八 論 説
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近世被差別身分制度化前の状況について
牧
英
正
1一一『奈良法学会雑誌』第9巻3・4号 (1997年3月〕 ま え が き 一 触 稼 一汚畿の処理 ニ弾左衛門の登場 む す び カミ えき
ま いわゆる大学紛争が沈静化したころ、私はある大学の同和問題委員長の職務を担当した。委員長の主たる仕事は、 結果的には、学生ことに部落解放をめざす運動団体との対応の窓口であった。当時はなお、数多の学生運動団体各派 が覇をきそっており、部落解放を旗臓とした学生の集団の数も五団体に上った。 そのころ、運動体の学生集団との団交と呼ばれた声高の会合のなかで、論点が被差別部落の起源の問題におよび、 私は﹁ある人びと﹂が其の身分に組み込まれたと言った。当時、部落差別を克服する切口として、歴史的説明が重要第9巻 3・4号一一2 視されており、部落の起源をめぐっては、 いわゆる近世政治起源論が運動に参加する学生諸君の信条であったといっ てもよかった。江戸幕府は、民衆支配の一環として、分断支配のために四民の下に穣多・非人身分を創出し、酷しい 収奪の下にある百姓の不満を逸らせた、というのである。私も、江戸幕府のもとで積多と非人を二本の柱とする賎民 制度が﹁制度化﹂された、と考えていた。学生諸君は、私の言ったこの﹁ある人びと﹂の語に食い下がり喧喋ははげ しくなった。それでは、どのような人が賎民身分に繰り入れられたというのか、と大人気のない反問したとき、学生 諸君は返答に窮した。かくいう私自身も確信のある認識をもっていたわけではなかった。さらに、どのような手続き で制度化が行われたか確かめていなかった。その解明は私に残された課題であった。 すでに私は江戸幕府のもとにおける身分制度の形成過程について、貞享年間における非人頭車善七と浅草弾左衛門 ( l ﹀ との争論に対する評定所の裁許をもとに論じたことがある。ここでは、それ以前の状況について、私の理解を述べて おこうというのが本稿の目的である。 以下、行文は精疏さだまらないし、知悉の史料もかかげて煩雑の識を免れないが、素描として諸賢の寛恕をお願い し た い 。
触
被 江戸幕府支配下の被差別身分の中核は、積多身分と非人身分であった。 幕府の膝下では、浅草弾左衛門が、貞享年間(一六八四八七)以降、関八州および近隣数国の積多と非人を支配 する権限を公認された(その点は後述する)。﹁穣多非人﹂と一口に言われるが、﹁積多共と非人共とハ、身分之振 合﹂に差別があった。その制度の完成期における両者の相違を、ω
役 負 担 、ω
生 菜 、ω
平人との関係に分けて概述する 。 噌 E 企 保六年の裁許によって非人に対する支配権を再確認され責任を負わされたから、非人の負担した役も広い意味での弾 ﹁役﹂すなわち職分として科せられる業務は、その身分の存在理由として注目されている。浅草弾左衛門は、享 左衛門の役に含まれることになるが、それぞれの固有の役を見ることにしよう。 ﹁享保撰要類集﹂には、享保一
O
年 九月付で弾左衛門が提出した﹁御役目相勤候覚﹂がある。ここには、幹綱御用・御陣太鼓御用・皮類御用・御尋者御 用・牢屋敷焼失の節囚人移送および番人・御召舞馬の埋葬・施行の節人足・御仕置者御役・同伝馬役・同入用諸色の 買入・支配下のものの裁許を列挙している。この外灯心の上納があった。非人固有の役としては、すでに塚田孝氏や 中尾健次氏による詳細な研究がある。非人の役としては、溜役(溜は浅草と品川の両所にあり、それぞれ善七と松布 3一一近世被差別身分制度化前の状況について 衛 門 が 管 理 し た ) ・ 不 浄 物 片 付 の 川 廻 役 ・ 制 道 ・ そ の 他 人 足 等 で あ っ た 。 弾 左 衛 門 の﹁非人提﹂には﹁雛牛馬有次第皮剥取、其支配長吏共方え差出候儀、非人専一之役儀ユ御座惇とある。ω
生業については、弾左衛門の書付によれば、﹁関八州並関外、私支配之積多共儀ハ、牛馬皮類草履裏付太鼓等之 細工渡世並灯心商売仕罷在、其上田地所持いたし、御年貢上納仕居-一日とされたのに対し、非人は﹁小屋頭と申者 は、非人ニ而支配之内ニ穣多支配を受、細工又は商売等一切不相成、穣多共ぷ檀中村々ニ一勧進場所預ケ置為相廻、物 貰ひ等為致、其上非人共え申付、第牛馬皮剥取、人足等ニ召仕候義ニ而、脇差十手帯候儀ハ勿論、絹布之衣類着用い たし候儀、決て不相成提-一市、積多共と非人共とハ身分之振合差別有之候ものニ御座惇とある。つまり、穣多は革 -囚人の送迎役・牢屋役(善七) 類諸細工や商売をし、あるいは農耕に従事して、年貢を上納するものである。これに対して非人は、物貰いのみで細 工や商売は許されない。 (3) 平人(リ素人)との関係については、通常、積多は﹁筋目違、素人-二切難成、素人より積多ニ相成候と申儀無第 9巻 3・4号一一4 之候、素人より小屋え入侯ものは非人と唱、穣多頭之手下一一候﹂というのに対して、 之、非人零落シテ非人ニ落タル故、非人頭へ証文ヲ入、立帰レパ平人ニ成ヨシ、エタハ元来其血筋ナル者ニテ、身分 ノ清方無之﹂と理解されていた。ただ、石井良助氏は、文政二ハ一八一九)年山田奉行より伺の積多小屋頭を殺した ﹁ 非 人 ハ 非 人 ノ 血 筋 ト と 一 五 事 無 一件につき、勘定奉行石川主水正から町奉行に懸合の上、弾左衛門から差出させた書付に﹁百姓町人より相対之上、 穣多仲間相成候分も有之、云々﹂と見えることから、 ﹁弾左衛門自身が積多について述べているのであるから間違い がないはずである。:::右弾左衛門問書付によれば、少なくとも幕末には、弾左衛門の支配地内では、相対の上、そ の許可を受けて、素人が穣多になる道がなかったわけではないのである。﹂と述べている。一方、非人についても、有 名な酉五月の弾左衛門書付に﹁全体非人素姓のものは、素人には不仕往古よりの作法ニて御座候、云々﹂とあり、ま た酉八月付弾左衛門より差出した書付に﹁非人素姓之ものつ素人ニ相成候儀、決市無御座肘ごとあって、 非人素 ﹁非人素姓﹂とは、非人の子として生まれたものをいう。ただし、 姓のものが平人となる道はないのが定法であった。 前記の酉五月の書付は、続いて﹁尤素人より一旦非人一一相成候ものも拾ヶ年相立不申内ハ、非人縁者より引上申度段、 非人小屋え申来候節ハ、其趣非人頭共より私方え申出侯問、一証文を取、素人ニいたし候様申付候、勿論、拾ヶ年相立 候ものハ、素人一一不仕候作法-一御座候、然レ共、非人より素人ニ相成侯儀出世一一て御座候問、近来は、年久敷非人-一 ても、非人之縁者より引上ケ申度段申候もの候へば、為引上侯え共、前書一一申上候非人素姓のものハ、素人-一不仕作 法ニ御座候、﹂と記している。前記の酉八月の書付にも﹁拾筒年以前非人小屋ニ候者ハ、素人ニ不相成定法候得共、頻 而引取度由相願候ものハ、素人-一立戻候儀ゆへ、致勘弁為引取候儀も御座候﹂とある。非人となって一
O
年以内であ れば、平人に戻ることは可能である。 一O
年という年期が問題となるのは、 一O
年以上を経過しておれば本来は平人に一れないが、近年は厳格にはしてい 町 、 、 , 、 . φ 卜 L t t u というのである。 一0
年間経過すれば身分が固定するという﹁御成敗式( ロ υ 目﹂以来定着した法意識であった。平人が非人となる道はいくつかあった。本人の意思によるもの、親・親類・町内 等の願いによるもの、後に詳述するが﹁ハム事方御定書﹂には、仕置として﹁非人手下﹂があった o 仕置として非人手 下になったものも﹁赦律﹂は一
O
