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第二部 新年特別講演会

藤末鎌初に活躍した仏師、運慶、快慶

横浜歴史研究会

齋 木 敏 夫

1はじめに

昨年11月サントリー美術館で高野山展が開かれ、運慶作の八大童子像(現 存六体 国宝)が出展されました。東京国立博物館では国宝展が開かれ、安倍 文殊院 快慶作の文殊五尊像(騎獅像)(国宝)の内善財童子と仏陀波利三蔵像 が出展されましたのでご覧になった方もいらっしゃると思います。藤末鎌初と は藤原時代の末から鎌倉時代初めと云う意味で使われています。平安時代中頃 からの仏像は平等院の阿弥陀如来坐像を範とする定朝様(ジョウチョウヨウ)と いう浅く流れる衣文、円満で穏やかな表情、浅い肉付けに特色があり、平安貴 族の好みを反映したものが主流でした。時代が変わり、鎌倉時代になると奈良 仏師による寄木造、玉眼入りの力強い、写実的な仏像が造られるようになりま した。玉眼入仏像の最古のものは奈良「山の辺の道」沿いにある長岳寺の阿弥 陀三尊像です。1151年に造られた阿弥陀如来坐像は定印を結び、観音,勢至 の両脇侍はこの時代には珍しい半伽椅坐像で片足を踏み下げる形式で奈良時代 にその例が見られ、奈良時代の古典復興の意図があったとも見られ、鎌倉時代 作風の先駆けと言えます。保元(1156年)平治(1159年)の乱が起こり、 この戦で伊勢平氏が台頭しました。運慶と同年輩と思われる天台座主慈円は愚 管抄で鳥羽院ウセサセ給(タマイ)テ後、日本国の乱逆と云コトハヲコリテ後ム サ(武者)ノ世ニナリニケルナリ」といっています。治承、寿永の内乱(118 0~1185)で平家は滅亡し、源氏が鎌倉に幕府を開き、武士の世になりま した。 1180年の平重衡による南都焼き打ちにより、興福寺、東大寺の大部分が 焼失し、その復興過程での造仏作業の増加が運慶、快慶に活躍の場を与えまし た。特に運慶作の仏像が東国の伊豆韮山の願成就院、横須賀の浄楽寺、足利の 鑁阿寺関連の寺院に残されており、鎌倉では運慶に関する多くの伝説が語られ ています。こう云ったことから運慶は鎌倉へ来ていたのではないかと推論し、 なぞ解きを進め、康慶一門の快慶(アン阿弥陀仏)については東大寺を復興し

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た重源(南無阿弥陀仏)の仏弟子でもあり、その結びつきにより、造られた仏 像についてお話したいと思っています。

2、重源と

栄西

について

重源は47歳の時(1169)宋に渡り、翌年栄西と一緒に帰国しました。 和歌山県の泉福寺の梵鐘には「観進入唐三度聖人重源」との記述があります。 平清盛の時代に日宋貿易の糸口をつかむため宋に渡った僧のことが中国の資料 に残されています。その僧が重源と翌年明州に入った栄西です。国交が途絶え ていた中国に僧が渡るのは清涼寺釈迦如来立像(国宝)を持ち帰った東大寺の僧 奝然(チヨウネン)以来180年ぶりの事でした。栄西が残した「栄西入唐縁起」 には中国に渡った二人が天台山に向かったことが記されています。訪れたのは 国清寺です。重源と栄西はここに数ヶ月滞在したと伝えられ、現地の資料には 「栄西大師は1168年仏教を学ぶために来て、帰る時には仏教の経典60巻 余りを持ち帰られました。」との趣旨が記されています。平清盛は宋王朝との関 係を築くために自由な行動が許された僧を利用したのです。宋の皇帝孝宗が敬 った阿育王寺の舎利殿の建設について建築用の木材が日本から運ばれたと記載 があります。重源と栄西はこの舎利殿を建立するに際し、日本の最高級の木材 を送ることを約束し、連絡を受けた清盛の進言もあり、後白河法皇はすかさず 木材を阿育王寺に送り、舎利殿の建立に大きく貢献したのです。舎利殿を作る という約束を通して孝宗と後白河法皇が接点を持つことになり、正面から中国 とつきあえる体制を作り出し、それによって貿易も盛んにするというかなり高 等戦略を取ったのだと思います。清盛のもとに宋の使者がやって来て後白河法 皇みずからが接見しました。当時皇族が異国の人間と接見することはありえな いことでした。「玉葉」で九条兼実は「未曽有のことなり」「天魔の仕業か」と 記しています。清盛は法皇を取り込み、反対する貴族を抑え込み、日宋貿易の 基盤を築き上げたのです。 東大寺は治承4年平重衡の南都焼打によって伽藍 の大部分を焼失、大仏もほとんどが焼け落ちました。「玉葉」に「仏法王法滅盡 し了ぬか、およそ言語の及ぶところに非ず、筆端の記すべきにあらず。(中略) 父母を失うよりも悲しい。この大仏が再び像立されるのは何世何時哉。」と記し ています。1181年6月後白河法皇による造東大寺の「知識の詔書」が下さ れ、重源は造東大寺大勧進の職を願い出て後白河法皇は東大寺造営勧進の宣旨

