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本論第 1 部 ジョイスと認識

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Academic year: 2022

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本論第 1 部   

ジョイスと認識 

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第5章  ジョイスと科学 

―科学的言説の影響― 

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はじめに 

同一の時代に同一の地域にいる人間は情報の限界を共有するため、同じような行動や思考をとりやすい。

この経験則は文学者にもあてはまる。その時代や地域に特徴的な歴史観、科学観、政治的イデオロギー、

経済、民族主義といった有形無形の時代潮流に作家はさらされながら人格を形成していく。世界観という ものは個々人が意識する、しないにかかわらず、そうしたもろもろの力が離反したり、合成したりする中 で形成されていくものと考えられる。 

序論ではモダニズム期に認識を巡る同じような考え方が共時的に発生したことを見た。無意識のうちに 作家はこれら同時代の思想の枠組みに依拠して創作している。ジョイスの作品中にも当時のモダニズム芸 術にみられる同時代意識や歴史的事実の断片が鏤められている。本章では、19世紀から20世紀にかけて の自然科学や技術の展開がジョイス作品とどう連関しているのかを探り、ジョイスの創作精神の一端を考 察する。ジョイス作品の中で示されるいくつかの認識のパターンが、当時の科学的言説と重なりあうこと を確認し、リアリズム小説にあった時間と空間の安定した世界とは違う新しい現実感が提示されているこ とを示す。 

 

第 1 節  つくられた時間=歴史 

本節で考察するのは、当時の西欧社会で優勢だった時間(歴史)意識である。それがほかの科学的言説 と結びつき、人々の思考に型をはめていったのに対し、ジョイス作品の登場人物はそうした風潮に影響を 受けながらも新しい価値観を提示する。具体的に見ていこう。

19世紀に生まれた科学論で第一級に挙げられるのは、チャールズ・ダーウィンが1859年に著した『自 然淘汰による種の起源』の進化思想であろう。生存競争を通じ適者生存の法則で種の淘汰が進むとしたダ ーウィン進化論は、当時から神を創造主とするキリスト教世界に論争を起こした。適者生存の考え方は当 時生まれた新しい学問である社会学に適用され、スペンサーなどの社会進化論を生むきっかけをつくる。

英国の支配を受けたアイルランド人も白人でありながら、英国人からは一等劣った野蛮な人種とみなされ ていた。当時の言説を分析したチェンによればヴィクトリア朝期の英国では、アイルランドを劣性人種と して同じく人種差別の対象であった黒人と同等にみなした。当時の風刺画では蔑視の対象として、アイル ランド人は動物の猿に似た風貌で描かれるのが一般的だったという[Cheng 1995:27;32]。ジョイスの『肖 像』では、主人公のスティーヴン・ディーダラスが女性の美というものに関する友人との会話の中でこう したダーウィン的価値観に強い拒否感を示す。 

 

  一つはこういう仮説だ。男が賛美する女性の肉体的特質は種族繁殖のための女性のさまざまな機能と直 接関係がある。多分そうかもしれない。どうやら世界は君が想像するよりももっと憂鬱らしいぜ。リン チ。僕はこの出口は好きじゃない。これは美学でなくて、優生学に行き着いてしまう。迷路からは抜け 出せるかもしれないが、新しくてけばけばしい講義室に通じている。マッカンが片手を『種の起源』の 上に置き、片手を新約聖書の上において講義するだろう。[Joyce 1986a:159、下線は引用者] 

 

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彼はここで美意識という高次の価値を生物学的な功利性で説明する進化論的な考え方に心情的に反対し、

『種の起源』の名まで挙げている。芸術家を目指すスティーヴンにとって、美はあくまでも美そのものと して価値が追求される筋合いのものであり、合目的論的にすべてがある特定の原理に従って進行するとみ なす進化論的な科学言説とは次元が違うことを、引用文では明確に示している。ここでスティーヴンは進 化論が理論的に内包する「進歩」の概念について疑義を感じている。劣ったものが徐々に淘汰されていき、

最後には優秀なものが勝ち残るという進化論は、ある種の直線的な進歩、前進を是とする考えが内に含ま れている。この考え方は近代の合理主義ともつながり、目的論的な、一元論的なものの見方を形成した。

いわば進化論は、18、19世紀のブルジョワ社会、啓蒙主義の理想にふさわしい強者の論理であり、そこに スティーヴンは虐げられた民族の一人として反発を感じる。 

同じような進歩思想への反発は、『ユリシーズ』第 2 挿話での反ユダヤ主義のディージー校長の偏狭な親 英ナショナリズムに接したスティーヴンの反応にもみられる(スティーヴンは『肖像』にも『ユリシーズ』

にも登場する)。 

  ディージー校長はユダヤ人が世界の資本主義を支配し、没落しかかっている英国を食い荒らしていると いうユダヤ陰謀史観を披露する。「イギリスはユダヤ人の手に握られている。(中略)これは国家衰亡の兆 しですよ。やつらが集まれば、かならず国家の生命力を食らいつくす。(中略)ユダヤ商人どもがもう破壊 工作を始めているのは絶対に確実だ。昔ながらのイギリスは死にかけているのだ。」[Joyce 1986b:28]  そ して歴史的な法則として善良なキリスト者が最後には勝利を得るといった考えを述べ、世界経済を支配す るユダヤ人の時代の終焉を予想して次のように言う。「すべての歴史は一つの大いなる目的に向って動いて いるのです、神の顕示に向って」[Joyce 1986b:28]。歴史は、キリスト教の教えと歩調を合わせて合目的 的に進んでいくとディージーは想定している。時代そのものが一つのまとまった全体をなしていて、始め と終わりがあり、終わりに向かって発展生成する可能性を蔵すという19世紀に支配的だったヘーゲル的な 歴史観が、ディージーの愛国的な発言には見え隠れする。 

  これに対しスティーヴンは「歴史というのは(中略)僕がなんとか目を覚ましたいと思っている悪夢な のです」[Joyce 1986b:28]と述べ、強者に都合のよい進歩史観への反発を隠さない。ディージーの偏見に 満ちた強者の歴史観とは対照的に、スティーヴンにとっての歴史とは、英国の政治的支配、ローマカトリ ック教会の精神的支配というアイルランドの背負った暗い歴史である。ここで彼の念頭にあるのは、英国 の支配を数百年に渡って受けてきたアイルランドの過酷な現実であり、英国によって固定的、絶対的な事 実として広められ、今またディージーから押し付けられようとしている強者の歴史観である。 

  ジョイスは『ユリシーズ』を創作するために各挿話の表題やテーマの骨子を計画表(リナーティ計画表)

に残している。計画表によると第2挿話の扱う「学芸」は歴史である[Gifford 1988:30]。この挿話で歴史 にはユダヤ人の歴史も重ねられている。ディージー校長の人種差別を交えた歴史観は19世紀末の欧州に吹 き荒れた反ユダヤ主義とも関係がある。スティーヴンは英国から排除される存在であるアイルランド人と、

ヨーロッパ社会の中で長らく周縁的な存在に貶められていたユダヤ民族の間に境遇的な類似をみている。

ユダヤ人の迫害の歴史は、近代以前からヨーロッパで連綿と続いてきた。そしてその傾向は、絶対王政の 時代が終わり、国民国家がヨーロッパ各地で19世紀になって相次いで立ち上がるのと同時に強まった。ユ

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ダヤ人迫害の代表例として名高いフランスのドレフュス事件は1894年に起こっている。神の慈悲と摂理に より、「一つの大いなる目的」へと導かれるのをキリスト者の使命と考えるディージー校長の思想と、ユダ ヤ人排斥という人種主義的なイデオロギーは同じ直線的な時間軸の上に置かれて表裏一体である。ディー ジーはアイルランドのユダヤ人迫害について誤った情報をスティーヴンに与える。 

 

アイルランドはユダヤ人を迫害したことのない唯一の国という栄誉を担っているそうです。知っていま すかな。ほう、知らない。ではなぜだか分かりますか? 

