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親鸞における「真門」の課題―仏智疑惑と願海転入―

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親鸞における「真門」の課題



 

 

 

─仏智疑惑と願海転入─

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        【凡   例】 一、  原 漢 文 の も の は、 筆 者 が『 真 宗 聖 典 』( 東 本 願 寺 出 版 部 ) を 参 考 に 書 き 下 し、 適 宜 整 文した。また左訓は省略した。 一、旧漢字・旧仮名遣いは、原則として現行のものに改めた。 一、仮名書きのものは、原則として平仮名に統一した。 一、出典は左記のように略記した。    『定本親鸞聖人全集』 (法蔵館)    『定親全』    『真宗聖教全書』 (大八木興文堂)   『真聖全』

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はじめに

  本 論 文 は、 親 鸞 に お け る「 真 門 」 の 意 義 を、 「 仏 智 疑 惑 」 と「 願 海 転 入 」 と い う 課 題 を も っ て 探 り、 「 濁 世 の 群 萌 」 がいかにして如来の大悲に触れ得るのか、その道程を明かすことを目的としている。   親 鸞 の 主 著『 顕 浄 土 真 実 教 行 証 文 類 』( 以 下『 教 行 信 証 』) の「 方 便 化 身 土 巻 」 で は、 弥 陀 の 誓 願 で あ る 第 十 九 願・ 第二十願は如来方便の願として掲げられている。これらの願による教えはそれぞれ「要門」 「真門」と位置付けられ、 真実報土への往生を願いながらも、化土に留まってしまう衆生のために開説されたものとして親鸞は了解しているの である。これら方便の願について親鸞は以下のように述べている。 釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発して普く諸有海を化したまう。既にし て悲願います。修諸功徳の願と名づく  (『定親全』一 ・ 二六九頁) 釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまう。阿弥陀如来は、本果遂の誓いを発して、諸有の群 生海を悲引したまえり。既にして悲願います。植諸徳本の願と名づく  (『定親全』一 ・ 二九五頁)   第十九願「修諸功徳の願」 、 第二十願「植諸徳本の願」 、 これらの押さえ方で共通するのは、 誓願の内容が釈迦( 「誘 引」 、「勧化」 )、弥陀( 「普化」 、「悲引」 )、二尊のはたらきで確かめられ、それらが「悲願」 、如来大悲の現働として明 かされるということである。   特 に そ の 力 用 は「 既 に し て 悲 願 い ま す 」 と、 衆 生 の 自 覚 に 先 立 っ て、 「 既 に し て 」 衆 生 を 包 ん で い た も の と し て 親 (1) 103 親鸞における「真門」の課題

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鸞は述べている。すなわち、 「修諸功徳」 「植諸徳本」としての呼びかけが、自身を願海へ悲引して止まない方便とし て 自 覚 さ れ た 時、 既 に し て 如 来 の 大 悲 に 包 ま れ て あ っ た 自 己 を 発 見 す る。 こ の 大 悲 の 構 造 を、 親 鸞 は 第 十 九 願「 要 門」 、第二十願「真門」によって明かし、そこに誓われる機を通して確かめているのである。   親 鸞 に お け る 如 来 の 方 便 と は、 真 実 よ り 出 で「 濁 世 の 群 萌 」 を 包 む 大 悲 の は た ら き を 示 し、 単 に 真 実 と 区 別 さ れ、 捨てられるものとして捉えられるべきではない。 「真なる者は、 甚だ以て難く、 実なる者は、 甚だ以て希」なる衆生が、 如 来 の 弘 願 真 実 へ 触 れ る た め に 必 然 と す る も の と し て 如 来 大 悲 の 方 便 は 確 か め ら れ ね ば な ら な い の で あ る。 「 化 身 土 巻」に見られるこのような弥陀の誓願における方便の理解は、 「真仏土巻」にて、 既に以て真仮皆是れ大悲の願海に酬報せり。故に知りぬ、報仏土なりということを。良に仮の仏土の業因千差な れば、土も復た千差なるべし。是れを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるに由って、如来広大の恩徳を迷 失す。  (『定親全』一 ・ 二六六頁) と述べられる、 「大悲の願海」 、弥陀の「報仏土」の確かめによるものである。ここでは「方便化身土」の意義が明瞭 にならず、如来の大悲に無自覚な事実が「真仮を知らざるに由って、如来広大の恩徳を迷失す」ることとして述べら れている。この「真仏土巻」の文言から、親鸞は「真仮」の区別を吟味し、大悲方便の力用を明らかにするため「方 便 化 身 土 巻 」 を 開 顕 し て い く の で あ る。 そ の た め 親 鸞 の「 化 身 土 巻 」 開 顕 の 意 義 は、 「 化 身 化 土 」 と は 何 か を 明 瞭 に することによって、衆生がいかにして如来大悲の方便を自覚し、いかにその「恩徳を迷失」していたのかを明かすこ とにあるのだと言える。   その中で「真門釈」では、 善導の釈義によりながら、 「慈恩を報ぜよ」 、「真に仏恩を報ずるに成る」と、 仏恩報謝の (2) (3) (4) 104

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念について語られている。そしていわゆる三願転入の文にて願海への転入の事実が表白され、 「深く仏恩を知れり」と 述べられている。そのため親鸞の「真門釈」での確かめの中に、如来大悲の恩徳を知ることの内実が明かされている のだと言える。そこで重要なことは、これらの告白が「真門釈」にて共に言及される、 「専修にして雑心なる者」の、 「本願の嘉号を以て己が善根とする」問題を、 深く教言に聞思したがゆえに開かれた自覚であるということである。本 願の名号に帰したところに問題となる、 「罪福信ずる行者」の「仏智の不思議をうたが」う罪を見据え、 親鸞は「真門 釈」の結びにて「彼の仏恩を念報すること無し」と、第二十願の機として自身の姿を悲歎している。   このようなことから「真門釈」の確かめの中では、衆生がいかに「如来広大の恩徳を迷失」しているか、その問題 が「 仏 智 疑 惑 」 の 事 実 と し て 明 か さ れ る の だ と 読 み 取 れ る。 そ う で あ る か ら 仏 恩 報 謝 の 念 と は、 「 仏 智 疑 惑 」 の 身 が 徹底的に暴かれたところから沸き起こったものとして、その身が仏から問われることがなければ、それは辺地懈慢胎 宮 に 留 ま る も の で あ る と 言 わ ね ば な ら な い。 本 論 文 で は こ の 課 題 を 念 頭 に 置 き な が ら、 「 仏 智 疑 惑 」 と「 願 海 転 入 」 と い う 言 葉 を キ ー ワ ー ド に、 「 大 悲 の 願 海 」 の 力 用 を 考 察 す る。 真 実 報 土 へ の 往 生 を 実 現 す る 如 来 の 大 悲 と 衆 生 が い かに関係し、 「深く仏恩を知」るという内実はいかにして明かされているのか、 「真門釈」を中心に見ていきたい。

一、

『阿弥陀経』

「一心」の顕彰隠蜜

  今回注目する「真門」について、親鸞は『阿弥陀経』の教説の意義が第二十願に誓われるものとして、そこに開か れ る 境 界 を 示 す も の と 了 解 し て い る。 こ の 親 鸞 の 見 方 は、 『 阿 弥 陀 経 』 の 説 く「 執 持 名 号 一 心 不 乱 」 の「 一 心 」 を 問 (5) (6) (7) (8) (9) (10) 105 親鸞における「真門」の課題

