「もう一つの途 alia via」(AT.7,40.05)あるいは
超越の途(2)
著者
村上 勝三
著者別名
Katuzo MURAKAMI
雑誌名
白山哲学
号
45
ページ
59-79
発行年
2011-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00000100/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止
http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja
﹁もう一つの途QぼS己
︵AT.VIL 40. 05︶あるいは超越の途︵H︶
︵I︶︵前号掲載︶
I.超越への準備
はじめに
]﹂ 他なるものと真理
口 判断とは他人へと越境することの論理的形式である
目 思いの様態の区分
固 観念の起源
Ⅱ.超越への途
はじめに
︲ デカルト思索史における﹁実象性﹂概念の誕生
口 ﹁実象性﹂概念の歴史的背景
村 上 勝 三
59
︵H︶︵本号掲載︶
目
四
㈲
㈲
﹁第三省察﹂における﹁実象性﹂の度合い
﹁第六省察﹂における﹁優越的に/形相的に﹂の区別
因果の原理
超越を歩む
凡例 AT. : CEuvres de Descartes。 publiees par Charles Adam & Paul Tannery。 Nouvelle presentation。 Vrin 1964-1973 / 1996 GB : Rene Deseartes。 Tutte le lettere 1619-1650。 a eura di Giulia Belgioi osom Bompiani。 20呂’ 本論は紙幅の都合により︵I︶、︵n︶という二つの部分に分割されている。目 ﹁第三省察﹂における﹁実象性﹂の度合い
㈲ ﹁第三省察﹂における﹁実象性﹂という概念について、まず指摘されるべきことは比較級によって示される度合
いについてである。すなわち、﹁実象性﹂は観念が表象する内容の差異として、﹁実体substantialと﹁様態ないしは
偶性modus。 sive accidensjの区別、および﹁有限実体finita substantiaJと﹁或るこの上ない神summus aliquis DeusJ
︵1︶
︵AT.VII。 40.121芯︶の区別に適用され、それ以上の細分化をもたない。テクストのより後の表現を借りて神を﹁無
限実体substantia infinitaJ︵AT.VII。 45’にIに︶と呼ぶことにすれば、﹁実象性﹂が示している度合いは昇順に従って、
様態、有限実体、無限実体ということになる。﹁実象性﹂の段階としてはそれだけである。﹁実象性﹂のもっている存
60
在論上o差異はへ様態のあること﹀、︿有限実体のあること﹀、︿無限実体のあること﹀という差異に対応する。この差 異が﹁いっそうの或る何かmajus aliquidjという関係で示され。この差異は﹁熱さloこの観念、﹁石rl﹂の観念 ︵AT.VII。 41.12︶、﹁神﹂の観念の差異にも適用可能である。少し先走りをして三つの区別の存在論上の表現を探すな らば、われわれは次の三つの実在様相を見つけ出すことができる。︵有限的︶実体は﹁私の外に実在するextra me existere J︵AT.VII。合’S︶とされ、これを﹁現実的実在existentia actualisj︵AT.VII。 117.06︶と呼ぶことができる。 それに対して無限実体である神に帰せられる実在は﹁必然的実在existentia necessariajである︵AT.VII。 383.03︶。最 後に﹁第六省察﹂を参照すれば、﹁純粋数学の対象であるかぎりの物質的事物は実在しうるillas[=res materiales]。 quatenus sunt purse Matheseos objectum。 posse existerej︵AT.VII。 7にヤぶ︶、つまり﹁可能的実在existentia possibilisj ︵AT.VII。 383.16︶という実在様相も付け加えなければならない。 ㈲ この可能的実在は先の段階のなかでは︿様態のあること﹀に対応する。このように実在するもので、たとえば ﹁純粋数学の対象﹂である三角形のような図形を考えることも、数式を考えることもできるであろうし、﹁それらの真 にして不変的な本性Lrerum quse。 etiam si extra me fortasse目Uibi existant。 non tamen dici possiint nihil essejsuas habent veras & immutabiles naturas﹂︵AT.VII。 64.11︶を含めることもできるであろう。これらが﹁純粋数学﹂の対象 として可能的に実在するということはテクストに支えられているとしても、これらを﹁様態﹂と呼ぶことができるの であろうか。というのも﹁第五省察﹂においては本質、属性、様態という区別の上で上記のことが言われているわけ ではないからである。しかし、或る書簡︵Descartes a X***。 AT.IV。 pp.349 / GB。 p. 2132︶を参照すれば、その点 についての疑念は消失する。物体の運動、形は物体の様態と言え、愛も、憎しみも、肯定することも、疑うことも ﹁真なる様態veri modi﹂と呼ぶことができる。それに対して、﹁実在、持続、大きさ、数﹂などは﹁神における正義、61
慈悲と同じように﹂﹁元来の意味では様態と言われない、と私には思われる﹂。しかし、﹁何らかの或る事物の本質を 62
なるほど、実在するかしないかということを引き離して、或る様態でわれわれは知解するが、当の事物が実在するも
のとしても考察され、また別の様態によってわれわれはそれを知解するのだから、いっそう広い意味でそれらは属性
ないし思いの様態とも言われるlatiori vocabul0dicuntur Attributa。 sive m098賢回s﹂。要するに、﹁様態﹂には思い
の様態も物体の様態も含まれ、属性も﹁思いの様態﹂としては様態に含まれる。この観点からすれば、﹁純粋数学の
対象﹂も思いの様態として、あることの度合いとしては同じく﹁可能的実在﹂に割り振られると言うことができる。
﹁思いの様態﹂も事物の様態、事物の属性も可能的に実在することがわかる。
以上のことから、﹁実象性﹂の度合い、それと並行する﹁対象的実象性﹂の度合いは、可能的実在、現実的実在、
必然的実在に対応していることがわかる。もちろん、﹁反論と答弁﹂付の﹃省察﹄を読み終えて獲得した認識から振
り返えれば、上記のように言うことができるということである。これに対して次のような反論が想定される。すなわ
ち、﹁第二答弁﹂﹁諸根拠﹂﹁定義3﹂︵AT.VII。 161︶において﹁実象性﹂は﹁観念のうちにあるかぎりの事物の観念
によって表象された存在性entitatem rei repraesentatae per ideam。 quatenus est in ideajと定義されている。そこに
﹁同じ仕方で、対象的完全性、あるいは、対象的技巧などと言われうるeodemque modo dici potest perfectio objectiva。
vel artificium objectivum。 &c.﹂と付け加えられている。あるいは、﹁第一答弁﹂には﹁対象的完全性、あるいは、対
象的技巧﹂と記されているのだから、﹁実象性﹂は度合いではなく、あるいは、度合いだけではなく個別的事物の規
定内容︵デカルトは事物を類種系列で分類することをしないのだから、相応しい例ではないかもしれないが、たとえ
ば、人間であること、植物であること、などの種的本質︶をも含意しているのではない伺。このように反論される