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を下しました。頼朝は東大寺の再建を源氏が助けるということで民意を源氏方 に向けさせるという政治的な思惑もあったようで1185年3月に金を納めて いました。頼朝は重源への手紙で全面的に協力する旨を伝えていますがこの時 点では後白河法皇に対する遠慮があったようです。顔のみの荘厳で十分ではな かったのですが大仏開眼の運びとなり、1185年8月後白河法皇は752年 の大仏開眼の時に菩提僊那が使った筆を正倉院から持ち出し、大仏開眼供養が 行いました。そして重源はこの頃から「南無阿弥陀仏」と名乗り始めました。

3、運慶の生涯

1150年代初頃康慶の子として誕生 1176年 奈良・円成寺の大日如来坐像(国宝)を完成 1177年 康慶 富士市にある瑞林寺の地蔵菩薩坐像(重文)を造る 1183年 法華経の書写を完成、「運慶願経」(国宝)と呼ばれ、快慶等慶派 仏師名が記されている。 東大寺お水取りの連行衆として初めて参加? 1184年 東大寺お水取りの連行衆に参加? 1185年 成朝(運慶の叔父?)奈良仏師の嫡流として幕府から依頼され、 鎌倉へ下向、運慶同行? 1186年 東大寺お水取りの連行衆に参加? 興福寺西金堂の釈迦如来像 (仏頭(重文)のみ現存) 伊豆韮山願成就院の阿弥陀如来坐像、毘沙門天立像、不動明王二 童子像(いずれも国宝)造像 1187年 東大寺お水取りの連行衆に参加? 1188年 東大寺お水取りの連行衆に参加? 1189年 願成就院へ像を安置の為小仏師10人を率いて鎌倉へ下向?その 後横須賀 浄楽寺 阿弥陀三尊像、毘沙門天立像、不動明王立像 (いずれも国宝)を造る 1190年 引き続き鎌倉で永福寺の仏像(現存せず)を造る 1193年 足利樺崎寺 大日如来坐像(重文)を造る 現在真如苑所蔵 1194年 この頃奈良へ戻る? 1195年 東大寺大仏殿落慶供養、法眼位を得る 1196年 東大寺大仏殿 観音、虚空蔵菩薩及び四天王像(現存せず)康慶、

