No. 52, pp. 167−172, 2002
概 念 の 探 究
一ブラソドムのArticulating Reasonsにみる推論主義的研究プログラムー
斎 藤浩文
Inquiries into Concepts
一 On the lnferentialist Research Program of Brandom’s A rticulating Reasons 一Hirofumi SAITO
1 ,ロバート・ブラソドムのArticulating Reαsons(2000)は、先に出版された大部の著作Mαleing It 敢ρZ‘厩(1994)において詳細に展開されている彼の独創的研究プログラムへの導入的著作であり、一 貫した重要性を持つ諸論点に関して、一般の読者にもアクセシブルなスタイルで議論が展開されてい るQ(1) 彼のプログラムの中心にあるのは、まずもって「概念に関する探究」すなわち「概念の使用および 内容に関わる探究」である。概念そのものの本性(言語と概念の関係、概念の内容をいかにとらえる か、など)の解明、および概念のさまざまな文脈における使用の諸相(たとえば、知覚の場面におけ る使用、行為の場面における使用、など)の解明を軸に据えることによって、彼のプログラムは、,’賦 言語、知覚、行為といった哲学の多くの問題領域を横断する形で展開可能なものとなっている。 長めの序論において、ブラソドムは哲学における他の研究プログラムや他の立場と比較するという 方法で、自らのプログラムと立場を特徴づけようとしている。序論の前半を割いて、ブラソドムは、 九つのポイントを取り上げている。以下では、それらを、相互の連関がなるべく明らかになるように 補足的な議論を加えつつ概観することにしたい。 まず、最初に取り上げられているのが、概念を議論の対象として真剣に取り上げるたあの、いわば 方法論的態度選択である。ブラソドムのプログラムでは、 1.概念を使用してなされる過程を概念抜きの過程に同化させようとするのではなく、むしろそれら (1)とはいえ、この著作も、独特なプログラムを扱っているという点で当然ながら、その全体像は決して理解し やすいものであるとは言えない。そこで、筆者は先に、斎藤(2000)において、プログラムの中核となる新しい 意味論的枠組みに焦点を絞り、とくに単称名の意味論を取り上げて議論を試みた。本稿では、むしろプログラ ムの全容を見渡すことこそが目指される。168 斎 藤 浩 文 の間の差異を明らかにしょうとする。 ここで、想定されている反対陣営には、現代の物理主義的な心の哲学者達がいるといってよいだろ う。概念を用いて行われている判断や行為といった心的過程が、概念の働きを含まない単なる物理生 理的過程と本質的には異ならない、とする物理主義者と一線を画し、ブラソドムは、むしろそれらの 問の区別を前提した上で、その差異をもたらすものに焦点を当てようとするのである。 しかし、概念なるものを前提して出発するとはいえ、その本性、とりわけその内容のあり方に関し て、あらかじめ何らかの方法で特定しようとしたりはしない。この意味で、ブラソドムのとる立場は、 2.概念内容にもとづいて概念使用の諸相を説明しようとするプラトニズムではなく、概念使用の実 践から概念内容の説明にアプローチするプラグマティズムである。 プラトニストは、たとえば、(いくつかの概念の組み合わせによって構成された)命題の内容を、 可能世界の集合、あるいは他の仕方で定められた真理条件と同一視しょうとするだろう。その上で、 彼らは、そのように特定された内容が、当の命題の使用の文脈といかなる仕方で結びついているのか を説明しようとする。(プラトニストとして、フレーゲ、ラッセル、カルナップ、タルスキの名が挙 げられている。)これに対してプラグマティストであるブラソドムは、まず概念使用の実践場面から 出発する。概念使用の諸相こそが、当の概念に内容を与えると考え、それがいかにして行われるのか を説明しようとするのである。 それでは、概念使用の実践なるものはどのように(どこに)求められるべきだろうか。ブラソドム は、 3.概念使用の場所(すなわち志向性の働く場所)を「心」だけに求めるのではなく、「言語」にも 求めようとする。 たとえば、信念をもっことと主張をすることは表裏一体の関係であり、一一…一方だけを他から独立させ て理解することはできない。