香 川 大 学 経 済 論 叢 第70巻 第4号 1998年3月 55-82
アリストテレスの感覚理論について
一一パーニエツト説の批判的検討一一
斉 藤 和 也
I アリストテレスの感覚理論の解釈において,論議の焦点となるのは,感覚を 総括的に規定した『デ・アニマ』第2
巻1
2
章の議論である。本論は,この章の 解釈をめぐってソラブジとパーニエツトの間で交わされた論争を検討すること を通じて,アリストテレスの感覚理論を解釈する上での問題点を明らかにしよ (1) うとするものである。1
2
章は感覚に関するつぎのような総括的規定で始まる。 「すべての感覚について一般的に把握しなければならないことは,感覚は質 料を抜きに感覚的形相を受け入れることができるということである。たとえ ば,封蝋は指輪の印形を鉄や金を抜きにして受け入れるが,それは金の印形 や銅の印形を受け取るということであって,それらを指輪が金や銅である限 りにおいて受け取るということではない。これと同様に,それぞれの感覚も, 色や味や音を持つものによって作用を受けるが,しかし,それは,色や味や 音を持つものどものそれぞれが, {それぞれのものの名で}呼ばれる限りにお いてのことではなしそれらがしかじかの性質であると述べられる限りにお いてのことであり,そして,そのことはロゴスにしたがって行われるのであ る。J(DA4
2
4
a1
7
-
2
4
)
この論争では,-質料を抜きに感覚的形相を受け入れる」という句の解釈が焦 ( 1) Sorabji (1974)に対しては多くの論評がなされてきたが, Burnyeat (1992)とSorabji (1992)を掲載した論文集の出版以来,この議論は両陣営の論争という様相を取り始めて いる(cf.Everson 10)。パーニエツトはトマス・アクイナスのessespiritualeにちなんで Spiritualistと呼ばれ,ソラブジは文字通りの解釈者という意味でLiteralistと呼ばれる。 論文集については,沼岡(1994)を参照。 Burnyeat(1996)は続編。点になったが,この問題の追究は知覚の身分をめぐって哲学的にも重要な論点 を提供することになる。感覚を感覚器官の意味にとって,生理学的な解釈を展 開したソラブジ
(
1
9
7
4
)
は,感覚器官における生理的変化と色や匂いの覚知 (awareness)との関係を質料と形相の関係に類比的なものとみなし,視覚器官 における赤い色の形相の受け入れという生理的な過程が,赤い色を見ることを 構成すると主張する。見ることは生理的過程と同一ではないが,それなしには 有り得ないという意味において,生理的過程は見ることを構成する。しかし, 生理的過程そのものは,見ることの必要条件でしかないので,生理的過程と並 んで覚知が存在することになる。ソラブジは,この生理的過程は,原理的には 他人に観察されるものであるが,自の内部にあるゼ、リー状の部分に色の断片が (2) 生ずることであるので,現実的には観察できないとしている。また,硬いもの に触れると,触覚の対象の最終的な感覚器官である心臓に小規模の硬化が起こ るとしている。 ノてーニェットは,ソラブジの生理学的解釈を批判し,心臓の硬さや暖かさを 参照することによって感覚的判断を行うというのは常識的観察をはずれている と述べ,感覚的形相を質料抜きに受け入れることは,生理的過程ではなく,認 (3) 識状態を意味すると解釈するが,それに加えて,感覚という現象には,感覚器 官の生理的な変化は必要ではないとする。感覚器官が感覚的形相を受け入れる とき,いかなる生理的過程を経ることもなく,直ちにそれの覚知が生ずるとい うわけである。古代の注釈家たちも,この箇所に関して,認識的解釈を展開し ているが,彼らは同時に感覚には生理的変化が伴うとしていたことを考える( 2) Sorabji (1974) 72, n. 31 The coloured patches in the eye-jelly have shapes and (small scaled) sizes ( 3) Burnyeat (1992)は,質料を抜きに感覚的形相を受け入れるのは,感覚器官だとしてい るが,感覚器官と感覚能力の役割jの区別はしない。彼は,すこし神秘的だがとしながらも, 感覚器官はすでに意識を抱懐していて赤や暖を覚醒するだけでいいようになっていると いう。425b 23では,質料を抜きに感覚的形相を受け入れるのは感覚器官であるが, 425 b 26-26a 16の議論では,感覚能力が形相の受け取りの主体である。ソラブジのように,424 a 18の「感覚」を感覚器官と理解するのは,適当ではない。両者の意味あいを含むと理解 するべきである。 cfHicks (415)
655 アリストテレスの感覚理論について -57-(4) なら,パーニエツトの生理的変化不要説はいささか挑戦的な試みであるといえ よう。しかし,ソラブジのような生理学的解釈をそのまま維持することも当を 得ていないと思われる。そこで,本論では,まず,パーニエツトの反駁に耐え 得るような仕方で,当該箇所を含む
1
2
章全体をできるだけ文字通りに解釈する ことをめざし,さらに,後半では,パーニエツトの第二の挑戦とも言うべき, 感覚対象が媒体に与える変化は擬似的なものであるというテーぜを検討し,最 後に,パーニェットの提起した問題について認識論的な観点から論じることに する。 II 目が赤くなることを他者が観察できるとするソラブジの主張はたしかに受け 入れにくいものであるが,だからといって,パーニェットの主張する生理的変 化不要説が,ただちに正しいということにはならないであろう。パーニエツト が自説の根拠とする最大の箇所は第2巻5章である。 f{変化することと同じく}作用を受けることも一義的ではなしその一つ は反対のものによるある種の消滅であるが,他の一つは,むしろ,現実的存 在による可能的存在の保存であり,能力がその現実態と{内実において}同 様であるという意味において, {同様のものによる}同様のものの保存である。 というのは,知識を持っているものは,知識活動をすることによって,知識 あるものになるからであり,これは変化することではないか(なぜなら,そ れは自己自身への,すなわち現実態への進展だ、からである),あるいは,別の ( 4) Burnyeat (1992)が認識的解釈の古代の代表者として挙げるPhilopnusは, 424 a 28-32 の注釈において「感覚器官が感覚対象によって動かされることによって感覚対象の感覚 が生じる」と明言している。Themistiusは感覚器官における変化を認めない。Simplicius やSophoniasは,感覚器官における変化が先立つことによってはじめて感覚能力が現実 イじするとする。 Thomasは,DAの注釈では, Burnyeat (1992)の立場と同じであるが, Summa Theologiaeでは,感覚器官における変化を認、めている箇所もあるとNussbaum 53は指摘している。彼らは,総じて質料を抜きに感覚的形相を受け入れるのは,感覚能力 であると述べている。 PhiloponusからZaballelaまでの解釈の概略を知る手引きとして Owens 86-95は有用で句ある。 (5) Ross(OCT)に従い ,xa'i、(b4)の前にコンマを読む。種類の変化だからである。それ故,思考する人が思考しているときに,変化 していると言うのは,建築家が建築している時に,変化していると言うのと 同じく,適当ではない。J