年で平人に復する道を聞いているし、実際、心中未遂で非人手下となったものが赦 免された記録が残されている。非人身分と平人身分の聞の境界は流動的であった。 弾左衛門が、積多身分の流動に消極的であったとすれば、支配の範囲を確保し、安定した収入源であった艶牛馬の 処理権等の得分を独占し、他の参入を防止しようという意識があったのではなかろうか。寛政八(一七九六)年の仕 5一一近世被差別身分制度化前の状況につし、て 置例に、甲斐国の牢番を勤める穣多頭所左衛門らは﹁近年困窮ニ付、弾左衛門手下一一相成候ハヘ商売もいたし能可 ( 日 ) 相成﹂と思い、弾左衛門の手下になることを願い出た。弾左衛門の手下になれば商売もできるし生活もよくなるとみ られていたのである。権力の側自身も、触積に対する忌避感から脱しておらず、これを血筋のものとすることを前提 として身分の回定を図ったのであろう。近代以降に、非人系の集落が早くから差別を脱するのに対して、穣多系の集 落が被差別部落として残るのはこのような事情があったものと考える。 江戸幕府下の体制の完成期においては、四民の外とした身分は穣多と非人であったが、その果たした役割では積多 身分のほうが決定的に重要であった。弾左衛門の支配の下で、 血筋のものとして身分は固定され、革類御用や御召馬 の処理はその象徴的な職掌であったし、御仕置御用は権力の末端の行使である。弾左衛門は非人を支配し、人足を徴 した。非人身分は、穣多の補助的存在であった。 さて、この積多身分であるが、江戸時代を通じて、 ﹁ケガレ﹂・﹁不浄﹂がその属性とされたことは否定できないと 考える。例えばつぎのごとくである。第9巻3・4号一一6 ﹁かわた﹂とか﹁長吏﹂とか、当時、 より流布した呼称があったのにもかかわらず﹁穣多﹂という呼称を公称とし たことに幕府の意図がうかがわれるであろう。 旗本寄合肝煎を勤めた武田河内守が乳母を召し抱えたところ、後にその乳母が穣多の娘であることが知れた。河内 守は処置を町奉行小田切土佐守に問い合わせた。町奉行は、当の乳を飲んだ子については﹁右之乳給候得は、全食積 七十日過侯得は横無之侯問、左様御心得可被成旨﹂回答をしている。 ニ 而 候 問 、 ﹁食積﹂については、元禄元年 月﹁上野、紅葉山、増上寺御参詣之時﹂に示された筒条のなかに、 一 、 牛 馬 百 五 十 日 、
一
、 ﹁ 一 、 持 羊 狼 兎 狸 鶏 五 日 、 家犬羊市価猿猪七十日、 一、五辛前日之朝六時より給申 一、二足ハ前日之朝六時より給申間敷候、玉子ハ魚ニ同し、 ( U ) ましく候﹂とある。同﹁正月御社参之時﹂の食識も同様である。寛政(一七九二年一一月大目付に示された﹁御清 之儀﹂では﹁食積﹂について、少し改定が加えられ﹁持羊狼狸鶏五日、牛馬百五十日、家犬羊猿猪七十日、二足兎卵 ハ魚に同し、輩物は精進刻限より断へし﹂とある。積多の娘の乳を飲むことは家・犬・羊・猿・猪の肉を食したと同 じ積を受け、その穣れが消えるのに七O
日を要するとされた。 幕末にいたり、弾左衛門は﹁身分引上﹂を図るが、その際に町奉行を通じて彼が提出した﹁内慮伺﹂に﹁元来汚積 に触候家業の故以、穣多頭の銘儀は有之候:::﹂としている。 明治四年の﹁開化新聞﹂第一二号は次のような記事を掲載している。 ﹁先般穣多非人の称を廃し平民に入籍すべき の御布告ありし後、高知県下にて旧積多の混堂 ( H 風呂屋)拍戸 ( H 芝居小屋)等に来るを平民甚だ嫌ひけれパ、県 庁より示諭ありて、去十月処々にて蹴除を執行し、穣多非人等に神拝せしめ、全く汚積なきを示せしより、平民を承 伏せしょし、云々﹂とあるが、伊勢安濃津県ほかいくつかの県でも、賎称廃止の太政官布告を実現するために同様な ( 却 ﹀ 儀式を行わなければならなかった。触積忌避の迷妄から醒めなかった一般民衆は、神前で放除という手続をしなければ、これらの人びとの身分を改めることを認めなかったのである。 この﹁ケガレ﹂という観念について、民俗学者の間では次のような理解が行われている。日本人の生活において、 人びとをとりまく空間や時間あるいは人びとの行為は三つに分けられる。
ω
日常普段の事柄、それについての観念や 行 動 様 式 、ω
日常性から切り離され、神ごとと関わり合う観念や行動形式、神ごとと関わり合い、また人聞にとって 根源的なもののうちの善き事柄、望ましい事柄、めでたい事柄、さらに清浄性をふくむ事柄を範時化する観念が﹁ハ レ ﹂ で あ り 、ω
日常性から切り離され、神ごととは相対立する観念や行動様式、人にとって悪であるところの事柄、 不幸や病気、怪我、死、罪、さらに不浄性をふくむ事柄をまとめて範晴化する観念、これが﹁ケガレ﹂である。 ー寸 ノ、 レ﹂でも﹁ケガレ﹂でもない、正常で日常的なもの、 一般的なものが﹁ケ(気どである。この﹁ケ﹂が枯れた状態、 7一一近世被差別身分制度化前の状況について 生命力の衰退・消波の状態が﹁ケガレ﹂だという。 民俗学の所論は歴史上の絶対年代と直接つながらないが、このケガレを忌む観念は古くさかのぼることが確かめら れる。伊弊舟尊を追うて黄泉に至った伊弊諾尊は、伊弊再尊の死体に膿が沸き患のたかる姿を見て な し と め き た な 不須也凶目き汚積き固に到にけり﹄と逃げかえり、:::悔いて日はく、﹃吾、前に不須也凶目き汚職き処に到る。故、 吾が身の濁識を糠ひて去てむ﹄とのたまひで、則ち往きて筑紫の日向の小戸の橘の櫨原に至りまして、駿ぎ除へたま ふ。遂に身の所汚を重機ぎたまはむとして、便ち中瀬に濯ぎたまふ。﹂ ﹁ ﹃ 五 日 、 意 は ず 、 と日本書紀は伝えている。 死に対する畏怖や 異常なものに対する忌避感を古代の日本人の意識のなかにみることができる。 中央集権を達成した古代権力は、その体制を制度化するために中国で成立した律令の法体系を継受した。国レベル の祭組に関する条文は、それぞれ左のとおりであった。唐制とこれに対応する日本の規定を対比して掲げる。( 忽 ﹀ 唐 開 元 洞 令 逸 文 一 延 喜 式 巻 一 、 神 祇 一 、 四 時 祭 上 固有大杷中杷小記、臭天上帝、五方上帝、皇地祇、神州一凡践酢大嘗祭為大杷、祈年、月次、神嘗、新嘗、賀茂等祭 宗廟、皆為大記、日月、星辰、社幌、先代帝王、巌鎮、一為中杷、大忌、風神、鎮花、三枝、相嘗、鎮魂、鎮火、道 海漬、帝社、先輩、孔宣父、斉太公、諸太子廟並中為一饗、国韓神、松尾、春日、平野、春日、大原野等祭為小間 配、司中、司命、風師、雨師、霊一星、山林、川沢等、並一 為 小 組 、 州 県 社 程 、 釈 襲 、 及 諸 神 洞 、 亦 准 小 把 例 一 第9巻3・4号一一8 祭把にあたっては、それぞれ左の如く斎の期間が定められた。 唐開元令 諸 大 組 、 散 斎 四 日 、 致 斎 一 一 一 日 、 中 記 、 散 斎 一 一 一 目 、 致 斎 二 日、小杷、散斎二日、致斎一目、致斎之日、斎官昼理事 如故(故字、開元礼作旧)、夜宿(宿下、向上有止宇) 於家正寝、惟不得弔喪問疾、不判署刑殺文書、不決罰罪 人、不作楽、不預積悪之事、致斎惟杷事得行、其余悉断 非応、散斎致斎者、惟清斎一宿、於本可及洞所、 日本養老神祇令(括弧内は官撰の注釈書義解の文) 凡散斎之内、諸司理事旧、不得弔喪、間病(謂、有重親喪 病者、不在預祭之限也、)、食宍、亦不判刑殺、不決罰罪人、 不 作 音 楽 ( 調 印 、 不 作 糸 竹 歌 舞 之 類 也 、 ) 、 不 預 積 悪 之 事 、 ( 謂 、 積悪者、不浄之物、鬼神所悪也、)致斎、唯祭組事得行、 自余悉断、其致斎前後、兼為散斎、 凡一月斎為大肥(謂、上条云散斎一月、即此条称斎者、皆 散斎也、唯於一日斎、更無散斎、其致斎者、皆在散斎限之 内 也 ) 、 三 日 斎 為 中 -組 、 一 日 斎 為 小 配 、