かもしれない。しかし、この定義における言い換えの肝心な点は、﹁対象的実象性﹂の﹁対象的﹂という点でのわか
りにくさを解消することにある。このことはデカルトがさらに次のように付け加えていることからも明白である。デ カルトは﹁というのも、われわれがいわば対象の観念どもの内にあるかのように知覚するものは何であれ、当の観念 のうちに対象的にあるのだからNam quaecumque percipimus tanquam in idearum objectis。 ea sunt in ipsis ideis objectivejと付け加えている。したがって、﹁対象的完全性、あるいは、対象的技巧﹂の例示に基づいて、﹁実象性﹂ という概念が存在者の実在の度合いではなく、個別的な存在者の何であるかに係わるさまざまな規定性の集まりが意 味されていると考えることはできない。以上のことから﹁いっそうの対象的実象性﹂ということが実象性の度合い を示し、その度合いは三つだけの段階をもち、けっして事物に帰属する規定性も、それの量的な差異をも示してはい ないと結論することができる。このことはカントが示している﹁実象性の総体oI目itud0realitatisj︵I. Kant。 Kritik der reinen Vernunft。 A575、既回︶という神についての把握、つまり、実象性を事物の規定性として捉え、そのすべて の実象性を具えたものとしての﹁神﹂概念を考える上で重要になる。このような把握は、﹁神﹂概念が﹁凡通的規定 の原則der Grundsatz der durchigangigen BestimmungJ︵op.cit.。 A571、思咀︶に反したものという批判を呼び寄せ、 また、実在をさまざまな実象性と同列な実象性の一つであるとする批判︵︽︽rii0ttenbar kem reales Fradikat ≫。 op.cit.。 A598 / B626︶を帰結する。
四 ﹁第六省察﹂における﹁優越的に/形相的に﹂の区別
﹁第六省察﹂では﹁実象性﹂について比較級で述べられることはない。その代わりに﹁優越的にeminenterj/﹁形相
的にformaliterjという対が用いられる。次に、﹁実象性﹂について﹁第六省察﹂においても数量的な多さが問われて
いないという点、﹁優越的に﹂/﹁形相的に﹂が実象性の度合いをどのように補完しているのかという点、これらにつ 63
いて確認することにしよう。﹁第六省察﹂においては﹁私﹂は別にして、﹁物体﹂、﹁神﹂、﹁物体よりも高貴な何らかの 64 披造物aliqua creatura corp0re nobirioこのなかで、﹁感覚可能な事物の観念ideas reram sensibilium﹂︵AT.VII。 79.08︶ によって表象されている実象性、つまり、そのなかに﹁対象的にある実象性の一切が形相的にか、優越的にか、内在 しなければならないomnis realitas vel formaliter vel eminenter inesse debet。 quae est objective in ideisj︵AT.VII。 16-17︶ 実体が探される。その候補のなかで、物体以外は広がりという表象内容を形相的に含むことがない。つまり、︿神は 広がっている﹀とも︿精神は広がっている﹀とも言えない。しかし、神は広がる事物を創造するのであるからには、 それを知解する。また、精神は広がる事物の観念をもつ。つまり、神も精神も﹁広がり﹂を優越的に含む。求められ ているのは︿何かが広がっている﹀と言うことのできる、そういう︿何か﹀である。言い換えれば、広がりを形相的 に含んでいる実体が何かということである。ここで為されているのは、﹁第三省察﹂と異なり、有限実体から無限実 体へという垂直の超越ではなく、水平的超越の遂行である。言い換えれば、有限実体から有限実体への飛び越えであ る。それゆえ、実象性の比較級は用いられることがない。ここでは﹁優越的に﹂と﹁形相的に﹂との差異だけが問わ れる。 別の言い方をすれば、物体的実体の観念が表象するすべての実象性を、それを代替するような仕方ではなく、﹁直 接にimmediatej︵AT.VII。 79.19︶もっている実体が求められる。この課題に応えるために﹁優越的にeminenterJと ﹁形相的に?目匹耳﹂という対が再び用いられる。﹁再び﹂というのも、この対にわれわれは﹁第三省察﹂において 四回にわたって出会っているからである︵AT.VII。 41.07 : 42.20 : 45.08 : 46.26︶。それをもう一度捉え返しておこ う。剛石を産出するものは石のなかにあるすべてを﹁形相的にか、優越的に﹂もっていなければならない︵AT.VII。 41.07︶。閣神の観念の表象する実象性は﹁私のなかに形相的にも優越的にもないnee formaliter nee eminenter in me
・a・﹂︵AT.VII。 42.20︶°即﹁私﹂が物体的事物の観念によって表象するすべては、私のうちに形相的には含まれてい
ないが、﹁私﹂も物体も実体なのだから﹁優越的には私のなかに含まれうると思われるveaentur in me continen posse
eminenterJ︵AT.VIL 45.07-08︶。㈲﹁私によって包括的に把握されないa me。 。。。。 non comprehendatur﹂ものも、﹁神
︵7︶のうちには形相的にか、優越的にかあるvel fo日且iter vel eminenter in Deo essej︵AT.VII。 46.22一回︶。これらのテ
クストによると、第一に、﹁優越的に/形相的に﹂という対は、当の特性というありさまと、その特性を補って余り
があるというありさまの差異を示していることがわかる。言い換えれば、当の特性というありさまと、その特性を引
き起こしうるほどの特性というありさまとの差異である。﹁優越的に/形相的に﹂という対をこの意味で使用するの
は、伝統的であると言え紹。第二に、しかし﹁実象性﹂という概念が先に見たように、存在論的度合いと知識論的
依存関係の下に使用されるのに対して、﹁優越的に/形相的に﹂という対は表象内容が、当のものにとって表象内容
としてあるのか、それ自身の特性なのかという差異を示している。この点はデカルトによって伝統的使用に付け加え
られている点である。これに対して﹁対象的実象性﹂と﹁形相的実象性﹂との対比は﹁実象性﹂が表象されていると
いう仕方であるのか、﹁実象性﹂が﹁実象性﹂そのものとしての役割を果たしているのかという違いであった。これ
を言い換えれば、﹁対象的実象性﹂とは観念によって︿表象された実象性﹀、この意味では︿実象性の表象﹀に当たり、
﹁形相的実象性﹂は﹁実象性﹂そのものに当たる。これに﹁形相的に﹂、﹁優越的に﹂を重ねてみるならば、﹁形相的に﹂
はやはりくそのものとして﹀という役割を示し、﹁優越的に﹂は︿表象内容としてそれを包み込むように﹀というこ
とになる。これら四つの概念を並べてみるならば、次の三つになる。︿表象されたもの﹀、︿そのもの﹀、︿表象するも
の﹀という連関である。﹁第三省察﹂における第一の神の実在証明は︿表象されたもの﹀からくそのもの﹀への超越、
﹁第六省察﹂の物体の実在証明は︿表象するもの﹀からくそのもの﹀への超越と表現することができる。そして前者 65
は実象性の度合いを上に登ることによって果たされ、後者は実象性の度合いを登ることのない超越である。
次に﹁優越的に/形相的に﹂という概念に見出されたこの新しい内容の存在論的含意を探ってみよう。たとえば、
物体は広がりを特性としてもっている。﹁私﹂は広がりの観念をもつ。観念によって表象された﹁広がり﹂の存在様
態が﹁対象的に在ることesse objectivumjである。﹁私﹂に﹁広がり﹂が優越的に含まれるということは﹁私﹂が
︵9︶