(DA
417 b2・9) 感覚能力は,感覚対象がすでに現実態においである状態に,可能態においで ある条件のもとで感覚対象が感覚能力に対して作用するときに,感覚対 象のようなものになるが,感覚能力の現実活動は,感覚以外の性質変化の場合 のような,作用を受ける者が作用を受ける以前に持っていた性質を失い, 代わりに作用を与えるものの性質を受け取るプロセスではなく, その あり, 自らにおける 正確には,変化でも,作用を受けるこ 可能態から現実態への進展であるから, したがって,感覚において起こっていることは,感覚能力の発現 とでもない。;
l
i
であって,感覚器官における実際の変化ではないとパーニェットは主張する。 このパーニェットの判断はただちに次のような批判を受けるであろ しかし, たしかに, その活動には,明らか この箇所で類比の対象とされている大工の建築能力は, 建築活動をすることによって変化するわけではないが, (7) に,身体的な運動や変化が伴っているとの批判である。 う。即ち, これに対して,大工と の類比はあくまでも能力の発現という局面だけのものであるという反論も可能 すでにナスパウムによってなされた批判によって, 封じられているといってよい。彼女は動物運動論』をはじめ,いくつかのテ キストを挙示し,感覚活動には生理的変化が伴うことを証明したが,パーニエツ トの議論との関連で決定的なのは,次の箇所(第9章)である。 「我々は,感覚能力はそこ[身体の中央部]にあるので,感覚活動によって (運動の)始源の周りの場所が性質変化して転化するとき, そうした反論も であるが, それに続く部分 このことによって必然的に動 も伸びたり縮んだりしてともに転化する結果, 物に運動が生じると主張する。J(MA 702b20-25) ( 6 ) 418a3-4,ソラブジと同様,パーニエツトはここでaia均-nxovを感覚器官と解釈する が,諸訳はむしろ感覚能力(魂の感覚的部分)と読んでいる。ただ,この表現は,感覚器 官を表しうる。 DA422a7, 423b31-424a2, HA 492b27. ( 7 ) Sisko 143,永井 17-18. (8) Nussbaum 35-46, 51-55.657 アリストテレスの感覚理論について -59ー 『動物運動論』では動物における感覚と運動が因果的連鎖によって説明されて いるが,その因果的説明の一環として感覚に伴う性質変化が位置づけられてい る。彼女の挙げる他のテキストは,パーニエツトの議論に対する決定的な反論 ではないが,上述の箇所を補完するものである。 『動物運動論』を引用するまでもなくデ・アニマ』第 1巻 4章 (408b3-18) において,同様の主旨のことが語られている。そこでは,怒りや恐れのような(1曲 情念の他に,感覚や想起も,-運動」であると述べられている。この運動は魂に おける運動ではなく,魂への,あるいは魂からの運動である。 「感覚はこれらのものども〔感覚対象〕から発し{魂へ至るが},想起は魂 から発し感覚器官における運動や静止におわる。J (408b16-18) 感覚は,情念に比べて,身体的関与が少ないとはいえ,感覚器官およびそこ から心臓に至る通路における運動を伴っていることをここから確かめることが できる。ここでは,まだ,魂における活動が,運動ではなく現実活動態(エネ ルゲイア)であることは示唆されているだけであるが,魂の働きとしての感覚 が身体的な運動を伴うことは否定できないと思われる。 これらの箇所をふまえて,第 2巻 5主主の始めの文を読むならば,感覚の二重 の様相が見えてくると思われる。 「感覚は,上述のように,運動と受動において起こってくる。というのは, 感覚はある種の変化と考えられているからである。J (416b33-35) そもそも,感覚器官が特定の組成でなければいけないのは,それが物体的な 作用を受けるべき条件であるからであろう。しかし,目は視覚能力が視覚対象 の作用を受ける通路でしかないとするパーニエツト(1996: 152) は『動物発生 論』第 5巻 1章に言及して,自の組成や構造は視覚活動の静態的条件にすぎず, (9 ) 他のテキストは感覚が身体と魂との共有パトスであることを述べているが,パー ニ ェ ッ ト は デ ・ ア ニ マ 』 第1巻
u
互における共有パトスの説明において,感覚は狭義 の情態に含まれないから,特別で、あるとしている。そして,認識可能であるためには出来 るだけ質料的要素が少ない方がよいからだと推測する。 (10) ここでは思考(ぬ庄内εLaOω408b6) も運動であるとされている。思考に身体的な運動, が伴うというのは,思考には器官が存在しないので,思考が作動するときに表象(として の運動)がそれに伴うことを指していると考えられる。そこには何の性質変化も生じないと述べる。しかし,果たしてそうなのだろう か。アリストテレスは,目が水から成ることが『デ・アニマ』や『感覚につい て』において語られたことを確認した後,自の色の違いが色の識別力の違いを 生むことを自の組成の違いによって説明している。青い目は,水の構成成分で ある「湿」が少ないために,光と色によって動かされやすいが,黒い目は r、湿」 が多いために,動かされにくい。これら極端に対して r湿」を適度に含む目は, 外からの運動を受け入れるのに適した組成になっている。そして,これに加え て,コレーに含まれる「湿」が純粋であるなら,その目は色の差異をもっとも ( 11) よく識別できるのである。 「色の差異を識別することができるという意味での視覚の鋭さの原因は,目 そのもの(の組成)にある。なぜ、なら,汚れのない衣服の上に,小さくても シミを付ければ目立つように,きれいな視覚(器官)においても,小さな運 動でさえ明瞭でトあり,感覚を引き起こすからである。J (GA 780b30-33) 「湿」の多寡は外からの運動の受け入れに関して影響を与えるが r湿」では なくて,透明である限りにおけるコレーの運動が「見ること」であるとされて いる(780a3-4)。上述の引用にある通り,器官の運動は感覚とは異なる概念であ り,器官の運動によって感覚が生じるのである。この運動は,光や色による外 界からの運動によって引き起こされるとともに,一時的な視覚喪失の原因とし て,内にあって外界からの運動を妨げるものとされている(780all-12)。外から の運動は色の運動 (780a24)とも言われているが,それが具体的にどのような ものかは述べられていない。しかし,少なくとも,見ることが,コレーにおけ る運動の結果として生ずることは明らかだと言えよう。 (11) GA 779b20-28, 780b23-31,コレー(xoρ甲)は,通常用法では rひとみ」のことである が,アリストテレスの感覚論では自の皮膜に包まれた自の内部の液のことを指している。 現在の解剖学でいう,水晶体と硝子体を含めた部分の水様液のことである。ソラブジは, eye-jelIyと訳す。魂の感覚的部分は自のいちばん外側にあるのではなく,自の内部にある (Sens.438b-ll)。目が破壊されるとき,流れ出してくるものが水であることが観察され る(Sens438a17-18)。コレーは視覚の質料である。聴覚の質料は空気であり,嘆覚の質 料は,呼吸する動物では空気,水生動物では水である。