両者を比較すると、唐日で祭把の対象が異なるのは勿論であるが、 まず、祭間にあたって身を慎む﹁斎﹂の期間に かなりの差がある。斎には、致斎(日本では﹁まいみ﹂)と祭記の前に慎む散斎(日本では﹁あらいみ﹂という﹀が ある。唐制では大和でも散斎の期間は四日であるが日本では一ヶ月におよぶ。治承二(一一七八)年七月十八日の太 ( 犯 ) 政官符にも﹁国大事莫過祭把﹂と見えるが、祭記は国の大事であり﹁式﹂の定めるところに従って勤行することを命 じている o 彼我の差は祭把を尊重する度合いの差が現れたものであろう。 また、唐の制では致斎の聞のみ、避けるべき事項を①死を弔い病人を見舞うこと、②死刑の判決をすること、③刑 を執行すること、④音楽をすること、⑤積汚に係わること、 の 五 項 目 と し た が 、 日本ではこれを散斎の聞に広げると 同 時 に 、 日本令ではこれに﹁食宍﹂すなわち肉食を追加して、六項目に拡大している。なお食宍禁止については、天 9一一近世被差別身分制度化前の状況について 武紀四年四月庚寅の詔に﹁:・亦四月朔以後、九月品川日以前、:・莫食牛馬犬猿鶏之宍、:・﹂とみえる。 ﹁不預積悪之事﹂の理解について、義解は前記のように、積悪とは不浄のもの鬼神の悪むところと、説明している が、大宝令の注釈書である﹁古記﹂には﹁問積悪何、答、生産婦女不見之類﹂という。﹁釈説﹂は﹁積悪之事、謂神 之所悪耳、仮如、放詞所謂上丞一一下淫之類﹂とし、﹁穴説﹂は﹁積悪者如令釈也、或云悪謂仏法等並同者、世俗議也、 非文所制也﹂とする。汚穣の内容は不確定であった。 なお、江戸幕府の﹁服忌令﹂のもとになった喪葬令と仮寧令の条文も掲げておく。 ︹喪葬令服紀条]凡服忌者、為君、父母及夫、本主、一年、祖父母、養父母、五月、曽祖父母、外祖父母、伯叔 乳姑、妻、兄弟姉妹、夫之父母、嫡子、三月、高祖父母、自男、棟、嫡母、継母、継父同居、異父兄弟姉妹、衆子、 嫡 孫 、 一月、衆孫、従父兄弟姉妹、兄弟子、七日、
第9巻3・4号一一ー10 [仮寧令職事官遭父母喪解官条]凡職事官、遭父母喪並解官、皆給仮、夫及祖父母、養父母、外祖父母品川目、三一 月服、廿日、一月服、十日、七日服、一二日、 服紀条は、天皇・父母・夫・本主以下、兄弟の子までの服の期間を定めている。 ﹁服﹂とは喪服である。職事官遭父 母喪解官条は、職事官が父母の喪に遭えば解官し、夫・祖父母・外祖父母には三
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日、その他はそれぞれの喪の期間 に応じて仮を与えると定めている。﹁仮﹂ ﹁ 休 仮 ( H 休 暇 ) ﹂ である。喪仮の期間は家にこもって慎む。令制の と t工 仮は﹁礼﹂の原理に導かれるものであったが、中世の神社では仮は死識を思む期間に転化され、服忌の慣行が行われ るようになった。江戸幕府は、貞享元年に、中世の服忌の慣行を劃酌し服忌の日数を定め、 ﹁積之事﹂として、産積 -血荒・流産・死積・踏合を加えたものを﹁服忌令﹂として公布した。 ( お ) 律令の編纂後、九世紀初めに成立した弘仁式には (しかし左掲の諸筒条が定められた時期は不詳である。)積悪を めぐって左の筒条が含まれている。 太政官式には [諸司条]凡奏事諸司及入内供奉之輩、並不得触入喪座等事、井弔喪、 ( 所 忌 日 限 、 見 神 祇 式 、 ) すなわち、事を奏上する諸司および内裏に入り供奉するものは喪座等の事に触れたり、喪を弔うことができない。そ の日限は神祇式によるという。神祇式には、左の位向条が置かれた。 ︹積忌条]凡触積悪事応忌者、 人 死 限 品 川 日 、 ( 白 葬 日 始 一 計 、 ) 産 七 日 、 六 畜 死 五 日 、 産 三 一 日 、 ( 鶏 非 忌 限 、 ) 其 喫 宍 一 一 一 日 、 (此官尋常忌之、但当祭時、余司皆忌、) これによれば、積の最たるものは人の死であり、死の積を受けると三一O
日を経過しなければその穣が消滅しない。以下、出産は七日、六畜(六畜とは馬・羊・牛・犬・家・鶏の六である)の死は五日、その出産および肉を食うとき は三日という具合である。この期聞を経過しなければ積悪が消えないから、その問、官人たちは天皇にちかづくこと が で き な い 。 ここに定める忌の期間は、仮寧令に定める﹁仮﹂とは考え方が異なる。仮寧令によれば、夫・祖父母・養父母・外 ﹁仮﹂として家にこもって慎んでいる期間は一二
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日であったが、式の定める忌の期間は、親族に 祖父母の死に際し、 隈らず全ての人間の死であった。 上条に続いて ︹弔喪条]凡弔喪、問病、及到山作所、遭コ一七日法事者、難身不積、而当日不可参入内裏、 の規定がある。喪を弔い病人を問い墓所を訪れる等のことは積は受けないが、当日参内することを許さないという。 11一寸丘世被差別身分制度化前の状況について 令の規定では積悪を避けなければならなかったのは祭把のときのみであったが、ここでは臼常の問題になった。 また、積は伝染する。 丙 入 乙 処 、 只 丙 一 人 為 職 、 門触積条]凡甲処有積乙入其処、 乙 及 同 処 人 皆 為 積 、 ( 担 問 、 着 座 、 下 亦 問 、 ) 同処人不為 積、乙入丙処同処人皆為積、 丁入丙処不為積、其触死葬之人、雄非神事月、 不得参着諸司井諸衛陣及侍従所等、 条文の意味は、積を生じた甲所に出入りした乙および乙と同居するものは皆績とし、丙が乙所に出入りしたならば丙 一身の積とする、丙の同居人は積としない、ただし、乙が丙所に出入すれば丙所の人は皆積れる、丁が丙所に出入り しても穣とならない、これらの積に触れた者は、神事の月でなくても諸司ならびに諸衛陣および侍従所等に参着する ことを許さないというのである。当時この解釈については違いもあったが、 いずれにしても穣が伝染することに変わ り は な い 。第9巻3・4号一一12 触穣のことは律令の条文には規定がなかった。そのことは﹁平戸記﹂に﹁穣事不載律令、出自式﹂と記し、それが 式に始まったとしているが、歳月の経過の聞に明らかに変質がみられる。 令に規定する﹁斎﹂と式の規定する﹁忌﹂とは、異なる論理につながる次元の異にする概念であった。 事にかかわるために身を慎むことであったが、 ﹁ 斎 ﹂ は 神 ﹁忌﹂は他への伝染を避けるために﹁穣﹂の消えるまで身を慎むこと で あ っ た 。 九世紀前半は律令制が各方面で破綻し、変質する時期に当たる。後に述べる検非違使の常置や死刑の停止もこの時 期であった。それは律令の下位規範であった格式が律令に代わる法典の性質をもつようになった。唐制の表層がほこ ろび、その深層にあった日本固有の観念が形を変えて再生したと考えられる。 忌の期間は白宅にこもり慎んでいなければならない。官人であればその聞は公務が停滞することになる。触地慨を最 も忌むのは、天皇であり、神官であり、官人たちである。触積はどの時点から始まり、空間的にはどこまで及ぶのか、 解釈は先鋭化し、議論は詳密になる。死や異常に対する原始的な忌避感は、形を整えて法制度となり、肥大化し敏感 さは度を越える。道教(陰陽師を通じて)や仏教がこれに拍車をかけた。 積の伝染という考え方の影響は、決定的というほど大であったと思う。識のある人や場所に接触すれば積が伝染す ﹁ ラ ウ ソ ウ : ・ 非 人 ・ カ タ ヒ るから、これを嫌うものは接触を避けなければならない。疎外や差別はここから生ずる。 -エタナト、人マシロヒモセヌ、 オナシサマノモノ﹂ (﹁塵袋﹄)であった。賎視をともなったことは否定できないと 思 う 。 もっとも、死への畏怖、死屍の忌避が一般民衆にまで貫徹していたかどうかは判断をためらう。大宝・養老の喪葬 令には皇都や道路(大宝令では大路となっていた)の側近に埋葬を禁ずる規定があり、山城国に遷都以降は葬飲の地