(中略) 

――  つまり、彼ら〔引用者注:ユダヤ人〕を絶対に国に入れなかったからです。[Joyce 1986b:30] 

 

歴史的事実からいえば、アイルランドにもユダヤ人は居住していたとされ[Davison 1996:20]、ディージ ーの発言は明らかに誤りである。支配者階級であるディージーはその事実に目をつぶり、強者の排除の理 論を正当化してみせようとする。こうした点にもスティーヴンがいうように、歴史は支配者によってつく られる虚構であることの一端が垣間見える。スティーヴンは先進と後進という二項対立的な尺度でみる単 線的な歴史把握に対して反発する。ディージーの歴史観とは違う、弱者の歴史としてスティーヴンが依拠 するのは、神の声、教えではなく、市井の人々の「通りの叫び」[Joyce 1986b:28]である。虚偽の詰まっ たイデオロギー的な歴史感覚ではなく、名もない市民の取るに足らない日々の日常生活の時間の中にこそ、

人生の真実があることをスティーヴンは訴える。 

ただ、『ユリシーズ』のスティーヴンはこうした社会ダーウィニズム的価値観に組み込まれている設定で ある。彼が臨時教師として働く学校は、裕福な家庭の子ども向けに英国の流儀にのっとった教育をほどこ す私立学校である。スティーヴンが授業で教えるのは、英国の学校教育のカリキュラムで一般的なローマ 史であり、生徒に暗唱させるミルトンの詩は、英国で最も重視される文学作品のひとつである。校長との 会話の間も学校の運動場からは生徒たちがプレーするホッケーの音が聞こえてくるが、ホッケーは英国の 代表的な競技スポーツである。このように、英国的な価値観がこの学校の教育内容を濃厚に支配している。

また、ディージーは、カトリック教徒の多いアイルランドの中で例外的にプロテスタント信者の多いアル スター地方出身で、熱烈な英国支持者である。スティーヴンは英国流の歴史観や価値がアイルランドに浸 透・定着するための文化の尖兵としての役目を皮肉にも引き受けているのだ。 

『肖像』のスティーヴンの言動の中にも社会進化論的、ダーウィニズム的人種主義思想が時折、顔を出 す。それは英国支配に甘んずるアイルランド人を獣類に近い劣等人種として西欧文明社会の中で下位に置 く当時の支配体制側のイメージと符合する点において、スティーヴンが無意識のうちに、同時代のイデオ ロギーに縛られていることを読者に知らしめる。 

  当時の英国では、アイルランド民族は怠惰で性的に不品行であるといったイメージが広く喧伝されてい た[Kershner 1993:380-84]。アイルランド人が卑しいのは性的に堕落した結果であり、本能で動く動物と 同じ生き物であるという差別的な言説が英国ではまことしやかに通っていた。怠惰などの道徳的要因や身 体的要因によって満たすべき社会的標準に適応できない人々は、市民的な生や権利が否定され、排除の対

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象となった。アイルランド人はその典型とみなされた。この考え方を反映するかのように、スティーヴン の友人のリンチは爬虫類のような顔を持つとテキストで語られ、友人のデイヴィンを誘惑しようとしたア イルランドの百姓女の話を聞いてスティーヴンは「彼女と自分自身の民族の典型」[Joyce 1986a:166]と形 容する。自分の周囲にいるアイルランド人の容姿や言動に獣的な面影をスティーヴンは知らず知らず見て しまう。スティーヴン自身が自分を卑しい獣のような存在とみる場面もある。成長期で性欲に目覚めた彼 は、その罪深さを次のように恥じ入る。 

 

  食欲が進まないまま夕食を食べたけれど、食事が終わり、脂にまみれた皿がテーブルの上に残っている 時になると、彼は立ち上がって窓際にゆき、舌で口の中に残る厚いかすを拭い去り、唇に付いているも のをなめた。肉を求めて舌なめずりする獣同然の状態に成り下がったのだ。[Joyce 1986a:103、下線は 引用者] 

   

彼は芸術家として成長した暁には、野蛮で堕落した同胞の魂を救済して、精神的に高次の段階に引き上げ ることを望む。 

 

どうしたら彼らの意識に打撃を与えることができるだろう。彼らの娘達に地主連中が子供をはらませて、

彼らよりもっと品のない民族ができる前に、その娘たちの想像力に僕の影を投げかけるにはどうすれば いいのか。[Joyce 1986a:215、下線は引用者] 

 

  スティーヴンの思考の枠は、社会進化論のような考え方に規定され、アイルランド民族の民度を問題に している。彼は、「品のない民族(“a race less ignoble”)」[Joyce 1986a:215]を増やさないよう、民族の 魂を再生するという理想を抱くが、こうした人種差別的なニュアンスが内に含まれた言葉が出てくる自体、

支配者たちの言説に絡めとられていることを示すものだ。 

進化思想に代表される19世紀の科学は、純粋な科学理論を離れて、宗教界や社会諸科学に影響を与え、

社会のあり方についての一つの洞察を与えていた。その影響を直接受けたのは、ナショナリズムや人種差 別主義的な考え方である。民族や人種の発展段階には差があり、文明化された西欧社会はアジアやアフリ カなどの野蛮な未開社会を教化・先導する使命を持つというのが、「文明国」である西欧の主張となり、植 民地支配など帝国主義的行動を正当化する理由付けとなった。当時のアイルランドもそうした劣った後進 国の一つとみなされていた。アイルランドに生まれ育ったスティーヴンはこの時代特有のこうした価値観 を不本意ながらも共有している。 

ジョイスはこうした一元論的な見方や社会ダーウィニズム的な考え方に対し、真っ向から反対する意見 を個人的に持っていた。イタリアのトリエステで行った講演をまとめた『アイルランド、聖人と賢者の島』

では、国民国家の礎たる民族の純粋性について科学的な知見を踏まえて疑義を呈し、その虚構性を指摘し ている。 

 

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両国民の気質の相違を言いつのるのは、今日ではフリート街〔引用者注:ロンドンの新聞業の集積地〕

の流行語の作り手たちの常識になっていますが、この相違のよってきたるところは、半ば民族的、半ば 歴史的なものがあるのです。西欧文明は最もかけ離れた要素がまぜこぜになっている巨大な布地であり、

北欧の侵略性、ローマの法秩序、新興中産階級の慣習、シリア地方の一宗教の名残〔引用者注:キリス ト教のこと〕が融和している。このような織物に、隣り合う糸の影響を受けずに、純粋で新品のままの 状態を保っている糸を探し求めるのは無益なことです。今日もなお外来の要素を交えずに、純粋さを誇 りうる民族、言語があるでしょうか?  (中略)そして、この種の純粋さに欠けているという点で、現 在アイルランドに住み着いている民族ほど、自慢できない民族はありません。民族性は、(もしそれが現 今の科学者たちがほかの既成概念にとどめの一撃を与えてきたように、便宜的な虚構でないとするなら ば)、その存在理由を血と言語のように変化するものをしのぎ、それを超越し、それに活力を吹き込む何 物かに根ざしているものに存している理由を見つけなければなりません。[Joyce 1907 :165-66、下線は 引用者]

 

ジョイスはこの民族性という一種の「虚構」を物語の一つの重要なモチーフにした。『ユリシーズ』の主 人公の一人であるブルームの出自はハンガリー系ユダヤ人であるとの設定で、周囲の人間から半ば疎まれ ている。妻のモリーも、父親は英国籍の軍人だが、ルニタ・ラレドという名前をもつ母親は、ユダヤ人の 可能性があると指摘されている[Davison 1996:236-37]。ジョイスは実際、友人のカルロ・リナーティに『ユ リシーズ』は「ユダヤ人とアイルランド人の二つの民族の叙事詩である」と手紙で書き送っている[Joyce