﹁広がり﹂の観念を観念としてもつことを意味する。簡潔に言えば、物体の様態は物体の属性に依存し、それを認識
する精神からすれば、物体の属性はそれが知られるという点て、精神の知性という属性に依存する。物体の様態は物
体の属性への依存性を介して、認識という点では精神の様態である観念に依存し、観念は様態として知性という属性
に依存する。物体の様態が精神の属性に知識依存性をもっているということになる。﹁形相的に﹂ではなく、﹁優越的
に﹂ということが示しているのは、この︵物体の様態ないし属性である︶﹁広がり﹂と︵精神の様態である︶﹁広がり﹂
の観念との差異である。物体の様態としての﹁広がり﹂は広がりという規定をもつ。それに対して精神の様態として
の﹁広がり﹂の観念には広がりの他に﹁広がりの観念﹂という規定がなければならない。一言でいえば、﹁優越的に﹂
とは当の規定に当の規定の観念という規定が付け加わることを示している。そしてこのことが﹁秀でている、際立っ
た、盛り上がったeminensJ事態とされる。繰り返して確認すれば、﹁広がり﹂よりも﹁広がりの観念﹂の方が﹁いっ
そう﹂﹁突出する・目立つeminereJということになる。そしてそのことはまた﹁いっそう高貴notiorJという事態と
も重なるであろう。それゆえに、実象性の度合いにおける上昇ではないが、やはり﹁形相的に﹂に対して﹁優越的に﹂
は上昇という方向性を指している。二つの事物が﹁実象性﹂の同じ度合いにある場合、たとえば、同じく︵有限的︶
実体である、その場合にも当の二つの実体の間に度合い上の違いがある。それが﹁形相的に﹂と﹁優越的に﹂という
区別によって示されていることである。デカルト哲学においてこの上昇は、先に見たように、︿そのもの﹀から︿表
66
象するもの︶へという上昇である。これを纏めて一般的な仕方で定式化してみるならば次のようになる。同じく実体 であるという実象性の段階のなかでの、片方の実体における様態・属性に対応するもう一つの実体における様態が先 の様態・属性についての精神の様態という余剰をもつ。これが﹁優越的に﹂という事態である。つまり、﹁優越的に﹂ という事態が成り立つためには、片方の様態・属性を自分の様態として取り込むための属性を必要とする。それゆえ、 この優越的という事態は、﹁第六省察﹂における物体の実在証明における三つの選択肢、つまり、物体と精神、物体 と﹁物体よりも高貴な何らかの被造物aliqua creatura corpore nobiriorj ’物体と神との間にしか成り立たない︵Ai.vn。 79’詰−心︶。なぜならば、或る様態の様態ということは、先の様態を表象する観念という仕方での様態しかありえな いからである。デカルト哲学において﹁優越的に﹂はくある﹀に対する︿知る﹀の優越性を含意しているのである。 ﹁第六省察﹂における物体の実在証明はこの﹁優勝的に﹂から﹁形相的に﹂への移行によってなされる。この移行。 は神の誠実に保証された﹁大いなる傾向性∃agna propensiojに支えられている。この移行が示していることは、精 神の知識論的優越性から物体の存在論的独立性が帰結されるということである。言い換えれば、﹁第二省察﹂におい て示されていた、物体を広がるものとして知っているという点での精神の優越性に基づいて︵﹁精神は物体よりもいっ そう識られるipsa[=mens humana] sit notior quam corpus﹂︵title de M. 3。 AT.VIL 23.10-11︶、﹁第六省察﹂において 物体が精神によって知られていなくとも実在するという結論が導かれる。 ここで、次の二つのことを指摘しなければならない。第一に、先に引用したように﹁観念のうちに対象的にある実 象性の一切が形相的にか優越的にか内在しなければならないo目us realitas vel iormaliter vel eminenter lnesse debet。 quffi est objective in ideisj︵AT.VII。 79.16-17 : traduction par M.Beyssade ≪ toute la realite≫︶と言われる場合のコ 切の実象性﹂についてである。着目したいのは、少なくとも、﹁すべての実象性o目les realitatesj’あるいは、﹁実象 67
性の総体ominitudo realitatisjとは記されていないということである。﹁第六省察﹂の表現が示していることは、先に 68 引用したカントの表現﹁実象性の総体﹂との対比の下に考えれば、さまざまな実象性が集まっているということでは ない。つまり、数え上げられる規定性のすべてがここで指示されているのではない。また、﹁全実象性tota realitasj と言われているのでもない。つまり、﹁実象性﹂という概念が覆い尽くす領域としての個々の何かの全体が意味され ているのでもない。数量的すべてでも、質的全体でもない。それでは﹁一切の実象性o目lis realitasJという表現は 何を意味しているのだろうか。ここで﹃哲学の原理﹄に示されている実体と属性との関係を参照すべきであろう。と いうのも、﹁第六省察﹂の当該の箇所において属性という用語は用いられていないが、実体と属性の関係についての 思考を巻き込むからである。﹃哲学の原理﹄﹁第一部第五三項﹂には次のように記されている。すなわち、﹁なるほど、 実体は任意の︵一つの︶属性から認識されるが、しかし、当該実体には一つの始元的特性があって、それによって当 の実体の本性と本質とが成り立ち、他のすべての特性はそれに関係づけられるEt quidem ex quolibet attributo substantia c0gnoscitur ; sed una tamen est cujusque substantia praecipua proprietas。 quse ipsius naturam essentiamque constituit。 & ad quam alias omnes referuntur﹂︵AT.VIII。 26.121ぶ︶、とされている。その関係づけられ方は﹁物体に 帰されうる他のすべては広がりを前提するomne aliud quod corpori tribui potest。 extensionem praesupponitj︵AT.VIII。 26.18-19︶というようにである。﹁一切の実象性﹂という表現は実体と属性とのこの関係を示しているのではないか。 もう少し内容を開きだしてみれば、この表現によって一つのうちに包み込まれているすべての規定性が示されている のではないか。さらに言い換えれば、﹁広がりextensioJという﹁理拠R︷o︸のうちに包み込まれるすべての規定性 を数量的な観点なしに表現しているのではないか。このことは﹁第三省察﹂における﹁実象性﹂についてのわれわれ の分析と軌を一にしている。