659 アリストテレスの感覚理論について 61
I I
I
ノ~-ニェットとソラブジの解釈上の対決点は,他ならぬ第 2 巻 12 章にある。 この章で問題になっていることを分析することによって,ソラブジの弱点を補 い,パーニエツト説を反駁する根拠をさらに広げていきたい。 第2巻 5章で問題になっていたのは,正確には,感覚器官ではなく,感覚能 力である。 12章においてアリストテレスはこれらの関係についてコメントす る。感覚器官は感覚するものとして大きさを持つが,感覚能力はそこに内在す る能力として大きさを持たない。両者は同じものであるが,本質において異な る(DA424a24-28)。視覚能力は目の形相であり,コレーは目の質料であるから (DA 412b19-21, 413a2-3), 12章の議論も両者のこの関係をふまえて理解され なければならない。 アリストテレスは,感覚器官と感覚能力を区別したあと,さらに次のように 続ける。 「以上のことから,何故,感覚対象の過剰が感覚器官を破壊するかも明らか である。というのは,感覚器官の運動がより強烈になれば,感覚器官のロゴ ス(これが感覚であった)が失われるからである。ちょうど,弦があまりに も強く打たれるならば,和音や調子が失われるように。J (DA 424a28-32) この議論は12章冒頭の二つの命題から明らかになる事柄であるとされてい る。したがって,それらとの関連がこの議論の解釈には含まれていなければな らない。感覚器官の運動が激烈になることによって,感覚器官のロゴス,すな わち感覚能力が失われるということは,感覚器官に運動が受け入れられて存在 していることを意味している。つまり,このことは質料抜きの形相の受け入れ が感覚器官における生理的な運動を何らかの仕方で含んでいることを意味して いる。その運動が感覚能力の受容範囲内であれば感覚は生じるが,それを越え ( ! 却 てしまえば感覚能力自体が破壊されると言うわけである。この議論は,第3巻2
章において,感覚対象がなくなったあとでも感覚器官において感覚や表象が 内在していると言われていることと整合的である。そこでは次のように述べられている。 「見るものもある意味において色づいている。なぜなら,感覚器官はそれぞ れ感覚対象を質料を抜きにして受け入れることができるからである。 した がって,感覚対象が立ち去っても,感覚器官に感覚や表象が内在しているの である。J(425b22-25) 感覚しているときに,感覚器官において運動が生じているために,感覚対象 が取り去られ,感覚に対する作用がやんでも,感覚器官の中には感覚や表象と いう運動が残存しているのである。パーニェット (1996: 159): は,感覚器官に おける感覚の保持には,保持された表象にしたがって動物が行動をするという, 動物の生活における視覚の役割を述べる程度の情報しか含まれていないとして 一時的な視覚喪失の説明において,保持された感覚印象が外界 からの色の運動を跳ね返す感覚器官の内部の運動として捉えられていることに しかし, し〉る。 見られるように, アリストテレスがこの概念を物理的事象と生理的事象との相 互作用を説明するために用いていることに注目するべきであろう。 植物が無感覚である理由を述べた箇所は, 12章を解釈する上で要となる部分 であるため,パーニエツトの解釈はソラブジの解釈と鋭く対立する。 「これらのことから,何故,感覚対象の過度が感覚器官を破壊するのかとい うことは明らかである。……また,なぜ,植物が,ある種の魂の部分を持ち, 触覚の対象によってなんらかの作用を受けながら,感覚はしないのかという ことも明らかである(実際に,植物は暖められたり冷やされたりするのであ る)。そのわけは,植物が中聞を持たず,また,感覚されるものの形相を受け 入れる原理をもたないで,質料とともに作用を受けることにある。J (424a28-b3) (12) 同様の議論は,次の箇所においても見られる。 DA
m
2 426a27-7b, III 4.429a29・b5, IIL 13 435b7・19,Somn 2.. 459b20-22 cf. Sisko 144-147パーニエツトはこれらの箇所に はついて論じていなし〉。感覚器官とその能力を区別せず,感覚器宮が感覚的形相を受け入 れるとすることは,感覚器官におげる運動をすべて感覚のエネJレゲイアと読み込むこと を可能にするかもしれない。しかし,感覚器官のおける運動の程度の問題はそのような読 み込みを排除する。 (13) GA 780a8-11, Sens. 459b7-23661 アリストテレスの感覚理論について 63 植物が「質料とともにいε吋 吟ciiλ肘)J作用を受けるとはどのような意味 か。ソラブジは,植物は,感覚的形相だけではなくその質料も受け入れるとし ている。つまり,暖かい空気の暖かさだけを受け入れるのではなく,暖かい空 気全体を取り込むことによって,植物は暖かくなったり冷たくなったりすると ( 14) 解釈する。このように解釈するなら,質料を抜きに感覚的形相を受け入れるこ とが物理・生理的レベルでの出来事であることを証明できるとソラブジは考え る。植物は質料と形相の結合体をそのまま取り込むが,動物は質料を抜きに感 覚的形相だけを受け入れるという対比がここでなされていると考えるわけであ る。パーニェットは,太陽はなんらの質料も送ることなく植物を暖めるとして 観察事実のレベルでソラブジを批判する。たしかに,ソラブジのような解釈は 考えにくいし,アリストテレスがそのようなことを言っているテキストが挙げ られているわけでもない。植物が冷たくなったり暖かくなったりするのは,冷 たい物体や暖かい物体の接触による性質変化と考えるのが自然でトあって,根か ら水を取り入れたり,葉や茎から空気を取り入れたりすることによって,植物 が暖かくな・ったり冷たくなったりするわけではないであろう。もしそのような ことをアリストテレスが考えているとするなら,特別な事態としてその説明を するはずである。寒い朝に植物に触れると冷たかったり,熱い日中にそれに触 U5) れると熱かったりするというような普通の経験からこれは理解可能である。 ノてーニエツトは,火が植物を暖めるとき,植物の質料が作用者たる火の質料 に類同化され,このことによって,植物が火と同じ形相を獲得すると解釈する。 暖かくなるという事態を火の形相の獲得と考えるが,それは火の質料によって 作用を受けることを遇して実現されると理解するわけである。このようにして 植物は形相においても質料においても火と同じようになる。つまり r質料とと (14) この解釈は.Themistius 78. 36-38が行ったものである。 (15) cf.GC 327a4-6.. Everson (88)は,冷たい乾いたものである土は暖かくなると,暖かい 乾いたものになり,土ではなくなるから,土を暖めるには暖かい物体を質料とともに取り 込むしかないという理由で,ソラブジの解釈を支持する。しかし,必ずしもそう考える必 要はない。確かに,土が熱せられると,そこから乾いた蒸発物が生じ上空に上昇するが, それに至るまでは土でありつつ暖かいと考えられる。水は湿った冷たいものであるが,沸 き立つまでは暖かい水である。
