まえがき
解析力学は魅力的な学問である.それが発達したのは19世紀でその頃は力 学と数学にあまり区別のない時代であった.そのため解析力学は自然科学の広 場のような性格を持つことになった.解析力学の特徴はその数学的形式であ る.個々の運動の様子よりもそれらの背後にある数学的構造を教えてくれるか らである.実際,物理学の重要な方程式がラグランジュ形式やハミルトン形式 を通じて導かれるのを見ると,その正当性を納得せざるを得ない.古典物理学 から量子力学への飛躍をもたらしたのも解析力学の発想である.解析力学は現 在の数学・物理学の基礎となっている題材を豊富に持つ広大な体系であり数 理科学を培った母体といってよい.その影響は量子力学,電磁気学,相対性理 論,統計力学,場の量子論などの物理学の分野,常微分方程式論,偏微分方程 式論,多様体論,リー群論,力学系などの数学の分野にまで広く及んでいる. ただ解析力学のこのような奥深さはかなり専門化された内容を学ぶときに出会 うもので,入門段階では実感しがたい.全容を知ろうとするには広すぎるか ら,最初から全体像を思い描かなくてもよいであろう.ゆっくりと過去の蓄積 を味わいながら基本的な計算力とものの見方を自分の中に育て,古典物理学, 近代物理学,現代数学に分け入ってゆくための路をたどるというのが解析力学 を学ぶ自然な道であろう.何よりも,曲面や空間を扱うための記号や基本的考 え方は解析力学の中に自然に溶け込んでいる.これらに慣れることは数理物理 学の基礎を身につけるための良い方法である. 本書の目的は微積分と線形代数をひととおり学んだ段階で,解析力学を通じ て古典物理学・近代物理学の入門部分を概観し,数理物理学の基礎的方法を知 ることにある.微積分と線形代数のみを用いて古典的な力学の問題の例を知る ことから始めよう.運動方程式の変換の法則を見る中で微分方程式,古典的なvi まえがき 曲線論・曲面論での計算の仕方がわかるようになったら進歩である.基礎的な 微分方程式の技巧を用いて電磁気学や量子力学,特殊相対性理論の入門部分の 知識も身につけられたらさらに良い.本書の目指すのはこのようなことであ る.解析力学の到達点の一つとしていわゆるハミルトン-ヤコビの理論がある. これは普通は1階単独偏微分方程式とそれにともなう特性曲線の理論を意味す る.しかし古典的な解析学にはこれに加えて,常微分方程式に帰着できる偏微 分方程式系という研究の流れがあった.このような背景も意識しながら力学と 1階偏微分方程式との間を行き来するのが本書の大きな目標である.さらに波 動方程式やシュレーディンガー方程式を解明するのに古典力学が果たす役割も 見るであろう. 第1章は本書全体を通じて使う数学の復習である.ここでの計算の仕方や記 号の使い方は標準的なものであり何度か立ち戻って使い慣れるようにするのが よいであろう.第2章では1個の質点の運動に帰着される力学の問題の典型的 な例がニュートンの運動方程式の形で扱われる.第2章でのトーラス上での運 動や球対称な系の問題は解析力学の原型であり,後の章でも再び取り上げら れ,より進んだ観点から眺め直される.いわゆる解析力学としての内容は第3 章から始まる.多様体とその上の接束,余接束へと考察の舞台が移る.第4章 は剛体を扱うがここでは回転群の基礎を群論と多様体の双方から学ぶのが目 標である.1階偏微分方程式の数学的理論は独立して第5章にまとめられてい る.特性曲線や積分因子の理解のために全微分方程式に関する初歩的な演習問 題も準備されている.第6章では解析力学の主題である正準変換による微分方 程式の求積法が論じられ,さらにハミルトン系が積分可能であるためのリュー ビルの定理へと進む.第7章では特殊相対性理論の初歩を学ぶ.その物理的基 礎は真空中の電磁波の伝播であるが,数学的背景は波動方程式である.そのた めこの章は偏微分方程式の入門を兼ねている.古典力学から量子力学に連続的 に移行することは難しい.前期量子論における断熱近似を経由するのが一つの 路であるがこれはあまり易しいものではない.第8章では量子力学の入り口と して円周上での半古典近似の問題が扱われる.ハミルトン-ヤコビの方程式と シュレーディンガー方程式は解析力学と量子力学の基礎方程式である.この両 者の変数分離法による可解性には密接な関係がある.第9章ではこの関係が論 じられる.その背後にあるものは1階偏微分方程式系に対するフロベニウスの https://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320114012
