嘲琴蜜規音仏ふことであらう。勿普通には倫理畢の領内笑れられるものとして、理想論の外に例へば
道徳判断の卓腰としての良心の研究や、その容鰭とトての晶怜及び行為の研究、意志自中本琴徳抄研究などが
奉げられるであらう。併しながら、それらの何れの問題にしても結局は常人生の坪想に関係を有ち、またそれへ
の関係によつてのみ、初めて全き解決にまで到達し得るものである。例へば道徳判断にしても、何が軍曹であら
何が邪患であるかを決定するためには、必妻諒覇習概覇どしそれに照らしてそれをなさねぼならす、
商工経済研究 乳十撃弟諒 ︵鯛飯監︶
表に倫雲仙感東零の関越は何であるか。いふまでもなくそれ麟野有卦の確キ即ち人生に於け義一
倫理畢上の忘れられた山頚質問選倫理学上の忘れられホ一重質問題
高 階
治
順
︵こ︵二︶ こ 鱒十感 第 仙 成 また本詠について見るも、それは理想賓現のための手段たるが如き意味を有ち、更に徳は、その水路遊行の結果 得られた意志の習慣であつ七、謂はゞ理想嘗現の結果たるの意味を有つものなのである。かくの如く倫珊畢上の 一切の梱包は、理想論を前提することによつて、のみ初めてその解決の可能性を有つものであるが故忙、伶珊革ひ 中心関越は叫想の確立にあり、結局﹁善とは何か﹂の問題に蹄するのである。 然らば剛健その蕃とは何であるか。これに踊する見解は勿論笛々として血淀してはゐない。この見解の相異が とサも直きず倫理畢詮そのものゝ相異をもたらすのである.。かくて例へぼ外的隙力に従ふことを臥て蓉なりとす るものには紳樵詮や帝椎訟などの権力詮があり、快楽を以てそれなりとするものには利己詮・功利詮・感化的快 楽詮などがあり、反封に克己禁欲を以て馨なりとするものには禁欲説や制欲詭がある。その他直覚琴形式琴活 動詮・自我嘗硯詮など皆それム\猫自の立場から最もぜなりと信する道徳的理想の確立を期してゐるのである。 併しとれらの畢詮の詳述検討は勿論我々の只今の仕事ではない。我々は今は只布衣畢的見地から、これら緒倫球 拳扱が皆仙様に看過してゐると思はれる仙つの重要問題を指摘し、それによつて将来の倫珊拳的領野間柘の馬に 山の新たなる道を開くことを得ば足りるのである。終らばその〓鼠嬰問題とは何か。それは仙般に道徳的慣値と 呼ばれるものゝ存在拳的解明といふことであり、殊に至高蓉そのものゝ存在性の研究、即ち政商憤借着の現象拳
的究明といふことである。
叫般軋萄鳩胸副ヾ縫ってまた道徳的憤他の世界庵、芸偵値的掛かとして、
に存在の一徹域を形\、﹀ 成してゐることは、現象拳的立場から常然是認されてよいことであらう。かく債値の碑界を瓦二の客観的布衣姐 城の中に見出すことは、山般忙現象畢的慣値諭の著るしい特色である如く思はれる。例へばシエーラーに揺る も を随つてまた債値的存堰の如きものをも.すべて形式的主観に依伸せしめようとするカント的見方は、それ散忙シ ‡トデーにとつては仝ぐ首肯し難きものである。勿論シューラーと雄も慣借主観としての自我の布衣を重く認め ないわけではない。否却ってその出磯鮎は、紋日らも明言する如く、現象蓼の最高の根本法則、即ち封象の本質 と志向的慣験の本質との間には〓つの開聯が存在してゐるといふそのことであり︵三axScheざ⋮DerFO∃aニsヨuS ぎderEthik亡コ:訂ヨa叶er亘eWertet言S∴肯こ、随って慣備に封しての意識の相関性は常然にも認められてゐ るが故紅、客観的憤備に相関的に封立せる低値主観的自我はやはり明かに認められてゐ、一般に、純粋自我をこ 切の出費鮎とする現象尊的色彩は彼に於ても勿論槌せてゐるのではない。併しながらまた他方、容親的即興を始 源者と見なす現象壌的立場本粥の特色を憩辱して、仙切の慣値的存在が主融や自我なしには存在し得ないとす各 ヽヽ 詮には強く反封してゐるのである。即ちいふ﹁私は慣値的存在が﹃主勧﹄または﹃自我﹄登別揺するといぅての 主張をば排斥する。それがねとひ経験的自我であらうともヾ所謂﹃先験的自我﹄であらとも、或は﹃意識咄般﹄の如 ヽヽヽヽ きものであらうともゥ自我は言葉の可能なるあらゆる意味に於て認向的鰹験の﹃勘象﹄であり、随ってまづ・第這 ヽヽ ﹃何かについての意識﹄である。自我は内的直観に於てのみ輿へられ、そのものとしては只内的直観の方向にのみ 倫理率土の忘れられた〓軍軍閥題 ︵三︶ 三
