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芸術観光学の理論と実践⑮:風景描写論序説 詩と風景に関する第一原理

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芸術観光学の理論と実践⑮

風景描写論序説

詩と風景に関する第一原理

平居 謙

詩は極小の幻である 風景の中にすっぽりと収めないと 誰も気づかずに通り過ぎる

0 はじめに―詩にとっての風景

ここ 2 年近くの間「風景」について考えていた。現在も考えている。風景を詩の中に描くことについ て。また風景が描かれている文章を読むということについて。さらにはそれに関わって実在する地名 について。実在する地名は書かれなければならないのか書かれなくてもよいのか或いは書かれてはい けないのか。 筆者は 2019 年 6 月に第 7 詩集『燃える樹々(JUJU)』*1を刊行した。その挟み込み栞に恩師や友人 たちから貴重な言葉を頂いたのは刊行半年近く前であった。その際ある歴史学者*2によって書かれた 次の言葉が強く心に引っかかった。 歴史家に見える世界。詩人に見える世界。その他○○家、××人に見える世界。詩 人は、過去に住むのではないが、やはり私たちとは異なった世界に住んでいるので あろう。…(中略)…風景をことばで表現しながら、私たちには不可視のものを感 知して、見えるようにするのが詩人の仕事なのだろうと思う。 また彼は次のようにも書いた。 強いことば、印象的なことば、キテレツなことば。巧みな比喩、激しい韻律。こと ばによって、現実を生き生きと呈示してくる、その力。そうして、たくさんの風景 や出来事を詩にうたいあげる詩人の経験、視角、記憶は、ひとつの現実認識のアー カイブなのだと思う。それは、詩人ならざる私たちにとって価値あるものだし、素 人が詩を読む意味もここにあるのだと思う。 栞の言葉というのは一種の「祝辞」に他ならないから、評価そのものは差し引かなければならないだ ろう。しかしこれらの言葉の中に書かれた評価を離れた「詩の原理」への外部からの問いかけが筆者を 捉えた。筆者としてはただ見たままに書いたものが、歴史研究を生業とする評者にとってはまったく 場違いに思われるということ。それだからこそ意義を有するということ。翻って「詩人の視点」という 総体的な独自の視点が存在すると仮定するならば、詩人が描く風景にはどのような特徴或いは意義が 存在するのだろうか。この問いに答えるために本稿は書かれた。なお本稿では作品のそれぞれの具体 18

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-的な表現に沿いながら問いに答えてゆく形式をとるため重要な回答またはそれに関わる発見だと思わ れる箇所は随時太字で示すという特殊な形態をとっている。 本稿ではまず第 1 節で風景描写について考える際に、どのような可能性があるのかを分類して示す。 続いて第 2 節ではそもそもなぜ風景が描かれなければならないかということについて小説にまで例を 広げて確認する。また第 3 節では風景を描く上で重要な「実際の地名をどう扱うか」ということにつ いて同じく小説について例を取って考察する。同様にエッセイについても例を確認する。第 4 節及び 第 5 節においてはここ数年筆者自身が行ってきたささやかな表現実験を例にとりながら詩人にとって の風景は何かということを考察したい。最初、筆者自身のこれまでの全ての詩集の中から「風景」に関 わる作品を洗い出し、その分析を行おうと考えた。実際頭の中でいくつかの作品をリストアップし、あ れやこれやとそれを書いた時のことを思い出そうと試みた。一方で日本近・現代詩人たちの作品の中 で「風景」を描いているものについて調査しようという構想も並行して練った。しかしそれはあまりに も主題が大きすぎて、近代詩を改めて読み直すこととほとんど同義にも近いと気付くと、もうそれで 半年以上も何もしないままに立ち尽くしてしまった。 ちょうどそのような折『文学の認知空間 近代日本文学と東京』*3に触れた。本書に関しては本稿 と並行して執筆中の「風景描写論のために 佐藤義雄と『東海道品川宿』を歩く」*4に詳しく書いた のでここでは繰り返さないが、風景や地名を描くということに関して改めて考えるためのヒントに満 ちている。この本を参照しながら改めて村上春樹『ノルウェイの森』における〈移動〉*5について考察 した。また自身の創作に関して言えば第4・5節で触れるようにかつて書いた「ひとつの風景」という 作品の舞台を歩き直すという実験を行った。それにより新たに「熱風」(後述)という作品を作った。 このようなことをする中でようやく、詩と風景に関して考えるための下準備ができた心持になった。 詩と風景について考えるための題材として結局のところ人口に膾炙した近代詩のいく篇かと筆者自身 の詩を中心とする事にした。

1 風景描写の分類

11--00 風景描写の分類試案 現在まで「風景」に関しては様々に論じられてきているが、ここではまず筆者独自に本稿でいうとこ ろの「風景」を以下のように定義しておく。 「風景」とはある人が屋外に出て目の前に見える全てのも の―空・雲・星・樹木・公園・池・建物・乗り物・人・通り過ぎる動物等々―の総体を差し示している。 自然物・人工物を区別しない。屋内で見えるものも広義においては風景と言うことができるが、ここで は除外して考える。総体というのは、空・池・乗り物などの個々ではなくそれらの諸要素が組み合わさ れて集合体を成すという意味合いである。すなわち、「空」や「樹々」「鳥」などは単体としては「風 景」とは言えない。しかし「空」の下に見える「樹々」の周りで囀っている「鳥」のように組み合わさ れて認識される時「風景」と呼ぶことが可能である。あるいは、歩いている「人」のみにフォーカスさ れるときその表情や服装のありようなども「風景」とは言えない。しかしややカメラを引き「池の周り の散歩道を穏やかな表情で歩く人」という組み合わせ(総体)として眺める時、それは風景と呼ぶこと ができる。「空」や「池」の代わりに「聳える高層ビルディング」「競技場」のような人工物であって も同様に風景と呼ぶことには問題がない。もっとも次項1-1「口語の馬」の短歌のように単体だけに 焦点が当たっていても読者が組み合わせとしての背景を想起する場合はこの限りではない。 しかし、ここで多少厄介なことは、そのような総体(組み合わせ)としての風景は、ある主体によっ

