川越移転と「学生紛争」
著者名(日)
坂戸 公隆
雑誌名
東洋大学史紀要
号
3
ページ
79-103
発行年
1985
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002562/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja聞
き
書
き
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、坂戸公隆
川越移転と﹁学生紛争﹂
日 時 一九八三年七月一五日 場 所 清光寺︵埼玉県北足立郡伊奈町︶ 聞き手 田中菊次郎︵百年史編纂室︶、小野沢主計︵百周年記念事業事務局次長︶、鈴木俊光︵同主任︶ さかとニういノゆハ坂戸公隆氏略歴
たかし 一八九八︵明治31︶年10月23日 東京市赤坂区青山北町で生まれる。幼名峻九九九九九
四二二ニー
五六六二九
昭大大大大
和正正正正
201515118
年3月
年2月
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年9月
年3月
天台宗中学校卒業 埼玉県北足立郡小室村 清光寺住職 東洋大学専門部倫理東洋文学科卒業 埼玉県立川越中学校教諭、以後本庄中学校、粕壁中学校勤務 埼玉県北足立郡伊奈村長、以後伊奈村長三選、伊奈村教育委員長等歴任一79一
一九四六︵昭和21︶ 一九四七︵昭和22︶ 一九四七︵昭和22︶ 一九五一︵昭和26︶ 一九五八︵昭和33︶ 一九六七︵昭和42︶ 一九六八︵昭和43︶ 一九七一︵昭和46︶ 一九七三︵昭和48︶ 著 書 未来庵公隆随想集
年2月
年9月
年11月 年10月年5月
年12月年9月
年4月
年11月 天台宗務庁教学部長兼社会部長就任 比叡山延暦寺一山光聚坊兼務住職 京都妙法院門跡執事長就任 京都青蓮院門跡に入寺 中外日報社取締役に就任 東洋大学理事長に就任 東洋大学理事長辞任 大僧正補任 伊奈町名誉町民 ︵風心社 昭和57︶一80一
先生は、東洋大学は大正十二年にお入りになって、十五年に倫東を卒業されたのですね。これは、﹃未 来庵公隆随想集﹂︵註・坂戸公隆著︶の後ろの略歴に書いてあります。 坂戸 そうですか。それでは間違いないでしょう。 十二年から十五年までいらっしゃった。そのころは大正の末期で、東洋大学は非常に活気づいていたん ですね。文化学科とか、あるいは社会事業科というものがありまして、非常に学生も増えた。しかし、そのとき に境野学長事件というのがありますね。 境野学長事件で大目玉をくう 坂戸 そうです。境野黄洋さんの排斥運動というのがありました。 これは、文化学科が中心になってやったようなんですけれども、ちょうどご入学の年ですから、どの程 度ご存じか分かりませんが、学内の空気はどのようでございましたか。 坂戸 やはり全学的な学生運動になりまして、各学科、文学、哲学はもちろんですけれども、文化学科を初め として、社会事業関係とか、その当時にあった学科のほとんど全部が入ったようなわけでしたよ。一度、盛り上 がってくるような時期になったときに、間一髪、大学当局からお目玉が出たわけです。あの時分、岡村二一ちゃ んというのも入っていたな。勝︵承夫︶君も入っていたと思いますね。 ー正面の目標になった、境野先生のどこが悪いということだったんでしょうか。 坂戸 そうですね、まあ、どこというわけではないんでしょうが、学生を愛する気持ちが薄かったんですね。
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ーなるほどね。案外、非常に厳しい先生だったんですか。 坂戸 別に厳しいわけではないですけどね。 全学に広がったということはね、やはり⋮⋮。 坂戸 私なんかも、何んだったろうな。私は一年生でしたから、一番下のほうのお目玉がきました。 1お目玉というのは、どういうものですか。 坂戸 ﹁三週間、謹慎を命ず﹂というやつだ。 1なるほど。 坂戸 その上の連中の七、八人はみんな退学を命ずということでした。停学もあった。退学は幾人かありまし たね。停学、謹慎というその三段階でしょう。 −かなり思い切って処罰したんですね。 坂戸 ええ、そうです。三十人くらいかな。 これで、それは収まったわけですね。 坂戸 そうです。 学長反対派は、中島徳蔵先生ですか? 坂戸 そうです。 ー先生のおられた倫東とは、中島徳蔵先生は関係ありますね。どういう先生だったんでしょうか。かなり