ヽヽ 硯はれる多様性の或仙つの形式をのみ表現するものである。良我が叫般に憤価を﹃有つ﹄とか﹃控除する﹄とかいふ ことはその存在にとつてはどうでもよいことである。﹃自我﹄はその形式的意味に於ても自我性に於ても慣倍意識 の封象であつてその本質必然的なる出登鮎ではない。︰⋮⋮・慣値の存在が殆ど自我を前提することなきは、酎象 ヽヽ ︵例へば数︶の存在がそれを前捉することなきこと、或は仝自然が自我を前提することなきと同株である。この意 味に於ても亦偵侶の主観性の詮は排斥さるペきである﹂︵Sche−e﹁⋮蓉d・こ・心声︶。シューラーはかくの如く偵侶的 存在から〓切の主観性を排除するのであるが、我々は勿論散りにも客観的なるか1る立場に直ちに賛成するもの で味ない。併し山方偶倍的存在は、その主観性詮の如く、毒翫に全く依存と主観なくしてその存在性の保讃し得 られぬやうなものではないことも亦認掛ざるを得ない。即ち慣値的存在は二万に於て主観的なるものに依存する といふ相封性を有ちながら、而も他方それ自ら絡封的存在として客観的に布衣し得るもの謂はゞ慣倍は二面仲を 有つものでなければならぬ。かくの如く憤侶的存在の存羞性が存在皐的に解明され得るとすれぼ、このことは常 然道徳的債値の存在についても可能であり、随ってこ1に道徳的僧侶の存在の存在拳、即ち普及び悪なる布衣の 現象蓼的鮮明も営然必須的のものとして現れ解るであらう。珂想は最高絶封の慣侶的存在者である。この敢高の 慣倍的存在者が如何なる存在性に放てあるかを存在蓼的に見究めること、これがかくて、倫甥螢上の二親要問題 とならねぼならぬのである。 〓 第十巻 第 劇 既 ︵四︶ 四
高度の消極的低値者といはれ得るのである。それ故に慣佃的存在は一方段高度の梢極的慣備より他方盈高度の満 極的闇値伝至るまで、各々その慣値性の程度に従って相掩摸し、それが、例へぼ感情に於ける快と不快との︼方 向の如く、結局血つの列序或は段階をなしてゐることがl明かであり、こ1に所謂慣鳩の系列︵WertOrdつuコ也︶が現 はれる。この慣偶の系列は勿論慣値の鰐系へSyste∋恩rWerte︶ではない。我々の今問題にしてゐるのは眞・蓉・ 芙・盟・力・愛・利などの各慣値領域の相互従層の鯛係ではなく、車なる道徳的慣値領内に於けるその慣値の程度が もたらす系列の間趨・等級の問題である。和想はこの慣他系列の渡鳥佗宥でなけれぼならぬ。かうした存在者の 現象撃的解明が、現今の倫理単に於いて忘れられてゐる叫つの露質問蔵なりと思惟されるのである。 然らばこの慣値系列に於て、その上下依馬の関係を決定する標準たるものは何であらうか。即ち尊なる伺噂の
者と呼ばれ得るであらう。かくて瑚感重機
鳳感ば魂商毎傾備的葦、ぁる飾、かゝる咽佃的存在者が存在する以上、そこにはまた常然澱帯な払経路梧 ヽヽ 伯画布村矧が布衣せねぼならぬ。かゝる傾値の存在者は比較的程度に於ける慣倍の存在者であり、謂はゞより多 ヽヽ ヽ︳ き慣値着かより少き憤借着かでなければならぬ。より多き程度の慣借着はその程度を増すにつれて次第に至高蓉 ヽヽ に接近しゆくものであり、より少き程度の僧侶者はその程度を前者と反劉の方向に増すに従つて次第に理想に遠 ざかりゆくもの、即ち反慣偲たるの庶訂弧ぐ有つに至るものである。.併し勿掃この反間借着も全く囁倍と無関係 のものではなく、寧ろ消極的憤惜とも見なさるべきものである。これに相附する時は慣倍あるものは積極的慣値 倫理畢上の怒れら右小た山空夢問題 であり1最も理想に反するもの即ち最高わ頭痛感 ︵五︶ 五程 撃 瞞 帝 し 十 巻 れ 第 む 撃 劇賦 e兜づ 警 る を 動薫 以 ㌦ 首 鼠 召り一 内 /ヲ甘首 軍還当惑 でを馨げ ( もの (彗 乳 ( 熟副言 es Eth符 誉専訂 へ六 こ ) に外 ら 六 と し、そ そ