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て「表現」―写真撮影・スケッチ・文章化等―がなされない限り混沌のまま存在し続けるということで ある。表現されるとき初めて風景はそこに出現する。この混沌は名付けるならば「プレ風景」と呼ぶこ とも可能であろう。この「プレ風景」は表現者にとっては「表現題材」「対象」として捉えられる。し かしそれは表現者にとっての問題であり、積極的に表現しようという意思のない人にとっては、たん なる混沌とした「その土地」「場所」に過ぎないのである。考えてみるとこの定義はすなわち本稿の主 題そのものでもある。なお、上に「表現」の例として挙げた「写真撮影・スケッチ・文章化等」も写真 撮影とスケッチ・文章化との間には大きな隔たりがある。写真の場合には偶然に映っていたというこ とがあり得るが、自分自身の筆やペンによって表現する場合に偶然ということはあり得ない。風景は 主体によって意識的に表現された個々の要素の組み合わされた総体であるということができる。 まず詩における風景について考える際に、どのような分類が可能かを整理しておく。 「はじめに」において触れたように、風景を描くということを考える時に実際の地名が描かれている か否かという問題は非常に重要である。実在の地名を詩中に置く事で「借景」が可能になる。逆に敢え て地名を伏せることで仮想された世界に遊びやすくなる。いずれの方法に拠るかは詩のタイプの方向 性を決する上で決定的な選択である。またどの程度風景に関してディテールが描き込まれているかに よって当然、読者への伝わり方は変わってくる。しかし必ずしも詳細に描かれていることが作品とし ての優位性につながるというわけでもない。また創作者として自分の作品を回顧する場合、実際にそ の地に行って書いたかそれとも空想で書いたか(現在であればインターネット上で様々な映像・画像 等の視覚情報に触れながら恰もその地に行ったかのようなリアリティをもった表現を成すことはいと も簡単である)という違いは気になることである。実際に行ったかそうでないかは本人でないと分か らない。唯一作者が作品の中または目につきやすいところで告白している場合にのみ読者はそれを知 ることができる。次の堀口大学の作品はその稀な例である。この詩は分類ではD-b にあたる。 実は僕 知床もまだ知りません 北見も僕まだみていない 網走の高い塀 北大のアカシア並木 アイヌ部落の熊まつり どれもまだ見たことがない 山親父なら煎餅だけ…… (「わびごとうた」部分」) これは作者が依頼に応える形で作ったものだが、冒頭から「その地を知らない」という言い訳のよう な形が繰り返される奇妙な作品である。ユーモアと韻律とに支えられる堀口らしい作品でもあるが、 このような場合は現地を訪れずに書いているということが分かる。しかしこういう作品は非常に稀な ケースだろう。その意味で「実際に行って書いたかどうか」ということは本稿では分類の基準から除外 した。 さてさまざまの要素を考慮して、暫定的に以下のような「風景描写分類表」を作成した。 20

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-て「表現」―写真撮影・スケッチ・文章化等―がなされない限り混沌のまま存在し続けるということで ある。表現されるとき初めて風景はそこに出現する。この混沌は名付けるならば「プレ風景」と呼ぶこ とも可能であろう。この「プレ風景」は表現者にとっては「表現題材」「対象」として捉えられる。し かしそれは表現者にとっての問題であり、積極的に表現しようという意思のない人にとっては、たん なる混沌とした「その土地」「場所」に過ぎないのである。考えてみるとこの定義はすなわち本稿の主 題そのものでもある。なお、上に「表現」の例として挙げた「写真撮影・スケッチ・文章化等」も写真 撮影とスケッチ・文章化との間には大きな隔たりがある。写真の場合には偶然に映っていたというこ とがあり得るが、自分自身の筆やペンによって表現する場合に偶然ということはあり得ない。風景は 主体によって意識的に表現された個々の要素の組み合わされた総体であるということができる。 まず詩における風景について考える際に、どのような分類が可能かを整理しておく。 「はじめに」において触れたように、風景を描くということを考える時に実際の地名が描かれている か否かという問題は非常に重要である。実在の地名を詩中に置く事で「借景」が可能になる。逆に敢え て地名を伏せることで仮想された世界に遊びやすくなる。いずれの方法に拠るかは詩のタイプの方向 性を決する上で決定的な選択である。またどの程度風景に関してディテールが描き込まれているかに よって当然、読者への伝わり方は変わってくる。しかし必ずしも詳細に描かれていることが作品とし ての優位性につながるというわけでもない。また創作者として自分の作品を回顧する場合、実際にそ の地に行って書いたかそれとも空想で書いたか(現在であればインターネット上で様々な映像・画像 等の視覚情報に触れながら恰もその地に行ったかのようなリアリティをもった表現を成すことはいと も簡単である)という違いは気になることである。実際に行ったかそうでないかは本人でないと分か らない。唯一作者が作品の中または目につきやすいところで告白している場合にのみ読者はそれを知 ることができる。次の堀口大学の作品はその稀な例である。この詩は分類ではD-b にあたる。 実は僕 知床もまだ知りません 北見も僕まだみていない 網走の高い塀 北大のアカシア並木 アイヌ部落の熊まつり どれもまだ見たことがない 山親父なら煎餅だけ…… (「わびごとうた」部分」) これは作者が依頼に応える形で作ったものだが、冒頭から「その地を知らない」という言い訳のよう な形が繰り返される奇妙な作品である。ユーモアと韻律とに支えられる堀口らしい作品でもあるが、 このような場合は現地を訪れずに書いているということが分かる。しかしこういう作品は非常に稀な ケースだろう。その意味で「実際に行って書いたかどうか」ということは本稿では分類の基準から除外 した。 さてさまざまの要素を考慮して、暫定的に以下のような「風景描写分類表」を作成した。 暫定 風景描写分類表 地名の有無を基準とした風景描写 A 地名が存在しない a風景描写なし b簡略な風景描写 c 詳細な風景描写 B 架空の地名 a風景描写なし b簡略な風景描写 ⅽ詳細な風景描写 C 朦朧化※された地名 a風景描写なし b簡略な風景描写 ⅽ詳細な風景描写 D 実在の地名 a風景描写なし b簡略な風景描写 ⅽ詳細な風景描写 ※朧化された地名とは例えばイニシャルや原型を捩ったものなどをさす。イニシャルが使われて いても、実在の地名を想起することがほぼ不可能なものは実質的には(1)「架空の地名」に近い と言える。また実際にはないとしても、極めて分かりやすい「もじり」等(例えば京都タワーのこ とを「古都タワー」と呼ぶような、仄めかしに近い呼称)は架空のものであっても実質的いは(3) 「実在の地名」に近いと言うことができる。 11--11 風景描写のない詩は存在するか 前項で上げた暫定分類表は完成されているわけではない。例えば次にあげる萩原朔太郎の 「椅子」*6 という 2 行詩は、具体的な地名も風景描写もないので分類上A-aに分類が可能である。だが風景描写 がなされていなくても風景は追いかけてくる。作者が風景を描いたつもりがなくてもそれは自然に立 ち現れてくる。如何に詩が風景を求めるかを如実に表している。 椅子 椅子の下にねむれるひとは、 おほいなる家をつくれるひとの子供らか 伊藤信吉はこの詩を旧約聖書との関りで読み解く*7が、その様に読まずそのまま日常的に読むこと も可能である。例えば以下のように。〈「おほいなる家をつくれるひと」というのは立派な邸宅ばかり を手掛ける有名な建築家である。しかしその子供らしき兄弟たちは毎夜酔っぱらっては公園の椅子の 下に転がって眠っている。お父さんは立派なのに息子たちは駄目だねえ、と近所の人たちがあざける ような目で彼らのことを眺めている。〉このように考えると、風景描写のない詩というものはあり得な いということがよく分かる。人と人との関係の中には必ず読者はそこに風景を読み取るからである。 それは現代詩が「意味」を遮断しようとしても常に意味に追いつかれ追い越されてきたこととパラレ ルの関係にある。そこで如何にもアフォリズム的で風景描写など存在しなさそうな詩を探してみる。 高橋新吉全集から敢えて風景描写がなさそうなところに目を向けてみる。これも同様に分類としては A-aである。 一 生が唯一のものである。 生とは詩から発生した黴に過ぎないのであつても。(高橋新吉『戯言集』*8 しかしそこからは「死」という巨大な惑星のような塊に張り付いた極めてちいさな個々の生という 黴の像が鮮明に浮き上がってくる。現実の風景ではないものの、顕微鏡で拡大されて見る細菌レベル

