律令身体障害者保護法の実施--わが古代の救恤法
-2-著者
利光 三津夫
雑誌名
東洋法学
巻
2
号
1
ページ
21-47
発行年
1958-05
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00007761/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja律
令
身
体
障
害
者
保
護
法
第一章 第 一 一 軍 ーl
わ
が
古
代
目
次 の救植法(二)││
の
実
施
利
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津
夫
ま え が き 為政者の励行の熱意 第一節 公 文 書 及 び 判 例 よ り す る 推 定 む す び 律令身体障害者保護法と一般庶民の生活規範 ﹃政治公論﹄第十四号において、私は本和の前篇に当る一文を発表し、わが律令における身体障害者保護に関する 法制の源流及び構成を-論述した。近江奈良時代において、数回に豆って編纂せられたわが国の律令は、いずれもほぼ 律令身体障害者保護法の実施 第二節 為政者の励行の熱意の理由 ~ '/J~き
え東 洋 法 学 同様な身休障害者を保護する条文を掲げていたと推定でまるが、かような制度は、儒教の仁政主義を基本とする惰唐 の制をその母法とするものであった。わが国における律令身体障害者保護法の構成は、元明天皇の養老二年に編纂せ られた養老律令によって、大略その全貌を知りうるが、それは紀元七・八世紀頃の法制としては極めて完備したもの であり、かっその定める処は、惰唐の制よりも更に仁政主義に徹し、身体障害者を厚く保護するものであった。叙上 前篇の記述において、私はこの制度がいかなる内容のものであったかを述べただけで、それがいかに実施せられたか については触れなかった。従って、本稿において、専ら律令身休障害者保護法の実施如何という問題について論じて み た い と 思 う 。 そもそもわが国と風俗習慣を異にした中国からの継受法である律令の諸制度に対して、当時のわが国の為政者がそ れを励行することに、どの程度の熱意を有したか、またこの時代の一般庶民が、これらの制度の趣旨を理解し、これ を遵奉する意欲をもっていたかどうかということは、国史上の大問題であって、学者の聞には、これを否定的に観る 者と、肯定的に観る者とがある。そして、この問題は、律令法の一制度である班回収授制度を論ずる場合にも、奴細川 制度を論ずる場合にも、常にその制度の歴史的価値を決する問題点として議論せられてきた。法典の上に明瞭に規定 されている一制度が、いわゆる高閣に束ねられて一向に励行せられなかったり、また一般庶民の慣習と余りにも誰離 しているために、為政者がいくら努力しても、庶民の聞に行われなかったりしたとするならば、その制度は国利民福 と相関するところがない実施せられなかった法であって、その雌史的価値は殆ど皆無であるといわざるをえない。 ヲ酬 」 れ私が本稿において、前篇の後を承けて律令身体障害者保護法の実施について論究せんとする所以である。
第一章
矯
政
者
の
励
行
の
熱
意
第一節公文書及び判例よりする推定 律令の身体障害者保護法の実施に対して、為政者は呆して、これを励行する熱意を有していたであろうか。勿論律 令法典を施行する詔勅には、律令の諸制度の励行が命ぜられている。しかし、いかなる為政者といえども、自分の立 法した法制に対して一応はその励行を命じない者はない。況んや当時の詔勅は美辞麗句を列ねて、為政者がその法の 励行にいかに熱意を有するかを誇張するのが例であるから、かような詔勅の文句だけで、為政者の励行の熱意を推定 することは不可能である。われわれは、この問題の解容をうるためには、別の方面から考察することが必要である。 私は、先ずこの時代の古文書に遺る身体障害者に関する記載や、西宮記等の政書にみえる身体障害者に関する判例を 精査することによって、当代の公の史料の上でこの制度の実行の逃を探求してみようと思う。前篇で詳述したように 律令における身休障害者保護法は、身体障害者をその障害の軽重によって残疾・療疾・篤疾なる三種に分ち、この三 疾の者にも健康者と同面積の口分田を給与すること、三疾者に対して、その疾の軽重に応じて課役を或は金免或は半 減すること、三疾者には、これまたその疾の軽重に応じて刑事法上の種々の特典を与えること、身体障害者の親族、 または隣人に、障害者を救値する義務を課すること等を定めている。いまこれらの文.書、判例等によってこの制度の 実行を観察するに当つでも、身体障害者保護法を上記の事項に分ち、その各々について考察を進めることとする。 養老の戸令造帳籍条によれば、国司は籍帳を作成する度毎に、部内の新たに身体障害者となった者の形状を実見し て、戸令の三疾の条文に照らし、その者が、残嬢篤のいずれの疾に相当するかを判定し、戸籍計帳にその疾名を記載 律令身体障害者保護法の実施東 洋 法 戸込.. 寸一 ご 四 すべきものとされている。これを国司の貌定と謂うが、貌は面貌を視ることであり、定は判定を下すことである。律 令制においては、籍帳の記載は、租税法及び刑法上有力な証拠となり得るものであるから ( l ) 、 貌定は、律令身体障 害者保護法の根本をなすものともいいうるのであって、国司による貌定が、正当に行われなければ、特典を食るため の偽装、自傷障害者が激増したり ( 2 ) 、真実の身体障害者が保護に洩れたりして(日)、身体障害者保護法は実効のない ものとなってしまう。正倉院文書所収の奈良時代の正税帳には、国守、国目、及び国の史生が、人民に計帳の基礎と なる手実の提出を促し、計帳を作成するために、従者を連れて管内を巡回した時に要した旅費が載録されている。例 えば天平九年の皐後国正税帳には、 国司巡行部内合老拾緯度、惣単老伯宅拾捌人、上参拾捌人叫紅一一一周 1 . 従 捌 拾 人 、 食 稲 参 拾 玖 東 弐 把 批 一 説 明 把 、 酒 参 斗 伍 升 嬉 合 相 叫 一 μ 山 内 叩 L r T . ハ 中 略 ) 老 度 責 計 帳 手 実 問 一 一 ・ 勺 一 一 時 入 、 単 陸 人 、 上 参 入 史 度 、 従 参 入 、 とあり、これと同様の記載は、同十年の但馬国正税帳、和泉監正税帳にもみられる︿ 4 ) O かように多くの正税帳に 同様の記載のあることは、戸令の 凡造計帳、毎年六月品川日以前、京国官司、責所部手突、 一応は条文通りに国司によって実行せられていたことを証するものである。戸令が計帳ハ戸籍もこれに準 じ る ﹀ ( 5 ) の作成に際して、これを在地の土豪より任ぜられる郡司に一任せずに、職国の吏が直接に手実を責むべきも のとしているのは、地方人民と恩縁のない国司をして公正なる貌定を行わしめ、計幌の記載が事実と相違しないよう な る 条 文 が 、
