世界一の「鳥」ノベルティと自社ブランドづくりを
めざした大東三進(株)(DAITO)の経営・技術・
文化
著者
十名 直喜
雑誌名
名古屋学院大学論集 社会科学篇
巻
40
号
4
ページ
35-79
発行年
2004-03-31
URL
http://doi.org/10.15012/00000814
Copyright (c) 2004 十名直喜名古屋学 院大学論集 社会科学篇 第40巻 第4号 (2004年 3月)
世界一の「鳥」 ノベルティと自社ブランドづ くりをめざした
大東三進側
(DAITO)の
経営・ 技 術・ 文化
十
名
直
喜
目 次 1. 1まじめに2.DAITOの
経営革新 とその沿革3.大
東三進 ノベルティ部門の仕事ぶ りと職場事情一―経営者・ 技術者像を通 して一4.ノ
ベルティ部門の生産革新と海外戦略5.大
東三進 ノベルティエ場の今昔 6.「ノベルティ。こども創造館」 としての再出発一旧工場の新たな船出―7.お
わりに1.は
じめ に 愛知県瀬戸のや きもの 1,300年 の歴史の中で, 瀬戸 ノベル テ ィ (セ ト・ ノベル テ ィ)の
歴史, その成立・ 発展・ 衰退の歩みはここ1世紀 の出 来事 にすぎない。大正時代か ら昭和時代 にかけ て黄金時代を築 くが,瀬
戸 の陶磁器製玩具・ 置 物類 に「 ノベルテ ィ」の呼称が付 けられたのは, 戦後 の ことである。輸出が主で,特
に北米中心 に輸 出 された。1950∼70年
代 の最盛期には, 瀬戸 の各 メー カーは戦前 の ヨー ロ ッパ製 品 コ ピーか ら脱 して独 自製品の開発を進め,全
国生 産額 の5割
以上 を 占める瀬戸の最大産業に発展 した。 か くも繁栄 した瀬戸 ノベルテ ィは,1980年
代 後半以降,な
ぜ急速 な衰退を余儀 な くされたの であろ うか。1ド
ル100円に迫 る異常 なまでの 円高 の急進が,労
働 集約 的産業 で あ る ノベル テ ィに深刻 な打撃を与えたことは想像に難 くな い。 しか し,果
た してそ うした外在的要因だけ で,欧
米輸出が壊滅 して しまうものであろう か。むしろ,内
在的要因のなかにより本質的な ものが潜んでいる。その一つは,オ
リジナル・ ブランドの未確立である。円高の下で価格競争 から品質 。ブランド競争ヘシフトできなかった のも,独
自ブランドを確立するまでには至 って いなか ったからといえる。北米輸出の大半は, 米国バ イヤーの注文や情報に基づ く下請的生産 という,最
も安易かつ劣る方法に依拠 してきた といえよう。瀬戸 ノベルティは,北
米市場にお いて比較的安価な大衆品,精
々中級品として受 け入れられていた。 もう一つの内在的要因として,1970年
代に加 速 した台湾や東南アジアヘの技術移転 と,そ
れ を促 した瀬戸 ノベルテ ィの高度な分業構造1が あげられる。 とくに,「型屋」とよばれる製型業 者が海外に出て行 くと,(製
品設計 ノウハ ウの 凝縮 した)「原型」の流出も容易になり,優
秀な 窯業機械の輸出などと合わさって,
ノベルティ 生産の各種 ノウハウが比較的容易に海外に流出 しアジアから北米への代替輸出が進んだ。 「 ノベルテ ィ」 という言葉は,
日本では陶磁 器分野における業界用語 として流通 して きた が,市
民権を得 るまでには至 っていない。むし ろ,「広告 ノベルテ ィ」という意味で市民権を得ることにな る。皮肉にも
,そ
れは陶磁器製 ノベ ルテ ィが最大 の輸 出額を記録す る1970年代後 半 の ことで あ った。一方,英
語 のnoveltyと い う言葉 は,北
米 の通信販売 カタログでは目先の 変わ った斬新・ 珍奇 な商品で,布
地・ 玩具・ 小 物 などの分野 で使 われ,廉
価 な もの 。大衆品を 意味 していたのである2。 瀬戸 ノベルテ ィは,マ
イセ ン磁器やハンメル 人形の模倣品・ 代替品 として出荷 されたが,そ
の主 たる受入国は ヨーロッパ諸国ではな く北米 であ った。瀬戸 ノベルテ ィの主流 は,そ
の歴史 的ないきさつか らも瀬戸焼人形 に,す
なわち丸 山陶器 を は じめ とす る陶磁器製 フ ィギ ュアに あ った とみ られ る。 そ うした中にあ って,「鳥」 ノベルテ ィ,そ
れ もで きるだ け現実 の生 き物 に近 い写実 的 な も の,に
特化 し,そ
の分野の世界一をめざした ノ ベルテ ィ0メー カーが瀬戸に存在 した。「鳥」 ノ ベルテ ィでは 日本で追随を許 さなか った大東三 進m(現
在 はDAITO)が ,そ
れである。同分野 で は世 界の トップ クラスで あ る米国 ボーェム 社,西
独 カイザ ー社 に遜色 のない品質水準 に到 達 す る。米 国市場 での シ ェアを伸 ばす ととも に,そ
の高級化,
さらには 自社 ブ ランドづ くり に力を入れ る。 こうして,大
東三進ブ ランドで ヨー ロッパに輸出す るに至 るのであるが,そ
れ は瀬戸 ノベルテ ィでは極めて稀 なことであ っ た。 大東三進にみるノベルティの高級化,欧
米市 場への進出と自社ブランドでの輸出は,円
高の 進行する1970年 代以降のことである。それは, 円高によって低迷を余儀な くされる多 くの瀬戸 ノベルテ ィ・ メーカーとは好対照をなすもので あった。 円高が進むなか,大
東三進はどのようにして 高級化を推進 したか,そ
れを可能にした経営戦 略および技術は何か。北米・ 欧州市場の精力的 な開拓は,ど
のようにしてなされたのか。 しかし,そ
の大東三進をもってしても, 1ド
ル 100円 を超え る異常円高には抗 いようもな く,つ いに 1996年,ノベルティ部門をシャット ダウンするに至るのである。歴史に仮定は許 さ れないが,もしも異常な円高高進が10年遅か っ たならば,大
東三進は自社ブランドを確立 して 品質・ ブランド競争へのシフトを果たし,世
界 有数の「鳥」 ノベルテ ィ・ メーカーに脱皮 し円 高を乗 り越えていたかもしれない。そうした可 育帥生を秘めたメーカーであった。 大東三進の「鳥」 ノベルテ ィ製品群の魅力, とくに精`厚な白頭鷲に魅せられた筆者は,同
社 の技術 と経営がどんなものであったのか調査 し てみたいという思いを持ちなが らも,な
かなか1
瀬戸には,「陶土採掘業」をはじめ「土屋」,「素地屋」,「絵付屋」などの製造工程,さらには「原型業」,「製型業」, 「窯業機械製造業」などの関連工業に至る発達 した多様な分業構造が形成 された。 このうち,原型をもとにして量産 できるような型をつ くっているのが「型屋」(「製型業」)である。型は石膏型 と金型があって,と くに石膏の製造業 者が多い(瀬戸市小中学校社会科研究会編『瀬戸 (7訂版)』 瀬戸市教育委員会,1990年)。 なかで も, ノベルテ ィは分業の程度が高い。一貫 メーカーといわれる企業においてさえも,全工程を一貫 して生 産 している企業はほとんどない。 とくに分業が著 しい工程は,製土,素地,絵付けおよび絵柄や原型のデザ インエ程 である(今尾雅博「 ノベルテ ィ部門の構造 (生産構造)」 名古屋学院大学地域研究会編『瀬戸陶磁器産業の研究』名 古屋学院大学産業科学研究所,1982年)。2
