爺伽唯識における業の思想は、世親の﹃成業論﹄にも指摘しているように、アーラャ識縁起の思想の上に展開し ①’ ているのであって、しかも、業に関してのこの思想はまた大乗の菩薩行の展開の重要な基盤ともなっている。 ところで︲業︵冨吋目四国︶という言葉には、﹃荘厳経論﹄菩提品官鴻圃○号冒目時日四︶梵文第二十七’三十六偶に ② 見られるように、二、︵四︶明於無漏界佛之三種甚深義における①広説甚深義三の下、c明業甚深義として、宝依 止業︵同呉3口a訓呉ぐ甲]畠吋目四目︶、成熟有情業︵、鼻う、眉目︼風3口“︲菌。︶、到辺際業︵︺烏吾凋四目“︲宮。︶、説法業︵号閏︲ 目且の93︲富。︶、変化等所作業︵昌貝3国創涛国辱鯉︲園。︶、智転業︵言目名国ぐ貸武︲富。︶、無分別業︵Pぐ時巴團口四︲富。︶ 種々相智業︵g可凶鼠国首習勗︲厨。︶、智不転業︵言習号国ご胃威︲菌。︶、智殊勝業言習寧ぐ崎①笛︲菌。︶など、十種の甚深 なる義による、諸佛の業として用いられる場合もある。同じく﹃荘厳経論﹄業伴品︵脚ぐご目冨の“言苗厨Hg目冨︲ 面目︶も、品名の示す如く、佛道実践の業として、富吋薗︲函目昌︲一謝易戯の三輪清浄によって︵目塑且己幽冨鳥且亀鼻息︶︾
菩薩行としての業
学I摂大乗論無性註第二章第三十四節解読I
1−片野道雄
二○八a2a亘昌目圃弓冨H冒幽国○号愚四菌は︵塑鼻ロ腸﹂勇勗︲扇︶とも叙述し、また、園ぐ留塾自庁菌昌計冒m愚官身。唱︲ 己倒罵二畠儲目昌片鼻一命一鼻.目〆認巴︺︶︶一庶胃目秒こぐ四﹃蝕冨渭妙︾目倒目色﹄茸ご胃芦名晶自ロの罵二自国”]八自白曽国普昌磐竺冨箇命写.閥ぐ目︺ 己.届画︾潭甲巴﹄電P昏倒ウロロ国も四国旨四国四望秒戸自己閨︺画日日脚巨弾日と四目窃再.︺自滅﹄巳・澤宅︾冨宇画︶︾己胃①箇目 も昌閏§]騨恒四戸胃ご目]丙胃日四笛昌口肖や拝騨冒︵の犀.〆〆︲﹀○画︶も.品、﹀量.巴︶などの他、﹃荘厳経論﹄のみならず、 他の唯識諭書においても、かかる転識得智としての転依の世界・智の内容として業の思想がかなり重要な意味をも
って展開しているのである。。
ここに解読を試みようとする﹃摂大乗諭﹄第二章所知相、第三十四節は、菩薩が三十二の法を具有するとき、菩 薩が菩薩としてなり得るという経文を引用して、それら三十二の法は十六の業によって解釈せられているのである。 しかも、この第三十四節は第二章の最後の節であり、叙述の内容の上からも第三章入所知相以下の叙述に関連した ものとなっているが、︲それらの思想の根源的総合的な考察は稿を改めることとして、ここでは、﹃摂大乗諭﹄のそ の第二章第三十四節に対してかなり詳しく註釈している無性︵シのぐ号鼠く四︶の会釈︵§四目g目冒園、︶を解読する こととする。↑ ところで、﹃摂大乗諭﹄第一一章は、周知の通り、おもに﹁縁起せる諸法の相なる三性を説く﹂のであって、しか ③ も、本節・第三十四節は、第三十二節の当初において、前節の佛の説法の説述に関連して、 大乗の法を解釈しようとする者は要約して三種によって説かれるべきである。︹すなわち、︺菩薩行としての業二○九
|’⑩縁起を説くことと、⑨縁起せる諸法の相を説くことと、⑥すでに説かれた意味を説くこと、 によって説かれる雲へきである。︵佐々木四本対照附、や計.舅やe と叙述する中の③にもとづくものである。この﹁すでに説かれた意味を説くこと﹂は第三十二節第三項、第三十三 節∼第三十四節によって叙述せられている。﹃摂大乗諭﹄の構成の上からそれらを見るとき、既に注意せられてい るように、①の﹁縁起を説くこと﹂とはまさしく本論第一章所知依を要約するものであり、②の一︲縁起せる諸法の 相を説くこと﹂とは二一性説を叙述する本論第二章所知相を、側は第三章以下を要約していると考えられる。所知州. 三性説は本論第二章の叙述によっても知られるように、唯識思想の根本思想となるものであり、摂大乗する根本思 想の根源的な意味をもつものでもある。このような意味をもっところの本論第二章において、さらに、⑧の﹁すで に説かれた意味を説くこと﹂l諸佛のすぐれた徳︵唱息︶と菩薩の利他行の具体的な意味︵閏昏“︶が叙述せられて いることは、そこにまた、三性説の根源的な意味を顕著に開顕しょうとするものに他ならないと思われる。 さて、本論第三十二節の第三項は、 すでに説かれた意味を説くこととは何かと言えば、すなわち、先に説かれた句e胃ぐ○戸冨冒目︶は諸余の句 によって、︹仏のすぐれた︺徳による︵習箇目房胃P目︶か、あるいは、︹菩薩の利他行の具体的な︺意味によ ④ る︵胃昏且巨富目目︶かによって解釈して説かれる。︵佐為木四本対照附、固司息、届1号認息.]︶ と述べ、それに続いて第三十三節では、 ︹佛のすぐれた︺徳によるとは、すなわち、①極清浄なる覚があり、②二の現行がなく、③無相なる法に畢党 じて趣き、④佛処に住し、⑤一切の佛との平等性を得ており、⑥障碍がなく常に了達し→㈹不退の法を有し、 二 ○