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の「風景」を微弱ながらに見て取ることができる。それでは短歌だとどうだろうか。次の歌は、本稿執 筆現在で非常に話題で歌集としては異例の映画化もされた萩原慎一郎歌集『滑走路』*9の中のものであ る。歌壇で生きてゆくための決意を述べたと思われる短歌で一見したところ風景など描かれてはいな い。 達成はまだまだ先だ、これからだ おれは口語の馬となるのだ この作品も見かけ上は分類A-aに属する。この短歌においては「叙景」ではなく「歌論」が主題と して志向されている。そういう歌だけあって風景描写への思いや余裕は感じられない。また短歌 31 文 字という語数の制約もある。しかし最後に「馬」が登場することでそこに急激に風景が持ち込まれる。 インターネット・SNS・ゲーム・気軽にゆけるテーマパークあるいは海外旅行。さまざまな刺激と消 費財に溢れている現在の社会。その中の極めて小さな口語短歌という荒野をしかし一頭の若馬が勇壮 に疾駆する。その馬に引っぱられるように遠い山々の像も突然短歌の世界になだれ込んでくる。熱情 を詠おうとしながら結果的にそこに風景を持ち込ませるのは力量に溢れた詩人である。このように考 える時、風景描写が皆無という項目が厳密な意味で成立する作品があるかに関しては若干の留保が必 要である。 11--22 実在の地名の虚偽性と詩 地名そのものが表記されていなくても内容から明らかにそれと分かる場合もある。一方で実在する 地名が書かれていても、詩の中ではそれは必ずしも本当のその街ではないかもしれない。実在する地 名が現実として有効なのは、名前の謂わば表皮の部分に過ぎない。当然ながら中身まで担保されるわ けではない。「京都」と書かれていても、「京都」という文字づらが一致しているだけであって現実の 京都について書かれているわけではない、といったことが日常茶飯のこととして詩の中では発生する。 地名が描かれていても、完全にそれは中身が現実とは違っている場合もあるかもしれない。例えば 筆者は今、この箇所をある土曜日の午前中に書いている。書きながら「京都タワーの周りが全て海にな ってしまった世界」というイメージが突然やってきた。それを止めることができずに、午後から行われ る予定の詩の創作講座*10のために本稿執筆を中断して以下の作品を作った。結局のところ筆者の思い 違いで講座は次週であったのだが、「風景について考えること」が一篇の詩を新たに生むとすれば後に 5 節で詳述することになる「熱風」は新しい詩作品を生み出す根源詩としての価値がある。 京都タワー日和 よく言うよ 京都に海がないなんて 天橋立 のことじゃなく 21 世紀 22 年目 そいつはあくまで 水浸し京都タワーだ 22

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-の「風景」を微弱ながらに見て取ることができる。それでは短歌だとどうだろうか。次の歌は、本稿執 筆現在で非常に話題で歌集としては異例の映画化もされた萩原慎一郎歌集『滑走路』*9の中のものであ る。歌壇で生きてゆくための決意を述べたと思われる短歌で一見したところ風景など描かれてはいな い。 達成はまだまだ先だ、これからだ おれは口語の馬となるのだ この作品も見かけ上は分類A-aに属する。この短歌においては「叙景」ではなく「歌論」が主題と して志向されている。そういう歌だけあって風景描写への思いや余裕は感じられない。また短歌 31 文 字という語数の制約もある。しかし最後に「馬」が登場することでそこに急激に風景が持ち込まれる。 インターネット・SNS・ゲーム・気軽にゆけるテーマパークあるいは海外旅行。さまざまな刺激と消 費財に溢れている現在の社会。その中の極めて小さな口語短歌という荒野をしかし一頭の若馬が勇壮 に疾駆する。その馬に引っぱられるように遠い山々の像も突然短歌の世界になだれ込んでくる。熱情 を詠おうとしながら結果的にそこに風景を持ち込ませるのは力量に溢れた詩人である。このように考 える時、風景描写が皆無という項目が厳密な意味で成立する作品があるかに関しては若干の留保が必 要である。 11--22 実在の地名の虚偽性と詩 地名そのものが表記されていなくても内容から明らかにそれと分かる場合もある。一方で実在する 地名が書かれていても、詩の中ではそれは必ずしも本当のその街ではないかもしれない。実在する地 名が現実として有効なのは、名前の謂わば表皮の部分に過ぎない。当然ながら中身まで担保されるわ けではない。「京都」と書かれていても、「京都」という文字づらが一致しているだけであって現実の 京都について書かれているわけではない、といったことが日常茶飯のこととして詩の中では発生する。 地名が描かれていても、完全にそれは中身が現実とは違っている場合もあるかもしれない。例えば 筆者は今、この箇所をある土曜日の午前中に書いている。書きながら「京都タワーの周りが全て海にな ってしまった世界」というイメージが突然やってきた。それを止めることができずに、午後から行われ る予定の詩の創作講座*10のために本稿執筆を中断して以下の作品を作った。結局のところ筆者の思い 違いで講座は次週であったのだが、「風景について考えること」が一篇の詩を新たに生むとすれば後に 5 節で詳述することになる「熱風」は新しい詩作品を生み出す根源詩としての価値がある。 京都タワー日和 よく言うよ 京都に海がないなんて 天橋立 のことじゃなく 21 世紀 22 年目 そいつはあくまで 水浸し京都タワーだ 水面から突き出る 清楚な愛人 の 縦ロール クリスタルのように (冒頭部) このようなものはたとえ「京都」という地名が出てきたとしても、明らかに現実の京都ではない。詩 に描かれる風景を現実だと考えることは想像力そのものに対する冒涜である。詩が創作物である以上 完全なタブーである。筆者はここ何年もの間京都に溢れかえる観光客の群れに少なからず困惑しなが ら通勤生活を続けていた。2020 年新型コロナの蔓延により国外・国内からを問わず来訪者が激減。し かし一旦緊急事態宣言が解除されるや再び混雑が起こりまた第 2 波第 3 波の報道ごとに密集具合が増 減する。まさに打っては返す波のように時代に翻弄されゆらゆらと定まることのない京都或いは日本 の未来イメージを幻視・形象化したとでも言えば散文脈に収まるのだろうか。しかし後付けの解釈以 上に重要なことは唐突に、しかし的確な場所に情報は漂着するという紛れもない事実である。 11--33 架空性の中の逆説 ほかにも、分類の項目としては別の項目に分けてはいるが、地名をイニシャルで書くことで朧化し ているもの。あるいはそのように見せかけてはいるが実はストレートにその地名の風景を書いている もの。ありもしない街の名を捏造している詩。それぞれの線引きは必ずしも明確ではない。架空の街の 名前が出てきている詩でも、そこに本物の街が隠れている場合もあり得る。たとえば 2019 年 12 月に亡 くなった「詩の雑誌 ミッドナイト・プレス」の編集長だった岡田幸文*11の『そして君と歩いていく』 *12には「旅」というタイトルの短い詩が収められている。分類表で言えばB-a である。 神南へ 神南へ ただひたすらに 神南へと 抑えきれない 妄執が不二の樹海をさまよう 生きているのか死んでいるのか…… そのあとを訪ねる旅に病んでも 神南へ 蹌踉とする いまは流儀を問うまい これもまた宿命かと 神南へと (註) 神南―架空の土地の名。