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う、問答の中から見出されるものである。そのためまずは、 『阿弥陀経』の「一心」の問答の思索を中心に尋ねたい。 又問う。 『大本』と『観経』の三心と、 『小本』の一心と、一異云何ぞや。  (『定親全』一 ・ 二九二頁)   このように問いを出し、その答えとして親鸞は「方便真門の誓願」に注目し以下のように押さえている。 今方便真門の誓願に就いて、行有り信有り、亦真実有り方便有り。願は、即ち植諸徳本の願是れなり。行は、此 れに二種有り。一つには善本、二つには徳本なり。信とは、即ち至心回向欲生の心是れなり。機に就いて定有り 散有り。往生とは、此れ難思往生是れなり。仏は、即ち化身なり。土は、即ち疑城胎宮是れなり。  (『定親全』一 ・ 二九二頁)   第 二 十 願「 方 便 真 門 の 誓 願 」 に つ い て、 「 行 有 り 信 有 り 」「 真 実 有 り 方 便 有 り 」 と 述 べ ら れ て い る。 真 門 の 誓 願 に も「行信」があり、またその中でも「真実」と、 「方便」の意義があるとされているのである。そして機については、 「 定 有 り 散 有 り 」 と 述 べ ら れ る。 こ の こ と か ら、 第 十 九 願「 要 門 釈 」 に て 述 べ ら れ た、 定 散 二 善 の 課 題 を 引 き 継 い で い る こ と が わ か る。 こ の 機 に 説 か れ る 行 は 如 来 の 名 号 の 功 徳 と し て の「 善 本 」「 徳 本 」 で あ り、 要 請 さ れ る 信 は「 至 心回向欲生の心」であるため、 「回向」を自らの善根において修していく「自力作善」 「定散自利の心」に立つ行者に 焦点が当てられていると見て取れる。そして、このような行者が留まってしまう「土」は「疑城胎宮是れなり」と述 べられ、真実報土に生まれる「難思議往生」とは区別され、その往生は「難思往生」と明かされている。   「 方 便 真 門 の 誓 願 」 に つ い て、 こ の よ う に 誓 願 の 行 信、 往 生・ 仏 土 が 押 さ え ら れ、 そ れ を 受 け て『 阿 弥 陀 経 』 の 「顕彰隠蜜之義」が開かれていく。 『 観 経 』 に 准 知 す る に、 此 の 経 に 亦 顕 彰 隠 蜜 の 義 有 る べ し。 顕 と 言 う は、 経 家 は 一 切 諸 行 の 少 善 を 嫌 貶 し て、 善 (11) (12) 106

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本 徳 本 の 真 門 を 開 示 し、 自 利 の 一 心 を 励 ま し て 難 思 の 往 生 を 勧 む。 ( 中 略 ) 此 れ は 是 れ 此 の 経 の 顕 の 義 を 示 す な り。此れ乃ち真門の中の方便なり。  (『定親全』一 ・ 二九三頁)   「 観 経 』 に 准 知 す る に 」 と あ る よ う に、 『 観 経 』 の 顕 彰 隠 蜜 の 義 を 開 い た 眼 目 を も っ て、 『 阿 弥 陀 経 』 の 顕 彰 隠 蜜 が 明 か さ れ て い る。 そ し て 名 号 の「 善 本・ 徳 本 」 を も っ て「 真 門 を 開 示 」 す る 理 由 が、 「 自 利 の 一 心 を 励 ま し て、 難 思 の 往 生 を 勧 」 め る か ら で あ る と 明 か さ れ て い る。 そ れ は 行 者 の「 自 利 各 別 の 心 」 の 故 に 定 散 二 善 を 勧 め る『 観 経 』 の 教 説 と 同 じ く、 『 阿 弥 陀 経 』 に お け る「 執 持 名 号 」 の 念 仏 も、 自 力 に 立 つ 行 者 の「 自 利 の 一 心 」 に 準 じ て 説 か れ て い る の だ と 親 鸞 は 明 か し て い る の で あ る。 し か し、 そ の よ う に「 自 利 の 一 心 を 励 ま し 」、 「 難 思 の 往 生 を 勧 む 」 の は、 「真門の中の方便なり」と述べられることから、先に「真門の誓願」について「真実有り方便有り」とされた「方便」 の意義が、 『阿弥陀経』の「顕」の義として確かめられているのである。   定散の機における「自利各別の心」は、 「利他の一心に非ず」と明かされるように、 「如来の弘願」による「利他通 入の一心」 、すなわち『大経』 「疑蓋無雑」の「信楽」とは質を異にするものである。先に「方便真門の誓願」の機が 定 散 と 述 べ ら れ て い た こ と か ら、 ど こ ま で も『 観 経 』『 阿 弥 陀 経 』 に つ い て、 親 鸞 は 一 貫 し て「 定 散 心 」 と し て 表 れ る衆生の自力心の問題を課題にしていると言える。そのため、 「自利の一心」とは、 「定散の自心に迷いて、金剛の真 心に昏し」と述べられる、本願成就の一心としての「金剛心」に相違し、衆生が迷い、沈む自力執心の問題であると 言える。この「顕」の義の後、 『阿弥陀経』の「彰隠蜜」の義が確かめられる。 彰 と 言 う は、 真 実 難 信 の 法 を 彰 す。 斯 れ 乃 ち 不 可 思 議 の 願 海 を 光 闡 し て、 無 碍 の 大 信 心 海 に 帰 せ し め ん と 欲 す。 良 に 勧 め 既 に 恒 沙 の 勧 め な れ ば、 信 も 亦 恒 沙 の 信 な り、 故 に 甚 難 と 言 え る な り。 ( 中 略 ) 斯 れ は 是 れ 隠 彰 の 義 な (13) (14) (15) (16) 107 親鸞における「真門」の課題

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り。  (『定親全』一 ・ 二九三頁) ここで「方便真門の誓願」で述べられた「真実」について、 「真実難信の法を彰す」と、 「難信の法を彰す」こととし て 押 さ え ら れ る。 こ の「 難 信 」 と は、 『 阿 弥 陀 経 』 に て 諸 仏 が、 五 濁 悪 世 の た だ 中 で 説 か れ る 釈 尊 の 法 を 称 讃 し た 言 葉である。 『阿弥陀経』ではその言葉を受けて、釈尊が舎利弗に以下のように説く。 舎 利 弗、 当 に 知 る べ し。 我 五 濁 悪 世 に 於 い て、 此 の 難 事 を 行 じ、 阿 耨 多 羅 三 藐 三 菩 提 を 得 て、 一 切 世 間 の 為 に、 此の難信の法を説く。是れを甚難とす。  (『真聖全』一 ・ 七二頁) 釈尊が「五濁悪世」において、 「一切世間の為に」 、「難信の法」を説くこと、これを『阿弥陀経』では、 「甚難」とさ れるのである。すなわち「甚難」とは、もともと釈尊の覚った法が「五濁悪世」において有り難い、世間を超えてい るということを表した言葉なのである。   し か し 親 鸞 は『 阿 弥 陀 経 』 の「 隠 彰 の 義 」 を 明 か す 際、 如 来 が 自 力 に 生 き る 衆 生 に「 不 可 思 議 の 願 海 を 光 闡 し 」、 「 無 碍 の 大 信 心 海 に 帰 」 す こ と を 実 現 す る に は、 「 恒 沙 」 諸 仏 の「 勧 め 」 に よ る の だ と 述 べ て い る。 そ し て、 そ れ に よ っ て 発 起 す る「 信 」 が 自 力 心 と は 質 を 異 に す る「 恒 沙 の 信 」 で あ る と し、 五 濁 悪 世 の 衆 生 を 救 う の は 衆 生 に 根 拠 する信ではないと確かめる。そこからこの「恒沙の信」を根拠に、 「甚難」であると述べるのである。このことから、 親 鸞 は『 阿 弥 陀 経 』 の「 難 信 」、 「 甚 難 」 の「 難 」 の 意 義 を、 信 心 を 起 こ し 難 い「 一 切 世 間 」「 五 濁 悪 世 」 に 生 き る 衆 生の立場で受け止めなおしているということが読み取れる。   『阿弥陀経』の説く、 「難信の法」に「真実」を付し、それを「隠彰の義」として親鸞が述べるのは、第二十願「方 便真門」の真面目が、諸仏の勧めにおける衆生の「難」の自覚に極まることを明かそうとするからであることが読み 108