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気の強い先生でしたか。 中島先生と﹁有生於無﹂ 坂戸 この先生はユーモアがあって、学者肌のところもありましたね。 学生に人気があったんですか。 坂戸 ありました。ユーモア盛りだくさんでしたね。 学生の味方だったわけですね。 坂戸 ええ、味方ですね。 そういう処分に対していろいろ問題があったわけですね。処分したからすんだというのではなくて、軽 いとか重いとかいろいろ問題があって、学内の問題になったわけですね。 坂戸 はい、あったわけです。 先生が随筆の中に書いておられるんですが、先生が東洋大学の理事長になられたときのごあいさつに、 中島徳蔵先生の話が出ていて、﹁有は無より生ず﹂という話を非常にうまくお書きになっています。 坂戸 そうですか。﹁有生於無﹂。卒業をまじかにした最後の授業で中島先生が黒板に書いて﹁読めるかな、意 昧は分るかな﹂といって、学生をしばらくからかって、﹁できるものはいないか。いたら元気よく手を挙げろよ﹂ なんて言う。そのとき、だれだったかな、一人手を挙げて、﹁﹃老子﹄にある言葉です﹂といったんですよね。﹁お まえだけは、卒業証書をやるよ﹂というように翻弄されたんです。
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1おもしろいですね。大学時代は楽しかったですか。 坂戸 大学は楽しかったです。卒業するころは大学新聞も作りましたしね。 ーそうですか。岡村二一さんなんかもですか。 坂戸 ええ、岡村とは親しい間柄でした。 −新聞部というのは、何人ぐらいいたんでしょうか。 坂戸 そうですね、十五人くらいかな。 各学部からですか。 坂戸 ええ、まあそういうわけです。 主としてどこですか。 坂戸 文化学科と文科系が中心ですね。 何部ぐらい発行していたんですか。 坂戸 そうだなあ、えーと、三千か、四千部ぐらいかな。 ーそうすると、在学生がそんなにいないから、全員にということですね。 坂戸 そうですね。二千五百ぐらいだったかな、そんなものでしたね。 それではみんなに行きわたりますね。 坂戸 ええ。
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1大学に入られる前に、何か病気をなさったようですね。 坂戸 ええ、時々やっていましたからね。 1天台宗中学が団子坂上にあったようですが、そこに入る前ですか、後ですか。 坂戸 卒業するころだったかなあ。 ーそうですか。中学を卒業するころですね。それから、こちらの清光寺へ帰っておられますね。 坂戸 はい、そうです。 それから後はもう病気は出なかったんですか。 坂戸 いや、そうはいかないんですよ。 ーそうですか。若いころの病気ですから、治りが早いと思うんですけどね。耐久力がありますし。 坂戸 はい。 青蓮院門跡として ー大学を卒業されてしばらく、このあたりの川越中学とか、本庄中学とか、いろいろ教職につかれまして、 今度は伊奈村長とか町長とか、行政のいろんなお仕事をされまして、それが昭和二十年まで⋮⋮。 坂戸 続いたかな。そうでしょう。 1それから、天台宗務庁。 坂戸そういうわけですね。それで、京都へ行ったんです。
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ー昭和二十一年ですね。 坂戸 一応京都が本拠のようなかたちになったわけです。 延暦寺に御坊を持たれまして、それから京都に下りてきて、妙法院門跡。妙法院というのは東山にある お寺ですね。 坂戸 三十三間堂を持っているお寺です。 1ああ、そうですか。私は京都生まれで、三十三間堂も知っております。それから青蓮院門跡に入られた。 これはもう大変な名跡でございますね。 坂戸 ええ、そうですよ。 宮様が門跡になられているんです。 坂戸 今でもそうです。 ああ、そうですか。 坂戸 東伏見さんですね。 1去年、小学校の友達と名園巡りというのをして、青蓮院にまいりまして、庭を歩かせていただきました。 坂戸 東伏見さんがおいでになったですか。 1いえ、いえ。なかなか立派なお寺ですね。あそこで門跡といいますと、どういうことをやるんですか。 坂戸 門跡というと、法務の最高の位置にあって、法務の儀式を取り仕切るわけです。しかし、下にお手伝い
