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四国八十八ヵ所遍路の研究-香川大学学術情報リポジトリ

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四国八十八カ所遍路の研究

問 屋 昭 雄 目 次 1四国八十入力所遍路に関する文献 2.四国遍路の旅の解釈論的研究 3,四国遍路の適時的検討 4おわりに 1 四国八十八カ所遍路に関する文献 四国と言えは,遍路を想起するであろう。四国は島なのである。四国,つまり 死の島といってもいいであろう。四国遍路についての先行研究もそんなに多くな いのが現状である。その原因として現在はともかく,古代,中世,近世と四国遍 路に関する資料が極めて少ないことに起因する。しかし,昭和59年ほ弘法大師御 入定1150年記念の年でもあり,弘法大師や四国遍路に関する文献も出版された。 その中でも,四国遍路について概観し,その発達について論じている近藤喜博 『四国遍路』(桜楓社1971年),宮崎忍勝『四国遍路一歴史とこころ−』(朱鷺書 房1985年),武田明『巡礼と遍路』(三省堂選書1979年)等がある。さらにほ 四囲遍路を通して江戸時代の社会,経済的な様相を詳細に論じた,新城常三『新 稿社寺参詣の社会経済誌的研究』(塙書房1982年),前田卓『巡礼の社会学−・四 囲巡礼・四国遍路』(ミネルヴァ書房1971年)の二著がある。また,四国遍路の 具体的な様子,遍路のあり方について論じた文献として,真野俊和『旅のなかの 宗教』(日本放送協会1980年),西端さかえ『四国八十入札所遍路記』(大法輪閣 1954年),高群逸枝『娘巡礼記』(朝日選書1979年),武田明『巡札の民俗』(岩 崎美術社1959年)等がある。とりわけ,香川県を視野に据え.た著書として市原 照士・山本大『香川県の歴史』県史シリーズ37(山川出版社1982年),香川県 高等学校社会科研究会『香川県の歴史散歩』全国歴史散歩シリーズ37 (山川出

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岡 屋 昭 雄 76 版社1983年),『郷土資料事典香川県 観光と旅』(人文社1985年)等がある。 以上の文献を紹介しておく。 2 匹=司遍路の旅の解釈論的追究 通常,四囲と言えば「四囲遍路」をさすと把握していいのであろう。とりわ け,香川県の善通寺市は,弘法大師の誕生した場所として著名であり,弘法大師 と離れて四国を論ずることほ無理であり,島巡りをすると気づくことであるが, 筆名が小豆島巡りをしていると,墓地を見る機会があり,意外と真言宗が多いと いうことが分かり,島喚部では,弘法信仰が息長く続いていることである。島の 人たちほ,今も素朴で,親切であり,かつ郷土,つまり,土を愛する念が豊かに 存在していることである。海を見つめながら成長すると言うことはとりもなおさ ず,自然との調和を考えなければ生きて行けないことを無意識的に知っているこ とであり,現在の人間が見失っている自然との調和を身につけているのである。 しかし,情報化時代の波をかぶり,マスコミュニケーシ ョンの毒も吸っているこ ともー・方でほあり∴経済的な便利さ,俗悪文化に憧れる気風もあることである。 若いものはホワイトカラ、−の職業に憧れ,本土と言われている丸亀,高松,観音 寺,岡山,さらには遠く大阪まで出かけている状況はある。第一次産業である虚 業,漁業でほ生活できにくい状況があり,便利な生活を求めて,島を離れると言 う。確かに島を訪れると,異世界に釆た思いを抱くことができる。にもかかわら ず,ニリ 三日島にいるだけで息苦しくなってしまう。何故であろうか。俗悪文化 の毒にどっぷりつかってしまってその文化から離れることのできない体質になっ ているのであり,恐ろしいことであることを自覚する。電話のない,テレビのな い,賑やかな商店街がない,多くの人が通らない道路,等々が,我々の心を淋し くさせるのである。騒音のない生活に耐えられなくなってしまっているのである。 濃密な人間関係の存在する島の生活に馴染むことができなくなっているのである。 軽薄な人間関係の方が楽でいいのである。会う人ごとに挨拶をするような生活が 嫌になっているのである。都会に住むことは人間らしさを失うことであろうか, とふと疑問に思うことがある。筆名が小豆島を訪ねて「二十四の瞳」の記念館を 訪ね,島を自分の足で確かめようととぼとぼ歩いていると,何台もの自動車が止

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まって「乗って行きませんか。」と,親切にいってくれる。5台目の自動車では, さすがに断わりきれず,乗せてもらった。現在「島遍路」が年々盛んになってい ると言う小豆島である。自由律俳句の荻原井泉水も二度に亘って小豆島に訪れ, 淵崎村の笹油造醸業を経営しており,後に村長をした井上一二虜,土庄村の西光 寺の住職である杉本玄々子と共に遍路をする。いずれも「層雲」の同人であった が故に,この島を訪ねて釆たのである。一度は夫婦一緒にり もう一度は妻を失っ たことに.より,この菩提を弔うためであった。井泉水は,都会の俗塵を逃れ,聖 なるトポスである島にやってきたのである。もちろん上掲の二人が同行したこと は当然である。そういえば,鈴木三重苦も京都の第三高等学校を卒業し,東京大 学に入学するもノイローゼとなり,その療養のため広島の沖にある能美島の中町 にある下田家に逗留し,そこで小説『千鳥』を書くことになる。漱石がかの有名 な『道草』を執筆した1年後の明治39年のことである。毎日海を眺め,読書三昧 の生活をすることになる。島は,都会の騒音もなく,人間関係の嫌らしさもな く,人間らしさを取り戻すことのできる場所であることは当然であり,何より も,自然の息吹きを感じ,その風京とその底に揺曳する風光によって精神も肉体 も新鮮になるのである。島の持つ情味を身体的に感じ,人間らしさを快復できた のである。 ところで,遍路道を辿りながら八十入力所のお寺を回るお遍路さんの心は多様 である。伴侶を失ってその菩提を弔うために回ることもあろう。自分を救済する ために回ることもあろう。また,人生に絶望して遍路乞食として回りながら,行 き倒れてしまうこともあったであろう。土佐の地は,身投げする場所が多いこと もあり,足摺岬等ほ,眼下に太平洋の海の飛沫が岩に当たって砕ける様を眺めて いれば自然に海に吸い込まれてしまいそうである。海を横に.見つつ,とぼとぼ歩 く遍路の姿を見かけるようになるのも,四国の春の風物詩である。姿が見えない のに鈴の音が聞こえ,やがて麦の穂の先から白無垢のこの世の物とも思われない 清浄な姿をしたお遍路さんがこちらに近づいて来る。眩しい。こちらにいる人間 である自分があまりにも汚れてしまっているが放でもある。暗闇から急に明るい ところに出たあの感じである。いつの間にか自分の心も清浄になっていることも ある。キリスト教徒にとってほ,世界のどの地域に住んでいようと,一生に一度