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取れる。それは「定散の自心」の自力の執心を課題とし、そのような衆生に根拠する心は、真実報土への因とはなり 得ないという自覚である。   こ の よ う に『 阿 弥 陀 経 』 の 一 心 を 問 い、 顕 彰 隠 蜜 を 開 く こ と で、 「 真 門 」 の 課 題 が 信、 特 に「 難 信 」 と い う と こ ろ に 収 束 し て い る こ と が 見 て 取 れ る。 そ し て 諸 仏 の 勧 め に 根 拠 す る「 信 」 こ そ、 『 阿 弥 陀 経 』 の 説 き 彰 す も の だ と 親 鸞 は 明 か す の で あ る。 そ う で あ る か ら『 阿 弥 陀 経 』 の「 顕 の 義 」、 「 隠 彰 の 義 」 を 明 か す こ と に よ っ て、 「 一 心 不 乱 」 の 「一心」の内実は、 「自利の一心」 (方便)と「恒沙の信」 (真実)の二つの側面で確かめられ、特に「恒沙の信」に面 目があることが読み取れる。 『 大 経 』 に は 信 楽 と 言 え り。 如 来 の 誓 願 疑 蓋 雑 わ る こ と 无 き が 故 に 信 と 言 え る な り。 『 観 経 』 に は 深 心 と 説 け り。 諸 機 の 浅 信 に 対 せ る が 故 に 深 と 言 え る な り。 『 小 本 』 に は 一 心 と 言 え り、 二 行 雑 わ る こ と 無 き が 故 に 一 と 言 え る なり。復た一心に就いて深有り浅有り。深は利他真実の心是れなり、浅は定散自利の心是れなり。  (『定親全』一 ・ 二八八頁) こ こ で『 阿 弥 陀 経 』 で は 諸 行 を 雑 え ず に、 念 仏 一 行 が 説 か れ る た め に「 一 」 と 言 う が、 そ の 念 仏 を 修 す る 心 の「 一 心」には、 「深」と「浅」という意義があることが推求されている。   こ の『 阿 弥 陀 経 』 の「 一 心 」 に つ い て の 言 及 は、 『 観 経 』 で は「 諸 機 の 浅 信 に 対 」 し て、 「 疑 蓋 無 雑 」 の 信( 信 楽 ) を「 深 心 」 と 釈 尊 は 説 い て い る と い う こ と を 受 け て の も の で あ る。 『 大 経 』『 観 経 』 の 二 経 に よ っ て『 阿 弥 陀 経 』 の 「 一 心 」 の 意 義 を 開 き 見 る と、 そ れ は「 深 」 の 義 と し て の「 利 他 真 実 の 心 」 と、 そ の「 心 」 に 照 ら さ れ て 明 ら か に な る「浅」の義としての「諸機の浅信」 、「定散自利の心」があると親鸞は確かめているのである。 109 親鸞における「真門」の課題

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  こ こ か ら、 『 阿 弥 陀 経 』 の「 隠 彰 の 義 」 に お け る「 恒 沙 の 信 」 と は、 「 利 他 真 実 の 心 」 そ の も の で あ り、 「 無 碍 の 大 信心海に帰せしめんと欲す」という如来の呼びかけにおける「信」であることが知られる。すなわち、弥陀の弘誓の 「 帰 せ し め ん と 欲 す 」 と い う 意 欲 と、 そ の 法 を 讃 嘆 す る 諸 仏 の 勧 め、 こ の 二 つ の は た ら き に よ っ て 実 現 す る 信 が、 真 に『阿弥陀経』の明かそうとする「深」なる「一心」なのであると言える。 斯 の 経 は、 大 乗 修 多 羅 の 中 の 無 問 自 説 経 な り。 し か れ ば、 如 来 世 に 興 出 し た ま う ゆ え は 恒 沙 の 諸 仏 証 護 の 正 意、 唯だ斯れに在るなり。  (『定親全』一 ・ 二九四頁) 「一心不乱」の「一心」に「隠顕」を開き、 「隠彰の義」において「難信」ということと「恒沙の信」を見出したとこ ろから、 『阿弥陀経』が「無問自説経」であること、そしてそのゆえに釈尊の出世の本懐が「恒沙の諸仏証護の正意」 にあることが述べられる。この「無問自説経」ということは、親鸞の『阿弥陀経』への視点としてとても重要なもの である。 『一念多念文意』では以下のように述べられる。 この『経』は無問自説経とまふす。この『経』をときたまひしに、如来にとひたてまつる人もなし。これすなわ ち釈尊出世の本懐をあらわさむとおぼしめすゆへに、無問自説とまふすなり。弥陀選択の本願、十方諸仏の証誠、 諸仏出世の素懐恒沙如来の護念は、諸仏咨嗟の御ちかひをあらはさむとなり。  (『定親全』三・和文篇・一三九~一四〇頁) 「 如 来 に と ひ た て ま つ る 人 も な し 」 と あ る よ う に、 問 う と い う こ と が な い、 す な わ ち 問 う と い う こ と が 成 り 立 た な い 衆 生 の た め に、 仏 自 ら が「 出 世 の 本 懐 を あ ら わ さ む と お ぼ し め 」 し て、 『 阿 弥 陀 経 』 は 説 か れ た の で あ る。 そ こ に 「諸仏出世の素懐」と、 「諸仏咨嗟の御ちかひ」が重なり、 「恒沙の諸仏証護」を必然とする、 「難信」の衆生の姿が浮 (17) 110

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き 彫 り に な る。 こ の こ と か ら『 阿 弥 陀 経 』 を「 無 問 自 説 経 」 だ と 親 鸞 が 結 論 づ け る の は、 如 来 に よ ら な け れ ば、 「 真 実難信の法」としての教えは自身に開示されなかったという確信からであると言える。 三経の大綱、顕彰隠蜜の義有りといえども、信心を彰して能入とす。故に経の始めに如是と称す。如是の義は則 ち善く信ずる相なり。今三経を案ずるに、皆な以て金剛の真心を最要とせり。  (『定親全』一 ・ 二九四頁) この確かめをもって、 「三経の大綱」について「信心を彰して能入とす」と結論づけられている。 『阿弥陀経』の「一 心」は、 「顕の義」として「自利の一心」を勧めるが、 「隠彰の義」では、 「難信」という問題が見据えられ、 「無問自 説」という語で、そもそも如来に問うことが成り立たない、すなわち仏道を求める因を持たない衆生が確かめられた。 し か し、 そ の ゆ え に 仏 は「 諸 仏 咨 嗟 の 御 ち か ひ を あ ら は 」 し、 「 恒 沙 の 勧 め 」 を も っ て、 衆 生 を「 大 信 海 に 帰 せ し め ん と 欲 す 」 の で あ る。 こ の 諸 仏 と 如 来 の 誓 い に よ っ て 発 起 す る 信 こ そ、 「 利 他 真 実 の 心 」、 「 金 剛 の 真 心 」 と 言 い 得 る 「一心」であると親鸞は明かすのである。   お よ そ『 阿 弥 陀 経 』「 一 心 」 の 問 答 の 確 か め は こ の よ う な 展 開 で、 顕 彰 隠 蜜 の 義 が 押 さ え ら れ た。 こ こ で 課 題 と す るべきは「無問自説」の根拠と見られる、 「真実難信の法」 、衆生における「難信」という課題であろう。諸仏の称讃 なくしては信を起こし得ない衆生の問題を以下、 「真門釈」に尋ねたい。

二、親鸞における「真門」の課題─自力の専心─

  『阿弥陀経』一心の問答を、経の顕彰隠蜜を見出すことで展開し、最後には三経の大綱が「信心を彰して能入とす」 111 親鸞における「真門」の課題

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という眼目で押さえられた。親鸞における「真門」の意義について、衆生の「難信」という課題が見出されていたこ とから、 「定散の自心」ということが深く掘り下げられ、 「信心」に焦点が当てられることが読み取れた。それは、 大 信 心 海 は 甚 だ 以 て 入 り 叵 し、 仏 力 従 り 発 起 す る が 故 に。 真 実 の 楽 邦 は 甚 だ 以 て 往 き 易 し、 願 力 に 藉 っ て 即 ち 生 ず る が 故 な り。 今 将 に 一 心 一 異 の 義 を 談 ぜ ん と す。 当 に 此 の 意 な る べ し と な り。 三 経 一 心 の 義、 答 え 竟 り ぬ。  (『定親全』一 ・ 二九四頁) と 問 答 が 結 論 づ け ら れ る よ う に、 「 仏 力 発 起 」、 「 願 力 即 生 」 の「 大 信 心 海 」 を 根 拠 に し て、 そ の 信 心 と 相 違 せ る 衆 生 の 自 力 執 心 を 浮 き 彫 り に す る 思 索 で あ っ た。 こ の よ う な 問 答 で の 確 か め を 踏 ま え て、 「 真 門 釈 」 で は 以 下 の よ う に 述 べられる。 夫れ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。真門の方便に就いて、善本有り徳本 有り。復た定専心有り、復た散専心有り、復た定散雑心有り。  (『定親全』一 ・ 二九四~二九五頁) ここで改めて「濁世の道俗」に「円修至徳の真門」に入ることが勧められる。そして「真門の方便」について、善本 徳本を説くこと、定散専心と定散雑心があるということが押さえられているのである。問答にて焦点が当てられてき た「定散の自心」について、ここでその内実がより詳細に「定散雑心」と「定散専心」として掘り下げられるのであ る。   その「雑心」については、 雑心とは、大小凡聖・一切善悪、各の助正間雑の心を以て名号を称念す。良に教は頓にして根は漸機なり、行は 専にして心は間雑す、故に雑心と曰うなり。  (『定親全』一 ・ 二九五頁) 112