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の偉い人がいますけどね。 これはもう心静かにね。 坂戸 そうです。やはり門跡寺院ですからね。門跡というのは、御維新までは宮様で僧籍にある人が、そこの 住職、門跡になったわけです。 今もそうなんですか。 坂戸 今は、東伏見さんなどは特別の場合ですから、あまり昔ほど珍重はしません。それよりもむしろ、民間 にあるしっかりした人で、そういう大きな寺としての寺務の経営に巧みな人に門跡になってもらうということで す。 獅子吼会との係争 −そうですね。そして昭和三十年にまた大学にお戻りになりまして、理事として事務局長になられました ね。事務局長というのは、事務の最高責任者ですから、これは一転して、本当に大変なことですね。当時、三十 年というと、そのころ大学は獅子吼会と係争中だったんですね。係争中の内閣の事務局長だったから、いろいろ 大変だったと思いますね。 坂戸 一週間に三日か四日ぐらいは地裁で裁判がありまして、呼ばれましたな。大日本獅子吼会という会があっ て、そのほうとの係争事件です。 裁判所に行かれて、どういうことなんですか。
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坂戸 ただ事務的なこともありますし、それからまた、裁判長を初め関係の法務官が出てやるわけです。 ーもう正式裁判なんですか。 坂戸 正式裁判です。普段からやっていましたね。 ー弁護士にだいたいはまかせたんではないんですか。 坂戸 まかせてはいますけれどね。やはり責任者が行かなければいけないんです。 1獅子吼会というのは、大学の中でも賛否両論ありましたね。やはり財政困難なときを救ってくれたんじゃ ないかというのと、しかし⋮⋮。 坂戸 戦後に大学が爆撃で焦土と化してしまって焼け野原になったでしょう。そのときに、獅子吼会で東洋大 学に関係していた人がいましてね。いろいろ物資もないし、教員に月給も払えないというひどいときが、一年近 くあったんです。そのときに骨を折ってくれたんです。 ーそうですね。ただ理事を獅子吼会が半数ぐらい入れたわけですね。 坂戸 欲しがるわけです。だからこれを乗っ取りと見なして、実際乗っ取りかもしれないけれど、乗っ取りを されてしまうというので、今でいえぱ、国士館みたいなことです。 なるほど。そういうことは学生には影響なかったわけですね。あのときは学生は動いていませんね。ま だ学生運動が起こる前ですか? 坂戸 そうですね。
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校友の中でも意見がいろいろあって、とにかくお金がなかったんですね。 坂戸 ええ、金は全然ないんですよ。われわれ輩が動いていたんだから、金はないです。 1結局、妥協せざるをえない。 坂戸 そういうことです。 ー係争は随分長かったんですね。 坂戸 そうですよ。長かったです。 その間にいろいろご苦労されたんでしょう。 坂戸 はい、裁判事件が長く続いたですからね。 その裁判の決着をつけるのに難しい点というのは、どういうところだったでしょうか。 坂戸 やはり金の問題と、資格の問題とかいうようなものですね。 −資格というのは理事ですか。 坂戸 ええ、理事とか常務理事とかです。 1なるほどね。大塚日現さんに会われたことはございますか。 坂戸 ええ、あります。 どういう方ですか。 坂戸 新興宗教ですから、われわれのように古い宗門の立場のものの目から見れば、やはりちょっと変わった
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ところがありましたね。 そうですか。落合の本部の近くに友達がいまして、あの坂を上がって、ドンドコドンドコやっているの を聞きましたけれど、随分活気はありますね。 坂戸 あります。私ども何回もあそこに百度踏んだことがありますよ。 ー相当信徒はもっていたんでしょうか。 坂戸 もっていましたよ。しかし、今はあまり勢いがよくない。 ー今はそうですね。あまり聞きませんね。戦後いろんな新興宗教が起こりましたから。 坂戸 そうです。取られちゃったんじゃないかな。 1そうですね。その一つですね。お金を返せばそれですむようなことなんですけど、返せないですわね。 坂戸 返してくれと言わないんだ。返してくれと言えば具合いがいいときになっても、なかなか金のことは言 い出さなかった。なかなか政治家がいたな。 1代表的な人はだれですか。やはり当時の向こうから出ていた役員の方ですね。 坂戸 そうですね。それと弁護士さんとかです。 なるほどね。 坂戸 しかし今はちょっと落ち着いてしまっていますから、あまり取り立てて言っていただかないように適当 にひとつ。