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問 屋 昭 雄 78 はエルサレムへの巡礼の旅を夢見るという。ひとたびその聖地を訪れることがで きるならば,彼らほ天国行の切符を手に入れることができたと堅く信じることが できるからである。キリスナ教徒やイスラ1−・ム教徒にとっての聖地に当たるとこ ろは,わが国においては,伊勢神宮や善光寺に当たるのである。江戸時代以降, 日本の各地から多くの人々がお伊勢参りを,善光寺詣をするようになる。それも 巡礼の旅である。このような巡礼には,遊行・遍歴という要素と物見遊山の要素 がある。聖地の側に悪所と呼ばれる遊び場所があることでも分かるであろう。修 行した後は,思いきり日常的な生活でほできないことをして帰ることも,また人 間の持つ悲しい性であろうか。例え.ば,伊勢神宮でほ,古市の妓楼での遊びがつ きものであり,聖地巡礼の緊張を解かれ,街道筋の飯盛り女や茶汲み女によって 慰安を求めるのである。つまり,巡礼の往路ほ心身を清浄にし,霊場の中心地に 近づいていく緊張の旅を意味するのであり,禁欲による心身の疲労を積極的に受 け入れる放であったのである。四国の遍路でも,聖なる泉がわき,その水を飲む ことによって身を清めることもできるようになっている。徳島県にある井戸寺で は,弘法大師が杖でもって水の出る場所を示したという。弘法伝説の主要な奇跡 の一つであることは言うまでもないであろう。 わが国の巡礼行動を考える場合,大きく三つ考えられる。第一・はカミの巡礼で ある。第二が聖者の巡礼である。第三が庶民の巡礼である。第二の聖者の巡礼は、 かつて,山の中や辺境の地で厳しい禁欲と修行の生活を送る人がいた。彼らは 山々の峰や渓谷を巡り,滝に打たれ心身を鍛え,その過程で様々な霊異を体験 し,仏や神の出現を目の当たりにした。第三の庶民の巡礼である。四国でほ遍路 と呼び,その他の地域では巡礼と呼ぶのである。単に言葉の違いではなく,その 内容が違うのである。四国の遍路は厳しいのである。遍路に出向く人々は神や仏 に見守られて旅をすることに意味がある。旅のル、−トは決められており,観音や 地蔵や薬師如来によって見守られ,次々に辿って行く。そして最終的に「奥の 院」と呼ばれる高野山に参詣することによって完了する。慈愛と知恵に満たされ た守り本尊が鎮座し,その聖地をへ巡ることによって生きる力を授かり,また極 楽行きの切符を手に入れることができるのである。四国の遍路には,弘法大師の 信仰と深く結びついている。八十八の札所を巡る人々の菅笠にほ経文,「同行二

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人」の字が善かれている。このことは,弘法大師と一儲に同じ道を歩くことを意 味し,そのことの具体的な証が,遍路のもつ杖である。枚は,霊験によって聖水 を打ち出す奇跡の枚であり,弘法大師その人である。遍路を歩く人は,その杖の 導きによって人生の難路と救いへの迷路をくぐり抜けて行くのである。その証拠 にほ遍路宿につくとまず杖を洗ってその後自分の足を洗うのである。「観自在菩 薩。行深般若波羅密多時。照見五蔽皆空。度一切苦厄。舎利子。色不異空・空不 異色。色即是空。空即是空。受想行識。亦復如是。舎利子。是諸法空相。不生不 滅。… ‥ 」と,「摩討般若波羅密多心経」を唱えながら一心に祈るお遍路さ んの姿ほり 気高く美しい。瞑目し,心を空にしつつ,ひたすら仏や神に身を預け て−いるのである。山林の樹木に木霊して返って来る声は自分の声とも思われず, 仏や神の声とも思われて心が澄みゆく心地がする。俗世間を離れ,全ての人間の 悪行を捨て去っているのである。このような聖なる境地に入り込むということ も,また人間にほ必要な所為であろう。ある婦人の方は,「戦争で子どもを失い, それから夫を亡くしてから毎日のように四国遍路を続けているいる。」と言われ る。またある会社を退職された男性は,毎年のように遍路の道を歩くのだと言わ れていた。「自分が犯した罪が少しでも軽減されるならば」ともいわれ,「四国遍 路で行き倒れることがあれほ本望である。」とも言われていた。遍路をする人々 ほ何れにしても,何か背中に背負っているものがあることだけは確かである。そ の荷物を軽くしたり,その重さに耐えかねて歩いていることが分かる。ある人ほ 「重い病気を抱えていたが八十入力所巡りをしているうちに直ってしまったの で,そのお礼に回っているので」すよ,と言っていた。如何に通常の生活が緊張 を強いるものであるかの証明であり,八十八箇所のお寺を回るうちに人間の心も 体も解緊されることも分かるであろう。地理学の論考に,千田稔の『風景の構 図』がある。そこで千田は,「いうまでもなく日本の近代地理学は,ヨーロッパか らもたらされたもである。したがって,近代ヨーロッパの自然と文化との関係に ついての概念も,ほとんど批判されることなく日本に受け入れられて今日にいた る。そして,多くの日本の地理学着たちは,近代以前の日本の伝統的な自然観や 風景(景観)の思想や,それに影響を与えてきた宇宙観について特別に考慮する

ことなく,輸入されてきた近代地理学の方法をそのまま踏襲しつづけてきた。」1)

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問 屋 昭 雄 80 と,近代以前の日本の伝統的な自然観や風景(景観)の思想や,それに影響を与 えてきた宇宙観について考慮することの必要性を述べる。中沢新一・も『森のバ ロック』で,南方熊楠の思想を検討しつつ,「つまり仁景観もまた客観的な空間の 現像ではなく,その中に生きる人々がオ−トポイェ1−シス的につくりだす,ひと つの生命体の現像なのだ。だから,景観が破壊されていくとき,その中に生きる

生命たる村人の心も,手ひどいダメージを受けることになるのである。」(2)と,景

観もその中に生きる人々がオー・トポイェ・−シス的につくりだす,ひとつの生命体 の現象である,といい切るのであり,したがって,景観が破壊されるとき,その 中に生きる村人の心も,手ひどいダメ1一ジを受けるというのである。以上のよう に見て来ると四国八十入力所もまた,神秘的な景観を抱持していることが分かる。 長い遍路の道は,阿波の国は「発心道場」,土佐の国は「修行道場」,伊予の国は 「菩提道場」,讃岐の国は「浬輿道場」というのであり,その雰囲気を各札所ほ もっているのであり,土佐の国では修行にあたいする厳しい風景があり,遍路を する人々の心も風景に感応されるのである。遍路を通して体も精神も,自然に感 化されつつ,その彼方に仏の加護を実感できるのである。中沢ほさらに次のよう に述べる。「そればかりではない。景観の美的秩序は,生物界のエコロジカルな相 互関係によって,ささえられている。そこが美しくいられるのは,そこでおこな われている生命同士の関係が上手に調整されているからだ。そうでないと,自然 の景観全体の美ほ,維持されるほずがない。この生態学的秩序の維持に神社の森

は,きわめて重要な働きをした。_l(3)と,景観の美的秩序は,生物界のエコロジカ

ルな相互関係によって,ささえられている,と強調する。したがって,人工的な 実はいくら美しくとも,生命ほないといえるであろう。四国八十入力所が自然の 巌観にささえられており,かつ海・山の霊気を持っている限り,その意味,価値 は見失われることはない。枚を頻りに歩き続け,一腰の道を登っていく。そこに 目指す札所がある。そこでは,」 ̄遍照金剛_lと唱えながら祈りの極みを尽くしつ つ,心を空にすることである。雑念を一切振り払うことである。ことばほ沈黙か ら来る。沈黙から釆て沈黙に帰る。ことばは空から来る。空から来て空に帰る。 西行とは,西に行く,つまり極楽浄土への祈願が込められている。西行ほ出家の とき次のような歌を読む。

