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中世における宋學の受容について (昭和二十二年九月十二日報告)

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( 昭 和 二 十 二 年 九 月 十 二 日

報 告 )

七 六 五 四 三 ニ ー 宋 學 の 初 傳 暉 信 と 宋 畏 俗 玄 恵 と 宋 學 宮 廷 の 宋 學 北 畠 親 房 と 宋 學 明 経 家 と 宋 學 中 世 文 化 に お け る 宋 學 の 地 位 我 が 國 に お い て 最 も 早 く 宋 儒 の 新 注 に 注 目 し た の は 外 な ら ぬ 明 経 家 清 原 氏 で あ つ た と い う 傳 が あ る 。 康 富 記 享 徳 三 年 二 月 十 八 日 條 に 著 者 中 原 康 富 が 清 原 業 忠 に 謁 し て , 清 原 家 一 流 の 秘 訣 の 書 抜 等 を 閲 覧 し た こ と を 載 せ た 次 に , な お 業 忠 の 談 と し て , 又 中 庸 注 事 、 以 本 維 爲 家 論 、 不 被 執 新 注 之 由 事 , 仁 安 比 有 大 外 記 殿 ( 頼 業 ) 奥 書 。 件 年 當 淳 撫 己 酉 也 。 朱 烹 新 注 未 渡 時 節 也 。 自 和 島 中 世 に お け る .宋 學 の 受 容 に つ い て 然 相 叶 道 理 、 奇 特 之 至 也 , 云 々 、 と 見 え て い る 。 淳 撫 己 酉 ( + 六 年 ) は 朱 子 が 學 庸 章 句 の 序 を 作 つ た 年 で あ り , そ れ は 我 が 文 治 五 年 に 相 當 し , あ た か も 頼 業 は こ の 年 六 十 六 歳 で 残 し た 。 仁 安 年 間 は そ れ よ り 約 二 十 年 の 昔 で あ る か ら 、 康 富 記 の 年 紀 比 照 は 正 に 慧誤 で あ る 。 し か も 清 原 家 で は な お 大 學 も 既 に 頼 業 が 表 出 し た と い う 論 を 流 布 し た 。 京 都 帝 國 大 學 藏 ﹁ 大 學 章 句 抄 ﹂ に い う 、     淳 熈 十 六 年 ガ 本 朝 御 鳥 羽 院 文 治 五 年 二 當 ル ゾ 。 常 忠 (業 忠 ) ヨ リ 十 二 代 前 ノ 顧 業 ト 云 ガ 、 此 大 學 ヲ 禮 記 ノ 中 ヨ リ 別 二 一 雀 ノ 書 ニ ヌ キ ダ ヰ テ 置 タ 。 ソ レ ガ 文 公 ガ 序 ヲ 書 タ 淳 熈 十 六 年 二 當 タ ゾ 。 其 年 二 死 ダ ゾ 。 意 氣 ガ 叶 タ ゾ 。 常 忠 此 書 ヲ 講 ス ル ト キ 、 云 出 テ 山洛 禰伏 セ ラ レ タ ゾ 。 清 原 氏 が 學 庸 に つ い て 頼 業 と 朱 子 と の 見 解 の 暗 合 を 彊 調 し た の は 恐 ら く 家 學 に 一 暦 樺 威 あ ら し め よ う と す る 策 略 に 出 で た も の で あ ろ 一 一 一

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帝 國 學 士 院 紀 事 第 五 巻 第 二 、 三 號 う 。 後 光 明 天 皇 も 頼 業 の 學 庸 表 出 の こ と は ﹁ 近 き こ ろ の 造 言 ﹂ で あ   り 、 ﹁ 一 巳 の 私 を 以 て 捗 を 欺 く は 禁 止 す べ し ﹂ と 仰 せ ら れ た 。 し か し 禮 記 の 學 庸 二 篇 の 特 殊 性 を 認 め た の は も と よ り 朱 子 が 始 め て で は な く 、 漢 書 藝 文 志 に ﹁ 中 庸 説 二 篇 ﹂ と 見 え 、 司 馬 光 に は ﹁ 大 學 廣 義 ﹂ ﹁ 中 庸 廣 義 ﹂ の 嵜 が あ る 。 