1975:270]。先に引用した評論の中でもジョイスは、ローマに滅ぼされたフェニキア人のフェニキア語がア

イルランドの農民が語る言葉とほぼ同一であるとする当時の学説を紹介し、アイルランド民族としての単 一性、純粋性を内側から脱構築している。こうすることによって、19世紀に支配的だった一元論な進歩史 観とは別の新しい価値軸を登場人物にもたせているとみることができるだろう。 

『ユリシーズ』のブルームの言動には直接的にそうした考えが認められる。第12挿話では、アイルラン ド国家や民族としての純粋性や他国を凌駕する崇高な尊厳性を声高に主張する民族主義者たちに対し、ユ ダヤ人であるブルームは違う見解を述べるくだりがある。 

 

――しかし、君は民族(“nation”)というものを何であるか知っていますか、とジョン・ワイズは尋ね た。 

――もちろんです、とブルームは言った。 

――民族とは何だね、とジョン・ワイズ 

――民族とは。民族とは同じ場所に、同じ場所に住んでいる住人のことです、とブルームは言った。 

(中略) 

――では、あんたの国(“nation”)はどこだ、とシティズンが聞く。 

――アイルランドです、とブルームは答えた。私はここアイルランドで生まれました。 

[Joyce 1986b:271-72] 

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ブルームはこう言って、愛国主義者の主張と距離を置き、国家間の争いは迫害や憎しみを生むだけだとし て、歴史も役に立たないと話す。歴史に対抗する概念としてブルームは「愛」を置き、世界市民的な理想 を語る。帝国主義的な風潮と、それに油をそそぐ民族主義の高まりの中で、ブルームはこうした見方に与 しない立場を貫く。進歩的、直進的な世界観に対抗する思考の型がここには認められる。ヘーゲル的な直 線的、合目的論的な歴史意識が19世紀には民族や国家の問題という政治的イデオロギーの問題と結びつい ていった中で、ジョイス作品の主要登場人物たちはその虚偽をあばいて乗り越えようとする。こうして、

人間の認識を形成する一つのパターンとしての歴史(時間)意識が槍玉に上がり、国家、民族という概念 も同様に虚構性を持つことが浮き彫りにされる。 

 

第 2 節  幾何学的空間の変容 

前節では時間(歴史)意識の変容をジョイス作品の中にみたが、本節は人間の経験を構成するもう1つ の認識のカテゴリーとして空間に関する問題を考察する。具体的に取り上げるのは、幾何学的形象である。

幾何学は現実の世界をつくるもっとも普遍的な形式である空間と時間に関わる考察であり、世界を可能な かぎり単純化して示す原理である。幾何学のイメージや考え方をジョイスは作品の中で多く用いている。

そこでは、数学的に外的世界という空間を記述し、認識しようとする強い動機が認められる。 

ジョイス作品の中で最初に幾何学の用語が現れるのは、『ダブリン市民』の第1話の「姉妹」である。語 り手の少年は、親しかった神父が中風(パラリシス)で亡くなったことを知り、パラリシスという言葉か らユークリッド幾何学の“gnomon”(ノウモン)や、“simony”(聖職売買)という言葉を連想する。「こ れは私の耳に、ユークリッド幾何学のノウモンという言葉や、『カトリック要理』の聖職売買という言葉と 同じように、奇妙に響いたのだった」[Joyce 1977:7]。同作品は怪奇的な雰囲気の中で、神父がなぜ精神 を病んだのかが徐々に明らかになっていくのだが、その問いに対しあらかじめヒントを与えるかのように、

冒頭でこのユークリッド幾何学の難しい名称が出てくるのだ。 

ノウモンとはユークリッド幾何学の不完全形の一つで、平行四辺形の一つの角を共有する相似の平行四 辺形が喪失している図形を指す[Gifford 1982:29]。一部分が欠損して不完全な形になったノウモンは、中 風にかかって精神的にも肉体的も病んだフリン神父の状態を、視覚的に象徴化したものと解釈できる。少 年は無意識のうちに、司祭を幾何学的な形態でとらえ、その本質を比喩的に見抜いているのだ。 

古代ギリシアの数学者ユークリッドが著した『原論』は古代にひとつの達成をみた幾何学を体系化した 書物であり、アリストテレス哲学や中世スコラ哲学を大成したトマス=アクィナスと並んでヨーロッパの 規範の学問とみなされていた。デカルトの主客二元論の発想には、序論で指摘したように、カメラ・オブ スクラの視覚モデルが大きく影響しているが、主体が世界を見渡すという絶対的な立場に位置するデカル ト的遠近法主義が前提にするのも、このユークリッド幾何学である。語り手の少年にとって教会は難しい 専門用語や秘儀的な約束事がある非日常の世界である。フリン神父は数学的緻密さを持った体系として少 年に教会のことを教えるが、その博学と体系の複雑さに少年は魅惑される。少年にとりユークリッド幾何 学はキリスト教と同じような神聖さを持つ体系として教え込まれている。 

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幾何学図形が象徴的な意味を付与され、作品に陰影を与えている作品には、ほかに『ダブリン市民』の

「恩寵」がある。飲酒癖のあるカーナン氏を教会の静修に参加させて、行いを改めさせようと、友人たち が画策する。彼ら5人が集って教会の信者席に座る形はちょうど、“a quincunx”(五の目形)である。五 の目形とはさいころで言う5つのポイントから成る図形で、図像学的にはキリストの磔刑を象徴したもの である[Gifford 1982:109]。「恩寵」は信仰心の薄い人間たちと、信仰をビジネスにたとえる雄弁な神父が 描かれ、アイルランドの精神的な麻痺を象徴的に示している。ジョイスは当初、12の短編を『ダブリン市 民』に収めようと企画し、「恩寵」がその結びの作品になるはずだった[Rice 1997:33]。「姉妹」でノウモ ンを提示し、当初は『ダブリン市民』の末尾を飾るはずだった「恩寵」で五の目形を出していることから もジョイスが幾何学の用語に特別の含意を持たせ、短編集全体の構造にも一種の数学的な対称性・規則性 を与えようとした意図がうかがえる。それは筆者の考えでは、世界や自然を固定して図式的に説明しよう とする動機に基づいている。 

ジョイスは作品の中でしばしば幾何学的な図像やモチーフを用いて目にみえないものを可視化しようと した。フリン神父の精神の破綻もノウモンという形で具象化されることで、少年にとって現実味が出てく るのである(同様の幾何学形態の利用を、本稿第10章でジョルジョ・デ・キリコの作品の中でも考察する)。    『肖像』にも、ユークリッド幾何学の用語が頻出する。結論を先に述べると、ユークリッド幾何学の用 語は、主人公のスティーヴンの思考に一定の枠をはめ、その行動を規定する要素になっている。『肖像』は 幼児期から青年に至るまでスティーヴンの精神が成長する過程を描いた小説であり、その時々の主人公の 精神的成長が幾何学の形象に仮託されて読み取れることをこれから具体的にみていく。完成された芸術家 として彼が精神的な成長を遂げることはない。『ユリシーズ』では、亡命先のパリから戻ったスティーヴン は自堕落な生活を送り、時間的に先行する物語である『肖像』で民族の魂を再生すると志高く誓った彼の 夢はいわば挫折する運命にある。このことを『肖像』のテキストは幾何学や数学の用語によって暗示して いる箇所がいくつかある。 

  ユークリッド幾何学に依拠した彼の世界観が述べられるのは、友人の一人にスティーヴンが自分の美学 理論を語る場面である。以下 4 つの例を示し、スティーヴンの思考がいかにユークリッド幾何学に依拠し ているのかを見てみよう。 

 