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神南には冒頭の一行と註の部分に「かむなみ」というルビが振られている。漢字の「神南」と検索す ると東京都の渋谷駅周辺の地名が現れる。またひらがなの「かむなみ」で検索すると静岡や兵庫の地名 が現れる。静岡のものは「函南」でありとりあえず除外するとして、兵庫のものは阪神尼崎駅からほど 近い「神南」とほぼ一致する。ただし読み方は尼崎のものは「かんなみ」ではある。通称「かんなみ街」 は尼崎市神田南通りにあることから神南と略称される。カウンターだけしかない小さな飲み屋が軒を 連ねているように見えるがそれらは全て売春専用の小部屋であり、飲み屋は単なる隠れ蓑に過ぎない。 「ただひたすらに」「妄執」「抑えきれない」などの言葉から、欲望にかられた男が悪所を彷徨うかの ようなイメージをこの詩の中に見出すことも可能である。しかしあくまで註により架空の土地だと断 定される。岡田は東京で暮らしていたが、プロフィルを見ると京都生まれとある。同じ関西ではあって も京都からは遠い尼崎のかんなみ街について彼が知悉していたかどうかを判断する材料を、現在の段 階では筆者は持ってはいない。 さて本節では地名を基準として風景描写の分類を試行した。次節第 2 節では「なぜ風景が書かれな ければならないのか」について整理する。

2 なぜ風景は書かれるのか

まず最初に、そもそもなぜ風景は書かれなければならないか、について書こう。結論から言えば詩に おいて風景が描かれなければならないという理由は明確過ぎるほどに明確に存在している。それは小 説やエッセイにおいて風景が描かれる理由と決定的に違っている。小説やエッセイにおいて風景が描 かれるのは、風景が詳しく書かれていればいるほど、読者はまさにその場に居合わせているような感 覚を持ちやすいという効果が期待できるからである。書き手から言えば読者を作品世界に誘うことが やり易いわけである。例えば村上春樹『ノルウェイの森』を読み進めると、最初に怪訝に思うのはなぜ 第 2 章においてかくも執拗に主人公「僕」が住むことになる学生寮の記述がなされなければならない かということである。 その寮は都内の見晴らしの良い高台にあった。敷地は広く、まわりを高いコンクリートの壁に 囲まれていた。門をくぐると正面には巨大なけやきの木がそびえ立っている。樹齢はすくなくと も百五十年ということだった。根もとにたって上を見あげるとそらはその緑の葉にすっぽりと覆 い隠されてしまう。 上記のような建物(寮)の様子だけでも文庫本にして1頁全部を費やすほどである。また寮のしきた りや部屋内部の記述まで「風景」とやや拡大解釈するとすれば 10 頁近い分量が精緻に描かれることに なる。また、第6章で直子を訪ねる為に京都の阿美寮へ向かうシーンでは「僕」は三条駅からバスに乗 っている。バスは山道をぐるぐると回りながら登ってゆくが、その記述も3頁に渡る。これもまた非常 に印象深いシーンである。詳しく書かれていると、あまりにも長いので最初は我慢しながら読むこと になる。しかしいつの間にかまるで自分の周りが男子寮の一室であったり、坂道を上るバスの中であ ったりするように感じられるのである。風景描写は、ストーリー展開そのものには関わらない場合が ほとんどである。しかし寄り道にこそ物語を味わう上での大きな楽しみがある。この点において旅と とてもよく似ている。もっとも、その描写能力が不十分であったり逆に読者の習熟度合いが低くて読 解が不能であったりする場合、作品への没入の妨げになることも多い。現在のライトノベルの読者で 24

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-神南には冒頭の一行と註の部分に「かむなみ」というルビが振られている。漢字の「神南」と検索す ると東京都の渋谷駅周辺の地名が現れる。またひらがなの「かむなみ」で検索すると静岡や兵庫の地名 が現れる。静岡のものは「函南」でありとりあえず除外するとして、兵庫のものは阪神尼崎駅からほど 近い「神南」とほぼ一致する。ただし読み方は尼崎のものは「かんなみ」ではある。通称「かんなみ街」 は尼崎市神田南通りにあることから神南と略称される。カウンターだけしかない小さな飲み屋が軒を 連ねているように見えるがそれらは全て売春専用の小部屋であり、飲み屋は単なる隠れ蓑に過ぎない。 「ただひたすらに」「妄執」「抑えきれない」などの言葉から、欲望にかられた男が悪所を彷徨うかの ようなイメージをこの詩の中に見出すことも可能である。しかしあくまで註により架空の土地だと断 定される。岡田は東京で暮らしていたが、プロフィルを見ると京都生まれとある。同じ関西ではあって も京都からは遠い尼崎のかんなみ街について彼が知悉していたかどうかを判断する材料を、現在の段 階では筆者は持ってはいない。 さて本節では地名を基準として風景描写の分類を試行した。次節第 2 節では「なぜ風景が書かれな ければならないのか」について整理する。

2 なぜ風景は書かれるのか

まず最初に、そもそもなぜ風景は書かれなければならないか、について書こう。結論から言えば詩に おいて風景が描かれなければならないという理由は明確過ぎるほどに明確に存在している。それは小 説やエッセイにおいて風景が描かれる理由と決定的に違っている。小説やエッセイにおいて風景が描 かれるのは、風景が詳しく書かれていればいるほど、読者はまさにその場に居合わせているような感 覚を持ちやすいという効果が期待できるからである。書き手から言えば読者を作品世界に誘うことが やり易いわけである。例えば村上春樹『ノルウェイの森』を読み進めると、最初に怪訝に思うのはなぜ 第 2 章においてかくも執拗に主人公「僕」が住むことになる学生寮の記述がなされなければならない かということである。 その寮は都内の見晴らしの良い高台にあった。敷地は広く、まわりを高いコンクリートの壁に 囲まれていた。門をくぐると正面には巨大なけやきの木がそびえ立っている。樹齢はすくなくと も百五十年ということだった。根もとにたって上を見あげるとそらはその緑の葉にすっぽりと覆 い隠されてしまう。 上記のような建物(寮)の様子だけでも文庫本にして1頁全部を費やすほどである。また寮のしきた りや部屋内部の記述まで「風景」とやや拡大解釈するとすれば 10 頁近い分量が精緻に描かれることに なる。また、第6章で直子を訪ねる為に京都の阿美寮へ向かうシーンでは「僕」は三条駅からバスに乗 っている。バスは山道をぐるぐると回りながら登ってゆくが、その記述も3頁に渡る。これもまた非常 に印象深いシーンである。詳しく書かれていると、あまりにも長いので最初は我慢しながら読むこと になる。しかしいつの間にかまるで自分の周りが男子寮の一室であったり、坂道を上るバスの中であ ったりするように感じられるのである。風景描写は、ストーリー展開そのものには関わらない場合が ほとんどである。しかし寄り道にこそ物語を味わう上での大きな楽しみがある。この点において旅と とてもよく似ている。もっとも、その描写能力が不十分であったり逆に読者の習熟度合いが低くて読 解が不能であったりする場合、作品への没入の妨げになることも多い。現在のライトノベルの読者で あれば、多くは「風景描写が長すぎる」と感じる可能性もある。 それでは詩において風景が描かれなければならない理由は何か。それについて書く前に、風景描写 において地名が表記されるということについて考えてみよう。