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(世せのがれけるをりゆかりなりける人の許へ云ひおくりける) 世の中を反き果てぬといひおかん思ひしるべき人はなくても 西行ほ決して世俗的生活がいやになって出家したのでほない。西行に語りかけ て来る何物かに.的確に応え,それを表現するものを求めたのである。『欺異抄』の 第四節に,親鸞の次のようなことばが胸を打つのである。「慈悲に聖道・浄土の ほかりめあり。聖道の慈悲といふは,ものをあはれみ,かなしみ,はぐくむなり。 しかれども,おもふがごとくたすけとぐること,きはめてありがたし。また,浄 土の慈悲といふは,念仏して,いそぎ仏になりて,大慈大悲心をもて,おもふが ごとく衆生を利益す芦をいふべきなり。」ここの親鸞のことばは,つまり,命ある ものをどのようにあわれみ,可愛いと思い,育てていっても思いきり助け遂げる ことはできないと言うのである。親鸞ほ,人間をつき動かしている恐ろしい力, 無明というものと対決しようとした。無明と仏性との関係を明らかにしようとす る。慈悲が無明の底まで到り得ぬならば其の力となり得ぬ。西行は,自分をつき 動かしている得体の知れぬものの声を伝えることに生涯をかける。親鸞ほ念仏に 専念することであるというのである。西行は武士を捨てると同時に妻子も捨でた。 捨て果てて,漂泊放浪の生活に入るのである。四国八十入力所の遍路の道は,罪 障消滅を願う場所(トポス)である。八十人の煩悩の数にちなんで設けられた八 十入力所であるが故に,暗い情念もまたまとわりついている。郷運を追われ,重 い病気に苦しみながらひたすら歩くのである。四国の遍路は,本土に対する 「島」という地理的環境であり,一つの隔絶した世界に於ける終わりのない放で もあったのである。周囲を海によって閉ざされた世界であり,中央の政治や経済 から取り残され,孤立無援のイメ・−・ジに彩られた島の旅である。したがって,四 国の遍路は特色を持つのである。四国遍路を特徴づけるものに三つある。一つ目 は,遍路の行き倒れを前提とする「捨往来手形」であり,ニつ目は,各札所の霊 場説話に見る残酪なイメ・−ジである。遍路の始祖とされる衛門三郎の転生雷があ る。二つ目に,善根循のことである。善根宿というのは,遍路道の近くに住む農 家の人々が遍路を泊めて接待する宿のことである。宿の人は遍路に「善根」を施 すことによって自分の罪障の消滅を願う。しかし,そこにも差別ほあった。五体 満足の遍路にほ座敷に通ることは許されたが,重い病気を持つ遍路ほしばしば

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82 岡 屋 昭 雄 「納屋」に入れられた。ここにも,接待老のエ・ゴイズムがあった。遍路ほ札所に 通夜堂があればそこに泊まり,村の境に遍路小屋があればそこに泊まる。それら がなければ野宿する以外ほなかった。行き倒れれば,死体は無縁仏として縁もゆ かりもない異郷の村人が葬ったのである。このように遍路の歴史は,ある意味で 庶民の悲しいまでの人間の業に彩られた裏の文化史でもあったのである。ここで 衛門三郎の霊場説話を取り上げる。 昔,伊予の国荏原の村里に,衛門三郎という−・人の長老が住んでいた。たい そうな欲の深い男で,神仏を信じないで無慈悲な男であった。 ある時弘法大師がこの里にやってきて,衛門三郎の家の前に立った。お経を 上げ鉄鉢をさし出して報謝を受けようとすると,三郎が中から出てきて,この 乞食坊主めとののしった。 大師ほ翌日も出かけたが,三郎に追いほらわれてしまう。しかしその次の日 も,また次の日も,やってきた。そして七日目に行くと,衛門三郎はいきなり 大師の持っていた鉄鉢を竹串でほたき落とそうとした。ところが鉄鉢は空高く 舞い上がり八つに割れて,かなたの山に飛び取ってしまった。その日以来,三 郎の八人の子がつぎからつぎへと死んでいってしまった。三郎はこれはどうし たことかと喚き悲しんだが,ひよっとすると,あの乞食坊主と思っていたのは 弘法大師ではないかと気がついた。めぐり会ってお詫びを申し上げねばならぬ と,家を出て四国を廻ろうとした。しかし,大師に会うことはなかなかできな い。二一・廻日の廻国の時には,三郎はもうひどく衰弱して,阿波の国の焼山寺 の麓に釆た時には息もたえだえの姿であった。そして老い衰えて倒れてしまっ た。そこへ不意に大師が姿を現わして,お前の今までの罪は消えてしまった。 何でも望みどおりのことをしてやろうと言った。すると三郎は,自分は伊予の 河野家の−・族の者だが,来世は河野家の若者として生まれたいと言った。 そこで大師は傍にある小石を拾い,衛門三郎再来と書いて三郎の左手に握ら せた。やがて三郎は落命したので,大師ほ三郎を葬り,三郎がいままでついて いた杉の木の杖をその場の上にさした。その杉の大の杖は成長して大木となっ た。その杉の木があるところが焼山寺の麓にある杖杉庵であるという。 三郎が亡くなってから何年かたって河野家に若者が生まれた。生まれながら

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にして左手をあけようとしない。祈商をしても,一−・向にあけないので菩提寺で ある安養寺の僧をよんで拝んでもらうと,手をあけたが,中に小石を握ってい た。そしてその小石にほ衛門三郎再来と書いてこあった。さてほ.衛門三郎の生ま れかわりかということになったそうである。 安養寺ほ,この時以来寺の名を右手寺と改めたということである。 (武田明『巡礼と遍路』三省堂選書) 以上が,四国八十入力所霊場説話の代表的なものである。ここにあるのは,常 民であるである人々が,弘法大師の偉大さを讃えるものであり,人間が本来持っ ている罪悪観とその対極にある救いの世界があったことの証明であろう。した がって,常民の意識にほ,善悪の判断でもってこの世せ生きていかなければなら ないということ,他者に対する親切な心をもたなければならないことの両面が あったことほ確かである。つまり,土俗的な道徳律でありながら,宗教的な信仰 と深く結びついているのである。弘法大師に対する信仰があることはもとより, 日常の生活を差配する心のあり方が鮮やかに見えることである。 筆者がこの弘法伝説に興味を持つのは,衛門三郎が再生しているところである。 過ちを悔い改めたために再びこの世に生まれ変わることができたことの意味は大 きいであろう。つまり,信仰によって,ここでは弘法大師の不思議な力,通常の 人間が持ら得ない偉大な宗教の力によって生まれ変わったという事実がある。霊 場説話としての典型となり得ているのは,以上の背景があるからである。当時の 人々が,人間としてのあり方を示していると同時に,宗教的救済の世界・トポス として四国八十人カ所があったことである。島であること,つまり,本土に対す る「島」という地理的環境,風景,風光が,周囲をとりまく海によって閉ざされ ているというイメージから成立していることの意味は大きいであろう。本土から みれば,四国の地はまさに彼岸であり,異世界なのである。したがって,この四 国八十入力所の遍路によって再生,つまり新鮮に生まれ変わることを可能とし, あるいは,今まで犯した罪をすっきり払い落として再び,日常の生活に帰ること ができるのである。また死後の世界に入る為の一・つのイニシエーションとしての 意味があることもまた当然であろう。 いずれにしても,人間が日常の生活に疲れ,苦しむことからの解放の地とし