君だって直角三角形の斜辺(“across the hypothenuse of a rightangled triangle”)に鉛筆で自分の名前 を書かないだろう。[Joyce 1986a:188] 

 

認 識 の 第 一 の 相 は 認 識 さ れ る も の の ま わ り に 引 く 境 界 線 ( “a bounding line” ) なの だ 。 [Joyce  1986a:192] 

 

君はそれの形の線に導かれて、点から点へと眼を移していく(“you pass from point to point, led by its formal lines”)。[Joyce 1986a:192] 

 

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いちばん単純な叙事形式というのは、芸術家が叙事的事件の中心として(“as the centre”)の自分を延 長し、そういう自分について考えるときに叙情文学から現れてくる。そしてこの形式(“this form”)は 感情の重心(“the centre of emotional gravity”)が芸術家自身からと他人からと同距離(“equidistant”) になるまで進展する。[Joyce 1986a:194] 

 

ユークリッド用語のこうした羅列は、スティーヴンの思考とユークリッド幾何学の深い連関の証左である。

最後の引用ではニュートン力学を示唆して“gravity”という言葉も用いられている。彼の世界観は徹頭徹 尾、ユークリッド幾何学やニュートンの古典物理学に代表される西欧の科学的言説に浸かっていることが、

引用文からうかがわれる。この安定した世界観が、彼の精神的成長の制約となるのだ。その制約は、数学 の歴史をひもとけば、19世紀半ばまで絶対的な規範性と完全性をもつ学説として君臨していたユークリッ ドの幾何学体系が直面した危機と重なるのだ。その危機をもたらしたのは、序論で言及した非ユークリッ ド幾何学の台頭である。 

  19世紀から20世紀前半は数学や天文学といった自然科学の世界で従来の定説を崩す新しい理論が相次 いで発表された。宇宙論では1905年にアインシュタインが相対性理論を発表し、それまでのニュートン力 学で前提とされた絶対空間や絶対時間が否定され、時間と空間はひとつの可変の変数として扱われること になった。数学では19世紀半ばまでにヤノーシュ・ボヤイとニコライ・ロバチェフスキー、ベルンハルト・

リーマンという 3 人の学者がユークリッド幾何学とは異なる幾何学の体系をそれぞれ打ちたてた。一般に 双曲線幾何学と楕円幾何学(リーマン幾何学)と呼ばれる「非ユークリッド幾何学」である[Γлeй3eр 

1983=1997:278-294]。さらにリーマンの楕円幾何学によって1854年に導入されたn次元の多様体(空間)

の概念はアインシュタインの相対性理論に応用された。 

ユークリッド幾何学はその第 5 公準で平行線の問題を論じ、「1本の直線とその上にない点が与えられた とき、この点を通ってもとの直線に平行な直線が常に1本だけ存在する」としている(1)。これに対し、非 ユークリッド幾何学のロバチェフスキーは「与えられた直線と交わらない直線が1本だけでなく少なくと も2本引ける」とし、ユークリッドの第5公準と対立する新しい公理を定式化した。簡単に言えばユーク リッドは平面上で、与えられたAという直線の外の1点を通り、その直線Aに平行な直線は1本しか引け ないとしたのに対し、非ユークリッド幾何学ではAの平行線が複数あったり、1本も引けなかったりする というのである。 

非ユークリッド幾何学は人間の知覚を大きく変える革命的な発見だった。ユークリッド幾何学と非ユー クリッド幾何学を分かつのは、視点の移動である。点と直線といったものから構成されるユークリッド幾 何学は人間の二次元的な直観や知覚に基づいており、ニュートン物理学もこれに拠っている。これに対し、

非ユークリッド幾何学では平行と思われた直線が交差したり、三角形の内角の和が180度にならなかった りといった、通常の常識では考えられないことが起こる。このような非ユークリッド空間を文字記号で表 現するのは困難だが、その理論が成り立つのは「擬球面」「リーマン面」などと呼ばれる球面のモデルであ る。太陽系とか銀河系のような大きなスケールで見るとユークリッド幾何よりも非ユークリッド幾何が理 論的に適しており、アインシュタインの相対性理論や時空が捻じ曲がる四次元空間といった世界を理解す

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る助けになると、デブリンは指摘する[Devlin 1994=2005:170-229]。 

当時、このような数学的革新が起こっていたにもかかわらず、先に見たように、スティーヴンの精神は 伝統的なユークリッド幾何学の世界にとどまっている。それは遠近法的な視覚にとどまることとつながっ ており、スティーヴンの精神のありようを示すひとつのヒントとなると解釈できるのだ。先に述べたよう に、19世紀まで主流だったリアリズム小説は不動の視点から外界を眺める。これに対して20世紀以降の 現代文学では、語り手を空間や時間の中で様々に動かすことで、複数の多元的な視覚を生み出し、新しい 現実感覚を現出させる。ところが、『肖像』のスティーヴンは19世紀以降の新しい数学に触れて、新しい 視覚をつかむチャンスが再三ありながら、後ほど述べるようにその多元的視覚をモノにできず、旧い世界 観に閉じこもった設定になっていると解釈できるのだ。 

ジョイスはカトリックのイエズス会が運営する学校で教育を受けた。イエズス会のカリキュラムを分析 したライスは、1832年からイエズス教会系の学校は数学と科学教育に特に力を入れていたといい、「姉妹」

の少年が感じたように、その幾何学体系が絶対視されていたという[Rice 1997:8]。ライスは、こうした個 人的背景もあってジョイスが最初はデカルト的な世界観で『ダブリン市民』を書いたが、『ダブリン市民』

の最後の「死者たち」と『肖像』では非ユークリッド幾何学的な世界解釈がみられるとし、そこに作家の 思考の変革を読み込んでいる[Rice 1997:9]。『肖像』に非ユークリッド幾何学の影響を見るライスの分析は 説得力があり、同意するところが多い。本章もライスの読解を広げる形で主人公の成長と幾何学の関係に ついての論を進める(2)。 

ライスによれば、『肖像』の中で非ユークリッド幾何学は楕円や円環的な形象として提示されているとい う。この形象がスティーヴンに視覚的に提示されるとき、皮肉にも彼はそのメッセージを解けない人間と して提示されている[Rice 1997:66]。ライスが非ユークリッド幾何学の世界にスティーヴンがなじめない証 拠として挙げるのは、物理の授業で教師が楕円形(“elliptical”)と楕円体(“ellipsoidal”)の違いを説明 する箇所である。 

スティーヴンは授業を聞いても、中心が2つある楕円形を理解できない。楕円形はリーマンの楕円幾何 学の重要なジャンルであり、楕円体はその立体的な三次元の形である[Rice 1977:76]。授業に身が入らない スティーヴンは、楕円体の言葉を男性の睾丸を形容するのに用いた友人の猥談に関心をそらせてしまい、

非ユークリッド幾何学の理解はうやむやになってしまうエピソードがある。

モイニャンがスティーヴンの耳元にかがんでささやいた。

――楕円体の球がどうだったというのだ(“What price ellipsoidal balls? ”)。追っかけてきなさい。ご婦 人方、俺の居場所は騎兵隊だぜ。

この友人の野卑な冗談がスティーヴンの心の回廊を突風のように吹き抜け、壁にかかってぐにゃりと している司祭の礼服に陽気な生命を吹き込んで奮い立たせ、揺れ動き、はねまわり、乱痴気騒ぎの饗宴 を開かせる。[Joyce 1986a:174]

友人は男性の睾丸を楕円体のシンボルとして持ち出して、その猥談でスティーヴンの注意をひきつけよう

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とする。ライスは上記の引用におけるスティーヴンの反応を指して、非ユークリッド幾何学の理解の失敗 例として挙げるが、筆者の見解では睾丸のジョークを友人が口にした背景には、次のようなもう一つの解 釈が引き出せると考えられる。     