言語への注目は、もちろん「言語論的転回」を経た分析的言語哲学の流 れと軌を一にするものである。この点で同志であるところの言語論的プラグマティストとして、後期 ウィトゲンシュタイン、クワイン、セラーズ、そしてダメットとデイヴィドソンの名が挙げられてい る。しかし、たとえばデイヴィドソンが、概念使用を言語的実践との関係を考慮して捉えるべきであ ると主張する関係的な言語主義にとどまるのに対して、ダメットは、概念使用を言語的実践のみにも とづいて理解しようとする、いわば純粋な言語主義の立場をとる。ブラソドムのプログラムは、この 点で、関係的言語主義に与することになる。 さて、このように言語的実践との関連のもとで理解された概念使用の実践によって説明されるべき 概念の内容とはどのようなものであろうか。ブラソドムの概念内容の捉え方を独特なものにしている、 最も特徴的なテーゼが次である。ブラソドムのプログラムは、 4.概念的なものの特徴を、受動的な表象作用に求める表象主義ではなく、暗黙的なものを明示的に する能動的な表現作用に求めようとする表現主義である。ただし、概念的・言語的な表現をもって 明示的なものとみなすという意味で、合理主義的な表現主義である。 言語表現の意味や概念の内容に関する表象主義的な捉え方は、デカルト以降、常に支配的なもので ありっづけており、現在の分析哲学の基調である経験主義の立場とも密接に結びついている。経験主 義においては、直接的な知覚経験こそが概念的な理解のパラダイムであり、知覚の場面における外的
な対象とそれを表象する概念や言語表現の間の関係がそのまま、意味論的な関係の基盤として取り上 げられることになる。 これに対して、表現主義によれば、たとえば、内的感情を何らかの外的な振る舞いによって表現す るといった場面にこそ、意味論の起源を求めるべきである。(2>もちろん、単なる感情の表出のような 場面のみをモデルにして、概して振る舞いよりもはるかに複雑な、概念や言語表現の持つ高度な内容 を十全に説明することはできないように思われる。しかし、表現というものを、単に内なるものを外 に表す過程というよりはむしろ、暗黙的なものを明示化する過程として捉え、暗黙的な志向的状態に 対して概念的な表現、言語的な表現を与えることこそが明示化であると考えることによって、表現関 係を意味論的関係の基盤とみなすことが可能になる。ここでは、いわば概念や言語表現の持つ複雑さ そのものが、その内容の複雑さを支えている。もちろん、一つ一つの概念や言語表現は、必ずしもそ れ自体として(たとえば形態的に)複雑なものである必要はない。注目されるべきは、複数の概念や 言語表現の間に成立している関係である。 そもそも、概念的なものを非概念的なものと区別するという問題に対しても、表象主義と表現主義 では、全く異なる対応をみせるだろう。表現主義は、 5.概念的なものを特徴づけようとする際、概念のもつある種の内包性に注目しようとする内包主義 ではなく、むしろ、概念使用実践における推論的な分節に注目する推論主義をとる。 内包主義による特徴づけとは、経験主義的・表象主義的な意味論が、自然にコミットしているもの である。表象主義では、単なる名辞や単称文の意味を問題にする限りでは、内包性の問題は現れない。 同じ指示対象を持つ二つの名辞は、意味論的に全く同じ役割を演ずるだろう。(3)しかし、たとえば、 信念の内容に関しては、その言語的表現に含まれる名辞を、同じ指示対象を持つ名辞で置き換えるこ とはできない。名辞に対応する内容は、単なる外延的な指示対象の表象によるものとしてではなく、 内包的な成分を含み持つものとして考えなければならないことになる。 これに対し、表現主義では、単なる名辞や単称文の意味であれ、信念の内容であれ、それを表現す るものの扱いに原則的な差はない。意味や内容を捉えるにあたって重要なのは、それを表現するもの が他の表現との間に持つ関係一一一推論的関係一一一である。単称文であれ、信念を帰属する文であ れ、それらは言語実践の中で、一定の推論的な役割を持つ。そしてこの事実こそが、文に意味を与え る。もちろん、これは、外延的な文脈と内包的な文脈の区別を無視する、ということではない。