二〇一三年度
春季公開講演会
﹁決断と行動﹂講演録
テーマ﹁決断と行動﹂
大谷学会は大谷大学の学術研究の推進とその成果の公開とを目的としており、その目的を達成するために公開講演 会を開催しています。 私たちは、人間として、どのように決断し行動しているのでしょうか、またするべきなのでしょうか。人間は他者 を 含 む 現 実 ︵ 解 釈 さ れ た 現 実 で あ る が ︶ の 中 に 生 き て い ま す。 そ の 現 実 に 対 す る 自 己 の ふ る ま い 方 が 決 断 ︵ 思 業 ︶ で あ り、 行 動 ︵ 思 己 業 ︶ で す。 人 間 の 行 動 は、 本 能 に 制 約 さ れ た 他 の 生 物 の 行 動 と は 異 な っ て、 決 断 に も と づ い て い ま す。 決断と行動、そこに他者との関係において自己の意味を見出す人間独自の存在様式があり、また人間としての喜びや 悲しみという感情、善悪 ︵道徳︶ や罪福 ︵宗教︶ が成り立ちます。 今年度の春季公開講演会は﹁決断と行動﹂というテーマのもと、お二人の講師から講演をいただきます。21
ドラマを始める
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ヘーゲルの観たハムレット
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大谷大学教授門
脇
健
は
じ
め
に
ご 紹 介 に あ ず か り ま し た 門 脇 と 申 し ま す。 宗 教 哲 学・ 宗 教 学 を や っ て お り ま し て、 ヘ ー ゲ ル が 専 門 と い う こ と で、 本日はそちらのほうの話をいたします。先ほど副学長のほうから﹁タイムリーな﹂というようなことをおっしゃって いただきましたけれども、それほど現代的な話にならないのではないかと懸念しております。 私自身は現代にはいろいろと興味があるのですけれども、現代的な話をするということになるとすぐ歌謡曲の話と かになってしまいます。以前、この講堂での﹁御命日講話﹂で、歌謡曲の分析をやったら怒って出ていってしまった 人 が お ら れ て、 た い へ ん 申 し わ け な く 思 っ て お り ま す。 今 一 番 関 心 が あ る の は、 あ の 朝 ド ラ﹃ あ ま ち ゃ ん ﹄。 そ こ で ﹃ ゴ ー ス ト・ バ ス タ ー ズ ﹄ と い う 映 画 の 曲 が 使 わ れ て、 こ れ が い っ た い 何 な の だ ろ う と 興 味 を 持 っ て 考 え て い る 問 題 です。 ﹁ ゴ ー ス ト・ バ ス タ ー ズ ﹂ と は 言 わ ば﹁ 悪 魔 払 い ﹂ の こ と で す。 心 の 底 に 抑 圧 し て い る も の を ど う や っ て 解 き 放 つか、そういうテーマを宮藤官九郎さんの台本というのは非常に丁寧に扱っているような気がして、興味深く観ていま す。あの方の台本に描かれる登場人物は、常にみんな心に傷を負っているのですね。思い出したくない過去を持って い て そ の 過 去 を ど う い う ふ う に 解 き 放 っ て い く か、 そ う い う こ と が 丁 寧 に 書 き こ ま れ た 台 本 で、 私 は 毎 日 欠 か さ ず、 京都に居るときにはテレビがないのですけれども、週末に福井の実家に帰って録画してもらったのを観ております。 今日は、ある意味ではその﹁ゴースト・バスターズ﹂のお話になるのかなと思っております。どうやって我々の中 に押し込められている﹁ゴースト﹂を開放していくのか。ですが、それがヘーゲルではどのようになるのかという問 題で、話は一挙に二〇〇年前にさかのぼっていってしまいます。話がいろいろなところにいってしまうのではないか と危惧しておりまして、レジュメを出しておきました。それをご覧になりながら聴いていただくとありがたいです。
一
ヘーゲルをめぐる二、
三の問題
ヘ ー ゲ ル ︵ 一 七 七 〇 ~ 一 八 三 一 ︶ 、 生 ま れ た 年 は ベ ー ト ー ヴ ェ ン と 同 じ で す。 ベ ー ト ー ヴ ェ ン の 方 が 四 年 ほ ど 早 く 死 んでおります。この人たちは、ナポレオンに非常に大きな衝撃を受けている世代であります。ベートーヴェンの第三 交響曲﹃英雄﹄というのが最初ナポレオンに捧げられて、しかし彼が皇帝になったというのでダーッと消した跡が今 でもある。あるいはイエナを歩く、イエナというのはヘーゲルが住んでいた街ですけれども、そこを歩くナポレオン を見たヘーゲルが﹁ここに世界精神が歩いている﹂と述べたとよく入門書などでは書かれています。ただし、正確に は﹁世界魂﹂ですね。ガイスト ︵ Geist ︶ ではなくてゼーレ ︵ Seele ︶ が歩いていると日記に書いています。 ヘーゲルという人は、それまでの西洋の哲学を一つに大きくまとめたといわれるような人で、ある意味では現代の 哲 学 に お い て は 非 常 に 評 判 が 悪 い。 ﹁ 近 代 ﹂ を 批 判 し よ う と す る﹁ 現 代 哲 学 ﹂ か ら 見 る と、 ヘ ー ゲ ル は﹁ 近 代 の 体 現23 (門脇) 者﹂ということで批判の的になっているのです。ベートーヴェンの方は、演奏家は今でも最終的にはベートーヴェン の曲を演奏したいというふうになっているのですが、ヘーゲルの方は、たとえばラッセルなんていう哲学者は﹁あれ は嘘ばっかりだ﹂というふうに非難するようなことになっておりますし、ポストモダンといわれる人たちにとっては ﹁ ヘ ー ゲ ル 的 ﹂ と い う 言 葉 は、 だ め な 哲 学 の 代 名 詞 に な っ て い ま す。 話 が 大 き す ぎ る と い う の で す。 ヘ ー ゲ ル は 良 く も悪くも、非常に大風呂敷を広げた最後の哲学者、世界全体を考えるというような非常に大きなことを考えた最後の 哲学者と言っていいのかもしれません。 さて、私が今日お話するのは、そのヘーゲルの非常に小さな文章についてのお話です。 ヘ ー ゲ ル の 主 著 は 四 つ あ り ま す。 ﹃ 精 神 現 象 学 ﹄、 そ れ か ら﹃ 法 哲 学 ﹄、 ﹃ 大 論 理 学 ﹄、 そ し て﹃ エ ン チ ク ロ ペ デ ィ ー﹄ 。 あ と 膨 大 な 講 義 録 が あ り ま す が、 そ れ は 弟 子 た ち が ま と め た も の で す。 そ ん な に 多 く の 本 を 書 い て い る わ けではありません。その最初の大きな著書といわれるのが一八〇六~七年にかけて、ちょうどイエナにナポレオンが 攻 め 込 ん で き た 頃 に 書 か れ た﹃ 精 神 現 象 学 ﹄ と い う 本 で あ り ま す。 そ の 本 は い ろ い ろ な こ と が 書 か れ て あ る の で す が、 ﹁意識がどんどん成長していく﹂というコンセプトで書かれた、いわゆる教養小説の哲学版です。 その最後の方に﹁Ⅶ.宗教﹂という章があります。そこで﹁自然的な宗教﹂ 、それから﹁ギリシアの宗教﹂ 、そして ﹁ キ リ ス ト 教 ﹂ と い う 宗 教 の 三 つ の 段 階 が 論 じ ら れ て い ま す。 そ の﹁ ギ リ シ ア 宗 教 ﹂ の と こ ろ で、 ギ リ シ ア 悲 劇 の 主 人 公 た ち、 オ レ ス テ ス や オ イ デ ィ プ ス と い う 人 た ち が 一 直 線 に 行 動 し て い っ て、 行 動 し て い っ た あ と で 自 分 た ち が やったことが一方では正しかったけれども、一方では人々を不幸にしてしまった、そのような事実に気づくという話 がなされています。そのときどういうわけか突然、シェイクスピアの﹃マクベス﹄が論じられます。そして次の文章 がポコッと入っているのです。なんでギリシアの悲劇を分析しているときに、こんなものが入って来るのか。
だ か ら こ そ、 魔 女 を 信 じ た 後 者︵ マ ク ベ ス ︶ よ り も 純 粋 で、 運 命 の 女 神 や ア ポ ロ ン を 信 頼 し た 前 者︵ ギ リ シ ャ 悲 劇 の 主 人 公 た ち ︶ よ り も 思 慮 深 く 根 本 的 な 意 識︵ ハ ム レ ッ ト ︶ は、 父 親 の 亡 霊︵ Geist ︶ が 彼 自 身 の 暗 殺 に つ い て 告 げ た啓示に対して復讐をためらい、別の証明を試みるのである