もに」 という句を「質料によっても作用を受ける」 という意味で理解するので ある。 これに対して,感覚の場合は,形相においてのみ作用者に類同化し,質 料においては作用者に類同化しないから,感覚は作用者によって実際の変化を 蒙ることはないとする。 しかし, (火の)質料が作用を与えるという説明はアリストテレスの説明方式 ではない。パーニエツトの説明は,作用と受動の関係に関する誤解に基づいて いる。『生成消滅論』第1巻7章によれば,本来の意味での質料である限り, そ れは作用を受けるべき性質のものである(GC324b18)。質料の持つ特性は r作 用を受ける」とか「動かされる」ということであって r動かす」とか「作用す る」 というのは,質料とは違った能力に属している (GC 335b30) のである。 ソラブジもパーニェットもここでは作用者の質料が問題になっていると考え ているカむ むしろ, ここでは「質料とともに」という句は,植物自身の質料を U6) 意味しているという解釈を取るべきであろう。植物が暖められるとき,火の熱 によって植物の質料である土的なものが暖められる。 これは植物の,植物とし ての形相における受動ではなく,質料的なレベルにおける受動である。作用を 与えるものは,火の質料ではなく,形相であり,作用を受けるものは植物にお ける火の形相を受け入れることのできる質料である。火は熱い乾いたものであ るから,火が植物に作用するのは,植物の土的な構成部分に対してである。冷 たい乾いたものである土的な部分が暖められるのである。つまり,植物が火に よって暖められるときは,植物の質料としての土的なものが火によって作用を 受け,暖かくなるのである。 このように,植物がそれ自身の質料とともに作用を受けるということは,植 物は触覚の対象によって作用を受け,暖められたり冷やされたりするが, その 際, それは, それ自身の質料のレベルで作用を受けて, その転化に従うだけで あって,植物自身の形相のレベルでは作用を受けていないということを意味し ている。植物の形相は栄養的霊魂であるが,そのレベルで暖められたり冷やさ (16) これはPhiloponus,Thomas Aquinasの解釈である。Andersen84, Hicks 419, Trico
663 アリストテレスの感覚理論について -65-れたりすることはない。それゆえ,これは,質料のレベノレにおける変化という ことになる。ちょうど,人間の日焼けの変化が人聞の身体的な部分の変化であ るように。また,植物は,色によって作用を受けることもない。色によって作 用を受ける質料を欠いているからである。 「質料とともに」という勾をこのように理解するなら,ソラブジとは異なる仕 方で,質料を抜きにした感覚的形相の受け入れを,物理的生理的レベルの変化 を伴う出来事であると解釈することができる。植物は感覚器官と同様,触覚の 対象によって作用を受ける質料を持っているが,感覚器官には受け取った感覚 的形相を判別できる中間的な状態,すなわち感覚能力が内在しているのに対し て,植物にはそのような能力が内在していないので,質料のレベJレにおいての 。7) み作用を受けるのである。動物の感覚器官はその組成部分である質料のレベル においても作用を受けるが,同時に感覚能力,即ち形相のレベルにおいても作 用を受け,この局面において,感覚対象の形相を認識する。 感覚器官は感覚対象の作用を受け,物体的なレベルにおいて運動・変化する が,この運動変化が感覚することの質料的な面を構成し,感覚器官における運 動・変化の覚知がその形相的な面を構成する。したがって,感覚することにお いては,感覚器官における不完全な現実活動態としての運動・変化と感覚能力 の完全現実態としての覚知が同時並行的に進行しているのである。 この解釈に基づくなら,ロゴスにしたがって(xa''Za吋vλoyov)J (424a24) という句は,次のように解釈できる。このロゴスは,(感覚能力としての)形相」 や,(対象の形相としての)比」を意味するという解釈が行われているが,本論 では感覚器官の能力の意味で使われていると解釈する。「感覚(αrσ向σιc)J (424a18)は感覚能力と感覚器官の両方の意味を含んだものと理解するのが, 適当で、あろう。感覚が感覚的形相を受け取るときには,感覚器官においては物 理的な作用を受け生理的な運動が生じるが,同時にその感覚器官の運動に連動 して,感覚能力が現実態に移行する。植物のような無感覚のものであれば,質 (17) DA 435a20-b3では,植物に感覚が存在しない組成上の欠陥が指摘されている。 (18) ロゴスを比の意味で解釈する見解については,滋岡 (1992) が参考になる。
料的なレベルで無原則的に作用を受けるだけであるが,感覚器官は常に感覚能 力の受容範囲内において作用を受ける。それを越えた作用は,感覚器官として は受け入れることができない。もちろん物質として作用を受け続けることはで きるが,そのときには感覚器官は機能を停止するか破壊されている。太陽を直 視すると視力は一時的に失われるが,物体としての目は光の作用を受け続ける ことができる。つまり rロゴスにしたがって」でなければ,感覚器官としての 感覚器官は形相を受け取ることができないのである。 では,封蝋の比輸はどのように理解するべきなのであろうか。封蝋は青銅の 印形のみを受け入れて青銅は受け入れないとの説明を,パーニエツトは,物理 的に封蝋が印形を受け取ることだとは理解しない。封蝋自身が円形になったわ けではないので,単に円形を登録しただけだとするのである。つまり,目は色 づくことなく色を認識するのである。しかし,第
3
巻1
2
章において論じられて いる同様の類比は,むしろ文字通りの解釈がアリストテレスのイメージに近い ことを示している。 「封蝋の中に何かを浸した場合,それを浸したところまで,封蝋は動かされ る。また,同じ状況で,石は動かされないが,水はかなり遠くまで動かされ る。また,空気は他のものに比べてもっとも大きく動かされるが,それが一 つのものとしてとどまる限り,作用を与えたり作用を受けたりする。したがっ て,反射についても,視線が目から出ていって反射すると言うより,一つで ある限りにおいて空気が感覚されるものの形や色によって作用を受けると言 うほうがよい。滑らかなものの上において,空気は一つである。したがって, つぎは空気が視覚を動かす。ちょうど,封蝋の刻印が,表面と反対側の端まω
で広がり伝わるように。J(
4
3
5
a
2
-
1
0
)