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1先生はそれから、四十三年に理事長になられますね。三十年から四十三年までの十三年の間は、ずっと 大学におられたんですか。中外日報の取締役とかの外のお仕事もやられていますね。 坂戸 そういう仕事もやっていました。 ー四十二年の十二月に理事長に就任としてありますね。これには四十三年と書いているのは、四十二年の 十二月が正しいんです。 坂戸 そうだ、十二月に就任したんだ。 ー千葉雄次郎先生がやめられまして。そのあとです。 坂戸 ええ、そうでしたね。 川越移転闘争と警官導入 1その時分から、学生運動が激しく起こっていまして、教養課程を川越に移すという問題で、白山の学生 が随分騒いだということがあります。ちょうどその最中じゃなかったでしょうか。 坂戸 ちょっとしばらく大学に行かなくて、行ってみたら、でっかいステッカーがたくさんあってたまげたん です。﹁大学を川越へ移転することは、大学を転落させる道だ﹂というようなことをしきりに書いていましたね。 そのときに理事をやっていたものだから、大学には出ていたんです。 1ちょうど日本全体が学生紛争の時で、東大紛争で安田講堂事件とかですね、そのころにぶつかっている わけですよね。安田講堂の全学連占拠が六月でした。それと連動したようなかたちで、ほとんど全大学で学園紛
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争があったんです。東洋大学の学生たちも、そういう一部の連中が騒いだというふうにいわれているわけです。 ただ、﹁理事長に会わせろ﹂ということで、大変ひどいことをしましたね。 坂戸 そうだ、それで私は時々発病したり寝ついたりして、その後ちょっと具合い悪くなったんです。 1結局、監禁するようなことでしょう。 坂戸 よく大学あたりで交渉したりして、要談している場合は、[時、二時、三時ごろまでやったでしょう。 1そうですね。結局、ドクターストップということで、大学側が救出したんでしょう。そのバリケード゜ ストをやったり、大学がロックアウトをしたり、いろんなことを繰り返したわけですね。 坂戸 そうですね。 ーそして、結局警官を導入した。 坂戸 そうだ、結局導入しちゃったんだ。 1それでけりをつけたんでしょうね。その警官を呼ぶということは、学長がやったんですか。 坂戸 それは私、理事長でしたね。 あれは四十三年六月ですね。 坂戸 しかし実際には、教授の古い連中や新しい連中でそれらを動かしていた方がいまして、その人たちの意 見に私はよったわけでしたな。 これのときは公務執行妨害ということで警官と衝突し、随分抵抗もしているんでしょうけれども、百七
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十三人の学生が逮捕された。かなり多い人数ですね。 坂戸 そうですね。 その時分の全学連というのは怖さを知らないですから、警官にも火炎びんを投げつけたり、そんなこと をやったようです。 坂戸 ああ、そうですか。 京都から東京へ来られまして、本当に大変なご苦労をありがとうございました。結局、団交もされたこ とはされましたね。 坂戸 ええ、しました。 学生側の理由がいろいろ書いてあるわけですが、学生の反対理由というのは、結局、川越へ行くと学生 がアルバイトができないということとか、サークル、学生活動がもちにくくなる、それから通学が不便だという ことで、全共闘の教育の帝国主義的何とかという意見を第一に掲げまして、そして具体的項目を挙げているわけ です。 大学としては、結局これは文部省から、白山の土地が狭いということをその二、三年前にいわれまして、何と か過密を解消しなければならないというので、教養課程を川越に移すという案が出てきたのですね。 坂戸 そうです。 それで、白山の周辺の土地を買おうとか、そういう動きも出ている。白山の今の図書館のあたりの、目
