで発展したのだが〉

にたし、する会議派の態度にも大きなちがいがみら れたであろう。しかし,会議派がその大会におい てごのような宗派独自の政治的利害の否定, ある し、は,すくたくども, どのような特殊利害の選挙 制度上の表現である宗派別選挙区制の否定を公式 に守主張したのは, 191947年の時期においてはこ のカYレカッタ大会においてのみであった。

yレ一報告における合同選挙区制の主張はこの

(8)

ようにきわめて主要な意義をもっご し、たのどが,

カノレカッタ大会の主たる争点となったものはこの 問題ではなくその骨子の第1としてあげた白治領 地位の要求の点であった。 この;,',(l

J:、士jしてス

ミ・チャンドラ・ボース(.12)やジャリハルラJl.,・ ネyレーをはじめとする急進派が完全独立の要求を 主張し,票決の結果およそ 3対 2比二+:で(/i幻 自 j合間要求が支持された。 このように, この大会は ガンディ一指導下の会議派においてはじめてかれ に対立する強力な急進派があらわれた大会として 意義深いものであ勺たが, 自治領か完全独立かを めぐる論議のかげに

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選 挙

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要求の意義は見 失われ, そのうえ,

4

翌年のラホール大会において それは事実土撤回1されてしまうのである。

このように28年大会の決議はネル一報告を)jl;詞 とし たものであったが, 1年間の期限がすぎた翌 29if末(T)ラホ−−レ大会のそれは非常にhがった内

{予のものでち〉石。 それは 従来会議派がカミかげで' きたス下Yラージ(自治〕♂〕要求が[完全独立jを

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:味すると規定し、 ーネルー委員会報告の全構想j を否定し、 「あらゆる会議派党員が

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愛その専一ー 的/な関心を fンドの完全独立の達成にむける」こ

とを期待し, またAICC;二不服従運動を開始する 権限をふたえたものである(I4  ネル一報告はス けラージを事実上自治領と規定してし、るために否 定されたのであるが, この大会におL、てもこのよ うにその焦点は完全独立の問題にあり ネル一報 告のなかの什同選挙!又制の部分も同じく葬りさら れることの

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:設はほとんど関心をひかなかffこの である。そればかりでなく,

に「この大会はシーク教徒,

会議派の決議はさら モスレム, その他の 少数派にたL、L, 将来のどの志訟における宗派間 題につL、ての解決策もそれが関係者ーたちにト分な 満足をあたえるものでなし、かぎり会説派には受諾

出来なレことを保ぷするJ(パ5)とのべてし、るが,こ れでは宗派的政党によるいかなる要求をも会議派 としては

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*色しえなくなるのであり, マジュムダ ールがこの部分iこっし、て[会議派は……将来提案 されるどの憲法をも事実卜みずから受諾しえなく してしまったj引制とみてし、るのは正当であろう。

宗派問題につし、てお年大会でキラーファト運動の 段階会こえたかにみえた会議派は29年大会におい 亡ふたたびそこに逆もどりした。 このように 2度 の大会におし、て合同選挙医制の問題がほとんど関 心の対象とならなかったことは, こjLについての ガ、ンディー自身の関心の欠如lをしめしているとい ってよし、であろう。

会議派がわずかi年で自治領から完全独立へと その要求をたかめたのは, 形のうえでは1年間の 期限が切れたためであるが, 実質的にはその内部 における左派の

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台頭がこの間にー!凶歴然たるもの となり, しカ もその背後に農民運動,労働運動,

年・学生運動, 婦人運動, テロリストの

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孟弱jな どが全般的に活発となってし、たためである。 こオl にたいしてガンデfーはその指導的地伎をかため なおすために周到な配慮を行なった。 その一つは 前年の大会で自治領案を積極的に支持したかれ自 身が完全独立要求の決議案を上程することであっ Tt;〜: それはボースのみるところでは[マハトマ は当時の凪内の空気からみて, もしかれが反対し ても独立要求の決議案は通るであろうから, かJ1, 自身が挺案者ーとなった方がはるかにましであると 感じた」(ιl 7)ためである。同時に, ガンディー lま, ほとんどかれの右腕ともし、える存在であるサ ルダール・パテル(Sardar V. Patel)の議長への立 候補を思いとどまらせ, かわりに左派の指導者の

1人であるジャワハルラノレ・ネルーを推した。

れはガンディーがパテルのかわりにネルーを議長

(9)