3 地名が表記されるということ

風景が描かれる時、実在する地名が作品の中に現れてくることは、小説やエッセイにおいても珍し くない。むしろそれらのジャンルのほうにより顕著な特徴であろう。例えば先にも挙げた『ノルウェイ の森』であれば京都という実在の街の名が直子が療養する阿美寮の所在地として意味を持ってくる。 また、岩本素白『東海道品川宿』の場合、実在の地名が登場するという以上に作品全てが〈その地名に 関する記述〉そのものでありさえする。インターネットによる「観光スポット検索」や「ウィキペディ ア」レベルではひた隠しにされることも多いが、本書を読み進めてゆくと品川がいわゆる「悪所」であ ったことにすぐに気付く。何の予備知識のない読者にもすぐに分かる。そしてそれに伴い、非業の最後 を遂げた娼婦たちの死体を放り投げる「投げ込み寺」のことや、日常的に裏街道の女性たちが使う言葉 が飛び交っている様子を、その地で子供時代を送った著者・岩本素白の静かな語り口を通して知るこ とになる。品川という地名を作品の中に登場させる場合、品川の歴史を知っている人にとっては大き なヒントとなる場合もある。実際の地名を作品内にあげることは、作者が意識的に行えば有効な「借 景」とし得る。また借景というレベルにとどまらずその地で起こった事件によって失われた命あるい はその地そのものへの鎮魂という意識で著者が描く場合も少なくないだろう。 しかし実在する地名を描くことに問題がないわけではない。その土地の背景を知らずに作者が実際 の地名を挙げ、読者の方がむしろその地に関する悲惨な過去を知っていたとする。その場合、作者の意 図に反するような解釈が生まれることもあるだろう。逆に読者が土地の歴史を知っていることを前提 として書かれた場合、もしも読者が無知であればあるほど作者の企図が空振りに終わる確率も高まっ てゆく。筆者は東日本大震災後に、「波」という言葉を使った詩を合評の場に提出したことがあった。 それをある人が「福島の津波」に結び付けて読んだ。作者としては全くそのような思いはなかったのだ が。にもかかわらずその評者は執拗に「津波の波のイメージ」に拘って読むのだった。筆者はその「図 式的決めつけ」に辟易した。しかし考えてみればそのように読まれることを拒むこともできないわけ である。実在の地名を使うのも想起するのも作者読者双方にとってもろ刃の剣である。既に述べたよ うに、実在の地名に導かれた文章が必ずしもその街のことについて書かれているとは限らないのであ る。 また筆者には安易に実在の地名を詩作品の中で使ってはいけないのではないかという漠然とした畏 れが存在する。それは、知らない街或いは他人の街を気軽に訪れてもよいのかという「観光」という行 動そのものに対する疑念にも似ている。このことに関しては本稿5-3を参照されたい。 詩において具体的な風景が描かれねばならない理由は以下の通りである。詩は現実とは相反する幻 である。しかしそれは小さな幻であるためそれだけが浮遊していても目に入ることがない。ちょうど 蛍が昼の野を飛んでも目立たないこととそれは似ている。漆黒の渓谷の背景を飛べばこそ蛍の輝きは 見る人の眼を驚かすのである。また、借景は詩には不似合いである。詩自体が一つの輝く物語であるた め、実在の地名を挙げ現実の世界の背景にある物語=歴史が引きずり出されると、お互いに殺し合う 結果になってしまうからだ。実在の地名を詩に書き込もうとする際には物語創生への愛欲を満たすた めに、必然的に詩は長い行をもって描かれることになる。

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4 作品「ひとつの風景」

ここでは先に「実験」と称したもののひとつとして、本稿冒頭でも触れた「一つの風景」*13を引用 し、いくつかの自註を加えたい。この作品は地名が表記されないが詳細な風景描写があるA-ⅽタイプ である。 ひとつの風景 僕が今歩いているのは古びた団地が立ち並んでいる場所 750cc の バイクがゆっくりと通り抜けてゆく なぜこんなにもみすぼらしい 団地群の中から ピカピカに光った 750CCな な は んが現れるのか よくわからない 生きることと同じ匂いがする ショベルカーが腐ったような色になりながら まだやるべき仕事がひとつかふたつだけは残されているんだ と言った趣で 佇んでいる 直線距離にしてステーションセンターまで 20分あまり このひなびた町の わけのわからない色の中で 僕は今息絶えようとしている そして息絶えるだろう僕の中から 今度は新しい磁場が生まれようとする 不思議な名前の寺が見える おおよそ直感でしかないが おそらく他人のために作られたものではない怨念の形がはっきりと見えている 何百年も経ったのにも関わらず形も崩れずにはっきりと見えるのだ (冒頭 4 連) この作品は、2018 年 7 月の末に書かれた。これがなぜ実験かと言えば、スマートフォンの音声認識 アプリを用いて、実際に街を歩きながらそこで目に留まったものについて語ってゆくという方法によ って成したものだからである。実験というにはまことにささやかではあるが、詩を作るうえで筆者に とっては大いなる変換点であった。それまで多くの詩は、ノートに書きつけるかパソコンに打ち付け るかスマートフォンに打つかのいずれかだったが、ここにきて「語る」という方法を導入した。それを 適宜修正し何度かの推敲作業を経て完成形に至るという形で制作した。ノートに記す方法であれば、 ノートを持ち歩きながら詩を書きつけるという一種曲芸のようなことをせねばならない。実際 1987 年 3 月、千葉県浦安市街を 1 冊のノートを持って筆者は彷徨した。歩きながらノートに一篇の長い詩を書 26