にするために外ならない。国司の貌定が、所部の手実を責める時に行われることは、戸令集解に、 穴一宮、言六月貌詑、叉籍臨責手実、十一月貌耳、 とあることによっても明らかである。従って﹁責所部手実﹂なる名目によって、国司の管内巡行が行われた記録が春 すれば、国司の貌定もまた実行せられたものと推断してよい。正倉院文書所収の大宝より天平に至る戸籍計帳には、 氏名の下に﹁残疾﹂、﹁嬢疾﹂、﹁篤疾﹂を註記した実例が多くみられるが、これは国司の貌定を経ることによって、そ の記載がなされたものであるとみてよいと思う。但し、籍帳にみえる有疾者についての国司の貌定が、果して厳正に 行われたか否かは、これを徴すべき史料がない。考課令の定めるところによれば、課口の増加は、国司にとって不課 貧禁なる国司は、有疾者をできるだけ少くするために、 戸令の三疾の条が前篇で述べたように例示主義をとっていることを利用して、実質的には嬢疾者であるものを残疾と 口の増加よりも造に大きな功績と認められていたから ( 6 ) 、 貌定したり、残疾と貌定すべき者を、健康者と貌定して課口に入れたりするとともあったろうと思われる。また当時 の人民も、有疾者として籍帳に記載されれば、課役が全免若しくは半免せられることを知って、些細な疾をも誇大に 言い立てて、有疾者として籍帳に載録せられる努力をしたであろう。奈良時代の籍帳には、すでに先学によって指摘 せられているように、男女の口数の比例その他において、不合理な点があり、不正申告の結呆とも疑いうる箇所もあ るから (74 、 国司による貌定が行われていたかちといって、 それが完全に正確なものであったとは保証しえない。 し かし奈良時代の戸籍計帳は、後の平安時代の戸籍に比較すれば、前述の男女の口数の比例を例にとってみても、その 記載が造に正確に近いものであった事が知られる。例えば男女の比例は、大宝二年の美濃国戸鱗においては、男一
O
。に対して女一O
九であって、延喜二年の阿波国戸籍にみえるように、男一OO
に対して、女六七O
というような、 律令身体障害者保護法の実施 一 一 五東 洋 法 学 一 二 ハ 法外なアンバランスはみられない ( 8 ) 。従って、吾人は身体障害を認定する国司の貌定の際に、惹起した国司側と人 民側との相別がどう結着したかを物語る史料はのこっていないが、奈良時代においては、多少の不正はあったにして も、有疾に関する貌定は大体公平に行われていたものとみてよいと思う。なお、沢田吾一氏が、﹁奈良朝時代的酬の 数的研究﹂なる著において、言及せられているように、これらの戸籍計帳記載の残療疾者には、男子がその大部分で あって、女子は甚だ少い ( 9 ) 。即ち籍帳に氏名、疾名の註記のある男子の残疾者総数五十二名、療疾者総数二十九名 に対して、女子は神亀三年山背国計帳に残療疾者各一名、天平五年右京計帳に残疾者一名が数えられるに過ぎない。 このことは一見国司の貌定が 1 主に男子のみについて行われ、 女子についてはよく行われていなかったことを意味 し、貌定が不充分または不正確であったことを示すようにみえる。しかし天平五年の右京職計帳には、 姑出庭麻須売、年捌拾臨時 44 日女左目盲 とあり、また神亀三年山背国計帳には、 出雲臣広刀自売 年拾嬉歳 小女左目悪 女子の障害者は、 男子と同様に貌定は一応うけるが、その疾名を戸籍計帳に記載せられ ないのが通例であったものと解せられる。戸籍計帳に、女子の疾名を記するものが少いのは、女子は年齢、疾の有無 なる記載もみえるから(♂、 に拘らず、すべて不課口であるから、調庸賦役を徴収するための台帳であることを主たる用途とする籍帳には、これ を記載する必要がなかったからであろう。籍帳に女子の疾名を書かないことは、行政手続を簡易にするためであると いうことは、鰐疾の場合だけは、女子についても疾名を記していることからも推定しうる。即ち籍帳には、男子六名 前篇で述べたごとく、篤疾者は、男女を問わず免税の特典が、その看護 に対し、五名の女子の篤疾者がみえる
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人(伴丁﹀にまで及ぶから、記載はこれを省時しえないのである。 身体障害者は、上記のように国司の貌定によって、残嬢篤の三疾に分類され、後述のように夫々租税法上の特典を 与えられるのみならず、健康者と同一面積の口分田を班給される。陪唐の制では、身体障害者は租税を減免される代 りに、その与えられる口分田の額は、健康者より少い。わが令が身体障害者にも健康者と同一額の口分間を与えてい ることは、わが律令の身体障害者保護法の陪唐制と異なる点であって、わが国身体障害者保護法が、惰唐の制よりも 障害者に対する保護が厚いとされる根拠は主としてこの点に存する。残康篤疾者が、現実に健康者と同一に口分旧を 班給せられていたか否かについては、 これを徴すべき直接の史料はない。大宝二年の筑前、豊前、品最後国戸腕利には、 各戸の受旧額が附記されており、その戸の中には、残段篤疾者を含む例がある。しかし、虎尾俊哉氏が指摘されると この戸籍にみえる受田額は、飛鳥浄見原令の班田法によって、班回予定面積を機械的に割出したもの こ ろ に よ る と 、 であるという。