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この啓示する亡霊は悪魔かもしれないという理 由から。 これは身も蓋もない言い方をすれば、どうみてもハムレットが一番偉いという文章です。ハムレットが一番優れて いるという文章なのです。ところがここ以外ではハムレットのことは、その﹃精神現象学﹄には表立っては書いてい ないのです。ハムレットの名前は、別の箇所で﹁ヨリックの頭蓋骨を持つハムレットのように﹂という説明的例示と して、一回出てくるだけです。したがって、ここで次のような問題点が出てきます。 ﹁ こ こ で 突 然 論 じ ら れ る ハ ム レ ッ ト と、 ヘ ー ゲ ル 研 究 で ヘ ー ゲ ル が 高 く 評 価 し て い た と さ れ る ア ン テ ィ ゴ ネ ー と の 関係はどのように考えるべきか。 ﹂ ﹃ ア ン テ ィ ゴ ネ ー﹄ と い う ギ リ シ ア 悲 劇 が あ り ま す。 こ れ を ヘ ー ゲ ル は 終 生 非 常 に 高 く 評 価 し て い た。 こ れ は も う ヘーゲル研究での定説になっています。アンティゴネーというのはオイディプスの娘さん、ということはオイディプ スというのはお母さんと結婚した人ですから、オイディプスの娘にして妹というややこしい人物です。この人が国家 への反逆者である兄さんの亡骸を埋葬することに一直線に進んでいくという劇で、ヘーゲルはこのアンティゴネーを 高く評価した。そのアンティゴネーなどのギリシア悲劇の主人公よりもハムレットが優れた意識であるというふうに 突然論じられる。これはいったいどういうことなのだろうという問題が出てきます。 また、次のような問題も出てきます。25 (門脇) ﹁﹃精神 ︵ Geist ︶ 現象学﹄の Geist とハムレットの父親の亡霊 ︵ Geist ︶ はどのような関係なのか。 ﹂ 精 神 も 亡 霊 も、 両 方 と も も と の ド イ ツ 語 は﹁ Geist ﹂ ︵ ガ イ ス ト ︶ な の で す。 一 方 は、 ﹁ 精 神 ﹂ と 訳 さ れ て い て、 哲 学 的 な 何 と な く 立 派 な 言 葉 の よ う に 聞 こ え ま す。 一 方 の ガ イ ス ト は、 ﹁ 亡 霊 ﹂ と い う 訳 が つ い て し ま い ま す。 ひ ど く 具 体的で物語的です。ところがヘーゲルは、何の説明もなしにこのガイストというドイツ語を使っています。日本語の 訳のほうは、文脈から﹁これは︿精神﹀だ、これは︿亡霊﹀だ﹂というふうに勝手に訳しているのですが、ヘーゲル の頭の中では両方とも﹁ガイスト﹂というドイツ語なのです。いったいこれはどういうことなのか。ヘーゲルの頭の 中では、精神も亡霊も同じなのか、という問題です。 それからもう一つ、これは今日のテーマなのですけれども、先の文章から次のような問題が出てきます。 ﹁ハムレットは、ためらい、別の証明を試みるが、結局どのようにして復讐という行動 ︵ドラマ︶ を開始したのか。 ﹂ 人間は、どのような確信を得て行動に移るのかという問題です。 こ こ の と こ ろ で 、 あ の ﹁ 父 親 の 亡 霊 ﹂ は 悪 魔 か も し れ な い と い う 問 い 方 が な さ れ て い ま す 。 な ぜ 、 悪 魔 な の で し ょ う 。 同 じ 時 代 の ゲ ー テ は、 こ の 行 動 に 移 る 以 前 の ハ ム レ ッ ト に つ い て﹁ 悩 め る ハ ム レ ッ ト ﹂ と い う 像 を つ く り ま し た。 ﹃ヴィルヘルム・マイスターの修業時代﹄という作品でハムレットを論じて、 ﹁美しい鉢に、それを壊わすような大木 が 植 え ら れ て し ま っ た ﹂、 と 述 べ て い ま す。 こ の 劇 は、 美 し い 鉢 に 父 親 の 復 讐 を す る と い う と ん で も な い 大 き な 木 が 植えられてしまって鉢が壊れてしまうという悲劇なのだというわけです。このようにして、ゲーテは、ハムレットは 復讐などという行動にふさわしくない﹁悩める青年である﹂という像をつくります。これがイギリスに逆輸入されま して、イギリスのほうでも﹁ハムレットというのは悩める青年の典型である﹂という形で定着します。日本でも新劇
などでそのようなイメージが伝えられてきました。 たまたま私の観た最初の商業演劇というのが﹃ハムレット﹄で、そのときのハムレットは山本圭さんでした。前髪 を深くたらした、いかにも﹁悩めるハムレット﹂でした。その舞台は何もないピーター・ブルック的な空間でしたけ れども、それでもやっぱりハムレットは﹁悩めるハムレット﹂という印象が強かった。しかし二十世紀に入ってイギ リスのほうでは、だんだん﹁行動するハムレット﹂というほうが強くなってきています。ローレンス・オリヴィエの 映画あたりからハムレットというのは、最後の決闘の場面ではバルコニーから飛び降りるというように非常に行動的 な人間として描写されるようになっています。アクション俳優メル・ギブソンの﹃ハムレット﹄などという映画もあ ります。 ですが、ゲーテの頃、十九世紀から二十世紀初頭までは﹁悩めるハムレット﹂というのが定番でありました。その よ う な﹁ 悩 め る ハ ム レ ッ ト ﹂ に 対 し て、 ゲ ー テ は、 ﹁ は じ め に 行 動 あ り き ﹂ と 語 ら れ る﹃ フ ァ ウ ス ト ﹄ に お い て、 行 動 す る と き メ フ ィ ス ト フ ェ レ ス つ ま り 悪 魔 に 誘 惑 さ れ る と い う イ メ ー ジ を 語 り ま す。 ﹁ 行 動 ﹂ と い う と き に、 悪 魔 と いう、人を破滅に導く存在を問題にするのです。 先ほどご紹介いただいたときに、私は真宗の僧侶であるというふうにご紹介いただいておりますが、そういうこと も少しは話さないといかんということなのだろうと思います。たとえば﹃歎異抄﹄で、親鸞は、法然上人から﹁親鸞 におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし﹂というお言葉をいただいて、それを﹁信ずるほかに別 の 子 細 な き な り ﹂、 た と え 法 然 上 人 に 騙 さ れ て 地 獄 に 落 ち た と し て も 後 悔 し な い と い う 言 い 方 を し て い ま す。 こ れ を 西 洋 風 に 言 え ば、 ﹁ 悪 魔 に 騙 さ れ た と し て も 後 悔 し な い ﹂ と い う 言 い 方 に な る と こ ろ で す。 行 動 に 出 る と い う と き に は、その行動を促すものが本当の神なのか悪魔なのか、それはどうでもよくなるというような文脈というのがあるの
27 (門脇) ではないか。いや悪魔だってかまわない、という文脈があるのではないか。 あるブルースのミュージシャンなんかですと、十字路で悪魔と取引をして、そしてそのブルースのギターの腕前を 手に入れたと、そんな伝説もあったりもします。ですから﹁行動する﹂というときには、これは自分が全く正しくて 傷つかないという確信を持って行動するということはあり得ないということだと思います。 人間には、悪魔に魂を売り渡しても、やるべきことをやるという場面があるのだと思います。 し か し、 ハ ム レ ッ ト は 今 の と こ ろ 悩 ん で い ま す ね。 父 親 の 亡 霊 か ら、 ﹁ お 前 の 叔 父、 今、 王 様 に な っ て い る ク ロ ー ディアスは、私を殺し、そして私の妻にしてお前の母を娶ったのだ。復讐せよ﹂と命令されて、それが本当なのかど うか、これは悪魔の言葉ではないのか、と迷っています。そのハムレットのセリフをもとにしているのが、先に見た ヘーゲルのハムレットに関する文章です。 この文章は、ヘーゲル研究では全く注目されない箇所になっています。というのは、ヘーゲルの﹃ハムレット﹄解 釈がゲーテとあまりにも違いすぎるからです。 ﹁行動するために疑う﹂ということをヘーゲルは言います。 ﹁行動する ハムレット﹂ということを考えている。ですから長らくというか、今でもなんですが、ヘーゲル研究の中でヘーゲル の﹃ハムレット﹄理解というのは誤っているんだとか、シェイクスピアを分かっていないとか、そのぐらいで片づけ られている、というのがヘーゲル研究の現状です。しかし本当にそうかなあという感じが私はずうっとしておりまし て、実はこれ三十年ほど前に引っかかった文章なのですけれども、ずうっとあれじゃこれじゃと考えています。ここ でお話するので、昨日いろいろと考えていたのですけれども、これはもうほとんど私がこの問題を選んだのではない ですね。この文章が私を選んできたとしか考えようがない。あちらからも名指しされて﹁お前がこの文章を読め﹂と いうふうに言われた、そんな感じがいたします。