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快慶等と造る 1197年 高野山 八大童子像(現存六体 国宝)を造る 東寺講堂の諸尊 修理 1199年 足利義兼の為大日如来坐像(重文)光得寺像を造る 1201年 長男湛慶と共に岡崎滝山寺の聖観音立像、梵天立像、帝釈天立像 (いずれも重文)を造る。 頼朝の等身大といわれる聖観音像の胎内には、頼朝の鬚と歯が収 められています。 1203年 快慶、湛慶等と東大寺南大門の金剛力士立像(国宝)を完成、法 印(最高位)を得る 1206年 東大寺再建の大勧進 俊乗房重源死去 この頃俊乗上人坐像(国 宝)を造るか? 1212年 湛慶等と興福寺北円堂の弥勒仏坐像、無著、世親菩薩立像(国宝) を造る 1216年 金沢区 称名寺内光明院の大威徳明王坐像(重文)を造る 1223年 死去 4、運慶は鎌倉へ来たか 1177年運慶の父康慶は富士市にある瑞林寺の地蔵菩薩坐像(重文)を造っ ています。像内に記されたものの中に箱根権現別当行実の名前があり、行実が 義朝とも親交があったことから配流先の頼朝とも接触があったことなどの関係 があったようです。当時の仏師集団で最も有力なものが院派・円派といった京 仏師で後白河院や平家と関係が深かったのです。治承4年(1180年)12 月 平重衡により、奈良の東大寺・興福寺が焼失し、その復興に際しても当初 は院派・円派の仏師が興福寺の金堂・講堂のような主要堂塔の造像を担当する こととなり、奈良仏師では僅かに康慶が南円堂の本尊を担当し、本家筋にあた る成朝が食堂の本尊を担当する程度でした。平家一門を壇の浦に葬った後 源 頼朝は亡父義朝の菩提を弔うために勝長寿院を建立、その本尊 阿弥陀如来像 を造るに当たり、前述の箱根権現別当行実あたりが源頼朝に奈良仏師の嫡流で ある成朝を推薦し、旧勢力との関係が稀薄であったこともあり、決定したもの と思われます。 1183年に軸木を東大寺の焼け残りの柱とした「運慶願経」(国宝)と呼

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ばれる法華経の書写を完成し、東大寺に納経しています。これが機縁になった のか連行衆の名簿に通常初参加の場合は末尾に記録されますが運慶の名前は1 183年84年と修二会(シユニエ)の26人中14番目に記されています。8 5年には運慶の名前は記録されておらず、お水取りに参加せず、成朝と共に鎌 倉へ来て勝長寿院の仏像を造像していたと推論する次第です。 成朝は奈良仏師の嫡流として幕府からの依頼を受け、興福寺食堂(ジキドウ) の本尊を造るのを止め、鎌倉へ下向したものと思われます。このとき康慶が運 慶の腕を見込んで鎌倉へ送り出し、拙いと思われた成朝を補佐させ、鎌倉にデ ビューさせたと思われます。吾妻鏡は「文治元年(1185)10月21日南 御堂に本仏(丈六、皆金色の阿弥陀像。仏師は成朝なり)を渡し奉る。」と記し ています。 現存していませんので推量ですが阿弥陀三尊の本尊を成朝が造り、脇侍を運慶 が造り、運慶の仏像の出来栄えが成朝より優れていると認めた北条時政、政子 が願成就院の仏像製作を依頼したのではないかと思われます。この年の年末頃 に奈良に戻った運慶は興福寺西金堂の釈迦如来像(仏頭(重文)のみ現存)を 手掛けましたが細部まで完成しなかったようです。翌年5月から伊豆韮山願成 就院の阿弥陀如来坐像、毘沙門天立像、不動明王二童子像(いずれも重文)を 作り始めています。この像内には「巧匠勾当運慶、檀越北条時政」の墨書銘があ ります。興福寺の巧匠であることは奈良では知られており、興福寺名を記す必 要がなかったものと思われます。そして1186、87、88年は修二会の連 行衆の名簿に再び運慶の名前が記録されていますことから奈良にいたことが推 察できます。1189年には連行衆の名簿に記載されず、この年に完成した伊 豆の願成就院に諸像を運び、安置したものと思われます。「文治5年(1189) 6月6日北條殿の御願として、奥州征伐の事を祈らんが為、伊豆の国北條の内 に、伽藍の営作 を企てらる名 は願成就院と号す。本尊は阿弥陀三尊並びに不 動・多聞の形像等なり。これ兼日造立 の尊容と。」と吾妻鏡に記されています。 この像を見た和田義盛は直ちに運慶に造像を依頼したように思われます。横須 賀の浄楽寺 阿弥陀三尊像、 毘沙門天立像、不動明王立像(いずれも重文)の像内には「興福寺勾当運慶が小 仏師10人を率いて和田義盛の依頼により造像」の墨書銘があります。願成就院 像内の巧匠勾当運慶が浄楽寺像内の墨書名では興福寺勾当運慶に変わっていま す。このことは東国において造像したので分り易く、興福寺の仏師であること