纏めてみよう。﹁実象性﹂は様態、有限実体、無限実体という上昇段階をもつ。この段階は実在の段階に対応し、 より下位なものはより上位のものに対して存在依存性をもっている。それに対して﹁優越的﹂は有限であれ、無限で あれ、同じく実体のなかでの上昇性を示すとともに、属性に対する様態の、そして知性に対する物体的様態の知識依 存性を示す。それゆえ﹁優越的に﹂は因果の原理を、自分が働くための条件としてもってはいない。そしてともに数 の多さに還元することはできない。実象性の度合いとは、既に指摘されているように﹁内包量quantite intensivejに おける度合いではあるが、しかし、数量的把握を拒絶する度合いである。そうではなく﹁いっそう完全である、言 い換えれば、いっそうの実象性を自分のうちに含むid quod magis perefectum est。 hoc est quod plus realitatis in se continetj︵AT.VII。 40.27よ1.01︶という二つの比較級の表す表現が同じことになるような度合いである。次に、超越 のためのもう一つの装置である因果の原理について検討してみよう。 ㈲ 因果の原理 因果の原理は次のように定式化されている。﹁作用的で全体的な原因のうちには、当の原因の結果のうちにあるの と少なくとも同じだけがあらねばならない、ということは自然の光によって明白であるlumine naturali manifestum est tantumdem ad minimum esse debere in causa efficiente & totali。 quantum in ejusdem causae effectu﹂︵AT.VII。 合 ‘ 211回︶。この﹁作用的で全体的な原因﹂という連辞にわれわれは既に出会っている。一六三〇年、メルセンヌが デカルトに﹁どのような種類の原因において神は永遠真理を配したのか﹂と質問をした。デカルトはこれに神は永遠 真理の﹁作用的で全体的な原因efficiens & totalis causajであり、このことは神が被造物の﹁実在﹂とともに﹁本質﹂ の作者であることを示す、と答えた︵Descartes a Mersenne。 27-5-1630。 AT.I。 151-152。 / GB. 152︶。デカルトの定 69
式はまた、スアレスの定式の響きを伝えている。少し長いが引用する。﹁したがって、第一に、結果は完全性におい 70 て一緒に捉えられたその︵結果の︶すべての原因を超え出すということがありえない、ということは確実である。こ のことは証明される。なぜなら、結果のうちには、それの諸原因からもってくるのではないどんな完全性もないから である。ゆえに、結果は、自分の諸原因のうちの或る何かども、︵つまり︶諸原因がどんな仕方でも自分のうちに含 んでいない或る何かどものうちに、形相的にか優越的にか、先立ってあるのではないどのような完全性ももつことは ありえない2. Primo igitur certum est non posse effectum excedere in perfectione oinnes causas suas simul sumptas. Probatur。 quia nihil est perfectionis in effectu。 quod non habeat a causis suis ; ergo nihil perfectionis habere potest effectus quod non praexistat in aliqua caussaram suarum。 vel fo日laliter。 vel eminenter。 quia causa dare non possunt quod nullo modo in se continent.﹂︵F. Suarez。 Disputationes metaphysica。 disp. XXVI。 sect. 1。 art’ド︶。さらに遠くはプラ ︵13︶ トンの﹁同名因果の原理﹂の冊を聞くことができるかもしれない。スアレスの定式化と比較して見出されるデカル トの﹁因果の原理﹂のもっている特徴は二つある。第一に、観念の﹁対象的実象性﹂にこの原理を適用した点である ︵AT.VII。 41.01-04︶。第二に、原因を﹁作用的で全体的原因﹂、つまり、実在と本質の原因に限定したことである。 スアレスの定式における﹁完全性において一緒に捉えられたその︵結果の︶すべての原因﹂には、完全性の内に実在 が含まれていないのであるから、この原因のうちには実在の原因は含まれていない。 デカルトのこの原理が適用されるためには、﹁対象的実象性﹂が、それについて作用因を求めることができるよう なあり方をしなければならない。そのあり方を、デカルトは﹁事物が観念を介して対象的に知性の内に在るres est objective in intellectu per ideam﹂︵AT.VII。 4に1 回︶ こと、つまり、﹁観念についての対象的に在ることesse objectivum idesej︵ATVII。 47.20-21︶と呼ぶ。﹁第一答弁﹂を参照してみよう。そこでカテルスは﹁知性の内に対象
的にあるとは何か1 d est esse objective in intellectu?j ︵AT.VII。 92。 14-15︶と問い、それは事物にとって﹁外的命 名a9 nseca denominatioであり、どんなものでもないR巨︱﹂、そういう在り方をするものに原因を求めることは ︵14︶できない、と述べている︵AT.VII。 92.16-17︶。これに対してデカルト以下のように答えている。答えの要点は次の 3点にある。剛﹁対象的にあることesse objective^は﹁諸対象が知性のうちにあるのが通常である、その様態で知 性のうちにあること以外の何ごとも意味表示しない﹂︵AT.VI。 102.14-15 : esse objective non aliud significat quam esse in intellectu eo mod0quo objecta in illo esse solent︶。剛この﹁在ることの様態essendi modusは事物が知性の 外に実在するという在ることの様態よりも遥かにずっと不完全であるが、だからといって、全面的に無であるという ことではない﹂︵ATVII。 102.28-103.03 : objective。 hoc est eo modo quo objecta in intellectu esse solent ; qui sane essendi modus longe imperfectior est quam ille quo res extra intellectum existunt。 sed non idcirc0plane nihil est︶。要 するに、倒﹁対象的にあること﹂も︿在る﹀ことなのであるから﹁対象的実象性﹂の原因を求めることができる。 この場合に、二つの条件が考えられている。剛或る観念が﹁あのではなくこれ﹂を表すのであるから、そのように 表されていることの原因を求めることができる。閃その表されている実象性、つまり、対象的実象性は無ではなく 在るのであるから原因を求めることができる。つまり、表象内容の差異と表象内容の存在が、観念の表象する内容に 因果の原理が適用できることを妥当にしている。かくして、観念の表象する実象性に因果の原理が適用されることに なるが、その因果の原理は、結果の何であるかと結果の生成を説明する際に用いるすべての要素が原因の内に含まれ ていることを示す。そのような原因が﹁作用的かつ全体的な原因﹂と呼ばれている。言い換えれば、この原理は結果 をその内容においても、生成においても凌駕する原因、先に述べたように、本質と実在の原因を求めるための原理で ある。それゆえにこの原理を適用することによって求められていることは、そのような全体的で作用的な原因を構想 71
することができるのか、あるいは、そのような構想に到達する道筋を少なくとも一つわれわれが提示することができ 72
るのか、ということである。要するに、問われていることは、無限をどのように構想するのかということである。こ
れを繰り広げて述べるならば、﹁私﹂から出発する知識体系における﹁無限rinfmiJの位置が有限性を超越しつつ、
有限を包摂する位置にある、そのような体系を組むことができるのかということである。畢竟するに、﹁私﹂のうち
に﹁私﹂ではないものが見出される場合にだけこの因果の原理は適用の結果をもっことになる。
囚 超越を歩む
こうして垂直の超越が可能になる。そのための条件を纏めてみよう。剛﹁私﹂ではないという意味での﹁他﹂を