そういう文章をどうやって読み解くか。前半でお話するのは、ヘーゲルにとってこの文章というのは非常に大切な 文章ですよ、ということです。そして、後半はそれを一応頭に入れていろいろ問題を考えていくと、別の問題が出て きますよ、というお話をしていきます。
二
謎のモグラ
それで最初は、 ﹁謎のモグラ﹂というお話です。 最近、ヘーゲルのアカデミー版全集というのがドイツの一流のヘーゲル研究者たちによって編纂されて完成が近づ いています。とにかくヘーゲルが自分で書いたものに関して、著作はもちろんメモにいたるまで全部が読めるように なってきました。その第一八巻に﹁世界史講義﹂の草稿があります。まずは講義の草稿があって、最後のほうがメモ になっているものです。その﹁α﹂から始まるメモの﹁γ﹂ ︵二一二頁︶ のところに次のような語句が並んでいます。 諸民族の関係の仕方―
ひと続きのものが世界に現れる―
sous terre, Maulwurf
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⋮⋮ 注 は つ け ら れ て い ま せ ん。 ﹁ sous terre ﹂ と い う の は﹁ 地 下 ﹂ で す ね。 な ぜ フ ラ ン ス 語 に な っ て い る の か、 私 は 今 で も 分 か り ま せ ん。 そ れ か ら﹁ Maulwurf ﹂ ︵ モ グ ラ ︶ と い う の が 出 て き ま す。 ﹁ モ グ ラ ﹂ と い う の は、 ド イ ツ 語 の 辞 書 を 引くと﹁スパイ﹂というような意味がありますので、ヘーゲルは秘密工作員だったのかと、そちらのほうで最初考え たのですけれども、そんな面白すぎる話はさすがにどこにもありませんでした。 それでいろいろ調べていきますと、もう一箇所﹁哲学史講義﹂という活字になっている講義録に﹁モグラ﹂が出て29 (門脇) きます。ヘーゲルが直に書いたものではなくて、ヘーゲルの死後、生徒たち学生たちのノートが集められ編集されて 出版されたものです。そこに﹁モグラ﹂が出てくる文章があります。 ガイストたちの長い連なりは、それぞれが脈打って生命が与えられています。これらのガイストたちが我々の実 体を有機的に構成するのです。内部のモグラが掘り進むとき、我々はその前進に耳を澄まし現実性を与えねばな りません。 ︵ ズールカンプ版全集第二〇巻・四六二頁︶ ﹁ 哲 学 史 講 義 ﹂ の 最 後 の 最 後 な の で す け れ ど も、 哲 学 史 を 総 括 す る と き に こ う い う 文 章 が 出 て き ま す。 意 味 は 把 握 し に く い で す け れ ど も、 ﹁ モ グ ラ ﹂ と い う の は 相 当 大 事 な、 歴 史 を 内 部 か ら 動 か し て い る と い う よ う な イ メ ー ジ で 語 られているのが分かります。もちろんここにも注はついておりません。おそらく現在、活字になっている講義録やメ モで、この﹁モグラ﹂が出てくるのは、この二箇所だけだと思います。 こ れ が ど う い う﹁ モ グ ラ ﹂ か と 言 い ま す と、 実 は も う 一 箇 所、 モ グ ラ が 出 て く る ヘ ー ゲ ル の 文 章 が あ っ た の で す。 一八三七年、エドゥワルト・ガンス編集﹃歴史哲学講義﹄という本の中に﹁モグラ﹂が出ているのです。 一八三七年、ヘーゲルが死んで六年後、ガンスという弟子がいろいろな人のノートを編集して﹃歴史哲学講義﹄と い う も の を 出 版 い た し ま し た。 ﹃ ヘ ー ゲ ル 全 集 ﹄ の 一 環 と し て 編 集・ 刊 行 さ れ た の で し た。 実 は、 こ の エ ド ゥ ワ ル ト・ガンスという人物は、 ﹃法哲学﹄の編集をやっている問題の人です。 ﹃法哲学﹄というのはヘーゲルが講義用に書 い た 教 科 書 な の で す が、 ガ ン ス は そ れ に 補 遺、 追 加 と い う の を 人 々 の い ろ い ろ な ノ ー ト か ら 引 っ 張 り 出 し て 入 れ た り、あるいは本文の中に語句を補ったりということをしています。そういうことでヘーゲルの真意をきちんと反映し
ている﹃法哲学﹄になっていないのではないかと問題視されています。またこの人は、急進的な共和主義者でありま し た。 そ れ で プ ロ イ セ ン の 皇 太 子 か ら﹁ ヘ ー ゲ ル さ ん、 あ ん た の 弟 子 の ガ ン ス が 共 和 的 な 思 想 の 講 義 を や っ て お る。 ポ ー ラ ン ド 革 命 ︵ シ ョ パ ン の エ チ ュ ー ド に﹃ 革 命 ﹄ と い う の が あ り ま す ね、 あ の 革 命 で す ︶ を も 非 常 に 称 揚 し て お る か ら、 ヘーゲルさん、あなたがちゃんとした穏健な講義をやってくださいよ﹂ということがあって、ヘーゲルが最後の最後 にもう一回﹁歴史哲学講義﹂をやらねばならなくなった、その原因をつくった人なんです。 また、ガンスというのは、ユダヤ人でありました。ヘーゲルはユダヤ人ガンスを弟子にしていました。 一八一二年に﹁ユダヤ人解放令﹂というのがプロイセンで出ています。それによってユダヤ人は市民として認めら れたのですね。ところが一八二二年にそれは取り消しになってしまう。いわゆるウィーン体制の反動化の中で取り消 しになってしまう。ガンスは、ハイネと一緒にユダヤ人協会みたいなものをつくって、ユダヤ人の公民化ということ で頑張っていたのですけれども、その運動が挫折して、ハイネもガンスもプロテスタントに改宗します。そしてガン スはベルリン大学の准教授になっている。ハイネのほうはそれに失敗してフランスへ行って、終生ガンスに対して非 常に屈折した思いを述べています。 そ の ガ ン ス が 最 初 に 編 集 し た 講 義 に 、 こ の ﹁ モ グ ラ ﹂ と い う の が 出 て き ま す 。﹃ 歴 史 哲 学 講 義 ﹄ の 序 論 の と こ ろ で す 。 こ の ガ イ ス ト︵ 精 神 ︶ は、 公 然 と 現 れ な い こ と が 多 い。 フ ラ ン ス 人 が 言 う よ う に 地 下 で 動 き 回 る。 ハ ム レ ッ ト は あちこちから彼に呼びかける父親のガイストに呼びかける。 ﹁勇敢なモグラ殿!﹂ 。何故なら、ガイストはしばし ばモグラのように地下を掘り進み、彼の仕事を完成するから。
31 (門脇) ここでハムレットが﹁勇敢なモグラ殿!﹂と呼びかける、ということで、この﹁モグラ﹂がどのような素性を持っ たモグラなのかがはっきりと示されています。これは﹃ハムレット﹄の第一幕第五場でのハムレットのセリフです。 ハムレットが父親の亡霊から復讐を命ぜられる。そこへホレイショーたちがやってくる。そうすると﹁今ここでの 出来事は誰にも言うな﹂とハムレットがホレイショーに言う。そうすると地下から亡霊の﹁誓え﹂という声が響いて くるというシーンです。その﹁誓え﹂という命令は、地下のあちこちから聞こえる。そのときに、ハムレットは呆然 と立ちすくむホレイショーを尻目に地下の亡霊に﹁勇敢なモグラ殿!﹂と呼びかけるというそのセリフをヘーゲルは 講義のときに引用したのです。 つ い で な が ら、 そ の 後 に 有 名 な ハ ム レ ッ ト の セ リ フ が あ り ま す。 ﹁ こ の 天 と 地 の 間 に は な、 ホ レ イ シ ョ ー、 哲 学 な ど夢にも思わないことがあるのだ﹂という有名なセリフです。皆さんは、そんなに有名なのですかという顔をされて います。古い話ですから平成の現在ではご存じないのが普通かもしれません。明治三十六年に華厳の滝から飛び込ん だ 藤 村 操 が、 ﹁ ホ レ ー シ ョ の 哲 學 竟 に 何 等 の オ ー ソ リ チ ィ ー を 價 す る も の ぞ ﹂ と 滝 壺 の 木 の と こ ろ に 刻 ん だ。 こ の ﹁ ホ レ イ シ ョ ー の 哲 学 ﹂ と は、 ハ ム レ ッ ト の セ リ フ か ら 取 ら れ た も の で す ︵ そ の 訳 は your を 誤 っ て 訳 し て い る と い う オ チ も あ り ま す が ︶ 。 ハ ム レ ッ ト が ホ レ イ シ ョ ー に 対 し て、 哲 学 な ど で は 夢 に も 思 わ な い こ と が あ る の だ、 ガ イ ス ト の﹁ モ グ ラ ﹂ が 地 下 か ら 呼 び か け る と い う 哲 学 に は 理 解 で き な い こ と だ っ て あ り 得 る の だ、 と 言 っ て い る シ ー ン で あ り ま す。しかし、哲学でも不可解なことがあると絶望して、藤村操は華厳の滝へ飛び込んでしまった。要するに﹁分から ない﹂ 、﹁人生不可解﹂という形で飛び込んでしまったという有名な自殺です。 さらに、この場面のすぐ後に﹁時代の関節が外れてしまった。これを治すために生まれてきたとは、なんという因 果であろう﹂というハムレットの嘆きの声があって、これをゲーテは﹁美しい花しか植えられない小さな鉢に大木が