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-4 作品「ひとつの風景」

ここでは先に「実験」と称したもののひとつとして、本稿冒頭でも触れた「一つの風景」*13を引用 し、いくつかの自註を加えたい。この作品は地名が表記されないが詳細な風景描写があるA-ⅽタイプ である。 ひとつの風景 僕が今歩いているのは古びた団地が立ち並んでいる場所 750cc の バイクがゆっくりと通り抜けてゆく なぜこんなにもみすぼらしい 団地群の中から ピカピカに光った 750CCな な は んが現れるのか よくわからない 生きることと同じ匂いがする ショベルカーが腐ったような色になりながら まだやるべき仕事がひとつかふたつだけは残されているんだ と言った趣で 佇んでいる 直線距離にしてステーションセンターまで 20分あまり このひなびた町の わけのわからない色の中で 僕は今息絶えようとしている そして息絶えるだろう僕の中から 今度は新しい磁場が生まれようとする 不思議な名前の寺が見える おおよそ直感でしかないが おそらく他人のために作られたものではない怨念の形がはっきりと見えている 何百年も経ったのにも関わらず形も崩れずにはっきりと見えるのだ (冒頭 4 連) この作品は、2018 年 7 月の末に書かれた。これがなぜ実験かと言えば、スマートフォンの音声認識 アプリを用いて、実際に街を歩きながらそこで目に留まったものについて語ってゆくという方法によ って成したものだからである。実験というにはまことにささやかではあるが、詩を作るうえで筆者に とっては大いなる変換点であった。それまで多くの詩は、ノートに書きつけるかパソコンに打ち付け るかスマートフォンに打つかのいずれかだったが、ここにきて「語る」という方法を導入した。それを 適宜修正し何度かの推敲作業を経て完成形に至るという形で制作した。ノートに記す方法であれば、 ノートを持ち歩きながら詩を書きつけるという一種曲芸のようなことをせねばならない。実際 1987 年 3 月、千葉県浦安市街を 1 冊のノートを持って筆者は彷徨した。歩きながらノートに一篇の長い詩を書 きつけ、20 年以上経た後にそれを発表している*14。この「ひとつの風景」はその方法をアレンジした 形で、つまりはノートをスマートフォンに替えて行われた。 遠い以前に行った制作方法を改めて意識したのは、2013 年ころに京都伏見の酒蔵見学のフィールド ワークに学生たちと一緒に出掛けた時のことであった。TV番組の収録隊らしき一団が向こうからや ってくるのが見えた。声色や顔が分かる距離になると、タレントの高田純次が「あの花綺麗に咲いてい ますねえ」「ここは板塀がまだ残ってるんだねえ」「雨雲はどっかに行っちゃったねえ」などと矢継ぎ 早に目に留まった多くの景物に言葉を添えているのだと分かった。TVクルーはそれを全て収録し面 白いものだけ編集段階で残すのだろう。若い学生たちにとって高田は関心の対象外と見えて、それほ ど多くの学生たちがそのシーンを凝視しているわけではなかった。筆者はちょうど月桂冠大倉記念館 の入場に並んでいたところだった。それで一団の動きをずっと観察していた。そして一団と筆者は記 念館の入り口あたりですれ違った。彼は「あ、赤い傘持ってるねえ」「セーターと同じ色じゃないです か」と筆者に対して言葉を投げた。しかし、筆者が何か言おうとしたときには既に彼の関心と目線は別 の建物の方に移っていたのだった。自分にもすべての言葉を録音・録画してくれるTVクルーがつい て回ってくれれば、街を歩くことで詩が何百篇もできそうだなと筆者はその時のことを思い出す度に 考えていた。その時のTVクルーに相当するものがスマートフォンの音声認識機能であるという訳だ。 さて、その様な方法によって作られたこの詩の中には具体的な地名は一切現れてこない。「不思議な 名前の寺が見える」と言っておきながら寺の名前を書かないのも今にして思えば奇妙な気がするが、 偶然ではない。現実との関りを一定程度遮断するというのが詩に限らず創作における基本理念である。 特に筆者は可能な限り遮断を極めようと考えることが多い。従って理論的には可能な「借景」というも のも筆者の理論においては現実的に不可能なもの、あらかじめ予定されたタブーとしてそこにある。 もしも具体的な地名や町名を示すとすれば、自分とその地とのニュートラルな関係にひびが入る。こ のように考えることもある。結局のところ筆者にとって問題であるのは実在の地名の使用ということ であって、風景を描写すること自体には何の問題も感じるわけではない。例えば上記の引用暫く先に、 話者は別の団地群の前に差し掛かるが、その前に置かれている植物に関してはある分量を記述してい る。 団地群の間を抜けて しばらく 小さな住宅が続いていたがまた団地が現れている アロエや変に飾った気味の悪い植物たちが 一戸建ての家の前に置かれていた が、そんな気味の悪い草々と比べると 団地の植え込みにある樹々は何とシンプルで馬鹿馬鹿しいのだろうか 何の自己主張もすることができない かといって どちらがいいのか僕にはさっぱり見当もつかない 丁寧に物事の様子を描くことで結果的には小説と同様、読者をその作品世界に招き入れることが可 能になる。しかし、詩の書き手としては具体的な効果を念頭において書くわけでは決してない。むしろ

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自分自身がその場を通過することを記念してなされるという思いの方が強い。否、記念というのは表 面に過ぎる。自身がそこを通過するとき、スパークが生じるような場所やアイテムの発見を常に求め ながら通過するという謂い方が筆者が道を歩きながら風景を叙することの意味を最も近く言い表して いる。さらに言えば、その風景を滑走路として、存在しない風景へと飛翔を試みることが真の目的であ る。たとえば同作品の中に「ビルヂングの 上の方で女の人が叫びながら 今しも 鉄柵を乗り越えよう としているのが見えた」というシーンを筆者は描いているが、実際のところはそんな劇的場面に出く わしたわけではなかった。鴉の黒い翳がビルの間から見えたのかもしれない。あるいはそれさえもな かったのかもしれない。しかしビルから飛び降りようという女性を幻視させるような刺激的な風景を 筆者が希求しているということ自体は間違いがない。 この詩は「世界の法則には あまり画一性がないのだ。/ビルの谷間から 飛行機が落ちていくのが 見える」というフレーズで閉じている。

5 「ひとつの風景」の舞台をもう一度歩き「熱風」を成す

55--00 前書き 佐藤義雄は『文学の認知空間 近代日本文学と東京』の中で、多くの小説やエッセイの舞台を実際に 歩きその実感の上でもう一度作品を読み深めるという行動を繰り返し行っている。おそらくその執念 に触発されたのだろう。それを読みながら「自身の作品をもう一度歩き直してみるとどうなるのか」と いう問いがふつふつと湧いてきたのだった。そしてささやかな実験を行ったのである。結論から言う と、同じ風景を歩き直しもう一つの風景を描くという試みそのものによって「詩にとっての風景とは 何か」さらには「詩とは何か」ということへの 1 つの明確な回答がなされたという実感がある。もちろ ん筆者という極めて限られたフィルターを通してでしかない。しかし元来詩とは一個人の目線を通し て把握された世界の在り方を現わしたものである。それだからこそたとえ一人の作品に関して考察し たものであったとしても間違いなく「詩論」に他ならないということができるのだ。本稿では引き続き 筆者自身の「詩論」を語ることになる。作品「ひとつの風景」を歩き直して制作したのも「熱風―微弱 な愛の風景のために」*15と題して「東京荒野 23 号」に発表された*16(本稿では以下本作品のことを 単に「熱風」と称する)。この「熱風」には、タイトルの直後本文に入る前の「前書き」に相当する以 下の文章を置いている。傍線及び数字は説明のために便宜的に付したものである。 ある一冊の本が僕に街を歩かせる。歩くことによって作品を読み深める方法そのものを「歩く」 恩師・佐藤義雄によってあらわされた『文学の認知空間』が僕を煽る。①かつて書き留めた風景を もう一度辿るとどうなるか。歩き直し、書き直し。それを試みて灼熱の街を歩いた。もう一度街 を、作品を歩くとは一体……②街を再び歩くことで風景はどのような変化を持って僕の前に現れ てくるのか。③一つの風景を歩く時に流れている音階は、すべて偶発的の和音であって別の時機 にはとらえようがない。また仮にそれを聞くことのできる耳があったとしても、すでにその耳の 形態自体が時間の中でかつての耳とは違っていて同じ曲を僕自身の脳に伝える術はない 下線部①に関しては、この詩の主題が方法論そのものであることを示している。戦後詩の中には「詩 を書くこと」自体が主題になっている作品が多い。詩人にとってそれは重要な主題ではあるが、自己言 及あるいは楽屋裏の雑話でもあるといえる。そのため筆者はそれを禁じ手としている。しかしその禁 28