増淵宗一「瀬戸の人形 。玩具・ ノベルテ ィ その文化交流・ 文化摩擦」 日本人形学会誌『かたち 。あそび』恥L8, 1996。-36-世界一の「鳥」 ノベルテ ィと自社 ブ ランドづ くりをめざ した大東三進い
(DttTO)の
経営・ 技術 。文化 果たせないでいた。その惰眠を破 ったのが,同
社 ノベルテ ィエ場施設が瀬戸市 に買い上げ ら れ,「ノベルティ。こども創造館」に衣替えし再 出発するというニュースであった。 しかし,
ノベルティエ場が閉鎖 されてすでに 7∼8年
経ち,携
わった経営者や技術者はほと んど退職 され,資
料 もほとんど残 っていない。 調査の着手 に遂巡す る筆者の背中を押 したの は,「ノベルティ。こども創造館を意味あるもの にするためにも,ぜ
ひ調査 しまとめてはしい」 という鶴勲氏の熱心な勧めと助言であった。幸 いにも,DAITOの
経営者,お
よび同社 ノベル テ ィ部門の元・ 経営者や技術者,
さらに瀬戸市 産業観光課および「 ノベルテ ィ。こど も創造 館」の関係者,
日本陶磁器工業組合の幹部など にヒア リングする機会に恵 まれる。 また,20数
年前の同社 ノベルテ ィ部門の最盛期に同社をヒ ア リング調査 した論文,当
時の米国陶磁器輸入 関税資料などにも出会 うことができた。 こうし た時空を超えての選近などをもとに,上
記のよ うな問題意識からまとめたのが小論である。2.DAITOの
経営革新 とその沿革
2.1.DAITO本
社の見学0ヒア リングDAITOは
,今
や焼却炉 メーカーで知 られる。 瀬戸市の暁工業団地にあるDAITO本
社を初め て訪れたのは,2003年
4月 1日 14時 過ぎのこ とである。14時
の約束 より少 し遅れて恐縮 し ながら到着すると,常
務の加藤和光氏 と(紹介 の労をとっていただいた)鶴
勲氏に,玄
関のロ ビーまで出迎えていただいた。 ヒア リングに応対 していただいたのは,専
務 の二宮和利氏 (57歳)で
ある。先代社長の時代 か ら焼却炉畑中心にや って きて,1司 社の生 き字 引のよ うな方である。陶磁器部門については, 泉町の総務・ 経理 を担 当 した経験 しかない とい われ るが,同
社 の経営 の中に位置づ けマ クロ的 に捉えることの出来 る貴重 な人材 といえよ う。DAITOは
,焼
却炉が中心 の メーカーである。 や きもの (ノベルテ ィ)は
,創
業 の母体ではあ るが,や
きものに関する同社の資料 はほとんど 残 って い ない とい う。二宮 氏 か らは,DAITO
の経営の沿革を中心 に,そ
のアウ トラインを伺 うことが出来 た。途中か ら,総
務部 の井上滋樹 部長が同席 され,見
学 の際はお二人 に案内 して いただいた。 ノベルテ ィ・ シ ョールームDAITOビ
ル と隣接工場 を回 ったが,そ
の中 で と くに目を引いたのはビル3階
にあるシ ョー ル ームである。泉町の ノベルテ ィエ場 の 2,3階 にあ ったシ ョールームの主要 な展示品が,
この 本社 ビルに飾 られ,な
か なか壮観 な趣を醸 し出 している(図表1)。1ド
ル240円時代 に約5千
ドル した「白頭鷲」 などが展示 されている。鷲 は,ア
メリカ合衆国の国鳥で,米
国市場ではよ く好 まれたとい う。 大東三進の ノベルテ ィ 0カ タログ 大東三進株式会社 の カタログ3には,多
彩 な 動物を描いた各種の ノベルテ ィ製品が掲載 され てお り,往
時が偲ばれ る。 カタログには,多
様 な製品が ジャンル別に並んでいる。同社の最高 水準 の別格商品は,精
惇 な迫力が漂 う大型サ イ ズ (高さ×幅cm:53× 33,51× 56)の
「 ハ ク トウワシ」2点
である(図表2)。 今では非売品 とな っているそれぞれに,60万
円,50万
円の値 段がつけ られてお り,数
千円か ら10万 円以 内の 値段がつけ られた他 の小型製品群 とは,サ
イズ3
ブく:東三数筐(彬末)パンフレット『DAITO Ceramic Art Collectior」 19901年。図表1 出所: DAITOビ ルのシ ョールームを飾 る同社 ノベルテ ィ製品群 筆者撮影
(200& 4.1)
-38-ヽ、ふ0し 'ヽ ■薔犠― 幸隆
●攀=世界一の「鳥」 ノベルテ ィと自社ブ ランドづ くりをめざ した人束二進い
(DAITO)の
経営 。技術・ 文化図表2
出所:
人束 i進 (株
)の
カクロクにみる lIK高級商品11(′ヽク│` ウワン
211
も値段 も別格であ った。 鋭 い眼差 しの「翔―鷲・ 隼 シ リーズー」
,次
ページは「優一 セレクトシ リーズー」で コウノ トリやハ ト,
カナ リヤ,キ
ジなど鮮やかな,あ
るいは清楚 な装 いの鳥 たちが飛び廻 る。「雅一 松竹梅・ 翔・ 花 見鳥 シ リーズー」 は,ダ
ンチ ョ ウ, スズ メ, ウグ イス,ハ
クチ ョウ, トキなど 花 の美 しさに憧れ た鳥 た ちが登場 す る。「彩一 一輪差 し・ 野鳥 インテ リアシ リーズー」,そ
し て「風一森の仲間たち一」 には ウサギ,
フクロ ウ,キ
ツネ,ア
ライグマ,
リスなどのかわいい 動物が並び,「愛一犬・ 猫 シ リーズー」で締 め く くられている。 別格 の「ハ ク トウワシ」2点
をは じめ多 くの 製品が,シ
ョール ームに展示 されてお り,精
`厚 な,あ
るいは愛 くるしい野鳥等が一堂 に集 い壮 観 な趣を醸 し出 している。2.2.陶
器 メー カーか ら焼却 炉0陶磁器 メー カーヘ発展 「三進舎」設立か ら「三進陶器株式会社」ヘDAITOは ,1935年
に丼上時氏が創業 した も のである。法人格 のない「三進舎」(個人経営)と して スター トし,瀬
戸市新道町において輸出用 陶磁 器 の製造 を手 が けた。1950年には法人化 して,社
名 も「三進陶器株式会社」(初代社長: 井上時)に
変更す る。新道町に総務,経
理,人
事,営
業,シ ョールームなどの本社機能 をおき, 主力工場を泉町に移転す る。泉町の工場 レイア ウ トの図面は,「創友設計監理事務所」がつ くっ た ものである。杉塚町の工場 は社員寮に変わ っ た。 陶器 を製造 し始 めた当初 は,安
い ものを手が けていた。高度成長に入 る頃 までは,そ
れで も うま く回 り,比
較的順調 に売上高を伸ば して き た。 焼却炉事業へ進出・ 傾斜 ところが,1961年
には売上高が5割
方ダウン し,会
社存亡の危機に見舞われた。 この時,た
またま焼却炉の下請生産を始めたのをきっかけ に,自
社開発 し独 自に製造す るよ うになる。 1962年 に廃棄物焼却炉事業に進出して,同
部門 を「大東製作所」(法人格なし)と
呼んだ。 大東三進に社名変更 し2部
門体制 1967年 には社名そのものを「大東三進」に 変更 した。「大東」の由来は,易
者にみてもらっ たところ「大東」 という名が大変良いというこ とで社名に入れたという。1992年 には再び,焼
却炉部門は「株式会社大東」に,陶
磁器部門は 「大東三進株式会社」に分社化す る。なお,DAITOの
ロゴは,そ
れ以前か ら使 っていた。 すでに,
イナ ックスがか阻Xの