植えられてしまった﹂と見なして﹁悩めるハムレットの悲劇﹂であるとした場面です。この﹃ハムレット﹄第一幕第 五場というのは、それほど印象的な場面のようです。 ところで、このセリフが引用されたヘーゲルの﹃歴史哲学講義﹄のこの箇所は、一八四〇年、一八三九年にガンス が 死 ん だ 翌 年、 ヘ ー ゲ ル の 息 子 の カ ー ル・ ヘ ー ゲ ル が 再 編 集 し た と き に 消 さ れ て し ま い ま す。 カ ー ル・ ヘ ー ゲ ル は、 その当時は二十七歳の若僧であります。最後の歴史哲学講義がなされていた頃は二十歳前でした。そんな若僧なので すが、お父さんの講義録を編集するときに前のものを平気で消してしまうのですね。なんで消したのかはよく分かり ません。現在、出版されているヘーゲルの全集、岩波書店からで出ている、あるいはドイツのズールカンプから出て いる﹃ヘーゲル全集﹄というのはこの第二版を基本にしておりますので、先のハムレットのセリフの箇所は読むこと はできません。それこそ地下に潜ったままであります。私はある人の本の注で﹁第一版にこういう箇所がある﹂とい うことを知りまして、もう二十五年も前のことで、今となってはどうやって手に入れたか覚えていないのですが、ド イ ツ の 図 書 館 へ 手 紙 を 出 し た の か、 ど こ か の 仲 介 業 者 を 頼 ん だ の か、 ド イ ツ の あ る 大 学 の 図 書 館 か ら﹃ 歴 史 哲 学 講 義﹄のガンスが編集した第一版のコピーを送ってもらって、この箇所を確認することができました。とにかくヘーゲ ルにとって﹃ハムレット﹄に登場する父親の亡霊つまりガイスト、ヘーゲルがことさら﹁モグラ﹂と呼ぶのを楽しん でいる﹁ガイスト﹂が世界史を動かしている、という歴史哲学者ヘーゲルにとってたいへん重要なイメージが語られ ている、ということが明らかだと思います。 またこのモグラは同時代の人たちにも非常に大きな影響、衝撃を与えていたイメージでもあったようです。 カール・マルクスの著作に、一八五二年に刊行された﹃ルイ・ボナパルトのブリュメールの十八日﹄という有名な パンフレットがあります。冒頭に﹁ヘーゲルは、歴史は繰り返すと言った。ただ、二度目は喜劇として、と言うのを
33 (門脇) 忘 れ た ﹂ と 述 べ ら れ る 著 作 で す。 そ こ に こ の﹁ モ グ ラ ﹂ が 出 て ま い り ま す。 ル イ・ ボ ナ パ ル ト、 つ ま り ナ ポ レ オ ン・ ボ ナ パ ル ト の 甥 で す が、 そ の 革 命 が 成 就 し た と き に、 ﹁ よ く ぞ 掘 り 返 し た、 老 い た モ グ ラ よ!﹂ と い う 言 葉 が 出 て き ます。その表現の前に、 ﹁煉獄﹂ 、ハムレットの父親の亡霊が閉じ込められているとされた﹁煉獄﹂という言葉も出て きますから、この﹁モグラ﹂も明らかに﹃ハムレット﹄の﹁モグラ﹂であります。それでマルクスがどこでこの﹁モ グ ラ ﹂ と い う イ メ ー ジ に 出 会 っ た の か を 調 べ て い き ま す と、 一 八 三 九 年 か 一 八 四 〇 年 ご ろ の ノ ー ト に も 同 じ よ う に ﹁ モ グ ラ ﹂ と い う 表 象 が 出 て ま い り ま す。 ヘ ー ゲ ル の 著 作 を 読 み 漁 り、 ガ ン ス の 講 義 を 聴 い て ド ク タ ー 論 文 を 書 こ う というときのノートに出てくるのです。どうもマルクスも、ヘーゲルの影響から、ハムレットの父親の亡霊が﹁モグ ラ﹂となって劇を進めていくように、歴史がそういう﹁モグラ﹂によって進められているというイメージを非常に大 事にしていたというふうに見ていいと思います。 と こ ろ が 先 ほ ど 言 っ た エ ド ゥ ワ ル ト・ ガ ン ス の 編 集 し た﹃ 歴 史 哲 学 講 義 ﹄ の、 は っ き り と﹃ ハ ム レ ッ ト ﹄ の 劇 の ﹁ モ グ ラ ﹂ と 分 か る と こ ろ は 消 さ れ て し ま っ て い る。 だ か ら、 こ の 箇 所 が、 ヘ ー ゲ ル が そ の よ う に 実 際 に 講 義 で 言 っ たかどうかというのは、実はよく分からないのです。メモはあります。しかし、それだけではヘーゲルがそのモグラ を﹃ハムレット﹄のモグラとして実際に講義で言ったのかどうかは分からない。ひょっとしたらガンスの創作ではな いか、という疑問が残るのです。 ヘーゲルの﹁講義録﹂というのは、いろいろな人たちのノートを集めてつくったものですから、編者の創作も入る というようなことがあります。結局、今、ヘーゲル研究では、いろいろなノートを参照して、ヘーゲルというのは最 後まで前に言ったことを取り消しては違うことを講義していたから、彼の体系は完成されていなかったのだというこ とがどんどん明らかになってきています。ところが今までの講義録集、出版されているものを読むと非常に立派な体
系 に な っ て い る。 こ れ は 実 際 の 講 義 と は 違 う だ ろ う と い う こ と が だ ん だ ん 明 ら か に な っ て き ま し た。 と い う わ け で、 エドゥワルト・ガンスが編集したところも、果たしてヘーゲルが本当に言ったかどうか分からない。ガンスの創作か も分からない。それを嫌って、息子がこの箇所を末梢したということも考えられるということなのです。 ところが二〇〇五年にK・フィヴェクという研究者がヘーゲルの聴講ノートをある偶然から発見しています。ハイ ンマンという学生のノートで、そこに、ガンス版とほぼ同じ記述、雰囲気はずいぶん違うのですけれども、はっきり とやっぱりハムレットとモグラが出てきて、ガイストがそうやって世界史を進めていくという話がノートされていま す。 で す か ら、 ガ ン ス が 編 集 し た と お り、 ヘ ー ゲ ル が、 ﹁ ち ょ う ど﹃ ハ ム レ ッ ト ﹄ と い う 劇 を 父 親 の 亡 霊 が 地 下 に 潜 っ て﹁ モ グ ラ ﹂ と し て 進 め て い く よ う に、 ガ イ ス ト が 地 下 に 潜 っ て 世 界 史 を 進 め て い く の だ ﹂ と い う イ メ ー ジ を 持っていたということは、ほぼ動かしがたいことと断定していいと思います。 ところが、そのフィヴェクがノートを起こして出版したものを見ると、索引に﹁アンティゴネー﹂はあるのですけ れ ど も、 ﹁ ハ ム レ ッ ト ﹂ と か、 当 然﹁ モ グ ラ ﹂ と い う の は な い の で す。 あ く ま で も そ う い う も の は な い こ と に な っ て いるのです。ヘーゲル研究の現場では、やはりヘーゲルのシェイクスピア解釈というのは無視されているのが現状な のです。しかし、こうなるとこのヘーゲル研究におけるシェイクスピア無視、ハムレット無視は一つのミステリーで す。普通に考えて、西洋近代の最大の哲学者ヘーゲルの論述に西洋近代の最高の悲劇の主人公ハムレットの名が出て きたら、索引に載せるのが当然でしょう。それを無視するのは、何か西洋のヘーゲル研究にはシェイクスピアやハム レットに関するトラウマがあるのではと考えてしまいます。 そ れ は と も か く、 ヘ ー ゲ ル に と っ て シ ェ イ ク ス ピ ア、 と り わ け﹃ ハ ム レ ッ ト ﹄ と い う の は 非 常 に 重 要 と い う こ と は、以上のことからだけでも明らかであると私は考えております。この話をしておかないと、なかなか﹁ヘーゲルの
35 (門脇) ハ ム レ ッ ト 解 釈 な ん て、 誰 も 研 究 で 言 っ て い ま せ ん よ ﹂ と い う ふ う に 必 ず 言 わ れ る の で す。 そ れ で、 そ れ を 前 ふ り で、ここまで三十分ぐらい使ってお話しました。
三
アンティゴネーの弔い