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-自分自身がその場を通過することを記念してなされるという思いの方が強い。否、記念というのは表 面に過ぎる。自身がそこを通過するとき、スパークが生じるような場所やアイテムの発見を常に求め ながら通過するという謂い方が筆者が道を歩きながら風景を叙することの意味を最も近く言い表して いる。さらに言えば、その風景を滑走路として、存在しない風景へと飛翔を試みることが真の目的であ る。たとえば同作品の中に「ビルヂングの 上の方で女の人が叫びながら 今しも 鉄柵を乗り越えよう としているのが見えた」というシーンを筆者は描いているが、実際のところはそんな劇的場面に出く わしたわけではなかった。鴉の黒い翳がビルの間から見えたのかもしれない。あるいはそれさえもな かったのかもしれない。しかしビルから飛び降りようという女性を幻視させるような刺激的な風景を 筆者が希求しているということ自体は間違いがない。 この詩は「世界の法則には あまり画一性がないのだ。/ビルの谷間から 飛行機が落ちていくのが 見える」というフレーズで閉じている。

5 「ひとつの風景」の舞台をもう一度歩き「熱風」を成す

55--00 前書き 佐藤義雄は『文学の認知空間 近代日本文学と東京』の中で、多くの小説やエッセイの舞台を実際に 歩きその実感の上でもう一度作品を読み深めるという行動を繰り返し行っている。おそらくその執念 に触発されたのだろう。それを読みながら「自身の作品をもう一度歩き直してみるとどうなるのか」と いう問いがふつふつと湧いてきたのだった。そしてささやかな実験を行ったのである。結論から言う と、同じ風景を歩き直しもう一つの風景を描くという試みそのものによって「詩にとっての風景とは 何か」さらには「詩とは何か」ということへの 1 つの明確な回答がなされたという実感がある。もちろ ん筆者という極めて限られたフィルターを通してでしかない。しかし元来詩とは一個人の目線を通し て把握された世界の在り方を現わしたものである。それだからこそたとえ一人の作品に関して考察し たものであったとしても間違いなく「詩論」に他ならないということができるのだ。本稿では引き続き 筆者自身の「詩論」を語ることになる。作品「ひとつの風景」を歩き直して制作したのも「熱風―微弱 な愛の風景のために」*15と題して「東京荒野 23 号」に発表された*16(本稿では以下本作品のことを 単に「熱風」と称する)。この「熱風」には、タイトルの直後本文に入る前の「前書き」に相当する以 下の文章を置いている。傍線及び数字は説明のために便宜的に付したものである。 ある一冊の本が僕に街を歩かせる。歩くことによって作品を読み深める方法そのものを「歩く」 恩師・佐藤義雄によってあらわされた『文学の認知空間』が僕を煽る。①かつて書き留めた風景を もう一度辿るとどうなるか。歩き直し、書き直し。それを試みて灼熱の街を歩いた。もう一度街 を、作品を歩くとは一体……②街を再び歩くことで風景はどのような変化を持って僕の前に現れ てくるのか。③一つの風景を歩く時に流れている音階は、すべて偶発的の和音であって別の時機 にはとらえようがない。また仮にそれを聞くことのできる耳があったとしても、すでにその耳の 形態自体が時間の中でかつての耳とは違っていて同じ曲を僕自身の脳に伝える術はない 下線部①に関しては、この詩の主題が方法論そのものであることを示している。戦後詩の中には「詩 を書くこと」自体が主題になっている作品が多い。詩人にとってそれは重要な主題ではあるが、自己言 及あるいは楽屋裏の雑話でもあるといえる。そのため筆者はそれを禁じ手としている。しかしその禁 じ手が作品本文ではないにせよ普段は書かないタイプの作品としてここに出現していることが興味深 い。②では方法論というよりも「歩き直す」ことによって出現する風景そのものへの関心を見て取るこ とができる。③が「序」としてはすでに結論的な断言口調であるのには理由がある。というのもこれは はじめ詩の本文として作品後半に置かれていた詩句だったからだ。しかし上記のように詩論詩を禁じ 手としている筆者にとって「書くことそのもの」に関する主題が作品中に露出することは忍びないと 感じたのだろう、それで前書きの部分に移行させた。なおこの詩は分類ではD-c に相当する。しかし 詩中に出てくる舞台そのものの実名は伏せられたままになっているのである。 55--11 第 11 節 もう一度風景を歩き直す時、同じ風景がどのように描き出されるかということ自体が問の原質であ る。しかしそれは筆者にとっての詩の根本的な在り方と大きく食い違うものを内包しているため、そ こでは予め成立しない要素が確実に存在する。詩は自己模倣を徹底的に拒絶し新しい世界を創出する ための秘法である。少なくとも 「また今同じことをしている」という意識の中では詩の成立は不可能で ある。そのため、たとえ同じ舞台を歩くにしても、無意識的に前作「ひとつの風景」では触れられてい ないアイテムに必然目を向けることになる。例えば少し先で触れるこの詩の第 4 連の中に「ヤマザキ パン」の看板を掲げた店舗が出てくるが、再訪した時点では「前にこの店について書いたのだっただろ うか、おそらく書かなかった」と確認するかのような気持ちを持ちながら叙していったことを覚えて いる。つまり筆者は、前作と重ならないように細心の注意を払いながら、なおかつ重なる場合にはそれ を意識的に確認しながら筆を進めたのだった(実際にはスマートフォンに対して話しかけたのだった)。 それは第 1 連冒頭から「その年と同じように」と、2 年前に作った「ひとつの風景」との重複に対して ナーバスになっている様子からも見て取ることができる。具体的には 1 行目の波線部分。第 1 節を引用 する。 1 湧き上がる入道雲はその年と同じように空に聳え まっすぐ先を見るとパトカーの赤いランプらしきものが 遠くでくるくると回っている (第 1 節 1 連) 三角コーンのくすんだ赤や黄色が現れると そんなものまでがやはりこの道にはいや、 この街にはふさわしく思われてくる (第 1 節2連) パーマ屋兼金物屋の看板の前に置かれた サイケデリックな色の自転車には もじゃもじゃした毛の老犬がくくられていて 風に怯えている さらにその横には人の顔ほどの赤や白の花が 咲き誇っては左右に小さく震えている (第 1 節3連) 今ではもう役割が終わってしまったような