単称 文の持つ推論的役割は、信念帰属文の持つ推論的役割とは、異なる性格を持つ。したがって、これら の文の間の違いは、推論的役割の違いによって説明されることになるのである。(4) かくして、表現主義においては、経験主義者が採用している表象主義的な意味論の枠組みζは異な る、新しい意味論の枠組みが採用されることになる。(5) 表現主義。推論主義と表象主義がコミットする意味論的枠組みの違いは、次のような方法論的な違 いを導くことになる: (2)このとき、内的な感情と外的な振る舞いの間の関係について、振る舞いが感情を表象している、という具合 に表象主義的に解釈することも一見可能であるように思われる。しかし、それは’.適切な解釈ではない。振る 舞いは感情を表象することによって内容をもつに至るのではなく、むしろ、他の振る舞いとの連関のもとでは じめて、感情の表現たることが可能になる。したがって、その連関のもとではじあて振る舞いの内容が説明さ れるに至るのである。 (3)ここでは、簡単のため、概念の内容の問題と言語表現の意味の問題との両方を並行的に語ることはやめ、もつ ばら意味の問題として取り扱うことにするが、この態度は、基本的に関係論的な言語主義の立場から正当化さ れると考えてよいだろう。 (4)ブラソドムは、さらに、表現という実践が推論的な分節を持つか否かが、その表現の内容が概念的であるか 否かに対応していることを示唆している。
170 斎 藤 浩 文 6.推論という形での概念使用は、命題的な内容をもつ主張、信念、思考といったものの中に位置付 けられる。したがって、推論主義は、概念的なものを命題のレベルから捉えようとする、上からの アプローチであると言える。これに対して表象主義は、名前とその担い手との関係に代表される指 示のパラダイムによって動機付けられており、単称名や述語のような、文より小さい単位の表現の もつ内容にもとづいて、命題や推論に説明を与えることが必要となる、いわば下からのアプローチ である。 さらに、これは単に方法論的な差異にとどまらない。明らかに次のことが含意される: 7.表象主義が意味論的原子論にコミットするのに対して、推論主義は意味論的全体論にコミットす ることになる。 形式的な意味論は、一般に原子論的に構成される。すなわち、個々の表現への意味論的解釈が、他 の表現への解釈とは独立に与えられるような形で構成される。個々の表現における表象の働きを基本 概念とする表象主義的な立場においては、これは全く自然なことである。それに対して、推論主義で は、ある表現の意味論的解釈は、相当数の他の表現との推論的関連を考慮に入れてはじめて明らかに なるのである。(6) このようなブラソドムの(合理主義的な)表現主義を、伝統的な表現主義とあらためて対比すると: 8.内的な感情の振る舞いによる表現といったものをパラダイムとする伝統的な表現主義とは異なり、 合理主義的な表現主義において、表現すなわち明示化とは、概念的な分節化のことであり、推論的 な役割をあきらかにすることである。明示的に述べられていることを理解するということが、いか に推論すればよいかを暗黙のうちに知っていることとして説明される。 この、「概念的な分節化によって推論的な役割を明らかにする」という主題こそが、Articulαting Reαsonsという本書のタイトルの由来であり、「明示化する」ことの重要性が、 Mαhing Jt Explicit という前著のタイトルにおいて示されている。 そして、これらの観点は、論理に対する見方をも変えることになる一すなわち、論理に対する表現 主義の主張である: 9.論理が証明によって真理を確立するための認識論的な道具である、という通常の見方とは異なり、 論理はそれなくしては明示化できないものを明示的に述べるたあの道具であるという見方が成立す る。 (5)この意味論的な枠組み自体は、必ずしもブラソドム独自のものというわけではない。後期ウィトゲンシュタ インに帰せられる「意味とは使用である」というテーゼを、意味論的概念の理論的取り扱いに組み込もうとし たダメットや一部の概念役割意味論者による意味の理論では、意味を決定するものとしての推論的役割への言 及が明らかである。しかし、ブラソドムがこれらの論者と快を分かつのは、推論的な役割が概念的なものとい かなる点で結びついているか、というところである。