⑧行境が奪われることなく、⑥建立不可思議で$⑩三時の平等性を証解し、⑪一切の世間界に遍満せる身を有 し、⑫一切の法について疑惑のない智があり、⑬一切の行と相応する覚があり、⑭法を知ることに疑惑がなく ⑮分別のない身があり$⑯一切の菩薩によって求められている智があり、⑰佛処なる無二にして妓勝なる彼岸 に達し、⑬まざりけのない如来の解脱智の究寛に達し∼⑲終りと中とがない佛地の平等性を証解し、⑳法界 ⑤ を極め、⑳虚空界の辺際を尽し、⑫未来の辺際を窮めている、というように佛の諸徳が説かれている。﹁極清 浄なる覚がある﹂というこの句を解釈しているのは諸余の句であると知られる、へきであって、かくの如く法性 含ロ胃目四国︶が善説されているのである。 ⑥ ﹁極清浄なる覚がある﹂という諸仏世尊のこの極清浄なる覚は、十九︵二十?︶の徳によって摂せられている と知られる、へきである。すなわち、の知られるべきものに対して一向に障碍なく起る徳と、⑨有と無とことし ⑦ て無なる相である極清浄なる真如に入らしめる徳と、③無功用なる佛事が不断に住する徳と、仙法身において 所依と意趣と作業とに差別がない徳と、⑥一切の障碍の対治を修習せる徳と、⑥一切の外道によって壊されな い徳と→⑦世に生まれて、しかも世間の法によって奪われない徳と、⑧法建立の徳と、⑨授記の徳と、⑩一切 世間界において受用と変化身とを示す徳と、⑪疑惑を断った徳と、⑫種々の行に入らしむる徳と、⑬後に法が 起るのを知る徳と、⑭信解するままに示す徳と、⑮無量身によって有情を調伏する徳と、⑯平等なる法身にお いて波羅蜜多が成就された徳と、⑰信解するままにまざりけのない佛国を示す徳と、⑱佛の三身の境界が不断 である徳と、⑲輪廻の辺際のあらん限り一切の有情を利益と安楽とに近づける徳と、⑳尽きることのない徳、 によって摂せられている。︵佐為木対照附、や認息自1℃g息・岳︶
菩薩行としての業一二一
凸と、そのように、諸佛のすぐれた徳に関する句が叙述されている。そして、第三十三節の叙述の意味するものが、 また第三十四節において菩薩の利他行として、それの具体的な意味が叙述せられてくるのであって、次項において それの本文及び、無性の註釈をチ尋ヘット訳を中心として解読を試みることにする。 ﹃摂大乗論﹄無性註第二章第三十四節解読 ③ ざらに、︹菩薩の利他行の具体的な︺意味による︵胃昏圏言冨国冒︶とは、﹁菩薩が三十二の法を有するとき ⑨ 菩薩といわれる。三十二︹の法︺とは何かと言えば、①一切の有情を利益し、安楽ならしめようという増上意 楽︹をもつこと︺、⑨一切智智に入らしめること、③私は何故にというようによく知ること、⑳我慢を擢破する こと、⑤堅固なる増上意楽︹をもつこと︺、⑥虚構でない慈愛︹をもつこと︺、⑦友と友に非ざる者とに対しての 平等なる心︹をもつこと︺、⑧浬藥の辺際に至るまで畢寛じて友であること、⑨適切な言葉と笑顔とをもって 先ず語ること、⑩無限の大悲︹をもつこと︺、⑪受けた辛苦に絶望がないこと︲︲⑫疲労のない意と間と意味と によって満足してしまわないこと、⑬自らの誤失に過失を見ること、⑭他人の誤失に怒ることなく導くこと ⑮一切の行道において菩提心を受用すること、⑯報酬を期待しない布施︹をもつこと︺、⑰一切の有趣の生起を 所依としない戒︹をもつこと︺、⑱一切の有情に障碍がない忍辱︹をもつこと︺、⑲一切の善根を収める精進︹を もつこと︺、⑳無色界を除外した禅定︹をもつこと︺、⑳方便を有する智慧︹をもつこと︺、⑳四摂事によって摂 ︹本文︺ 三 一一一一一
せられた方便︹をもつこと︺、⑬持戒者と破戒者に対して二として無なる慈愛︹をもつこと︺、例恭敬して法を聞 くこと、⑮恭敬して閑静処に住すること、⑯世間の種々なることに愛楽しないこと、⑳小乗を望まないこと、 ⑬大乗の功徳を見ること→⑲悪友を断つこと州⑳善友に親近すること、倒四梵住を浄化すること→御五通によ って遊戯すること、倒智を任持すること、↑鋤成就と邪成就に住する有情達を見捨てないこと、㈲一語を説くこ .⑩ と、倒諦を尊重すること、㈱かの菩提心を先とすること、である﹂と説かれている如くである。これらの諸句 によって、また、最初の句が解釈されていると知られるべきである。 一切の有情を利益し安楽ならしめようという増上意楽という中で、この利益し安楽ならしめようという増上 ⑪ 意楽という句は、十六の業が解釈されていると知られるゞへきである。そこで、十六の業とは、①展転実修の業 と、⑨不顛倒の業と、︲③他によって強いられずに自ら実行する業と、④確固たる業と、⑤欲望を起さず、利益 を与えるものと害するものとに対して親しむことといかりとがなく、後世にも生まれる、の三句によって欲望 のない業と、㈹二句をもって、それと相応する語と身との業と、例楽と苦と二として無とに対して平等なる業 と、⑥怯弱でない業と、⑨不退の業と、⑩方便を摂持する業と、⑪二句によって所対治を厭う業と、⑫不断に それを作意する業と、⑬六波羅蜜を正しく実修し、摂事を実修し、七句によって勝進する業と、⑭正しい人に 近づき;正しい法を聞き、閑静処に住し、不倫な分別を断ち、二によって作意する徳と、二によって友とする 徳との六句によって成就する実修の業と、⑮限りなぐ清浄化し、力を得、証解する徳、の三句によって成就す る業と、⑯集まりをよく摂する徳、ためらいなく教誠し教授し、あるものは法と財とによって摂し、雑染にあ らざる心、の四句によってそれを安立する業で、それら諸句によって初めの句が解釈されていると知られるべ