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賀田邸の付近の七百坪を買うというふうな動きも大学にあるわけです。だけど、とりあえずは教養課程を川越に もっていけば、過密が少しでも緩和されるということだったようですね。大学当局はそれを学生に説明したと思 うんですけれども、学生は自分の生活がやはりあるので、反対したというふうに見られるわけです。理事長もい ろいろそういう説明もされたと思いますけれども、過密解消というのが文部省の絶対命令といいますか、勧告だっ たわけですね。 坂戸 それはあったでしょうね。土地をあの当時、実際問題として、あの近所なり、川越近辺なり、もう少し 増やそうというようなことで、運動したこともあるんです。朝霞あたりもそうですしね。それから現に白山でも、 五階か六階の建物が今建っていますけれども、あれとは別に付属している土地とか、あるいは多少離れていると ころとかですね。正門前に校友会館も建ちましたけれども、ああいうものでは小さくてしようがないですから、 いろいろ運動したけれどもうまくいかなかったんですよ。 1六月の機動隊導入というのはそもそも、学生会館建設の問題が入っていたんではなかったですかね。学 生会館を建てるという約束があったわけです。 坂戸 ああ、そうそう、はいはい。 ー学館を白山に建てるというのを、その前の前の理事長あたりが約束しているわけです。ところが、川越 へ教養課程が行きますと、川越に学館ができて、白山にはできないんじゃないかというような危惧をもったんで すね。
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坂戸 なるほどね。 −学生会館というのは非常に管理が難しい問題で、その当時なら学生は必ず自主管理すると言い出すで しょうから、そこらは約束はあっても、いつどこに建てるかわからなかったので、学生がそれをじれたんですね。 坂戸 ああ、そうか。 −先生はこれでおそらく健康を害されたのでしょうけれども、九月に退職されましたね。 坂戸 そうです。神楽坂あたりのちょっと大きい病院に、学生にわからないように行ったほうがよかろうとい う示唆があったものだから、入院して静養していたんです。 1そのころ大島昌静先生が、しばらくの間理事長代行のようなことをやっていたんですね。 坂戸 大島昌静さん?ああ、そうか。 ー先生が理事長のときの常務理事ですね。 坂戸 はい。私のほうが一級か二級上だったんだよ。 護国愛理について ーああ、そうですか。学生時代と、それから理事として随分長くいらっしゃいまして、当時も護国愛理と いう学是があるんですけれども、そういう理念について先生はどうお考えになっていましたか。 坂戸 これはもう、絶対だ。一日といえども忘れることはありません。井上先生のお言葉ですからね。 ー護国という時の国は、実際の権力をもった国、あるいは日本ということではない、つまり軍国主義的な
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国ではないということを哲学の先生方はいつもおっしゃいます。 坂戸 そのとおりですね。 1愛理というのは、諸学の原理をいつも考えるというのが定説なんですよね。先生が理事長に就任された ときのご挨拶がここにあります。哲学館が講義録を出したり、﹁東洋哲学﹂を三十年間も刊行したのは、建学理 念である哲学の民衆実用化のあらわれであるといっておられます。井上円了先生が非常に実際的な、学問の速成 とか、あるいは実際役に立てるということを主張しておられる面がありますが、先生が井上哲学を非常に現実的 に見ておられるように考えたわけです。 また﹁昭和に入ってから、逐次学生も増加し、一貫して流れたものは建学の精神です﹂とここにいっていられ ますが、学生にもやはり建学の精神というのがいつも流れていたのか、そのへんはいかがでしょうか。 坂戸 理事長などは、学生に接触することはまずできないといってもいいくらいでしょう。何か式日とかいう ときに会うか、あるいはこういう印刷物でもあればわかりますがね。 ーそれは広報ですから広く読まれます。 坂戸 四十三年に出ているのか。これは入るときに書いたものかな。 文化学科や社会事業科のこと ー何か学生時代、理事長時代に困ったこととか、楽しかったこととかあれば、二、三拾い出してお話しい ただいたらと思います。先生の学生時代は東洋大学に女子が入学していますね。男女共学は東洋大学は非常に早