スティーヴンは小説の後半のほうで友人から再び睾丸の話を向けられる。友人たちが互いに「睾丸野郎

(“a ballocks”)」と呼びあい、ひと笑いしたあとで、その一人がスティーヴンになぞをかけるような話を する。「この言葉は最も面白い言葉なんだ。英語で唯一の両数語なんだ。君は知っていたかい」[Joyce

1986a:209]。こう指摘されたスティーヴンの様子は、「――そうなの、と彼はぼんやり答えた」と説明され

るだけで、その謎かけのような問いかけに積極的に反応しようとしない。

両数語とは、2 つ、または一対のペアを示す言葉でありながら“a ballocks”と単数形で表される言葉を 指す。つまり、円の中に中心が2つあるという、通常のユークリッド幾何学からやや逸脱した要素を睾丸 という言葉が象徴的にもっているという茶化しがここには込められていると解釈できる。だがスティーヴ ンは友人にそういわれても、言葉のしゃれに気づかない。

物理の授業で非ユークリッド幾何学の世界に入りかけていたところで、友人がジョークを囁くのは、ス ティーヴンを面白がらせるのが本心ではなく、睾丸が両数語であるということを友人が既知の事実として 了解していたうえでの話だとしたら、猥談に潜ませた非ユークリッド幾何学の茶化しの意味を分からない ままにスティーヴンは漫然と聞いていたことになる。ジョイスが「睾丸野郎」と両数語の説明箇所をあえ て小説作品に用意していることをかんがみるならば、スティーヴンの理解の浅薄さを二重に強調する効果 があるとの解釈が成り立つであろう。

スティーヴンの科学的世界像は、ユークリッド幾何学やニュートン力学に徹頭徹尾、基づいている。彼 が授業中に筆記する数式は、「力と速度の亡霊のような記号群」[Joyce 1986a:174]で、彼の頭脳を疲れさせ るだけである。力はニュートン物理学の主要な概念であり、20世紀に入ってからの物理学では時代遅れと なったが、スティーヴンの頭の中は旧い世界観のままである。学校のトイレは「四角(“square”)」と呼ば れる(3)。幾何学用語をところどころに挿入することで、ジョイスは数学的な思考による世界把握や叙述の 仕方が重要な認識のあり方であることも同時に示していると考えられる。スティーヴンの数学教師は無神 論者の秘密結社員と噂され、スティーヴンはこの先生の魂がユークリッド幾何学に則った運動の中で彷徨 するさまを空想する。

 

  苦痛がなく、いつまでもつづく意識の地獄の辺土、そのなかを数学者たちの魂がさまよい歩く、ますま す弱く、ほのかに白くなりゆく黄昏の平面から平面へ(“from plane to plane”)、長くほっそりした構 図を投影して。宇宙の最後の縁へ、素早く渦の輪を放射しながら。ますます広大になり、ますます遠ざ かり、ますますとらえにくく……[Joyce 1986a:174] 

     

『肖像』では数学や物理の授業が何度も出てきて、そのたびにスティーヴンは難しい数式に行き詰まっ たりすることが多い。作家であるジョイスはこうした場面で非ユークリッド的な素材を盛り込み、スティ

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ーヴンのユークリッド的思考との間に、ある種の亀裂を生じさせていると考えられるのだ。 

新しい幾何学概念を理解できないということが、新しい視覚(世界観)ばかりか、彼の詩人としての成 長すら妨げてしまうと思われる決定的な個所がある。彼が詩の創作を途中で断念する場面である。 

   

    煙は地上(“earth”)のすべてから、水蒸気を含んだ海原から、彼女をたたえる香の煙となって立ち昇る。

地球は揺れる吊り香炉、香りの球、楕円形の球。たちまちリズムは死に絶えた。彼の心の叫びはとだえ た。[Joyce 1986a:197、下線は引用者] 

 

先に述べたように、非ユークリッド幾何のモデルは球面である。スティーヴンの詩では楕円形や香りの 球に代表される新しい空間の次元が開かれつつあったのに、彼の思考の展開がそれに伴わず、創作が尻す ぼみに終わったとの解釈が成り立つであろう。創作の挫折は、彼の数学的世界観の限界と重なり合うのだ。

スティーヴンは、新しい認識のとば口まで接近しながら創作の中でその先に進めない。このことが暗示す るのは芸術家として成長できないスティーヴンの未来である。 

スティーヴンはこの小説の最後の場面で祖国を旅立ち,芸術家として生きることを高らかに宣言しなが ら、そのあとの期間を扱った『ユリシーズ』ではパリの亡命から呼び戻されたあとに自堕落な生活を送る 設定である。スティーヴンが本物の芸術家になれないことが『肖像』のテキストの端々で予見的に示唆さ れていると多くの論者が指摘してきた[Seed 1992:141-42]。本節で考察した、非ユークリッド幾何学を巡 る理解不足の問題も、『肖像』のこうしたイロニーを補強する材料になると考えられる。 

ユークリッド幾何と非ユークリッド幾何を分けるのは、空間に対する新旧の違ったものの見方であり、

数学および自然科学の知見に基づいている。『肖像』でスティーヴンが友人から「じゃあ君の視点は?

(“What then is your point of view?”)」と聞かれ、「その視点という言葉が、まるで木炭の煙のように 厭な臭いを立てて気をめいらせ、(スティーヴンの)脳を興奮させた」[Joyce 1986a:222]とあるのは示唆 的である。ここでスティーヴンは自己の思想をビジュアルな視覚に置き換えて表現するよう求められてい るが、非ユークリッド幾何学の世界に不慣れな彼は、空間に対して因習的なユークリッド幾何学に基づい た、距離と大きさに比例した遠近法的な視覚しか知らない。「視点」が限定的であることを突かれ、彼がと まどっていると象徴的に解釈できる箇所である。 

もともと『肖像』のスティーヴンは弱視の設定である。そして敵対的なものや権威者からたびたび視覚 的な攻撃を受け、その経験から徐々に既存の秩序や体制に対する批判的な態度を身に付けていく。「見るこ と」はほかのジョイス作品でもそうであるが、外界の事物や物事を知覚するだけでなく、自分自身を了解 する自己認識と密接につながっている(4)。視覚は人間が外界の世界を把握する経験の基本的な立脚点であ り、外界の事物や出来事は時間と空間の中で経験される。ジョイスは意識的に「視点」という言葉を使っ て、読者に視覚にまつわるスティーヴンの精神の微妙な揺れを暗示している。ジョイス自身、『ユリシーズ』

執筆時に非ユークリッド幾何学の創始者の一人であるロバチェフスキーの存在を知っていたことが先行研 究では明らかにされており[Rice 1997:62]、現実世界を描写するにあたり、新しい空間認識の提示の仕方 としてジョイスが意識的に幾何学による世界像を用いたことは明白であるといえる。 

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文学と物理学の間における同時代的な相同関係の例として、ジョイス作品にはアインシュタインの相対 性理論を生む前提となった非ユークリッド幾何学の知見が随所に織り込まれ、世界把握の一つの隠喩とし て組み込んでいることが以上のように分かるのである。 

 