そ し て 學 庸 二 書 に つ い て 始 め て 詳 論 し た の が 二 程 子 で あ り 、 四 書 の 名 を 始 め て 定 菩 し た 砕 が 朱 子 と さ れ て い 観 ・ か の 遣 唐 使 の 停 止 後 、 我 が 荘 園 維 濟 の 戌 長 に 伶 い , 荘 園 領 主 た る 貴 族 の 奢 修 的 欲 求 に よ る 私 貿 易 が 頻 に 行 わ れ 、 中 國 文 化 に 封 す る 貴 族 の 關 心 を 昂 め た が 、 當 時 の 喩 入 品 口 中 書 籍 も 重 要 な る も の の 一 に 数 え ら れ 、 中 國 商 人 に よ つ て 舶 桟 さ れ て 來 る も の の 外 , 貴 族 の 外 護 の も と に か の 地 に 渡 つ た 我 が 僧 侶 の 將 來 し た も の も 少 く な く , 殊 に 雫 安 時 代 後 期 に お け る 日 宋 交 通 貿 易 の 著 し い 嚢 展 に よ り 優 秀 な る 宋 本 の 輪 ⋮入 、 將 來 も い よ く 盛 ん と な つ た 。 永 親 元 年 に 入 宋 し た ⋮僻 窩 り   然 は 永 延 元 年 婦 朝 に 際 し , か の 有 名 な 繹 迦 如 來 像 と と も に 摺 本 一 切   経 を 携 え 蹄 つ た 。 こ の 一 切 経 は 宋 の 太 組 の 開 實 四 年 以 來 十 二 箇 年 を   費 し て 印 行 さ れ た い わ ゆ る 開 實 勅 版 大 藏 経 と 推 定 さ れ 、 宋 奨 本 の 我 が 園 に 傳 來 す る の が 意 想 外 に 早 か つ た こ と が 注 目 を 惹 く 。 そ の 後 延 ら 久 四 年 に 入 宋 し た 倫 城 尋 も 新 誰 経 典 三 百 除 巻 を 途 附 し て 來 た が 、 経 史 の 方 面 で は 當 代 の 學 者 と 知 ら れ た 藤 原 積 長 が 夙 に 摺 本 の 信 愚 性 に 一 一 ご   着 眼 し て こ れ が 入 手 に 努 め 、 な お 仁 弔 元 年 に は 数 十 種 の 要 書 を 宋 商   に 注 文 し て お り 、 彼 の 學 友 藤 原 通 憲 の 藏 書 に も 摺 木 が 多 か つ た ら し     い 。 か よ う に 宋 本 が 頻 に 楡 入 さ れ た の で あ る か ら 、 か の 國 の 繧 學 界 の 情 勢 も た や す く 我 が 國 に 反 映 し た 。 頼 長 が 禮 記 を 讃 ん で 中 庸 を り ﹁ 殊 勝 之 雀 ﹂ の 中 に 数 え た の は 既 に 康 治 二 年 の こ と で あ つ た 。 ま し て 明 経 家 た る 清 原 氏 に し て み れ ば 、 中 庸 の 特 殊 性 に つ い て 當 然 一 家 言 を 立 て 、 然 る べ き 時 勢 で あ つ た 。 も し 主 題 の 典 籍 の 將 來 叉 は 傳 窮 が そ の 主 題 の 學 問 の 傳 來 の 時 期 を 決 定 す る も の と す れ ば , 岩 崎 文 庫 に 現 藏 さ れ る 中 唐 章 句 こ そ 我 が 宋 學 初 傳 の 年 代 を 決 定 す る 上 に 有 力 な 手 が 、 り を 提 供 す る も の で あ る 。 こ れ は 巻 子 本 二 雀 、 淳 熈 己 酉 の 序 も 備 わ り 、 正 に 朱 子 の 定 本 に よ つ て 窮 七 た も の で , 雀 末 に ﹁ 正 治 ; 年 三 月 四 日 、 大 江 宗 光 ﹂ と 署 名 さ れ て い る と い う 。 宗 光 は 大 江 廣 元 の 子 , 正 ・廣 と 改 名 , 那 波 掃 部   助 と 稻 し た 。 