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色褪せたヤマザキパンのあるいは豆腐屋の 懐かしく古めかしい建物たちが 軒を連ねている (第 1 節4連) 私以外歩いている人は一人もいない 近頃は新型コロナの蔓延で どこに行くのもマスクが必要だけれども この道を歩く時には要らないのだろう ここを歩いて十数分、 ほとんど誰ともすれ違ってはいない (第 1 節5連) 爽やかな風が引き取っていく世界観は こんなにも綺麗でつるつるとしている (第 1 節6連) どこにでもある百均ドリンクの 黄色い自動販売機が見える 目の前を新幹線が通って行く 行く先にはどんな町が待っているのか まるで私は新幹線に乗ったことのない人間であるかのように それに乗ることを希う (第 1 節7連) もし前作が例えば 10 年も前に書かれた作品であり、或いはもう一度歩き直すために丹念に「ひとつ の風景」を読み直すという行為なしに再度その街を訪れていたとすれば状況は違ったかもしれない。 が、現実には前作はまだ 2 年前に作られたもので、しかも充分に読み直した上で筆者は実験へと赴い たのであった。それには理由がある。「もう一度同じ風景を描きなおすために」訪れたと今書いた。そ れは結果的に間違いではないのだが、最初そこを再訪したときには(最初、というのは第 3 節 6 連に あるように 2 度行ったのだが)実はもう一つ別の狙いも存在していた。描く事は著者のフィルターに よって世界を切り取ることである。それを確認するために、「自分がかつて『ひとつの風景』の中で描 いたらしい場所を写真に撮り、実は目線がゆき渡ってはいなかったアイテムを探す」ことがまず最初 の興味であった。そして写真に収めた上で、前作を書く際にあぶれたものを確認し、その上で新しい風 景を描くのが最終的な目的であった。例えば前作「ひとつの風景」第7~8連は以下のようなものであ る。 団地群の間を抜けて しばらく 小さな住宅が続いていたがまた団地が現れている アロエや変に飾った気味の悪い植物たちが 一戸建ての家の前に置かれていた が、そんな気味の悪い草々と比べると 30

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-色褪せたヤマザキパンのあるいは豆腐屋の 懐かしく古めかしい建物たちが 軒を連ねている (第 1 節4連) 私以外歩いている人は一人もいない 近頃は新型コロナの蔓延で どこに行くのもマスクが必要だけれども この道を歩く時には要らないのだろう ここを歩いて十数分、 ほとんど誰ともすれ違ってはいない (第 1 節5連) 爽やかな風が引き取っていく世界観は こんなにも綺麗でつるつるとしている (第 1 節6連) どこにでもある百均ドリンクの 黄色い自動販売機が見える 目の前を新幹線が通って行く 行く先にはどんな町が待っているのか まるで私は新幹線に乗ったことのない人間であるかのように それに乗ることを希う (第 1 節7連) もし前作が例えば 10 年も前に書かれた作品であり、或いはもう一度歩き直すために丹念に「ひとつ の風景」を読み直すという行為なしに再度その街を訪れていたとすれば状況は違ったかもしれない。 が、現実には前作はまだ 2 年前に作られたもので、しかも充分に読み直した上で筆者は実験へと赴い たのであった。それには理由がある。「もう一度同じ風景を描きなおすために」訪れたと今書いた。そ れは結果的に間違いではないのだが、最初そこを再訪したときには(最初、というのは第 3 節 6 連に あるように 2 度行ったのだが)実はもう一つ別の狙いも存在していた。描く事は著者のフィルターに よって世界を切り取ることである。それを確認するために、「自分がかつて『ひとつの風景』の中で描 いたらしい場所を写真に撮り、実は目線がゆき渡ってはいなかったアイテムを探す」ことがまず最初 の興味であった。そして写真に収めた上で、前作を書く際にあぶれたものを確認し、その上で新しい風 景を描くのが最終的な目的であった。例えば前作「ひとつの風景」第7~8連は以下のようなものであ る。 団地群の間を抜けて しばらく 小さな住宅が続いていたがまた団地が現れている アロエや変に飾った気味の悪い植物たちが 一戸建ての家の前に置かれていた が、そんな気味の悪い草々と比べると 団地の植え込みにある樹々は何とシンプルで馬鹿馬鹿しいのだろうか 何の自己主張もすることができない かといって どちらがいいのか僕にはさっぱり見当もつかない ここでは「団地の植え込みにある樹々」にばかり筆者は言及している。写真①は 2 年のタイムラグ があり季節も約 1 か月ずれているので全く同じ様子ではないが、大体このような具合であったのだろ う。しかし再訪した折、ふと眼を横にやるとその団地敷地内の雑草のうねる空き地の中に青いブラン コ(写真②)を容易に見出すことができた。またその横には黄色くペイントされたジャングルジム(写 真③)もある。少し覗き込まないと見えないとはいえ、前作制作時、団地の前の植え込みのことを書い ていた際にも、視線のどこかに入っていたのかもしれない。しかしその時は全く 1 行もそれらに触れる ことはなかった。筆者には、ブランコやジャングルジムよりも植物の生えている様子の方が興味を引 いたためだろう。 写真① 団地の植え込み 写真② 団地敷地内のブランコ 写真③ 同じくジャングルジム ためしに新作「熱風」に団地前の植物のことがどのように描かれているか確認すると、それは書かれ てはいない。おそらくは、前の作品にこの団地のことを書いたという印象が強く残っていてそのため 先述のように自己模倣を避けて違う景物を探そうとしたのだ。団地群の代わりに「パーマ屋兼金物屋」 という得体の知れない古めかしい店舗のことが提示される。実際の写真を見てみると、犬もサイケデ リックな自転車も映ってはいない。しかし「風に怯える犬」というイメージは極めて確かなものでこの 詩を書いた時にもそれは同様であった。訝しく思ってフォトストックを確認すると、この詩を書いた 前日全く別の場所で見かけた犬のイメージが「パーマ屋兼金物屋」を見た時に唐突にフラッシュバッ クしたものだということが確認できた(写真⑦)。筆者が前日に見たものは、ある診療所の前に繋がれ た外来患者の飼い犬であった。確かに彼は診察中の主人を待ちながらどこか怯える表情でこちらを眺 めていた。詩にとって風景は印象に残った過去の記憶を唐突に引き出す役割を果たす重要なフックで ある。

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写真④ 怯える犬の原型 写真⑤ 古びたパン屋の跡 写真⑥ 廃業した豆腐店 写真⑦ 空地に咲き誇る大輪 写真⑧ 名古屋城の記憶 「パーマ屋兼金物屋」「色褪せたヤマザキパン」「豆腐屋」は前作「ひとつの風景」における団地群 の補完としてそこにピックアップされたものである。同じ街を歩く時それが与える印象そのものはそ れほど変わらない場合も多い。筆者も 2 年後に再訪したわけだが、どこかうらびれた場所であるとい う印象は何も変わらなかった。しかし筆者は再訪の時点では「爽やかな風が引き取っていく世界観は /こんなにも綺麗でつるつるとしている」と書いている。この点は大きく異なっている。そして決定的 なことは、「新幹線」という言葉が詩の中に現れていることだ(第 1 節 7 連)。具体的な地名は出して いないが、これは大きなインデックスになる可能性がある。また新幹線誘致に関わる数々のドラマを 想起させる糸口になる。これが佐藤義雄『文学の認知空間』によって触発された「具体的地名」を作品 に入れ込むということへの、本作品における最大接近遭遇の成果の 1 つに他ならない。 55--22 第 22 節 しかし「今まさにいるその場所」の地名を明かす形ではなく、新幹線という語から発想された幼時の 回想として続く第 2 節は展開してゆく。これは今筆者自身が振り返ってみても奇妙な堰き止めのよう に感じられる。まっすぐにその場所について掘り下げて語る方向に筆者の詩は志向していない。折れ 曲がった記憶の細道へと詩は辿られてゆく。その土地そのものから目を逸らせるかのように追想は働 いている。 2 初めて新幹線に乗った時のざわめき 京都駅とか名古屋駅という奇妙な名辞 名古屋城 そして名古屋城の近くの公園には大雪が降り 大雪が降っているニモカカワラズ 父親と母親は 交互に私と一緒の写真を撮り合っては楽しんだのだ 32

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