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84 岡 庭 昭 雄 て,四国八十入力所が機能するのであれば高く評価すべきであろう。筆者ほ,今 年,四国八十入力所の全部を回ることにしている。日常の生活の垢を落としたい が放であり,また,精神的にも,肉体的にも再生したいが故に他ならない。 さらに,四国遍路がどうして八十入力所であったかについて次に述べる。 (ア)「屈惑八十八便」によるというもの 『倶舎論』に説く三界四諦の理に迷うて起こす邪見の八十八使の煩悩を, 八十入力所の霊場を−・カ所一・カ所と打って廻ることによって転迷開悟,即身 成仏するのだという。 叶)八塔の倍数に.基づくというもの 弘法大師が釈尊一代の霊跡入力所に建てられた八大霊塔の数を十倍し,そ れに奇数の八を加算した八十入力所の霊場を大師の生まれた故郷であり,青 年時代に私度僧として久修練行された四国の地にお開きになったものである。 (ウ)米の字の分解による八十八からくるというもの 五穀豊穣を祈る数である。 (ェ)男の厄年四十二と女の厄年三十三,子供の厄に当たる十三を合して八十八 の数を得たとするもの 桝 三十五イムと五十三仏とを合した数によるとするもの (カ)紀州熊野適地とのかかわりの中に,八十入力所の数を得たとするもの 熊野適地の九十九王子に次ぐ限定数として,八十八を求めて霊場札所の数 とし,適地の上に布置してバランスを採って遍路の整備を図った。(近藤善 博説) ㈹ 八十の嘉数にもう一つ聖教八をつけたもので,日本民俗古代の聖数もしく は呪数をあでたもの(宮崎忍勝説) 以上の四国八十入力所の由来については近藤喜博『四国遍路』(桜楓社),宮崎 忍勝『四国遍路』(朱鷺書房)から引用したものである。以上の解説からも分かる ように,人間として生きていくことほ色々な罪悪を重ねることになるのであると いう深層意識は誰しも抱持していることである。だからこそ,宗教的な力によっ て救済されたい,もっと根底にあるのほ,人間として幸福でありたいという願望 が存在していることである。人間を越えた力を持っている神や仏の力にすがりた

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い。このことは,人間だけが,という考えの対極に確かに存在するものである。 やはり,奇跡を欲しているのである。人間を超越する者への畏敬の念と置き換え てもいいであろう。日に見えないもの,耳に聞こえないものを見,聞こうとする 意志の姿勢こそが求められている世界でもある。したがって,理屈を越えた世界 でもあり,自分の生き方をあらわにしつつ,省察を加えながら,人間らしく生き ′ ることの意味を問い続けることにもなるであろう。四国八十入力所を遍路したか らといって人間が変わると考えるのもおかしい。にもかかわらず,四国八十入力 所の風扁・風光を全身に浴びつつ,自分に出会うことができたならば,大きな意 味・価値を獲得したことになるであろう。人間に死がつきまとう限りにおいて, 人間にはかなさ′寂しさが感得できるならば,八十入力所の遍路というイニシ エーションを通して人間が変革することは可能であろう。 ここで,再び霊場説話つまり,弘法大師伝説の幾つかを紹介する。 〈弘法清水の伝説〉 おもかげの井戸・・・第十七番 井戸寺 井戸寺の詠歌は おもかげをうつしてみれば井戸の水 むすべは胸のあかや落ちなん となっているが,井戸寺には次のような縁起がある。 昔,弘法大師がこのあたりを通りかかった。 長い旅の疲れでのどが乾いていた大師が,付近に.いた老婆に水を恵んでくださ れというと,老婆は,このあたりは水の不自由なところですがといいながらも, 取っておきの清水を椀に入れて大師にすすめた。大師は喜んでそれを受けてから 錫杖で地面をこつこつとたたいた。すると不思議なことにそこから清らかな水が 湧き出した。それからはその付近の人が住みついて村ができた。村の名を井戸村 というのほ,それからであるという。 〈杖たての木〉 三重県の飯南郡の西蓮寺の境内には弘法柿という−・本の柿の木がある。これは 昔,弘法大師が柿の木の杖をついてこの寺まで釆た。そして柿の杖をさかさまに してここを去っていったが,その杖は成長して大きい柿の木となった。今も甘い

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岡 屋 昭 雄 86 実がなるが,さかさまにさしたせいか柿の実がさかさまに下を向いてなるという。 香川県三豊郡財田町の戸川という土地には,世の中桜という桜の老木がある。 これは昔,弘法大師が阿波の国から峠を越えて讃岐の国へ釆た時に戸川の村にき て休んだ。その折りにたずさえていた桜の木の杖をさしたのが板づいて桜の大木 になったのだという。なぜ世の中桜というのかといえ.ば,東の枝に花が多く咲く と東の村が豊年/で,西の枝に花が多くつくと西の村が豊年であるというふうに, 豊凶をうらなう木となっているからであるといっている。 〈食わずの梨〉 四国第八十五番屋島寺の旧登山道に食わずの梨という−・本の梨の木がある。 昔,大師がこの山道を登って屋島寺へ行こうとしたが,のどがかわいてきて仕方 がない。見るとそこに山本の梨の木があったので,傍にいた−・人の老婆に所望す ると,老婆ほみすぼらしい僧の姿を見て,この梨は食べられぬから差し上げるわ けにはいかぬという。するとそれ以来その梨ほ石のように固くなって,食べるこ とができなくなったという。 群馬県山田郡の話では,昔,弘法大師がこの村を通りかかった。空腹でたまら ないので,川べりで芋を洗っている老婆にその芋を一つ下されというと,老婆は この芋は食えぬと言う。しばらくして老婆がその芋を自分の所に持って帰って食 べようとすると,その芋はほんとうに食えない芋に.なっていたという話である。 〈おいしい果実〉 四国八十入力所の岩本寺の話では,大師がこの寺の近くに来ると,子供が栗の 木に上って実を取っているので,大師ほ一つほしいと所望した。すると子供は喜 んで実を差し出したので,何か望み咋ないかと,大師が聞いた。すると子供は, 一年に三度も実がなればいいのにと言う。 そこで大師は, うない子のとる乗三度実れかし 木をも小さくいがもささずに という歌を詠んだ。それからというもの,実は一年に三度もなり,木の丈は低く て子供も楽に上ることができ,いがもやわらかく,甘い粟がなるようになったと