恐 ら ぐ 彼 の 父 兄 と 同 楼 鎌 倉 幕 府 に 仕 え た の で あ ろ う が 、 そ の 事 蹟 は 詳 で な い 。 し か し 鎌 倉 に は 廣 元 = 家 の 外 に 三 善 康 信 、 中 原 親 能 な ど 鈴 々 た る 學 者 が 招 か れ た の み な ら す 、 大 江 家 や 清 原 家 の 人 々 が 評 定 衆 や 引 付 衆 に 加 え ら れ 、 大 い に 新 興 都 市 の 文 蓮 を 助 け た こ と ゆ え . そ こ に 新 注 書 の 傳 存 す る こ と も ま た あ り 得 る こ と で あ つ た 。 吾 妻 鏡 に は 元 久 元 年 正 月 十 二 日 將 軍 廊 只 朝 の 読 書 始 に 侍 讃 と な つ た 後 の 文 章 博 士 仲 章 を 評 し て ,

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此 儒 依 無 殊 文 章 、 雄 無 才 名 之 答 、 好 集 書 籍 、 詳 諸 道 百 家 九 流 。 と い つ て い る 。 こ の 鎌 倉 に お け る 蒐 書 の 問 題 と な れ ば 、 當 然 金 澤 文 庫 を 顧 み ね ば な ら な い 。 北 條 實 時 の 蒐 集 が 進 捗 し て 文 庫 の 濫 膓 を な し た の は 建 長 年 間 以 來 の こ と で あ る が , い わ ゆ る 金 澤 文 庫 本 の 奥 書 に よ れ ば 實 時 は 當 時 引 付 衆 で あ つ た 清 原 教 隆 よ り 春 秋 維 傳 集 解 , 群 書 治 要 及 び 律 令 な ど の 秘 読 を 受 け , 群 書 治 要 に つ い て は な お 在 京 の 左 京 兆 俊 國 、 右 京 兆 茂 範 に 謎 え て 鮎 を 乞 い , 實 蒔 の 子 顯 時 は 教 隆 の 子 で 評 定 衆 に 列 し た 清 隆 に 春 秋 経 傳 集 解 の 秘 論 を 受 け , 更 に 顯 時 の 子 貞 顯 は 父 祀 手 澤 の 諸 本 の 黙 校 繕 窮 に 努 め た 。 帥 ち 金 澤 一 家 は 明 経 家 の 家 學 を 忠 實 に 傳 承 し た が 、 新 井 白 石 の 退 私 録 に 木 下 順 庵 の 談 と し て , 朱 子 が 小 學 を 撰 し て よ り 七 十 年 程 後 に 越 後 守 顯 時 八 十 以 後 の 奥 書 の あ る 本 お の 金 澤 文 庫 よ り 出 た の を 見 た と あ る 。 ﹁ 顯 時 八 十 以 後 ﹂ と は 順 庵 の 誤 で あ ろ う が 、 山 梨 縣 の 池 上 靱 負 氏 藏 の 小 學 窮 本 一 帳 に は 尾 に ﹁ 金 澤 文 庫 ﹂ の 重 郭 墨 印 が あ り 、 奥 書 に ﹁ 文 永 七 年 七 月 廿 四 日 , 於 京 兆 け 女 房 御 中 陰 放 亭 抄 出 畢 ﹂ と 見 え る 。 文 永 七 年 は 小 學 の 撰 述 後 八 十 五 年 に 當 る が , 朱 子 の 残 年 か ら は 正 に 七 十 年 後 で あ る 。 そ し て ﹁ 京 兆 ﹂ が 左 京 椹 大 夫 北 條 政 村 と す れ ば 當 時 既 に 朱 子 の 遺 著 が 鎌 倉 に 傅 存 し て い た こ と と な る 。 も か よ う に 中 國 に お け る 學 庸 標 出 の こ と も 早 く 正 治 二 年 以 前 に 我 が 和 島 中 世 に お け る 宋 學 の 受 容 に つ い て 學 者 に 知 ら .れ 、 新 注 書 も そ の 頃 か ら 漸 く 我 が 國 に 傳 え ら れ た と 思 わ れ る が , た Ψ ﹁ 中 庸 注 事 、 以 本 経 爲 .