ロゴを使 ってい て,そ
れも参考にしたとのことである。同社はINAXの
名で通 っているが,登
記上の社名はカ タカナ名の「 イナックス」 という。多角化の一 環 としてスター トした焼却炉事業であったが, その比重は急速に高 まり1967年 には売上高の7∼ 8割
に達 し,1968∼
92年
の間になると9 割を占めるに至る。 陶芸窯の生産 「陶芸」 という言葉をつ くった加藤唐九郎の 監修を受けて,大
東三進が個人用の陶芸窯をつ くり売 り出したのは,1970年
頃のことである。 しかし,粘
土・釉薬・絵具などをユーザー向け に調達 し配送するサービスが難 しいために撤退 を余儀な くされる。陶芸窯の引き合いはその後 もあったが,そ
の際は独自の製品をつ くってい た先輩格の森下工業を紹介した。森下工業は, 日本で最初にガス炉をつ くった会社である。商 品化の第1号
として,丸
山陶器に納入 されたガ ス炉は,現
在,瀬
戸市歴史民俗資料館に保存 さ れている。-40-世界一の「鳥」 ノベルテ ィと自社 ブ ランドづ くりをめざ した大東三進
m(DttTO)の
経営・ 技術 。文化2.3.ノ
ベルテ ィ事業の高級化・国際化戦略 磁器生産への転換と対米輸出戦略 ノベルティ事業が低迷するなかで,1963年
頃 からペーパーマッシュ(紙粘土)に
フェル トを 植毛 した製品なども手がけ,黒
猫の首振 リペ ッ トが ヒットするなど一時は流行 ったが,や
がて 下火になる。そこで,思
い切 って高級化する方 向に転換 した。焼却炉の利益をつぎ込んで,
う んといいものに活路を見出そう,そ
れでもダメ なら閉鎖するという考えである。 高級化路線への転換に際して,経
営内で激論 がたたかわされた。当時、経営 トップは,高
級 化へ踏み出す リスクヘの懸念が強かった。 これ に対 し,営
業の最前線に立つ営業部長の鈴木功 氏は,低
級品路線のままでは賃金上昇や途上国 の追い上げなどに対処できないこと,高
級化路 線 に活路を見出す ことを強 く進言 したのであ る4。 1970年 代初めより磁器生産への転換を図 り, 米国バ イヤー向けに磁器製品の出荷を開始す る。 こうして,70年
代か ら80年
代初めにかけ て,有
力な米国バイヤーを次々と開拓 し,
ノベ ルテ ィの対米輸出を拡大 してい く。 高級化路線が効を奏 して業績を持ち直し,
ノ ベルティ部門の年間売上高は 1972年1億
円→ 73年1.5億円→ 74年2億
円へと増大基調に転 じ る。 しかし,1975年
の「大不況」で売上高が1 億円へと半減 し,従
業員を30人
から40数
人に 増やしていたノベルティ部門は経営危機に直面 するのである (図表3)。 独立採算制と高級イLデ
ザイン0マネジメント この存亡の危機に際 して,今
後の存続を意思 決定 し,デ
ザ イン開発に対する思い切 った先行 投資を実施 したのは,副
社長 (当時)の
井上浩 男氏であった。 ノベルティ部門での独立採算制 を実施 し,利
益の上がる体制づ くりの基本的柱 としてデザイン・ マネジメントの確立,製
品の 高級化を掲げたのである5。 創業者 (井上時氏)の
長男である井上浩男氏 (62歳)が
2代
目社長に就任 したのは,1978
年のことである。 しかし,そ
れ以前の副社長時 代から,先
代社長 (時氏)が
会社に出てこな く なっていたので,焼
却炉部門の実質的な最高責 任者 として経営をみていた。一方,
ノベルテ ィ 部門の実質的な最高責任者は,専
務の加藤亮氏 であった。その下で,鈴
木功氏が営業部長 とし て辣腕を振るう。 大東三進の ノベルテ ィ部門の従業員数 は, 1970年 代後半になると約50人
となり,瀬
戸の ノベルテ ィ業界では中堅 クラスに位置 してい た。注文があればいろいろな品種の ノベルティ をつ くるが,R鳥
」に特化 している。それも,で
きるだけ現実の生 き物に近い写実的なもので, 付加価値の高い高級品を狙 う。 高級化するにあたっては,腕
のいい原型師を 引っ張 ってきた。それが,伊
藤春美氏である。 1957年 に瀬戸窯業高校のデザ イン科を卒業後, 同社に入社 したが,一
時期同社を離れ,1972年
頃か ら夜間のみ同社のデザ インを担当 してい た。高校の先輩でもある営業部長の鈴木功氏の 勧めもあって,1978年
には再入社する。1979 年に同社をヒア リング調査 した今尾雅博氏は, 次のように評 している。「現在は当社の高級品 の創作に専念 し,鳥
をつ くっては瀬戸の トップ クラスであると評判である。当社のデザイン開 発の中心的存在であり,今
後当社が世界一を目4
鈴木功,伊藤春美氏からのヒアリングに基づ く。5
今尾雅博「 ノベルティのデザイン開発」『名古屋学院大学論集社会科学篇』第15巻第 4号,1979年 。万 00 00 年 間 売 上 高 (円) 10,000 万 00 00 00 00 00 00 一 人 当 り 年 間 売 上 高 円 従 業 員 数 人 1972 73 74 75 76 77 78年 図表
3
大東三進 (株)ノベルテ ィ部門の従業員数 と売上高 出所:
今尾雅博「 ノベルティのデザイン開発」 『名古屋学院大学論集,社会科学篇』第15巻 第 4号.1979年 。 指 してがんばってい く際の機関車役 となるひと である」6。 伊藤春美氏の詳細については,次
章 に くわ し く紹介す る。小論を まとめるにあ たって筆者が ヒア リングしたもので,今
尾論文 から20数
年後のことである。 当時,大
東三進は,デ
ザ イン担当者を社内外 で6人
一原型師4人
(社内2人
),絵
柄デザ イ ナー2人
(社内1人
)一
擁 していた。 また,原
型に 100万 円投 じたりしたが,当
時の業界では 考えられないほどの高額であ り,「井上社長は 一体何を考えているのか」と噂になったという。 「鳥」 ノベルティで世界―をめざす 井上浩男氏は社長就任 (1978年)と
ともに, 「鳥」の分野で世界一をめざすことを宣言 した。 社員一人一人にそのスローガンを徹底 させ,品
質管理に万全を期 したのである。「鳥」 ノベル テ ィでは,米
国ではボーェムが,欧
州では西 ド イッのカイザーが世界の トップクラスに位置 し ていた。当時,ボ
ーェムと大東三進の同種製品 価格差は約3倍
あったが,両
製品の区別はよほ どの目利 きでも区別がつかないほどになってい たという7。 世界一をめざすからには,デ
ザ イン面で世界 一にならなければならない。「デザ インは ノベ ルティの死命を制するもの」 という認識を,大
東三進の経営陣 (井上浩男社長および ノベル ティ部門の加藤亮専務,鈴
木功営業部長)は
強 く抱 いていた。「デザ イナーは会社の宝」 とし て,待
遇面の改善 もさることなが ら,意
識の上 で社員に徹底 させるように努めたのである。6
今尾雅博,前傾論文。7
今尾雅博,前
傾論文。-42-世界一の「鳥」 ノベルテ ィと自社ブ ランドづ くりをめざ した大東三進閉
(DAITO)の
経営・ 技術・ 文化 同社は,デ
ザイン開発費に売上高の5%を
あ てる方針を確立 し,加
藤,鈴
木両氏 もデザイン 開発の先頭に立つ。オ リジナル0アイデアはほ とんど彼 らの頭の中から発するほどのアイデア マンで,そ