菩薩行としての業二二一
j 一切智智に入らしめること︵の胃ぐゅ]目]目目ぐ四画愚息︶とは展転の業︵冨国日君国︲厨Hg煙︶が説かれている。 1 く ⑰ ②あるものにとっては利益し安楽ならしめようという墹上意楽を有していても、顛倒しているのであるから、 利益し安楽ならしめようという増上意楽︵巨菌の巨陦冨胃萄呂ご掛畠四︶という中、利益は後には安楽であって、例 えば、負の盛なる者の梵行︵胃:日騨o胃樹︶の如くである。安楽は現在の喜びであって、例えば、欲のある者が批 ⑭ 難せらるゞへき境界︵出くい身騨ぐ賦葛沙︶において受用する如くである。利益と安楽とは現在と未来とにおける喜びであ ⑮ って、例えば、それと同じ、少々の負︵冒国茸胃凋四︶をもつものの梵行する如くである。そこで、諸菩薩が、現在 と未来とにおいて諸有身者が無上なる安楽に如何に親近す尋へきかと考えて、信解︵胃騨呂目︶と欲︵。g目騨︶とを ⑯ 自体とする盛なる意図︵骨窪冨︶のあるのが、増上意楽である。 三十二の意味は、十六の業によって解釈されていると知られるべきであるという中、業なるもの︵冨儲目鼻く圏︶は ⑬ 実になされる寺へきもの︵冨局目ご胃ぐぃ︶として説かれているからである。 る。同様に、他の︵も、賠曽︶す韓へての句においても利益し安楽ならしめようという増上意楽の教説が適応される。
⑱︲I︲l︲11︲111
□︺灯︵含冒︶より千灯に拡大する如く、展転の業によって利益し安楽ならしめようという増上意楽が説かれてい きである。︹偶に、︺ 実に、最初の句によって、徳に関連する句の別態がある。 実に、最初の句によって、種々なる意味による種々なる句がある。 と、説かれている如くである。︵佐々木四本対照附、毛忠息.届lや匿息.届︶ ︹無性註︺ ﹁2 ↑4 四(5) ㈹堅固なる増上意楽︵︵首:且ご月幽冨︶とは、確固たる業︵己息○厚曼農胃目色︶が説かれる。輪廻に属する諸苦に ⑳ よって心の怖れることはあり得ないからである。 ⑧我慢を推破すること︵白目四︲耳凰冨昌四︶とは、他によって強いられずに自ら実行する業︵園Ho身○茸習眉の屑四目 ⑳ ⑳ぐ胃農冒昌○盟冨儲目色︶が説かれる。勧請を待たずに説法に入るからである。 私は何故にというように知ること と‘浬藥の辺際に至るまで畢寛じて友︵鼻急昇脚目詳3日怠く四口目Hぐ§名目冨昇鼻母の︶という三は、欲望のない業 ︵昌団日尉鳥目目沙︶など三種が説かれる。その中、欲望と無関係という中、欲望のために、その慈愛は虚構であっ ⑳ て、准得があるまで慈愛するからである。欲望のない慈愛は虚構でないのであって、一切時に︹慈愛は︺ないこと にならないからである。如何なる欲望によっているのか。友が、友と友に非ざるものに対して、親しむことと激怒 とをもつのであり、平等なる心とはならない。しかし欲望のない︵勺.培浮︶心にあるものは両者に対して心は平等
菩薩行としての業一二五
︲,.⋮⑪ とも説かれている。 ることなく実行するからである。すなわち、 自らが知る徳は無比であり、自らが知ることのない垢︹も︺無比である 天も人も含めてこの趣は、これら二分によって荘厳され、侵害する。 ・・・・・・⑳⑳:・・・. と説かれている如くである。次の如く、 自らが知るとは心髄の友となったものである、云々、 虚構のない慈愛︵堕胃胃旨︺凹冒①日塑ご︶と、友と友に非ざる者とに対しての平等なる心︵g洋風目旨①のロ圏目59茸“︶ ⑲ によって、不顛倒の業︵P負冨ご閑農肖目幽︶が説かれる。自らが知るのは顛倒す’
⑳⑦無限の大悲︵名目旨o宮口ロ四目昏際閏巨箇︶とはへ楽と苦と二として無とに対して平等なる業︵合算富の鳥目号騨︲ 冨曽$自営際自冒騨︶が説かれている。凡そ苦のあるものに対して悲は起るが、楽であるものには起らないという そういう業は平等でない。一方に対して起らないからである。菩薩は、楽や苦や苦にもあらず楽にもあらざるもの でもあれ、有情として摂せられるものは行の苦性を有するものであるから、彼等︹有情︺を差別することなく悲し む故に、業は平等である。 ⑥疲労のない意︵農︶、日ご一自国目習い臣︶とは、不退の業︵gう﹃胃冨ロョ巴門胃冒⑳︶が説かれている。有情が邪行 ⑳ ︵冒拝ご骨爲昌冒昔︶するから利益し安楽ならしめようという増上意楽に随う業より退転することがあり得ないから ⑥適切な言葉と笑顔とをもって先ず語ること︵胃画日﹄画く鼻冨薗目匡菌白鳥冨冒う動匡号目3口四国︶というこれら ⑳ 業が説かれている。聞かれているから聞であって、経︵祠暗曽︶等の諸法が︹聞かれるの︺であって、聞かれるも ⑳ のは何であってもよいのではない。