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いう。 く−夜建立の伝説〉大師−・夜建立の本堂‥・第七十番本山寺 弘法大師ほこの寺の本堂を建立するために,讃岐の山々に用材を求めたが得る ことができなかった。そこで阿波の井内谷の山にまで出かけ,用材を伐り倒した。 今も井内谷には多比(タビ)大師というのがあるが,それほその折りに大師が滞 在した跡であるという。 それから阿波と讃岐との峠を越えて讃岐の国へ下りて釆て本山の近くまで来た 時に一本の柱を落とした。それに大師が地蔵菩薩を彫りつけたのが,今に残る枯 木の地蔵であるという。 大師は用材がととのうと,この本堂を一夜で建立したが,この建物は今では重 安文化財となっている。 (武田明『巡礼と遍路』三省堂選書) 以上のことからも分明のように,偉大な弘法大師に対する畏敬の念がありつ つ,その深層には,常民としての願い・思いの丈が覗いていることである。つま り,四国八十入力所の各札所の縁起の意味が年月を経る毎に荘重になっているこ ともあり,また,弘法大師の偉大さと結びついていることであろう。必ずしも, 四国八十入力所ほ弘法大師が定めたのではなく,色々な力が働いて,また時代の 流れとともに今日のようなものになったのであろう。にもかかわらず,常民の寄 進によって各札所が続いてきたことも事実であり,信仰の持つ奥深さと,その広 がりの大きさに敬服されられるとともに,罪障の消滅を願い人々の暗い情念がま とわりついていることも分かるであろう。罪障消滅を願い,現世利益を求めると いうこともあったであろう。四国遍路にほ,しばしば指摘されるように郷里を追 われ,重い病気に苦しみながらの旅であったことである。土佐に点綴する札所 は,急峻であり,かつ崖下に海が臨めるのである。したがって,吸い込まれるよ うに海に飛び込むこともできる。人間は水から生まれて水に帰るともいわれてい ることを思えば,海ほまさに母胎回帰の場所といってもいいのであろう。閉ざさ れた場所としての四国であることを思えば,人間の帰る場所としての四国遍路は 考えられないことではないであろう。1▼遍路乞食_】ということばでも分かるよう に,四国に住む人々にとっては,遍路の人々に対しては極めて親切なのである。

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問 屋 昭 雄 88 秋にもなると,縁側にお茶と芋の蒸したものを,あるいは柿,密柑,時とておむ すび,お餅等々を筑に入れて用意していた家も多かったといわれている。遍路を もてなすことが,善根を施すことになり,それによって罪障の消滅を願うことに なるのであるから。山頭火の四国の日記類を見れば分かるように,遍路宿にも 色々な職業の人々がいたことが分かる。餞売り,薬売り,あやしい職業の者も居 たし,女性もいたのである。色々な過去を背負っている人間が多かったことも分 かる。 以上のように見て来ると,四国八十入力所の遍路ほ,暗い情念を背負っ’て歩く 人々が多かったことほ.確かである。したがって,「南無遍照金剛」と唱えながら, 杖を頻りに歩く姿は清浄であるとともに,何か死者の姿を感じるのは思い過ごし であろうか。白無垢の装束ほ,不気味さをも隠喩的に表現しているのである。そ のような人々に救済の手をさしのべるお方は弘法大師でなければならないのであ る。 3 四国遍路の通時的検討 既に述べたように四国八十人カ所は徳島県の第一・番札所霊山寺から香川県の第 八十八番札所大窪寺まで,徳島県二十三ケ寺,高知県十六ケ寺,愛媛県二十六ケ 寺,香川県二十三ケ寺の合計,八十八ケ寺で成り立っている。そしてその札所は 四国四県を一周めく、’るように配置されている。その札所を−・番から八十八番まで 順に回ることを「順打ち」といい,八十八番から一・番まで逆に回ることを「逆打 ち_lと呼んでいる。なお,霊場にお参りすることを「打つ」というのは,昔は板 に書いた納め札を霊場の板に打ちつけていたところから出ていることばである。

近藤は「遍路は追地,過土から続いていると考えるのが妥当性がある」と(4)と示

唆的なことを述べる。つまり適地・追士から続いているのであるから閉ざされた 世界・トポスであり,此岸から彼岸に続いている道とも把握できるのである。し たがって,海を渡る為に舟に乗って四国にやって来ることそれ自体が彼岸に行く というイメージとなるのである。現在のように瀬戸大橋が本州と四国を架橋して いなかった時代であるが故に,小舟で瀬戸内海を渡るときの風景,つまり潮の香 を喚ぎ,島々を見つつをもの思えば,四国遍路のイメ、−ジは分かるというもので

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ある。そそり立つような峰にある霊場,杉木立の間を縫うような小道を上って行 くと太陽に光り輝く霊場が鎮座していれは自然と精神ほ高揚し,神や備にすがり たい雰囲気となるであろう。また澄み切った空気,物音一つしない境内で,高ら かに唱える「観自在菩薩・・・」の声があたりの空気を震わせつつ,杉木立に当 たって木霊となって返ってくるのを自分の声でなく,神や俳の声と感じていた昔 の人々の思いほ痛いほど分かる。霊気を感じ,神や備に出会ったという思いを抱 くのも首肯できる。お遍路さんといえば,白装束に菅笠をかぶり,金剛枚をつい て鈴をならしながら歩くのである。お遍路さんがかぶる菅笠には,「迷故三界城 悟故十方空 本来無東西何処有南北」(迷うが故に三界は城なり,悟がゆえ に十方は空なり,本来東西無く,いずくんぞ南北あらん)と,笠の上に修業者の 心構えが記されている。そして「同行二人」の文字が墨黒々と書かれている。い つも弘法大師と一緒であるというのである。このことばは,長尿をするものの心 を支えるものであり,弘法大師信仰が深■まっていく契機を与えることとなる。白 装束の一・番外側に笈摺を羽織っている。昔の遍路ほ背中に笈やつづらを背負って 歩いたため,背中を痛めたり白衣を擦り切らせたりすることを避けるために袖な しの羽織の白衣を重ねて着たものである。現在でも遍路の必需品とされている。 遍路の経験者が臨終を迎えた時には経峰子(キョウカタビプ)として着せ,死出 の旅の平穏を祈る習わしもある。これらの他に,遍路の正装として手甲,脚粋, 納札はさみ,輪袈裟,念珠,金剛鈴,地下足袋等がある。 ところで,四国八十入力所遍路ほいつ頃から始まったのであろうか,という問 題が出て来るであろう。このことについては詳細に論究した著書もないことも あって正確を期すことができないのが現状である。にもかかわらず,弘法大師信 仰と関連して発達したことは確かであろうっ 当初から弘法大師に−・尊化されてい たのでは決してない。 弘法大師・空海ほ,宝亀五年(774)に,讃岐の国多度郡弘田郷屏風滞(現在の 善通寺)の郡司佐伯家に生まれた。空海ほ退唐便にも選ばれ,唐で密教を学び, 日本に帰ってから高野山に真言宗を開基する。満濃池の修築工事にも参画する。 四国遍路は空海によって始められたと信じられているが,確かな事実はない。宮 崎ほ,「弘法大師空海が,誕生の聖地と伝える讃岐の善通寺からはじめて久修連

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90 岡 庭 昭 雄 行の霊場である阿波の太龍寺,土佐の最御崎寺,伊予の石槌山をむすぶ四国をめ