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と 述 べ ら れ、 「 大 小 凡 聖・ 一 切 善 悪 」 が、 「 各 の 助 正 間 雑 の 心 」 に お い て「 名 号 」 を 称 え て い る こ と が 明 か さ れ、 「 行 は 専 に し て 心 は 間 雑 す 」 と い う、 「 教 頓 根 漸 機 」 の 法 と 機 の 関 係 が 見 つ め ら れ て い る。 こ の「 助 正 間 雑 心 」、 「 雑 心 」 の問題は、後に「専修にして雑心なる者は大慶喜心を獲ず」と述べられ、以下のように悲歎されている。 悲 し き 哉、 垢 障 の 凡 愚、 無 際 自 従 り 已 来、 助 正 間 雑 し、 定 散 心 雑 す る が 故 に、 出 離 其 の 期 无 し。 自 ら 流 転 輪 回 を 度 る に、 微 塵 劫 を 超 過 す れ ど も、 仏 願 力 に 帰 し 叵 く、 大 信 海 に 入 り 叵 し。 良 に 傷 嗟 す 可 し、 深 く 悲 歎 す 可 し。  (『定親全』一 ・ 三〇八~三〇九頁) ここで「垢障の凡愚」の「無際自従り已来」迷い続けてきた姿が「雑心」の事実として明かされている。このような 自覚は「大小凡聖・一切善悪」と言われるように、大乗や小乗、聖者・凡夫、善や悪を問わず、一切に共通する問題 として、 「良に傷嗟」し、 「深く悲歎す可」きものであると述べられるのである。   で は、 こ の「 定 散 雑 心 」「 助 正 間 雑 心 」 の 後 に 述 べ ら れ る、 「 定 散 専 心 」「 信 罪 福 心 」 と は ど の よ う な 質 の 問 題 で あ ろうか。 「定散の専心」については、 定散の専心とは、罪福を信ずる心を以て本願力を願求す、是れを自力の専心と名づくるなり  (『定親全』一 ・ 二九五頁) と 述 べ ら れ て お り、 「 信 罪 福 心 」 の ゆ え に、 「 専 心 」 で あ っ て も 自 力 の 心 で あ る と 明 か さ れ る。 「 自 力 の 専 心 」 と 名 付 けられるこの「信罪福心」とは、親鸞が第二十願「真門」の意義を押さえる上で非常に重視するものであるため注目 したい。この「罪福心」とは、 『大経』 「胎化得失の文」で述べられている衆生の問題である。 若し衆生有りて、疑惑心を以て諸の功徳を修して、彼の国に生まれんと願ぜん。仏智不思議智不可称智大乗広智 (18) 113 親鸞における「真門」の課題

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無等無倫最上勝智を了らずして、此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然も猶罪福を信じて、善本を修習して、其 の国に生まれんと願ぜん。此の諸の衆生、彼の宮殿に生まれて、寿五百歳、常に仏を見たてまつらず、経法を聞 かず、菩薩声聞聖衆を見ず。是の故に彼の国土には之れを胎生という。  (『定親全』一 ・ 二七二頁) 「胎生」について述べられるこの教説は、第二十願の証文として引かれ、また『浄土三経往生文類』の「弥陀経往生」 を明かす箇所でも引かれている。そうであるから、親鸞はこの「胎生」の問題を、第二十願の機を明かすものとして 重 視 し て い た こ と が う か が え る。 『 大 経 』 の 文 脈 で は、 弥 勒( 慈 氏 菩 薩 ) が 釈 尊 に 浄 土 へ の 生 ま れ 方 に 何 故「 胎 生 」 と「化生」という違いが出るのかと問いを出す。それについて衆生の「疑惑心」と「罪福を信」ずる問題に言及する 形で釈尊は応えるのである。すなわち「胎生」に陥る理由は、未来仏である弥勒でさえわからない問題なのである。   その中で親鸞は、この「胎生」に陥る衆生の理由の中で、特に「罪福を信じて、善本を修して」という部分に注目 する。 「罪福を信じて」という問題は、例えば『正像末和讃』では以下のように述べられる。 不了仏智のしるしには   如来の諸智を疑惑して   罪福信じ善本を   たのめば辺地にとまるなり 仏智の不思議をうたがいて   自力の称念このむゆえ   辺地懈慢にとどまりて   仏恩報ずるこころなし 罪福信ずる行者は   仏智の不思議をうたがいて   疑城胎宮にとどまれば   三宝にはなれたてまつる  (『定親全』二・和讃篇一八八~一八九頁) ここで「罪福心」ということが繰り返し述べられるのであるが、その問題は「如来の諸智を疑惑して」 、「仏智の不思 (19) (20) 114

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議をうたがいて」と、仏智を疑惑する事実として述べられている。ここで親鸞は仏智を「疑惑」することと、 「罪福」 を 信 ず る こ と を、 二 つ の 並 立 的 な 問 題 と し て 見 て い る わ け で は な い。 衆 生 に お い て 仏 智 の「 疑 惑 」 は、 「 罪 福 を 信 じ て 」 い る 相 と し て 仏 に 言 い 当 て ら れ る 質 の も の で あ る と 親 鸞 は 了 解 し て い る の で あ る。 こ の こ と か ら 仏 智 を「 疑 惑 」 す る と い う こ と は、 衆 生 が 意 識 的 に 疑 い を も っ て 行 う こ と で は な く、 「 信 罪 福 心 」 に 立 つ 衆 生 の 事 実 で あ る と い う こ と が わ か る。 こ の よ う に 以 下 二 三 首、 「 胎 化 得 失 」 の 教 説 を 元 に し て、 「 罪 福 心 」 と 仏 智 疑 惑 の 姿 が 明 か さ れ て い く。 親鸞がいかにこの問題を重く捉えていたのか、和讃の詠まれた数の多さからもうかがえるが、特に「罪福心」におけ る「仏智疑惑」の問題は以下の和讃にその根深さを思い知らされる。 罪福ふかく信じつつ   善本修習するひとは   疑心の善人なるゆえに   方便化土にとまるなり  (『定親全』二・和讃篇一九五頁) 「信罪福心」としての「仏智疑惑」の問題は、ここに明らかなように、 「疑心の善人」という、善人意識としての問題 と さ れ て い る の で あ る。 そ れ は、 「 罪 福 」 を 深 く 信 じ て「 善 本 修 習 」 し て い く が ゆ え の 善 人 意 識 で あ り、 意 識 の 表 面 上にあがらず、自己反省の届かないような「疑心」の問題である。このような者は「善人なるゆえに」 、「三宝にはな れ 」、 「 疑 城 胎 宮 」「 方 便 化 土 」 に 留 ま っ て し ま う の で あ る。 こ の「 自 力 の 専 心 」「 仏 智 疑 惑 」 に お け る 善 人 の 問 題 は、 「真門釈」の結びで 凡そ大小聖人・一切善人、本願の嘉号を以て己が善根とするが故に、信を生ずること能わず、仏智を了らず。彼 の因を建立せることを了知すること能わざるが故に、報土に入ること无きなり  (『定親全』一 ・ 三〇九頁) と 悲 歎 さ れ て い る。 こ こ で は 特 に、 「 一 切 善 悪 」 で は な く「 一 切 善 人 」 と 述 べ ら れ て お り、 「 善 人 」 の 自 覚 に 立 つ 者 115 親鸞における「真門」の課題