意味はそれらと同じものが語られているのである。間と意味との二に満足して う辛苦に勤む精進を捨てていない故に、 ⑳ (8) ども、菩薩は欲望がなくて慈愛するのであって、別の世にも随応するのであるから浬藥に至るまで永久に慈愛する である。欲望によって作られた友に随うもの︵臼冒口ぐ胃冨︶は命のある限り随うのであって;永久にではない。けれ ⑮ 子婁のる。 二は、﹄利益し安楽ならしめようという増上意楽と相応する語と身との業︵ぐ鼻圃冨冨儲冒秒︶が説かれている。 ⑩聞と意味︵胃具習昏四︶とによって満足してし 受けた辛苦に絶望がないこと とは、怯弱でない業︵且目鼻胃日騨︶が説かれている。一切の有情を救済するとい ⑳ 故に、誓いの如く成就するからである。 まわないこと︵騨再君は︶ とは、方便を摂持する︵員︺劇員︶胃蒟国富富︶ 一一一一ハ
︹︾騨冒沙庁倒︶、. ︲L 、 しまわないとは満足を知らないのであり、それが有情を成熟する方便を摂持する業である。 足してしまわないのは、分に随って︵冨普号冒ぐ菌︶句と文字の接続によって法が示され︸ ⑫ ⑫⋮⋮ と言われている。誰かが罪をおかした場合に利益しようとするためでなく、怒って言うとき∼彼のその言葉もまた ⑬ 信受す、へきものでないから、いよいよ逆い、邪行をなすことになるが、一子︹に対する場合︺と等しい慈愛を起す ..⋮・@ ものは罪をまねくとも、再びなさないという戒禁も摂持せしめることになる。 ⑪ く制せられて、しかも信受す雫へき言葉︵且。冒く鼻冨︶によって、他人をしてなすところにあらざるところより離れ
⑰⑬:.⋮⑮
しめることができるが、そうてなくては離れしめない。すなわち、 ⑳ 不可能︵閉昏倒四︶であり、機会がなく︵閏扇ぐ鳥月農︶、自ら邪に入る人にとって、云々、 と、経中に説かれている如くである。世間においても、 ⑳ 〃自らの過失を過失と知るとき、ある時には離れることになる。そのことに対して徳を取るというのであるが、 てそれを知らしめる。それ︵も の心は受用するからであって、 菩薩行としての業 ⑮⑯。⋮・・11111 は貧、︵国盟︶等である。それを厭うとは転回することである。自らの誤失の過失を見るとき、それより離れる。ょ f 4 1,J。,。11−ノ.1,J卜○︽、ノT刊、︽−11︲トーJ島 二句によって所対治を厭う︵a8四口目︶業 ⑨ 増上慢を離れない。 一切の行道において︵員働圃昏①曽︶ 他人の誤失に怒ることなく導くことというこれら二 ⑬ 思曽︶とは利益し安楽ならしめようという増上意楽に適応する。一切の所作に菩提 、 ﹃行境清浄経﹄中に、 二一七 ⑭ 三洋画提心を受用すること とは、自らの誤失に︵弾日蝕農園犀①智︶過失を見ることa○超8門︲ を成熟する方便を摂持する業である。聞と意味とによって満 ・・⋮。⑪ 句と文字の接続によって法が示されているからである。 ⑫ ︹句︺→によ︹ゞって説かれてい︺る。その中、所対治 ︷、、 と樫偲 不断に︵の閏昌国冒︶ それを作意する業によっ ⑪によって摂せられた方便︵ロ己品凰冒8凰冨︶︹という句︺に至るまで︹によって説かれている︺。更に段々と︵眉胃冒︲ 冒凰︶歓喜等の地の位態の、説かれる如き所対治を残りなく除く六波羅蜜と︹四︺摂事は、すぐれていて勝進に到 ⑯ るところの因である。業はなされるべきであるから。四つの波羅蜜多はそれと同じ言葉で説かれている。区別のあ るものについて、それは説かれるべきである。そこにおいて有情の利益の所作が見られないから、菩薩は無色界に 生れない。それ故に、菩薩の禅定なるものは無色界を除外したのであり、棄捨したという意味である。方便に善巧 であるのは大悲を有する慧︵官且鼠︶である。それによって有情の利益をなすからである。それがないと、有情の 利益はないことになる。佛たるもの︵盲目冒団︶は有情の利益である。すなわち、 汝は慧含且目︶と悲︵冨目目︶との二が相応して、受持して他を利益する。 ⑰ 利他としての正行は菩提行唯一の道である。 と説かれている如くである。
︲11海⑲
四摂事は布施︵尉口四︶と愛語︵官ご餌乱e団︶と利行︵胃目四○胃乱︶と同事︵“四日目副昏幽薗︶とである。布施は摂受 のために︵同.思念︶布施を起す。愛語はよく理解されるからであり、説法の相であるからである。利行は善に入る からであり、よく受持すること︵留日且習四︶の自体であるからである。同事は和合するからであり、共なる徳を性⑳、
質とするものであるからである。或は布施とは法の器となす。愛語とは法を信解するものである。利行とは法を信 ⑮ 処するとき、すなわち、一切の有情を菩提の心髄︵g目目騨且騨︶に処すべしと、心を発す。云々、 と説かれている如くである。 ⑬ ︹六波羅蜜を正しく実修し、摂事|