ぐる環状線が四国八十入力所の基本線」(5)と述べ,近藤は,「少なくとも平安時代

末期には,四国適地としてミチが細々と通じており,そこを踏み歩く行乞がい た。」と述べていることから考察しても,中央の文化圏から離れて僻遠の地であ る四国が修業の地として求められ,空海の修業の地とも重なってこ現在のような形 になったのであろう。 以上のような古代の道としての適地・過士を多くの聖や僧が歩いていた。鎮西 からやって来た諸国修業者である善範なる沙門や,比叡山の長僧法師等の聖や僧 が四国霊地を経由して修業していたという。雲石堂寂本の『四国霊場偏札功徳 記』によれは,平安時代に,大師の十大弟子の一人である真済僧正が,大師御入 定の後,大師を慕い遺跡を偏札したのが,四国遍路の始まりともいう。また高岳 親王真如の四国霊場開設というものもある。何れにしても,当時,僧や聖が聖地 巡礼をしていたことはあり得るであろう。西行,重源,高野空である心戎上人, また一・遍上人や一個上人も修業の地として四国の道を歩かれたのである。 平安時代末期の今様歌『梁塵秘抄』にほ次のような四国遍路の様子を書きつけ ている。 我等が修業せしやうは 忍辱袈裟をば肩に掛け 又笈を負ひ 衣はいつとなくしほたれて 四国の辺路をぞ常に踏む また,『今昔物語』巻第31巻の第14に次のようなことが書かれている。 今は昔,仏の道を行ける僧三人伴ひて,四国の適地とは云ほ伊予讃岐阿波土 佐の海過の廻也。(以下略) 以上のことほ,四国の海辺を廻って行道する修業形態が平安時代末期にあった ことを示すものである。そして室町時代ともなると四国遍路もさかんになってく る。高野山学匠宥快上人のア大日経疏伝授妙∠Fの中に,「四国巡礼の次(ツイ)で

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あらば・‥」とある。また,第八十番札所国分寺の本尊千手観音の左膝下に, 次の文字が見える。 大永八年六月二十日 三偲慶仁 弘治三丁巳六月二十八日 四国中辺路同行三人(落書き) 最も古い落書きは讃岐の国国分寺本堂の野地坂にある次のものである。 当国井之原庄天福寺客僧教口良識 四国中辺路同行只二人 紳甲侯ロロらん 永正年十年七月十四日 以上のことからも四国遍路ほ室町時代の後期頃から庶民にも風俗として起こり 始めたことになる。また,四国遍路の八十入力所の番次もおよそ南北朝時代から 室町時代にかけて成立したものであろう。それほ,土佐の国土佐郡本川村越裏門 字「地主地蔵堂」鰐口の銘に「村所入十人カ所」とあることがその理由である。 江戸時代は庶民の生酒の余裕もでき,四国遍路が盛んになる。これまでの聖・ 僧といったものから百姓,町民,女,子供等の庶民が先祖の供養を初めてして, 後生安楽,家門繁栄,病気回復,豊作祈願,物見遊山をかねた,信仰半分,観光 半分の遍路の旅をするようになる。それのみならず,駈落ち者,隠密,ごまのは い,頗病人,ロベらしの為に家を追われ,村を追われて四国にやって来る乞食遍 路等,様々な遍路が見られるようになる。このような四国遍路の盛行は,高野聖 等の宣伝効果の結果でもあった。高野聖である真念は,延宝,天和の頃十数回四 国霊場をまわり,道標や真念庵と呼ばれる遍路屋をつくり,『四国遍礼道指南(シ ルベ)』を著わすことになる。 ところで,中世においては聖,僧等の修業の地として始まった四国の道が,近 世において常民・民衆が四国八十入力所遍路の旅に参加するようになった大きな 理由は次の五項目に纏められるであろう。 (ア) 民衆の生活力の向上 (イ) 交通環境の好転

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岡 屋 昭 雄 92 (ウ) 封建的規制の緩和 (ェ) 経済的弱者の参加 (オ) 接待 とりわけ,(ェ),(オ)が四国遍路への民衆の参加を促した要因として挙げること ができるやあろう。 (ア)について簡略に述べると∴幕藩体制の確立によって各藩がそれぞれに重 点的に特産物を中心として,産業の発達に力を注ぐようになったことであり,讃 岐三自政策としてその成果を挙げたことも周知の事実である。従って,農業技術 の進歩,普及,その結果生産力が高まり,農民の生活が向上したのである。江戸 時代に於ける讃岐の国でも,藩の財政の基盤を高めることに意を注ぎ,新田開発 を進めると同時に,溜池の築造にも力を入れた。溜他の築造・増築は十七世紀が 最も多くなされており,その効果は,稲作,畑作の綿花,甘煮等の生産力は高ま り,人心は安定してきた。慶長五年(1600)の讃岐の総石高は17万3千石であっ ノ た。それが40年後の「生駒高俊公御領讃州総村高帳」に.よれば,23万2千余石と なって,5万9千石の増加となっている。また種々の農具も開発・改良され,時 間的なゆとりも持てるようになったという。 娯楽に乏しい農村では,日常の生活のしがらみから解放されたいという深層意 識と重なって,お伊勢参り,善光寺参り等とともに,四国八十入力所への遍路も また意識に上る必然性ほ.あるのである。お伊勢参りでも,周知のことであるが, 伊勢神宮に参拝するまでは,聖なる心を抱持しているが,−㌧邑伊勢神宮参拝が済 むと,その後ほ,伊勢神官の周辺にあるいかがわしい場所で,思いっきり遊んだ のである。それが−・生に一度の楽しみに農民がしていたとすれば,理解できるよ うにも考えられる。 (イ)江戸時代の幕藩体制の確立は,蔵米の廻送,参勤交代,生産力の発展, 国内流通経済の発展を促し,その結果,交通機関・交通施設の充実をも促す要因 となる。宿場町,寺社の門前にある門前町,港町等が発達することになる。江戸 時代初期にほ,まず河川の渡渉施設が不備であった。澄禅の『四国遍路日記』か らも分かるように川にほ,橋も渡舟もなかったようである。

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… ‥ 此川ハ大河ナレトモ,舟モ無ク渡守モナシ,上下スル舟人二向 テ手ヲ合,ヒサヲ屈シテニ時斗,敬礼シテ舟ヲ渡シテ得サセタリ・・・・ 当時′ 四国遍路にかかる日数は百日前後であったようである。道路はもとよ り,宿泊施設があまり無なかったのである。それが江戸中期以降は40∼50日で八 十人カ所が回れたようである。 四国遍路が盛んになる国由は,前掲の其念の『四国連絡道指南』(1687)の旅案 内記や,近松門左衛門の『嵯峨天皇甘露雨』,『四国偏礼絵図』等の絵画や書籍 が,貞享・元禄頃から増え始め,寂本の『四国偏礼霊場記』には,それぞれの霊 場の絵をも掲載されており,第八十六番志度寺に参詣すれば分かることである が,四国遍路へ誘う偏額のうちの幾枚かが今も掲示してある。当時の上方といわ れていた浪速・京都で宣伝のためのものであり,この他にも,多くの絵画による 宣伝はなされていたという。 また四国遍路の交通路も整備されるようになる。真念の『四国偏礼功徳記』に 鱒,「諸処に遍路屋を建て,二百余力所の道標を設けた」と記されている。宝暦・ 明和期には,遍路に来る人々の増加がみられる。遍路道の丁石■も急増する。丁石 とほ,岩石に地蔵菩薩を彫り込み,次の札所までの丁数(−・丁ほ約109メートル) を彫り込んだ舟塑の石併で,お遍路さんの道案内をするものである。第八十−・番 札所白峰寺の近くにも,宝暦十三年に作られた丁石が残っている。道標も多く作 られ,民衆が四国遍路をする時大いに役立っている。 また,海運の発達も四国遍路の盛況に影響を与えている。正徳年間以降,阿波 の霊山寺が第一番札所として位置づけられるようになると,摂律・紀州方面から の人々が船で撫養港(今の鳴門)へやって来るようになる。 以上のような交通事情の発達と,農民の生活の向上が四国八十八カ所への民衆 の参加を可儲にするのであり,さらには,上方においても,四国八十入力所の遍 路を宣伝したことも大いに影響があったと把握できるであろう。 (ウ)中世は社会が不安定であり,戦乱が打ち続き,山賊,海賊等群盗が出没 する状況であった。したがって,庶民が安心して旅をすることはできなかった。 江戸期の封建領主的・共同体的規制がほとんど唯一・の障碍となり,幕府も各藩も