に文化憤値と呼ぼれる将帥的慣欄が蓼げられ、そして最後の即ち最高の段階に人格的厩植としての敦・不変の依 怖が存在するとされる︵Snhe−e∵蒙チγ岩ミ・︶。これらの低価詮によつても我々は、僧侶的存在には一定の系列 が存在すること、及びその系列の上下・高低の関係を決定するためには∵蒐の横磯を定めて置かねぼならぬこ七 を知り得るのである9 三 我々の見を以てすれば、兜づ第﹂に慣栖の高低を決定する棟徽はそ亀川剥闇Lいふことである。永遷恍はシエ ーラーに従つてこれを持輯性ともいひ得るであらう。即ち慣佃は高けれぼ高いほど永遠的であり柿祷的でなけれ ぼならぬ。直ちに消え去る如き一時的慣倍は償値の高きものではない。最も高き慣備はたとひそれが瞬間的に嫉 視し来る如きものに於ける場合と雑もその中に永械性を含むものでなけれぼならぬ。例へぼ快は一つ るが、肉鰻的快は一時的であつて精神的快は永械的である。それ故に一般に精神的なるものは肉牒的なるものよ ヽヽ りもより多く低値的である。また例へば愛は剛つの慣個である。けれども若しもそれが右の中に永遠性を含むこ とがないとすれぼ、それはまことの愛に惜し得るものではない。今だけ愛するといふ如き愛はその有限性の蜂に 愛たるの慣億なきものである。同様のことが反慣偶即ち拘極的慣値についてもいへる。例へぼ病気に於ける苦痛 は反慣値である。けれどもそれが永遠性を滅することが多ければ多いほど益々多くその反慣値性を減少する。即 ち壇ぐ凍る病気はたとひ側時の苦痛が如何に甚だしくとも傘惜としてさほど苦しいもわではない。山般に道徳的 倫理拳上の怠れられた山雀質問題 ︵七︶ 七
第二の標徴としては金鯉的給〓性を拳げることができる。永遠性が低値の時間的性質であるとすれば、金牌的 統劇性はその基問的性質であるといへるっこの怖質より勧する時、放じて常に粂牌性として存在し部分性としては 布衣し得ぬ如きもの、例へぼ輩術晶や人格などの偶借は、常忙分割され部分性としてのみ存在するもの、例へぼ 金銭や。ハンなどの債倍よりも高いと.いはねばならぬ。仙般に物質的なるものは粂慣性としては存在し得ぬもので あり、常に分割されて存し、何人と錐もその全館旦皐受することのできぬものである。常に部分としてのみ存在 し得るものから、如何にして完全なる満足の期待し得られようぞ。会せ界の金銭を集めても柑守銭奴は満足せぬ であらうし、せ界の金物質を所有するとも貧慾飽くなき者は究極の満足に浸ることはできぬであらう。さうして 物質的なるもの漉それを分有する人が多くなればなるほど益々それら各人の所有最が少くなり、随ってその慣値 が限局される。これに反して精紳的なるものは、たとひそれが断片として存在することがあつても、侍脈々たる 金牌性を撥刺たらしめ、随つて何人がこれを所有し、その所有する者が如何ほど数を増すと雉も、単なる部分性 として受け取られることは決してない。かくて例へばゲーテのファウストはこれを誠む何人にも、ヴュトーヴュ ンの第九シンフォニーはこれを聞く何人にも、ロダンの彫刻はこれを見る何人にも、さうしてまたいつどこに於 ても常に垂鰐として受け取られ得る。、それ故にこ1には完全なる満足が期待し得られ、而もその憤価はこれを事 第十巻 第 脚 解 ︵八︶ 八 倍値そのものゝ全き具現が如何に永遠性を宥つことの明かであるかは、例へば孔子やゾ 不朽性に徹しても知り得られることであらう。