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「全体としてラホール大 i誌をLめるにレた〆p0

二円二土;上 に推し/ご;l[,i]JJ!Jj 

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初であるが,

会は Jハトソ(/)大勝利であ〆》たjC, 1Jとボ−~7-. 詰込

のちの川司 (1936, 46年)の場台とl,ijじくこのi見,(

こω時 の ボ ー ス の 運 営 委 長 みるのは当然である。

トースi:上tLば「こ(I

lこも重要な意味をもぜ》た。

ニミからのがJq;;主はガン

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心ニネルーが協力し た 出来事;土 γハトマとノ;L ト・/ γ!?・リレヲ

ぞれは:

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年代末から40"'1‑'1\;上 じめにかけζポ ー ス か 事 実 上 会 議ii1tJ〕も山か.−,

Ml~主されたド去の)辰夫'! を形づくった。

不 服 従 運 動 の 指 導 権 を ほ と ん ど 4手にゆだね「一〉

れた形のガンラ{ーは, JO年4月6flに%ばかり の\(!塩行為在行なって不服従運動開始のしるしと J[:; (fl°  f.1J L/こが,

J'lノど

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会 議

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主化、Jヘi主仁主りを立i法しよ この時以来バン子ィット・

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「ハトアU)'  買 し ご か わ ら ゴ る 支 持 者 で あ る [ =

ニジ}よトiC:., 

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くの先行と !: 

これをきv,かけとして熱狂的ともいえるほ L fO

たネルーとむすんでボースなどの

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妥 協 的 な た

そ の 後 の 事 どJl}託契 flj[;i従運動がはじまったが,

かくしてーと山指;こたL、す i[[

ミの孤立{じをは点、;]

\!ンドンにおける第1次 円 卓 会 議 (JO年11

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JJ〜:llIJi)と会議派に上るボイコソト, 力、ン「

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功 し たJ

{ −γ −−ir  { > 協 定 (31年3JJ 5 11)とこれにつ かれがみずか九ハ決ぷ京;l二二、うよ

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日ゴ次円卓会議(31年9月〜12月)どり

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これに

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けえ う に 主 際 に そ 山 「 専 A的な関心:

のIl¥席,不服従運動の再開(32年I凡)と

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いたかどう均川上数年を1ィ、ですしご[l)jf》かとたる!

二れにつJjくf恐 怖 の 支 配J(reign of terror)のEU'.! ボースなとの{if,立化策につL、てみる(と、

よればこJJ大会山内1}後'i'cC会 設i氏i ;より人J>tti IJ ケ/デ 1ーにkる

12if9 J]の[死にし、たる防

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イIリス政府によるイン 1t統的に関する

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の発衣(:!3年詰凡人会議。Iえカルカソタ大会におけ るよとの非難決議(33年3月末)とし、ったシグザゲを }l ), 

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第I次円卓会議にむし、てイギリス 経ごすすんだ。

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治領の地位をあたえることに近ついた 力ン i{ −−;土(

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年 山 運 営 委

選挙が行なわれた|出,

ガン子、fーはアーウィン(Irwin)総督と協定

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員しり1人て、あずノたボースの長1q;;−主を',)主く主張し三

この協定は,第1次 円 卓 企む

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んにのであるが,

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亙常委員会はかくして完主にカ これに成功した。

会 議 に お レ て 討 議 さ れ た 構 想 の 基 本 が 連 邦 制 そ の ンディーの相等下におかれることにふったい111,

将 来 こ の 構J官、iをさ 他の諸点にあることを確認し,

大会決議ぞは AICC均長英闘争を開始し〉ること

その場合に らにj雪察する必要があることをのd

これは実際には運伝委員会付託とい になったが,

は , 会 議 派 代 表 の 参 加 も 必 要 で あ る と し た だ け の したがって上山主うな事情のも

う性質がつよく,

完全独立はもとより

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治 領 の 地 位 内千五tこすさず,

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しかもこJLらと ひさかえのlf;で不服従運動のrjJlニを詳締iに規定し

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三()〜三211二,Jd:11:「にくらへてみると, 29〜;iMFjjf ιIJははじめかんば英独立運動としζはじめらjした

こ の ゆ え に こ そ 自 治ドJ.'c問題にむ、けられており,

壬er)/;t; 長かれら 二円断食は て「死;口、たる断食jにit L、り,

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今i"U土チャウ tJ・子ャウラ事 件 の よ う に 特 別 の 暴 力 事 件 も な か っ た の で あ る か

1>Cありう をj止u立の11¥J訟には

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んーてL、なL こと企示日変L1二C

の断食は不服従運動の「転回点、」であJ

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(11)