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岡 屋 昭 雄 94 社寺参詣は,大目に見たのである。民衆の内奥に根ざす強い宗教的要請でもある が故に,安易に制限・禁止できず,各藩ほ何れも不快感を抱きつつも,比較的寛 容であった。民衆の遠隔地への参詣は,−・般的に莫大な経費を伴い,長期間の農 耕生活に支障を来すのであるから。 領主ほ,参詣による農耕への支障,浪費等による農民個人の家計破壊,領国経 済への悪影響,つまり,貨弊の国外流出による領国経済の貧窮化,参詣・参宮に 籍ロした出奔・逃散を危惧していた。そして藩経済の窮迫化するようになる江戸 中期以降は,現実に問題が顕在化し,参詣無用論を打ち出す領主もいた。遠隔地 への参詣を禁止し,なるべく領民の信仰・参詣先を領内社寺に変更するような指 導をした藩もある。にもかかわらず,旅のもつ意味は,日常の生活からの離脱で あり,超越であるが故に領民の納得は得られなかった。したがって,四国八十入 力所の遍路の旅の持つメッセージは強烈に民衆の心にあったのである。民衆の生 活は,江戸中期,後期と下がるにしたがって,経済的にも豊かになり,浄瑠璃, 歌舞伎にまで及び,俳句,和歌を嗜む者も現われたこともあり,商人の経済力は 武士階級を凌駕し,町民文化の形成もなされたのである。このことと,四国八十 入力所の遍路とほ決して無縁ではない。 (ェう 四国遍路にほ経済的弱者が参加するようになる。女性,貧しい人,経済 的非独立者,社会的脱落者,乞食,不良の徒等様々な参加老がある。小松藩で ほ,遍路の男女比率は,67%対33%であるのに対して,伊勢神官の参拝者は, 97%対3%であり,伊勢神宮に参拝する女性は四国遍路に参加する一・割であるこ とからしても,弘法大師信仰と女性との関係が浮かび上がって来るであろう。 四国の各地には,結婚する前に必ず,遍路をするという習慣のある場所も多い。 難行苦行を経なければ,一人前の人間として認められないということであろうか。 高野山は,女人禁制であったため,四国遍路に向かったとも考えられる。四国遍 路には,社会的弱者が多いこともーつの特質であるが,その根拠として,信仰の 純粋性が挙げられよう。伊勢神官等畿内周辺の参詣は,信仰性を失って半ば観光 化した嫌いがあり,多額の費用も必要となる。それに対して,四国八十人カ所の 遍路の族は,信仰に裏付けされた者のみが参加し,四国に住む人々の温かい接待 というもてなしがあったことである。それから四国の遍路の交通費が他地域に対

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して格安であったことである。沿道には,馬,偲寵,茶屋,遊女屈,その他の観 光施設が殆どなかったこともその理由である。遍路旅ほ∴旅寵せ避け,宿所も, 無料,格安の善根宿,木賃宿に限られ,そこで遍路は,道中で買い求めた米,味 噌,豆腐等の最低限の食料の煮炊きをするのである。したがって,四国遍路に は,病人の多いこともその特色として挙げられるであろう。この根拠として,霊 験欝の中に,病気回復祈願の現世利益欝が多いことである。つまり,病気平癒の 祈願を目的として遍路の旅に出ることが多いのである。しかし,これとは別に, 疾患によってほ,直る見込みの無い病人,病気等によって経済的に転落した者 が,生活のたつきを求めて四国の地を放浪することもまた多かったのである。 疾病が原因で乞食遍路をするものが多いことも前述した通りである。宗教的行 脚をしつつ,門づけをもらうという習慣も,筆名が子供時代ほよく見た風景であ り,どこの家でも,小額のお金,お米や野菜などを恵むものである。したがっ て,このような遍路乞食ほ,八十八カ所を何度も回りながら,遂に行き倒れと なって,四国の地に骨を埋めるのである。現在も多くの遍路墓があり,とりわ け,第八十八番目の結膜の札所大窪寺付近にほ多く存在する。しかし,遍路乞食 は,社会的脱落者であるが故に,切羽詰まった最後の生括手段としているので, 時として詐欺,盗賊となる場合もあったようである。おとなしく物乞いするとは 限らない。しかし四国の人々ほ,遍路乞食を封建領主の追求から守ってやったこ とほ確かである。この優しさはいまもって続いているようである。 (オ)四国の人々の遍路に対する接待の仕方について述べてみよう。接待と ほ,お遍路さんに対する温かい援助のことであり,善板宿等族宿の提供や物品の 供与を指すことばである。その宿には遍路屋や善板宿がある。遍路屋は遍路への 無料宿泊施設で,主として貧しい遍路,遍路乞食が利用していた。遍路屋ほ一・般 に汚く,行路病者の収容所を兼ねていた。したがって,一腰の遍路からは敬遠さ れていた。慶長三年(1598)阿波蜂須賀公が建でた「駅路寺」,「ハカ寺」,「其念 庵」は,遍路屋として知られている。この当時の接待の様子ほ十返舎一九の『金 草牲』(カネノワラジ)に紹介され,生き生きとした描写がされている。これらの 接待の他に,紀州接待講,紀伊有田接待講,紀伊野上接待講のように,四国以外 の人々が船に接待の品々を・乗せてやって来ることもあったという。