受する鴻のが多ければ多いほど益々教挿し得られる底のものである。然るに物質的なるものはこれを分有し辛受 することが多てなればなるほど益々その部分性が甚だしくなり、随ってそれからもたらされる満足性が減少する のである。それ故に物質的感官的快の追求に於ては人々の利蚕が互に相簡爽し、各人が各人にまで鴫の如くなら ざるを得す、これに反して精神的文化憤倍を追求するところに於ては、人々の将帥が互に相融和し、魂と魂との 結合を得七相互に同胞化せしめられ得るのである。 ヽヽ ヽ︳ 墾こにより高き慣値はより多く穿麺的であり、随つてまた目的々のものでなければならぬ。例へぼ或る利益の接 待が精神的愉快接待のためのものとすれば、その愉快が利益よりも償値高く、またその愉快が健靡なくしては絶 封的に獲られぬものとすれば健康が愉快よりも低価高く、またその健康が善行焉のためのものとすれぼ善行馬が 健康よりも憤値高く、更にその善行馬が崇高なる人格完成のために必要のものとすなぼ、人格が善行鶉よりも造 かに高き憤値を有つものとなる。本栗闇値は目的慣値と手段慣値とに分たれるのが普通であるが、その手段慣値 たる性質が少くして目的慣億たる性質が多けれぼ多いほど益々高き低値と呼ばれ、そして至卑替は目的慣催それ 自身といふが如きものとならなけれぼならぬ。アリストテレスもいへる如く、我々がそれ自らのためにのみこれ を求め、只これを得んがためにのみ他の叫切を求めるといふ如きものがあるとすれぼ、かゝる唯叫の目的こそ蕃 であり至高善であるといはれ得るのである︵碧st。te−esこb己・二璧a︼00︶。カントが人格を以て目的それ自らで あると説き、人格を手段硯することを極力排斥したのもこれがためであらう。かくて故高の慣値は究極的のもの、 倫理畢上の忘れられた二軍質問題 ︵九︶.九
或は目的其自餞ともいひ得られるのである。 その他満足の深度や絶封性の有無などからも偶欄の高低を決することができるであらう。眞の満足は固より感 官的快から得られるものではない。全人格の中心愴に湧然として生じ乗る満足感は、をれが精神的快の慣値を有 つものであれぼあるほど益々多く、またそれが感官的肉牌的快の慣値であれぼあるほど愈々少い。慣倍はまたそ の相判性を滅すれることが多ければ多いほど益々その絶封性を高めることが多く、その絶封牲を高める程度に従 つて患た次第に慣偲の高度を増加する。偶値の相封悼とは、その客観的事物に依恩しそれによつて制限せられる 性質である。例へば感官的快の横倍が相封的であるのは、それが必す物質によつてもたらされるものだからであ る。これに反して例へぼ全人格的愛の如きものは、それが深くなればなるほど益々個々の封象によつて緊縛され ることが少く、随ってその自由性、即ち絶野性を有つことも多くなるのである。 さて以上の如き標後によつて定められた慣値の段階は然らば如何なるものであらうか。仙切の慣値が一方向線 上に排列せられ、慣値的零とでもいふべき〓獅を中心として正惜備と反慣値、即ち積極的慣値と拘極的僧侶との 爾方向に蝕⋮蹟の段階をなして連結してゐるものとすれば、その段階を形成してゐるものは心髄如何なる柿類の慣 価であるのであらうか。 正慣他の放下の段階は感官的快の慣倍である。例へば夫昧を周て楽しみ、漁場に浸って快を得る如きである。 第二の段階は全身に関するもの即ち生餌感情を満足させるものである。健靡とか生気液剤とかの慣備がこれに督臥 発十巻 秀一渋 ︵劇○︶ TU
る。利といふ経済的慣値はこの段階のものと見ることができる。第三の段階に精神的侶欄がある。琴苧兼の如 き桝謂文化憤値がこれに属してゐる。最後に最高の段階のものとして聖の慣値が蓼げられる。それは紳的なる・世 の、俳的なるものでぁ㌢、全人格的慣催、即ち理想である。 更にこれらとは全く反封の方向に反低値の系列が迷ってゐる。その最初の段階は感官的不快の慣値やあり、例 へば苦味を味つて厭気を感する如き、また寒風に曝されて苦痛を感する如きである。次の段階に全身的不満足感 がある。病気・疲弊に於ける如きである。損なる紅溶的反憤値はこの段階のものと見なされる。第三の段階に精 神的反偵値即ち償・琴醜の如きがある。さうして最後の段階に不聖の慣値即ち神聖なるものを胃癒する如きもの が存在してゐる。 正偵値と戊偵値との間の上下、高低の段階は以上に於て各々明かであるであらう。