この説明から明らかなように,封蝋への印刻は, (色によって動かされた)空 気が目を動かすことの類比モデルとして使われているが,それは,文字通り, 印刻するものの実際の運動によって,封蝋において実際の形態変化が生じるこ とに着目して語られているのである。たしかに封蝋は円くはならないが,封蝋 (19) 目の表面は滑らかである。空気が一つであると色や形を正しく伝えることができる。665 アリストテレスの感覚理論について -67二一 に印された刻印は円いのである。つまり,目はある意味で色づいているのであ る (DA
4
2
5
b
2
2
-
3
)
。
I
V
以上の解釈に基づくなら,ソラブジがふらふらしていると評し,パーニエツ トが後退に次ぐ後退と評した第2
巻1
2
章の後半部分は,それほど困難なく理解 できるであろう。 「匂いを嘆ぐことのできないものが匂いによって,あるいは色を見ることの できないものが色によって作用を受けるのかどうかを人は問題とするであろ う。 Hい.',.網膜がれるものが匂いであり,それが何かをするとするならば,匂い は匂いを嘆ぐことをつくりだすであろう。したがって,匂いを嘆ぐことので きないものは匂いによって作用を受けることができない。……しかし,触覚 の対象や味は{物体に}作用する。さもなければ,一体,何によって無生物 は作用を受け変化するのであろうか。それでは,かのものどもも{物体に} 作用するというべきであろうか。あるいはむしろこうではないだ、ろうか。す べての物体が匂いや音によって作用を受けることが可能なのではなく,作用 を受けるものは限定されないものであり,かっとどまってはいないものなの ではないか。たとえば,空気はそうである(なぜ、なら,それはちょうど何か 作用を受けるかのように匂いを発するからである)。それでは,-匂いを嘆ぐ こと」とは,-何か作用を受けること」に加えて、それ以上の(παρa
)
何であ るのか。あるいは,それはこうなのではないだ、ろうか。匂いを嘆ぐことは覚 知することであり,空気の方は作用を受けるとすぐに感覚されるものになる のではないだろうか。J (DA4
2
4
b
3
-
8
,1
2
-
1
8
)
この議論はいったい何を問題にしているのか。議論の流れからいえば,これ は,植物が色や音や匂いによって作用を受けることはないことを問題にしてい ると解釈するのが自然であろう。しかし,この議論の後半をみれば,これは無 生物を念頭に置いていることがわかる。 問題は,無生物に関して,なぜ,匂いを嘆ぐことのできないものが匂いによって,あるいは色を見ることのできないものが色によって作用を受けるのかどう かが問題になるのかということである。それは次の様なことだと思われる。色 や音や匂いの感覚には媒介が必要であるにもかかわらず,もし色や音や匂いを 感覚できない媒介物体が,そのことをもって色や音や匂いによって作用を受げ ないとするなら,媒介を必要とするこれらの感覚は成立しないことになるであ ろう。しかし,色や音や匂いは媒体を通じて感覚されている。このようなアポ リア的状況がこの間いには含まれているのである。 色や音や匂いによって作用を受けるのはある限定された仕方における物体だ けであることが,匂いの例によって示唆されることによって,この問題は一応 の結論を得ている。そして最後に「それでは (b16)J以下の文が続く。この文 は,ソラブジが感覚のニ面性を示す証拠のーっとしているものである。彼によ れば,アリストテレスは,ここで,匂いを嘆ぐことは匂いによって嘆覚器官が 作用を受けることに加えてそれ以上の何であるのかと問い,それを覚知(αi
-d8a
νεσ0ω)であると結論しているとされる。パーニエツトは対比されているの は空気と感覚であるから,ここでは,匂いによって空気が作用を受けることと 匂いによって感覚器官が作用を受けることとが区別されていて,この間いでは 作用の仕方の違いが問題になっているとする。匂いは感覚器官に作用するが, 匂いはそこに物体的な効果を残すのではなしそれとは異なる特別の効果をも たらすというのである。このような議論は,パーニエツト説には必要であるが, だからといって,これがソラブジの解釈を否定できるものであるとは思われな い。というのは,問題は,色や音や匂いが物体に作用するのかどうかという議 論を,何故,アリストテレスはしているのかということだからである。空気が 匂いによって作用を受け直ちに感覚されるものとなるなら,次にはこれが嘆覚 器官に作用するであろう。嘆覚器官は生来の気息に満ちた管であり r心臓から 延びて脳髄の周りに分布している小血管に達してJ(GA 744al-5)いるものであ る。この生来の気息は,呼吸とともに入ってくる匂う空気と混じるわけである から,これが何の変化もしないとは考えられないのである。1
2
章のこの最後の議論は,探求的な記述であって,手探りで答えを求めよう667 アリストテレスの感覚理論について -69-ー としているかのようである。色について言及していない点は,アリストテレス の困惑を示しているのかもしれない。ここで達した結論は示唆的なものにとど まっているが感覚について』第
6
章では,この問題が詳しく論じられている。 「人は次のことについて問うであろう。感覚されるものどもが,…。現実に 発現しているとき,たとえば句いや音の場合,明らかにそうであるが,果た して,それらはまず,感覚されるものどもと感覚器官の中間に到達するので あろうか。というのは,近くにいる人がより先に匂いを感覚するのであり, また音は打撃よりも後に到達するからである。では,見えるものと光につい ても,はたしてこのようであるのだろうか。J(Sens 446a20♂6) 音や匂いが感覚器官に達する以前にその中聞に到達するのは,両者が空気や 水のように,連続的であり,それらの運動が部分に分けられるからである。つ まり,匂いや音の伝達には時聞がかかる。また,風が強いときには,遠くで叫 んでいる人の声がかき消されるとしているが,これは音が空気を乗り物として いる証拠である。アリストテレスは,空気が,風によってあらぬ方向に運ばれ るか,音を運ぶ一体性を奪われるとき,音も失われると考えているのである。 このようなことは音や匂いの伝達に時間が掛かるから可能になるのである。し かし,色と光についてはこの説明は,当てはまらない。 「というのは,光は何かが内在することによって存在するものであって,あ る種の運動ではないからである。一般に,性質変化と移動とでは事情は同様 ではない。というのは,移動するものは,まず、目標と出発点との中聞に到達 するのが当然であるが(音はあるものが移動したときの運動であると考えら れている),性質変化するものどもはこれと同様ではないからである。なぜ、な ら,性質変化するものは,半分が先に変化するというのではなく全体が一挙 に変化するということが可能であるからである。J (Sens 446b27-447a2) 水は同時にその全部が氷結することが可能である。しかし,熱くなるものや 氷結するものが大量にある場合は,必ずしも全体が同時に変化するわけではな い。音や匂いの場合は,感覚器官とその対象との間にあるものがすべて同時に 作用を受けるということは,当然ないわけであるが,色の場合はそうではない。色が視覚に作用して見ることがヲ│き起こされるが,色は光がなければ見えない ために,光の伝達が問題になる。光は色と視覚の聞を媒介する透明なものの現 実態であり,太陽などの火が存在するときに,その全体が一挙に透明であるこ とをあらわすとされる。