定理である. 読者に期待される予備知識は1変数の微積分,多変数の微積分での積分の変 数変換のあたりまで,線形代数はベクトル空間,基底,ランク,行列の基本変 形,行列式などの基礎部分である.2次元,3次元での曲線や曲面の話,ベク トル解析や常微分方程式の初歩,特に簡単な求積法などは本書と並行して理解 していけばよいであろう.本文の話題に関連して知っておいた方がよいことや 後で使うことなどを各章末の問題にまとめた.本文の議論の流れをわかりやす くするため証明の一部を演習問題に回した場合もある.したがって問題は必ず しも計算練習や力試しのためではなく本文の延長であるから,すぐに解けなく ても気にすることはないし,またすべて解く必要もない.難しい問題には♠, 普通は定理や補題とされている問題には♥がついている.詳しい解答が問題 の直後にあるから何度か眺めているうちに自然に理解できるであろう.問題は 「……であることを示せ」というかわりに「……である」という形で述べられ ていることが多い. 解析力学は長い伝統のある学問であるから独特の専門用語を持っている.微 分方程式や微分幾何学などの数学の側でも同様である.しかし本書はこれらの 専門用語の導入を最小限にとどめ,できるだけ大学2年次までの教養課程での 微積分,線形代数の言葉で記述することにした.基礎的な内容と計算法を身に つけることが入門段階では最も重要だからである.したがって本書の用語はご く基本的なものばかりであるが,念のためにいくつか復習する.N, Z, Q, R, Cはそれぞれ自然数,整数,有理数,実数,複素数全体とする. Rn= {x = (x1, . . . , xn) ; x1, . . . , xn∈ R} とおく.ただしx = (x1, . . . , xn)と書くことも多い.Qnなども同様である. Rnの標準基底とは e1= (1, 0, . . . , 0), e2 = (0, 1, 0, . . . , 0), . . . , en= (0, . . . , 0, 1) というe1, . . . , enのことである.Rnの標準内積はx = (x1, . . . , xn), y = (y1, . . . , yn)に対してx · y = n i=1 xiyiと定義される.(x, y)あるいはx, y と書く場合もある.aijは(i, j)成分がaijである行列を表す.集合Aに対 してAはAの要素の個数を表す.集合A, Bと写像f : A → Bに対して
viii まえがき
f(A) = {f(a) ; a ∈ A}とおく.fが上への (onto)写像とはf(A) = Bとな ることである.fが 1対1 (1 to 1)であるとはf(a) = f(a)ならa = aと なることである.Rnの部分集合Dが開集合であるとは任意のx0 ∈ Dに対 してある > 0が存在し{x ∈ Rn; |x − x0| < } ⊂ Dが成り立つことであ る.Rnの部分集合Dが閉集合であるとはDの補集合Dc = Rn\ Dが開集 合であることである.これはxj ∈ D, xj → yならばy ∈ Dが成り立つこと と同値である.Rnの部分集合Dが領域であるとは,Dが開集合でその中の 任意の2点がD内の曲線で結べることである.これは弧状連結と呼ばれる性 質で通常はこれよりも弱い連結という性質を仮定するのだが,簡単のために 弧状連結とする.部分集合U ⊂ Rnがx0 ∈ Rnの近傍であるとは,ある開集 合V ⊂ Rnが存在し,x0 ∈ V かつV ⊂ U が成り立つことである.A, Bが Rnの領域のとき,f : A → Bが同相写像であるとはfが1対1上への写像 であってf, f−1共に連続であることである.微分同相写像とはf, f−1共に 無限回微分可能である同相写像である.領域Ω ⊂ Rnに対してC(Ω)はΩ上 で定義された連続関数全体,Cm(Ω)はΩ上のm回連続的微分可能関数全体, C∞(Ω) = ∞ m=0 Cm(Ω)とする.またRNに値をとるベクトル値関数のときは C∞(Ω ; RN)のように書く.これをf : Ω → RNのように書くこともある. C∞ 0 (Ω)とはϕ(x) ∈ C∞(Ω)かつΩの中のある有界閉集合の外ではϕ(x) = 0 となるような関数ϕ(x)全体である.したがってϕ(x)はΩの境界の近くでは0 である.本文中に現れる関数は特に断らない限りみな無限回微分可能である. 時折文章を簡略にするために次のような数学慣用の記法を用いた.“· · · ∀x”と は「すべてのxに対して…が成り立つ」という意味である.“∃x s.t. · · · ”とは 「…が成り立つようなxが存在する」という意味である.∀ は時折省略される ことがある.例えばf(x) = 0, x ∈ Rという式はf(x) = 0, ∀x ∈ Rを意味す る.“· · · =⇒ ∼ ”とは「…が成り立てば∼が成り立つ」という意味である.し たがって“· · · ⇐⇒ ∼ ”は「…」と「∼」が同値であることを意味する.P := Q あるいはQ =: PはQによってPを定義するという意味である.専門用語は できるだけ日本語を用いたが,実際には外国語をそのまま使うことも多い.例 えば1-形式,2-形式はワンフォーム,ツーフォーム,接束,余接束はタンジェ ントバンドル,コタンジェントバンドルと普通は呼んでいる.括弧内に併記し https://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320114012
た英語が主に用いられることもある,と思っていただきたい. 本書の初稿には多くの誤りや不備があったが査読していただいた方から重要 な修正の指摘と貴重な助言をいただき内容を改善することができた.深くお礼 を申しあげる.また本書の執筆にあたり日本学術振興会基盤研究S 15H05740, B 16H03944の支援を受けたことに感謝の意を表したい. 2020年2月 磯崎 洋