戸籍にみえる受田額から飛鳥浄見原令が逆推しうるか否かは別として、 られた口分田面積を一示すものではないとみる見方は正しいと思う(ぢ。 この受田額を、現実に相田せ 代 この史料によって、三疾者がこの時 この土地において現実に給与せられた日分間の面積を推定することは困難であるといわねばならない(♂。しか し、班田の実際の台帳となる田籍は戸籍が造られた後に、これを照合することによって造備せられる。同絡には、所 従 っ て 、 謂郷土法が参酌せられるから、田籍に記載せられる口分間面積は、土地土地によって寛狭の差が生じ、戸籍記載のも のとは必ずしも同一でなかったが、各人相互の口分出面積の率は、戸籍の記載が規準となり、これに変更を加えるこ とは認められなかった。従って戸籍に身体障害者が、健康者と同額の口分田を与えられることになっていれば、田籍 の記載も同様であったと考えねばならない。大宝二年の戸籍記載の残懐篤疾者の口分田額が健康者の口分間瀬と一致 律令身体障害者保護法の実施 一 一 七
東 洋 法 学 二 八 することは、虎尾氏の指摘せられる処である。従って吾人は、 この戸籍の記載から身体障害者に健康者と同一の受回 権利を与えようとするわが令の主義が、 この時代において実行に移されていた
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少くとも実行に移す意志が為政者 に存在した!││ことは推知しうると思う。 身体障害者の租税法上の特典は、戸令戸主条本註及び賦役令調絹条、歳役条、舎人史生条等に規定があり、残疾者 は、調庸は半免、雑絡は全免、嬢篤疾者は、調庸雑絡会免ということになっている。即ちこの時代の籍帳についてみ るに、嬢篤疾者は、すべて不課口(免税者)の中に数えられている。一例を挙げれば、神亀三年の山背国愛宕郡雲上 里 計 帳 に は 、 戸主大初位上出雲臣千依戸 中 略 ~ 不課口拾漆人旧 男 拾 弐 人 似 ア 一 、 緑 工 、 感 疾 一 、 小 子 七 、 香 芝 、 奴 一 、 とあって(日、療疾者は不課口の中に加えられていることが知られる。律令税法においては、租税は籍帳を台帳とし て課せられるから、有疾者が籍帳に不課と記入せられている以上は、それが現実に免税せられていたことは疑ない。 次に残疾者については、神亀三年山背国愛宕郡雲上里計帳に 戸主出雲巨人網戸 ( 中 略 ﹀ 課口弐人見 輸 弐 人 正 了 一 残 了 輸調銭拾参文半 とある(お)。同年山背国愛宕郡雲下里計帳にはまた、 戸主大初位上出雲臣筆戸 ( 中 略 ) 課口老人 見 輸 老 人 圧 す 輸銅銭玖文
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丁一人が調の物に代えて負課せられた銭は九文であったことが知られる。し かるに右の戸主出雲臣八網戸では、正丁一人、残丁一人の分が、銭十三文半であるから、残丁の負担瀬は正に正丁の 半分四文半となっている。故に上記の計帳の記載は、残疾者の調を半免するという賦役令の規定が実行せられていた ことを証している。身休障害者が、雑径を現実に免除せられていたか否かは、これを徴すべき史料はないが、障害者 が当時において雑径の一種と考えられていた軍役を免除せられたことを現実に示す史料としては、天平六年の出雲国 とあるからa y
この地方において、 計会帳に 十一月 ハ 中 略 ) 一、廿四日進上勝部建嶋二目盲替事 律令身体障害者保護法の実施 二 九東 洋 法 学
。
右、差神門軍団五十長出雲積友麻目充部領口口、 とあるものを挙げることができるお ) Q 戸令三疾条によれば、二日盲は篤疾である。この勝部建嶋は軍役中何等かの 事故によって盲目となったものと推定される。彼はそのために軍役を免除されて除隊せられ、その替りの者が新たに 徴集せられたのであろう。 身休障害者に対する刑法及び刑事法上の特典は、前篇で述べたごとく名例、断獄の両律及び獄令に規定があって、 楼疾者は賎銅を以て実刑に換えることが貼附され、篤疾者は多くの場合、その刑が減免せられ、またこれらの燦篤疾者 は、拘禁手続においても寛大なる取扱を受けることになっていた。かような規定が実施されたことについては、西宮 記巻二十二臨時十一裏書に次のような史料がある。 勘申強盗三定借正可着欽哉事 右得正強盗犯承伏、過状己畢、而得王瞥E
切也、可着欽哉者、名例律一去、嬢疾犯流罪以下収賄、盗亦収頭、疏一去、 療疾為幹疾収類、盗既侵損於人、故全不許免口。令其収蹟、不言強縞、戸令云、一文燈為嬢疾者、至子療疾、縦 強盗、唯・徴瞬鋼、不着欽、例勘申、 寛弘四年五月十八日 ︿ 右 カ ﹀ 左衛門少志尾張如春 防鴨河判官右衛門尉 豊原為時 左衛門少尉県犬養為政 右は、身休障害者である強盗犯に、欽即ち足伽を施してよいかどうかという検非涼使の問に対して、当時の明法家達が解容を与えたものであって、今日の判例に相当するものである。この解答において、当時明法家達は、 令の一支療に相当するものであるから、療疾として取扱わるべきであり、楼疾者は名例律により、仮令強盗罪を犯し ても銅を以て罪を願うことが聴されているから、着欽を施さず、舶を徴して釈放すべきであるとしている。この判例 一手療は戸 が出されたのは、寛弘四年ハ西暦一
OO