その韮低価嘗現は﹂般に吏 と呼ばれ、その嘗現せる正憤値が高ければ高いほど益々それ埜向い善であるといはれる。これに反して反慣値蜜 硯は琴と呼ばれ、その茸現せられた反憤倍が高き段階のものであれぼあるほどその恵の桂皮は甚だしくなる。か ぐて最高の喜郎ち理想と呼びなさるべきものは最高の正偵借たる仲里の横倍に参興してこれを嘗現する如きもの であり、これに反し最大の慈たるべきものは不聖といふ反低値の嘗硯即ち紳翌なるものを胃摂して顧みざる如き ものである。 以上のことからまた例へ政次の如きことが常然にもいはれ得・るであらう。所謂食道繋などに満足を求めた歩、 倫理学上の忘れら九た二軍質問題 ︵一二︶ 帥﹂
第十巻 ノ第﹂ が ︵二一︶一〓 紅粉の実を誇ったりすをごとは、それ自身憩ではないが、最下級の慣値嘗規であり、野球やゴルフなどによつて 快を求めるよりも低級である。何故ならば前者は感官的快であるが後者は全身的快だからである。併しながらま たスポーツにのみ耽ることは、襲撃品の鑑賞や創作、眞球の探究などによつて恰愴を求めることよりも造かに慣 価が少い。何となれ望別者は身鱒的快をもたらすものであるが後者は精神的満足をもたらすものだからである。 更にまた蟄術家や単著であつて軋若し全人格の薗滴なる嘗硯完成といふことを心掛けぬとすれば、それは自他の 人格の完成に於て喜びを見出すものよりも簡遥かに少き憤値の賛硯着たることを免れない。そのわけはこの人格 の完成といふことによつてのみ、人は初めて画聖なるものへの参輿をなすことができるからである。かくて人生 の理想は園滴具足の人格完成による紳への参興、俳への合鰭、艶たるもの∼自己賛規でなけれぼならぬ。 また例へぼ反憺値については次の如きことがいはれ得るであらう。閻簗の苦味を昧ったり、切開の痛さを経験 したりすることは、病気そのものによつて悩まされることよりも慣値少いものではない。何となれば前著は感官 的不快に過ぎぬが後者は全身牌背痛であるからである。併しながら身餞的疾病と蝉もこれを精神的堕落に比する ならば遥かに未だ多くの慣値を有してゐる。何となれば精神的低値の破壊は前述の理によつて身偲的慣佑の破壊 よりも造かに藩だからである。精神的墜落も併しながら、またこれを神聖なるものを汚すことによつてもたらさ れる全人格の破滅に比すれぼ、筒未だ救はれる飴地がある。締盟なるものを汚辱する如きものは、例へぼ紳の子 を賛れるユダの如く基潜もこれを如何ともすることができなかつたのである。我が国に於て、皇窒への不敬が最
大の罪惑となる所以も、まさしくこの理によつて根嬢づけられ得るのである。 四 我々の道徳的理想は、以上に於ても明かである如く、人格完成による紳聖なるものへの怨輿とその嘗現といふ ことである。然らばその神聖者の存在の存在性は一腰如何なるものであるべきか。 これについて見るためには先づ現象するあらゆる存在の存在領域に如何なるものが存在すべきかといふ間領か ら解決して行かねぼならぬ。これに関しては嘗て本誌に於て明かにしたやうに︵本誌第七巻第閃光拙稿﹁生命・意 識・憤噂物質の囲存在領域について﹂参照︶、私はその可能的存在領域として生命及び意醜の領域を、叉その必戯 的存在領域として慣値及物質の領域を挙げ得ると考へる。普通に存在と呼ばれるものはこれらの四領域の何れか に威するものと解される。併しまた、今これらのすべてを朗調布の世界にまとめるとすれば、この有の世界は、 賓は無の世界即ち普通に非存在と呼ばれる山椒の存在によつて、初めてその存在の可能ならしめられてゐるもげ でなければならぬ︵これに関しては本誌十周年記念渋紙稲﹁存在の矛盾性﹂参照︶。さうしてその無と呼ぼれる世 界には、始漁的触⋮と究越的無の世界が考へ.られ、これらが有のせ界を包むとき、その公腰的存在は、現象する有 のせ界の相封的なるに反して、非現象的絶封者蕗えの性質を有つも・のであり、相封的有に封して、絶封的無の世 界ともいはるべきものである。 さて然らば以上述べたる如き至高善としての紳聖なるものはこれら諸存在領域の何れに屈してゐるものであら 倫理拳上の忘れられた二態安閑毯 ︵〓ニ︶ 劃三