﹁私﹂の起源として認めること。②真なる判断が﹁私﹂ではないという地点を求めること。言い換えれば、判断が
﹁私﹂の思いを横溢した事態であると思い至っていること。倒﹁感覚に前もってなかった何ものも知性の内にはない﹂
というドグマを先入的で理由のない意見として、もう一度、観念という場において否定しておくこと、つまり、外来
観念という説明方式の理由のなさを明らかにすること。これらが無限の方へと超越するために予め捉え返されておか
なければならない経験である。これらの経験をもって探究の途に入る。つまり、﹁観念﹂、﹁実象性﹂、﹁対象的に在る
こと﹂、因果の原理を経験の場に適用する。しかし、この途に実質を与えるためには先の三つの経験だけでは足りな
い。もう一つの経験、﹁無限﹂についての経験が求められる。われわれの一人一人が﹁私﹂でないものを﹁私﹂のう
ちに見つけるという経験である。これを見つけるためには、われわれが﹁すべて﹂という言葉を有意味に使うことが
できているのにもかかわらず、限定されていない﹁すべて﹂という語の使用法を説明できないことが要点になる。
﹁すべて﹂という語の使い方を説明しようとすると、次の二つの選択肢に拘束されていることに気づく。第一は、﹁す
べて﹂を時間・空間的に限定することが要求されるか、あるいは、内容をなす項目によって﹁すべて﹂が限定される 必要がある。もっと簡潔に言えば、﹁すべて﹂という語は、その使用法が理解されるために﹁何々のすべて﹂の﹁何々﹂ という限定を求めるということである。あるいは、第二に、地平退行のように無際限への進行を認めなければならな い。つまり、﹁すべて1﹂は﹁すべて2﹂に限定され、この系列が無際限に続くというように。後者の選択肢は、し かし、事柄としても、無限退行という論理的難点を生み出すだけであるとともに、デカルトによって否定されてもい る︵c/ AT.VII。 42.08-11︶。無限退行を拒絶するかぎり、﹁すべて﹂という言葉の使用法を説明するためには、前者の ような仕方での﹁すべて﹂についての限定、つまり、﹁すべて﹂という語の作用域の限定を必須とする。﹁すべて﹂と いう言葉の使用法を説明するためには、集合の要素の次元を超えて集合を外から限ることが求められる。 われわれは世界全体、宇宙全体の外に出ることはできない。にもかかわらず、われわれは﹁宇宙全体﹂という表現 を有意味に使うことができる。つまり、われわれは何らかの仕方で宇宙全体を超えている。しかし、宇宙全体を超え て、さらにその先にあるものを超えなければならない。しかも、この系列を無際限に続けることはできない。という ことは、それを超えると何もないという事態を認めなければないということである。しかし、それを超えて何もない ということを﹁私はどこから知るのか目910﹂︵AT.VII。 24.19︶。この起源への問いに導かれて、限定のない、終 わることのない﹁すべて﹂に向かって進み続け、われわれの知も尽き果てることになる。その一方で、われわれはど こかで終わることのない﹁すべて﹂を使わずに﹁すべて﹂という語の使い方を説明することはできない。そのように、 どこかで終わる﹁すべて﹂はいつもどこでも終わらない﹁すべて﹂に支えられている。もし、﹁ない﹂よりも﹁在る﹂ が認識の秩序において先立つならば、﹁私において有限よりも無限の知覚の方がある仕方でいっそう先立っている﹂ ︵AT.VII。 4t).Z9 : priorem quodammodo in me esse perceptionem infmiti qum finiti︶。そのようにして、﹁私﹂は﹁私﹂ 73
を超えなければ説明することのできない﹁無限﹂の観念を﹁私﹂のうちに見出すことになる。﹁無限﹂の観念を見出 74
したその後は、その観念の対象的実象性に因果の原理を適用すればよい。四つの経験を顕在化しながら纏めて言えば、
次のようになる。第一の経験は絶対的に︿私ではない﹀という何かに出会うという経験、第二の経験は判断するとは
真理を﹁他人﹂へと表出することであるという経験、第三の経験は﹁私﹂は思いである﹁観念﹂という場に知性と意
志を働かせて判断が得られるという経験、第四は無限という経験、逆に見れば、﹁私﹂が有限であるという経験であっ
た。この上なく﹁私﹂ではない何かについて、実象性の段階に導かれ、無限なものという観念の表している内容に因
果の原理を適用して、判断を下す。これがデカルト的超越の方法である。
註 ︵1︶≪ summus aliquis Deus aetemus。 infinitus。 omniscius。 omnipotens。 rerumque oninium。 qus praeter ipsum sunt。 creator ≫︵Al.VlI。 40.12-2︵︶︶ ︵2︶≪ nam pr0culdubio ills quae substantias mihi exhibent。 majus aliquid sunt ≫︵AT.VII。 40.10−に︶、さらに﹁いっそうの対象的 実象性を自分のうちに含む︻Eg︼plus realitatis objectivEe in se continentjと言い換えられる︵AT.合。13-15︶ ︵3︶ Descartes a X***。 AT.IV。 pp.349 / GB。 p. 2132 / AM.VI。 p. 346の訳を付け加えておく。﹁こうして形と運動は元来の意味で 物体的実体の様態である。というのも、同じ物体は或る場合にはこの形とともに、或る場合には他の形で、或る場合には運動 とともに、或る場合には運動なしに実在しうるが、にもかかわらず、反対に、この形も、この運動もこの物体なしにはありえ ないからである。同じように、愛、憎しみ、肯定作用、疑いも精神における真なる様態であるが、しかし、実在、持続、大き さ、数、そしてすべての普遍は、元来の意味での様態であるとは私には思われない、それは神における正義、慈悲などと同じ である。しかし、もっと広い意味において、それらも属性、ないしは、田心いの様態と呼ばれる。というのも、なるほど、われ われは或る事物の本質を、それが実在するかしないかということを捨象して、或る様態で知解するが、当の事物を実在するものと考察して、他の様態でも知解するからである﹂。 ︵4︶ cf. pp. p.l。 art. 61。 ≪ inter duos modos ejusdem substantis ≫︵AT.VIII。 29.18︶ ≪ modus unius substantise differt ab alia substantia vel a modo alterius substantis ≫︵AT.VIII。 30.01−呂︶ ︵5︶ ﹁実象性﹂と﹁完全性﹂について。﹃数学あるいは存在の重み﹄二四八頁から二六七頁参照。われわれの結論は次の六点に纏 められる。﹁︲完全性は一つ二つと数えられる規定とは考えられていない。度合い、ないし、強度を核心に据えながら、デヵ ルト的﹁完全性﹂概念は理解されるべきである。口神における完全性は完全性の超出︵ないし、逸脱︶である。すべての完全 性が一つになるところに必然的実在が立ち上がる。この﹁すべて﹂は数え上げられるくすべて﹀ではない。一つになってすべ てであるような﹁すべて﹂、言い換えれば、無限ということである。目神において、必然的実在がその他の一切の完全性を締 めくくる。神の本質をなすという点で、神について言われる実在は完全性である。四被造物について言われる︵現実的︶実在 は完全性ではない。㈲可能的実在は完全性とされる。可能的実在とは本質領域におけるさまざまな本質・特性のあることを示 している。そこでは三角形もその内角の和も同じく可能的に実在する﹂︵同上二六四頁︶。 このにについてデカルトーコーパスのなかで例外として見出される箇所、つまり、﹁完全性﹂が数量的に考えられているのは 以下の一箇所であろう。