を実修し、︺七句によって勝進する業 とは、報酬を期待しない布施より四摂事 一二八恭敬︵勺.隠舎︶して法を聞くとは、すなわち、 ⑬ ,十六の行相をもって法は聴聞されるゞへきである。 と説かれている如くである。 菩薩行としての業 二として無なる慈愛というより、善友に親近するに至るまで︹の句︺によって説かれている。作意する徳と友とする 徳との二はそれぞれ二句が説かれているからである。 ⑳ これらの中、戒が存在するから持戒者である。戒を罪とするものは破戒者である。彼らから法を聞くとき、法を 恭敬する故に、かれら両者をともに、よき友として想うことによって彼等に親近する。破戒者を不善なる人という ようには理解しないのであって、すなわち、 戒の劣れるも賢き者は低劣でなく、利することを語り明白に語るものに対して、 ② 大師の如く恭敬す、へきである。彼の善く説くもの︵の巳畠昏房騨︶に対するその慈愛と等しい。 と説かれている如くである。 実修とは成就する実修︵昌遇四蚤冒昌○魑︶である。およそその成就するものが業である。 、 ⑭ 、 解し実行する。同事とはつとめて努力する。絶えず種々︵ぐ目茸沙︶となすからである。それらこそが方便である。 ⑨ 自体として摂せられるものであるから。 面罵侭目四︶と、二によって友とする徳、との︺六句によ より、友とする徳というそれら︹六句︺は経にいう八句である。︹その八句による業は︺持戒者と破戒者に対して ︹正しい人に近づき、正しい法を聞き、閑静処 に住し、不倫な分別を断ち、二によって作 って成就する実修の業といわれる中、 動 ’ 正しい人に近づきとい﹄フ 二一九 成就する所作の故に 意する徳言国再閉]︲
四梵住を浄化する云、べは四無量︵。呉働昌眉矧自目目︶であって、すなわち、慈︵目P洋風︶、悲︵菌Hg巴、喜︵口旨臼薗︶ ⑥ 拾︵§鳥箇︶が梵住︵胃台目富︲ぐ房剖沙︶である。それらが成就するとき、清浄なるものが:::の如く顕証するもの ︵言§煙冨︶であるから証相︵冒噌︶の声を得る。 ⑯ 力︵頁号目ぐ四︶とは力︵g旨︶であって、五通をもって遊戯する︵く房国8口轡︶神通官目言︶は大である。漏尽通 ⑰ ︵閉園くこぶ騨乱g言巴は︹五通の︺力︵百号目ぐゅ︶でない。慧解脱︵官旦別︲ぐ旨旨炭は︶は大なる神通︵ロ目巨︶でない からである。或は、それは菩薩の位態であるから未だ語っていないのであり、これも成就する証相︵冒盟︶である。 ⑬ 業 ⑮ 住を浄化すること、五通によって遊戯すること、智を任持 不倫な分別とは欲等をもっているものであって、舞踏や:⋮歌など世間の種をなることに愛楽しないことによっ ⋮⋮@ てそれらを全く断っている。 証解︵冒呉目&富︶とは現証︵出冨創富国g︶であり、それは現証する自在であって、智を任持することという
⑳⑳⋮・・・
ように説示されている。︹智︺は自内証︵冒騨q留日胃︺︶による現量︵官騨q騨庸四︶の智である︵呵・賠習︶。任持するこ @ と︵冒四爵閏騨爲↑︶とは、洞穴︵鵯旨く胃鳥四︶︹における場合の如く︺であり、量︵証権︶として説いているのである 作意する徳とは、声聞や独覚乗に求めることを捨て、大乗の徳を求めることに相応しているからである。 友とする徳とは、悪友を断ち、善友に親近する。 、 住処より一クローシャ︵冨○召︶離れているのが閑静処であ ⑪:⋮︲ ︹限りなく清浄化し、力を得、証解する徳の︺三︹句︺によって成就する業とは成就する証相︵冒盟︶である。 ⑥ ︵冒鄙冒騨︶の語はここで証相︵冒唱︶の同義異語に属する。無量と力と証解する徳などをもって、それら︹四梵 牛リマQこしロ ④。恭敬してとは如実に恭敬するのである。 、 ’|
’
@ が説かれている。 ⑩ 二 二 ○菩提心を先とすることとは、それ︵菩提心︶によって摂取されている︵冒昌唱騨g︶から雑染にあらざる心として ⑥⋮⋮ ︹説かれて︺いる。尊崇︵匡凰mpp四︶などはこの命の結果のために貧り求めること︵の:咽薗︶を考えていないから ⋮・・・⑥ であり、しかも、大菩提︵昌昏3只冒︶が達成されるゞへき︵官骨国く意︶であると思念されているからである。
菩薩行としての業二二一
なるものでも、︹法と財との︺両者によって正しく建立すること︵団冒ぐ号目窓︶を認めて、法と財との二によって 諦を尊重することとは、法と財とによって摂するといって、その説述は努力奮起するもの︵ロ身○苛昌四︶でもいか ⑥ かくの如く成就するからである。これもまた業である。 ⑯ ある。それこそが業であって、成就と邪成就に住する有情達︹を見捨てないこと︵胃、量冒詐冒官騨武冨洋風巨薗目目 の鼻乱目日胃旨蕨騨晶農︶︺というより終りに至るまで︹の句が適応しているの︺である。しかるに、これらの説述 一語を説くこととはためらいのない教誠と教授︵ゆくPぐ目幽︲貰旨3困昌︶は信受す、へき言葉︵目①園︲ぐ鼻冨︶である が故に、そして、ためらいのある言葉は信受すべきものでないからである。 、 をしない。 ⑯ あ ; が る⑩、 ○ 一 は、集まりをよく摂する徳というより終りに至るまでである。 、 ︹集まりをよく摂する徳は︺破戒者が不善なる処より出るのであって、善を安立するのであり、しりぞけること によってそれを安立する業とは、利益し安楽ならしめようという、その増上意楽を安立するのがそれを安立するで ︹限られた︺ ︹集まりをよく摂する徳、ためらいなく教誠し教授し、法と財とによって摂し、靴染にあらざる心、の︺四句 境のみ︵胃g四日御国︶を︹知る︺識︵臼百日国︶ではない。それによって寂静とはならないからで 、|'