にしばしば制限を加えている。ところが、延暦一ムハ(七九七﹀年正月二五日の勅に﹁山城園愛宕・葛野郡人、毎有死 公血﹀ 者、便葬家側、積習為常、云々﹂とみえる。勅では、これらの地は京都に近く凶積は避けなければならないから、こ の習俗を厳禁するというのである。少なくともこの時期には、京師近郊の庶民は住家の側に死者を埋葬していたので あ る 。 死穣を忌避する観念は、少なくとも支配層を中心に、触識を避けるために死に瀕したものを家外に棄てる行為にま でなる。その人が一家の主要な構成員であれば、その死で識をうけることもやむを得ないが、それが従者や使用人等 であれば、瀕死者の外への遺棄は冷酷に執行された。 ﹃今昔物語﹄にも、その例をいくつか見る。病の重くなった一 二・三歳の女童が﹁毎日二三度ハ必ズ人ヲ遣テ見セムト云ヒ誘へテ﹂ 六、東小女与狗咋合互死語、第二十)、 ﹁ 遠 キ 所 -一 食 物 ナ ド 皆 拍 テ 密 ニ 出 シ ツ ﹂ ﹁病ノ鐘ニ沈ムデ気色不覚ニ見﹂えた妹は兄から﹁家-一テハ不殺﹂と家 ( 巻 廿 ま た 13一一近世被差別身分制度化前の状況につL、て を追い出され、その妹は清水の辺に住む昔の友しるべを訪ねるが、 ておちついた。さすがに、その兄は﹁語り﹂をうけたという 巻 対十 一 一 ー 「 、 此 尾 士 張 T
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於白 と器伊
野 り れ 出 女 鳥, 不 加 部 主 野 第 に コ 畳 工 を ↓ 敷 山本幸司氏や横井清氏は、神事に携わる神官や貴族たちは、死期の追った病人を家が積れるのを避けて外に出した例 ハ 2 v をいくつか上げている。 日本では、嵯峨天皇の弘仁元(八一O
)
年に藤原仲成の諌死から保元乱後源為義の死刑(保元元 H 一一五六年)ま で、二六代三四七年間にわたって死刑の執行が停止されたという世界にも例のない事態が継続した。尤も、停止は廃 止とは異なる。死刑の制度は存在するが実施しないのが停止である。この長期間にわたる死刑停止のことは﹃保元物 ハ 咽 岨 ﹀ 語﹄や﹃吾妻鑑﹄も特筆している。利光三津夫氏は、この死刑停止のきっかけは唐制の継受に始まるが、唐では一四 年間で終わったのに日本ではこのように長期間にわたって継続した原因を、 一死識の忌避、二卑俗化された因果応報第9巻 3・4号一一一14 説の影響、三怨霊の恐怖、としている。第一の死穣の思避については、神事を掌る神官においては死臓を避けること は特に慎戒しなければならないことであり、当時は政治と神事は厳格に区別されていなかったという。しかし、なか でも、怨霊の恐怖は、最も重視せられるべきものとする。平安時代の君民は、天変地異、水皐虫霜、疫病流行等の災 害を、非業に死んだ人びとの怨霊がもたらすものと考えた。この思想の中核をなすものは日本固有の原始神道的思想 であり、その特色は怨霊の崇りを受ける原因となるものは、他人の怨恨を買う行為そのものであって、その行為の正 不正は問題にならなかった。このように、利光氏は、死積の忌避をあげながら、理由は明示されないが、怨霊に対す る恐怖を最大の原因とされた。 聞くべき見解だと思うが、その理由を触識の忌避に重きを置くか怨霊に対する畏怖に重きを置くかは決しがたい問 題であろう。死刑が復活したとされる源為義が斬首されたころに怨霊に対する畏怖の意識が消滅してしまっていたと はいえない。同じく保元の乱に関与して讃岐に配流された崇徳上皇は、長寛一一(一二ハ四)年讃岐で悶死したが︿讃 その怨霊はさまざまな崇りをなし、その怨霊を慰めるために、治承元(一一七七)年に崇徳院の誼号を追贈 岐 院 ) 、 されている。克も、この時期以降も触積に対する忌避は続くのである。後考を侯ちたい。
汚穣の処理
汚穣が発生すれば、天変地異や身体の不調等の崇りを生じ、 また汚積は伝染すると信じられていたから、掃除して 除去しなければならない。神亀元(七二四)年六月四日の太政官判に、囚獄司は﹁毎雨落日旦引将囚人等、使掃除宮 闘辺穣陣井東西廟等﹂ (刑部省囚獄司条、伴記所引)とあり、延喜式をみると囚獄司のほか左右京職・左右衛門府・ 左右兵衛等がそれぞれ所定の場所の掃除に当たった。延喜式囚獄司役人条は﹁凡徒役人者、令作路橋及役雑事、又司毎六日将囚人等、使掃除宮城四面、其雨後旦亦掃清宮内積汚井周溝事﹂と規定している。律令制では汚積の掃除に従 事したのは囚人であった。 弘 仁 ( 八 一 O │ 八一一三)年中に令外官である検非違使が設置されると、京都の治安維持にかんする権限は次第にこ こに集中されることになる。丹生谷哲一氏は、掃除と検非違使の関係を詳細に検討したうえで、 おいて、検非違使はまさに国家の掃除担当奉行だったのである﹂とさえ極言される。同氏は、 ﹁ 平 安 中 期
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中世に 一O
世紀末から一四世 紀末にいたる聞の公的行事における汚識の掃除と検非違使の関係を表示されるが、そのなかから、 いくつかの事例を あ げ て み よ う 。 ﹃ 日 本 紀 略 ﹄ 天 麿 一 二 ( 九 四 九 ) 年 四 月 一O
日条に﹁召神祇官陰陽寮、令占霧雨、坤艮方神社有不浄気、成崇、初遣 検非違使、令実検当方社々﹂の記事が見える。長雨が続くので陰陽寮に占わせたところ、北東・南西の方角に不浄の 15一寸庄世被差別身分制度化前の状況について 気があり崇をなすとのことで、検非違使を派遣してその方角の諸社を実検させたというのである。穣の実検に検非違 使が派遣されたことは、 しばしば同書に見える。 ﹃本朝世紀﹄正暦五(九九四)年四月二四日条には﹁今日、左右看督長杯被宣旨、京中路頭構借屋覆鍾薦、出置病 人、或乗空車、或令人運送薬王寺云々、然而死亡者多満路頭、往還過客掩鼻過之、鳥犬飽食、骸骨塞巷、云々﹂との 記事がみえる。看督長(かどのおさ)は検非違使の職員である。誇張もあるかもしれないけれども、京中の路頭には 鐘をかけた小屋に家を出された(恐らくは瀕死の)病人が住まい、死亡者は充満し骸骨が巷を塞ぐという状態であっ たという。同年五月三日条には﹁京中堀水溢、検非違使杯召仰看督長杯掻流京中死人。:・﹂とみえる。 ﹃中右記﹄大治一一(一一一一七)年十一月六日条には﹁:・大内記宗光来、仰可進宣命之由、是去秋霧雨之問、令官寮 卜之処、巽乾大神依不信不浄成崇、又理運者、初伊勢、平野、稲荷、祇園、北野社中不浄被尋之処、祇園北野社辺骸第9巻 3・4号一一16 骨多、遣検非違使等被掃治了、:・﹂とある。検非違使は積の有無の判定に関わったし、死体等の汚積物の除去もまた 検非違使の職掌であった。 しばしば引用される有名な事例であるが、左大臣藤原頼長の日記﹃台記﹄久寿元(一一五四 H 仁平四)年四月二日 条はつぎのような事件を伝えている。故少弁有業堂に瀕死の病人がありこれを郭外に棄てた。死人の妻、運搬した清 目(この事件について記した﹃兵範記﹄には﹁河原法師﹂とある)と目撃者が検非違使において尋問を受けた。病人 は死去したが、どこで死んだのかが問題なのである。その妻は﹁依非私宅、為不令積其所、未死之時、語清目令置郭 外畢﹂と述べた。同じ事件を伝える﹃兵範記﹄の記事と﹃台記﹄には相違があり、正確な経過を追うことは至難であ ﹃台記﹄の筆者は械を生じないと考えるが、結局、ト占により穣と決定されて諸社の祭柁は延期された。丹生哲 一氏はこの事例から