のツメは鈴木氏が していた。そのア イデアの情報源は,①
外国の雑誌 。書籍,②
デ パー トの美術品売 り場を見て歩 く,③
バ イヤー の意見を聞 く,の
3つ であった。 ①は,丸
善の洋書売場で買 ってきた書籍,営
業部長の鈴木功氏が海外視察の際に買 ってきた 雑誌。書籍などで,部
屋にかなりた くさん並び, そこからアイデアを温めていたという。②は, 月に 1回,名
古屋のデザイナーのところに行 っ た帰 りに,都
心の百貨店の美術売 り場を毎月ど こか 1店 に絞 って徹底的に観察 して くる。③は 市場に密着 しているバイヤーを「見逃せない情 報源」 として捉え活用 していた8。 泉町のノベルティエ場 リニューアル化と本社ビ ル建設 1970年 代から80年
代にかけて,
ノベルテ ィ 製品の高級化,欧
米市場への輸出,
自社ブラン ド化を積極的に進めてい く。そ うした最中の 1982年,泉
町の工場の全面的な リニューアルを はか り,さ
らに3階
建ての本社 ビルをつ くっ た。「鳥」ノベルテ ィの世界一をめざす同社の意 気込みが,ハ
ード面の本格的な整備にもうかが える。 新工場および本社 ビルには,海
外のバイヤー や地域 の親子連れなど多 くの人が見学に訪れ た。NHKの
教育テレビでも約 20分 間にわたり 放映されたことがある。それまでの陶磁器工場 は,見
た目も良 くな く作業者 も人目を気にする などもあって,気
軽に見学できる所が少なか っ た。そうした中にあって,大
東三進工場は,格
好の見学スポットになったのである。泉町の工 場 と宮里町の工場の間には公道が走 っている が,そ
の上に「渡 り廊下」が設けられ,関
係者 が行 き来 しやすいような配慮 も施 された。 海外生産・ 提携ヘ 1980年 代後半以降,急
激な円高が進行 して価 格競争力がな くなる中,国
内生産重視の大東三 進 も路線転換を余儀 な くされ る。1990年 代前 半には,つ
いに台湾に進出するのである。台湾 メーカーと提携 して,台
湾での生産に踏み切 り,数
年間は稼いだという。 また,世
界最大の 陶磁器 メーカー,レ ノックスと提携 し,1996年
3月に工場閉鎖するまで,
ノベルティをレノッ クス・ ジャパンにOEIM夕t給した。2.4.国
内向けフ ァインセラ ミック事業への挑 戦 と頓挫 フ ァインセラミックス分野への進出DAITOが
フ ァインセ ラ ミックスの商品開発 に着手 したのは,1980年
代後半 の ことであ る。 ノベル テ ィ用 お よび焼却炉用 の フ ァインセ ラ ミックス事業展開を考えていた。世界デザ イン 博 覧会 で の フ ァインセ ラ ミックス楽器 の製造 も,そ
うした中でチ ャレンジした ものである。 焼却炉 の耐火材や フ ィル ター関係 などは,窯
業 とも密接 な関係がある。 ファインセラ ミック スは,焼
却炉 と ノベル テ ィに またが る技術が基 礎 にな っている。宮里町の工場2階
に,
フ ァイ ンセ ラ ミック開発用の小 さな窯 (0.5m3)が残 っ ている。 ファインセラの窯では1,600℃ まで上 が る。 世界デザ イン博覧会に向けてファインセラミッ ク楽器の製造 1989年7月 15日 か ら 11月 26日までの 1358
今尾雅博,前
傾論文に基づ き,鈴木功氏にとア リングした。日間
,名
古屋で開催 された世界デザ イン博覧会 において,愛
知県のパ ビ リオン会場「 あいち21 世紀館」 では,世
界初の フ ァインセ ラ ミックス 楽器 による音楽 ステージも披露 され た。 ファイ ンセ ラ ミックス楽器の製造 において,先
進的な 役割 を担 ったDAITOの
意 欲的取 り組 み とメセ ナ活動 は,注
目に値す る。 陶器製のバ イオ リンはオランダのベ ンハー ク 市立美術館 に1台あるが,18種
もの楽器,し
か もファインセ ラ ミックス製 とい うのは世界 のど こにもない。全国最大のセラ ミックス産地であ る中部地域 でつ くりあげ ることで話題 を喚起 し,地
元産業 のPR効
果 に もつなげ よ うと企図 された ものである。 しか し, ファインセラ ミッ クスは,焼
成収縮率が20%前
後 あ り,切
削加工 が難 し く,曲
菅 や大 きな もの も作 りに くいな ど,加
工難度が高 いことで定評がある9。 既存 の多種類 の楽器 は,長
い音楽の歴史の中 で時間をた っぷ りかけて進化 し,洗
練 。蓄積 さ れた高度な熟練技術 によって作 られて きた もの である。 それ らをわずか10ヶ月で,全
く新 しい 材料 を使 って製 作 で きるのかが,最
大 の壁 で あ った1% セ ラ ミック楽器でオーケス トラをやろうとい う企画が提案 されて も,名
乗 り出 る会社 はほ と んどない。 その企画全体を担当す る広告代理店 で,DAITO焼
却炉 の広告 を以前 か ら受 け持 っ ていた「大広」か らの依頼 によ り,セ
ラ ミック 楽器 の生産 を引 き受 けることにな った ものであ る。DAITOは
, バ イオ リン, トランペ ット, グ ロッケン,
ウッドブ ロックの各セラ ミック製楽 器 の製造を担 当 した。 生産 に携わ ったDAITO(当
時,大
東三進m)の
永井明博氏 は「何 もか もが初 めての経験」 と次 のように述懐す るH。 「 当社 は,楽
器製造 の知識 もな く,
この話を 持 って こられた ときは,正
直 い って面食 らいま した。 その中で,
ウッドブ ロックは,本
来,木
の打楽器 ですので,こ
の打音 に似 て い るセ ラ ミックスの材質を探すのに苦労 しました。当社 にあるた くさんのセラ ミックスをたたいて材質 を決定 しました。 またグ ロッケンは,音
板 の厚 み と長 さによっ て音 階が決 まるので,板
厚 と長 さの関連 を調 べ,最
適 な音板を作 るまで試行錯誤が続 きまし た。 トランペ ットは,
ラッパの広が り具合 とか 内径がポイン トなので,金
属 の トランペ ットに で きるだけ近づけるのに苦労 しました。バ イオ リンは,当
社では,サ
オの部分を除いて一体成 型 なので,セ
ラ ミックスを焼 く時,変
形 しない よ うに注意を払 いました。 このよ うな苦労がい ろいろあ りましたが,完
成 したときは大変 うれ し く思 いました。」 「世界初 の フ ァインセ ラ ミックス楽器」製作 の過程 (図表4)は ,試
行錯誤 の連続で あ った。 苦心 の末 に出来上が った最初 のバ イオ リンは, 胴 体 の厚 みが あ りす ぎて,音
色 は聞 かれず。 2ヶ 月かけて形をつ くり1,450℃ の高温で 2日 間かけて焼 きあげたチ ェロ第1号
機 は,窯
の中 でバ ラバ ラに割れていたとい う。苦心 の末,で
きあが ったセ ラ ミックス製 の白いバ イオ リン, それを初めて演奏 したバ イオ リニス トの佐藤陽 子氏 は,次
のように評価す る1ち 「思 ったよ り音 はいいですね。 それに試 みが 9 DESIGN EXPO'89あいち21世紀館『 ムジカセラミカ公式記録』 ムジカセラ ミカ振興会,1989年,4ペ