ロ召 ノ ト 、 、 耳 偶頌の意味は既に説明しおわっている。弓のご侭賠冒鱈I陪習・︾玄梁訳。大正三一・四二頁Cl四一三頁b参 註第二章第三十四節という節の分け方はE・ラモット本による。 ①﹃佛教学序説﹄一八二’一八三、二○七’一二九頁など参照。 なお、職伽唯識における業思想の成立を叙述するものとして、数多くの唯識諭吉の中、﹃唯識二十論﹂の第十八偶以下が 重要と思われる。山川益・野沢静証﹃世親唯識の原典解明﹄、安井広済﹃唯識二十論講義﹄九三頁以下など参照。 ②野沢静証﹁智吉祥造荘厳経論総義に就て﹂﹃佛教研究﹄第二巻第二号所収、一二七’一二八頁による。 ③荒牧典俊﹁摂大乗論第二章第三十二節﹂︵﹁印佛研﹂第十二巻第二号所収︶および、宇井伯寿﹁摂大乗論研究﹂、武内紹晃 ﹁世親釈摂大乗論所知相分の組織﹂︵﹁龍谷大学論集﹄三六四号所収︶を参照されたい。 ④この本文に対して、無性は次のように註釈している。
略号
〆E・ラモット本・ 勺の冨固、酌弓.・ 佐々木四本対照・ 佐倉木四本対照附 印佛研・ ︹︺内. 釈するものの意図に順ずるのである。徳によるか、或は、意味によるかとは、徳の意図と意味の意図とによってである。反 ﹁ともかく以上は、解釈するもの弓.麗函︶の意図に関係せずに説かれねばならない。 F四⑳○日目の︵旨の3]己ぐ曾胃巳①︾ご認 北京版チベット大蔵経 佐女木月樵﹁漢訳四本対照摂大乗論﹄ 右同書所収チ零ヘット訳摂大乗論 ﹁印度学佛教学研究﹄ 本文その他によって補う言葉 すでに 説かれた意味を説くことは解 二 二復し、はたらいているものが徳である。およそ、自らよくしようとする人々が道に従って修習される。へきである。観察され る、へきものであるから、その意味はまさに知られる、へきことであるが、決定的に修習される尋へきではない。苦性の如くであ る。﹂︵勺①箇口函臆g澤山電亀︶ ⑤これら﹁徳による﹂句は﹁解深密経﹄序品、﹁佛地経﹄因縁品、﹃翻訳名義大集﹄などに見られることはよく知られている ところであるが、長尾雅人教授より﹃華厳経﹂の如来名号品や出世問品の各品の初めにも掲げられているとの教示を得た。 如来名号品では、﹁三時の平等性を証解する﹂という句までを掲げ︵大正九、四一八頁a、大正十、五七頁c、胃官晶影印 二五、七八頁、三、二︶、雛世間品では﹁虚空界の辺際を尽し﹂という句までを挙げている。︵大正九、六三一頁b、大正十 二七九頁a、呼嵐品影印二六、五九頁、一、四︶。なお、徳という語の聡伽唯識における意味は山口益﹃世親の浄土論﹄、 八三’八四頁など参照。 ⑥これら諸徳の内容、及び、諸本による徳の句の数え方の相速などについては省略する。“ ⑦チ言ヘット訳の本文及び無性註は、聰切︲冒鼎昌烏且︲憩宮であるが、漢訳諸本、及び、チベット訳世親註の鰐①鴨︲層H目烏且︲ 冨官によって理解する。 ⑥この語に相当する漢訳は、由義処︵玄英訳︶、義依止︵笈多共行矩等訳︶、因事義依止︵真諦訳︶、義増上︵佛陀扇多訳︶ と見られる。︵佐凌木四本対照、四九頁︶。なお、以下の引用文は、E・ラモヅト教授の指摘するように﹃宝積経﹂にも見 られる。長尾雅人訳﹁迦葉品﹂︵﹃大乗佛典﹄9所収︶、三○’三四頁、及び註︵卯︶を参見されたい。 ⑨漢訳四本及び﹁迦葉品﹂によって菩薩の語の重複をさけた。 ⑩本文の叙述に従って、あえて三十二の句に分けなかった。 ⑪この業︵厨の︶に相当する漢訳は、佛陀扇多訳が﹁作事﹂とする以外、他の一二訳は﹁業﹂となっている。︵佐倉木四本対照、 五○頁︶。従って暦儲日魚ロとして理解する。 ⑫勺①冨品の⋮普目︲g四︲g目臭は。:吾$iご秒︲9房臭の誤写。デルゲ版は・・・皆①唾・之.
菩薩行としての業一三三
⑳ ⑭ ⑳ ⑳ ⑳ 二二四 ⑬玄英訳﹁釈日、三十二法由十六業、分別顕示、説彼業故・﹂︵大正三一、四二c︶ ⑭玄英訳﹁或有利益而非安楽、如盛負者強修梵行。或有安楽而非利益、如楽欲者受用種種有罪境界。﹂ ⑮玄英訳﹁或有利益亦是安楽、如薄塵者楽修梵行。﹂ ⑯玄英訳﹁菩薩作如是心。云何皆令一切有情、当得無上利益安楽。言意楽者欲及勝解以為自性。此意楽勝故、名増上意楽・﹂ ⑰玄奨訳﹁菩如一燈転然千燈﹂。世親註もこの職を上げている。また、﹁荘厳経論﹂に圃昏凰冨、目目島矧号冒ご画威呂日凹冨︲ ロ島冒昌。昌具胃④日当○、留日丙ごgOp四3困冒ロ閏①戴く冨苗目胃息命再自〆﹄鯉号︶といい、﹁維摩経﹂にも同様の内容 の叙述が見られる。﹃インド古典研究﹂1所収の大鹿実秋校訂﹁チ尋ヘット文維摩経テキスト﹂亨弓切員91厘.両.閉四日○#①︾ 同国ロの①誼目①目①鼻:ご目巴四国H且己曽つみ認︾﹃大乗佛典﹄7所収の長尾雅人邦訳、六四頁など参照。なお、ここの無性 註に示す業の名には﹁実修﹂︵冒昌○忠︶の語が省かれている。 ⑬弓⑦嵐品は壱四︲匿冒四口︲目:・であるが、デルゲ版の壱四i毎日啓四口︲函・・・による。 ⑲刃匡品はg畠・胃﹄デルゲ版はg樹・日.チベット訳本文g侭・旨吾乱尉普①切言ロの︲の巨掃m︲園. ⑳⋮玄装訳﹁謂我唯有如是聞慧、了知教証、自有堪能、起随所応無倒加行。如有頌言。諸有自称量勤求所求処彼不 逮勅労而能到所到﹂。なお、この偶の出典は未詳である。 玄英訳﹁他雌不請自然往彼、為説正法・﹂ 玄英訳﹁不能動壊所発心故・﹂ P匡品はgo、︲目騨旨ロ︲冨碑奥であるが、デルゲ版の胃Omi目四日四旨ロー冨黒ミによる。 ここの蔚冨銅国ロ︲園に対して、〃E・ラモット教授は胃昌目冨§に理解している。﹁迦葉品﹂の梵文の三十二法を掲げ るところでは曽昌騨乱ご四国となっているが、長尾教授のご指摘によって冒餌目前戯画国国として理解する。なお世親註 はこれらの句を註釈して﹁応量而語及先言是語業。含笑是身業。応量語者唯作法語。言含笑者野顔往来、作饒益事。﹂︵玄奨 玄典訳欠。
⑳玄英訳﹁如担而弁。﹂ ⑳﹁意﹂はデルゲ版による。 ⑳慰置品はgの︲g1︺菌︲g言ご房撹も四宮⋮であるが、デルゲ版のg①︲園HgP︲g官冒品︲冒言⋮による。 ⑳弓①匡品は冒冒目︲園⋮であるが、デルゲ版の日3口︲富⋮による。 ⑳玄英訳﹁義謂即彼所詮之義。﹂ 、玄英訳﹁聞義無足、如所堪能、応正道理而化導故。﹂ ⑫本文チベット訳はgm叩閣騎であるが、ここでは巨樹︲四である。 ⑬.鴨冒ロ碗試による。本文鴨冨︼]︲喝﹄の. @局の匿品は目P︲鰐①H︲冨罵・:であるが、本文及びデルゲ版の目︲隅①︲9吋:・による。 ⑮玄英訳﹁負愼等。﹂ ⑳玄英訳﹁欲令遠離故名厭悪。若於自罪深見過失、速疾厭離、方能制他所不応作。言威粛故、非餘能制・﹂ ⑰弓①匡品は胃旨叩冨副自己︲ppm︲]尉包⋮であるが、デルゲ版によって︽︽日崖︾をとる。 ⑬胃置侭は囎冒ロー目日蝕︲甘口庁ミであるが、デルゲ版の鴨冒ロ︲号員目色︲割ロ汁奥による。
⑲川典未詳。玄奨訳﹁若自住邪行便受他議論是人終不能制止他過失・﹂
⑳デルゲ版の⋮牙切嘱の︲ロ呉による。勺①匡品は⋮爵、堀︲ロミ、出典未詳。玄英訳﹁若自犯想過経時不観察不如理遠離慢不取其徳。﹂
、玄英訳﹁若懐槇盆、海他所犯、以非利益非方便故、言不威粛、他転違背、起諸邪行。如有頌言。憐悪如一子講挙他所犯決定令受持後不復当犯。﹂
⑬デルゲ版の︽︽万︾﹄による。菩薩行としての業二二五
訳、大正三一、三四八 玄英訳﹁如担而弁。﹂ 三四八c︶と訳述している。③同じく度摂品梵文第七十四偶長行冒ご騨鼠目冨薗39号胃自国日四目目匡昌呉の33算冒く冒巷豊凶匡騨、騨日喝租。目①§︲ ロ鼻息命寓や巨画員屍1s︶参照。 ②同じく度摂品第七十四偶長行騨昌国o胃穆曽冒凹昌︺騨身且①胃昏豊富HBPn胃.や]届﹄罠ご’9︶参照。 ②玄英訳﹁⋮。:令所起行、転得清浄、転復微妙。由此具摂方便自性﹂。同じく度摂品梵文第七十四偶長行い四日習国﹃晉騨苗圃 勵冒冒鼻壱四詐目ぐ煽○&]s国威a品苗圃国己屋課目目昌己P日困日腎凹冨ぐ四m目目目冨局目四$胃.己巨③︾勇ら19︶参照。 ⑨玄英訳﹁由此加行、能令成満。是故説名成満加行。此即是業。﹂ 、玄英訳によって補う。 ③玄英訳﹁於此二種能説法者、為間法故恭敬法故、起善友想無有差別。是故説言善友無二。由是因縁、於破戒者不応一向謂 ⑬四摂事につい 、川典未詳。玄 ’八五頁参照。 ⑲玄奨訳﹁山布 同得不共功徳。﹂ ⑳﹁荘厳経論﹂ 一一一一一ハ ⑭玄英訳﹁⋮:・無間修治菩提心故、如所行清浄契経中説﹂。この経名は世親註にも見られ、﹃荘厳経論﹄二利品第九偶下の長 行中命冨.ぐ.詞巴怠.弓︾具.旨.③︶にも見られる。
⑮出典未詳。玄装訳﹁若見坐時発如是心願諸衆生坐菩提座。﹂
⑳玄奨訳﹁有差別者今当略釈。捨無色界修静慮故者、菩薩不生無色界中、於彼不見能作利楽有情事故。亦不数入無色等至、 不見彼処、有多功徳之所依故。捨是離義﹂。蔵漢共によく理解できない。@出典未詳。玄共訳﹁陸修習慧悲能作他利楽利他行正道一向趣菩提。﹂
⑬四摂事については﹁荘厳経論﹄度摂品、梵文七十二偶より七十九偶に詳細な叙述が見られる。山口益﹃アポロン佛﹄八三 、.届︶参照。 ﹁山布施故、 度摂品の梵文第七十四偶長行習昌協&口①ロ四目且妙日匡届ごゅ陸S5pご儲蔚畠号&回国冨洋:︵壁騨や巨回 能摂受他。由愛語故、方便附解、為説法相。由利行故、随其所応勧彼修善。曲同事故、於最後時令彼非善友・﹂ ⑰この偶の出典未詳。玄英訳﹁若見戒雌扇劣而能弁説利多人如佛大師応供養愛彼善説故相似・﹂ ⑳この文の出典未詳。玄英訳﹁如所説広義等中、由十六行応聴聞法﹂。デルゲ版はロ○口目四日︲層ず2’身品︲ぬ歴呂。の目冒ロ︲ 層Hg農○であるが、F置品は︵ざロが見られない。 、チベット訳では瞥勝︲口搦:.であるのに対して、ここに相当する玄英訳は﹁聚落﹂であり、更に﹁於中居止、説名為住﹂ という訳述も見られる。 ⑳玄婆訳﹁如応而住、無有慢緩名患重心c﹂ ⑥玄英訳﹁於世雑事不愛楽者、不愛世間歌笑舞等種種雑事、即是遠離欲等相応不正尋思U﹂ ②チ、、ヘット訳は曲目19の。︲菌§ご伽胃︲びく①。