ここからが今日の本題ということになります。 先ほども申し上げましたけれども、ソフォクレスの﹃アンティゴネー﹄というのは、アンティゴネーが兄を埋葬す る、 と い う ギ リ シ ア 悲 劇 で あ り ま す。 ソ フ ォ ク レ ス と い う と、 日 本 で は フ ロ イ ト の﹁ オ イ デ ィ プ ス・ コ ン プ レ ク ス ﹂ 以降、こちらの方が圧倒的に有名です。つまり父親を殺し母親を妻としてしまったオイディプス、フロイトがここか ら﹁オイディプス・コンプレクス﹂という名前をとってきたということで、こちらの方が非常に有名になってしまい ましたが、どうも西欧のほうではその娘であり妹のアンティゴネーのほうが人気があったようです。たとえばジャン ヌ・ダルクみたいな勇敢な女性を語るときに﹁アンティゴネーのような﹂という形で言われるそうです。 ヘーゲルは、若い頃から﹃アンティゴネー﹄に心酔しておりまして、自分でギリシア語から訳そうというようなこ ともしております。それで何がそんなにヘーゲルを引きつけたのかということです。まず、非常に行動的であるとい うことが考えられますが、しかし、ギリシア悲劇の主人公たちというのはみんな行動的なのです。父親の復讐のため 母を殺したオレステスの場合ですと、その復讐を遂げた後になって﹁自分は母親を殺してしまった﹂と後悔すること になります。姉さんエレクトラに励まされて母親を殺してしまった後で後悔するというパターンなのです。オイディ プスにしても、よせばいいのに事件の真相を解明していくことによって自分が父親を殺し母親を娶っていたというこ と が 明 ら か に な っ た 後、 何 も 見 え て い な か っ た と い う こ と で、 自 分 で 目 を つ ぶ し て し ま う と い う よ う な 悲 劇 な の です。 アンティゴネーも、最初から真っ直ぐに行動に移っていく。 彼女の二人の兄のうちの一人は国のために、テーバイのために戦っておりますから、これは国家が手厚く埋葬いた し ま す。 し か し テ ー バ イ の 国 に 反 逆 し た も う 一 人 の 兄 の 埋 葬 に 関 し て は﹁ 禁 止 令 ﹂ が 出 ま す。 ﹁ 埋 葬 し て は な ら ん ﹂ と、 ﹁ そ れ を 破 れ ば 死 刑 で あ る ﹂ と い う お ふ れ が 出 る わ け で す。 し か し そ れ に 対 し て ア ン テ ィ ゴ ネ ー は、 全 く そ れ を 無視して行動していきます。妹に﹁あんたはやらなくていい。私は殺されても埋葬する﹂という形で劇の最初からど んどん走っていくわけであります。そして最後には埋葬を敢行するとともに、自分も首をくくってしまいます。それ を見たテーバイの王の息子、許嫁であった王の息子も自害する。それを聞いた母親も自害するというので、最後には また屍の山になっていく、そういう悲劇であります。 その過程で埋葬の敢行を国王からとがめられたアンティゴネーが、国王に反論するセリフがあります。 だってそれは今日や昨日のことでは決してないのです。この掟はいつまでもいつまでも生きているもので、いつ できたのか知っている人さえありません。 こ の セ リ フ を ヘ ー ゲ ル は 直 接﹃ 精 神 現 象 学 ﹄ に 引 用 し て い ま す。 こ の﹁ 掟 ﹂ と い う の は、 ﹁ 弔 い ﹂﹁ 埋 葬 の 掟 ﹂ で す。 ﹁ 人 間 は、 人 が 死 ん だ ら 弔 い、 埋 葬 せ ね ば な ら な い。 そ の﹃ 掟 ﹄ は い つ で き た の か 誰 も 知 ら な い。 し か し い つ ま でも生きている﹂そのような﹁掟﹂であります。そういうことを主張するアンティゴネーのセリフをヘーゲルは引用 しています。これは、ヘーゲルにとってはもちろん人類にとっても、このセリフは常に重要なセリフだと私は思って
37 (門脇) います。 我 々 が な ぜ 自 分 た ち の 周 り の 人 た ち が 死 ん だ ら ゴ ミ と し て 捨 て な い の か、 こ れ は 誰 も 説 明 で き ま せ ん。 ﹁ じ い ち ゃ ん死んだから明日の生ゴミに出しておくか﹂というような発想をするのがおかしい。今そういうことを申し上げた私 に対して﹁こいつは何を言ってるのや﹂ということをお感じになった人がいるかもしれませんが、我々は同類の死体 というのをそこに放っておくことはできません。何らかの形で埋葬しようといたします。 一緒に生活した金魚ぐらいからですかね、埋葬するというのは。金魚が死ぬと庭の片隅に土を盛って入れてアイス キ ャ ン デ ィ ー の 棒 を 立 て る と い う の が、 子 ど も の と き の 一 番 大 事 な﹁ い の ち の 教 育 ﹂ で は な い か と 思 っ て お り ま す。 殺 し た ゴ キ ブ リ を 埋 葬 し て い る 人 は め っ た に い な い。 あ れ は 新 聞 紙 に く る ん で 捨 て れ ば 清 々 し た と い う こ と で す が、 やっぱりペットとして一緒に生活したという感じがあると絶対ゴミには出せないですね。ある国では、死んだ金魚を 便所に流すのだそうです。だからそのあたり、名前がついていないと流されるのかなと、いろいろなところで区別が あるのだろうと思いますが、我々の場合はそういうことはできない、埋葬する。同類であれば埋葬するというのは当 たり前なことなのですが、逆に言えば人間でないと思っている連中に関しては埋葬しない。戦争のとき、敵方の死体 を埋葬するということはしません。屍を越えて、どんどん越えて攻め込んでいくというようなことになります。相手 は﹁鬼畜﹂ですからね。だから戦争で殺せるので、人間だとは思っていない。逆にそこで戦争が終わってから人間と 人間の交際をしようと思ったら、そこできちんともう一度埋葬ということを考えなければ、それこそ﹁ゴースト・バ スターズ﹂というような問題になってきます。恨みとか怨念とか、何かがそこから湧きあがってくるという問題だろ うと思います。 こ の ア ン テ ィ ゴ ネ ー の セ リ フ を、 ヘ ー ゲ ル は い わ ゆ る﹁ ︵ 客 観 的 ︶ 精 神 ﹂、 歴 史 を 動 か し て い く 精 神 ︵ ガ イ ス ト ︶ を 論
ずる直前のところで引用しています。つまり人間が人間同士の共同体をつくるいちばん基礎になるのは、 ﹁弔う﹂ ﹁埋 葬 す る ﹂ と い う 人 間 の 行 為 で あ る。 そ れ は ど う い う こ と か と 言 う と、 ﹁ 埋 葬 と い う の は、 死 体 を こ の 自 然 の 崩 壊 過 程 から救い出し、自らの手で抹消し、人間だけに可能なガイストという世界に蘇らせること﹂とまとめることができる と思います。 死体は放っとけばどんどん解体していきます。それで腐っていく。しかしそういうことをさせない。自然に自分た ちの家族・仲間の死体は渡さない。わざわざ自分たちの手でもう一回殺すのですね。自分たちの手で解体してしまう のです。火葬というのが一番早い解体です。あるいは土葬にする。あるいは水葬にする。そういう形でわざわざ自分 たちでその解体を早めます。線を引いて、末梢するのです。しかし、抹消することによって、ガイストというような 領域、精神的な領域、我々は過去の人を偲ぶというようなことをいたしますけれども、そういう領域が開かれるとい うことをヘーゲルは書いています。それでそこに過去を持った人間の共同体ができる。つまり歴史を持った人間の共 同体がそのようにしてできてくるということで、ヘーゲルはこのアンティゴネーのセリフというものを非常に大事な ものとして名前入りで引用しています。
四
決断し行動するハムレット