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を記入したものであろうと思われます。1190年~93年にかけて永福寺の 仏像や足利氏依頼の大日如来を造り、永福寺の完成した1194年に奈良へ帰 ったものと思われます。吾妻鏡「文治5年(1189)9月17日 一、毛越 寺の事」で「雲慶が平泉の毛越寺金堂の薬師像と十二神将を造像した」と云う 意味の記述があり、雲慶を運慶と、毛越寺金堂を永福寺と替えて書いた結果で はないかと思われます。後白河院の崩御の後、遠慮する人が無くなり大檀越と なった頼朝は1195年大仏殿の供養のため奈良へ来ており、運慶は鎌倉での 造仏を頼朝に認められ、法眼に昇格、1196年から東大寺大仏殿等の仏像を 制作、1203年には東大寺南大門の金剛力士立像(国宝)を完成させ、最高 位の法印を奈良仏師として初めて得、名実ともに最高位の仏師となりました。

5、鎌倉における運慶の伝説

(1)鎌倉光触寺(コウソクジ)の阿弥陀三尊像(重文)は14cに書かれた頬焼 阿弥陀縁起絵巻という絵巻物に仏師運慶は鎌倉に招かれ、48日を限って阿弥 陀様を造るように言いつけられた。苦心の末48日間で立派な阿弥陀様を造っ た。と記されています。実際には慶派仏師の作とされています。 (2)横須賀満願寺の木造菩薩立像(重文)は佐原義連が平家追討のため西国へ 向かうにあたり、運慶に自分の姿を彫らせたといわれています。 (3)円応寺の閻魔大王坐像(重文)は 運慶が死んで地獄に落ちたが閻魔大王 に「生き返らせてやる から自分の像を作れ」といわれ、蘇生しました。生き返った運慶が笑いながら 彫った為 閻魔像も笑っているような表情になっているといわれています。実 際には円応寺の創建は1250年でこの像も同じ頃出来ており、既に運慶は亡 くなっています。 (4)六浦の瀬戸神社に伝わる舞楽面 源実朝愛用の面とされ、運慶の作では ないかといわれています。 杉本寺 仁王像、十一面観音、地蔵菩薩は運慶作と寺の案内に書いてあります。 これは素人目にも作風が違うと思われます。 その他の伝承 (1)寿福寺近くに運慶屋敷跡と云われる地があります。 (2)鎌倉彫博古堂の当主後藤さんは運慶から29代目との伝承があります。 先祖は江戸時代まで仏師、明治になり廃仏毀釈で仏像の需要が無くなり、その 技術を利用して鎌倉彫に転向しました。日向薬師の仁王門(市指定)には阿吽

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の仁王像(市指定)が安置されており、江戸末期に鎌倉の仏師後藤慶明が造っ たそうです。以上みて来た文献、伝説、伝承により運慶は鎌倉に来ていたと推 論いたしました。鎌倉市内には多くの慶派仏師の像が遺されており、運慶とと もに鎌倉に来た10人の小仏師の内幾人かが鎌倉に留まり、造像をしたのだろ うと思います。