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かったわけで、東京都内の大学ではトップを切っていたわけです。 坂戸 そうです。 栗山津禰さんとか、仁平本さんとか、そういう方が、卒業後もやはり東洋大学へよく来ておられたよう ですね。実は、先生のお兄さんの公顕さんが、女子問題の何か研究をされている文献を見たことがあるんです。 先生ご自身も非常にそのことを、東洋大学のよかったところだというふうに書いておられるのを何かで読みまし た。 その時分のことですから、男女同権とまではいきませんが、男女共学ですね。そして、そういうことで境野先 生がそういう発想をされて実施されたんだけれども、大正末期になると、大正デモクラシーに何かかびが生えた というふうな感じもしたということを書いておられるんです。どういうふうなご観察だったんでしょうか。大正 デモクラシーは大正三、四年ごろから始まっていますね。﹃中央公論﹄で大正デモクラシーの旗を掲げた人が活 躍しまして、民本主義という名で、若い人の共感を得たわけですけれども、それがしばらくいきますと、何かか びが生えたというような表現が、先生の書いておられるものにございます。 昭和五年には、文化学科も廃止されるんですね。だから、何かやはり変化が出てきたんではないかと思われる わけです。それを先生が予見されたのか、かびが生えたということは、何かご記憶ございませんか。 坂戸 文化学科をやめるというのは、いつごろですって? 昭和五年でした。
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坂戸 だれか理事の一人がそんなことでもいったのだろうか。自分だけの考えでいったんだろうか。それとも 志願者が少なくなっているかな? そのへんはどうでしょうか。学生の一番多いのは、倫東あたりです。 坂戸 これは難しかったですよ。中心ですものね。 ー極端に少なくなったということはないと思います。 坂戸 そうですか。 大正十二年事件の中心的なものは、全学といっても、やはり文化学科じゃなかったかなあという気がす るんですけどね。何かデモクラシーのハイカラな学生が多いものだから、そういうものがずっと何となく尾を引 いてきて、まさか弾圧という意味でもないでしょうけれどもね。日本のあれにそぐわないということが、あるい はあったのかなという気もするんだけれど、そんなことはないんですかね。だんだん世の中がおかしくなり始め ていますから。やはり十二年の事件がきっかけではないかと思うんですけどね。文化学科が廃止されるのは⋮⋮。 昭和五年というと、教員をされているころですね。 坂戸 そうです。 ー社会事業科のほうも、昭和九年ぐらいには廃止になっています。 坂戸 そうですか。 社会事業科というと塚本哲先生とか、朝原梅一先生とかが、社会事業科のほうでしたね。
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坂戸 そうです。朝原梅一か、それに塚本哲さん、そうそう。 塚本先生は、後年社会学部のほうの教授になるわけですけれども、やはり社会事業科を卒業されたんで、 すね。そして、東京都に勤めておられたんですね。話は飛びますが、理事長時代の学生紛争は、先生が四十三年 九月にやめられまして、その直後の十月に一般学生がバリケードを撤去したので、それで解決しています。 坂戸 ああ、そうですか。 すぐ解決したわけです。ぼくらは、新しいことはある程度知っている方もほかにおられますから、古い ことを知りたいんですね。だから、大正十二年事件にもどりますが、学生が暴力を境野学長に対してふるってい るんですね。それで、今でいえば警官導入ではないけれども、刑事なんかが入り込んでいて、それで、勝先生や おそらく岡村先生なんかがつかまってしまうんですね。首謀者といいますか、それで富坂警察とか、駒込警察な んかに連れて行かれた。 勝先生なんかも、教員になれないのはそのせいだとよく言っておられました。やはり警察に行きますと、免許 状がもらえなかったんですね。それで新聞社に入ったようです。やはり当時としてはえらい騒ぎだったんですね。 つるし上げといいますかね。 坂戸 勝君じゃ、警察へ行こうがどこへ行こうが、﹁君には免許は出さないそ﹂とやられちゃうからな。 大正十二年のころは、鉄筋の建物はまだなかったですね。ですから学長室なんかは、石の階段を上がっ て突きあたりに講堂らしきものがあったんですね、あそこに学長さんなんかはおられたんでしょうね。