ケか沌こ1に人は直ちにそれは慣値的存在の領域に於けるものであることの理を見出すであらう。何故ならば油 虫なるものは最高の同値者に外ならぬからである。併しながら我々はまた次の如くにも考へなけれぼならぬ。現 象する存在の領域内に存するものは、随って憤億的布衣も、すべてそれは、既に相射的有の世界のものであつ て、絶封的存在ではなかつたっ然るに至高轟としての帥聖なるものは絶計的存在であつて決して柑封的冊界のも のではない。随ってそれは相封的偶値領域に存するものではなくして、寧ろその相封的償値窓の存在をも可能な らしめてゐる絶封着でなけれぼならぬ。かくて締盟なるもの1存在領域は決して他の変化償値の於て存する如琶 相封的存在領域ではあり得ない。然らばそれは如何なるものか。こ1に我々は〓切の相封的布衣を超越.して而も それらの存在の存在性を可能ならしめてゐるところの絶封者の存在領域を首然にも考へなくてはならぬ。然らば それは如何なる領域であらうか。相封的有の存在を可能ならしめてゐる絶封者は、蜜に最撃退なる音味の無そ抄 ものではなかったか。然りとすれぼ至高曹としての帥蟄なるものゝ存在領域は存在螢的に見るとき絶封的無の閉 域そのものであるのではないか。相封的有の世界が絶封的無の惟界によつて鷹礎づけられそれによつて初めて存 在し得るものであるといふ、我々の既に見来った存在感的事態が、道徳的慣伯の存在領域に於てば直ちに、あら ゆる一切の相封的慣他者が絶封的償借着としての葦高書によつて戚礎づけられこれによつて初めてその存在を軋 能ならしめられてゐるといふ事態を規由せしめてゐるのではなからうか。著し然りとするならば、至高善たる帥 盤なるものL於て存する坐は絶射的触の立場と見られぬぼならぬ。何故ならば絶封的無の立場にあるものこを、 第十巻 第 山 輩 ︵旧四︶ 一匹
すべての初めであると共にその経りであり、一切の存在者を統合して唯〓鱒封の活動そのものにまで形成してゐ る賞牌と解し得られるからである。絡封的活動そのものは可能性に於ても必然性に於ても郁恵するものではな ぐ、奉ろ可能性む必然性たらしめる現資性に於て存在す富ものでなければならぬ。 在や必然的有償にその春蚕性を附興するところの規資的存在であると見られ得ること1なる。 至高沓をかく規定的にして而も絶封的なる活動そのものと見ることは、またアリストテレスの倫珊単に於ける 軍要なる特色でもあつた。アリストテレ′スに疲れぼ、すべて善は萬物のその水性の完成に於て存してゐる。然る に箱物の本性は活動といふことに外ならぬ。縫って活動することが書である。然るに寓物はその本性を費即した 時に最も事隔である。それ故に活動することがまた牽隔でもあり、結局、﹁善と車叫帽とは所動の中に存してゐる﹂ ︵要stO叶e︼es⋮、蒙d・・岩当bりのf・︶こと1なる。これ披の詮が活劇詮と呼ばれる所以、かくて萬物はその水性に叶つ た括助を完成すれぼするほど益々その昔を完成し、そしてその所動の究極に於て敢高書の蜜硯をも完了すること ができる。併しながら固より萬物の億劫そのものが直ちに人間的替となるのではない。例へば植物も共有する.一 般的生活々動や、動物にも共通なる感性的生活々動などは、人間的薔とは呼ばれない。人間の善は人間の本性を 登録する清動でなけれぼならぬ。然らばそれは如何なる活動であるか。理性的布据としての人間にとつて蜂蜜に 理性的なる生満々動が善でなければならぬ。即ち人間の要良書は珊性的生折々勤の賓甥完成にあるといへるので 参る。然らばその活動によつて人間にもたらされるものは何か。それか車両であるに外ならぬ。かくて常然車幅 倫準翠上の忘れられた〓革質開腹 〓五︶一.嵐