6、運慶の主な作品

円成寺の大日如来坐像(国宝) 運慶最初の像で金沢文庫にも出展されました。寄木造、漆箔、像高98.8 cmの智拳印を結んだ金剛界大日如来坐像、1176年運慶25歳頃の最初の 造像、均整のとれた姿で切れ長の眼に玉眼を入れ、若さにあふれた瑞々しい顔 で写実性を高めるため条帛を別材にしています。仏の足裏は偏平足となってい るのが普通でしたがこの像では写実的な姿で土ふまずが刻まれているのが印象 に残ります。11ヶ月かけて制作し、代金として上品8丈の絹43疋を賜った ことがわかります。台座内部に運慶自書と思われる墨書銘があり、仏像を作っ た仏師自らが名を記した最初の例です。 願成就院の阿弥陀如来坐像、毘沙門天立像、不動明王二童子像(いず れも国宝) 北条時政の依頼を受けて文治2年(1186)に造り始めたという銘札が残 されています。阿弥陀如来坐像は珍しい説法印を結んでいます。この形は奈良 時代や平安初期にはよく造られていましたが末法思想の始まりとともに定印や 来迎印の像が多くなります。運慶は定朝様に反し、奈良時代や平安初期の古仏 を参考にして造ったようです。説法印の像は奈良時代のものとしては法隆寺伝 法堂にある乾漆造阿弥陀三尊像(重文)と奈良興福院(コンブイン)の阿弥陀三 尊像(重文)があります。 平安初期のものでは京都広隆寺にある阿弥陀如来坐像(国宝)、鎌倉時代では 愛知県の吉良にある専長寺の阿弥陀如来坐像(重文)等に見られます。専長寺 像は源実朝の夫人本覚尼が実朝の菩提を弔うために京都に建立した編照心院大 通寺の本尊として運慶が刻んだと伝えられています。 運慶は如来、菩薩には 玉眼を入れず、その他には玉眼を入れているのが多く見られます。 この像の眼は彫眼、体躯は肩幅が広く堂々としたもので衣紋は深く刻まれて います。平安初期の一木造りをイメージして造ったものと思われます。毘沙門

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天像は玉眼入、臨戦態勢にある一瞬の姿を写実的にとらえ、不動三尊像も玉眼 入、矜羯羅(コンガラ)、制多迦(セイタカ)の二童子像は静と動をうまく表現し ています。 浄楽寺 阿弥陀三尊像、毘沙門天立像、不動明王立像(いずれも重文) 和田義盛の依頼により1189年に造像、阿弥陀如来坐像は来迎印を示し、 不動明王の目は天地眼となっており、天地眼は平安中期以降天台宗の寺によく 見られるようになった像です。毘沙門天立像は願成就院像より右手を高く上げ ています。願成就院像との違いは勝長寿院の成朝が造った像が模範とされ、こ れを模倣するように頼まれたのではないかと思います。銘札により、運慶作と 確定されるまでは勝長寿院の像を移したものだと云われていました。 真如苑蔵 大日如来坐像(重文) 足利義兼が建久4年(1193)運慶に依頼したものと思われます。数年前 オークションにかけられ、約14億円で落札し、海外流出を免れました。 岡崎滝山寺の聖観音立像、梵天立像、帝釈天立像(いずれも重文) 1201年頼朝のいとこである住職が頼朝の供養のため運慶、湛慶に造らせ ました。頼朝の等身大の聖観音像の胎内には頼朝の鬚と歯が収められています。 称名寺内光明院の大威徳明王坐像(重文) 源実朝の持仏堂の「釈迦如来像」について「建保4年(1216)1月17 日将軍家の御持仏堂の御本尊(釈迦像、雲慶これを造り奉る)京都より渡り奉 らる。御本尊を御持仏堂に安置す。即ち供養の儀有り。導師は荘厳房律師行勇」 と吾妻鏡は記しています。この年6月には大仏を再興した陳和卿が鎌倉に来て 実朝と意気投合し、11月には渡宋の為の造船を依頼しています。最晩年の運 慶の作品である大威徳明王坐像は源実朝の養育係であった大弐局が1216年 に発願し造像されたものです。この時期は東大寺大勧進となった行勇、陳和卿、 運慶と東大寺に絡む人達と実朝が密接に結びついていたようです。 その他の作品 国宝 高野山 八大童子像、 東大寺南大門金剛力士(仁王) 像、 興福寺北円堂の本尊弥勒仏坐像と無著・世親像、俊乗坊重源坐像? 高野山 八大童子像 現存は恵光童子、制多迦童子、矜羯羅童子、恵喜童子、清浄比丘、烏倶婆誐 童子の六体です。いずれも玉眼を入れ、肉付きの良い体で生き生きとした少年 の姿に表され、色彩が良く残っています。これらの像は後白河法皇亡き後、頼 朝が東大寺復興の大スポンサーになっており、頼朝の庶子、貞暁が高野山一心