七年﹀であるから、養老律令施行からは、すでに二百五十年の歳月が流れてい る。この時代には、律令制はすでに衰退期に入り、律は、検非違使の庁例にとって代られつつあった。検非違使の庁 例においては、一般に律よりも軽い刑が定められているが、強盗罪に対しては、当時の群盗横行の世相を反映して、 律よりも厳刑が課せられた。かかる時代においですら強盗犯に対しても、嬢篤疾者に刑の減免を与える名例律の規 定、慶篤疾者に刑具を施さない獄令の規定が、依然として維持せられていたことは注目に値する。律令の公布直後で ある奈良時代において、右の条文が裁判規範としてよく行われていたことは、右の事実によって充分に推定しうる処 で あ る 。 戸令鯨寡条によれば﹁自在する能わざる﹂残疾者嬢疾者は、近親または隣人より扶養せられるべきものであり、ま た給侍条によれば篤疾者は、特に侍丁なる専任の看護人が付され、その看護に万全が期されることになっていた。侍 丁または近親坊里の者が、愛と同情をもって身体障害者の扶養、看護に当ったか否かは、国民の宗教心並に道徳性如 何の問題であって、次章に説くべきことであるから、ここでは果して現実に身体障害者にかような扶養者または看護 人が、国家によって選任せられたか否かについて論ずることとする。類来三代格所収弘仁十一年四月の太政官符には 応収養在路飢病、無由連郷、並不能自春百姓事 右存悩之事、載在令条、国郡官司理須遵行、而収養医療未聞其事(以下略﹀ 律令身体障害者保護法の実施東 洋 法 学 とあるから、不能自在残嬢疾者を近親坊里をして収養せしめることを徹底せしめることは、相当困難であった模様が 察知せられる。しかし、この頃の格は、法の厳守を命ずるに当って、度々激越の辞を用いているから、 ﹁而収養医療 未聞其事﹂なる伺を以て、令の規定が余然行われなかったという証とはなし難いと思う。大宝二年美濃国戸籍、筑前 国戸籍、豊前豊後国戸籍には、何等かの原因によって近親または他姓の戸に身を寄せた者と推定しうる戸主同党また は寄口、寄人とよばれる者が多く載せられている。この戸主同党、寄口寄人が、戸内においていかなる地位を占めた かは、他家に身を寄せるに至った原因は夫々異なるであろうから、にわかに断定しがたいが、いずれも江戸時代の厄 介的なものであったことには変りがないと考える。戸籍に記載せられている残嬢疾者には、この戸主同党または寄人 寄口となっているものが甚だ多く、これを図表にすれば別表のごとくなる。 -一 残 一 段 者 一 残 一 決 者 一 残 一 段 者 一 一 駿 疾 者 一 療 室 三 俊 民 す ﹄ 一 一 総 数 : 一 一 戸 主 阿 党 一 一 寄 R . 4 二 総 数 : 一 一 円 主 同 一 党 一 審 . R e d -,
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四 八. ー_L.. ノ¥ 計 十 十 四 即ち残疾者、療疾者について、総数の約半分 が、戸主同党乃至寄口である。務嬢疾者の多く _L.. J、
の者が、戸主同党または寄口である事実を以て 戸 A V 鯨寡条がよく行われていた証拠であるとす 四 ることは勿論危険である。これらの寄口の中に は、正丁を伴なっている者もあるから、かよう な残療疾者は、その正丁の労働力をかわれて、官司の選定によらず他家に身を寄せていたものと思われる。しかし残 療疾の寄口の中には、単独で他家へ身を寄せている者もある。かかる者の一部には、戸令の条文によって救悩をうけ るべく、寄口となったものがあったのではあるまいか。次に篤疾者に侍丁が付せられたか否かということであるが、丁と確定しうるものは一つもない(ぎ。 これについては徴すべき史料がない。籍帳には、侍人、侍丁、侍と附記せられたものが六例まであるが、篤疾者の侍 篤疾者の実例は相当数あり、且つ篤疾者の戸口中に正丁がいる例があるにも かかわらず、その正丁に侍丁の附記がないことは疑問とせねばならない。しかし女子の篤疾が、籍帳中に特に明記せ られていることから推して、籍帳に附記がないというだけの理由で、篤疾者に侍丁が選任せられなかったとみること は危険である。前述のごとく令制においては、女子はすべて免税である。従って女子について身休障害の有無を記す ることは侍丁が付せられる場合以外には必要がない。 ぼ、籍帳の中に女子の篤疾について、特に記載がなされている事実を説明しえなくなるであろう。 故にもし篤疾者に侍丁が現実に給せられなかったとみるなら ( 1 ) 名例律には 凡称日者、以百刻、(中略)称人年者、以籍為官、 とあり、これと同文である庸律疏議には、 間同、依戸令、疑有姦欺随状貌定、若犯罪者年貌懸具、得依令貌定科罪以否、答日、令為謀役生文、律以定刑立制、惟刑是岨 貌即姦生、謀役柏軽、故得臨時貌定、刑名事童、止可依拠籍曹、律令義殊﹀不可破律従-令、、、、、 とあるから、律令制においては、人の年令に関する戸籍の記載は、刑事訴訟法上は、その年令とみなされ、・租税法上は、その年 令と推定せられる効力を有したことが知られる。(戸令集解造帳籍条所引の﹁践例﹂には、これに反する説が載せられているが これは唐の判例であって、名例律の条文の解釈ではない。﹁法例﹂については、滝川政次郎氏﹁令集解に見える唐の法律史料﹂ 支那法制史研究一一五頁参照)。疾に関する籍帳の記載も、叙上の年令に関する籍帳の記載に準ずる効力を附せられていたもの と 考 え る 。 ︿ 2 ) 特典を貧るために、身体障害者を偽装し、または、自傷して障害者となることは、詐偽律の禁ずる処である。即ち律逸文 T ﹂ + h
、
律令身体障害者保護法の実施東 洋 法 学 四 ( 恐 術 ) 凡詐疾病有所避、杖一百、若故自身傷残者、安反従一年、 とある。管見の及ぶ処、わが国の史料ではいまだ課役を避けるための偽装障害者、自傷者の実例をみ出しえないが、身体障害 者が、わが国とほぼ同一の特典を享受した中国においては、偽装障害者及び自傷者の史料は数多くみ出しうる。白居易の﹁新豊 折管翁﹂等は、特に著名であり、その外にも、晋書菰寧伝、資治通鑑唐紀十一、太宗貞観十三年八月の条、同書唐紀十二、太宗 貞観十六年七月の条、同書唐紀四十八、徳宗貞一元一一年入居の条には、謀役兵役を避けるための自傷者偽装障害者のことがみえて い る 。 (3v延喜一一年、阿波国戸籍、同八年、周防国戸籍、寛弘元年、讃岐国戸籍(竹内盟三氏、平安遺文巻一、.巻二所収)、国郡未 詳長徳四年戸籍、国郡年月共に未詳戸籍(大日本史料第二編之三﹀等の平安時代の戸籍の中、障害者の記載のあるものは、延喜 八年周防国戸籍のみである。しかも、周防国戸籍においですらも、総口三百三十九人中、僅か残疾者二名が記載せられているに 過ぎない。