第 3 節  迷宮と幾何学の表象 

幾何学的な形象は、ジョイス作品の中で視覚や認識の問題と密接に関連し、世界を把握する有効な手段 であることを前節でみた。ただ、幾何学の形象は単に世界を記述するだけでなく、登場人物の心象風景を 示す独特な意味付けがなされていることもジョイス作品の中では珍しくない。たとえば、『肖像』ではステ ィーヴンの心の中で不安や嫌悪といった感情が生じるときに必ずといっていいほど幾何学的な形象がその きっかけをつくったり、ある感情を催させる現象に付随したりする。たとえば、“square は学校の便所の 四角い形を指し、そのまま便所を示す用語としてスティーヴンの学校で使われている。スティーヴンは悪 友のいたずらによってその「四角」に落とされてずぶぬれになった経験があり、「四角」という言葉を耳に するだけで不快な気持ちになる。また“square”は、同性愛的なタブーを犯す秘密の場所でもある。ステ ィーヴンは“smugging”[Joyce 1986a:39]という行為を便所で犯した上級生が先生につかまったことを知 らされる。この行為が実際に何を意味するのかは秘密にされ、級友の誰も教えてくれない。スティーヴン は何が怪しげで不吉な意味内容をもつ言葉だと本能的に理解する。ギフォードによるとこれは生徒同士の 同性愛的行為のことであるという[Gifford 1982:151]。『肖像』のスティーヴンにとって“square”は不快 な場所で、意味不明で不条理な場所という含意がある。 

円環のイメージはジョイス作品でより頻繁に用いられる形象である。学校に入りたてのスティーヴンは 周りの学友よりも体が小さく、学校の中でも疎外感を覚えることが少なくない。学校の運動場で彼は荒々 しい学友たちに混じって球技をする。そのときの彼は不安で落ち着かない気持ちでいっぱいで、たまたま 鳥が空を飛ぶ様子をみたときに使われる言葉は円弧を指し示す“curve” である。また、家庭が零落し、

彼の一家は何度も転居を余儀なくされるが、初めてダブリンに引っ越してたった1人で知らない街を探索 する時の様子をテキストはやはり円に関連する言葉を用いて描写する。「はじめのうちは近所の辺りをこわ ごわ歩き回る程度だった(“In the beginning he contented himself with circling timidly round the neighbouring square”)[Joyce 1986a:61、下線は引用者]。スティーヴンが未知の世界に接近したり、自己 に何らかの不安を抱いたりする時に必ずといっていいほど、円環的なイメージがつきまとう。 

『肖像』の第2章ではスティーヴンが叔父から運動の訓練を受け、公園内のトラックをぐるぐる走りま わるエピソードがある。無精ひげをはやした叔父は過去にすぐれたランナーを育てたと言われており、ス ティーヴンを鍛えるために、ランニングの訓練を課すのだ。スティーヴンは周回しながら自分のやってい ることに不快感や反発を覚える。「公園を走っているときに、突然、心臓がむかむかして、足がだるくなっ たのと同じ予感、トレーナーの無精ひげに覆われたたるんだ顔が汚れた長い指の上に重苦しくかがみこん でいるのを不信感をもって見たときとおなじ直感に襲われ、未来についてのどんなヴィジョンもたたきこ わされるのだった」[Joyce  1986a:59、下線は引用者] 

『ダブリン市民』の「邂逅」では、語り手の少年が、得体のしれない中年の男性と遭遇し、少年は「彼

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の精神がゆっくり同じ軌道を回っている(“his mind was slowly circling round and round in the same

orbit”)」[Joyce 1977:26、下線は引用者]と感じる。何回もおなじ軌道を彷徨っているような男の話しぶ

りは、この男性の精神がどこかおかしくなっていることを示し、語り手の少年はいいようのない恐怖を覚 える。中年男は少年としばらく会話をしたあとで、離れた原っぱで何か性的な行為をしたことが次の引用 文によって示される。ジョイスは『ダブリン市民』でアイルランドの精神的な麻痺を描いたが、この中年 男もアイルランドの精神的麻痺を体現したような人物である。 

 

――ほらみろ、あいつ、あんなことしているよ。 

私〔引用者注:語り手の少年〕が答えず、眼も上げないでいると、マホニー〔引用者注:語り手の友人〕

が再び大声で叫んだ。 

――おい……。あいつは変なおやじだ。[Joyce 1977:26]

 

以上のように、円環のイメージは主人公たちが不安や嫌悪、反発を覚えるときによく出てくる形象であ るが、主人公を何か得体の知れない力で吸引する魅惑的なものの存在を指し示す形象となる場合もある。

また、円環のイメージはより深い次元で『肖像』の作品が採用している神話的要素ともつながっている。

それらを以下では具体的にみていこう。 

『肖像』の冒頭にオウィディウスの『変形譚』の一節が置かれていることからも分かるが(5)、この小説 はギリシア神話を下敷きにしている。スティーヴン・ディーダラスという主人公の名前は迷宮神話の工匠 ダイダロスからきている。クレタ王の王妃パーシパエーは、牡牛と交わって半人半獣の怪物ミノタウロス を生みおとす。それを知ったクレタ王のミノスはダイダロスに命じて迷宮を作らせ、その奥深くにミノタ ウロスを幽閉する。迷宮の建造者であるダイダロスは、迷宮から抜け出す方策を漏らしたことでミノス王 の怒りを買い、息子のイカルスとともに迷宮内に閉じ込められるが、人工の翼を作り、息子とともに逃避 する。翼で空を飛べることに有頂天になったイカルスは太陽に近づきすぎてしまい、翼のロウが溶けて、

海に落下して亡くなってしまう。一方、ミノタウロスはあとでテセウスに退治される。 

これが迷宮神話の概略である。『肖像』では幾何学的な円環のイメージが迷宮内に張り巡らされた迷路と いう非日常的な空間構造に相当する役目を果たすのであり、迷宮神話と深い層でつながっている。たとえ ば、『肖像』のスティーヴンはダイダロスの名を持ち、ダイダロスさながら最後にはアイルランドという迷 宮を脱出=亡命することを決意する。この小説はスティーヴンの精神的成長を描く教養小説であり、彼が 困難な課題や苦難を通過するときに通る小道や小径、階段といった通路は円環的イメージで語られること が多い。そして円環は迷路の隠喩としての効果も担っていると考えられるのだ。『肖像』の中では迷宮

(“labyrinth”)という言葉は直接的には用いられていないが、迷路(“maze”)という語は3回出てくる。 

  『肖像』の第1章では、生徒指導の神父から不当な体罰を受けたスティーヴンが自分の濡れ衣を晴らそ うと校長室へ不当行為を訴えにいく話が出てくる。そのとき彼が通る回廊はまさに迷宮のイメージで描か れている。最後に校長からその訴えを認めてもらい、スティーヴンは級友たちから賞賛されて胴上げされ るが、これは抑圧的なアイルランドの学校生活という「迷宮」からの脱出に相当する勝利のエピソードで

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ある。校長に直訴しにいくため、スティーヴンは仲間に見送られながら食堂を後にし、迷路のような暗が りに入っていく。 

 

    スティーヴンは戸口に着くとすばやく右に曲がり、階段を登っていった。引き返す気になる前に、彼 は城に通じている、低くて暗い狭い廊下に入っていった。そして廊下のドアの敷居を越えながら、彼は 頭を振り返って確認することはしなかったが、仲間の生徒たちが列を作って自分が通り過ぎるのを見送 っているのをみた。 

    彼は狭くて暗い廊下を通り、修道院のいくつもの部屋のいくつもの小さなドアを通り過ぎた。薄暗が りを通して、前や右や左をのぞきこみ、向こうにみえるのは肖像に違いないと見当を付けた。暗いうえ に静かだし、それに目が弱っていた。目は、涙で疲れていてよくみえない。[Joyce 1986a:50-51] 

 

迷宮の中を探検するように、スティーヴンは修道院の薄暗がりの空間をさまよい、目的地である校長の部 屋を目指すのである。 

『肖像』の第2章では、性の興味にかられたスティーヴンが娼婦を求めて街をさまよい歩く様子が描か れる。 

 

  彼は狭くて、きたならしい迷路のような通りをさまよっていた。不潔な横道からは、しゃがれた大声や、

口論や酔っ払った歌手の長く尾をひくような歌声が聞こえてくる。彼は気後れしないで歩き続けながら、

ユダヤ人地区にさまよい込んだのかしら、と思った。派手な色の長いガウンを着た女たちや少女たちが、

通りを家から家へと横切っていく。彼女らはひまそうだったし、きつい香水をつけていた。身震いが彼 を襲い、目がぼんやりしてきた。黄色いガスの炎が彼の混乱した目の前でぼうっと霞む空に立ち昇る。