﹁﹁天使がわれわれ精神よりもはるかにいっそう多くの完全性quommus angelus multo plures habeat perfectiones qu<魯mens nostraをもつこと﹂を妨げるわけではない、という言い方を見いだすことができる︵Entretien avec Burman。 AT.V。 157.22 - Beyssade。 Texte 20︶。この言い方がどこまで精確にデカルトの思索を反映しているか不明であるが、 この引用の次には﹁いっそう大きな度合いにおいてのようにsc. in majori gradu。 etこと省略的に記されており、この意味す るところを確定するのは難しいことかもしれないが、このことと併せて﹁種﹂としての差異についても述べられていることか ら、完全性の数量的な多さが、度合いの高さに基づいて理解されていると推定することができるであろう﹂︵同上二五三頁から 二五四頁︶。 度合いを示している用例としては次の箇所を挙げることができる。﹁﹁第四省察﹂では選ぶことができないことよりも、でき ることの方が﹁私において何らかの仕方でいっそう大きな完全性major in me quodammodojであるとされている︵AT.VII。 呂。29 - 31︶。類似の表現はこのすぐ後︵AT.VII。 61.20-21︶にも見いだされる。それだけではなく、﹁いっそう大きな完全性﹂ CResp.l。 AT.VII。 118.13 / Resp.2。 AT.VII。 138.24 / Resp.5。 AT.VII。 376.03 / DM。 AT.VI。 33.28 : 196.12 / a PLEMPIUS。 3 75
octobre 1637。 AT.I。 415.17=GB. 426 / a X***。 aout 1641。 AT.III。 434.29 = GB. 1526︶’﹁完全性の度合いgradus perfectionisj 76 CResp.2。 AT.VII。 134.01 : 134.10 / Dioptrique。 AT.VI。 82.26 / a Mersenne。 mars 1636。 AT.I。 339.20=︵JB. 326. ﹁完全性の大 きさla grandeur de la perfection﹂/ a Elisabeth。 ler septembre 1645。 AT.IV。 284.15 = GB. 2076︶という表現はデカルトのテ クストの諸処に見いだされる。これはデカルトだけのことではないCe. g.〇bj. 5。 AT.VII。 287.17-18 / 298.15 etc.T完全性と いう名詞に形容詞の最上級が付け加えられた﹁この上ない︻最高の︼完全性su目na perfectio﹂という表現も見いだされる︵pp. p. I。 a. 18。 a. 19 & a. 20︶﹂︵同上二五三頁︶。 ︵6︶ ﹁実象性﹂と﹁技巧﹂について。﹁第一答弁﹂においても、デカルトは﹁誰かが、知性の内にこの上なき技巧で考案された何 らかの或る機械の観念をもつならばsi quis habeat in intellectu ideam alicujus machinae summo artificio excogitatej︵AT. VII。 103. 19一回︶、﹁この機械の観念は、他のではなくむしろこのような対象的な技巧を含むhac idea machina tale artificium objectivi目 contineat potius quam aliud﹂という例を出してその原因を問うことができる理由を説明している︵AT. VII。 103.28-104.01︶°そ こには﹁案出されうる技巧の一切onme excogitabile artificiumj︵AT.VII。 105.04︶、神の観念は﹁思うことのできる完全性のI 切omnis perfectio cogitabilis﹂を含む︵AT.VII。 105.11-12︶という表現が用いられている。﹁技巧﹂には複数形が用いられ、﹁完 全性﹂には単数形が用いられている。これはデカルトの考え方を反映しているのであろう。 ︵7︶ この他に、神の観念が表象する内容である実象性の原因のなかには﹁対象的﹂との対の下で﹁すべての実象性が形相的に含 まれているin quo omnis realitas formaliter contineatur﹂︵AT.VII。 42.10︶という使用もある。 ︵8︶ Gocleniusの﹃事典﹄における﹁優越的にEminenterJの項には以下のように記されている。﹁すべての尺度を超えて、すべて の度合いを超えて優越的にある﹂。﹁善性、智恵などなどの名前でわれわれが意味表示する被造物の諸完全性は、神のうちに形 相的にあり、それらの原因と原理のうちには優越的にか、形相的にかある。物理学的な事物に属するすべては︹神のうちに︺ 優越的に、最も高貴な仕方でもっとも完全にある﹂ CR. Goclenius。 op.cit。 pp. 146−︸輿︶。 ︵9︶Cf. Resp. 5。 AT.VII。 360﹁そこに幾つかの属性が認識されるならば、それらを精神が認識するということから、それだけの 数の属性が精神のうちにもまた数え上げられうる﹂。 ︵10︶ この点については以下を参照。﹁﹁実体の本性と本質を構成する﹂とされる﹁始元的特性praecipua propri etasj ︷PPl。 a. 53︸、 ないし﹁始元的属性prscipuum attributui己︵Notce。 AT.VIII-2。 348︶は、思いと広がりがそれであると看倣される場合には、
それぞれ思う実体および精神、あるいは広がる実体および物体と﹁別様には概念されてはならない﹂とされる︵﹃﹄︱・函︶。 また他方、田心いと広がりは実体の様態とも解されうる。﹁ものの様態﹂として看傲され、実体とは看傲されない場合にそうであ るとされる︷.PPl。 a. 64︸。つまり、田心いなり広がりなりをどのような位相で捉えるかによってそれが属性であるとされたり、 様態であるとされたりしうるのである。それゆえに、様態として知解されている何かが別の場合に属性と知解されることにな る。実体における変化するさまが様態として捉えられ、実体に内在すると看傲される何かが属性とされる︷PPl。 a. 56︸。様態 が変化のもとに捉えられるのに対して、属性は﹁当のものの全く不変な本質そのもの﹂とされ、また﹁何であれ実体の諸属性 のうちの一つは、それ自身によって存続するper se subsisterejとされる︵Notce。 AT.VIII-2。 348︶︵15︶。この一つの属性が ﹁始元的属性﹂である。ということは、他の諸属性も認められており、それらも﹁不変な本質﹂であり、﹁実体の本質と本性を 構成する﹂のでなければならない。とするならば、始元的属性とその他の属性との差異は、前者が実体と別様には概念されて はならないという点に存するであろう。したがって、実体と属性との間、および同じ実体の﹁そのような二つの属性﹂との間 に成立する﹁理拠的区別distinctio rationisjにおける属性とは、始元的属性ではなくてその他の属性と考えられるのである。 そこ︵﹃哲学の原理﹄﹁第一部﹂﹁第六二節﹂︶には﹁持続﹂と実体の区別の例が挙げられており、広がりの例は挙げられていな い。或る書簡︵au P. Gibieuf。 19-1-1642︶を参照すると次のような考えが見出される。広がっていて形状をもつ実体の観念、 広がりの観念、形状の観念、という三つの観念の関係は、形状について広がりを否定することができず、広がりについて実体 を否定することもできないが、実体について広がりを否定でき、広がりについて形状を否定することができる、という関係に ある︵AT.III。 