ブラソドムにとっては、推論的な役割こそが概念の徴表 である。他の論者は、概念的なるものについて、そのような見解をもつわけではない。(ただし、ブラソドムは、 ウィトゲンシュタインやダメットをデューイやクワインとひとまとめにして、自らとは立場を異にする意味論 者として言及しているが、これは、いささか誤解を招く論述であると思われる。) (6)ここで注意しておかなければならないのは、ここでの「全体論」は原子論に対応する意味での「全体論」で ある。推論的な分節に注目し、したがって、内容の単位を命題と命題の関係のレベルで捉えようとすることが、 必ずしも、内容を考える際に言語ないしは概念のシステム全体を考慮に入れなければならないということは意 心しない。すなわち、ブラソドムは意味論的分子論を排除していない。
論理に関するこの見方は、たとえば、論理体系に対するモデル論的な意味論の観点からは、全く異 質なものであると言わざるをえない。モデル論的な意味論では、そもそも、論理が認識論的な道具で あるということすら反映されていない。証明論的な意味論の観点も、一般には、論理を認識論的な道 具として捉える、ここでいう「通常の見方」にとどまるものである。の ll . 以上の諸論点をごく簡潔にまとめてみよう。ブラソドムのプログラムは、一言で言えば、概念の本 性に対する合理主義的探究のプログラムである。概念のもつ働きを言語的実践をも視野に入れて捉え、 概念や言語による表現作用に注目することで、表現の間の合理的な関係 すなわち推論的関係にも とづいて、概念の本性やその内容に説明を与えることが可能になる。 彼の合理主義的研究プログラムが、20世紀分析哲学の経験主義的性格に対する批判を出発点とし ていることは明らかである。(8)分析哲学の経験主義的性格のある種の帰結、たとえばクワインの翻訳 の不確定性や分析性概念の全否定といったような極端な帰結については、近年、ボゴシァン、ジャク ソンらをはじめとする論者によって、しばしば批判的検討が加えられるようになってきた。それらが、 経験主義に対する、いわば経験主義の陣営の内部からの批判であるのに対し、「合理主義的」とみず から名乗りをあげたブラソドムの批判は、ある意味で外在的な批判にとどまるものと言わざるをえな い。しかし、研究プログラム自体のあり方をみると、さまざまな局面で、経験主義的プログラムと接 点を持っていることがわかる。それらの接点において、今後さまざまな形で、双方のプログラムの明 確化にとって有意義な議論が展開されることが期待される。 皿.付録 最後にArticulαting■Reαsonsの章ごとの概要を見ておくことにする。以上で述べてきたプログラ ムの基本的論点を念頭においてみれば、容易に全体の構造がみてとれるだろう。 第1章「意味論的推論主義と論理的表現主義」では、本書の全体にわたって重要な二つの基底的ア イディアが述べられる。一つは、命題が概念的な内容をもっということが推論において役割を演ずる ことにほかならない(意味論的推論主義)、という考えであり、もう一つは、論理的な語や概念の本 質がそれらの推論的な役割を明示的に表現する働きにある(論理的表現主義)、という考えである。 第2章および第3章ではこの基底的なアイディアの、行為論、知覚論への適用が議論される。 まず第2章「行為、規範、実践的推理」では、行為論が扱われる。行為者の欲求(および信念)か ら行為を説明しようとするヒュームーデイヴィドソンのアプローチでは、実践的推論もまた、欲求に もとづいて説明される。しかし、推論主義によれば、説明の順序が逆になる。あるパターンの実践的 推論へのコミットメントこそが、欲求を説明し、ひいては、行為を説明するのである。また、実践的 推論はその結論に規範語(たとえば「べきである」)を含むが、このような規範語の使用によってそ のコミットメントが明示化されていると考えられる。 第3章「信頼可能性主義の洞察と盲点」では、知覚に関する認識論がテーマとなる。経験主義的な 認識論では、赤いものを前にして「赤」の概念を適用する、といった非推論的な、しかじ信頼可能な (7)証明論的な意味論において「証明可能性」が中心的な概念である限りにおいては、こう言わざるをえない。 しかし、たとえば「証明」そのものを中心的な概念とするような証明論的意味論が可能であるならば、その観 点は、ブラソドムのプログラムと親近性を持つものとなるかもしれない。 (8)このプログラムの目指す「経験主義」から「合理主義」への移行は、ローティーによって、分析哲学におけ る思考と行為への「カント的アプローチ」から「ヘーゲル的アプローチ」への移行と評されている。