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は「本願の嘉号を以て己が善根とする」がゆえに、 「不了仏智」 「無入報土」であると明かされているのである。すな わ ち、 自 ら の 疑 惑 の 心 が 問 わ れ ず に、 「 善 人 」 の 立 場 か ら 離 れ ら れ な い 者 は 畢 竟「 信 を 生 ず る 」 と い う こ と が な い と 明確にされているのである。この自釈の言葉は、 『如来会』の第二十願を示す文が元になっており、親鸞が「真門釈」 における一番の課題はこの行者の「善人」という意識にあると示そうとしていることがわかる。   このことから第二十願「植諸徳本」の願は、行者の無意識化の善人意識を照破するために発されたのだと、親鸞が 了 解 し て い る こ と が 読 み 取 れ る。 す な わ ち、 本 願 の 名 号 に 帰 し た 者 が、 そ の 歩 み の 中 で 常 に 問 わ れ 続 け て く る こ と、 それが「疑心の善人」なる自己肯定の善人意識なのである。だからこそ親鸞は、濁世に生きる衆生の一人として 夫れ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。  (『定親全』一 ・ 二九四頁) と、 「難思往生を願うべ」きことを呼びかけるのである。これによって親鸞は、第二十願の「真門に入り」 、本願の名 号によって自力を根拠にした善人意識が見破られ続けることを自らの立場としているのである。このような第二十願 の機における眼目は、 「真門釈」に引かれる以下の第二十願の証文に明らかである。 又 言 わ く、 若 し 人 善 本 无 け れ ば、 此 の 経 を 聞 く こ と を 得 ず。 清 浄 に 戒 を 有 て る 者、 乃 し 正 法 を 聞 く こ と を 獲 ん。 已上  (『定親全』一 ・ 二九六頁) 『 平 等 覚 経 』 に 言 わ く、 是 の 功 徳 有 る に 非 ざ る 人 は、 是 の 経 の 名 を 聞 く こ と を 得 ず。 唯 清 浄 に 戒 を 有 て る 者、 乃 し還りて斯の正法を聞く。悪と憍慢と蔽と懈怠とは、以て此の法を信ずること難し。宿世の時に仏を見たてまつ れる者、楽みて世尊の教を聴聞せん。人の命希に得べし。仏は世に在ども甚だ値い難し。信慧有りて致るべから ず。若し聞見せば精進して求めよ、と。已上  (『定親全』一 ・ 二九七頁) 116

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この二文では、 「善本」である名号が説かれなければ、 「経を聞くこと」が成り立たない衆生について述べられている。 それは「悪と憍慢と蔽と懈怠」という、難信の根源を仏がみそなわして説かれたものであり、値い難い仏の教えに値 う こ と( 聞 見 ) を 得 た な ら ば、 「 精 進 し て 求 め よ 」 と 述 べ ら れ る。 こ れ ら の 証 文 に う か が え る こ と は、 仏 か ら 言 い 当 てられる衆生の姿は、 「悪と憍慢と蔽と懈怠」という難信の姿だということである。この言葉について親鸞は「行巻」 正信偈にて、以下のように述べている。 弥陀仏の本願念仏は、邪見憍慢の悪衆生、信楽受持すること、甚だ以て難し。難の中の難、斯れに過ぎたるは无 し。  (『定親全』一 ・ 八七頁) 親鸞は、衆生の事実として「悪と憍慢と蔽と懈怠」を、 「邪見憍慢の悪衆生」と呼び、 「此の法を信ずること難し」を、 より具体的に「信楽受持すること、甚だ以て難し」と押さえているのである。親鸞の第二十願における眼目を考える と、難信の課題を持つ「悪と憍慢と蔽と懈怠」とは善人意識に生きる衆生の事実であり、その姿は「邪見」という意 味 を 付 し て 了 解 す べ き こ と だ と い う こ と が わ か る。 そ の た め 次 節 で は、 『 涅 槃 経 』 の 文 に よ っ て こ の「 邪 見 」 と い う 問題を、親鸞がどのように確認しているか見ていきたい。

三、難信の根源─「邪見」と「善知識」─

  前 章 ま で で、 「 真 門 釈 」 で は 衆 生 の 難 信 と い う 問 題 に 焦 点 が 当 て ら れ る こ と を 確 か め、 そ の 内 実 は「 疑 心 の 善 人 」 と述べられる、行者の根深い善人の意識にあることを確認した。そして第二十願文を挙げる『大経』の引文中の「往 117 親鸞における「真門」の課題

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勤 偈 」 の 文 に 注 目 し、 難 信 の 根 源 に「 邪 見 憍 慢 の 悪 衆 生 」 の「 信 楽 受 持 」 の 難 が 見 据 え ら れ て い る こ と を 確 か め た。 そ れ ら を 受 け て、 今 節 で は、 「 真 門 釈 」 中 の『 大 経 』 流 通 分 の 引 文 か ら の 文 脈 に 注 目 し、 「 邪 見 」、 「 善 知 識 」、 「 信 心 」 と展開される思索を尋ねたい。 『 大 本 』 に 言 わ く、 如 来 の 興 世、 値 い 難 く 見 た て ま つ り 難 し。 諸 仏 の 経 道、 得 難 く 聞 き 難 し。 菩 薩 の 勝 法、 諸 波 羅蜜、聞くことを得ること亦難し。善知識に遇い、法を聞き能く行ずること、此れ亦難しとす。若し斯の経を聞 きて信楽受持すること、難の中の難、此れに過ぎて難きは无けん。是の故に我が法、是くの如く作しき、是くの 如く説く、是くの如く教う。当に信順して、法の如く修行すべし、と。已上  (『定親全』一 ・ 三〇二頁) こ の『 大 経 』 流 通 分 の 文 で は、 仏 滅 後 の 五 濁 悪 世 の 衆 生 に つ い て 語 ら れ る。 「 如 来 の 興 世、 値 い 難 く 見 た て ま つ り 難 し」から始まり、 「聞法」 、「修行」 、「獲信」について全て「難」であると述べられている。その衆生の「難」のゆえに 「 我 が 法、 是 く の 如 く 作 し き、 是 く の 如 く 説 く、 是 く の 如 く 教 う 」 と 釈 尊 は 教 え を 説 く の で あ る。 こ こ に 明 ら か な こ と は、 「 難 」 と い う 課 題 は、 釈 尊( 仏 ) か ら 言 い 当 て ら れ る 衆 生 の 姿 と し て、 仏 の 知 見 に お け る 問 題 で あ り、 釈 尊 の 説法はこの「難」である衆生を理由にして説き出されるということである。そしてこの確かめを受けて、以下のよう に『涅槃経』の文が引かれている。 『 涅 槃 経 』 に 言 わ く、 経 の 中 に 説 く が 如 し、 一 切 梵 行 の 因 は 善 知 識 な り。 一 切 梵 行 の 因、 無 量 な り と い え ど も、 善知識を説けば則ち已に摂尽しぬ。我が所説の如し、一切悪行は邪見なり。一切悪行の因、無量なりといえども、 若し邪見を説けば則ち已に摂尽しぬ。或いは説かく、阿耨多羅三藐三菩提は信心を因とす。是れ菩提の因復た无 量なりといえども、若し信心を説けば則ち已に摂尽しぬ、と。  (『定親全』一 ・ 三〇二~三〇三頁) (21) 118