︵二ハ︶ 二ハ 第十巻 第−渋 そのものが人間の至偽善であること1もなる。これ彼の詮が車両詮と鴻呼ぼれる所以∵そしてこの事嗣をもたら す理性的満動の能力が朗謂徳富息と呼ばれるもの 中に眞の車叫相即ち至高善が存すること1なる。この先重なる理性的活動はまた囲現∴ぎ丘ぶ慧云とも呼ばれ得、さ うして園硯は硯資的なる活動そのものに外ならぬ。然るに硯質的活動は存在啓的には、可能的布衣や必然的存在 即ち普通に有と呼びなされてゐるすべてのものを布衣せしめてゐる絶封的無と呼びなされる如きものであつた。 かくてアリストテレスに於ても至高蕃としての絶封的理性所動は賛は絶封的無の立場に於て存する如きものと解 し得られるのである。 かくて道徳的壊高値借着としての至高善は語の敢も深遠なる意味に於ける絶封的無の領域のものとなる。宵在 する人間の世界を有とすれぼ超資産的紳の世界は銀と見られなけれぼならぬ。併しながらか1る絶封的無のせ界 が究極に於ては炭質の絶封的存在でなければならぬ。即ち超賓准的紳の世界が眞の絶封的本鰹界であり、嘗森的 人間の世界は相封的現象界である。 かく理想としての最高慣借着が嘗は絶射的無に於て存する皆のものであるとするとき、入城はその昔の奇矯な るに駕くでもあらう。併しながら激高憤値者と絶封的無とはそれほどに矛盾し背反する首渾ではない。珊想が故 高低借着であるといふとき、それは低値畢的見地に於ける弼想の規定であり、それが結局範封的無に於て布推す るものであるといふとき、■それは好泰螢的見地に於ての理想解繹だからである。即ち慣値轟的見地に於ける最高
憤値窟が存在拳的見地では絡封胡鍵と解されるので参る。 姦重なる道徳的慣値の軍規完成がかて絶封的無に於て存凄するぢのなるが故に、天空とも呼ばれる偉大なる人 格の力は、叫切の有を動かすところの絶大なる撫の力でぁるともいへるで濁らう。佃芸辞意は未だ相即的世界 の慣値著に外ならぬ。華高蕃はこれらのすべてを絶しっゝその存在を可能ならしめてゐる絶封着であり、二切の 有の奥に力強くも作する、老子の所謂﹁玄の叉玄泉妙の門﹂ともいはるペきものである。眞人と呼ばれ達人と種 せられる大人格者はかゝる紙料無の頗視野であ牒聡外ならぬであらう。それ故にこそかゝる人格者は青ばすして 人を動かし、語らすして八を感ぜしめ、行はすしセ壕化し得るのである。これ桝謂無用の用、顛馬の璃とも柄 せらるべきもの、随虚に主となる絶封無凝の大人魔窟はかくて、忘⋮をも薇せヰ二指をも動かさすし七而もよく 鵬賽萬里の大天地に自由に躍動し得る底の馬の、二切の相封有を動かす絶封無の力がこゝに最も明かに敬現せし め得られると息ふのである。 玉 、、 如け さて人はいふまでもなく、常によりよく生きる謂はゞ日新の生瀬を心域けなければならぬ。この生偶のために は常に珂想を目指して進む必要があ玖、それがためにはま・た慣他系列への正トせ認識を得てゐなけれぼならぬ。 然らばそれを認識するものは何であるべきであらうか。 普通に、倍他の高低・多寡を決定するためには、人は梢々もすればとれを直ちに貨幣憤備に換算し勝ちであ 倫理畢上の怠れられた二軍質問題 ︵一七︶ 一七
=八︶ 完
弟十客 質側壁
る。けれども純粋なる文化憤値そのものゝ系列誰得のためには1誤りこれより甚だしきはない。利宰損得の打静 的見地のみから憤備に段階づけようとする試みは、例へば生ける人間を冷き死骸として取り扱はんほどの誤りで あらうd自然料率的方法を飴りにも過重することに慣れたる現代人は、精々もすれば人生の問題をも単なる理智 によつ.て︰形式論堺畢的に而も巧利的に解決せんとする。申それ故にすべてのものを兜づ唯物化し、精紳的なる性質 的直別をも物質的量的差別に検算し、敵襲的磯城的原理に従って人間の問題をも解決しょうとするのである。併 しながら我々人周の生存衣は固より決して理智を以て痩飴なく割り切れるものではない。理智は精神の二鱒分の みであり、而も生命の問題に封しては飴りにも力なき質素のみである。この理智を以て生命や精紳をも唯物化 し∵人生をも自然化して〓別の問題を解決せんとするとき、そこに色々の無理が律じ、そのために多くの粥審の 生じ来ることは固よりいふまでもない。