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死が近づいたばあい息が絶える以前に屋外に移せばその場所は積から免れること、ω
公的な場 所には絶対に積を及ぼしてはならないと考えていること、ω
死体の片付けに従う﹁清白﹂の存在、の三点を指摘され て い る 。 る 。 右の事例で瀕死の病人あるいは死屍を搬出したのは清目(河原法師)であったが、丹生谷哲一氏は﹁かかる死職処 理者として身分的に位置づけられるようになったのが、:河原法師・清目・非人・カタイ・犬神人・散所らであっ ( 泊 ) た﹂と述べておられる。中世に卑賎視された人々としては、非人・清目・河原者(河原人・河原法師) -積 多 ・ 坂 の 者・犬神人・声聞師・獄囚・放免・願者・乞食・散所など、さまざまな名称で呼ばれた人々があった。これらを丹生 谷氏は、居住形態や生業、病状や浄積感などによる怒意的な呼称であり、社会的・習俗的に形成されたものであろう と言う。彼等は非人と総称されるが、中世的なケガレ観と結び付いたキヨメ機能を果たすことで共通していた。 この非人と呼ばれた人たちが形成される経過について、巨視的には、山本尚友氏の素臨ピ同感する。平城京以前の都市に限っては、そこに貧民が多く滞留する条件はほとんどなかった。平城京にはじめて悲田院が設けられ、身寄り のない老人や親のない子供たちが収容されたが、平城京は間もなく長岡に遷都し、 また日ならずして平安京に移った から、都市の中に貧民が滞留し、集団になっていくのは平安の中期ぐらいからになる。かれらは施し物に頼る以外に 生きる途はなかった。律令体制の衰退とともに、役人も削減され、いろいろな仕事が滞り始める。汚職の除去刊清め おそらくはそれまで乞食となって数ヶ月、長く という仕事に、貧民と呼ばれた人たちが関わり始めた。そうすると、 ても数年ぐらいしか生きられなかったような人びとも、清めという仕事を得ることによって、安定した生活が可能に なった。そういう人びとの住んでいるところに、 一つの村ができる。そういう人びとを、平安時代に非人と呼んだ。 悲田院に収容された人びとと汚積の除去との係わりは、承知九(八四二)年一
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月一四日条に﹁勅左右京職東西悲 回、令焼数嶋田及鴨河原等輯龍、惣五千五百余頭﹂(﹃続日本後記﹄巻十一一) の記事が初見とされる。汚積の除去に従 17一一近世被差別身分制度化前の状況について 事する者を必要とするのは朝廷のみならず神社や権門も同様であった。こうして病者や貧民がこれらの仕事に従事し、 その庇護を受ける。 ここで指摘しておきたいことは、汚描慨にかかわる仕事は、それを厭わなければ、安定した収入源であり、貧民はこ れらの仕事を得ることによって生活の保証を得たということである。そうなると、この収入源を確保するために他者 の介入を防御しなければならない。 三条公忠の日記﹃後愚昧記﹄応安四(二一七一﹀年四月四日条は、犬神人と川原者の争いを伝えてい訪日 犬神人(数十人云々)寄来智恵光院鼓騒云々、尋事子細処、佐川下人死人等、川原者取棄之、取衣裳之問、犬神 人等称可管領之、乞返川原者所取之衣裳可賜之由、議責智恵光院、可及放火之由称之云々、用途少分可与之由、 寺中雄懇望、不叙用之問、数刻不退散、然間川原奴原又称可見継智光院、多以帯甲胃集会、犬神人若畏彼威欺、第9巻 3・4号一一18 引退了、後聞、於侍所犬神人与川原者番問答之処、川原者理教之由判断之問、無力不及激(々﹀之沙汰、犬神人 等 後 干 云 々 、 この記事によると、智恵光院に居住していた佐川の下人の死体を川原者が取り棄て、死人がつけていた衣裳を取得 したのに対して、祇園社の犬神人たち数十人が智恵光院に押しかけ、これは自分たちの得分であると称して騒ぎ立て た。寺の側は利益を配分すると宥めたが退散しない。そこへ川原者たちが智恵光院を支援すると言って、甲胃をつけ て集まったので、犬神人たちは退散した。集団聞の利害が対立したとき、訴えるべき裁定者がなければ、両者は得分 権を確保するために合戦に及んだのである。 京都清水坂の非人はこの祇園社の犬神人の後身であり、京都で非人と呼ばれた被差別民のほぼ半数を占める大集団 であった。その生活実態は、﹁金剛仏子叡尊感身学正記﹂に見える建治元(一二七五)年八月一一一一日付、非人長吏以 ハ
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よく示している。その条々を引用する。 下 の 誓 約 が 、 一①諸人葬送之時、所令随身於山野具足者難罷取、号無其物、群臨葬家、責申不足事、可令停止之、 一②堂塔等供養井如追善之仏事時、施主於送預涯分施物者、不可申子細、若無音之時者、縦罷向可預施物之由、 雄申之、相随施者意楽、可令停止過分義云々、 一③受瀬病之者在之由承及之時者、以穏便使者、申触子細之時、自身井親類等令相計、重病之上者、在家之居住、 始終依不可相計、罷出者不可有子細、不然者為長吏、致涯分志者、向後可止其煩、背此義、過分用途於責取付 数多非人、成珂噴与恥辱事、可令停止之、 一④重病非人等、京都之習、依無他方使、於て上下町中、致乞食之時、為諸人致過言自吉田辱事、可停止之、於此条 者、己遮打二枚札、能々令禁断者也、この四箇条の誓一目約は、清水坂の非人長吏がこのような過分の振舞をしないと叡尊に約束したものである。すなわち、 すでに次の事柄は権利として坂の非人に公認されているが、その度を越した行為を慎むというのである。公認された ことは、①葬送のとき、山野において具足すなわち死者の衣裳・葬礼の調度・供物の類は非人たちの得分であったこ と、死者の家族たちは葬送をつかさどる坂の非人らに対して何ほどかの捧げものをしなければならなかった。②寺社 の堂塔の供養や死者の追善の仏事の際、坂の非人たちは施主から相当の施し物を受け取るのが権利となっており、こ れがないときは請求することができた。③願病の患者が生じたとき、坂の非人は患者の家に赴き、患者は非人宿に入 る慣行となっている子細を告げ、当人および家族に相談をさせ、重病であれば在家できないが、 ( 家 ﹁ 在 家 之 居 住 ﹂ 族との同居)を望むならば長吏に相応の代償を出さねばならなかった。④京都の慣習として、他に生きる術のない (非人宿に属していない)重病の非人は上下の町中で乞食することができた。 ﹁重病非人﹂とは、大山喬平氏によれ 19一寸丘世被差別身分制度化前の状況について ば﹁住居家顕病人、路頭往還廉病人﹂である。坂の非人はこれを妨害してはならなかった。 中世の非人と総称された人びとの社会における位置付けについて、見解はわかれる。権門体制の支配秩序から外れ た身分外の身分とみるか、あるいは凡下・百姓の一つの特殊形態とみるか、 ま た ﹁ 職 人 ﹂ 1 1 職能身分の一種とみる 一言を加えれば、かつて私が取り上げた、室町末期の成立と推定される﹃貞観政要格式目﹄と題す る書物のことを上げておきたい。ここには天皇以下貴族・神官・僧侶・各宗派の人たちの戒名の形式を示し、その最 か 、 な ど が あ る 。 後に﹁一ニケ者﹂の位牌の形式を掲げている。文章は粗雑で意味をとりにくいが、連寂衆(連寂をもって千駄橿を負い ﹁三ケ者﹂とはその類例であり、同じく類例として藁履 関銭を出さず通行するもの)と呼ばれる者の由来を説き、 坪立・絃著をあげ、日本では﹁坂者﹂といい、また渡守・山守・草履作・筆結・墨士・傾城・願者・伯楽等をみな連 ﹁斯ノ如キ非人職人ノ法度提目ハ延喜帝ノ勅定ヨリ来リ始ル﹂と結んでいるのである。ここに列挙 寂 衆 と い う と し 、