ージ。 10 前掲書 (『ムジカセラ ミカ公式記金利)8ペ
ージ。 11 前掲書 (『ムジカセラミカ公式記録』)10ページ。 一 “ 一世界一の「鳥」 ノベルテ ィと自社 ブ ランドづ くりをめざ した大東三進い (D』
TO)の
経営・ 技術 。文化 糠図 面 作成 ますモデルの選 'と ,1炒本的4・itのパイオ│'ン・ス1●プ `/{ リゥスを itt,こ 海,こt.察111,:1・業::へ・ ギ = 優試作品の製作 'ルードふ `め ●納 図表4「
世界初 。ファインセラ ミックス楽器」づ くりへの挑戦 ― 図面作成∼試作品の製作― 出所: DESIGN EXPO'89
あいち21世紀館『ムジカセラミク公式記録』 ムジカセラミカ振興会、1989年。面 白いわね。」 ファインセ ラ ミックス楽器を使 った演奏が, 世 界 デザ イン博 の開催 期 間 135日 間 にわ た っ て
,毎
日交替で展開 され好評を博 した。 その時 のグ ロ ッケ ンは,泉
町 の工場 に残 して あ る。DAITOは ,デ
ザ イン博の記念品 として,ア
ル ミ ナセ ラ ミック製の風鈴 も数千個作 った。 また, フ ァインセ ラ ミックス製の胴の太鼓 もつ くった が,そ
の一 つは工場 にあ り,
もう一 っは (中学3年
までの子 ども約40人を擁 し,祭
りなどでの 本番実演 は年40回を数え る)「瀬戸 こまいぬ座」 で今 も使われている。同代表 の加藤国弘氏 によ ると,「響 きぐあいは大変 いい」 との ことであ る。 しか しなが ら,DAITOの
フ ァインセ ラ ミッ クス事業にみ るこうした創意的なチャレンジと 技術的蓄積 も,1996年
に ノベルテ ィ部門が閉鎖 され るとともに消失を余儀 な くされてい くので ある。 ノベルテ ィエ場の閉鎖 ノベルテ ィ部門の従業員数 は,30∼
40人
か ら70∼80人の間を行 った り来た りしていたが, 工場閉鎖時には15人前後 (営業1,原
型2,鋳
込,絵
付,焼
成)に
減 って いた。「30人
を切 っ た ら無理だ」と言 っていたが,「何 とか頑張 りた い」とい うことで操業を続 けて きたものである。 また,工
場閉鎖 の5年
前か らは,輸
出用か ら国 内向けにデザ イン 0シ フ トを進めていた。 売上高では焼却炉が9割
を占める大東三進 に おいて,
ノベルテ ィ部門は円高の急進 とバブル 経済 の崩壊下で もそれな りに頑張 っていた。赤 字 も小幅に抑 えていて,社
長 をは じめ とす る関 係者 の ノベル テ ィに対す る強 い思 い入れなどか らも,
ノベルテ ィ部門の存続 は可能 な選択肢の 一つであったとみられる。 しか し,バ
ブル経済 が崩壊 して売上高が半減するなか,売
上高の倍 増を想定 しての焼却炉部門の拡張 (瀬戸市暁工 業団地の新工場など)が
裏目に出て,負
債の圧 縮 とス リム化を余儀な くされ,
ノベルティ部門 の閉鎖に追い込まれるのである。 工場閉鎖時には,営
業を担当していた人を中 心に元従業員の5人
が別会社をつ くったので, 彼 らのためにデザインの使用や仕掛品の提供な どの便宜を与えた。2.5.DAITOの
焼却炉事業 小型焼却炉の トップ メー カー,DAIT0
DttTOの
焼 却炉 は,日
本産 業機械工業会 の 環境装置部会の中にあ る小型焼却炉分科会 に属 す る。小型焼却炉 メーカーは全国で50∼ 100 社 にのぼ ると推定 され るが,新
陳代謝 も激 し く その実態は誰 も把握で きていないとい う。当分 科 会 へ の加盟 メー カーは,ご
く一部 に とど ま る。 それで も当分科会に,一
時は20社近 く入 っ ていたが,転
廃業が相次 ぎ,現
在では6社
にま で減 っている。 小型焼却炉 とい って も,明
確 な定義は見当た らない。 ドラム缶 に煙突をつけたようなものか ら都市 の焼却炉 に至 るまで,
しか も,専
業だけ でな く兼業 メーカーも含 まれ,ど
こか らどこま でを業界 とみなすか,そ
の線引 きが難 しい。業 界 として の信頼 で きるデ ー タは何 もない とい つ。DttTOが
独 自に,デ
ー タバ ンクなどを使 っ て ライバル視 され る メーカーを調べ た結果,DAITOは
今や小型焼却炉の トップ企業である。 2002年度 の売上高 は32億
円で,全
国 に 1lヶ 所 (盛岡,仙
台,東
京,名
古屋,長
野,大
阪, 12 前掲書 (『ムジカセラ ミカ公式記金剥)6-7ペ
ージ。-46-世界一 の「鳥」 ノベルテ ィと自社 ブ ランドづ くりをめざ した大東三進閉
(DAITO)の
経営・ 技術・ 文化 岡山,広
島,高
松,松
山,福
岡)の
営業所 を持 っ ている。 小型焼却炉の法的規制強化 とそのインパ ク ト 「 ダ イオキシン類対策特別措置法」が2000年 1月 よ り施行 され,
さらに「廃棄物の処理 なら びに清掃に関す る法律」(略称 :「改正廃掃法」) が2001年3月 に公布 され,2002年
12月 1日 よ り施行 された。「改正廃掃法」では,燃
焼 ガス温 度 800℃ 以上維持,定
量投入 など5つの構造規 準が提示 され るなど,焼
却炉 の基準が格段 に厳 し くな っている10。 ダ イオキシンの法的規制 の 強化 は,一
方 では駆 け込 み需要を刺激す るとと もに,他
方では小型焼却炉締 め出 しの方向が強 まり,
ここ2∼3年
で圧倒的な企業間格差を も た らしている。 これ まで,小
型焼却炉の届出不要規準 は,燃
焼量200ky時
間 。床面積2ポ
未満であ ったが, 見直 しによって燃焼量50ky時
間・床面積0.5ピ 未満 に まで大 き く切 り下げ られたのである。 こ れによ って,床
面積0.5∼2rの
小型焼却炉 は,1年
に1回以上 のダ イオキシン測定を義務づけ られ ることにな った。1基
当 り200∼ 300万円 か ら1千万 円の価格 に対 して, 1回
当 りの測定 費は50∼60万
円かか るので,ユ
ーザーには痛 手 とな り,ユ
ーザー離れが進んでいる。DAITOは
,焼
却 炉 の小型化・ 高性能化 を い ち早 く推進 し,小
型焼却炉の分野では トップの シェアを持つに至 っている。3.大
東三進 ノベルテ ィ部門の仕事ぶ りと
職場事情―経営者・ 技術者像を通 して
3.1.ノ
ベルテ ィ部門を担 った鈴木功氏の歩み と職場事情 戦後 の瀬戸 ノベル テ ィを語 る場合,大
東三進 株式会社の ノベルテ ィ部門を抜かす ことはで き ない。 その経営 と営業を担 って きたのが,元
・ 同社取締役 セ ラ ミックアー ト事業部長 の鈴木功 氏 であ る。1934年3月 生 まれで69歳
との こと であるが,よ
く通 る大 きな声で テンポよ く話を され,そ
のスピー ドには筆者の理解 とメモも遅 れが ちになる。背筋が伸び,階
段を上 り下 りす る足取 りも軽 い。 鈴木功氏のご自宅は,瀬
戸市窯町で名古屋学 院大学か ら車で10分ほどの所 にある。2003年 5月 20日 ,名古屋学院大学 に来ていただ き,私
の研究室で15∼ 18時の3時