そ の ア ン テ ィ ゴ ネ ー と﹁ 決 断 し 行 動 す る ハ ム レ ッ ト ﹂ と い う の は、 ど の よ う な 関 係 に あ る の か。 ﹁ 父 親 の 亡 霊 の 命 令による復讐を敢行するハムレット﹂ 、これも一種の弔いですね。先ほどのアンティゴネーの行動が弔いだとすれば、 父親の復讐の敢行もひとつの弔いの形です。父親がまだ成仏、キリスト教圏の話で﹁成仏﹂というのもおかしな話な のですが、まだ成仏せず煉獄をうろうろしているという状況であります。そういうようなゴーストをどうやって真に39 (門脇) 成 仏、 な ん か キ リ ス ト 教 で い い 言 葉 が な い の で し ょ う か ね、 何 と 言 っ た ら い い の で し ょ う か、 と に か く 成 仏 さ せ る、 そういうことが必要になって﹁弔う﹂という行動をとります。 この﹃精神現象学﹄には、いっぱい物語の人物らしきものが出てきます。ファウストとかドン・キホーテとか、そ う い う 人 物 た ち が 出 て く る の で す が、 直 接 ヘ ー ゲ ル が 名 前 を 挙 げ て い る の は ア ン テ ィ ゴ ネ ー と ハ ム レ ッ ト だ け で す。 しかしハムレットに関しては誰も何も言わない。こんなおかしな話はないわけですし、こんな興味深い話はないです ね。西洋近代の最大の悲劇と言われるハムレットとヘーゲルがここで出会っているわけですから、こんなおもしろい テーマはないと思うのですが、誰も何も言わないという状況であります。 それで、最初に引いた文章をもう一度見てみます。 だ か ら こ そ、 魔 女 を 信 じ た 後 者︵ マ ク ベ ス ︶ よ り も 純 粋 で、 運 命 の 女 神 や ア ポ ロ ン を 信 頼 し た 前 者︵ ギ リ シ ア 悲 劇 の 主 人 公 た ち ︶ よ り も 思 慮 深 く 根 本 的 な 意 識︵ ハ ム レ ッ ト ︶ は、 父 親 の 亡 霊︵ Geist ︶ が 彼 自 身 の 暗 殺 に つ い て 告 げ た啓示に対して復讐をためらい、別の証明を試みるのである。 ハ ム レ ッ ト と い う の は マ ク ベ ス よ り も 純 粋 で あ る、 こ れ に つ い て は 後 で 考 え ま し ょ う。 ギ リ シ ア の﹁ 運 命 の 女 神 ﹂ を信頼した者、これはオレステスを指しています。 ﹁アポロンを信頼した﹂ 、これはオイディプスのことを指していま す。こういう人たちよりもハムレットは﹁思慮深く根本的な意識﹂であるとヘーゲルは言っております。これがいっ たいどういうことなのか。ヘーゲルはギリシア悲劇を高く評価した、これは定説です。しかしそれよりもハムレット の方を高く評価しているのですから、これは大きな問題だと思うのです。
まず、ギリシア悲劇の主人公とハムレットを比較してみます。 古代劇と近代劇の差というのは、たとえば幕がある/なしです。近代は額縁舞台で幕がある。古代悲劇というのは 幕の張りようがないです。円形劇場で観ているのですから幕の張りようもないですし、台本にも書き込まれていませ ん。 ま た、 コ ロ ス と い う 合 唱 団 が あ る / な い と い う 違 い も あ り ま す。 ﹁ コ ロ ス ﹂ と い う の は 日 本 で 言 え ば、 お 能 や 歌 舞伎の囃子方みたいなものです。お能なんかで言う後ろでポンポンと鼓を打ったりしているような感じのものがギリ シア悲劇なんかにはあります。ところが近代劇になると、それがなくなってまいります。 そして﹁独白﹂のある/なし。これが一番大きいのかもしれません。ハムレットというのは、一人でペラペラとよ く し ゃ べ る 男 で あ り ま す。 ﹁ 独 白 ﹂ す る の で す ね。 こ れ は ハ ム レ ッ ト 学 と い う か シ ェ イ ク ス ピ ア 学 で よ く 問 題 に な る の で す が、 ﹁ 独 白 ﹂ と い う の は ど こ を 向 い て 言 っ た ら い い の で し ょ う。 内 面 の 声 と い う に は あ ま り に し ゃ べ り す ぎ で す。 役 者 と し て ハ ム レ ッ ト を や っ て ご ら ん に な れ ば、 ﹁ 生 か 死 か、 そ れ が 問 題 だ ﹂ と い う の を 誰 に ど の よ う に 言 っ た らいいのか、そういう問題が出てきますが、とにかくシェイクスピアの劇というのは﹁独白﹂が出てくる劇でありま す。ギリシアの劇では、そんなことはありません。常にダイアローグですね。対話しているという劇であります。 もう一つ一番大きいのは、そういう﹁独白﹂する一つの主体というのがあって、それがキャラクターを演ずるとい う 問 題 で す。 劇 の 中 の﹁ 私 ﹂ が あ る 役 柄 ︵ キ ャ ラ ク タ ー︶ を 演 ず る、 つ ま り 演 ず る と は ど う い う こ と か と い う こ と を、 劇の中で演ずるのがシェイクスピア劇ということになります。先ほど言いましたけれども、アンティゴネーが、埋葬 を禁止された、鳥や犬に食われ放しでその辺に放ったらかしにしてある﹁兄の亡骸を私は埋葬するわ﹂というセリフ は、 劇 が 始 ま っ て い き な り 出 て き ま す。 も う 迷 わ ず、 そ の キ ャ ラ ク タ ー を ア ン テ ィ ゴ ネ ー は 演 じ ま す。 ﹁ 演 ず る ﹂ と いうより、兄の遺体を埋葬するキャラクターがアンティゴネーそのものです。それで劇の最後に、私がやったことは
41 (門脇) こんなことだったということが分かってくるという、そういう筋書きですね。ところが﹃ハムレット﹄の場合、ある いはシェイクスピアの劇の場合は、まず﹁私﹂がいて、これが﹁独白﹂するのです。この﹁独白する私﹂がいて、そ れが復讐者というキャラクターを引き受けようか引き受けまいか迷うという、こういう話になります。 ﹁ To be or not to be ﹂ と い う の は、 そ う い う 問 題 で す ね。 ﹁ 私 ﹂ と そ の﹁ キ ャ ラ ク タ ー ︵ 配 役 ︶ ﹂ の 二 重 性 を 最 初 か ら 自 覚 し て い る の です。ギリシア悲劇の場合は、最後の最後で﹁私とキャラクター﹂という問題が出てきて、ヘーゲルの叙述は、その 後ギリシア喜劇の時代になると、 ﹁仮面をとるのだ﹂という表現をします。 ﹁神様の役をしていたけれども、俺は人間 なんだぜ﹂というので、ここで喜劇が成立するということを述べています。狂言みたいな感じを考えていただければ いいのですけれども、ここで﹁人間とキャラクターが分かれるのだ﹂という言い方をいたします。 そ れ は と も か く、 ギ リ シ ア 悲 劇 の 主 人 公 は、 そ の 劇 の 最 後 に な っ て 事 の 真 相 を 知 る。 こ の こ と を ヘ ー ゲ ル は ﹁ zugrunde gehen ﹂ と い う ド イ ツ 語 で 表 現 し て い ま す。 ﹁ zugrunde ﹂ つ ま り﹁ 地 面 に お も む く ﹂ と い う 言 葉 を こ こ で 使 い ま す。 と こ ろ が ハ ム レ ッ ト は﹁ 根 本 的 ﹂ で あ る、 こ の﹁ 根 本 的 ﹂ と い う の は﹁ gründlich ﹂ と い う ド イ ツ 語 な の で す が、つまり﹁最初から地に足がついていた﹂という表現をするのです。これはまず﹁私﹂がいて、そして悲劇的結果 に 終 わ る か も し れ な い よ う な﹁ キ ャ ラ ク タ ー﹂ を 引 き 受 け る か 引 き 受 け な い か と 迷 い、 問 い を 立 て る。 そ こ に お い て、ハムレットのほうがギリシア悲劇の主人公たちよりも﹁根本的﹂というか﹁足が地についている﹂わけです。そ して、そこから﹁父親の亡霊というのは悪魔かもしれない﹂という問題が立てられ、それにヘーゲルが注目したわけ です。 これは、非常に現代的な問題でもあります。 私たちはみんなどういう役柄を得て生きてゆくか、という問いを立てています。とりわけ学生の頃ですと、どのよ
う な 役 柄 を 得 て 社 会 に 出 て い く か と い う 問 い 方 を し て い る と 思 い ま す。 昔 な ら ば、 ﹁ お 前 は、 も う こ の 家 を 継 ぐ こ と に 決 ま っ て い る の だ ﹂ と い う 形 で 役 柄 と い う の は 決 ま り 切 っ て い た の で す。 結 婚 に し て も、 ﹁ 親 の 言 う こ と を 聞 い て 見 合 い し て、 そ れ で い い ﹂ と い う 形 で 選 択 の 余 地 は な い。 ﹁ キ ャ ラ ク タ ー﹂ を 選 ぶ と い う そ ん な 余 地 は 二 昔 前 か 三 昔 前かにはない、そういうような状況でした。今は、もう選び放題ですね。選び放題だから選べない、そういう恐ろし いことになっています。 結論から言いますと、ハムレットの場合は、結局自分は﹁呼ばれた﹂と考えるというのがヘーゲルの解釈だと思い ます。 ﹁自分が選ぶ﹂というのではなくて、 ﹁あちらから選ばれたのだ、この役柄は﹂と。 ち ょ っ と 話 が 横 へ そ れ る の で す け れ ど も、 わ り と 分 か り に く い の が、 こ の 浄 土 真 宗 で の﹁ 選 択 本 願 ﹂ だ と 思 い ま す。