第9巻3・4号一一20 されたのは職種である。職人と呼んで差し支えない。網野善彦氏は、この書物を取り上げてはおられないが、 ま さ に 同氏が取り上げられている問題である。しかし、それらが聖なるものにかかわりがあったかどうか、なお得心はしか ねるが、いずれにしても﹁後醍醐の没落にはじまる南北朝の動乱﹂を経て、﹁かつての平民との区別はここに賎視、 ﹁差別﹂に転化していかざるをえなかった﹂としておられる。 死牛馬の皮革等は古くから大切にあっかわれた。養老厩牧令官馬牛死条には﹁官馬牛死者、各収皮脳角胆、若得牛 また官私馬牛致死条には﹁困公事、乗官私馬牛以理致死、証見分明者、並免徴、其皮宍、所在 黄 者 別 進 、 ﹂ と あ り 、 官司出売、送価納本司、云々﹂の規定がみえる。牛馬の皮・馬脳・牛角・牛胆は丁重に扱われた。ことに牛の結石で ある﹁牛黄﹂は生薬として貴重であり、即時これを進上しなければならなかった。因公事条義解によれば﹁私畜と雄 も其の皮・宍、皆官司に納めよ﹂とある。雑色のなかにはこれらを解体する技術者があった筈であるし、 ﹃ 左 経 記 ﹄ 長 和 五 ( 一
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二ハ)年正月二日条に見える河原人はこれらの技術者の系譜をひく人たちであったかもしれない。ある 人が飼っていた牛が舞れたら、 ﹁即河原人等来向、剥取之件牛之問、腹綿中有黒玉、即河原人等取之去之者、余聞件 事、即令尋召件河原人、有相惜気、依加勘責出件玉見之、即己牛黄也、感悦深々、云々﹂という。集牛馬の皮剥は、 この時期以前から専業化していたのであろう。舞牛馬処理権は大きい収益をあげたので、 ﹁旦那株﹂という権利とし て売買の対象にもなった。 このあたりの論証ができないが、見通しはこうである。戦乱期になって武具の需要がたかまると﹁かわた﹂と呼ば ﹁かわた﹂の名の初見は、大永六(一五二六)年の今川氏親の朱印状とされ れた人たちが大名のもとで編成される。 ている。今川氏はかわた彦八に屋敷を保証するとともに皮の役を命じている。 ﹁かわた﹂は死識の触積にかかわる行刑にも従事した。おそらくは新興の武家にしたがい、その勢力を伸長した。 耶蘇会の宣教師ルイス・フロイスの一五六九(永禄十一一﹀年六月一日付の書簡に次のような記事が見える。日乗を 捕らえた篠原長房は、日乗を﹁マラパルのポレア(タミル語のパリアにして南イン度の賎民なり﹀の如き日本の最も 賎しき民族なる積多に引渡さしめたり。彼等は死したる獣類の皮を剥ぎ又死因の首を斬ることを職とせり。摂津国の 西ノ宮と称する地に於て此人々にかれを渡せしが、頚に鉄の榔を懸け、手足を縛し動くこと能はざらしめて重罪牢に 入 れ 、 ・ : ﹂ と い う 。 フロイスは偏見に従っているが、皮剥ぎは行刑にも当たっていたのである。 ﹁かわた﹂は後に江戸幕府のもとでは﹁積多﹂の名で呼ばれる。この人たちは田畑を手にいれ農耕に従事する。皮 草皮剥のほかにも彼等が従事した仕事は収益が大きく、生活に余裕を生ずると人口も増え、分村が進んだであろう。 21-ー近世被差別身分制度化前の状況について しかし、大きい利権である皮革の仕事は本村に付属し、分村は皮革にかかわる仕事をすることはできなかった。その ことは、年代も後になり、河内国の例であるが﹁死牛馬其外何ニ市も、積多得分之筋外々迄も、古来之通、古里之支 配紛無御座候﹂とあるのが参考となろう。
弾左衛門の登場
いくつかの由緒書のなかで、弾左衛門はその支配の来歴を記している。 正徳五(一七一五)年一O
月二五日付、弾左衛門が北町奉行坪内能登守に提出した由緒の写にはこうある。 一 寅 ( H 天正一八年)御入国之御時、私先祖武蔵府中迄罷出、鎌倉ぷ相勤来候段申上候得は、御役等長吏以下支 配之儀被為仰付候、其節小田原長吏太郎左衛門と申者、 (小田原)氏直様以御証文、長吏以下支配之儀奉願候得 共、無御取上、其御証文被為召上、私先祖-一被為下置候、其後上州下仁田村馬左衛門と申長吏、甲斐信玄様以御第 9巻3・4号一一22 証文、一五禄五申年支配之儀論仕候、古来
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関東八ヶ国外三旦州、私支配之出入之儀は御領私領共ニ御役所え不申 上、私方ニ而召寄、吟味仕埼明申候、仕置ニ仕侯もの御座候得は、御公儀様え御届申上、私方ユ而仕置仕候事 (川切﹀ 享 保 一 O(H 一七二五)年九月付の由緒覚書にも 寅御入国之御時、私共先祖武蔵府中迄罷出、鎌倉より段々相勤候由緒申上候得は、御役拝長吏以下支配被為仰 付候、其節小田原長吏太郎左衛門、小田原氏直公之御証文を以、長吏以下支配之儀奉願候得共無御取上、其御証 文被召上、私先祖ニ被下候、其後一克禄五 ( H 一六九二)申年、上州下仁田村馬左衛門長吏之論-一付、甲斐信玄公 御証文を以、論仕候処、其御証文御評定ニ而被召上、私え被下置候 と あ る 。 これらによると、天正一八(日一五九O
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年八月一日、徳川家康は後北条氏の故地を得て江戸に入ったが、弾左衛 門の先祖は進んで武蔵野府中まで家康を迎えに出て、鎌倉以来の由緒を主張し、御役等長吏以下の支配を認められた という。その時、小田原長吏太郎左衛門が小田原氏直の証文類を証拠として、長吏以下の支配を願い出たが、家康は これを認めず、太郎左衛門の所持する証文類を弾左衛門に下付したとある。太郎左衛門は上野・武蔵両国の長吏を支 配していたようである。家康は旧勢力と結び付いていた太郎左衛門を排して、弾左衛門の支配を認め、その忠誠を期 待したのであろう。弾左衛門が願いでた支配の対象となる長吏が、北条氏支配下の﹁草作﹂﹁かわた﹂であることは 異論の余地がない。同月一八日、家康の家臣内藤清成の日記に﹁御めしはなさき(家康の乗馬)、ないら(馬の病名) と記している。弾 けの処たをれる、とりごへのゑたよびてわたす、よりともいらいのゑたと申でる﹂(﹁天正日記﹂) 左衛門の配下は早々に御召の発馬の埋葬に従事している。 徳川家康の江戸入部にあたり、弾左衛門はいち早く迎えに出向き、役と長吏の支配の権限を得た、とその由緒を誇っていることは注目しなければならない。彼は自ら申し出て、太郎左衛門と争い﹁長吏以下支配之儀﹂の権限を獲得 し、その後上州下仁田村馬左衛門とも争い、その勢力を拡大した。弾左衛門はこうして、長吏に対する管理を獲得し 強化した o 積多は血筋のものということは、その利権への他からの参入を拒否する理由となった。 弾左衛門は支配下のものに庇護を与えた。早い例では、貞享一二年、天龍寺末寺武州金谷村の龍台院は数年前から穣 多二八人の旦那寺であったのに、本寺天龍寺は難しく言い出して龍台院からかれらを追い出し宗旨改証文も出さなく なった。迷惑した八幡山村・蛭川村の穣多小頭は弾左衛門に訴えでた。評定所は、﹁龍台院は数年之旦那に無紛問、 向後も穣多共旦那寺一一頼侯ハ午、致吟味、旦那ニ可致旨﹂天龍寺へ申し渡してい泌ザその後、江戸時代を通じて、問 題が起こると弾左衛門に救済を求めた例は多い。 一方、支配下にあっ士人びとがその身分に甘んじたというのでは決してなかった。 いくつかの例を示そう。 23一一近世被差別身分制度化前の状況について 元禄五三六九二)年、三谷浅草の長兵衛は、弾左衛門手下長左衛門の娘せんを誘いだした。せんは長兵衛に﹁何 とそ人間ニいたし、奉公出シくれ候様ニ﹂と頼むので、長兵衛は彼女を市右衛門に預けたが、市右衛門は彼女を辻番 所に置いて、昼夜方々に連れ歩き悪敷商売(遊女)をさせていた。念議の結果、娘は親元にもどされ、長兵衛と市右 衛門は死罪となった。 彼等の解放への強い願いを利用したのが天満騒動の大塩平八郎であった。平八郎は﹁積多ども人間の交りの出来ぬ といふ所が第一残念に存る処にて、信驚といふ知慧坊主が其処を能飲みこみで、此方の宗門にてハ積多にても少も障 なし、信仰の者ハ今世こそ積多なれ、後の世にハ極楽浄土の仏にしてやらうと云を殊の外有り難く思ひ、本願寺へ金 子を上る者穣多程多きものハなし、死して後の有とも無きとも碇と知得ぬことさへ人間並の仏にすると云ふをかく辱 く存するからつ唯今直に人聞に致して遣はすと申さは此上なく有難がり、火にも水にも命を捨て働くべし、:・﹂と