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院に入ったことにより、運慶に依頼して造らせたものと思われます。 東大寺南大門金剛力士(仁王)像 1203年造立、阿形像は運慶と快慶、吽形像は定覚と湛慶の合作と判明し ました。なお運慶は総帥として吽形像を力強い形に修正させたようです。なお この功により運慶は法印(最高位)、快慶は法橋となりました。通常向かって右 に阿形像、左に吽形像が安置されていますが宋の影響かこの像は逆に配置され ています。南大門の石造獅子1対(重文)は金剛力士像の北側に安置されてい ます。東大寺の再建工事に参加した伊行末に代表される宋人石工が1196年 宋から取り寄せた石により造立しました。 興福寺北円堂の本尊弥勒仏坐像と無著・世親像 運慶60歳頃の造像で棟梁として一門を指揮し、円熟した技が見られます。 弥勒仏は彫眼、無著・世親像は玉眼を入れて違いを明確に表わしています。 東大寺俊乗堂 俊乗坊重源坐像 像は老境の重源が数珠を持ち、やや前かがみになった老体の姿をこまかく写 実的に刻み、くぼんだ眼は彫眼となっています。運慶作と断定できる資料はあ りませんが数珠を持つ手と胸の間の空間は前述の大日如来坐像の智拳印を結ぶ 手と棟の空間が似ており、造形力からみても多くの人が運慶作と想定していま す。同様の像が播磨浄土寺、山口阿弥陀寺、伊賀新大仏寺(いずれも重文) に残 されていますがやや見劣りします。 重源は東大寺の復興に際し、61歳で大勧進となり、源氏の世になると鎌倉 に来て頼朝にスポンサーになってもらうことを頼み、見事に復興事業を進めま した。1206年86歳で没し、大勧進職は二代目に宋で行動を共にした栄西 がなり、三代目は栄西門下の退耕行勇となりました。栄西は東塔(現存せず)の 造営、鐘楼(国宝)を再建しています。行勇は西大門の修復(勅額のみ現存)、 講堂の再建等に尽力しました。[玉葉]は「 1193年4月10日条で東大寺 の大佛上人(春乗房重源、今は南無阿弥陀佛と号すなり)を召し、備前の国を 東大寺に付けらるべきの由これを仰す。」と記しています。宋の文化を通じて釈 迦のインドにおける仏教の基本を重んじ、建築では東大寺南大門や播磨浄土寺 に見られる大仏様(ダイブツヨウ)を採り入れ、仏像では浄土寺の阿弥陀三尊像 に見られる宋風の仏像を快慶に造らせました。東大寺俊乗堂の阿弥陀如来立像 開眼供養は信西の孫である解脱上人貞慶がとり行っています。 重文 興福寺 木造仏頭、栃木光得寺 大日如来坐像、六波羅密寺 地蔵菩薩

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坐像 なおこ六波羅密寺には湛慶が造ったと云われる運慶坐像があります。現存し ていませんが東大寺大仏殿 観音、虚空蔵菩薩及び四天王像は1196年に康 慶、快慶等と造っています。このスポンサーとして吾妻鏡では次の如く記され ています。 「1194年造東大寺の間の事、将軍家助成せしめ給う。二菩薩・四天王像等 は御家人に充て造立を致 すべしと。観音は宇都宮朝綱、虚空蔵は中原親能、増 長は畠山重忠、持国は武田信義、多聞は小笠原長清、広目は梶原景時」