間にわた って,同
社 セ ラ ミックアー ト事業の経営 と技術について 語 っていただ いた。 なお,
ヒア リングには,鶴
勲氏 も同席 された。 さらに,約
lヵ 月後の 6月 25日に同 じ要領で,第
2回目の ヒア リングを 行 った。質疑 は,ま
た して も3時
間強 に及 ん だ。 同社 を退社 されて既 に 10年 になるのに,欧
米 ユーザーの販売 カタログや名刺,海
外 出張報告 書,現
地新聞・ 写真 などを大切 に保管 されてお り,それに基づ いて30数年間のエポ ックを語 ら れ る真摯 な姿勢 に引 き込 まれて しまう。 移行期の旧制中学・ 新制高校時代 鈴木功氏が旧制 中学(愛知県窯業学校)」に入 学 したのは,1946年
の ことである。当時,戦
時 中か ら戦後直後にかけて,修
業年限がめ まぐる し く変 わ って い る。1941年に5年
か ら4年
13 DNTOパ
ンフ「[事業所用]構
造規準適合型焼却炉」9ヶ月に
,続
いて 1943年 には4年
に短縮 され ている15。 修業年限5ヵ年制が復活するのは, 1946年6月 16で,鈴
木氏の入学直後のことであ る。 さらに,鈴
木氏が3年
生の時 (1948年), 603・3制
が施行 されて,1日制中学から新制高 校 (現在の愛知県立瀬戸窯業高等学校)に
衣替 えされる。 このように,彼
の在学時は,1日制内の変更, 新制への移行 などと学制改革が続 いた。それ 故,1日制の4年
制および5年
制,そ
して新制の 学生が入 り混 じるなど複雑な過渡期を過ごす。3年
間 (愛知県窯業学校の併設中学校)で
卒業 する者 もいれば4年
で卒業する者 もいた。授業 料 も違 っていて,新
制中学は義務教育になり授 業料は免除 されたが,鈴
木氏など旧制中学の学 生は授業料を払 っていたのである。1日制中学で は,ロ クロやデ ッサン,絵
付など一通 り学んだ。 新制の瀬戸窯業高校は,全
日制窯業課程であ る。工業科,工
芸科,商
業科から成 っていて, 鈴木氏は工業科に進んだ1'。 大東三進に入社 1952年 に卒業後,春
寿園製陶所に勤める。春 寿園製陶所は,絵
付係24人
(3班),吹
付3人
をはじめ全体で 100人 以上の大 きな会社であっ たが, 4年
で退職する。瀬戸駅近 くの問屋で丁 稚奉公 していた鈴木氏の父が,そ
この番頭をし ていた井上時氏に頼んで,大
東三進に入ること になる。社長の井上時氏から「給料はい くら欲 しいか」 と聞かれたという。 その後,井
上時氏から働 き振 りを見込 まれた 鈴木氏は,そ
の期待に応えようとさらに頑張 る のである。「会長になられてか らも,よ
くかわ いが っていただきました」と述懐する。1898年 生 まれの井上時氏は,1978年
,80歳
で逝去 さ れ,定
光寺の墓に眠る。 鈴木氏は,子
どものころ病弱で,小
学校4年
の2学
期は全体 している。勤め出してからは元 気で,大
東三進時代の30数年間に休んだことは ほとんどないとのこと。得意の卓球は,高
校時 代の2年
間,そ
して職場でも続けた。今も,週
2回
は卓球に汗を流す。そのおかげもあって, 大東三進での37年
間は,ほ
とんど休 まなか っ た。病気で休んだのは,「半 日」だけという。 大東三進での仕事ぶ り 大東三進に鈴木氏が入社 した 1956年 は,杉
塚町の工場が火災にあった翌年で,泉
町に工場 進出していた。新道町に本社機能があって,営
業やサンプル・ ルームも置かれていた。鈴木氏 は,見
本の絵付を習 うとともに,営
業の下回 り もした。釉薬にどぶ付けした見本を,手
に持 っ て 15分 くらい先の泉町に運ぶのである。バ イ ヤーが来 ると,営
業 と一緒に立ち会 った。技術 14「愛知県瀬戸窯業学校」は,1895年に「瀬戸陶器学校」 として開校 された。1901年,「町立瀬戸陶器学校」に校 名を変える, さらに,1911年,「愛知県立陶器学校」に,1920年には「愛知県立窯業学校」に昇格する。1921年, 「愛知県立瀬戸窯業学校」の「立」を取 って「愛知県瀬戸窯業学校」に改称 し,5年
制工業学校 (旧制中学校と同程 度)になって,1948年に新制高等学校 となるまで続いた。以上,創立 100周 年記念事業実行委員会編『愛知県立瀬 戸窯業高等学校 100年 史』1995年,16,47,74巧,124ページ。 15 創立 100周 年記念事業実行委員会編『愛知県立瀬戸窯業高等学校 100年 史』,114-5ページ。 16 同上,124ページ。 17『愛知県立瀬戸窯業高校 100年 史』によると,各学年3学級で,「工業 コース(理化学的な窯業理論 と実際技術), I芸コース(図案・ 陶芸など造型感覚 と技巧),経営 コース(工場経営,経営事務)の3コース」に分かれている。 しか し,鈴木氏の「卒業アルバム」によると,工業科,工
芸科,商業科になっており,『100年 史』 とはズレがみら れる。木橋では,鈴木氏の記憶 と整合する「卒業アルバム」をベースにした。-48-世界一の「鳥」 ノベルテ ィと自社ブ ランドづ くりをめざ した大東三進い
(DAITO)の
経営・ 技術 。文化 がわかる人がいないと交渉で きないか らであ る。26歳
の時に,39度
の熱が出たので 17時 に退 社 したが,一
晩寝 ると翌 日は15時過ぎに出社 し て夜 まで働いたという。 工場の仕事は,鋳
込から絵付,窯
焼など何で もや った。週 に2回
,ガ
ス炉で磁器を焼 いた が,未
明の3時
に起 きて火を付け, 8時
に作業 員が出社 して くると,自
宅へ戻 って朝食を取 り,職
場に帰 って くるのである。夕方の18時半 には火が切れる。注文量 とのにらみ合いで,作
業を決めてい く。 こうした作業シフトは 3∼4 年間続いた。 専門の焼 き手がいな くなって 1年 間ほどは, 朝,火
をつけて,鋳
込師などに焼 き方を付いて 回 って教え,あ
ちらこちらで仕事をしながら, 焼 き上がる (21時)の
を待つ。 これでは,未
明 の3時
に自分で火をつける方が楽なので,上
記 の作業シフ トに替えたのである。 専務取締役 として経理部門および陶磁器部門 を統括 していた加藤亮氏が退職 した後,鈴
木氏 が陶磁器事業部門の責任者になる。以後,退
職 までの 8∼9年
間,陶
磁器事業部門の トップ (取締役)と
して活躍するのである。3.2原
型師 0デ ザ イナー 伊藤春美氏の技術 と職場事情 国際的 に も著名 な瀬戸屈指 の原型師・ デザ イ ナーの伊藤春美氏 に,名
古屋学院大学のわが研 究室へお越 しいただ いたのは,2003年
7月 25 日 (金曜)の
ことである。鈴木功氏のご紹介に よるもので,ご一緒 に来ていただ き,朝
の10時 過 ぎか ら12時 半近 くまで,鈴
木氏 の コメン トも 交 えつつ,い
ろいろと語 っていただいた。原型 師の道 に進んだ経緯,大
東三進 などでの仕事 の こと,原
型師 としての転機や 自負,「人形の原型 師」 としての新 たな活躍 など,話
は縦横無尽に 広が る。 8月 に65歳を迎え られ るが,感
じがずいぶん 若 い。今 も現役の原型師・ デザ イナーとして活 躍 されてお り,還