この僅かな数字が、真実の身体障害者の数を反映しているとは、到底考えられない。これは、地方政治が素乱し初め た平安朝中期において、律令の他の諸制度と共に、国司による貌定もまた実行不可能に陥った結果、犬量の真実の身体障害者が 戸籍から脱漏せられるに至ったものと考える外はない。 (4﹀大日本古文書巻ご、四三、六三、七九頁。 ︿ 5 ) ﹁賢所部手実﹂が計帳作成の場合だけ行われるか、戸籍作成の時にもまた行われるかについては、令集解所引の明法家の 説が分れている。従って戸籍作成の時に新たに貌定をするか、計帳の貌定をそのまま戸籍に転写するかについても説が分れてい たわけである。義解、集解穴記、師説は前説をとるが、古記は天平時代の式を引いて後説をとっている。しかし、戸令造帳籍条 に は 、 凡 戸 口 当 造 帳 籍 之 次 、 一 再 々 と明記されてあるから、令の解釈からいえば、前説が妥当なものであろう。 ( 6 ) 養老の考課令には、 凡国郡司、撫育有方、戸口増強者、各准見戸、為十分論、加一分、国郡司(以下註、調株及少領以上)各進考一等、毎加一分
進一等ハ以下話、増戸、掴間増課丁、率一丁、同一戸法、毎次了二口、中男四日、不課口六口、各同一丁例、其有破除者、得相 折之)、以下略。 と あ る か ら 、
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丁の増加は、国司にとって、不課口の増加の六倍の功となる。 ( 7 ) 沢田吾一氏の奈良時代の戸籍についての統計によれば、男女の比例は、美濃国戸籍においては、男一 OO に 対 し 女 一 O 九 筑前豊前豊後の戸籍においては、男一 OO に対し女一二了三、下総国戸籍においては、男一 OO に対し女一三 0 ・九となる (奈良朝時代開制の数的研究、六一頁)。女子が男子よりも常に多い処よりみて、多少不一止があったことは推定できるハ滝川政 次郎氏﹁律令時代の農民生活﹂一二二頁参照)。 ( 8 ﹀延喜二年、阿波国戸籍の男女口数の比例については、川上多助氏﹁日本古代社会史研究﹂一九四頁参照。 ︿9)沢田氏・上掲書八一頁。 (叩)竹内理三氏寧楽遺文上、一三七頁、一四四頁。 ︿日)女子の鰐疾者は、襲濃国戸籍に一例、豊前国戸籍に一一例、山背国計帳に一例、養老五年類載国郡未詳戸籍に一例みえる。 (ロ﹀虎尾俊哉氏﹁浄御原令の班田法と犬宝二年の戸籍﹂(史学雑誌六三ノ一o
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(日)なお、身体障害者に健康者と同一面積の口分田を与えるという制度は、平安時代に入ってから、筑前、土佐等の国におい て、公式に寄定されている(三代実録、清和天皇貞観十五年十二月の条、光孝天皇仁和一苅年十三万の条)。しかし土佐国の場合 には、﹁一班之問、依此行之﹂とみえるから、この処置は試験的なものであったようである。 ( 4 ) 寧楽遺文上、一五 O 頁 。 ︿日)同書同巻、一五 O 頁 。 ( 凶 ﹀ 同 署 同 巻 、 一 五 九 頁 。 ハ 口 ) 同 審 問 巻 、 三 三 一 一 良 。 (国﹀侍丁の実例は、大日本古文書巻一所収養老五年類載国郡未詳戸籍に一例、同曹関巻神亀三年山背国計帳に一例、問書巻一一 十四、天平五年右京計帳に一例、同書巻一天平五年右京計帳に一例、寧楽遺文上、山背国愛宕郡計帳に一例、大日本古文書巻二 律令身体障害者保護法の実施 五東 洋 法 学 /" 天 平 十 二 年 越 前 国 計 帳 に 一 例 み え て い る 。 為政者の励行の熱意の理由 第一一節の考証によって知られるように、奈良平安時代の古文書、判例には、律令の身体障害者保護法が、国家によ って相当によく励行せられていたと思われる記載が、所々に見出しうる。為政者が、この制度を対外的虚栄心等のた めだけで立法し、その実行には全然関心を払わなかったという懸念は先ずないものとみてよい。しからば何故に為政 第二節 者は、この制度の励行に熱意をもちえたのであろうか。 練って考えるに、一般に或る国家が或る法制度の実行に熱意を一示す場合には、その法制度の目的と国家の重要政策 との聞に一致がみられる場合が多い。即ちこの場合には、法制度が実行せられるか否かは、直ちに国家の利害に関す ると為政者によって思考せられるからである。身体障害者保護法といえども、またこの例外ではないと考える。故に 私は、為政者の法施行の熱意の理由宏、身体障害者の救済ということが、王朝時代の国家の重要政策に密接に関連す るものであったことに求めようと思う。 奈良時代を通じて、わが為政者が、国家の最高の理想として標傍したことは王法仏法併存の思想に基いて政治を行 ってゆくということであった。即ち今日のわが為政者が、常に民主主義を口にするように、この時代の詔勅官符には 王法仏法並び行われる楽土を建設するということが、くり返し説かれている。延暦僧録、近江天皇菩薩伝にみえる。 叉一訳、天皇菩薩臨府万機、受仏遺嘱、王仏両輪並化、真俗二諦倶陳、 なる語は、当時のかような理想にそった君主の姿を、最も端的に述べている ( 1 ) Q この王法仏法並存なる概念の背後 精神をなしているものは、 いうまでもなく儒仏の習合思想である。六朝時代において、中国の民族宗教が仏教思想を