7、快慶について

快慶は康慶一門で運慶の弟弟子にあたります。生年は不詳ですが東大寺古文 書に「丹波講師快慶」と記されており、丹波市氷上町にある達身寺の仏像工房 で腕を磨いていたものと思われます。記録にあらわれるのは1183年運慶願 経においてです。作風は運慶の写実的で力強く動的であるのに対し、金泥(金 粉とニカワを混ぜたもの)を塗ったり、截金(キリガネ)を付けたりして端正で きれいな絵画的な像が多く見られます。東大寺復興大勧進の俊乗坊重源(南無阿 弥陀仏)との関係が深くなり、播磨別所や伊賀別所など重源ゆかりの寺で仏像を 造り、「アン阿弥陀仏」と称しています。運慶が東国武士に好まれたのに対し、 西国の僧侶に好まれ、運慶より多くの仏像が残されています。

8、快慶の生涯

1183年 運慶願経に結縁 1189年 ボストン美術館蔵 弥勒菩薩立像 1192年 醍醐寺 三宝院 弥勒菩薩坐像(重文) 1194年 石山寺 多宝塔 大日如来坐像(重文) 1195年 播磨 浄土寺の巨大な阿弥陀三尊像(国宝) 1196年 東大寺大仏殿 観音、虚空蔵菩薩及び四天王像(現存せず)康慶、 運慶等と造る 1200年 高野山 金剛峯寺 孔雀明王像(重文) 1201年 旧伊豆山常行堂の宝冠阿弥陀如来坐像(重文)(現在は広島・耕三 寺蔵)を造る 東大寺手向山八幡宮 僧形八幡神坐像(国宝)

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1202年 伊賀 新大仏寺 阿弥陀三尊像 (頭部 現存) 1203年 運慶、湛慶等と東大寺南大門の金剛力士立像(国宝)、この功によ り法橋となる 東大寺俊乗堂 阿弥陀如来立像(アン阿弥様、三尺阿弥陀)(重文) 公慶堂 地蔵菩薩立像(重文) 安倍文殊院 文殊五尊像(騎獅像)(国宝) 1206年6月 重源没 1210年 この頃までに法眼となる 1221年 高野山 光台院 阿弥陀三尊像(重文) 1227年 明確な没年はわからないがこの年までに亡くなっている。 快慶の主な作品 ボストン美術館蔵 弥勒菩薩立像 1189年に製作された元興福寺にあった像で現存最古の像でこのサインは 「仏師快慶」となっています。体躯はひきしまり、顔も若々しい像です。 醍醐寺 三宝院 弥勒菩薩坐像(重文) 1192年制作のこの像は快慶の特色である金泥を塗った最初の像で「巧匠 アン阿弥陀仏」と記した初例です。このことにより1189~92の間に重源 と出会い弟子になったものと推察できます。量感があり、面相も優美な中に力 強さを持っています。眼には玉眼を入れ、生き生きとした表情を作り出してい ます。醍醐寺には1203年制作の不動明王坐像もあります。 石山寺 多宝塔(国宝) 大日如来坐像(重文) 1194年に建立された多宝塔は最古のもの、この中に安置された大日如来 坐像は表面に漆を塗って金箔を張り、玉眼入の端正な御顔で写実的、衣のひだ も洗練されています。大仏脇侍の虚空蔵菩薩像の造像に際し、スポンサーとな った鎌倉の御家人中原親能と快慶が親密になり、親能の妻が発願して出来たも のと云われています。 播磨 浄土寺 阿弥陀三尊像(国宝)、阿弥陀如来立像(裸形像、重文) 浄土堂の中にある本尊は5.3mと巨大な像で雲の上に乗る蓮台に立ち、来 迎印を結ぶ手、観音、勢至の脇侍が一般的に見られる像とは左右逆となってい ます。三尊とも爪が長く、縵網相(マンモウソウ)と云われる水掻きもない宋風 の像で、これは重源が持ち帰った宋の絵にもとづき仏像が造られたものです。