475︶。広がっていて形状をもつ実体の観念とは物体的実体の観念に他ならない。そしてここでは或る形状のこと、 つまり様態としての形状のことが考えられている。とするならば、様態について属性を、属性について実体を否定できないが、 実体について︵或る︶属性を、属性について︵或る︶様態を否定することができるということになる。例を挙げるならば、わ れわれが︿四角い﹀と見定める場合、広がりが巻き込まれているのであり、広がりを広がりとして見定めるとき実体が前提さ れている、ということである。また、実体を捉えようとする場合に、その様態が︿四角﹀ではないとすることができる、とい うようにである。︿四角い﹀、︿丸い﹀と言い、︿長い﹀、︿短い﹀と言い、それぞれを形状として、広がりとして纏め上げる。次 に形状と広がりをさらに一つに纏め上げて︿広がり﹀と呼ぶ。そして物体︵的実体︶として括り上げる﹂︵﹃数学と存在の重み﹄ 二二六頁︶。また、﹃哲学の原理﹄﹁第一部第五六項、六一項、六四項﹂、NotcB in programma。 AT. VIII-2’ 348。 au P. Gibieuf。 ︲
1 9 -1 -1 6 4 2 。 A T . m 。 4 7 5 / G B . 1 5 6 2 ’ D e s c a r t e s a X * * * 。 1 6 4 5 o u 1 6 4 6 。 A T . I V . 3 4 9 / G B . 2 1 3 2 参 照 。 ︵ 1 1 ︶ た と え ば 、 ﹁ 第 六 省 察 ﹂ に お い て 、 ≪ e a r u m i s c i l i . i d e a r u m ︼ r e a l i t a s o b j e c t i v a ≫ ︵ A T . V I I 。 7 9 . 2 5 -2 6 ︶ と 言 わ れ て い る 。 つ ま り 、 複 数 の 観 念 に つ い て 、 単 数 形 の ﹁ 対 象 的 実 象 性 ﹂ が 用 い ら れ て い る 。 こ の こ と は 感 覚 さ れ て 受 け 取 ら れ る と 考 え ら れ る 諸 観 念 が 或 る 一 つ の 対 象 的 実 象 性 を 表 現 し て い る と い う こ と を 示 し て い る 。 つ ま り 、 有 限 的 で 広 が っ た 実 体 、 物 体 性 を 示 し て い る 。 ︵ 1 2 ︶ C f . ≪ u n e d e t e r m i n a t i o n q u a n t a t i v e ︵ i n t e n s i v e ︶ d u r e e l ≫ ︷ ︸ ’ B e n o i s t 。 L a r e a l i t e o b j e c t i v e o u l e n o m b r e d u r e e l 。 d a n s D e s c a r t e s e t K a n t s o u s l a d i r e c t i o n d e M . F i c h a n t e t J . -L . M a r i o n 。 P U F 。 2 0 0 6 。 p p . 1 7 甲 1 呂 ︶ 。 ︵ 1 3 ︶ 今 井 知 正 に よ れ ば 、 い わ ゆ る ﹁ 同 名 因 果 ﹂ と 呼 ば れ る 原 理 は ︸ ・ 汐 自 a に よ っ て 次 の よ う に 定 式 化 さ れ て い る 。 ﹁ も し 、 Q が 、 ヴ は ﹁ で あ る と い う こ と を 生 じ る の な ら ば 、 そ の 場 合 に 、 Q は ` で あ る ﹂ ︵ j . B a r n e s 。 T h e P r e s o c r a t i c P h i l o s o p h e r s 。 v o l . 1 。 1 9 7 9 。 s y n 〇 n y m y P r i n c i p l e o f c a u s a t i o n : I f ≪ a > ︾ b r i n g s i t a b o u t t h a t ≪ b ≫ i s f 。 t h e n ≪ a ≫ i s f ︶ 。 今 井 は ﹁ 同 名 因 果 ﹂ の 歴 史 的 展 開 を 以 下 の よ う に 辿 っ て い る ︵ ﹁ 因 果 同 名 原 理 ﹂ ︲ ﹃ 東 京 大 学 教 養 学 部 人 文 科 学 科 紀 要 第 一 〇 三 輯 ﹄ ︸ 九 九 四 年 一 三 七 頁 か ら 一 五 四 頁 ︶ 。 ︵ ↑ ︶ P l a t o n 。 C h a r m i d e s 。 1 呂 d 5 - 1 6 1 b 4 . ︵ 2 ︶ P l a t o n 。 P h c e d o 。 1 呂 b l - 1 0 1 c 9 . ︵ 3 ︶ A r i s t o t e l e s 。 A n a l y t i c a P o s t e r i o r a 。 A 2 。 7 2 a 2 5 -b 4 . ︵ ふ ︶ A r i s t o t e l e s し W t a p h y s i c a 。 a 1 。 9 9 3 b l 9 - 3 1 . ︵ 5 ︶ D e s c a r t e s し M e d i t a t i o n e s d e p r i m a p h i l o s o p h i a 。 M e d i t a t i o I I I 。 A T 台 − μ ・ ︵ 6 ︶ S p i n o z a 。 E t h i c a 。 P a r s I 。 P r o p o s i t i o I I I . ︵ 7 J B e r k e l e y 。 T h r e e D i a l o g u e s b e t w e e n H y l a s a n d P h i l o n o u s 。 T h e T h i r d D i a l o g u e 。 p . 2 3 6 . ︵ 1 4 ︶ A T . V I I 。 9 2 . 2 1 -2 2 : ≪ Q u i d e r g o c a u s a m e j u s i n q u i r o 。 q u o d a c t u n o n e s t 。 q u o d n u d a d e n o m i n a t i o & n i h i l e s t ? ≫ ︵ 1 5 ︶ こ の こ と は ま た 、 観 念 の あ る こ と が ﹁ 現 実 態 と し て の 存 在 e n s a c t u ﹂ で は な く 、 ﹁ 理 性 の 存 在 e n s r a t i o n i s j に 他 な ら な い と い う カ テ ル ス の 反 論 に 対 す る デ カ ル ト の 答 弁 、 す な わ ち 観 念 は ﹁ 知 性 の 外 に 実 在 す る た め の 原 因 を 要 求 し な い 、 そ の 点 を 私 は 認 め る が 、 だ が 概 念 さ れ る た め の 原 因 は も と よ り 要 求 す る の で あ り 、 問 題 は こ の 点 だ け に あ る ≪ c a u s a n o n i n d i g e r e u t e x t r a i n t e l l e c t u m e x i s t a ニ q u o d f a t e o r 。 s e d s a n e i n d i g e t c a u s a u t c o n c i p i a t u r 。 & d e h a c s o l a q u a s s t i o e s t ≫ J ︵ A T . V I I 。 1 0 3 . 1 6 -1 9 ︶ に も 関 わ る 。 つ ま り 、 デ カ ル ト は 観 念 が 何 か を 表 象 し て い る と い う こ と の 原 因 を 問 う て い る 。 文 献 表 J . B e n 〇 1 s t 。 L a r e a h t e o b j e c t i v e o u l e n o m b r e d u r e e l 。 d a n s D e s c a r t e s e t K a n t s o u s l a d i r e c t i o n d e M . F i c h a n t e t J . -L . M a n o n 。 P U F