まるで祭壇の前にあるかのように燃えている。ドアの前や明るい玄関では、女たちの群れがなにかの儀 式のためのように列をつくって集まっていた。彼は別世界にいた。[Joyce 1986a:92、下線は引用者] 

 

クレタの迷宮神話では、「儀式」として迷宮ダンスが踊られるくだりがある。引用文でも「祭壇(“an  altar”)」という言葉が使われているのに加え、「なにかの儀式(“some rite”)」という語が使われている。

迷宮の世界にいるような雰囲気がこうした小さな仕掛けからも醸し出されている。 

迷宮神話と『肖像』の相関はそれにとどまらない。性的なタブーを犯すという共通のプロットがある。

古代ギリシアの迷宮神話において、迷路の中心は特権化された場所である。そこには獣姦という破廉恥で おぞましい行為で生まれたミノタウロスがいる。そこは恥辱、口にすることが憚られる非人間的、怪物的 なものがいる不気味な場所である。謎めいた驚くべきものがいるという恐怖とそれを見たいという期待で 迷宮はいわく言いがたい魅力をもっているのであり、その空間システムの中心にたどり着くまでの困難さ を増幅するために、長く入り組んだ迷宮建築がある。この「中心(=目的地)」を志向する建築的な空間構 造が『肖像』のテキストの中にも組み込まれている。『肖像』も円環のイメージで迷路的な複雑な空間が語 られ、その中心地に向かって主人公が進む。迷宮神話では迷路の奥深くに退治すべきミノタウロスがいた

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ように、『肖像』のスティーヴンが向かう迷路の先にも彼を惑わす性的な目的や目標物がある。 

具体的に見ていこう。第1章でスティーヴンの目的地は校長室だったが、成長して性欲に目覚める思春 期を迎えた第2章になると、彼の探索は性的な動機に突き動かされる。スティーヴンが売春婦を求めて街 中をさまよい歩くとき、迷路さながらの道が曲がりくねった光景が広がる。「僕は曲がりくねった通りを上 へ下へと歩いていって、恐怖と喜びにうち震えながら次第しだいに近づいていって、そして突然、暗い角 を曲がるわけだ」[Joyce 1986a:95、下線は引用者]。ジョイス作品の中で円環のイメージは登場人物を不安 や不快にさせるシンボルであることを指摘したが、理性を惑わす何か妖しげな力を秘めているものの所在 を示すシンボルともなるのだ。第2章でミノタウロスに相当するのは娼婦である。 

『肖像』の第3章では、性欲に目覚めた彼が神父の説教に感化され、自分の罪深さを自覚する。自省し た彼は心の中に沈降していき、やはりそこにミノタウロスのようなおぞましい獣的光景を幻視する。暗く、

不気味でミノタウロスのようにおぞましい獣的な自分の姿に出会うのである。 

 

その野原には獣たちがいた。一匹、三匹、六匹。獣たちはあっちへこっちへと野原を歩き回る。人間の 顔をした山羊のような生き物、額に角が生え、薄くひげを生やし、ゴムのように灰色の。長い尾を後ろ に引きずりながらあっちへこっちへと歩き回る時、獣たちのきつい眼には悪意がきらめく。口をあけた ときにのぞく残忍な敵意が、年老いた、骨ばった顔を灰色に照らす。一匹は肋骨のあたりに、ぼろぼろ になったフランネルのチョッキを巻きつけており、もう生い茂った雑草にひげがからまって、単調に不 平の声をあげる。獣たちはゆっくり輪を描いて雑草の中をあちこち歩き回り、乾ききった唇から弱弱し い言葉をもらす。がたがた鳴る聖餅容器の間で長い尾を引きずる。彼らはゆっくり輪を描いて、次第し だいに輪を縮め、彼を取り巻こう、取り巻こうとする。細々とした言葉がその唇から漏れる。そして長 くてシューシューと、音を立てる彼らの尾は腐りかけた糞に汚れ、その恐ろしい顔で見上げる…… 

助けてくれ。 

彼は狂ったように毛布を払いのけ、顔と首を外にだした。地獄だ。僕が犯した罪のために神がとって おいてくれたものをみせてくれたのだ。臭くて獣的で悪意に満ちて、淫乱で山羊のような悪鬼という地 獄を。[Joyce 1986a:126、下線は引用者] 

 

『肖像』では迷路の先にスティーヴンは目的物を見つけるという共通のプロットがある。引用文では心 という迷路の中心で彼は自分自身の本性に出会うのである。以上のように、ギリシア神話の迷宮神話は『肖 像』という物語の展開と二重写しになるのであり、円環的な迷路という形象がスティーヴンの置かれた状 況を象徴的に印象づけるのに役立っている。 

迷路は「視覚」の問題にもかかわってくる。本稿の主たる目的の1つは、ジョイス作品の中にルネサン ス以来の遠近法的な視覚の構図が否定され、主観的視覚などを使った新しいリアリティーが創出されてい ることをテキストに即して論証することにあるが、迷路=円環のイメージはこの問題を考えるのに重要な 役割を果たす。遠近法の場合、通常表現されるのは、観察者がみた全体的な眺望であり、一度見ればすべ てが了解されるような一回性の情景である。これに対して、通路が複雑に曲がりくねった迷宮の内部では

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その見晴らしが開けず、同じ迷路のような光景がずっと続くような、入り込んだ印象を与える。『肖像』第 3章では、視覚を妨げる迷路空間をかいくぐった先にスティーヴンは獣となった自分自身を象徴的にみる。

小説の最後でスティーヴンは迷路=アイルランドから亡命(脱出)するが、求心的か遠心的かの違いはあ るにせよ、自分自身と向き合う「場」、すなわち特殊な視覚的空間の比喩として迷宮が使われ、円環的イメ ージがそこで重要な役割を果たす。 

第2章では父親との旅行の途中で、父親がかつて通った学校の中に入り、机の上に子宮の中にくるまる

「胎児」という字が彫り込まれているのを発見するエピソードがある。スティーヴンはそのなまめかしい 獣的なイメージに本能的に反応する。 

 

中庭を横切って、カレッジの門のほうに戻ってくる間も、その「胎児」という言葉とヴィジョンが彼の 目の前にちらついていた。これまで自分の心の中だけの、獣的で個人的な病気だとおもっていたものの 痕跡を外界にみて、彼は衝撃を受けていた。[Joyce 1986a:83、下線は引用者] 

 

引用文で「ヴィジョン」という視覚に関する言葉が用いられている。主観的に「見る」ことが自己認識に かかわっている例がここにも認められる。 

本節での考察したことを改めて振り返ると、未知の世界を幾何学の比喩を用いて認識し、表象しようと する傾向がジョイスの作品では数多くみられ、それは登場人物の精神にも直接的、間接的に作用する。そ して時には、ある特殊な幾何学形態が、登場人物の置かれた状況や精神状態を示す隠喩ともなっている。

いわば人物の精神状態が外在化され、それが幾何学の形象となって表現される。世界を幾何学的に叙述し、

新しいリアリティーを創り出すことにジョイスは成功している。この問題については本論第2部でデ・キ リコの絵画作品とジョイス作品を比較する際に改めて取り上げる。 

 