とり入れて、道教とよばれる独特の教義と儀礼とをもっ宗教にまで発展したことは、史上顕著な事実であるが、儒教 思想もまたこの時代において仏教の影響を多分にうけたのであって、北斉の顔之推の﹁顔子家訓﹂には、かような儒 仏習合の思想がすでに明瞭にみえている。この思想は奈良時代前期にわが国に輸入せられ、上流階級の政治道徳思想 に最も大きい影響を与えた。即ちこれを個人生活の商に展開せしめたのが、吉備真備の﹁私教類来﹂であって、彼は 儒教の仁を仏教の慈悲に当て、仏教の不殺生戒を儒教の仁不殺に包摂し、頻りに儒仏二道の調和を図っている(宮)。 またこの思想を国家政治の面に具出帆したもの、これこそ前述の王法仏法並容の理想国是なのであって、儒家の説く王 道政治の根本たる仁政と、仏陀の説く慈悲とを調和せしめ、これを国政の最高理想とせんとしたのである。奈良時代 を通じて、中央においては僧政を統べる僧綱が、太政官と相並んで政治を指導し、地方においては、国分寺の国師講 師が、国司と相並んで百姓の教佑を掌ったが、これは前記の王法仏法の精神を、政治組織面に具体化せんとしたもの であるといってよい。 前篇で述べたように、儒教は王道の基礎を仁政におき、その仁政の一表現として無告の窮民を救済することを重ん じている。仏教の教義もまた、慈悲を重んじ、国家個人を問わず窮民を救済することを以て功徳の第一としている。 従って、仁政と慈悲とを習合せしめた王法仏法並在の理想を政治の最高理想として標梼する王朝国家にあっては、福 祉国家の外貌を装うための窮民に対する救済事業は、これを嬢止することができない。従って、この時代の為政者が 窮民中の第一におかるべき身体障害者の保護救済を以て、国家の重要政策に密接に関連するものとしたことは正に当 然なこととみてよいと思う。 王朝時代においては、身体障害者は、律令による保護のみではなく、国家の行政処分又は福祉施設によっても種々 律令身体障害者保護法の実施 七
東 洋 法 学 i¥ の保護を受け得ることとなっていた。即ち当時の朝廷は、国家に災妖ある際、または国家に慶祝ある際には、屡々恩 赦を行っているが、その思赦令には、罪囚の罪を赦すと同時に、不能白容の身体障害者に対して、特別の思典または 賑怖を行うことを附一一目することを常としている。また福祉施詞としては、聖徳太子や光明皇后によって初められたと いう悲回院、施批衆院が天王寺その他の諸国寺院に附設されており、また大宰府には、続命院が設けられていた。かよ うな行政処分及び一柏祉施設は、少くとも奈良時代においては、 われわれの想像する以上によく励行せられていたので あって、中国の六朝時代においてみられたように、赦令が一向に実行されなかったり、福祉施設が飾り物に過ぎなか ったりするようなことはなかったと考えられる。続紀、聖武天皇天平十年春正月壬午の条には、 立阿倍内親王、為皇太子、大赦天下、但謀殺殺詑、私鋳銭、強秘二盗不在赦限、若罪至死降一等、其六位己下進 位一階、高年窮乏孝義人等、量加賑畑、 なる赦令がみえるが、同年に作成された淡路国正税帳には、 酒鼎併弐斗陸升陸合 依恩勅賑給高年之徒穀弐拾弐併陸斗 奉 天 平 十 年 正 月 廿 日 恩 勅 、 賑 給 高 年 及 鰍 寡 悌 独 亦 病 州 之 徒 七 百 一 十 四 人 、 八 十 年 以 上 一 十 八 人 、 人 別 六 斗 、 鰍 八 十 一 一 人 、 人別六斗、寡八十八人、人別四斗、惇七十六人、人別四斗、独叶六人、人別四斗、篤民五十九人、人別三斗、癒疾八十二 人 、 人 別 一 一 斗 、 病 疾 二 百 七 十 人 、 人 別 一 一 斗 、 と あ り ( 日 ) 、 また周防国正税帳には、 依一六平十年正月十三日思勅、賑給高年及鯨寡僚独疾疹不能同存者之徒、合参肝弐伯漆拾弐人、穀捌伯参拾漆併
九十歳一人二斜、八十歳廿七人別一斜、鯨十六人別﹂ハ斗、鰍廿六人、寡掛三人、合六十九人別五斗、鯨六十九人、寡一一百三人、 独廿一人、惇一百二人、合三百九十五人別四斗、寡二百九人、惇一百九十一人、独三百九人、病者一百叶七人、合八百拙六人 別三斗、惇一百サ人、独一百一十四人、病者八百廿八人、窮乏五百冊一人、合一千六百三人別一一斗、窮乏三百一十五人別一斗、 とあって ( 4 ) 、 恩赦による賑給が、全国の国司によって確実に行われていたことが知られる。 また施薬院が、現実に 福祉活動を営んでいたことは、大日本古文書所収の 施薬院請物 桂心老伯斤 右件葉、為用所尽、既無院裏、今欲買用、亦無売人、例請如件、 天平宝字三年三月十九日 葛木戸主 笠 なる文書や ( 5 ) 、正史に度々みえる施薬院への水田の給与等によっても明らかに知られる処である ( O ) 。律令国家の王 法仏法並存の国是は、政府の律令支配を正当化するために、是非これを維持する必要のあるものであった。故にこの 国是は、為政者を駆って、身体障害者の保護に甚深なる関心を抱かしめたものと推定してよいと思う。 ( 1 ﹀日本高僧伝要文抄ハ国史大系本﹀。なお、同書所引の延暁僧録には、 聖 武 皇 帝 菩 薩 、 真 諦 俗 諦 隻 行 、 皇 輸 仏 輪 斉 転 、 恭 敬 三 宝 、 欽 若 保 命 、 撫 育 斡 首 、 事 同 赤 子 、 律令身体障害者保護法の実施 九
東 洋 法 学 問
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な る 一 文 も み え る 。 ( 2 ﹀﹁私教類緊﹂にみえる儒仏習合思想については、滝川政次郎氏﹁私教類緊の構成と其の思想﹂ 照 。 ( 3 ﹀ 大 日 本 古 文 書 巻 二 、 一 O 四 頁 。 ( 4 ) 同 害 同 巻 、 一 三 七 頁 。 ( 5 ﹀ 寧 楽 遺 文 、 二 五 八 頁 。 ( 6 ) 例 え ば 、 続 日 本 紀 孝 謙 天 皇 一 元 年 十 二 月 の 条 に は 、 辛亥勅、普為救養疾病及貧乏之徒、以越前国製同一百町、永施山階寺施薬院、 ( 日 本 法 制 史 研 究 所 以 ﹀ 参 な る 文 が み え る 。 第二章 律令身体障害者保護法と一般庶民の生活規範 前章の考証によって、律令身体障害者保護法の目的は、当時の為政者逮の最高政治道徳思想と一致し、為政者一はこ れを励行する熱意を有していたことは明らかとなったと思う。しかし当時、為政者と一般庶民との聞によこたわった 文化教養の懸隔は、今日の上流階級と下屑階級とのそれに比すべくもない。この時代には為政者の道徳思想と庶民生 活を規律する規範とが全く一致をみない場合は度々あった。当時の朝廷が度々一般人の俗信を禁止する官符を下して い る こ と や 、 名国司が民衆の俗信を廃止した話ハ例えば文徳実録仁寿二年二月の この間の事情をよく物語っている。従って為政者によって律令身体障害者保護法が重要視せられていたから 一般民衆もまた同様であったであろうとは、必ずしもいえない。