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こ の『 涅 槃 経 』「 迦 葉 品 」 の 文 で は、 『 大 経 』 で 説 か れ た 仏 滅 後 の 衆 生 の「 難 」 の 課 題 を 受 け て、 「 一 切 梵 行 の 因 」、 「一切悪行の因」 、「阿耨多羅三藐三菩提」の因、三つの因について言及される。そしてそれらの因は、 「善知識」 、「邪 見」 、「信心」に収まるのだと説かれているのである。このことから、この三つの要素が、衆生における「難」という ことを考えるとき重要な問題なのだと親鸞が了解していることがわかる。   こ の 文 に 続 い て、 『 涅 槃 経 』 よ り「 信 不 具 足 」 の 文、 悪 果 を 得 る「 四 善 事 」「 戒 不 具 足 」 の 文、 「 聞 不 具 足 」 の 文 が 引用される。そしてその内容を受けて、 「徳王品」の文にて「第一真実の善知識」について言及されている。そのため、 「信不具足」 、「四善事」 「戒不具足」 、「聞不具足」は、一様に善知識に言い当てられる衆生の課題として挙げられてい ると読み取れる。その中で、善男子に説かれる「四善事」の文の内容について注目したい。 善男子、四つの善事有り、悪果を獲得せん。何等をか四とする。一つには勝他の為の故に経典を読誦す。二つに は利養の為の故に禁戒を受持せん。三つには他属の為の故にして布施を行ぜん。四つには非想非非想処の為の故 に繫念思惟せん。是の四つの善事、悪果報を得ん。若し人是くの如きの四事を修習せん、是れを、没して、没し 已りて還りて出ず、出で已りて還りて没す、と名づく。何が故ぞ没と名づくる、三有を楽うが故に。何が故ぞ出 と名づくる、明を見るを以ての故に。明は即ち是れ、戒施定を聞くなり。何を以ての故に還りて出没するや。邪 見を増長し、憍慢を生ずるが故に。是の故に我れ経の中に於いて偈を説かく、若し衆生有りて諸有を楽んで、有 の為に善悪の業を造作する、是の人は涅槃道を迷失するなり。是れを暫出還復没と名づく。黒闇生死海を行じて 解脱を得といえども、煩悩を雑するは、是の人還りて悪果報を受く、是れを暫出還復没と名づく、と。  (『定親全』一 ・ 三〇四頁) (22) (23) 119 親鸞における「真門」の課題

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こ こ で「 悪 果 を 獲 得 す る 」 と さ れ る「 四 善 事 」 に つ い て、 そ の 内 容 は、 「 読 誦 経 典 」、 「 受 持 禁 戒 」、 「 行 布 施 」、 「 繫 念 思 惟 」 と い う 仏 道 修 行 の 体 裁 を と っ て い な が ら、 そ れ ぞ れ「 勝 他 の 為 」、 「 利 養 の 為 」、 「 他 属 の 為 」、 「 非 想 非 非 想 処 の為」のものだと述べられる。これらの行為は、その目的が「勝他」 、「利養」などの為の行い、すなわち「三有を楽 う 」 こ と が 根 に あ る た め に、 「 悪 果 を 得 ん 」 と さ れ、 世 間 に「 没 」 し て い く と 述 べ ら れ る。 こ の「 四 事 を 修 習 せ ん 」 と す る こ と は、 「 没 し て、 没 し 已 り て 還 り て 出 ず、 出 で 已 り て 還 り て 没 す 」 と い う「 暫 出 還 復 没 」 と 名 付 け る と 述 べ られるのであるが、そのようにいつまでも「還りて出没」してしまう問題の根には「邪見を増長し、憍慢を生ずるが 故 に 」 と、 「 邪 見 」 と「 憍 慢 」 の 問 題 が 指 摘 さ れ る。 「 邪 見 を 増 長 し 」、 「 諸 有 を 楽 ん で 」 仏 道 を 行 じ よ う と す る 者 は、 畢竟「涅槃道を迷失する」と述べられる。すなわちこれが、仏道を見失っていく「暫出還復没」の邪見憍慢の衆生の 姿であると明かされるのである。   こ の こ と か ら、 こ の 衆 生 の「 四 善 事 」 に お け る「 涅 槃 道 を 迷 失 」 す る と い う 文 が、 「 一 切 悪 行 の 因 」 と さ れ る「 邪 見」の最も具体的内容を表したものであると見ることができよう。すなわち衆生の思い描く「善事」とは、この「四 善事」に代表されるように、全て「勝他」 「利養」等の「為」という「煩悩を雑する」行為となり、 「涅槃道」を実現 し な い と い う こ と で あ る。 で は こ の「 暫 出 還 復 没 」 の 衆 生 の 事 実 を、 い か に し て 超 え 得 る の か。 そ の 問 題 が「 徳 王 品」の引文から「第一真実の善知識」を明かす形で応えられる。 又言わく、善男子、第一真実の善知識は、謂ゆる菩薩、諸仏なり。世尊、何を以ての故に。常に三種の善調御を 以ての故なり。何等をか三とする。一つには畢竟軟語、二つには畢竟呵責、三つには軟語呵責なり。是の義を以 ての故に、菩薩・諸仏は即ち是れ真実の善知識なり。  (『定親全』一 ・ 三〇五頁) 120

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こ こ で 善 知 識 と は「 菩 薩 諸 仏 」 と し て 述 べ ら れ て い る。 そ し て こ の「 菩 薩 諸 仏 」 が、 「 真 実 の 善 知 識 な り 」 と さ れ る 理由が、 「常に三種の善調御を以ての故なり」と述べられ、 「畢竟軟語」 、「畢竟呵責」 、「軟語呵責」の善知識のはたら きが明かされている。そのことから親鸞はここで、善知識について初めから想定され、固定された像としてではなく、 「軟語呵責」をもって自身を教化する存在として明かしていることがわかる。   続いてこの後、 仏、 菩薩について「良医」の譬えで述べられていくが、 『涅槃経』における「善知識」の意義は次の ように締めくくられる。 仏及び菩薩亦復是くの如し。諸の凡夫の病を知るに三種有り。一つには貪欲、二つには瞋恚、三つには愚痴なり。 貪欲の病には教えて骨相を観ぜしむ。瞋恚の病には慈悲相を観ぜしむ。愚痴の病には十二縁相を観ぜしむ。是の 義を以ての故に、諸仏・菩薩を善知識と名づく。善男子、譬ば船師の善く人を度すが故に大船師と名づくるが如 し。諸仏・菩薩も亦復是くの如し。諸の衆生をして生死の大海を度す。是の義を以ての故に善知識と名づく、と。  (『定親全』一 ・ 三〇六頁   ※傍線筆者) 仏・菩薩は衆生の病である「貪欲」 「瞋恚」 「愚痴」を知り、それを教えるため「骨相」 「慈悲相」 「十二縁相」を観ぜ しむと明かされる。そして、そのゆえに「諸仏菩薩」が善知識であると述べられ、このようなはたらき全体を押さえ て、 善 知 識 と は「 諸 の 衆 生 を し て 生 死 の 大 海 を 度 す 」 も の で あ る と 明 か さ れ る。 こ の こ と か ら、 「 煩 悩 雑 す る 」 が ゆ え に「 涅 槃 道 を 迷 失 」 し て い く 自 己 に と っ て「 生 死 海 を 度 」 さ ん と は た ら く も の こ そ、 「 諸 仏 菩 薩 」 と し て の「 善 知 識」であると親鸞が明かしていることがわかる。   な ぜ「 一 切 梵 行 の 因 」 が「 善 知 識 」 と 言 え る の か。 そ れ は 衆 生 の 一 切 の 行 は「 三 有 を 楽 う 」、 「 諸 有 を 楽 」 む が ゆ (24) 121 親鸞における「真門」の課題

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えに出世間の「為」にならず、その事実を教え、 「生死の大海を度す」ものが「善知識」であると言えるからである。 だからこそ、 「暫出還復没」の衆生に「涅槃道」を開示するのは、 「善知識」の教えしかなく、その教えによって自身 の「 出 没 」 す る 姿 が 見 破 ら れ る こ と が「 生 死 の 大 海 を 度 す 」「 善 知 識 」 の は た ら き だ と 明 か さ れ る の で あ る。 こ こ に 「邪見」を生きる衆生がいかにして「暫出還復没」の事実を超えるのかが確かめられたと言える。   以上見てきた『涅槃経』の引文は、親鸞の「善知識」への恩徳が表現された文脈となっていた。親鸞の善知識への 態度は以下の文に明らかである。 親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほか に別の子細なきなり。  (『定親全』四 ・ 五頁) 『 歎 異 抄 』 に 述 べ ら れ る よ う に、 「 た だ 念 仏 」 と 教 え る「 よ き ひ と 」 と の 出 遇 い の 意 義 は、 「 生 死 海 を 度 」 さ ん と は た らく「第一真実の善知識」 、「諸仏菩薩」として、ただ仰がれるものだったのである。親鸞にとっての「よきひと」法 然の教えは、このように度し難い「生死海を度す」唯一のものとして、その身に感得されたのである。