第 4 節  ブルームと非ユークリッド幾何学 

  人物の心理と幾何学的形象の間に、ある種の対応関係が存在することを前節で見たが、スティーヴンと 対照的な人物設定が『ユリシーズ』に登場するレオポルド・ブルームである。結論を先に言えば、ブルー ムの精神は非ユークリッド幾何学のように多元性をもち、ユークリッド幾何学の世界にがんじがらめにな っているスティーヴンと対照的である。従来の『ユリシーズ』批評では、スティーヴンとブルームの出会 いについて、同作品に神話的骨格を与えた、ホメロスの『オデュッセイア』になぞらえて父と子の精神的 な和解と見る解釈も出されてきた[川口 1994:417-425]。本節ではこの問題を分析するひとつの補助線とし て、幾何学形態の隠喩を参考にする。 

その前に、ブルームがどんな人物設定なのかを見ていこう。ジョイスは『ユリシーズ』執筆時に友人の フランク・バッジェンにブルームの人物像を次のように語っている。 

 

「完全な人間とはどういう意味なんだい」と私〔引用者注:バッジェン〕は質問した。「例えばだね、

仮に彫刻家が男性の人物像を作ったとしよう。万能で(“all-round”)で三次元の人間として。しかし、

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理想的なという意味では必ずしも完璧ではないがね。人間の体が皆不完全で、何らかの形で制約がある。

生身の人間もそうだ。それで君の書いているユリシーズだが」 

「彼はその両方さ」とジョイスは語った。「僕は彼をどんな側面からも見ることができる。つまり、君 の言う彫刻の像という意味でオールラウンドなのだ。しかも彼は完全であり、良い人間でもある。とに かく僕はそうなるようにするつもりだ」[Budgen 1960:17] 

 

ここで注目したいのはジョイスが友人の言葉を受けた形で、ブルームを“all-round”と円環の比喩で表現 している点である。実際にブルームは、数学や科学の話題が好きな市井の科学愛好家という設定である。

そうした人物造形の中で、『ユリシーズ』のテキストはオールラウンド的な人物としてブルームを提示する ばかりか、非ユークリッド幾何との連関性を明示的にみせるのだ。 

  数学との結びつきで言えば、ブルームはダブリンの街を歩きながら、数学や科学のことをいろいろ考え る。『ユリシーズ』第 5 挿話では、彼は水と容積についてのアルキメデスの法則を思い出そうとする。また 物体が落下する加速度を「毎秒毎秒32フィート」[Joyce 1986b:59]だと思い出し、高校時代に習った「落 体の法則」の記憶をたどる。これはユークリッド幾何学に基づいたニュートン力学だ。 

ブルームは書斎にアイルランド生まれの天文学者サー・ロバート・ボールの著書『天の話』を所蔵して おり、天文学に関心がある。さらに彼は視差(“parallax”)という専門言葉を幾度か意識する(6)。視差と は 地 球 上 の 異 な る 地 点 か ら 天 体 を 仰 ぎ 見 た 時 の そ の 見 え 方 の 差 に つ い て の 用 語 で あ る [Gifford 

1988:160]。視差という特殊な現象については1900年にドイツの天文学者フリードリッヒ・ウィルヘルム・

ベッセルが“parallactic drift”と言う言葉で地球から見ると不動にみえる恒星が実は動いていることを確 認した事実がある[Gifford 1988:582]。もっと卑近な例では、指を目の前に立て、遠くの物体を眺めると、

指が二重にみえる現象である。両眼と単眼の見え方の違いが、「視差」の問題のポイントだが、デカルト的 遠近法主義の視覚の限界の一端がこうした言葉に見え隠れする。ブルームはそうした哲学的に重要な問題 提起をはらんだ言葉を何気なく使うのである。 

『ユリシーズ』第15挿話では祖父のヴィラーグの証言でブルームが若いころ円と等面積の方形を求めよ うとしたことが明かされる。「おまえは、丸々1年を宗教問題の研究に費やそうと考え、1886 年の夏の数 ヶ月の間に円をおなじ面積の四角に変え、あの100万ポンドをもらうといっていたな」[Joyce 1986b:419]。

与えられた円と同じ面積の正方形を作図する「円の方形化」問題は古代から数学者が取り組んできたテー マであった。これはジョイスの生誕の年である1882年にドイツの数学者フェルディナント・リンデマンが コンパスと定規のみで円を方形化することは不可能であることを証明した[Devlin 1994=2005:194]。  ジ ョイスが19世紀から20世紀初頭の数学を中心にした自然科学の発展と歩調を合わせるようにしてブルー ムの人物像をつくっていったことがうかがわれる。 

幾何学の形象という形で直接的に、ブルームと非ユークリッド幾何学の関連性を示唆するのは『ユリシ ーズ』第17挿話である。この挿話の学芸は「科学」であり、文章は教理問答(カテキズム)形式で科学的 な表現形式で語られる。本挿話では科学的な文体で人物の行動を説明しており、現実世界を数学的に記述 することで読者に通常のリアリズム小説の文体とは違った世界を展開してみせる。非ユークリッド幾何学

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とブルームとの強い連関を示そうとテキストが周到に意識していると見える記述がある。 

まず冒頭でスティーヴンとブルームが夜道をブルーム宅に向かう帰路の歩みを幾何学的に平行線の比喩 で叙述する。 

 

ブルームとスティーヴンは帰途いかなる平行進路をとったか? 

彼らはともにふつうの歩く速度でベレズフォード・プレイスを出発し、下および中ガーディナー通り を経て、マウントジョイ広場西通りへ、そして歩くペースを緩めて両者それぞれが左に曲がり、ガーデ ィナー・プレイスを不注意のために北テンプル通りの角の端まで歩き、そしてまたペースを緩めて時折、

休止もはさんで進み、右折して北テンプル通りをいき、ハードウィック・プレイスにいたった。彼らは 力をぬいたペースでそれぞれジョージ教会前の円形広場に近づき、別々にまっすぐに広場を横断した。

どんな円形においても弦はそれに対応する弧より短いのである。[Joyce 1986b:544、下線は引用者]。 

 

 『ユリシーズ』においてはこの 2 人が精神的な父子関係を樹立するかが多くの論者の関心を呼んできた。

この場面で 2 人の関係は、平行線という幾何学的な位置関係に置き換えられて、その歩む人生行程は平行 線のままどこまでも伸ばしていっても交わらないのか、結局交わるのかをテキストが問いかけているとも 読める。平行線の問題に関するユークリッド幾何学の誤謬を突いて、非ユークリッド幾何学が誕生したこ とは先にみた。引用部分の箇所でも「平行」という言葉を用いて、ブルームを幾何学的なテーマに即して みる方向へと、読者の関心をひきつける効果があると考えられる。 

  スティーヴンとブルームの平行は結局、交わらないまま終わることが示唆される。 

 

    残留しようとする求心的人物はいかにして、外に出ようとする遠心的人物に出口を与えたか?[Joyce  1986b:577] 

 

ここで求心的人物とは自宅にとどまるブルームを、遠心的人物とは帰りを急ぐスティーヴンのことを指す。

引用文に続いてテキストは故意に性的な含意を含んだ言葉遣いでブルームの行動を描写するが、通常の叙 述に直せば現象的には、ブルームが自宅のドアを開け、帰宅の意思を固めたスティーヴンを外に出そうと することが記される。非ユークリッド幾何学では2つの相互に平行な直線は対称性があり、互いにある方 向 で は 漸 近 的 に 近 づ き 、 別 の 方 向 で は 限 り な く 遠 ざ か る こ と が 認 め ら れ て い る [Γлeй3eр  1983=1997:282-82]。スティーヴンとブルームは、求心性と遠心性という異なる方向で接しないまま別れ るとも受け取れるのである。 

  スティーヴンを見送った後、ブルームは妻のモリーが眠る寝室に戻る。スティーヴンが来訪したことを モリーに教え、眠りにつくが、その際にモリーの臀部に接吻する。そこでモリーの尻はメロンや地球など 丸い物体として提示される。 

 

  彼は彼女の腰部のぽっちゃり豊熟した黄色く、香しいメロンにキスした。肥満したメロンの半球の一

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