例へぼ今日n躍合に於ける赫々の憂ふべき問題も、明かにそれは飴りに も主智的となり唯物的となり功利的となりし時代思潮そのものゝ中に、その病根を有つものである。こゝに於て は世は全く光なき闇黒にまで化せんとする。偶値の系列・段階は、か1る耳管の功利的田野考盈によつては決し て正常に認識し得られるものではない。 然らば眞の慣偲系列を如蜜に認得せしむるものは何か。それは無の世界の偉大なる力を感得し、無の中に有 を、謂はゞ有の背後に無を感得するところの鵬の直観である。こⅥ直観は寧ろ感情的なるものをその根底とせる ところの純なる叡密約働きと見ることができる。かうし潅無の力即ち人間以上の力を感得し、無の申に有を、即ち紳の申に人間を見るところの叡智的直胡が、道婚約偶他組織に於ては特に黒夢碩せられなくてはならぬ∂アリ
ストテレスに於ても道徳的債倍認識は叫の直覚力であるとされた。即ち人は直覚即ち彼のいふ吉富、伽によつて
善意正邪の直別をなすことができるとされた。このアイステーシスは単なる感兇ではなく、美的要素を食んだ慣
値認識能力である。カントが無上令法を各人に直覚的なものであるとしたことや、シエーラーが慣値認識め能力 ︳として本質直観払如きものを拳げたことも、固よりいふまでもない。
かくて叫般に、瑚智的考畳の前に我々の金将紳の内奥に閃き来る叡智的感得が、絶封無への銀き直覚をもな
し、償備についての正しき判断をなさしめるのである。この令精神の道徳的方面への閃き即ち艮心の叫びは、形
式論理単によつて規衰される理論的冊界の此岸に存してゐる所謂純粋感情の聾である。この純粋感情は勿論私情
ではない。私情は盲目であり随って瑠智と背反するが、純粋感情は寧ろ埋智の根底にあつてその恨を開くもので
ある。例へぼ、何専のおはしますかは知らねども云々の心持ちの如きである。頗の偉大なる力の感得がこ1には 充溢し切ってゐる。か1る艮心の閃きが我々にとつて何が債値あり慣借なきかを如資に感得せしめるのである。この感得が情感的なるものを根底とする所謂叡智的直親であって、百目的なる私情の準動ではなく、。ハスカルの
、、ヽヽ いへる、論理や秩序を有てる感情の閃きである。かゝる感得や直観が、よりよく生きるために、即ちより高き低
値選歌のために、重要視されねぼならぬ。自他のかゝる感得を命垂することを忘れ勝ちなる功利的唯物的現代人
は厄ひといふべきである。それは、飴りにも理智的となり打静的となりしために、瞬簡約叫腎が冗長なる論談よ
倫理畢上の怠れられた仙登嬰問髄 ︵仙九︶−九り造かに多く意味庖赦し縛ることや、無言の⊥涙が欺訴耽泣よりもよや多くの感動を輿へ由ることを忘れたる心 理に根ざしてゐる。我々は純なる直覚感得の甚だ洗き意味を有つものなることを決して怠るべきでは凌い9かふ る直覚的力は勿論科挙的訓練を経たからとて鋭敏に働かせ得る如きものではない。それは明月の如き朗々たる心 境と凝光の如き腰々たる眞心とからのみよく閃き出づる仙種の露光である。それ故にかゝる直覚カは心の清く誠 意牒ものにのみよく輿へ得られ、さう⊥てかゝるもの匿は何人にも輿へ得られるものである。かく何人にも許さ ︳ヽ 丸得る心の働普が、我々にとつてよりよく生きるために必嬰な憤傍系列の如嘗の認得をなさしめるのである。こ ㌧収入は何人と雄も至高沓に参興し、人格向上の一膳を辿り鋳る所以がある。かくて、この純粋感情の直僚を重 んじ、偵値系列の認識を明かにすることが我々の向上生餌にとつて何よりも必要な條件でなけれぼならぬ。かく することによつて我々は人生の理想たる神聖なるものへの参輿とその自己嘗現に向つて日新の生活を撞けゆくこ とができるのである。このため匠は、例へば敬神や尊皇に於て見られる如く、何よりも党づ眞心を必要とするこ とも固よりいふまでもない。 私は道蝕的存在領域に於ける絶封的無の世界及びその認識者としての直靭の現象畢的解繹即ちその癖夜襲的解 明を以て、伶埋輿上の忘れられたる一畳質問超なりと思惟するものである。︵了︶ ● 弟十巻 弟.一班 ︵こ○︶ こ0