家 論 , 不 被 執 新 注 ﹂ と い う 前 記 の 清 原 家 の 態 度 が 示 す 通 り 、 既 に 學 問 を 家 職 と し て い た 當 時 の 學 者 は , か の 國 の 経 學 界 の 新 傾 向 を 直 ち に 取 つ て 以 て 己 が 家 學 を 修 正 す る 程 因 襲 か ら 解 放 さ れ て は い な か つ た 。 從 つ て か よ う な 學 者 に よ つ て 宋 學 が 積 極 的 に 理 會 講 論 さ る べ く も な か つ た 。 .即 ち 新 注 書 の 傅 存 と 宋 學 の 本 質 的 受 容 と は 全 く 別 問 題 で あ る 。 も し 初 傳 時 代 の 宋 學 理 會 に つ い て 致 究 し よ う と す る な ら ば , か よ う に 傳 統 を 超 腕 し 得 な か つ た 學 者 よ り も , 同 じ く 文 化 人 で あ り な が ら 、 そ の 出 世 間 的 身 分 の 故 に 自 由 に 海 外 に 渡 航 し て 宋 土 の 學 者 に 親 災 し , 自 ら 典 籍 を 將 來 し 、 し か も 少 く と も 儒 教 に 關 す る 隈 り こ れ が 解 論 、 評 論 の 自 由 を 享 有 し て い た 侮 侶 の 業 績 の 考 察 こ そ 必 要 か つ 有 数 の こ と な の で あ る 。 呂 雫 安 時 代 中 期 以 來 荘 園 経 濟 の 瀾 熟 が 公 家 貴 族 の 政 治 的 就 會 的 地 位 の 根 抵 に 動 揺 を 來 ら し む る に 及 ん で 、 末 法 信 仰 は 歴 倒 的 に 流 行 し 、 浄 土 教 は こ Σ に 目 ざ ま し い 進 出 ぶ り を 示 し , 從 來 貴 族 暦 の 外 護 に よ り そ の 現 世 的 利 幅 を 保 誰 す べ き 所 癖 教 と し て 興 隆 し 來 つ た 顯 密 諸 宗 倣 甚 し く そ の 宗 教 的 構 威 を 失 曝 す る に 至 つ た 。 こ ㌧ に お い て 我 が 顯 密 諸 宗 僧 侶 の 己 が 宗 旨 の 行 き 詰 ま り を 打 開 せ ん が た め に 大 陸 に 渡 航 す る も の が 漸 く 多 き を 加 え た 。 北 宋 時 代 の 我 が 渡 航 僧 が 多 く 輩 に 佛 一 二 二

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帝 國 學 士 院 紀 事 第 五 巻 第 二 、 三 號 蹟 巡 禮 を 志 し た も の で あ つ た の に 封 し て , 南 宋 時 代 の 我 が 渡 航 信 が い す れ も 求 法 請 釜 を 目 的 と し た の は 宗 教 改 革 者 と し て の 使 命 の 自 畳   を 要 講 せ ら れ て い た 彼 等 と し て 當 然 の こ と で あ つ た 。 こ れ ら の 入 宋 俗 の 眼 に 映 じ た か の 地 の 思 想 , 宗 教 界 の 情 勢 と し て は ま す 第 一 に 澤 宗 の 流 行 で あ め ノ, 佛 教 内 部 に お け る 教 暉 融 合 が 進 展 し つ 、 あ る 一 方 , 唐 代 以 來 の 儒 道 道 佛 三 教 調 和 の 傾 向 は ま た い よ く 顯 著 で 、 殊 に 宋 學 の 成 立 蛮 展 に 際 し 、 儒 家 の 輝 宗 に 學 ん だ と こ ろ が 少 く な ヒ 、 從 つ て 儒 佛 二 教 間 の 交 渉 に 相 當 活 漫 な る も の が あ つ た こ と で あ る 。 