Ⅲ 第3の段階

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ら,右のようなガンディーの行動の特徴はいっそ うあざやかにみられるC

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における停i卜山仕方 はこうして民核運動指導者 としてのガ、ン干 Jーの 限界をほぼ純粋な形でしめしたものである。 29

:13年の運街Jがガンディー折導下の;1度目にして最 後の大衆的;¥I'.劫となっ六二 .l:i理由(l̲)!  :;!, 、ごとで はない(,116)。ガンヂィーの逮捕者釈放要求はそれ 自体かれが運動の継続に関心を失なったことの表 明であるが, これに対L政府は運動カ通公式に停止 されなL、限,Jこれに応ヒないとした。すなわち政 府は会議派の全面降伏を要求したのであり ::14年の 公式停止とともにはじめて釈放を行なった(/117¥

ガンチ fーによる中+止にたいし, カイ1に上って 中央指導部力、う追放され

1

時たまたまitj外にあっ たボースは, ただおに5月9fJにV.

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・パヂル と共岡市llJj'i:脅し「われわれはマハ!、マ・ゲンデ ィーが、 政治宗としては失敗したと/:t・ ' ‑¥I)考え るjとのベて会議派指導部の交代をよびかけ,ま た会議派自体の再編がなされえなければ「会議派 の内部にふら;やる急進

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要素をあつめh新党が結 成されど)必要.1,1;あろう|どの4とた(ill約 弓o!cレ大 会での完全独立の要求にい叶たんは吸収された形 の反対派がここにふたたび

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台頭することになるの であるが, 三の共同声fl月はりンディー(二代わる指 導の必要をはじめて公然と提唱したものである。

この段階の主な帰結は, ネル一報告における合 同選挙区制、要求によ/〉ご会議派は宗派問題につ いて理論的hニキラーフr|、運動の段階をこえたか にみえたが, ラホーノレ決議によってふたたび逆も どりし, かえってコミュナリズムを勢

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、づけたこ と, 28年11,r,29年にかけてむ力な左V1えか会議派の 内部にあらわれたが, ヴン戸ィーはてd

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Jミのネ ノレーとむすんでボースに敵対したこと, ガンヂィ ーの事実上の独裁的指導のもとに会議派はガンデ

ィー時代では名実ともにはじめての反英独立闘争 を行なったこと, しかしガンディーの独立獲得へ 内関心の欠如のためにそれが失敗し, 民族運動指 i導者としてのかれの限界があらわになったこと,

ガンディーにかわる指導部をもとめる芦がきかれ はじのたこと,灯、上である。

C il  1)  不ノレ…総{なの全文は液者米見であ今か,

Majumdar (pp. 312〜313)はその婆約をつたえているo

Philipsはかなり長い抜すいをふくむが(pp.228

233) 

{;  i,ij選挙区宮JI.JI乙提案の部分主将軍告している仁 ( ,t 2) ポ i/,rもネノレー惚;';− Ci J起草者のl人と あったが,インドの将来の地位については完全独立を Ulえした少数派に隠した。 S.C. Bose, The Indian  St,uggle1920

1942 (Bombay, 1964), p.  150.土の!以

ドartIとl ,1:ースの主蒋て払る同一題名υ,,作物 il/め, PartIと!てポース'・ '"高山注ど 16篇ノ'ii  '  ている。以ド Bose正田討するの

('L 3〕 Majumdar,p. 317. 

(  t 

4)  Philips,  p. 237.  ( :l.  5)  Majumdar, p. 328.  ( ii: 6)  Majumdar, p. 328.  (iJ:7)  Bose,p.173. 

(ii 

a

〕Bose,pp. 169〜170. 

Cit 9〕 Bose, pp. 28〜29.  S・\ 'レアはパ I  a11,rのモヌLJ i:,  47年仁け fンドの分割, l・zn  L t: (Majumdar, p. 810。)

({七10) Majumdar, p. 330; Bose, pp. 174〜175.  (ltll)  Bose, p.  175. 

( itl2)  Philips,  pp. 241〜242. 

〔i+.13〕Majumdar,p. 382. 

(注14) Bose, p. 258. 

(注15) Majumdar, p. 478. 

(注16) こごで3度目というのは19年4月を最初と /,  ;:,意味である。

(/!17)  ホースLtその著書の33〜34年を扱った設そ

「敗北と降伏」と名')けている。

( /118)  Bose, p. 357. 

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3

の 段 階

この段階は不服従運動の停止後第 2次大戦の勃 発にいたるまでの時期をふくむ。

参照

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