︲目童品︲鷺:ご輌旨︲﹄①旨︲冨冒︲印。聰︲層⋮であるが、皿胃︲ず閨の。︲目茸長︲宅騨 という語、解読困難。玄英訳前註⑪参照。 ③玄奨訳﹁謂成満相、名成満業。此中業声、是相別名﹂。ここで﹁成就する証相﹂と理解したチベット訳は喝号︲■P言尉国暢 である。曾曾回冨冨昌ロ︲際庁.目g5R−qによるとめ巨目己︺o冨冨という用例も見られる。 、玄奨訳﹁無量清浄等三句、釈前恒修治四梵住等三句。﹂ 、この部分解読困難。。①︲Q品︲昌鴨目,g︲ロ四目胄口︲己肖Q畠︲冒す品︲厨のg︲gご各自︲目、①、︲も胃ご①・︲冨切H3甥︲ご尻唱騨 宮冒亨冒.玄装訳﹁由此表知所有内徳。成満清浄故得相声。﹂ ⑳玄英訳は﹁遊戯五通名為威力。漏尽智通是解脱智名大威力。或取菩薩増上神通、名大戚刀。如是亦名成満之相。﹂であり、 チベットとその訳述が違う。 ⑥勺①匡品は日普巨冒耳目苗、であるが、デルゲ版の日昏?冒凹琶旨什臭による。なお、世親註は﹁力を得るとは五通であ る喝﹂︵弓①声︼固い旨、いす串︶とい第フ。 ⑬﹁中辺分別論﹂障品安慧証に、国目喝摩の号肖日陰含弾。﹄︺“胃ぐ目3函胃昏閣冒宅罰昌昌︹︸ご祁昌を註釈して、買昌ぐ昼ごP︲
菩薩行としての業一三七
⑤玄英訳﹁謂財法二摂合成一種、積集財法、無異分別、平等分布如先所許、如是施与、除現所無。如有頌言。財供養能
令衆生尽寿命法供養能令究寛天寂静・﹂
⑯世親註は﹁雑染にあらざる心﹂を解釈して、﹁菩提心を摂受して有情利益をなすのであるが、自ら受用する︵息吋号冒昼呉①︶ のでない。然るに、また、この善根によって無上正等覚を完全に正覚して、諸有情を引摂すべきであるという如し。﹂ ︵勺①旨吊房雷“︲傘︶と叙述している。 ⑰玄英訳﹁凡有所作終不貧求他供事等、唯求証得無上菩提。﹂なお、大菩提という言葉について無性は﹁それは菩提でもあ り、大でもあり、あるいは諸大の菩提であるから大菩提である﹂︵本文序章・恩匠品鵠冨●︶という。 ところで、前節第三十三節において、﹁極清浄なる覚を有する﹂という空性真如なる法性・法界の態として、諸佛の徳が 種左叙述されているのであるが、それらの巾﹁法界を極める﹂という﹁輪廻の辺際がある限り、あらゆる有情を利益と安楽 二二八 画はい鼻“弾冨]’o酉耳胃讐農︵山口・梵文、壱gP巽亨巴という。 ⑨玄英訳﹁各別内証、名⋮﹂。世親註では﹁智を任持するとは、智を任持するが、識をではないのであって、自内証智を起 して、その智をまのあたりに行う仕方をもって、法に住する。﹂︵勺の置品届聖︺。︲・︶という。 ⑩玄英訳﹁不唯於義、依趣於識非寂静故・﹂ ⑪﹃荘厳経論﹂度摂品に、冨昏抑噌芽胃鳥の昌冨且副ロ騨昌胃且の哩冨昌冒四耳鼻笛g巨弾旨胃自己四目冨詐目自習“圃圖冒 し 冒四ご鼻:貝冨5−勘go異︵望鼻.〆ぐ同阜︶.巨岸富.房lら︶という。なお、醤ヲ劃自己8はz侭四ゞ9目︵苛例による。 ②玄英訳﹁謂於持戒犯戒有情、駆損摂受。倶欲令其出不善処、安立善処、名不棄捨﹂。また世親註では﹁由於破戒亦不棄捨、 安立不損、令出不善、令住於善。﹂︵玄英訳、大正三一、三四九a︶という。 ⑬玄英訳﹁言威粛﹂。 ⑧﹃荘厳経論﹂度摂品に、3国四目四国ロ四巴︼四冨巨忌冒迂動目笛3口の旨い颪ぐ房習ロ智呂。g且餌冒弾命胃.〆昌ゞや旨、急.届︶ 1とい︾フ。あって、法界の意味はすでに説かれた。ここの、それを極めるとは、極めて清浄なるが故にである。それ︹法界︺等流 ︵昌望“ロ量︶の経などの諸法は、現在と後世とに所応する如くに、一切の有情を利益し安楽にするために近づくのであ る。︵弓①嵐冒、暗つ里︲函︶ と解説し、法界・転搬得智としての智の内容をきわめて適切に詳述している。そのように、諸佛の甚深なる徳は、智の内容 として・佛としての本務の果遂として、われわれ人間の上に具体的に動向しているという菩薩の還相的側面の展開を示して いるのである。かかる展開がまた、本節では、経文に語るところの菩薩たりうるための三十二法によって説かれてくる。そ れらの中、﹁一切の有情を利益し安楽ならしめようという増上意楽﹂︵且耳月&﹃H深い志向のあること︶という菩薩の実 践の深い志向が、それら三十二法の根底的な意味をもっとする。その利益し安楽ならしめようという菩薩の増上意楽が、こ こでは具体的に十六種の業によって示されていることは既に知られるところである。無性註は、前節において﹁虚空界の辺 際を尽す﹂という﹁尽きることのない徳﹂に対して障碍がない業をもっともいって、その業は、いわゆる﹃荘厳経論﹄菩提 品にいう智の無碍、業の無碍としての業の思想であり、前上の叙述によっても明らかとなるように、その菩薩行としての業 の思想によって、清浄にするはたらきの態がわれわれに到り届くという大乗としての琉伽唯識の必然的な展開が明示せられ ているのである。 とに近づける徳﹂が、本節三十四節との関連において注意す。へきかと思われる。その徳について無性は、 菩薩行としての業 法界を極めるというこれに対する解釈は 輪廻の辺際がある限川 一切有情を利益と安楽と に近づける徳といわれるので 二二九