か の 台 密 の 藍 奥 を 究 め , 葉 上 の 一 流 を 開 い た 榮 西 が 再 度 の 入 宋 に よ つ て 建 久 二 年 灘 宗 を も た ら し 節 り 、 灘 密 兼 修 の 新 宗 風 を 蛮 揚 し た の ほ は か の 地 の 教 輝 融 合 に 學 ぶ と こ ゐ が あ つ て の こ と で あ る が 、 こ れ に 劉 し , 宋 土 の 儒 佛 融 合 の 情 勢 を 我 が 國 に 移 し た の は ま す 俊 彷 で あ る 。 俊 彷 は 肥 後 の 人 , 正 治 元 年 入 宋 , 教 灘 律 を 笈 學 し て 建 暦 元 年 蹄 朝 、 や が て 泉 涌 寺 の 開 山 と な つ た が , そ の 蹄 朝 に 際 し 律 宗 経 書 、 天 の 台 章 疏 , 華 嚴 章 疏 , 儒 書 及 び 雑 書 合 せ て 二 千 一 百 三 雀 を 携 え 來 つ お た 。 こ の 中 儒 書 は 二 百 五 十 六 巷 を 数 え る が 、 惜 し む ら く は そ の 書 名 は 不 明 で あ る 。 し か し 俊 彷 が 在 宋 中 交 遊 し た 櫻 鍮 , 揚 簡 は 陸 子 と 師 弟 の 關 係 に あ り 、 朱 子 の 遺 著 論 孟 集 註 , 學 庸 章 句 が 刊 行 さ れ た の は 嘉 定 四 年 , .即 ち 俊 栃 麟 朝 の 年 の こ と で あ る 。 從 つ て 俊 彷 が 多 少 と も 宋 學 か ら 受 け る と こ ろ が あ つ た こ と は 考 え 得 ら れ る こ と で あ る 。 殊 一 一 四 に 泉 涌 寺 不 可 棄 法 師 傳 に 俊 彷 が 麟 朝 後 左 大 臣 徳 大 寺 公 継 の 昂 依 を 得 た こ と を 記 し て , 法 師 上 洛 後 , 左 府 會 面 時 , 欣 押 日 、 吾 短 疑 毎 銀 、 未 値 開 土 、 叔 心 如 調 飢 , 幸 今 遇 師 。 庶 勿 牧 隠 。 法 師 晒 然 諾 。 自 是 恢 後 、 筆 精 之 義 , 宋 朝 之 談 、 日 新 月 故 , 甕 々 不 怠 。 五 維 三 史 奥 粋 、 本 朝 未 談 之 義 、 法 師 甫 陳 。 左 府 聞 之 、 無 不 歎 異 , 漸 入 佛 教 、 大 小 爾 乗 、 戒 律 輝 門 、 貴 望 叩 問 , 随 叩 而 慮 、 岡 有 遺 滞 , と あ り 、 こ の ﹁ 本 朝 未 談 之 義 、 法 師 甫 陳 ﹂ が 俊 彷 を 我 が 國 に お け る   宋 學 の 首 唱 者 と す る 詮 の 根 擦 と な つ て い る 。 し か し ﹁ 本 朝 未 談 之 義 ﹂ は 必 す し も 宋 儒 新 注 の 論 と 限 ら れ ま い 。 殊 に 公 縫 が こ れ よ り い よ く 佛 法 に 蹄 し た と こ ろ か ら み れ ば む し ろ 儒 佛 融 合 論 で あ つ た と 思 わ れ る 。 詮 法 の と き 貴 族 の 儒 教 的 素 養 に 訴 え る の は 當 時 の 佛 家 の 慣 用 手 段 で あ つ た 。 宋 學 傳 來 と の 關 係 に お い て 俊 初 よ り も 一 暦 明 確 な 事 蹟 を 遺 し た の は 聖 一 國 師 圓 爾 辮 圓 で あ る 。 辮 圓 は 駿 河 の 人 , 少 年 に し て 天 台 を 學 び , 圓 城 寺 に て 落 髪 、 東 大 寺 に て 受 戒 し 、 京 都 に お い て 儒 學 、 老 蕪 學 を 學 び 、 つ い で 上 野 世 良 田 長 樂 寺 の 榮 朝 に つ い て 密 教 の 奥 義 を 究 め た が 、 な お 教 外 の 宗 旨 を 領 得 し よ う と し て 、 榮 朝 の 許 を 得 て 嘉 禎 元 年 三 十 四 歳 の と き 入 宋 し 、 径 山 の 佛 鑑 暉 師 無 準 師 範 に 参 す る こ と 六 年 、 傍 ら 戒 律 、 天 台 を 學 び 、 仁 治 二 年 博 多 に 蹄 着 、 や が て 前 撰 政