第 9巻 3・4号一一24 ハ H世﹀ 一 立 回 っ た と 伝 え て い る 。 幕府支配下の賎民のもう一つの柱となったのは、非人である。品川の非人頭藤左衛門の文政一一 ( 伍 ) 書 上 は 左 の よ う に -記 し て い る 。 非人頭以前之儀ハ長九郎と申、参河国生所ニ而、武家ニ候哉、或ハ郷土百姓ニ候哉、参河長九郎と申、御当地え ( 一 八 二 八 ) 年 の 出、品川辺ニ住居致候処及零落ニ、当溜囲之内其頃御除地ニ而、往古切支丹宗門累族住居之跡エ而、石地路満屋 敷と申、此処え居小屋出来住居致候処、追々流浪之者共寄集、寛永十二年亥年(一六コ一五)十二月中、自然と長 九郎頭分ニ罷成候由、申伝ニ御座候 芝方非人頭之訳、寛文年中(一六六一七一一)中之御番所渡辺大隅守様御勤役之節、江戸街無宿非人共多、右狩 込被仰付候翻、於評定所ニ芝方非人頭ニ被仰付、其節松右衛門と改名仕候由 また右とは直接関係はないが、川越の商人榎本弥左衛門は 寛永拾九・廿年、是両年は午未之年也.此年天下第き L ん 、 日本国中にて人多死也、此時江戸ぱくろう町にこや を長さ弐百間余にかけて、こもかぶりともを置被成候、此こまかふりの中にも大将出来、此大将に何もしたかい 申候、こもかふり壱万人余りも江戸中に可有候、 ハ 必 ) との記録を残している。 これらの記事は非人と呼ばれる集団の形成過程を示してくれる。中世の非人に直接つながるものではなく、非人と 呼ばれた人びとは、飢謹等によって土地を離れ、江戸にあつまった流浪の乞食であった。そのなかから力量のあるも のが頭分となり、ある程度の統率をするようになった。職業をもたない彼等が糊口を得る手段は、人びとの忌避する 不浄除去の仕事であった。
かなり早い時期から、非人たちは積多から勧進場を与えられ、皮剥ぎの仕事に従事したようである。享保四(一七 一九)年から同六年にかけて、弾左衛門と非人頭の聞に激しい争論があったが、その争論落着後に弾左衛門が差し出 した﹁書上﹂によれば﹁:・皮取場を善七ニ預ケ置候儀、:・勧進場之儀は、七拾年以前、先弾左衛門相定候段、慶安五 辰 ( H 一六五二)年善七先祖勘七証文有之、云々﹂とい一羽明暦三 ( H 一六五七)年正月に江戸では﹁振袖火事﹂と 呼ばれた大火があったが、享保一
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年の非人頭車善七の書上によれば、大火による焼死者は九千七百三十七人におよ び、亭善七は﹁弾左衛門方ぷ申付﹂られて片付けに三一百二十八人の人足を出し、 また公儀より下付された焼米の焚出 し千七百二十人の人足を出している。 このようにして、弾左衛門と非人たちの聞には事実上の支配関係が成立していた。しかし、非人たちは弾左衛門の 支配に不満があったようである。集団聞の利害が衝突したとき、両者を支配下に置く裁定者がなければ、両者は武力 25一一近世被差別身分制度化前の状況について に訴え、合戦に及んだであろう。 しかし、このときには圧倒的に強力な幕府の権力が存在した。 非人頭車善七と同品川松右衛門は、貞享(一六八四1
八七)年聞に弾左衛門を相手取って訴訟を提起した。その訴 訟に対する評定所の裁決が残されており、私はその争論を紹介し、経過を論じたことがある。詳細はその論文を参照 ( 組 閣 ) していただきたいが、裁決文の全文を左に掲げる。 積多非人争論 貞享年、非人頭車善七・同品川松右衛門其外子下之もの一問中出候は、積多頭弾左衛門を始非人手下ニ可致よ し、新法之儀願出侯段、非分之儀申出、強而相願ニ付、非人組頭佐九郎其外一件之者、死罪申付、向後弾左衛門 支配可請旨申渡、尤鎌倉将軍御代由緒有之、御誇字拝領、弾左衛門頼兼受領被仰付、廿八職之分手下侯様、御墨第9巻 3・4号一一.26 印被下置候得共、向後相止之、弾左衛門支配之分は、非人井関八州ニ不限、穣多共可為手下条、其旨相心得事 廿八職 一 陰 陽 師 一 か ね 打 一 猿 楽 一 翁 一 ま い 一 あ た や 面 打 一 草 草 履 一 白 こ し ゃ 一 桶 屋 一恵比須庖 一 位 牌 屋 鞍 打 一 黒 草 屋 弦 打 一 仏 師 一 人 形 繕 一 五 厘 切 一 髪 結 一 船 大 工 一 渡 守 一 弓 打 一 芝 居 一 県 御 子 一 筆 や 一 傾 城 屋 一 矢 作 鉢 叩 一 お さ か き 右職分之儀、弾左衛門方ぷ可差締儀無之候、若シ心得違-一而、右職分之者え雑言過言杯中懸候ハヘ急度仕置可 申付候、尤非人之儀は、科之軽重ニかきらす、従公儀弾左衛門方え申遺シ、相当之仕置申付者也 浅草非人頭 善 七 品川非人頭 松右衛門 右弐人之者、非人共可支配、両人共ニ何事ニ不依、弾左衛門申付違背致問敷事 この時期に弾左衛門と非人頭の聞に、その支配をめぐるなんらかの画期となる事件があったことは、享保六(一七 一一一)年一一一月の弾左衛門言上に、善七が毎年正月十七日に﹁年証文﹂を提出することは三六年以来のことであると 述べてい一明享保六年から三六年以前というと一六八五年すなわち貞享二年となる。つまり、貞享年間に弾左衛門の 非人達に対する支配が確定し、非人たちは毎年正月に、その支配被支配を確認する﹁年証文﹂を弾左衛門に提出する 形式が定まったのである。 荻生祖彼はその著﹃政談﹄のなかで﹁今時ノ御役人ハ、御老中ヲ始トシテ、唯下ヨリ申出ルコトヲ捌グヲ我役ト心 門 町 出 ) 得一ア、治ト一マ一口フコトヲ夢ニモ不知様也﹂と述べ、また別の個所でも、この頃の奉行たちは下から訴えがあればはじめ て対応し、訴えがなければ積極的に係わろうとはしない、また申し出ぬことについ代て無視するというのが役人として
権威のある立派な態度だと考えられている、と嘆じいている。祖練が﹃政談﹄を書いたのは貞享年聞からかなり後の ことではあるが、事態はおそらく大差がなかったであろう。幕閣にあるものが、賎視の対象であった長吏や非人身分 の制度について積極的に係わったとはとても考えられない。しかし、当の身分の人たちにとっては、その裁決は決定 的問題であった。江戸時代は、なにほどかの立法もあったが、原則としては判例法の時代であった。ことの処置には 前例が間われた。この裁決は、弾左衛門の支配を決定したのである。弾左衛門は、こうして積多および非人に対する 支配を権力によって公認された。法ができたのである。
む