身体障害者保護法の条文の中で、租税法 史記の河伯の説話を思わせるような、 条 ) は 、 と い っ て 、や刑事法の条文は、為政者にこれを励行する熱意があれば強行実施することも可能である。しかし保護法の要をなす 碕癒疾者を近親坊里に付して安値せしめることや、篤疾者を侍丁によって看護せしめることは、官吏による監督をい かに厳重にしても、民衆の協力なくしては実現されない。民衆の法に対する継続的な協力は、いうまでもなくその法 が民衆生活を規律する規範と大綱において一致している場合においてのみ期待しうる。従って律令身体障害者保護法 の実施に関しては、為政者の励行の熱意と共に、一般庶民を律する規範が、身休障害者をいかに過すべしと要望して いたかを検討することが必要である。身体障害者を救価するか否かに関する庶民間の規範は、その時代の民間信仰の 教義、民間道徳の発達の程度によって決せられる。 奈良平安時代において、庶民聞に弘通していた宗教は、わが民族宗教たる神道と、外来宗教たる仏教であった。固 有信仰たる神道が庶民生活を左右していたことは、容易に理解しうるが、外来宗教たる仏教は、いかにして庶民の信 仰をかちえ、その生活の中に入り込みえためであろうか。先学の研究によれば、渡来直後の仏教は、帰化人及びこれ と密接な関係を有する氏族の氏族信仰として、 その第一歩を踏み出し、 その後朝廷における帰化人勢力の撞頭に乗っ て、中央に進出するに至った。而して各氏族のもつ氏神を、より高次の立場から、 これを統制せんとする意欲をもっ 皇室によって採用せられるに至って一段の飛躍をとげ、遂に国教たる地位を確保するに至った。即ち、仏教は、その 初期の段階においては、有力氏族、及び皇室等の政治力権者と結びつくことによって、その勢力を伸した。故に奈良 遷都以前の政治の中心であった飛鳥地方に残る巨大な疲寺の祉は、 この頃にお付る仏教の大きな政治的勢力を物語る が、その説く処が、 一般民衆によって理解せられ、尊崇の対象となっていたという証拠とはなしえない。奈良時代に おいても、政治的には僧尼を統御する僧綱の勢力は、しばしば国家の最高の機関である太政官を圧し、玄防道鏡等の 律令身体障害者保護法の実施 四
東 洋 法 学 四 霊俗両界を支配する法王的容在を輩出せしめたが、かようなことも民衆には一向に無紘な出来事であったものとみな ければならない。仏教の一般民衆への弘通に関する史料は、僧行基等によって代表せられている所謂平民仏教源の布 教を物語る、続紀養老年聞の記事等を、初見とする。僧尼令集解に、 古記一去、別立道場、緊衆教化、謂行基大徳行事之類是 とみえるがごとく、行基は国家が公認している仏寺以外で庶民に対して布教を行い、続紀聖武天皇一大平勝宝元年二月 丁 酉 の 条 に 、 道俗慕化追従者、動以千数、所行之処聞和尚来、巷無居人、争来礼拝 とみえるがごとく、多くの信者を得た。行基の布教は、為政者から﹁詐称聖道、妖惑百姓﹂と評せられる程卑俗なも のであった。しかし卑俗なるが故に、その説く処が民衆に理解せられていたのであろう。続紀以後の史書には、一般 庶民にして熱烈なる仏教徒であった者が、各地に春在したことを知らしめる、少からざる記事がみえる。このことは 庶民に対して布教を行い、成功を納めた者が、行基一人に止らなかったことを示すものである。 前篇に述べたように、原始神道においては、身休障害者は神の怒りに触れたものであり、 ツミケガレの具顕者であ これに対して仏教は、身体障害者病者 及び老疾者に深い愛憐の皆を向け、かような者に対して親疎の別なく救済の手を差伸べることが、仏の御旨にそえる 無上の功徳であるとしている。当時わが国に伝来していた経典に病疾者を救療看護することを以て、仏子たるものの っ て 、 かような人々を見触れ聞触れすることすらもケガレとされている(と。 最高至上の行為であるとする文言の多くみられることは、先学の度々指摘せられる処である︹ 2 )。 そして、かような 理論は、経文の研究に一生をささげる学僧遠の専有物に止るものではなく、余国を行脚し、民衆の聞に仏教を弘通せ
しめた行脚僧にもよく理解せられていたものと推定せられる。 に伝える貴重な史料であるが、その中巻には、讃岐国の一宮人の妻が、隣家の﹁不能活命﹂ざる処の意図婚を、 非使、我慈悲故入家児数﹂として、引取り扶養を加えた善根によって、死後金官に怯むことが出来たという話がみえ その中には病疾者を救済せよと説く経文の精神が生かされている ﹃日本霊具記﹄は、奈良時代の行脚僧の説法を、今日 ﹁ 駈 使 ている。話としては極めて卑俗化せられているが、 ことが知られるであろう。以上の考察によって知られるごとく当時の庶民生活を律していた二つの宗教は、身体障害 者に対する態度において、対跡的であった。しからば、一般庶民は身休障害者に対する態度として神道仏教いずれの 教理に従ったであろうか。 書紀大化二年二月甲申の詔勅によれば、旅行者が道路に行き倒れとならば、街路にあたる家の人々はそれを救地す るどころか、その同行者に対して肢を科したことがみえ、また溺死者に会えば、 その友人に赦を科したことがみえて いるから、死械生械を忌む思想は、 この頃においても盛であったことが知られる。また類来三代格所載弘仁四年六月 一日の太政官符、承和二年十二月三日の太政官符及び政事要略所収延長八年二月十三日の詔勅等によれば、京畿大宰 府等の先進地域においてさえ、病者や病疾の奴隷を符路に遺棄することがあったことが知られるから、原始神道的な 思想は平安朝に入っても、 いまだ潜存していたものとみられる。しかしかような史料が存在するにもかかわらず、私 は儒教的道徳を旨とする為政者の教ル刊により、或は一般的な文化の発達によって、序々に高まりつつあった庶民の道 徳意識が、すでに奈良時代において、かような神道的禁忌を打ち破りつつあったと考える。津田左右吉博士、村岡典 嗣氏は、何れも書紀、古事記、風土記所収の説話等によって、わが上代人の道徳意識の発達を観察しておられるが、 両 氏 は 共 に 、 かような説話の多くが原始宗教のタブーより脱却し、人に対する同情に重きを置く思想を反映するに至 律令身体障害者保護法の実施 四