ここでは,音や匂いは空気のある種の移動によって, 色は空気(に含まれる透明体)のある種の変化によって感覚に作用すると考え られている。光における色の作用はいわば一挙に生ずるのである。それゆえ, 我々は目を開くと間髪を入れず,遠くのものも近くのものも同時に見るのであ る。色の作用は音や匂いとはこの点において大きく臭なっている。おおよそ, 以上のようなことを,アリストテレスはこの箇所で説明している。そうだとす れば,以上のことから,感覚対象から感覚器官までの作用連闘が実際に存在し ているとアリストテレスは考えていたということができるであろう。 しかし,この箇所に関して,パーニヱツトは全く異なる解釈を行う。まず, 音について,空気の振動が鼓膜内部の静止した生来の空気に伝わることによっ て音が感覚されることは認めるが,振動はアリストテレスにおける運動の分類 に場所を持たないという理由で,音の伝達は擬似的な運動であるとする。しか し,アリストテレスがこの箇所で,途中で音が風によってかき消されることの 理由を,感覚対象が感覚器官との中聞に音が存在することに求めていることか らみて,アリストテレスがここで実際的な運動を考えていないとすることには 無理がある。アリストテレスは音が空気中を移動するとしているが,これは振 (20) この章でなされている移動と変化の区別において,光は全体が一挙に変化するものと 考えられていると読むことができる理由は,第一に,この主主の結論において r光の場合 を除いて,感覚対象と感覚器官の間にあるものすべてが同時に作用を受けることはない (447a8・10)Jと述べられていることから,光は「同時に作用を受ける」場合であると推 測できる点にある。理由の第二は,媒体を必要とする三つの感覚が媒体を間に挟んだ、作用 連関によって成立していることを論じた tデ・アニマ』第3巻12章の一節 (434b27 -435a10)に お い て , そ れ が 感 覚 論 』 第6章の箇所と同様,運動(移動)と変化の区別 によって説明され,色が後者に合められていることである。トマス・アクイナスも『感覚 論』の注釈においてこの解釈を取っている。Lect.XVI, n.. 252 luminatio fit subito medium immutatur a visibilibus proportionabiliter lumini この箇所の解釈について は,G R T. Ross, pp.212-4が参考になる。Alexander132, 8-16は匂いと音を実際の物 理的作用連関によって成立するものと見るが,色と光については,運動ではないとし,左 右関係に類比的であるとする。
669 アリストテレスの感覚理論につい、て 71ー 動が隣接するものに順次に伝わり,その結果として,音の振動が動いているよ うに見えることによるのであろう。また,匂いは氷結に類比されているが,パー ニエツトが,氷結は動かないとしていることも理解しかねる。ここでも変化は 隣接するものにたいして順次に起こり,結果として,氷結や匂いが動いている ように見えることになるのである。 以上のように,この箇所では,匂いと音が,それぞれの媒体に実際の作用を していることは明らかであるが,色についてはどうか。パーニェツト (1996: 154-155)は,色については,つぎのような理由によって,色がその媒体に実際 の作用をしていないことを証明しようとする。色の媒体は,空気と水と水晶な どに共通する実在的性質としての透明なものである。色は,光が存在する条件 のもとで,現実態における透明なものに変化をもたらすことができるものと定 義されているが (DA418a31-2),透明なものは「端的な意味においてそれ自体 において見えるものではなく,他のものの色によって見えるものである」と定 義されている(DA418b4-6)。ところが,見えるものには色と発光体が含まれる だけである。それゆえ,光が透明体の色のようなもの(DA418bll),付帯的な 意味における色 (Sens439a19-21) であると述べられているのも驚くことでは ない。透明体がそれ自身の中に「見える」ことの原因を持っていないから,そ れは見える物体と同じ仕方で色づいているとは言えないのである。つまり,色 は透明体に変化をもたらすと定義されているが,色は透明体を実際に色づける 仕方でそれに変化をもたらすわけではない。したがって,物体の色が透明体を 通り抜けて感覚に現れる (φaivεσθω Ola')時に,透明体は派生的な意味におい て色づいて見えるとは言えるが,それは実際に色づくことでも見えることでも ない。つまり,色は透明体に対して擬似的な変化しかもたらさないのである。 この疑似変化説は,透明体は,定義によって,それ自身の中に見えることの 原因を持つものではない,つまり実際の物理的変化(色付き)を受け入れるも のではないという主張に最終的な根拠を持つと思われる。以下の議論において, 透明体がそれ自身において色づいている可能性を示すテキストを指摘しよう。 まず,色が空気に作用するだけではなしさらに空気が視覚器官に作用すると
いう因果連鎖が述べられている箇所がいくつもあることを確認しておきた目。 透明体は空気や水に共通に含まれるばかりではなく,程度の差こそあれすべて の物体に含まれる実在であって
(
S
e
n
s
439a21-25),物体の表面にある色は,実 は物体に含まれる透明体の端である。物体に含まれる透明体がその含有の度合 いに応じて物体をして色に与らしめているのである(
S
e
n
s
439b4-12)。透明体 と色との関係がこのようなものだとすれば,色とは第一義的には透明体に属す るものであるといえる。物体の固有の色は,実は物体に含まれる透明体の持つ 属性であるということができる(
c
f
.
S
e
加 わ439b7)。透明体が他のものの色に (田) よって見えるということは,注釈家たちのいうような,-光で照明されることに よって,見えるようになる」という意味ではなく,ノTーニエツトの解釈するよ うに,-他の物体の色が透明体(空気)に作用した結果として,見えるようにな る」という意味である。ノfーニエツトは,透明体がそれ自身において見えるこ との原因を持たないということを主な論拠として,この作用効果が実際の変化 ではないとするが,空気や水という限定されない物体と限定された固体的な物 体に共通に含まれている透明体が色を受け入れるものとして特定されている(
S
e
n
s
439b7)ことを考え合わせるなら,実際の色の作用をそこに認める根拠 はあると言ってよい。アリストテレスが,音や匂いについて実際の作用連関を 指摘する一方,色についてはそうした作用連闘が存在しないにもかかわらず, 感覚の成立に関して,一般的な命題を提出するというようなことは考えられな いことである。したがって,パーニエツトもまた,本論と逆の立場から,音や 匂いについても,光の場合と同じく,実際の作用が存在しないとしたのである。 しかし,上述した様に,音と匂いに関する彼の解釈は感覚論』第6章の論旨 からはずれるものだと言わざるを得ないのである (cfS
e
n
s
.
.