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九 條 道 家 に 請 ぜ ら れ て 東 幅 寺 の 開 山 と な つ た 鮎( 聖 一 國 師 年 譜 、 元 享 繹 書 ) 。 聖 一 國 師 年 譜 に よ れ ば 辮 圓 は 元 弘 三 年 ・そ の 示 寂 に 先 立 ち 、 自 ら 三 教 典 籍 ⋮目 録 を 造 り 、 こ れ を 束 幅 寺 普 門 院 の 書 庫 に 置 い た 。 こ れ は 恐 ら く 辮 圓 が 宋 土 か ら も た ら し た 書 目 を 載 せ た も の と 思 わ れ る が 、 今 こ れ を 見 な い 。 し か し 幸 に も 辮 圓 の 法 孫 で 文 和 二 年 普 門 院 に 住 し た 束 幅 寺 二 十 八 世 大 道 一 以 が 作 つ た ﹁ 普 門 院 経 論 章 疏 語 録 儒 書 等 目 録 ﹂ が 同 寺 常 樂 庵 に 現 存 し 、 辮 圓 の 藏 ⋮書 三 百 三 十 九 部 一 千 飴 雀 と 辮   圓 の 弟 子 奇 山 圓 然 の 私 本 二 十 二 部 と の 書 目 を 牧 載 し て い る 。 こ の 日 録 中 に 見 え る 儒 書 は 二 十 二 部 八 十 一 谷 で あ る が , そ の 申 宋 代 新 注 に 關 係 あ る も の と し て は 左 の 十 二 部 を 基 げ る こ と が で き る 。 皐 易 集 角 呂 氏 詩 記 胡 文 定 春 秋 解 晦 庵 大 學 晦 庵 大 學 或 問 晦 庵 中 庸 或 問 無 垢 先 生 申 庸 読 論 語 直 解 論 語 精 義 孟 子 精 義 三.三 三 三'七 三 一 四 五 八 冊 冊 冊 冊 冊 冊 冊 冊 冊 冊 和 島 中 世 に お け る 宋 學 の 受 容 に つ .い て 孟 子 二 冊 晦 庵 集 注 孟 子 三 冊 た Ψ 惜 し む ら く は こ れ ら の 儒 書 は 殆 ど 亡 侠 し 、 現 在 わ す か に 無 垢 先 い 生 中 庸 論 一 冊 が 存 し 、 昭 和 十 六 年 七 月 國 寳 に 指 定 さ れ た 。 さ て 年 譜 に よ れ ば 辮 圓 が 京 都 で 孔 老 を ・學 ん だ の は 十 九 歳 の 時 の こ と で あ る が , そ の 目 的 は ﹁ 外 侮 を 禦 ぐ ﹂ た め で あ つ た 。 儒 佛 道 三 教 の 交 渉 は 唐 代 以 來 の 趨 勢 で あ り 、 儒 繹 不 二 、 教 輝 融 合 の 立 場 も そ こ か ら 展 開 す る 。 從 つ て い や し く も 宗 教 界 に 地 渉 を 占 め ん と す る も の は 三 教 に 互 つ て 一 慮 の 見 解 を 持 つ こ と が 必 要 で あ つ た 。 辮 圓 が 宋 土 で 師 事 し た 無 準 も 三 教 聖 人 同 一 舌 頭 各 門 戸 を 開 く も そ の 青 蹄 を 鞠 す れ 20 ば 則 ち 了 に 二 致 無 し と 喝 破 し た 。 辮 圓 の 將 來 し た 書 目 が 廣 く 三 教 に 互 つ た の も あ え て 彼 の 蒐 集 欲 に よ ら す , 宋 土 の 教 壇 の 趨 勢 を 移 す こ と が 我 が 佛 教 界 に 一 新 生 面 を 開 く た め に 必 要 か つ 有 数 と 認 め た か ら で あ る 。 辮 圓 ほ こ れ ら の 將 來 曲 ハ籍 を 實 際 に 活 用 し た 。 ま す , か の 日 録 に ﹁ 宗 鏡 録 一 部 廿 冊 ﹂ ﹁ 宗 鏡 録 一 部 百 谷 ﹂ と 見 え て い る が 、 魏 圓 は 寛 元 三 年 後 嵯 蛾 天 皇 に こ の 宗 鏡 録 を 御 進 講 申 し 上 げ た 。 こ の 書 は 五 代 宋 初 の 僧 永 明 延 壽 の 撰 に 成 る 。 永 明 は か の 華 嚴 の 圓 理 を 輝 に 燈 現 し た 法 眼 文 釜 の 法 孫 で あ り 、 こ の 書 を 撰 修 す る に 當 つ て は 大 乗 経 倫 .二 千 部 の 外 , な お 印 度 、 中 國 の 聖 賢 三 百 飴 家 の 語 を 蒐 め 、 博 引 募 誰 、 以 て 教 灘 二 門 の 要 旨 を 述 べ 、 爾 者 折 衷 融 合 の 實 を 示 し た も の で 一 一 五