172 斎 藤 浩 文 応答のプロセスを、知識獲得の基盤として考えようとする傾向が強い。そこでは、一見推論的な正当 化は役割を演じていないように見える。しかし、そう判断するのは実は適切ではない。概念と対象の 間の信頼可能性関係は結局のところ、概念の推論的な分節を前提にしてはじめて十全な形で与えられ るのである。 第4章および第5章は、推論主義がもっとも直接的な論敵とみなす表象主義をめぐる議論であると 言えるだろう。これら二章を通して、推論主義の立場から表象という現象に説明を与え、したがって、 表象を(いわば現象として)認めるとしても、表象主義をとることが決して不可欠なのではないとい うことを示すことが意図されている。 まず第4章「単称名とは何か、そしてそもそもなぜ存在するのか」では、表象主義のパラダイムで しばしばもっとも基本的なものとして扱われる単称名が取り上げられる。まず、前半では、単称名へ の代入推論に注目し、そこにおける推論的役割の違いによって、単称名と述語の違いが説明される。 この結果、推論主義においても、表象主義における単称名の扱いに劣らない扱いが可能であることが 示される。後半では、条件法および否定を含む推論に注目することを通して、単称名と述語の区別が、 これら論理演算子の存在と密接な関連をもっことが示される。すなわち、これらの区別は、否定や条 件法を含む程度に豊かな言語実践のなかでは、必然的に生じるものなのである。 第5章「推論から表象へいたる社会的なみちすじ」では、「∼について性」(aboutness)という概 念が推論主義的観点から説明される。手がかりとなるのは、「∼について」(about, of)という表現で あり、さらに重要なのは、自然言語においてもっとも明示的に表象に関わる、事象様相(de re)の命 題的態度を含む文である。事象様相を含む文の推論的役割の特徴は、それらの文が、そこでまさに語 られている「もの」に関して、異なる人の間での意思伝達を可能にするというところに求められる。 すなわち、命題の内容に関する表象的な次元は、それら命題間の推論的連関が関わる社会的な構造を、 反映したものとなっているのである。 第6章「客観性、および合理性のもつ規範的な微細構造」では、推論的な実践を律する規範に関し てさらに議論が進められる。そこでは一種の主張可能性を中心概念とした意味論のアイディアが追求 される。実践の中で注目すべき規範的な状態は、主張によって帰結するコミットメントをひきうける という場面と、主張を行うための権利としての理由を持つという場面に現れる二つの状態であり、こ れら二種類の規範的状態が、さまざまな形で現れることによって展開される、広い意味での推論的な 関係こそが、合理性のもつ規範的な微細構造なのである。この豊かな構造の上では、たとえば、論理 や意味論に関しても、従来とは異なる新たな展開の可能性がひらかれる。 文献 Boghossian, P. A. (1997) ’Analyticity Reconsidered’, IVous, 33(3), 360−391. Boghossian, P. A. (1997) ’Analyticity’. in B. Hale and C. Wright(eds.), A Companion to the Philosophy of Language, Blackwe]1. Brandom, R. (1994) Making lt Explicit, Harvard. Brandom, R. (2000) Articulating Reasons, Harvard. Jackson, F. (1997) From Metaphysics to Ethics, Oxford. 斎藤浩文(2000)「哲学的意味論への推論主義的アプローチ ロバート・ブラソドムの単称名に関す る議論を手がかりとして 」、滋賀大学教育学部紀要(ll:人文科学・社会科学)第50号、 69−75頁