この与えられる﹁本願﹂というのは、菩薩さんが選んでくださった、これを我々に与えてくださっているという ことです。たとえば﹁よくよく考えれば、阿弥陀の本願は親鸞一人がためなり﹂という意味の言葉が親鸞にあるので す け れ ど も、 こ れ な ん か は、 本 願 を﹁ あ ち ら が 選 ん で く だ さ っ た ﹂、 そ れ も﹁ 私 一 人 の た め に ﹂ 選 ん で く だ さ っ た と い う 発 想 で す。 ﹁ 私 が 選 ん だ ﹂ と い う 発 想 で は な い の で す。 ﹁ あ ち ら 側 か ら 選 ば れ た ﹂ と い う 感 覚 で す。 ﹁ 本 願 召 喚 の 勅命﹂というふうな言い方もします。あちらから﹁これを取りに来い﹂という形で呼ばれたという感覚、こういう近 代的主体観からは分かりにくい感覚があります。近代的主体というのは、選択する主体はこちらにあると思っていま す。だから、たとえば山折哲雄さんなんかは、法然の﹃選択本願念仏集﹄を﹁法然は念仏を選んだ﹂というふうに解 釈 な さ る の で す。 こ れ は、 逆 な の で す。 と こ ろ が 山 折 さ ん に な り ま す と も う 近 代 的 な 主 体 で い ら っ し ゃ い ま す か ら、 選ぶのはこちらの主体だと思い込んでおられるから、 ﹁どうもよく分からん﹂というふうにおっしゃいます。 ﹁どうも なんかよく分からん﹂と、そこのところでものすごく苦しんで苦しんで書いておられて、それはそれでまじめに正直
43 (門脇) に 書 い て お ら れ る の で す が、 ﹁ あ ち ら 側 か ら こ ち ら を 選 ぶ ﹂ と い う 発 想 を 全 く 思 い つ か れ な い で 非 常 に 苦 し ん で 書 い ておられる様子があります。 ハ ム レ ッ ト も、 最 初 は﹁ こ ち ら か ら 選 ぶ ﹂ と い う 発 想 を し て い ま す。 ﹁ こ の 役 柄 を 引 き 受 け る か 引 き 受 け な い か ﹂ と。 し か し、 そ れ を も っ と は っ き り 出 し て く る の が マ ク ベ ス の ほ う で す。 ﹁ マ ク ベ ス よ り も ハ ム レ ッ ト の 方 が 純 粋 で ある﹂とヘーゲルは表現していました。マクベスのほうが不純である、これは、マクベスのほうは二つに分かれると 言うのです。不純であるというのは、二つに分かれるということなのです。ハムレットのほうが純粋であるというの は、一つである、二つに分かれたところがない。マクベスは﹁役柄を自分の欲望の実現手段としてやっている﹂とい う 人 物 で す。 本 人 は そ の 役 に な り 切 ろ う と し な い の で す。 王 の 殺 害 者 に な り 切 ろ う と い う よ う な こ と は な い の で す。 マクベス夫人に尻をたたかれ、そして宙に浮かぶナイフを追いながらハッと気がついたら殺してしまっているという よ う な 形 に な っ て い ま す。 そ し て あ と で 後 悔 す る。 決 し て そ の 役 柄 に な り 切 ろ う と い う よ う な と こ ろ は あ り ま せ ん。 役 柄 と 私 が 分 裂 し て い る の で す。 と こ ろ が ハ ム レ ッ ト の 場 合、 結 局 は﹁ ガ イ ス ト か ら 名 指 し で 与 え ら れ た 役 柄 を ︿私﹀を捨てて演ずる﹂というふうにヘーゲルは読んだと私は思っています。 というのは、これは﹃ハムレット﹄の劇中劇でいつも問題になるところ、志賀直哉が﹃クローディアスの日記﹄と いう作品で指摘している問題です。劇中劇で、ある男がある王様を殺すという場面を演じ、それをクローディアスが 見ていて動揺する、だからお前が犯人だとハムレットが断定する。しかし、こんなことでは何の証明にもなっていな いだろうというのが、志賀直哉が指摘した問題です。これは、志賀直哉だけでなく、いろいろなところで指摘されて い る 問 題 で あ り ま す。 客 観 的 証 拠 が な い と い う こ と で す。 た だ 動 揺 し た、 そ れ だ け で す。 ほ と ん ど" 刑 事 コ ロ ン ボ " 状 態 で す ね。 コ ロ ン ボ は、 状 況 証 拠 し か な い と い う と き に、 ﹁ あ な た が や っ た と い う こ と は 分 か っ て い る ん だ ﹂ と か
言って﹁犯人﹂を追い詰めます。そして、その﹁犯人﹂はボロを出してしまうのです。ハムレットの断定は、このコ ロ ン ボ の 状 況 と 同 じ で す。 い や、 証 拠 か ら 言 っ た ら、 も っ と 主 観 的 な 思 い 込 み と 言 っ て い い で し ょ う。 実 際、 ハ ム レ ッ ト は 劇 中 劇 の 後、 こ の 亡 霊 の 言 葉 を﹁ い く ら 出 し て も 買 う ぞ ﹂ と い う よ う な 非 常 に 曖 昧 な 言 い 方 し か し ま せ ん。 ﹁ こ れ で あ の 亡 霊 は、 悪 魔 で は な い と 分 か っ た ﹂ と い う セ リ フ は あ り ま せ ん。 ﹁ 千 ポ ン ド 出 し て も あ の 言 葉 を 買 う ぞ ﹂ と い う セ リ フ し か な い の で す。 こ れ は い っ た い ど う い う こ と な の だ ろ う と い う の が、 ﹃ ハ ム レ ッ ト ﹄ 研 究 で は い ろ い ろ と 問 題 に な っ て い る の で す。 実 際、 ク ロ ー デ ィ ア ス は そ の 劇 が 演 ぜ ら れ た 後、 ﹁
Give me some light
﹂ と 叫 び ま す。 ﹁明かりを持って来い﹂ 、﹁証明しろ﹂ということを言うのです。 ﹁ハムレット、明かりをもってこい。お前はそれで俺 が親父を殺したという証明をしたつもりらしいが、これでは何の証明にもなっていないぞ﹂というダブル・ミーニン グ で す。 こ こ の と こ ろ で 明 ら か に シ ェ イ ク ス ピ ア 自 身 も、 ﹁ 行 動 す る と き に 客 観 的 に こ れ が 正 し い と 言 っ て、 人 は 行 動するのではない﹂というイメージを提出しているというふうに言えると思います。 そうすると、あの父親殺しを明らかにした亡霊というのは、悪魔か本当の亡霊かという問題は決着がつかないまま なのです。しかし、ヘーゲルを読んでいますと、こういうような文章があります。 誤りはしないかという怖れそれ自体が誤りではないのか。 ﹃ 精 神 現 象 学 ﹄ の 導 入 部 に 書 か れ た 文 章 で す。 こ れ は 直 接 に は カ ン ト の こ と を 言 っ て い ま す。 カ ン ト が 認 識 を い ろ い ろ と 吟 味 す る の に 対 し て、 つ ま り 誤 っ て 認 識 し て い る の で は な い か と 怖 れ て 認 識 と い う こ と を 吟 味 す る の で す が、 そのように誤りを怖れるそのこと自体が誤りではないのか、とヘーゲルはカントを批判するのです。こういうふうに
45 (門脇) 誤りはしないかという怖れがやってくることは、最初に自分の方で真理の基準を立ててしまっている。そのような真 理 の 基 準 を 自 分 で 立 て て お い て、 そ こ か ら 一 歩 も 出 よ う と し な い、 そ れ は 絶 対 的 な 真 理 を 怖 れ て い る と い う こ と だ、 とヘーゲルは言います。ですから、認識を吟味していくというのは、既に立てられている﹁真理基準﹂そのものが吟 味されることである。先ほどまで本当だと思っていたことは、カントの用語で言えば﹁アン・ジッヒ﹂であったもの は、自分にとってのみアン・ジッヒであったということでしかない、自分が勝手に立てた真理基準でしかない、こう い う 言 い 方 を し て お り ま す。 つ ま り、 ﹁ あ く ま で も 自 分 の 真 理 基 準 は そ の ま ま で、 自 分 が 無 傷 で 真 理 を 把 握 し よ う と いうのでは、真理というのは成立しないのだ﹂ということです。これはもっと分かりやすく言いますと、 ﹁真理とは、 探偵が真相を明らかにするというような真理ではない﹂ということです。 シャーロック・ホームズがいろいろな事件を解明していく。そしてそこに真犯人が分かってくる。しかし、それに よってシャーロック・ホームズの生き方そのものが変わるということはないですね。その事件の真相を明らかにした からといって、シャーロック・ホームズがあのベイカー街から出るとか、ワトソン君とけんか別れをしてしまう、そ う い う よ う な こ と は 起 こ ら な い わ け で す。 い つ ま で 経 っ て も シ ャ ー ロ ッ ク・ ホ ー ム ズ は、 変 わ ら な い も と の ま ま の シャーロック・ホームズだから、連作小説になるのです。探偵小説というのは、ずうっと連続できるのです。名探偵 コナンは、ずうっと小学生の姿のままで探偵をしてゆくということになります。 それに対して、ハードボイルドの探偵小説というのがあります。ハメットの﹃マルタの鷹﹄というのが典型的なも のです。チャンドラーの﹃ロング・グッドバイ﹄そして村上春樹の﹃羊をめぐる冒険﹄もその系統です。探偵自身が 事件の中に飛び込んでゆく、そしてその中で自分自身も変わっていくという形で真相が明らかになっていく、そして 自分の心の中も明らかになっていく、こういう事件の解決の仕方があります。むしろヘーゲルが考えている真実とい