暦 を過 ぎてその活動舞台 は さ らに広が りつつある。 瀬戸窯業高校2年
時のアルバ イ トとその縁 伊藤氏 は絵 もで きる。瀬戸窯業高校 には,近
所 に通 って い る先輩 が いて,そ
れ を見て絵 画 コースを希望 して入 った。高校2年
の時,須
崎 マル繁製型所 とい う型屋 さんに同級生3人
でア ルバ イ トに行 ったが,そ
こには取引のある三進 陶器 の井上時氏が よ く出入 りされていた。伊藤 氏 は,井
上時氏か ら「卒業 したらうちに来て く れ」 との就職勧誘を受 け応 じる。 伊藤氏 は,井
上時氏か ら毎月2千
円 もらって いた。当時,高
卒で初任給が6千
円/月 (180円 /日前 後),高
校 の授業料 が750円/月の頃で あ り,実
入 りも良か ったとい う。 アルバ イター3 人の内,伊
藤氏 だけ もらっていたよ うである。 高校時代 に学んだ こと 須崎 マル繁製 型所 を経営 す る須 崎繁城郎 氏 は,原
型 もで きて多 くの原型師を指導 し世 に送 り出 した。伊藤氏は,原
型 について須崎氏か ら 学び,「須崎先生」と今 も慕 っている。高校1年
の時,水
野先生が いて原型 の手 ほど きを受 ける も,ほ
んの入 り回だけです ぐに退職 された。 そ の後任に金沢美術大学を出たてで絵画専攻の村 上鏡一氏が赴任 して来 られた。鈴木功氏 とは同 年で クラス違 いであ る。村上先生 は原型 に詳 し くないので,伊
藤氏 らは自由にや っていた。 そ うした状況下,ア
ルバ イト先で須崎氏か ら原型 について学んだのである。 彫塑 の橋爪英夫先生 は,
コースが違 っていて 直接教 えて もらった ことがないが,受
けた影響 は大 き く,彫
塑 の精神を学んだ。型の分割については水野先生 より教わる。高校に入 った頃は 絵画 に関心があ ったが
,高
校2年
の夏のアルバ イ トで立体化す ることの面 白さに気づ きのめ り こんでいった。 三進陶器に入社 した頃 高校 を卒業す ると,三
進陶器に入社す る。三 進 陶器 には以前 に2名の常勤 の原型 師が いた が,彼
が入 る時には一人 もいなか ったとい う。 須崎 マル繁製型所でアルバ イ トしていた同級生3人
とも揃 って三進陶器に入 った。 その うちの 一人は,入
社時に他社 とも接触があってそちら に移 ることが決 まっていて,す
ぐに辞めたが, 原型 を今 もや っている。 もう一人は, 4年
後 に 独立 し,生
産工場の社長になっている。 当時,瀬
戸 には原型研究会の会員だけで も百 人を数えるなど原型師が百数十人いたが,現
在 では原型の仕事 もずいぶん少 な くな り数十人に 減 っているとい う。原型師はフ リーが多い。 伊藤氏が就職 した ころ,三
進陶器には300人
以上が働いていた。300人以上 となると,当
時 の瀬戸で も数社 しかなか ったとい う。帳場 は絵 付 け,吹
付 け作業 に携わ る者が多か った。絵付 けには親方がいて,作
業場 を借 りて子方 を4∼5人
使 い1個幾 らの請負で働 いていた。 会社 の慰安旅行 は, 1年
に2回
催 された。1
回は1泊,
もう1回は 日帰 りの旅行である。職 場 の7∼8割
は参加 し,50∼
60人
乗 りのバ ス 5∼ 6台で出かけた。当時の娯楽はそ うい う機 会 しか な く,楽
しみに しているもの も少な くな か った。 森友陶器での原型づ くり 三 進陶器 で5年
間働 い た後,若
杉氏 の紹 介 で,鳥
の ノベルテ ィをっ くっていた尾張旭の森 友陶器18とい う小 さな工場 に移 る。若杉氏 は, 伊藤氏が須崎 マル繁製型所で アルバ イ トしてい た時の先輩である。 フ リーの原型師 として三進 陶器 など数社 の仕事 を こな し,1957∼
58当時 に7万
円/月以上 を稼 いでいた。伊藤氏 は三進 陶器で 13,800∼ 14,000円/月もらっていたが, 森友陶器 は「 その倍額を出すか ら来て くれ」 と い う。当時,月 に 13,800円 あれば二人で食える よとい う歌 もあ った。 森友陶器では,ナ
プ コとい う絵画に詳 しいア メ リカのバ イヤーに見込 まれて,鳥
シ リーズを 相 当つ くる。 そのバ イヤーは丸利商会 にも行 っ ていた。 ビー トルズが初来 日した時(1966年)に,「東 海工芸」 の外注を していた フジ陶器 に頼 まれて アルバ イ トで人形「 ビー トルズの目が動 く貯金 箱」 をつ くった。 フジ陶器 に来ていた東海工芸 の社長 (庄司 武,2002年
死去)か
ら,「 月に8万
円出すか ら来て くれ」 と勧誘 され る。同年 の人が2万 3千
円/月で あ ったか ら,か
な りの 高額 で あ る。森友 陶器 に話 す と,「(3万
円/月 を)8万
円/月にす るか ら居 って くれ」と言われ た。仕事環境 には満足 して いたので,居
続 け る。伊藤氏が結婚 したのは,1965年
(28歳) の ことである。 労働力不足下 の海外移転 1970年頃になると,労
働力不足が深刻化 し, 大手家電企業などが人手確保のために地方 に工 場進 出す る。 その結果,賃
金の低 い陶磁器産業 は,地
方か ら人を確保す るのが困難 になる。 当 時,ア
メ リカか らの受注は続 いていたので,丸
利商会 は台湾 に進 出 して合弁工場 をつ くった。 伊藤氏 は,そ
の竣工祝 いに配布す る灰皿の原型 をつ くったことがある。 1973年頃,森
友陶器 も人手不足 にな り,台
湾 18 森友陶器の工場は,今日,マンションに変わっている。同社は,台湾に工場移転 し,その後マレーシアに再移転 しているという。-50-世界一 の「鳥」 ノベルテ ィと自社ブ ランドづ くりをめざ した大東三進
m(DNTO)の
経営・ 技術・ 文化 に出てKUと
い う合弁会社 をつ くった。丸利で アルバ イ トしていた経験が,
ここで生 きて くる のである。原型を瀬戸でバ イヤーと相談 してつ くり,航
空便で担当者が手荷物で持 ってい くこ とが多か った。原型を包んだ新聞紙には「新愛 知」(現在 の「 日刊 とうめい」)が
使 われていて, 台湾 メーカーは「新愛知」を読んで瀬戸の陶磁 器業界の動向をつかんでいたよ うである。 日系 企業では,総
経 理,経
理,マ
ネージャークラス は 日本 の大学 を出 た人が多 く日本語 が話 せ た し,
日本語学校 に習いの行 く人 も多か った。KUで
は,か
わ いい人形 をつ くっていた。人 形 の需要 の方が多 く,従
業員 も仕事 にな じみや すか ったか らで あ る。KUを
立 ち上 げて3年
ほ ど,森
友陶器 にいた。 大東三進への再入社 鈴木功氏か ら誘 いを受 けて大東三進 に再入社 したのは,1976年
の ことである。当時,森
友陶 器での給料 は22∼ 23万円/月であったが,再
入 社 の際,給
料 は20万円/月に下げた。 これは, 大東三進 における他の人 との兼ね合い (給料体 系)を
考慮 しての ことであ る。 その代わ りに, アルバ イ ト料 として15万円/月もらうよ うに決 めて いた。 これ は森友陶器 の頃か らのや り方 で,大