446b13-17)。 (21) DA 419a9・11,13-15, 17・20,434b30-435a10,S
e
n
s
438b3-5, 440a18-19, 440a24-25 (22) cf. Hicks 367671 アリストテレスの感覚理論について -73-V 以上の議論によって,パーニェットの解釈にはかなり無理があることをテキ ストに即して示すことができたと思われる。パーニエツトは,自分の主張する 擬似的な変化がどのようなことか理解させるために,次のような思考実験を記 述しているが,これは認識論的に重要な内容を含むと思われるので,以下,そ れを検討していきたい。 「疑似変化の観念を理解するための助けとして,ささやかな実験を提示す る。透明なコップに水を満たし,テーブルの上におく。赤い物体をコップか ら少し離れたところに置き,水を通してそれを見る。この時,コップの水は ある媒体(コップのまわりの空気)の内部における媒体として働く。あなた は赤い色づきを水の中に見るであろう。しかし,水の中に赤いインクを入れ たときに起こる色づきとは反対に,あの色づきは別の視点からこれを見る他 の観察者には見えないのである。次に,想像によって,コップを一方では自 のところまで,他方では赤い物体のところまで拡大せよ。そうすると,コッ プは唯一の媒体となり,あなたはコップを通して赤い色を直接見ることにな ろう。 ここに,媒体が現実態において透明である時の,媒体に対する色の効果が ある。色はその媒体を通して現れる。色はその媒体を通して見える。それ以 上でも,それ以下でもない。 透明なものを通しての色のこの現れ,ないしこの見えは静態的な条件,事 物の状態であって,出来事や過程ではないことは明らかである。色の付いた 物体から何ものも起こっていないし,何ものも動いていない。実際の変化は 存在さえしないのであって,擬似的な変化だげが存在するのである。それは 色が透明な媒体を通して見えるという事実にある。J(Burnyeat 1996 :: 155-6 ) 色が透明の物体に対して何か物質的な作用を与えていない説明根拠を,パー ニェットは,コップから少し離れたところに置かれた赤い物体がそのコップを
通して
A
には見えるが, Aの位置から少し離れた角度に立つBには, そのコッ プを通しては見えないことに求めている。 コップの中に広がったインクの赤い コップの外にある赤い物体がコップを通して 色はどの角度からでも見えるが, 見える角度は限られている。自の透明体は水の入ったコップと同じように振る 舞うと考えられるので,見ている人の背後から観察するなら, その物体は見て いる人の目の透明体を適して見えるかもしれないが, それ以外の視点からは見 えない。 この議論は, ソラブジの解釈に向けられていると思われる。 ソラブジ は,実際に目が赤くなる事態が観察されないのは,赤くなるのは他者に見える 部分ではなく,視覚が生じる目の内部であるとして, この批判を交わそうとす る。 しカ〉し, 目が赤くなるのは目が透明な水からなっているためであるから, 原理的に言うと,色の作用によって目の内部が赤くなるというなら, その前に 媒体である空気が色によって作用を受け赤くならなければならないのである。 ノfーニエツトが問題にしているのはまさにこのことである。パーニエツトのこ の思考実験をクリアーできないならば,本論がめざす文字通りの解釈も大きな 難点、を抱えることになる。 では,空気が赤い物体の色の作用を受けて実際には色づいているのに,色づ いては見えないということをどのように説明することができるのであろうか。 一つの可能性は,光があらゆる方向に反射しているという状況のもとでは(DA
4
1
9
b
2
9
・3
3
)
,光からみれば暗いものである色の力は消え失せてしまうという解 釈であろう。 しかし, これは成算がありそうもない。 次に考えられるのは, 自に見えない微小構造のレベルにおいて実際の変化が 起こっているが空気の色付きとしては現象しないという解釈である。 しかし, この解釈も,変化は感覚される性質の変化であり,感覚的物体はすべて感覚さ れうるものであって,感覚されない物体から成ることはないというアリストテ (田) レスの理論を考えれば成立しないことがわかる。 では,どのような解釈が考えられるのか。パーニエツトも述べているように, 見ている人の背後から観察するなら見ている人の自の透明体を通して赤い物体 (23) cf Everson 104, Sens..445b3-14, 446a12-14673 アリストテレスの感覚理論について -75-は見える。色は視線の方向において直線的に見えるのである。もし赤い物体が 小さな球であれば,その物体と目とを結ぶ円筒形の空気の領域にしか,その色 の実際の作用は存在していない。色の作用は瞬時的なものであれ色の作用通
ω
路は直線的な円筒形を保つ。もちろん,この赤い球は別の角度からも見えるが, 厳密に言えば,パースペクティブが異なるので,同じものが見えるわけではな い。少なくとも感覚対象と感覚者とを真横から見ても,壁の丸い穴から差し込 む光の帯のようには,空気に色が付いて見えることはない。つまり,色が見え るということは,観察者に色が見えるということである。パーニェットの思考 実験における,コップの中のインクの赤は,どこからでも見えるが,それは, どの角度からの観察者にも見えるような状態にインクの液が置かれているとい うことに基づくものである。しかし,厳密にいえば,どの観察者にも互いに異 なるインクの液の見えが現象しているだけである。A
に赤い球が見えていると きに,それを横から見るBが, Aが見ていると判断する赤い球は, Bに見えて いる赤によって把握された赤い球である。しかし,この円筒形の作用通路は, 見るものが存在するときにだけ,存在するのではない。赤い球は常にあらゆる 角度にわたって触れている空気に対して作用している。しかし,見るものが見 るときには常に特定のパースペクティブからしか見ることが出来ないために, 見えは常に断片的でしかなく,一挙に赤い球のすべての表面が見えることはな しユ。A
の視点から考えても,もし,赤い球の色が空気に作用し,さらにそれが感 覚器官に作用してA
に見えるようになっているとするなら,その作用は直線的 にA
に達して来ているはずだから,見えている赤をいわば踏み越えて,見えて いる向こうの状態を見るわけには行かないのである。たとえ時間的には同時で あるから,それがそこに存在しているとしてもである。それゆえ,見えの向こ うは透明でしかない。透明というのは,横から見て透明であるということでは なく,ノTーニェツトのいうように,そこを通って感覚対象が観察者に現れてく るという意味である。 (24) cfGA 781a8-10横から見て見えない空気の色も, Aに対する赤い球の色の円筒形の作用通路 を鏡で遮断すれば,赤い球がAに見えなくなるとともに,鏡にその色が現れる
ほ
μφαO'Lc)ことで,その実在を証明することができる。もちろん,その実在を 確認するのは,その鏡像が見える角度にいる人ではある泉。 このような解釈によれば,物理的な作用連闘があることと,空気や目が赤く なっている様子が見えないということとが両立する。1
2
章官頭の「感覚的形相 を質料抜きで受け入れる」ことを文字どおりに解釈できないとする主要な理由 は目が色づくことはないという「信念」である。しかし,アリストテレスは, ある意味では感覚器官が色づ、いていることを明言しているし,物理的な作用連 関について何度も触れている。だから iある意味でトは」というのは,見る人が 色づ、いている自分の感覚器官の様子を覚知しているという意味だと考えると整 合的に解釈できるのである。その色付きは,色づいている様子としては見る人 にしか現れないのである。V
I