四、願海転入の事実─「真に仏恩を報ずるに成る」─

  『大経』流通分に説かれる衆生の「難」の課題を受けて、 『涅槃経』の文にて「邪見」 、「善知識」について確かめら れた。邪見を増長し、 「涅槃道を迷失」していく衆生にとって、その事実を教える「善知識」の教化こそ、 「一切梵行 の 因 」 と な る こ と が 明 か さ れ た の で あ る。 こ の 後 に『 涅 槃 経 』 の 引 文 に 続 き、 『 華 厳 経 』 の 文 が 引 か れ る が、 そ こ に 122

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「菩提の因」となる「信心」の実態が明かされる。 『華厳経』の文からの展開に注目し、その確かめを見ていきたい。 『華厳経』に言わく、汝、善知識を念ずるに、我を生める父母の如し。我を養う、乳母の如し。菩提分を増長す、 衆疾を医療するが如し。天の甘露を灑ぐが如し。日の正道を示すが如し。月の浄輪を転ずるが如し。 又言わく、如来大慈悲世間に出現して、普く諸の衆生の為に無上法輪を転じたまう。如来、無数劫に勤苦せしこ とは衆生の為なり。云何ぞ諸の世間、能く大師の恩を報ぜん、と。已上  (『定親全』一 ・ 三〇六~三〇七頁) こ の『 華 厳 経 』「 入 法 界 品 」 の 文 は、 二 つ の 文 か ら な る が、 親 鸞 は「 乃 至 」 な ど 置 か ず 一 文 と し て 引 い て い る た め 一 つ の 内 容 と し て 読 む べ き で あ る。 そ の よ う に 読 む と、 先 に『 涅 槃 経 』 に て 述 べ ら れ た「 諸 の 衆 生 を し て 生 死 海 を 度 す」善知識について、その「善知識を念ずる」ところに「如来大慈悲」の顕現が明かされ、如来が衆生のために「無 数 劫 に 勤 苦 」 し、 「 無 上 法 輪 を 転 じ た ま う 」 こ と が 明 か さ れ る。 そ し て、 そ の 内 容 と し て「 能 く 大 師 の 恩 を 報 ぜ ん 」 と、報恩の念について述べられているのだと読み取れる。   『 涅 槃 経 』 の 引 文 で 述 べ ら れ て き た「 邪 見 」 と そ れ を 教 え る「 善 知 識 」 を 受 け て、 こ こ で は そ の「 善 知 識 」 と は、 「 如 来 大 慈 悲 」 の 出 現 で あ る と 述 べ ら れ る の で あ る。 そ し て、 そ の「 善 知 識 」 の 教 化 を 受 け た 事 実 を も っ て「 菩 提 の 因 」 と な る「 信 心 」 が、 「 恩 を 報 ぜ ん 」 と い う「 報 恩 」 の 事 実 と し て 沸 き 起 こ っ て い る の だ と 読 み 取 れ る。 「 菩 提 の 因 」 と な る 信 心 と は、 「 信 巻 」 に て 明 か さ れ る「 涅 槃 の 真 因 」 と な る 如 来 回 向 の 信 心 を 指 す。 そ れ は 衆 生 を 救 わ ん と す る 如 来 を 本 願 成 就 の 一 心 に よ っ て 証 明 す る、 如 来 と 信 心 が 一 つ で あ る と い う『 大 経 』 の 信 心 の 表 明 で あ る。 こ の 『 華 厳 経 』 の 引 文 に お い て も、 「 善 知 識 を 念 ず る 」 と こ ろ に「 如 来 の 大 慈 悲 」 を 感 得 し、 「 涅 槃 道 を 迷 失 」 し、 仏 道 を 求 め る 因 を 持 た な い 衆 生 を し て、 「 能 く 大 師 の 恩 を 報 ぜ ん 」 と、 「 報 恩 」 の 念 が 述 べ ら れ る。 そ の「 報 恩 」 の 念 と は、 123 親鸞における「真門」の課題

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「四善事」に立つ衆生の邪見に根拠する心とは質を異にするものであり、 『大経』の信心の実態を表すものと了解でき る。   こ の こ と か ら、 こ の『 華 厳 経 』 の 引 文 で は、 「 善 知 識 」、 「 邪 見 」、 「 信 心 」 の 内、 教 化 を 受 け た 事 実 と し て の 他 力 の 「 信 心 」 に つ い て 明 か さ れ て い る と 読 み 取 れ る。 「 善 知 識 」、 「 邪 見 」、 「 信 心 」 が『 涅 槃 経 』『 華 厳 経 』 の 引 文 で 確 か め られ、その全体が『大経』下巻流通分の文に述べられた「難」という課題に応えるものとして明かされたと言えよう。   『華厳経』の文までで、このように「邪見」を見抜く「善知識」との出遇いの意味が、 「如来大慈悲」の「出現」を 感 得 す る「 信 心 」 と し て 明 か さ れ た。 こ の「 信 心 」 の 表 明 は、 「 報 恩 」 の 念 な ど 起 こ り よ う も な い 五 濁 悪 世 の 衆 生 を し て「 仏 恩 報 謝 」 の 念 が 沸 き 起 こ っ た 事 実 と し て 明 か さ れ た の で あ る。 そ の た め、 『 華 厳 経 』 の 文 を 受 け て 以 下、 報 恩についての証文が挙げられていく。 又 云 わ く、 仏 世 甚 だ 値 い 難 し。 人、 信 慧 有 る こ と 難 し。 遇 希 有 の 法 を 聞 く こ と、 此 れ 復 最 も 難 し と す。 自 ら 信 じ 人 を 教 え て 信 ぜ し む る こ と、 難 の 中 に 転 た 更 た 難 し。 大 悲 弘 く 普 く 化 す る は、 真 に 仏 恩 を 報 ず る に 成 る、 と。  (『定親全』一 ・ 三〇七頁) 『 大 経 』、 『 涅 槃 経 』、 『 華 厳 経 』 の 経 典 の 引 文 に 続 い て、 善 導 の 文 が 多 く 引 用 さ れ る が、 そ れ ら の 内 容 は「 仏 の 慈 恩 」 を報ずるということに極まる。この『往生礼讃』の引文は、それらの内容をよく表している。   こ こ で 明 ら か に さ れ る こ と は、 「 真 に 仏 恩 を 報 ず る に 成 る 」 と い う こ と は「 大 悲 弘 く 普 く 化 す る 」 と い う 如 来 大 悲 の 普 化 の 事 実 で あ る と い う こ と で あ る。 こ の 文 に よ っ て「 仏 恩 を 念 報 す る こ と 」 の な い 自 己 を し て、 「 真 に 仏 恩 を 報 ずるに成る」ことを実現する、如来大悲の現動があますところなく表現されるのである。 124

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是を以て、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹 林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、偏に難思往生の心を発しき。  (『定親全』一 ・ 三〇九頁) 「 真 門 釈 」 に お け る 確 か め を く ぐ っ て、 親 鸞 は 以 下 の 表 白 を 結 び と す る。 こ こ に「 方 便 真 門 」 開 設 の 意 趣 が、 「 善 本・ 徳 本 の 真 門 に 回 入 し て、 偏 に 難 思 往 生 の 心 を 発 し き 」 と 述 べ ら れ る。 「 真 門 に 入 れ 」 と「 執 持 名 号 」 を 要 請 す る 釈 尊 の 勧 め に よ っ て「 難 思 往 生 の 心 を 起 」 こ す こ と が 言 い 表 さ れ て い る。 こ れ は 先 に 確 認 し た、 『 阿 弥 陀 経 』 の「 顕 」 の 義の、釈尊の「勧化」を示す表明と読み取れる。 然るに今特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げ んと欲う。果遂の誓い、良に由有る哉。爰に久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。  (『定親全』一 ・ 三〇九頁) そ の 上 で「 選 択 の 願 海 に 転 入 せ り 」 と、 「 願 海 転 入 」 の 事 実 が 確 か め ら れ て い る。 こ れ は「 群 生 海 を 悲 引 」 す る 阿 弥 陀 如 来 の は た ら き( 果 遂 の 誓 い ) を そ の 身 に 受 け た 事 実 の 表 明 で あ り、 『 阿 弥 陀 経 』 の「 隠 彰 の 義 」 に お け る 確 か め であると言える。そして、その「転入」の事実から「深く仏恩を知れり」と「報恩」の念が語られるのである。   こ れ ま で 確 か め て き た よ う に、 「 真 門 」 に 入 る こ と に よ っ て、 「 難 信 」 と い う 事 実 が 照 ら さ れ、 「 仏 智 疑 惑 」 の 身 を 生きる自己をして、 「大師の恩を報ぜん」 「真に仏恩を報ずるに成る」という念が湧き起こったことが明かされていた。 「 難 思 議 往 生 を 遂 げ ん と 欲 う 」 と い う 意 欲 は、 全 く「 不 可 思 議 の 願 海 を 光 闡 し て、 無 碍 の 大 信 心 海 に 帰 せ し め ん と 欲 す」という如来の果遂の意欲への応答であり、それは実際には善知識を念ずるときの「今」として感得される。   こ の 善 知 識 を 念 じ、 「 難 信 」 の 自 覚 が 徹 底 さ れ た 事 実 が、 如 来 大 慈 悲 の 仏 恩 を「 深 く 知 」 る と い う 自 覚 で あ る と 言 える。だからこそ親鸞は、わが身においてはたらく如来の大悲を「果遂の誓い、良に由有る哉」と讃嘆し、願海へ悲 125 親鸞における「真門」の課題