び す 論点を整理し要約しておこう。 27-→丘世被差別身分制度化前の状況について 本稿の目的は、江戸幕府下の被差別身分が制度化された時点での状況を確かめることにあった。ここで、制度化と いうのは、権力が維持すべき社会の仕組みとして制定もしくは公認することをいう。 近年、﹁被差別部落は江戸時代に作られたというが、積多や非人の身分を作るという法令を見出すことはできない﹂ という意味の文章をしばしば目にする。これはいわゆる近世政治起源説を批判ないし反省する立場から行われている。 私も部落問題に関心をもちはじめたころ、見落とされた法令があるのではないかと捜し求めたことがあった。しかし、 江戸時代の制度への理解がすすむにつれて、それは意味のない努力であることがわかってきた。江戸時代は、必要に 応じて立法もあったが、原則として判例法の時代であった。 ﹁今時の御役人ハ、御老中ヲ始トシテ、唯下ヨリ申出ル コトヲ捌クヲ我役ト心得テ、治ト言フコトヲ夢-一モ不知様也﹂という荻生祖彼の言は、幕府の支配が安定した享保年 代に書かれたものではあるが、公儀の支配にかかわらない限り干渉を加えないという態度は、幕府の支配において基第9巻3・4号一一28 本的には変わらなかった。 近世の被差別身分制度成立の画期となったのは、貞享年間に浅草の非人頭車善七・品川同松右衛門が積多頭弾左衛 門を相手取って提起した支配をめぐる争論に対する評定所の裁許であったと、私は考える。政治の表面に現れたとこ ろ で は 、 いま知り得る限り、この裁許が身分制度に関する最初の事件であった。この裁許によって、穣多と非人を二 本の柱とする江戸幕府下の被差別身分の仕組みが公認されたのである。それは弾左衛門と非人頭との関係を確定した のみならず、それぞれの支配内部における慣行も含めてのことであった。その後三五・六数年を経て、享保年間に車 善七らが弾左衛門を相手取った訴訟は、過酷な人足の賦課や新規の難題に対する不満から弾左衛門の支配を離れたい と願い出たものであったが、幕府はこの訴えを認めず、弾左衛門の支配を再確認したものであった。これらの経過に ついては既に詳論した。 貞享年間の評定所における争論の時点では、すでに弾左衛門の支配のもとにある積多と呼ばれた集団と、車普七や 品川松右衛門の支配をうける非人と呼ばれる集団が存在していた。両者は、住み分け・妥協やその力関係によって共 存状態が自ずから形成されてきたであろう。利害の競合する集団聞の衝突は、両者を支配下に置く権力を欠くときに は、武力によって解決された。ところが、両当事者を支配下におさめる強大な権力が出現すると、 その権力は武力に ( 日 ) よる自力救済を認めず、争いの決着は裁判に委ねられることになる。この論理は、拙稿﹁下手人という仕置について﹂ を想起していただきたい。 ﹂れらの集団は﹁ケガレ﹂をその属性としていた。 ﹁ケガレといえば部落差別が解明できるというほど、事態は単 純でない﹂ことは確かであるが、 ケガレに対する恐れや忌避は、現代にいたるまで生活の各方面に残存しているので あ っ て 、 またなお部落差別の属性であるならば、これを避けたり軽視することはできない。 ﹁ケガレ﹂に対する忌避
が日本で古く遡る非合理な原始的感性に発したことは否定できないであろう。死や快復のできない病気・不具に対す る忌避は、天皇を頂点とする貴族社会の成熟と並行して、平安時代の貴族を中心として拡大した。中世の触積に対す る不合理な忌避は、今日からみれば未聞の感覚ではあるが、その時代に生きている人びとにとっては、それが生きて いる世界であった。そのなかで病気や貧窮のなかで身よりのない人びとが、葬送や汚識の除去に従事することによっ て生きる糧を得た。それは、安定した収入を保障した。そのような仕事に従事した人びとが集団をつくり組織されて 座的な組織をもつようになる。彼等の職掌は分化し、さまざまな権威を背景にもった。おそらく、その権威の盛衰に よって、消長は様々であったであろう。舞牛馬の処理や皮革の生産にかかわった人びとが、武家・大名とむすびつき、 大名たちは必要に応じてかれらを編成し、行刑にも携わった。 穣多頭として関八州と伊豆、甲斐両国の積多と非人を支配した弾左衛門の先祖は、いち早く徳川家康に接触を図り、 御役と長吏以下の支配を認められたことを誇示している。弾左衛門は、一方では長吏以下の配下を保護するとともに、 支配下の長吏を統制して、皮革の生産や灯芯の販売権らを独占し、収入を確保してきた。幕府は弾左衛門を通じて権 29一一近世被差別身分制度化前の状況について 力の末端を担当させ、弾左衛門は幕府の権力を背景として自らの権益の安泰を得た。強力な支配者である弾左衛門の 登場と彼が作り挙げた弾左衛門体制は、これに対する幕府の利用と相まって身分の存続をもたらせた。弾左衛門は幕 末に身分の引上のため動きをみせるが、旧来の権益はそのまま維持しようとした。彼が慶応四(一八六八﹀年正月に 提出した内慮伺には﹁身分平人に御引上げ、是迄の通御仕置もの井支配筋引請等の儀被仰付被下置候はば、冥加至極 難有奉存云
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と書いている。明治三年十一月、弾左衛門(弾内記)は﹁醜名除去﹂の嘆願季政府に提出するが、 そのなかで醜名の除去とともにー﹁関八州同様諸国長吏共儀、私管轄ニ被仰付・:﹂と、その支配を全国に拡大するとと ﹁職業丈は私え取締管轄被仰付﹂ことを願い出ている。彼の支配権益への執着は、終始極めて強烈であった。 も に 、第9巻3
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4号一一30 近世被差別身分制度の成立には、その基礎に、伝統的な触識に対する強い忌避感があり、その除去に関する仕事を 生 業 と し た 人 び と の 集 団 、 こ れ を 支 配 し 組 織 化 す る 強 力 な 弾 左 衛 門 こ れ ら の 存 在 を 利 用 し た 権力のからみあいがあったと考える。 ( な い し は そ の 体 制 ) 、 ( 1 ﹀拙稿﹁江戸幕府による差別の制度化﹂大阪市立大学法学雑誌、一二三l
一 二 。 ( 2 ) 申 正 月 晦 日 付 弾 左 衛 門 書 付 。 石 井 良 助 ﹁ 近 世 賎 民 に 関 す る 若 干 の 考 察 ﹂ ( ﹃ 日 本 団 体 法 史 ﹄ 二 回 二 一 良 所 引 ) 。 ( 3 ) 塚田孝﹁江戸の非人と諸役負担﹂(﹃近世日本身分制の研究﹄所収)。中尾健次﹁非人の役負担とその展開﹂(﹃江戸社会と 弾 左 衛 門 ﹄ 所 収 ) 。 ( 4 ) 弘化二年八月、中尾前掲、注 ( 3 ) 二 九 五 頁 所 引 。 ︿ 5 ) 文政二年弾左衛門書付、﹁幕府提一こ、石井前掲、注 ( 2 ) 二 二 四 頁 。 ( 6 ) 弾左衛門書付、石井前掲、注 ( 2 ) 二 四 二 頁 所 引 。 ( 7 ) ﹁領知取扱心方伝書﹂三、石井前掲、注 ( 2 ) 二二五頁所引。なお、﹃御仕置例類集﹄によれば、大坂町奉行は、﹁摂州下 新庄村幸七儀、穣多を女房一ニいたし候一件﹂について、百姓幸七は被多と知りながら﹁きち﹂と夫婦になり、きちの所縁を もって多くの稼多を百姓・町家に奉公の紹介をした答により﹁入墨之上、当表積多村年寄与え引渡、向後綴多仲間え差加﹂と 伺いでたが、評議の結果、﹁非人手下﹂に処せられた(古類集四、弐拾五之帳、一九O
九号﹀。同書の二二七八号、二二八九 号 に 連 累 者 の 仕 置 が 見 え る 。 ( 8 ) ﹃ 地 方 汎 例 録 ﹄ ( 9 ) ﹁ 幕 府 提 ﹂ 一 一 、 石 井 前 掲 、 注 ︿ 2 ) 二 二 五 頁 所 引 。 (印﹀享保十四年酉五月弾左衛門書上、﹃古事類苑﹄政治部三、九O
一 頁 所 掲 。 (日﹀酉八月九日付弾左衛門書付、﹃徳川禁例考﹄前集五、四七六頁、三四三七号。 (ロ)午十月十日付弾左衛門書付、前掲、注 ( U ) 四 七 五 頁 、 三 四 三 五 号 。 (日)﹁赦律﹂﹃徳川禁令考﹄別巻、二六九頁。31-→丘世被差別身分制度化前の状況につL、て ( U ﹀﹁后赦録﹂四十四には心中未遂で非人手下とされた者が赦免された記録を残している。ここにのこされた例では一コ一年か ら ニ