しかし,この解釈にはつぎのような疑問が出されるかもしれない。アリスト テレスの感覚理論の一つの前提は,感覚能力は,色や音がすでに現実態におい て存在している様態に,可能態においてあり,感覚的形相を質料を抜きに受け 入れることによって,現実態における感覚的対象のようなものになるというこ とであったが,この解釈では,現実態においてすでに存在している特定の色を 同定する方法は存在しないのではないか。現実態において存在する特定の色を 同定できるのは,特定の観察者だけであるとするならば,現実態においてすで に存在している色というようなものは,単なる仮定でしかなくなるのではない だろうか。 (25) 見ている人の背後から観察するなら見ている人の自の透明体を通して赤い物体は見え るというが,見ている人の自はもはや透明ではないのではないかという疑問があるかも しれない。確かに見ている人の自は色づいているが,背後から観察する人にとっては,見 ている人の目の色付きは,対象の色として見えるのである。675 アリストテレスの感覚理論について -77-このような疑問に答える前に,上述の解釈を可能にするテキストを挙げてお く必要がある。それは,感覚対象と感覚能力とが現実態において同ーであると する議論である。 「感覚されるものの現実態と感覚の現実態は,同じーっのものであるが,本 質においては異なる。私の言う意味は,たとえば,現実態における音と現実 態における聴覚とが同じーっのものであるということである。というのは, 聴覚を持つものが聞いていないことがあるし,また音を持つものが常に音を 出しているわけではないからである。しかし,聞く能力のあるものが現実に 活動し,音を出すことのできるものが{現実に}音を出すとき,現実態にお ける聴覚と現実態における音とが同時に生じるのである。J(DA 425b26-29) この議論は,感覚器官が質料を抜きに感覚的形相を受け入れていることに よって,ある意味において色づいているとした上述のテキストの後に展開され ている。したがって,そのつながりを考慮するなら,この議論は,次のように 解釈することができる。感覚器官が作用を受けた結果,そこに実際の運動が生 じ,そのことの形相的な表現として感覚能力と感覚対象との現実態における一 致が現出する。現実態における同ーというこの事態は,感覚するものの中に, その形相レベルにおいて生iじている。これは,運動や制作における作用・被作 用の関係を感覚の場合にも適用した帰結である。たとえば,建築活動において, 制作される家の完成までのプロセスが運動として捉えられるが,それは,一方 において,家の質料が完成態としての家に形作られていくプロセスとして,不 完全なもののある種の現実活動であるが,他方において,建築家の能力の発揮 として,完全なものの現実活動態である。そして,この完全なものの現実活動 態は,不完全なものの現実活動態とともに,生成しつつある家の中に生じてい る。感覚においては,作用を与えるものは感覚対象であり,最終的に作用を受 けるものは感覚能力である。色や音は,感覚された時に現実活動態において感 覚の中に存在している。感覚の場合,感覚能力はその終極に達するには,家の 材料のように作り上げられていく必要はなしただそれが活動するだけでよい。 たとえば,視覚能力が現実活動して r見る」ことが現出するとき,そこには同
時に色の現実活動態が現出する。 まさに「見ている状態」 と「色のありありと 現前している状態」 とが見ているものにおいて一体になっているわけである。 視覚活動が成立しているとき, その一つの出来事において,.見ていること」と 「色がありありと現前していること」 とが出来事としては同じこととして存立 している。 その場合,見ていることそれ自体には色があるわけではないが, そ こに色の現前があるという意味においては,感覚能力は現実態において「ある 意味において」色づいているといえる。そして,感覚器官は実際には色づいて いるが,見ている人にだけ見えるという意味において,感覚器官も「ある意味 において」色づいている。 この事態が感覚(器官ないし能力)が質料を抜きに 感覚的形相を受け入れることとして記述される。 では,現実態における色や音は,感覚されていないときには赤くはないので あろうか, あるいは誰も聞いていないときに, 音というものは響いていないの であろうか。色や音の現実態としての現出の場を,感覚するもののなかに,即 ち感覚主観の中に設定するのは,現象論
(
P
h
e
n
o
m
e
n
a
l
i
s
m
)
ではないのだろう か。色や音の現実態が色や音の存在における最高点であるとすれば,色は客観 (路) 的な存在身分を持たず,心の属性にしかすぎないとの見方も成り立つ。アリス トテレスは,別の箇所では,叩けば音が出るものを可能的に音を持つものとし, これが実際に叩かれると,空気の中に現実態における音が生じるとしている (DA419b6-10)。同様に,色もすでに物体の表面において現実態においである。 では, いったい,色や音の現実態は感覚の内と外とのどちらにあるのだろか。 この不整合は,感覚されるものにこつの意味を区別することによって, さしあ たっては解消されると思われる。つまり, まだ感覚されていない空気の中に生 じている音や花びらの色は,可能的に感覚されるものであれ それが感覚器官 に達したときに, はじめて現実に感覚されるものとなるのである。 アリストテ レスがこの区別を導入していることは,彼が感覚対象の存在に関して,現象論 ではなく,実在論(
R
e
a
l
i
s
m
)
の立場に立っていることを示している。 (26) アリストテレスの感覚的性質に関する実在論と現実態における対象と感覚の一致の テーゼとの関係については, Irwin (311-314)を参照。677 アリストテレスの感覚理論について -79-では,感覚されるものにお切る可能態と現実態の区別は,どのような関係に あるのだろうか。パラの花の赤は,花が聞いたときにその終極に達するとはい えず,現実態において感覚されたときに,その終極に達するという解釈は,ア ω) リストテレスの実在論的な世界理解とは両立しないであろう。自然的世界は感 覚されるものではあるが,感覚とは独立に存在している。つまり,感覚するし ないにかかわらず,自然的存在はその本質を実現しているのである。アリスト テレスは現実態における対象と感覚の一致について述べた後で,感覚がなけれ ば色も存在しないという説を批判し,現実的に感覚されているものという意味 における色は感覚されなければ存在しないが,可能的に感覚されるものという 意味における色は,感覚されなくとも存在していると述べている
(
D
A
426a・20 -26)。さらに,次のテキストはこのことと整合的である。 「一般に,感覚されるものだけが存在するなら,生物が存在しない場合,感 覚が存在しないだろうから,何物も存在しないということになろう。そこで, {このような場合, }感覚されるものも感覚表象も存在しないということはお そらく真であろうが(なぜなら,これらは感覚するものの様態であるからだ), 感覚を引き起こす基体となるものが,存在しないということは,感覚が存在 しないといっても,不可能である。なぜなら,感覚はそれみずからについて の感覚ではなく, {感覚を引き起こす)他の何かが感覚とは別に存在し,これ が感覚よりも先に存在するのが必然であるからだ。というのは,動かすもの は動かされるものよりも自然本来において先であるからだ。たとえ,それら が相互の関係において語られるものであっても,このことに変わりはない。」(
M
e
t
1010b30-1011a2) (27) Learは, the perceptual awareness ought to be the sensible form at the highest level of actuality (103), the highest level of actuality of perceptible form occurs not in the perceptible object, but in the sense faculty of a being who is perceiving that form (106)とするだけではなく,
one0筏ghtto conceive0/ρercettible fo円nsembodied in physical objeasαs forces directed toward the awareness oj form. For it is only in the awareness of a perceiver that perceptible form achieves its hightest level of actuality (109)とまで述べる。 Learは感覚器官における実際の運動・変化は認めている (1l2-3)。
アリストテレスは自然学』のある箇所において,色であることと感覚され るものであることとは異なると述べている。