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岡 屋 昭 雄 96 他にも,遍路の途中に道に迷った者が結願の末‥取返しのため,道標を建でた り,行き倒れた遍路のためにお墓を建でてやったり,等々のことがあったようで ある。橘義陳の『宝つかみ取』中巻(文化九年)によれば,彼が灸点,人相見等 を依頼され,お金を貰ったこともあるが,「一度遍路すれば,路銀は−・銭もいらぬ 上,毎日道連れの遍路数人を同宿させて,なおかつ一・カ年十両から十五両を蓄え た」と書き付けている。少々話は誇張されている嫌いはあるが,遍路は自分がか なり努力すれば,何とか自分が食べるのにほ困らなかったことは確かであろう。 以上のように見てくると,四国に住む人間の素朴・純朴さに逢着するであろう。 他の地域の巡礼でほ,早くに接待の習慣が消滅したのに対して,四国八十入力所 遍路のみが,いまもって接待の習慣が残っていることは注目していいであろう。 遍路道は,急峻であり,細い通が多く,遍路以外に豪遊するゆとりが無いことも 挙げられる。しかし,現在でほ,札所の門前に店が並んで,盛んに遍路に土産を 売りつけている風景も散見される。遍路旅をする人々も土産を求めるという傾向 もあり,必ずしも否定的に捉える必要はないであろう。毎年のように四国八十入 力所札所巡りのバスをしたでて,札所を足早に回っている光景も見られる。ま た,レンタか−を借りて四,五人でグループを親んで回っている人々もある。時 代とともに遍路の形態にも変化を来していることは周知の事実であろう。にもか かわらず,年々四国八十人カ所を回る人々ほ増加の傾向にある,という。自動二 輪で後ろに女性を乗せ,格好いい遍路旅も見かけるようになった。この傾向をど の様に評価していいのか,判断に迷ってしまう。ポストモダンの時代に生きて, 自分の生き方を探しあぐねている人間が多いことも確かである 。科学の恩恵に よって生活は楽になった。にもかかわらず,精神的にはかえって貧しくなってい く傾向はある。その時に当たって,四国八十入力所の発するメッセージはどの様 に人間の心に木霊するのであろうか,ふと考え込んでしまう。 以上のように,四国八十入力所遍路の適時的追究をした。歴史的追究が中心と なったが,遍路についての概要が明確になったことは確かであり,そのことに よって四国の「島←1のもっているイメージもある程度明らかにしたつもりである。

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4 おぁりに 「遍路」の研究を纏めるに当たって,筆名の心を捉えるのは,四国それ自体が 島でないのか,という疑問であった。瀬戸大橋ができて本州と陸続きとなった。 にもかかわらず,四国のよさをいつまでも残してはしいと切に思う。つまり信仰 の原点が四国にあるということなのである。ここで,梅原猛が1993年2月17日 (水)の読売新聞の「論点」に書いている次のことばに注目させられた。「・・・重 要なことほ,西田をそのまま祖述したり称揚したりすることではなく,もう−・ 度,近代主義の崩壊という時点に立って,西田のように人間や世界について真剣 にかつ深く考え,そこから,人間と世界を破壊から救い出すような哲学体系を作 り出すべきなのである。/そこでもちろん,西洋のあの緻密(ちみつ)な思弁と ともに,人間と他の生物との共存を原理とする東洋の知恵が大きな意味をもつこ とは間違いない。」と述べる。近代主義の崩壊という時点に立って,人間や世界に ついて真剣・其撃に,かつ深く考え,そこから,人間と世界を破壊から救い出す ような哲学の体系を作り出すためには,自己の重きる主体を取り戻しつつ,自分 が生きることの意味・価値を沈思・黙考することに他ならないであろう。かつ人 間と他の生物,つまり自然との共存を本気で考えないと,現在の危機を救済でき ないであろう。」 したがって,中村雅二郎の主張するような「共通感覚」の恢復でありつつ,そ の為には,空気の綺麗な清澄な潮の香の豊かに匂う四国の海と,急峻な山の杉の 木立を歩きながら清談な世界・宇宙に遊ぶことであろう。そして縄文文化のよう に人間の裸形に戻って考えることであろう。四国二十−・番札所太籠寺は,かつて 弘法大師が修業した場所であり,そこには座禅しながら深く考える弘法大師の像 がロープウェーから拝することが可能である。一本の杉の大木が昔のことを静か に語っている。ここの風景は四国の霊場でも指を屈することのできる霊気を感じ る場所でもある。下に流れる川を見ながら,杉の木の聞から淡い太陽の光が差し 込み,身体も精神も全く措浄になるのである。生まれ変わることが可能になる聖 なる場所でもある。擦れ違う人間の顔が美しいと心から思ったものである。人間 は,絶えず,明るい場所を求め,賑やかな所にいないと淋しいと感じるように なってしまっているのではないだろうかこ 岩▼哲学の森_【というのはこのような場

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98 問 屋 昭 雄 所であろう。人間が自然に抱かれた場所でなければならない。自然の恵みが豊か に存在するのでなければ,人間ほ正直になれないのであろうか。ふとそう考えた ことであった。 (注) (1)千田稔『風景の構図一一地理的素描−−』(地人書房1992年)P265 (2)中沢新一『森のバロック』(せりか書房1992年)P 320 (3)前掲苔 P320 (4)近藤宮博『四国遍路』(桜楓社1971年)P172 (5)宮崎忍勝『四国遍路−一歴史とこころ−−』(朱鷺書房1985年)PP15−16 (6)(4)のP167

(25)

の砲座肇雀嶋郎象

を老塵抱︶

前田卓﹃巡礼の社会学﹄十二頁から引用

音義静ま乾賓易僅

懲1−産忍軍事−

堵亀をげ偽作鯵白

ゑ商塗慣各囁登−写そ孝界華瑠

堅石堂冠木の昏いた「四国還礼霊場記_≡(第56爵泰山寺所蔵)

上掲書百十七頁より引用

増補四国臓礼遺指南増補大成

(26)

100 岡 屋 昭

お遍路さんのかつこう

\十入、l電も

(27)

高欝通夜の巡礼姿

(大正7扇i月23日九州日日開聞に;8叔)

(28)

岡 屋 昭 雄 iU2 恕叉至芸怒療治 −⊥■・・・・ J一・一一・・ t コ彗 ﹃卸側#e﹂什繋﹄咄配信﹁控車﹂ ︶哲夫−亜瑠+ 。小′Jり吏ぐ鳩〃鰹婁細∪一量巾一 Q吋.つ付点.塀櫨.た確固J量じ朋.蜃柊.米.望レJ刃hE芸。吋 ′一レ忌ぺ∪義妹Q増摺′か園漣初更噴煙Q東庄.長滝Q出羽争哺更弱柑e 中也.巾︼ぜ一柳禦+.P底Q﹁堂鯖萌し吋︶レヨ∪百Q祀掛倒吊−潜NQ叫 蓄bT賢甘ジも.£夢1.ノ・声”亀01ト鮭モ.竜一デ∼きtれヨデざ ・Jキー:ヾヽ十くト寸・∼づ ぐ、ノヾんさlノー、掛ム∼ヰ\ノ /々疇ヽ叩人ミ=e 押破い′キー ).、存1か∼ビゴ十‘ヾ今卜く㍍へ榊ノ ゝこ叩〟タ〟・ノ小西レ:∂■Vり庸一・、釘 府・ぐ、、声■、r−\叫叶<ヽで叫㌣■◎h†●ネふ・小I ∼かく−ふ.Sや■郎 が′叫卜、ケノく6か−−「イナ/\J∧ 一ヽ_..く\くべ帥(lJ咄クーゝJみ1.・廿ハーl㌻

く仙小す∨小鞘 小一\〃.∧♪\ンチぐ トl;含サへゝ・Ⅳ・

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以上の基準を仮に想定し得るが︑おそらくこの基準によっても︑小売市場事件は合憲と考えることができよう︒

・ ○○ エリアの高木は、チョウ類の食餌木である ○○ などの低木の成長を促すた

★分割によりその調査手法や評価が全体を対象とした 場合と変わることがないように調査計画を立案する必要 がある。..