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お堂に西日が射しこむ頃は夕日が堂内に反射され、極楽浄土を思わせる姿とな ります。奈良の大仏殿は大仏が出来てから造り始めたのですがこの像は建物と 並行して造られたそうです。浄土堂(国宝)は方三間の宝形造(ホウギョウヅク リ)、大仏様と云われる様式で挿し肘木(ヒジキ)、四隅の扇垂木等が特色です。 この様式の建物では他に東大寺南大門(国宝)があるだけです。1197年に 行われた浄土堂供養の導師は解脱上人貞慶が行っています。 伊賀 新大仏寺 阿弥陀三尊像(現存せず) 造立当初は播磨 浄土寺像と同様の巨大な像でしたが破損して頭部のみとな ってしまい、江戸時代に身体を復元し、現在は盧舎那仏坐像(重文)となって います。 旧伊豆山常行堂の宝冠阿弥陀如来坐像(重文) 現在は広島生口島の耕三寺博物館で見られます。端正な顔立ちで体躯には漆 箔が施されています。 東大寺手向山八幡宮 僧形八幡神坐像(国宝) 長年手向け山八幡宮の御神体として祀られていた為絵画のように色鮮やか で錫杖を持つ姿、肖像かと思われる位写実性があり、眼は彫眼となっています。 背後には日輪が付いています。 東大寺俊乗堂 阿弥陀如来立像(重文)重源が私財を投じて快慶に造らせた 像、玉眼入、金泥塗、裁金(キリカネ)、来迎印を結ぶ端正な姿で後にこの種の 像が多く造られ、「アン阿弥様、三尺阿弥陀」と云われるようになりました。「釘 打ちの弥陀」といわれ、その理由は「親鸞上人がこの像に深く帰依されたため、 この像が親鸞のもとに行きたいと云いだし、それを防ぐために釘を打ちつけた と云う」言い伝えによるものです。 東大寺公慶堂 地蔵菩薩立像(重文) 「巧匠法橋快慶」の墨書名があり、法橋の時代1203~08)で唯一現存 する像で絵画的な美しい像です。 安倍文殊院 文殊五尊像(騎獅像)(国宝) 安倍文殊院は鎌倉時代東大寺と密接な関係があり、熱烈な文殊信仰者であっ た重源の進めにより造られたものと思われます。獅子に載った文殊菩薩像は7 mの大きな像です。文殊菩薩は足を踏み下げ、ウテンオウ、善財童子、仏陀波 利三蔵、維摩居士の4尊を従えています。渡海文殊ともいわれ、善財童子の衣 の翻りはその状況を示しています。堂内で見上げると迫力があります。

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高野山 金剛峯寺 孔雀明王像、四天王像の内広目天像(重文) 尾を光背のように広げた孔雀の背に乗る優美な姿の像で明王の中で唯一慈悲 相をしています。四天王像は東大寺大仏殿四天王像の1/10の大きさで雛型と 云われ、大仏殿の広目天像も金剛峯寺像も快慶が造っています。 高野山 光台院 阿弥陀三尊像(重文) 1221年法眼時代の作で快慶の在銘像の最後のものとなっています。この 坊に泊まり、朝の勤行で間近に拝んだ記憶があります。 滋賀県 新知恩院 木造釈迦涅槃像(未指定) 昨年大津市歴史博物館で見ました像です。12.8cmと小さく最近見つか った像でまだ未指定です。多くの涅槃像は手枕をしていますがこの像は枕の上 に頭がある古い形式です。白檀の一木造り、手先や足先などは別材で肉身部は 金泥、着衣部は素地に截金文様を施しています。檀像のようですが金泥に截金 文様を使っているのは快慶の三尺阿弥陀に見られる特徴です。 東国における快慶風の仏像 日向薬師四天王像(重文) 日向薬師は霊山寺と云われ、源頼朝が政子の安産祈願に訪れ、大仏殿様の四 天王像を造らせたといわれています。 栃木県益子の地像院 観音菩薩、勢至菩薩 前身の尾羽寺が宇都宮朝綱の開基と云われ、大仏脇侍の観音菩薩像のスポン サーと作者との関係で快慶が造ったといわれています。 参考文献「運慶」平凡社「頼朝と重源」奈良国立博物館 「東大寺展」 朝日新聞 社「金沢文庫の仏像」金沢文庫

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参照

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