うのは、そういうものではないかというふうに私は考えています。 鈴 木 大 拙 が こ う い う 話 を し て い ま す。 ﹃ 日 本 的 霊 性 ﹄ の 第 五 篇 ︵ 岩 波 文 庫 版 は こ の 第 五 編 は 収 録 さ れ て い ま せ ん ︶ に﹁ 金 剛経の禅﹂というのがありまして、ある場所でドイツ人に向けた話だから分かりやすくていいだろうということで最 初にこういう話をしています。 唐の時代のある禅の坊さんの師匠と弟子の話です。師匠と弟子が山道を歩いていて、師匠が﹁木がいっぱいあるか ら ち ょ っ と 刈 っ て く れ ﹂ と 言 う の で、 弟 子 が﹁ い や 刈 る も の が ご ざ い ま せ ん の で、 ち ょ っ と 何 か お 願 い し ま す ﹂ と 言 っ た ら、 師 匠 が 刀 を ピ ュ ッ と 出 し て、 ﹁ さ ぁ 取 れ ﹂ と 言 っ た ら、 弟 子 が﹁ し か し、 そ れ は 抜 き 身 が こ ち ら に 向 い て 取れません。柄をこちらへ回してください﹂と言います。すると師匠が﹁柄が何の役に立つかい﹂と応じた。そのと き、その弟子がハッと悟ったという例によって何のことやら分からない話です。 刀 を ピ ュ ッ と 出 さ れ て、 ﹁ そ れ で は 取 れ ま せ ん の で 持 ち 手 の 方 を こ っ ち に 回 し て く だ さ い ﹂ と 言 う と、 師 匠 が﹁ そ ん な 持 ち 手 の ほ う が 何 の 役 に 立 つ の か ﹂ と い う ふ う に 言 っ た と い う 話 で、 大 拙 は こ の 話 を﹁ 本 当 の 実 在 と い う の は、 常に人を殺してくるものである﹂という言い方で総括しています。 つまり無傷で真実を掴もうなんて、そんなむしのいい話はないと言うのです。真実が刀だったら、それをバッと掴 んで血だらけになりなさい。いや、今までの自分に死になさい。何も自分は変わらずにアクセサリーを身につけるよ うに真実を得るというような発想というのは、探偵小説の事件解決ならいいですけれども、自分自身の問題であった ならば、それでは何ら解決にはならないということです。 それと同じことで結局ハムレットの場合も、そういう世界に飛び込んでいく。復讐の命令を下したのが悪魔か本当 の ガ イ ス ト か、 そ れ は ど う で も い い と い う こ と で す。 そ う い う 形 で 事 件 に 飛 び 込 ん で い く と い う こ と に な っ て い ま
47 (門脇) す。そのようなハムレットの行動を受けて、ヘーゲルは、どれほど行動の理念が理念として正しくても、現実に行動 し 存 在 す る と き に は 一 個 人 で し か な い と い う こ と を 言 い ま す。 今、 行 動 前 に 描 い て い る 理 念 が ど れ ほ ど 正 し く て も、 それを現実において実行すれば具体的な限定された一個人の行動でしかない。それで最終的には、立派な理念を持っ て行動したけれども、結局その行動は君を傷つけることになったと、そういう形でお互いに許し合うところにガイス トというのは成立するのだということを、ヘーゲルは﹁精神﹂の章の最後のところで述べています。 これはどういうことかと申しますと、現実な行動というのは一つの個人の限定されたものでしかない、ということ です。どれほど無限な理念を持っていようとも、限定された個人でしかない。 ちょっとこれを話し出すと面倒臭くなるのですが、ヘーゲルが﹃精神現象学﹄で直接ハムレットの名を挙げている 場 面 も そ の よ う に 読 む こ と が で き ま す。 ヘ ー ゲ ル は、 ﹁ ヨ リ ッ ク の 頭 蓋 骨 を 持 つ ハ ム レ ッ ト ﹂ と い う 形 で、 ハ ム レ ッ トの名前を直接出しています。劇の最後近く、ハムレットが墓場で幼い頃の彼におどけてくれた宮廷道化師ヨリック の頭蓋骨を持って人間はすべてこのような骨になってしまうという感慨にふける場面です。そして、それをヘーゲル は﹁ 精 神 は 骨 だ ﹂ と い う 馬 鹿 馬 鹿 し い 命 題 に ま と め る の で す。 こ の 命 題 を そ の ま ま 受 け 取 れ ば﹁ 馬 鹿 馬 鹿 し い ﹂ と ヘーゲル自身が言います。しかし、それを否定してガイストの次元で受け取るとそこに﹁歴史﹂があらわになる。頭 蓋骨というモノを通して、人間の歴史が現れてくると言うのです。どんなに正義であろうとも、どんなに立派であろ うとも、しかし実際にやってみると、それはいろいろな人を傷つけたりする、具体的な行動というのはそういうもの でしかない。一つの限定されたあり方しかできない。モノとしてしか存在することはできない。しかしながらそのよ うな人間のあり方を引き受けて互いに許し合うところにガイストというのは存在するのだ。そこのところの否定と肯 定のリズムというのが無限性を形づくっていくのだと述べます。
ついでながら言っておきますと、この講堂に肖像画が掲げられている清沢満之先生も、ヘーゲルの言う無限性とい う の と 阿 弥 陀 ︵ 阿 弥 陀 と い う の は も と も と﹁ 無 限 ﹂ と い う 意 味 で す ね ︶ を つ な げ て 考 え よ う と な さ っ て い た。 ヘ ー ゲ ル を ずうっと読んでおられた方ですから、そういう無限を考えておられたのだと思います。それともう一つは、あちらか ら 選 ば れ る と い う こ と で す。 ﹁ 絶 対 無 限 に 乗 託 す る ﹂ と い う 言 い 方 を し ま す け れ ど も、 絶 対 無 限 の 方 か ら 選 ば れ て そ れに自らを託するという、その決断において行動が出てくるということではないかと思います。 要するに結局は、最終的には個別的な行為として非難されようとも、私はやらなければならないというような決意 な の で し ょ う。 こ れ は 絶 対 に 誰 か ら も 非 難 さ れ る こ と の な い 立 派 な 行 為 で あ る は ず だ と い う 形 で の 見 切 り で は な く て、私にとっては正義だけれども、行為する限り何らかの非難は受けるかもしれない、しかしそれはやらねばならな い と い う よ う な 限 定 性 の 自 覚 と い う こ と で し ょ う。 こ の こ と が は っ き り し な い と、 な ん で 私 は こ ん な 正 し い こ と を やっているのに非難されるのだ、そんな問題になってくるように思います。 そういう意味でヘーゲルの哲学において﹃ハムレット﹄というのは、非常に重要な意味合いを持っているし、また そこのところで父親の亡霊が悪魔かもしれないという疑問は、たいへん大きい問題だと思われます。悪魔かどうか分 からないけれども、その役柄を私は与えられてしまった、そのような自覚が最終的な行動への一つのきっかけになっ ている。選ばれて与えられた役柄を引き受けるのです。 三 ・ 一 一 で 被 災 さ れ た 方 々 を 見 て い る と、 役 割 を あ ち ら か ら 呼 び か け ら れ た と い う 人 々 が い っ ぱ い お ら れ る よ う に 思います。亡くなった方々から、これからどう生きていくのかという役割を呼びかけられたという生き方、そのよう にして生き方の転換を図った方がいっぱいおられるように思います。しかし、それは普通の人生においても、それぞ れ個人においてどこかで起こるドラマだと思うのです。