東 洋 、虫 学 四 四 っていることを指摘せられている。即ち記紀、風土記の説話が成立した頃には、わが国の庶民は、原始神道の禁忌よ り脱却して道徳意識を高揚せしめつつあったものとみてよいと思う。やや後の史料に属するが、三代実録清和天皇十 六年八月の条には、 随流蕩去者甚多、 提携両児、在小倉中、排扉随河水而流下、挙手招呼岸上人一去、来救我、人々号突、百方相計、水勢奔湧、遂不能 授手、至触橋位、倉壊人没 廿四日庚皮、大風雨、 (中略)与度渡口四辺品川余家、山崎橋南側余家流、 土 入 居 屋 中 、 一 婦 人 なる記事がある。溺死者が非常に織れたものとされることは、大神宮儀式帳に、川入なる罪が、国津罪の一つに数え られていることからも明らかである。また書記によれば大化時代の一般民衆は、溺死をみることすらも、ケガレであ そのような思想は片鱗だにみえず、人々は、将に溺死せんとする婦人に対 して同情の極、号央してその救助に手を尽している。かようなわが国庶民の思想の転換は、これに政治史的年伐を定 めることは不可能であるが、万葉集にみえる﹁備後国神島浜、調使首、見屍作歌﹂等が、行路に病死した者に対して ると考えていた。しかるにこの記事には、 深い同情の念を注いでいることから考えて、奈良時代にまで遡らしめてよいと思う。 道徳意識が発達し、原始神道に対して批判が加えられる程度に庶民の思想的成長がみらるるならば、身体障害者に 対する一般庶民の態度も、上代庶民のそれと比べて余程変ったものになっていたと考えてよいであろう。奈良平安時 代の庶民には、身体障害者に同情の皆をむけることを以て、善行であると考える者が多くなったと思われる。そして もし奈良平安時伐の一般庶民の思想情況が、かくのごときものであったとするならば、この基盤の上に、前述の仏教 思想が、ある程度の結実をみせたことは、当然に推定しうる処であろう。
之を要するに奈良時代以後のわが国一般庶民閣の規範にあっては、身体障害者に対して同情を加えることが善であ るとされ、その善果を積むことが、現世及び来世の福を獲る因となるとされていたと推定できる。従って私は身体障 害者を窮民の最たるものとして保護を加えようとする律令の身体障害者保護法は、当時の庶民にとって少くとも常識 はずれのものではなく、庶民は反ってこれに協力しうる状況にあったとみたいのである。以上の推論にして誤りなし とすれば、残療疾者を近親坊里に付して安値せしめ、篤疾者を侍丁によって看護せしめる法例等は、経済的な余裕が ある者が扶養者に選ばれていさえすれば、大体刑罰による強制はなくとも法の期待する効果を挙げえたものと推定し てよいと思う。 ハ 1)古事記中巻には、垂仁天皇の皇子太牟智和気が、出雲犬神の崇を被うために、出雲に下向された話がみえているが、その 中 に は 、 即曙立壬菟上王二玉、副其御子遣時、自那良戸遇肢盲、自犬坂戸亦遇肢盲、唯木戸是版月之官戸卜雨、出行之時、毎到坐地、 定品遅部也、 なる記事がある 0 ・本居宣長は、これについて﹁さて首途に肢盲の行適ふを不吉とするは、肢は行くことあたはず、盲は前途を見 ることあたはざる者なれば、共に旅行に珠に忌嫌ふぺければなるべし﹂(古事記伝二十五)といい、極めて合理的な解釈を下し ている。しかし私は、文中の肢盲は不具療疾者の例示に過ぎず、不吉なものは散盲に限らないと考える。従ってこの文は、上代 において、旅行者が行路において、不具最疾者に遇って、ケガレに染まないように、出発に当って路を卜う風習があったことを 示 し て い る と 思 う 。 ( 2 ﹀身体障害者、病者を看護せよと説く仏教の教義については、服部敏良氏﹁奈良時代医学の研究﹂ せる影響)、山崎佐氏﹁江戸期前日本医事法制の研究﹂(一二頁﹀参照。 ( 3 ﹀津田左古吉氏﹁日本上代史の研究﹂(第三篇、上代日本人の道徳思想)、 って仏教の医学に及ぼ 村岡典嗣氏﹁日本思想史研究﹂ ( 古 神 道 に 於 け 律令身体障害者保護法の実施 四 五
東 洋 法 品E ーォ」 四 / 、、 る 道 徳 意 識 と そ の 発 達 ﹀ 参 照 。
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前篇において律令の身体障害者保護法の源消及び構成について発表した後、私は二、一ニの友人から﹁かくのごとき 文明的な法制度が、果して千数百年前のわが国において実施しえたものであるうか﹂という質問をうけた。本論はこ れに対して、私の答えた処をまとめたものである。律令身休障害者保護法は、その公布当時において相当によく励行 され、また民衆にも遵守せられていたものと推定できるのである。それは伏して礼儀三百威儀三千の歴史的価値のな い飾物ではなかったと考える。 くり返し述べるようであるが、身体障害者保護法に限らず、奈良時代において、律令の諸制度が、実施せられたか 否かは、国史法制史上の大問題であって、学者の間にはこれを肯定的に解する者も、京判定的に解する者もある。しか しこれらの肯定論、否定論の多くは、いずれも当時の国民の法文理解能力や、権利意識について論じ、律令法典が全 体として実施せられたか否かという大体論に終止しているように思う。現在の成文法典の例をみても、この中には実 施せられている制度も、せられていない制度もある。従って律令の実施不実施を検討するには、律令の制度の一つ一 つについて検討を加えていかなければならないというのが、私の年来の持論である。従って律令身体障害者保護法の 実施を論ずる本稿においても、できうる限り律令法全体が実施せられていたか否かという面から推定する大体論を避 け、これを佃別的実証的に検討した積りである Q 奈何せん、史料の不足のため推論を多く用いざるをえなかった部分 も歩くない。その推論に飛躍なきゃ存やは私の最も倶れるところである。読北叶諸彦の叱正を待って、過ぎたるを改めた い と 思 う 。 律令身体障害者保護法の実施 四 七