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引して止まない誓願の力用として明かしているのである。

結びにかえて

  これまで確かめてきたように、 「真門釈」で課題となっていたのは、 「仏智疑惑」という衆生の問題と、 『阿弥陀経』 「 真 実 難 信 の 法 」、 『 大 経 』 流 通 分 に 説 か れ る 末 法 濁 世 の 衆 生 の「 難 」 と い う 課 題 で あ っ た。 そ の「 難 信 」 の 問 題 は、 「善知識」 、「邪見」 、「信心」という要素で確かめられ、 「四善事」に立つ衆生は「涅槃道を迷失」し、仏道の因を持た な い と い う こ と が 明 か さ れ て い た。 そ の よ う な「 邪 見 」 の 問 題 は、 「 信 罪 福 心 」 と い う 相 で あ る か ら こ そ 自 身 か ら 自 覚 で き る よ う な 問 題 で は な い。 だ か ら こ そ「 一 切 梵 行 の 因 」 で あ る「 善 知 識 」 が、 「 生 死 海 を 度 」 さ ん と す る は た ら きとして、その身に自覚されるのだと親鸞は確かめるのである。   そ の 善 知 識 を 念 ず る こ と に よ っ て「 如 来 大 慈 悲 」 の 顕 現 を 見 て、 「 仏 恩 を 念 報 す る こ と 」 の な い 衆 生 を し て、 た し か に「 大 師 の 恩 を 報 ぜ ん 」 と い う 念 が 沸 き 起 こ っ た こ と が 述 べ ら れ た。 そ れ は「 真 に 仏 恩 を 報 ず る に 成 る 」 と い う 「 大 悲 の 普 化 」 の 事 実 で あ り、 如 来 回 向 の 信 心 と 軌 を 一 つ に す る「 菩 提 の 因 」 と し て の「 信 心 」 の 表 明 で あ っ た。 こ れらの内容をもって、第二十願「真門」開設の意義が、 「願海」に入ることとして結ばれるのである。   それは、 覚えざるに、真如の門に転入す。娑婆長劫の難を免るることを得ることは、特に知識釈迦の恩を蒙れり。種種の 思量巧方便をもって、選びて弥陀弘誓の門を得しめたまえり。  (『定親全』一 ・ 四八頁) 126

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定散自力の称名は   果遂のちかいに帰してこそ   おしえざれども自然に   真如の門に転入する  (『定親全』二・和讃篇四一頁) と述べられるように、 「自然」に「真如の門」に転入させる、 「真門の誓願」の真面目であり、この「真門」をくぐっ て こ そ、 「 釈 迦 の 恩 を 蒙 れ り 」 と い う 自 覚 は、 五 濁 悪 世 の 中 で 仏 道 を 歩 ま ん と す る「 難 思 議 往 生 を 遂 げ ん と 欲 う 」 と いう意欲となるのである。ここに如来の大悲方便の教化を受け続けなければならない衆生の立場がある。 参考文献 ・三木彰円   「親鸞の『阿弥陀経』観」 『真宗研究』第五七巻   二〇一三年 ・青木玲    「親鸞における「果遂の誓」の意義」 『大谷大学大学院研究紀要』第二四巻   二〇〇七年 ・加来雄之   「『教行信証』における方便真門の位置」 『大谷大学大学院研究紀要』第一巻   一九八四年 注   (『定親全』一 ・ 二六九頁)   (『定親全』一 ・ 二六九頁)   (『定親全』一 ・ 三〇七頁)   同右   (『定親全』一 ・ 三〇九頁)   (『定親全』一 ・ 三〇八頁)   (『定親全』一 ・ 三〇九頁) (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) 127 親鸞における「真門」の課題

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  (『定親全』二・和讃篇・一八九頁)   同右   (『定親全』一 ・ 三〇八頁)   この「至心回向欲生の心」は第十八願成就の「至心信楽」の心と区別され、如来の方便としての心とされる。    至心回向欲生と   十方衆生を方便し   名号の真門ひらきてぞ   不果遂者と願じける( 『定親全』二・和讃篇・四〇~四一頁)   (『定親全』四 ・ 七頁)   (『定親全』一 ・ 二八八頁)   (『定親全』一 ・ 二七六頁)   (『定親全』一 ・ 二七六頁)   (『定親全』一 ・ 九五頁)   三 木 彰 円 は 親 鸞 の こ の 視 座 に つ い て、 元 照『 阿 弥 陀 経 義 疏 』 の 立 場 に 影 響 を 受 け た も の と し て、 『 大 経 』 の「 発 起 序 」 の 文 と関連させながら注目している。    『 阿 弥 陀 経 』 に お い て「 無 問 」 な る 衆 生 に 仏 が「 自 説 」 す る こ と の 意 味 は、 「 無 問 」 す な わ ち 仏 に 問 う と い う こ と そ れ 自 体 が 自 ら に 成 立 し 得 な い 衆 生 に 対 し て、 仏 自 ら が 説 く と い う こ と に あ る。 『 無 量 寿 経 』 に お い て は、 ( 中 略 )「 無 問 」 な る 衆 生に如来出世の本意たる本願を仏自らが説く端緒を阿難が開いたという事実が明らかにされている。  (「親鸞の『阿弥陀経』観」 ・『真宗研究』第五七 ・ 一一一頁)   (『定親全』一 ・ 三〇八頁)   『 三 経 往 生 文 類 』 で は、 「 胎 化 得 失 の 文 」 は、 第 二 十 願 成 就 の 文 と し て 引 か れ て い る。 こ こ で は、 「 難 思 議 往 生 」 に 相 違 す る、 「難思往生」の証文として引かれている。 (『定親全』三和文篇・三五~三七頁)   そ の 時 に 慈 氏 菩 薩、 仏 に 白 し て 言 さ く、 世 尊、 何 の 因・ 何 の 縁 あ っ て か、 か の 国 の 人 民、 胎 生・ 化 生 な る、 と。 (『 真 聖 全 』 一 ・ 四三頁)    『教行信証講義集成』四九一七~四九二〇頁参照 (20) (19)(18) (17)(16)(15)(14)(13)(12) (11)(10)(9)(8) (21) 128

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  (『定親全』一 ・ 三〇五頁)    「信不具足」 「聞不具足」の文については、 「信巻」にも引用されている。 「信不具足」は「信楽釈」に引用され、 「聞不具足」 は「信楽の一念」を釈する際に引用されている。そして、真仏弟子釈へと続く思索のなかで   欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。  (『定親全』一 ・ 一三三頁)  と述べられる。親鸞は本願力回向の真実信心の内容として、どちらも真の仏弟子の具体相として押さえているのである。    (『定親全』一 ・ 三〇六頁)  (樋 ひ 口 ぐち   大 だい 慈 じ   大谷大学大学院文学研究科博士後期課程第三学年   真宗学専攻) (22) (23) (24) 129 親鸞における「真門」の課題

参照

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