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坂戸 その当時は、上がって左のほうに木造の二階建だか、[階建かがありましたね。 1階段を上がったところの左には、小高い丘があって、そこに井上先生の胸像があったということですが。 坂戸 小高い丘は、階段を上がった右側だよ。 −ああ、そうなんですか。 坂戸 今、少しう回して上がってくるようなところがあるでしょう。あの中心が、一番高いところなんだ。 先生がちょうど卒業をされて、埼玉県のほうで教員生活をやられているころに、今の鉄筋の建物の大講 堂とか、古い図書館とか、西校舎といいましょうか、三階の教室とか、ああいうものが続々できたんですね。 坂戸 みんなよく金を出すな。出させられたよ。 1もっともそれが、旧制の文学部昇格の条件だったようですね。 坂戸 そうです。 ーそれまではみんな木造だったわけですね。 坂戸 ええ、みんな木造です。 1そうすると、大正年代というのは、校舎はみんな木造ですか。 坂戸 ええ、木造ですね。でも、図書館だけは、コンクリートか何かでできていたかな。 1前面は洋館のような感じで、階段を上がった突きあたりに、ちょっとハイカラな建物のような感じがす るのがあったんです。今の五号館のあたりですね。四聖の像がありますが、あのあたりに図書館とか何かがあっ 一100一
て、それがちょっとハイカラな建物だったものだから、多少コンクリートも使ってあったかもしれないですね。 坂戸 そうね。 事務局長時代の思い出 先生が戦後、事務局長としてこられたのは、三十年ごろでしたね。三十一年に法学部ができました。 坂戸 そうか。なるほどな。 それで、法学部の若い先生方が、事務局長室の前に座り込んで、手当が約束と違うからといって、先生 の部屋に押し掛けてきたのを覚えていますね。別に先生が安くしたわけではないんでしょうけれども、来てみた ら安かったとかいうことでしたね。 坂戸 哲ちゃん、哲ちゃんという教授がいたけれど、あの人はいるかな? ーあれは佐々木哲郎さんで、今、経済学部の教授です。 坂戸 そうですか。 あのころ佐々木さんは秘書課長でしたか。 坂戸 そうだ。そうだ。 ー先生が来られたころは、最初の事務室が大講堂の下だったんですよね。そして、五号館のほうへ移った んではなかったですか。 坂戸 そうでしょう。 一101
ー五号館の二階に役員室があって、先生の部屋は一階の右手のほうに局長室がありましたね。 坂戸 十日か二週間前に、あのとき下にいた女の子が三人で遊びに来ましたよ。二、三年に一回ずつは来てい るんだけどね。秘書にいた人だ。 −田村さんとかですか。 坂戸 ええ、同志社の英文出身の田村さん、それから、川口に住んでいる柳田さん、この人は東洋大学出身の ご婦人だよ。それから、もう一人、茶目っけな人。 −秘書課でタイプを打っていた人ですね。来られますか。もうみんなお母さんになっているはずですが。 坂戸 そうですね。私に手紙を寄越しておいてね、きました。この随筆集をみんなに送ってやったんだよ。 1それでお礼に来たんですかね。 坂戸 その田村という女の子が同志社の英文科を出る前に、私が東山のお寺に事務所を置いて、京都文化財保 護協会というものを作ったんですよ。そのとき、事務に手伝いに来てもらったんです。それが卒業のころだな。 それが縁で、いまだに付き合っているんですよ。智積院というお寺に、私どもは事務所を設けてやったんです。 京都中の指定文化財をもっている社寺のご住職が集まって、文化財保護委員会というのを作っていたんです。い ろんなことをやった。松喰虫が京都中の松を枯らしてしまうというので、そういうものの駆除運動までやったん ですよ。 1最近、白山のほうにお出かけになることがございましたですか。 一102一
坂戸 いえ、ないですね。
1何か記念の会でもあれば、
お待ちしています。どうもありがとうございました。
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