東三 進 か らアルバ イ ト料 として同額 も らっていた。鈴木氏が出社す る前や退社時に, 伊藤氏の家に立 ち寄 り原型を頼んでお くと,伊
藤氏 は夜なべ仕事でつ くるのである。 彫刻 と石膏型 食器 はデザ イン重視であるのに対 して,
ノベ ル テ ィの場合はデザ インも大事であるが原型が 一番のポイン トになる。彫刻に比較 して,石
膏 型ではバ イヤーか らのニーズに合わせ,
さらに 生 産性 も加味 してつ くるところに難 しさが あ る。 コス トに合わせた分割方法を考えなが らつ くる。 コス トを無視すれば,一
品製作の彫刻 と なん ら変わらな くなる。 ア メ リカのバ イヤーか ら口頭で言われたもの を,具
象化 して見せ る。昭和30年代 までは英語 がわか らなか ったので,通
訳を通 してバ イヤー のニーズを くみ上げねばな らなか った。通訳 は 技術的な ことはわか らないのでバ イヤーの微妙 な意図 まで伝わ らない。 そこで,伊
藤氏 は,通
訳 を介 して聞いたものをその場で絵に描 き,バ
イヤーに確認す るよ うにした。 フ リーの原型師にならなか った伊藤氏の真意 鈴 木氏 に よ ると,大
東三進 で は重要 なバ イ ヤーがや って くると必ず伊藤氏を同席 させ るよ うに して いた とい う。「 直接,バ
イヤーに会 っ て話を聞かないと先方の意向がつかめない。通 訳 を介す るだけでな く,バ
イヤーの表情をみて 先方のニーズを汲み上げ るよ うに した」 と伊藤 氏 は力説す る。 フ リーになると,バ
イヤーとは 直接,会
う機会がほとんどな くな り,又
聞 きの 又 聞 きでは,バ
イヤ ーの意 向が わか らな くな る。 この制約が,伊
藤氏を して フ リーになる道 を思 いとどまらせたのである。当時,注
文 は一 杯 あ って,何
で もつ くれば売れた状況下にある なかで,
こうした姿勢を貫 くことは容易ではな か った と思われ る。 自らの作品ブ ランドに賭 け る高 い職業倫理 と自負があったか らではなかろ うか。 アメリカでの原型づ くりの実演 と交流 「 ア メ リカに行 った ことは自信 にな った」 と 伊 藤氏 は言 う。 その きっか け とな ったのが, 1979年にア トランタで開いたギ フ トシ ョーで ある。 アメリカのアーチス トがや って来て,評
価 を聞 いた り,本
の交換を した りした。絵 もそ の場で描 いたが,伊
藤氏 の「 ヮイル ド・ ライフ の絵を売 りたい」 と言 う話 もあ った。 8ミ リフ ィル ムで撮影 した生産工程 を上 映 し,原
型師・ デザ イナー (伊藤氏)が
日本か らや って来 て原 型 づ くりを実 演 す る とい った シ ョーは
,ア
メ リカで も大変珍 しか ったよ う で,全
国放送 のテレビで も紹介 された。現地 の スタッフの人たちとは,夜
遅 くまで話 を した と い う。 「生産工場 の原型師」 としての自負 と哲学 ヒア リングの数 日後の 7月 31日,伊
藤氏か ら 電子 メールをいただいた。 ヒア リングの終盤 に 私が発 した「 どんな ことが心 の支えにな ってい ますか」 とい う問いを,温
めてお られたのであ ろ う。 多 くの原型師が陶彫の工芸作品に移行 してい る中で も,伊
藤氏 は,「今後 も可能 な限 り,工
場 生産 の原型師 として,よ
り多 くの人 に仕事 を し ていただ くことを目標に頑張 っていきたい」 と い う。「よ り多 くの人 々に仕事 を与 え ることが 使命」とい うDAITOの
井上浩男社長 の言葉 に感 銘 を受 けたか らで もあ る。「個人 の芸術 もよい が,多
くの人に仕事を与える作品 も芸術」 とい う伊藤氏の言葉には,
まさに「生産工場の原型 師」 と自負す る伊藤氏の面 目躍如 た るものが あ る。 大東三進欄製作「 自頭わ し」=現
代瀬戸の代表 的な陶磁器作品,の
評価 名古屋港 のポー トビルには,名
古屋港 の歴史 に お いて重 要 な一 角 を 占め た瀬 戸 の ノベ ル テ ィ,な
かで も大東三進の輸出品(=伊
藤氏 の 作品)が
飾 られている。 また,1992年
に スペ インのセビ リアで行われ た国際博覧会の日本館に,「愛知万博」をPRす
るコーナーが あ って現代瀬戸の代表的な陶磁器 作品 として,加
藤舜陶 作「悠映灰釉花器」,加
藤鉢 作「鉄釉 金彩花器條」,大
東三進閉製 作 「 白頭わ し」の3点
が展示 された(図表5)。 伊 藤氏 のつ くった原型 は,
まさに現代瀬戸を代表 す る作品 として採 り上げ られているのである。 第一級 の原型師 とい う職人であ りなが らアー チス トとして国際的な評価 も高 い伊藤氏の業績 が,
こうい う形で地味ではあるが しっか りと社 会的に示 されているので ある。 それ らは,伊
藤 氏 に とって「心の支え」 になっているとい う。 「鳥の原型師」か ら「 人形の原型師」へ 瀬戸 では「鳥の原型師」 として有名な伊藤氏 も,東
京ではむ しろ「人形 の原型師」 としての 評価 が高 い。1957年ご ろの三進陶器 では人形 を作 っていたが,大
東三進 に再入社 した時 には 鳥 シ リーズを同社が手が けていた。 そのめ ぐり 合 わせが,伊
藤氏 を して鳥 シ リーズの原型の才 を磨 き上げたのであろ う。そこで花開いた伊藤 氏の才 は,瀬
戸か らア メリカヘ と展開す る。 さ らに,人
形を扱 って も遺憾 な く発揮 されて東京 へ と舞台を広げ,最
近20年程 はアニ メのキ ャラ クター・ グ ッズの製作 もしている。 あ るキ ャラクター・ グ ッズの注文が東京のプ ラスチ ック業界か ら舞い込んで きたのは,1983
年頃の ことである。亡 くな った友人か ら紹介 さ れた ものであるが,反
響が良 くて今 もその仕事 が続 いてお り,小
さいサ イズの ものか ら60cm
サ イズの ものまで手がけて きた。 また,ア
メ リカで以前 にも増 して人気が出て い るあ るアニ メの仕事 が来 るよ うにな ったの は,つ
い最近の ことである。 これ も,伊
藤氏 の 作品の評価が高 く採用 された ものである。60代
半ばになるが,新
境地 は広が る一方で, しか も年 とともに円熟味を増 している。「加齢 によるハ ンデ ィキ ャップはあ りませんか」 と尋 ねてみた。「60歳
位 か ら老眼が進 み,凸
レンズ によ って像が変形す ることもあって,自
分では 良 いと思 って もゆがんでいた りす るので気が抜 けない。 いろんな角度か ら見なが らつ くるので 時間がかか るよ うにな った」 との ことであ る。-52-世 界一の「鳥」 ノベルテ ィと自社フ ランドづ くりをめさ した大東三進{伸
(DAITO)の
経_宮 。技術 。文化 ● ︱ ︱ ・ . ︲ ︱ ︱ ● ● ■ 一 一一 ● 一● ・ を織現 し■ ■ S.Al 図表5
セビ リア国際博覧会 (1992年)に
展示 された現代瀬戸の代表的陶磁器作品 ― 「白頭わ し」の原型は伊藤春美氏の制作 ――原型づ くりの転機一 その