78
2 0 0 S 。 p p . 1 7 9 -1 8 0 J . -F . C o u r t i n e 。 L e s c a t e g o r i e s d e I ' e t r e 。 P U F 。 2 0 0 3 . T . J ’ C r o n i n 。 O b j e c t i v e B e i n g i n D e s c a r t e s a n d i n S u a r e z 。 G r e g o r i a n U n i v e r s i t y P r e s s 。 1 9 9 6 . R . D a l b i e z 。 L e s s o u r c e s s c o l a s t i q u e s d e l a t h e o r i e c a r t e s i e n n e d e l ' e t r e o b j e c t i f 。 d a n s R e v u e d ' H i s t o i r e d e l a p h i l o s o p h i e 。 1 9 2 9 ︵ l l l ︶ 。 p p 。 乱 4 -4 7 2 . R . E u c k e n 。 G e s c h i c h t e d e r p h i l o s o p h i s c h e n T e r m i n o l o g i e 。 0 1 m s 。 1 8 9 1 / 1 9 6 4 . E u s t a c i u s 。 a S a n c t o P a u l o 。 S u m m a p h i l o s o p h c e 。 q u a d r i p a r t i t a 。 d e r e b u s D i a l e c t i c i s 。 M o r a l i b u s 。 P h y s i c i s e t M e t a p h y s i d s 。 P a r i s 1 6 0 9 . p . F o n s e c a 。 C o m m e n t a r i o r u m i n M e t a p h y s i c o n i m A r i s t o t e l i s S t a g i r i t c e L i b r o s 。 1 6 1 5 K o l n / 1 9 8 5 O l m s . E . G i l s o n 。 E t u d e s s u r l e r o l e d e l a p e n s e e m e d i e v a l e d a n s l a f o r m a t i o n d u s y s t e m e c a r t e s i e n 。 V r i n 。 1 9 3 0 / 1 9 6 7 . R . G o c l e n i u s 。 L e x i c o n p h i l o s o p h i c u m 。 F r a n k f u r t 1 6 1 3 / M a r b u r g 1 6 1 5 / O l s m 1 9 8 0 . 今 井 知 正 ﹁ 因 果 同 名 原 理 ﹂ ︵ 一 ︶ ﹃ 東 京 大 学 教 養 学 部 人 文 科 学 科 紀 要 第 一 〇 三 輯 ﹄ 一 九 九 四 年 一 三 七 頁 か ら 一 五 四 頁 [ ] ‘ K a m b o u c h n e r 。 L a s u b j e c t i v i t e c a r t e s i e n n e e t l ' a m o u r 。 d a n s P . -F . M o r e a u ︵ s o u s l a d i r e c t i o n d e ︶ 。 L e s p a s s i o n s a I ' a g e c l a s s i q u e 。 P U F 。 2 0 0 6 。 p p . 7 7 − 9 7 . I 。 K a n t 。 K r i t i k d e r r e i n e n V e m u n f i 。 1 7 8 1 、 1 7 8 7 。 F e l i x M e i n e r 。 1 9 5 6 . F . M a r r o n e 。 R e s e r e a l i t a s i n D e s c a r t e s ︱ G l i a n t e c e d e n t i s c o l a i s t c i d e l l a n o z i o n e c a r t e s i a n a d i ≪ r e a l i t a s o b j e c t i v a ≫ 。 L e c c e 。 2 0 0 6 . 村 上 勝 三 ﹃ デ カ ル ト 形 而 上 学 の 成 立 ﹄ 勁 草 書 房 、 一 九 九 〇 年 村 上 勝 三 ﹃ 観 念 と 存 在 デ カ ル ト 研 究 1 ﹄ 知 泉 書 館 、 二 〇 〇 四 年 村 上 勝 三 ﹃ 数 学 あ る い は 存 在 の 重 み デ カ ル ト 研 究 2 ﹄ 知 泉 書 館 、 二 〇 〇 五 年 C . N o r m o r e 。 M e a n i n g a n d O b j e c t i v e B e i n g : D e s c a r t e s a n d H i s S o u r c e s 。 d a n s A . O . R o r t y ︵ e d . b y ︶ E s s a y s o n D e s c a r t e s ' M e d i t a t i o n s 。 U n i v e r s i t y o f C a l f o 日 i a P r e s s 。 1 9 8 6 。 p p . 2 2 3 -2 4 1 . F . S u a r e z 。 D i s p u t a t i o n e s m e t a p h y s i c c E 。 S a l a m a n c a 1 5 9 7 、 P a r i s 1 8 6 6 / 0 1 m s 1 9 6 5 . N . J . W e l l s 。 O b j e c t i v e B e i n g : I ︶ e s c a r t e s a n d H i s S o u r c e 。 d a n s T h e M o d e m S c h o o l m a n 。 X L V 。 1 9 6 7 . N . J . W e l l s 。 O b j e c t i v e R e a l i t y o f I d e a s i n D e s c a r t e s 。 C a t e r u s 。 a n d S u a r e z 。 i n J o u r n a l o f t h e H i s t o r y o f P h i l o s o p h y 。 2 8 。 1 .