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帝 國 學 士 院 紀 事 第 五 巻 第 二 、 三 號 あ る 。 從 來 久 し く 顯 密 諸 宗 の 論 義 と 所 濤 と の み に 馴 れ た 宮 廷 に お い て , 辮 圓 の 暉 密 兼 修 の 宗 風 が 理 解 せ ら れ る に は 、 本 書 は ま こ と に 恰 好 な 経 典 で あ つ た 。 果 し て 御 進 講 は 叡 感 に 入 り 、 天 皇 は こ の 後 も 萬 機 の 暇 に 毎 に 本 書 を 閲 讃 せ ら れ , 途 に 震 筆 を 染 め て 、 ﹁ 朕 得 此 録 於 爾 師 , 見 性 巳 了 ﹂ と ・奥 書 を 加 え 給 う た 。 こ の 成 功 に よ つ て 辮 薗 は 朝 廷 の 御 殊 遇 を 恭 う し 、 後 嵯 蛾 、 魑 山 , 後 深 草 三 上 皇 の 御 受 戒 の 師 と な り 、 我 が 國 弾 徒 と し て 未 曾 有 の 榮 巻 を か ち 得 た の で あ る 。 京 都 に 於 け る 誹 圓 の 道 碁 は 鎌 倉 に も 傳 わ つ た 。 年 譜 に よ れ ば 正 嘉 元 年 排 圓 は 聰 せ ら れ て 再 変 鎌 倉 に 下 り , 前 執 椹 北 條 時 頼 の た め に ﹁ 大 明 録 ﹂ を 講 じ た 。 時 頼 は こ の 講 義 を 信 受 し , 辮 圓 を 壽 幅 寺 に 請 じ 、 か つ 將 軍 宗 尊 親 王 に 申 し て 講 圓 を し て 建 仁 寺 を 董 せ し め た 。 壽 頑 寺 は 榮 西 の 開 基 以 來 む し ろ 密 寺 と し て 當 時 に 至 つ た が 、 辮 圓 は 始 め て こ 義 に 灘 規 を 行 い , 又 そ の 頃 頽 慶 し て い た 建 仁 寺 を 重 興 し た と い う 。 さ て こ の ﹁ 大 明 録 ﹂ は 辮 薗 の 昂 朝 に 際 し て 無 準 が こ れ を 付 授 し て ﹁ 宗 門 大 事 備 此 書 。 子 蹄 本 土 , 以 是 爲 準 ﹂ と 言 つ た と 傳 え ら れ た 書 で , 普 門 院 の 目 録 に も ﹁ 大 明 録 三 冊 ﹂ と 見 え , 現 に 東 幅 寺 露 雲 軒 に そ の 宋 粟 本 を 藏 す る 。 ﹁ 大 明 録 ﹂ は 詳 し く は ﹁ 新 編 佛 法 大 明 録 ﹂ と い 瓦 , 南 宋 の 寳 慶 、 紹 定 年 間 に 圭 堂 と い う 居 士 が 大 慧 宗 呆 の 撰 に 成 る ﹁ 正 法 眼 藏 ⋮﹂ の 難 解 を 不 便 と し , 初 心 者 の た め に 佛 法 の 要 義 を 読 明 し よ う と し た も の で , 全 十 九 篇 の 中 巷 首 の 一 篇 を 総 叙 に あ て , 一 一 六 以 下 各 篇 に 経 論 祓 録 の 詮 を 列 墨 し つ エ , そ の 間 に 儒 佛 道 三 敦 の 類 似 の 諸 黙 を 指 摘 し 、 三 教 交 渉 の 實 際 を 知 る た め に は 甚 だ 便 利 な 書 で あ る 。 編 者 圭 堂 は 元 來 儒 者 で あ つ た が , 度 々 科 墨 に 落 第 し 、 途 に 佛 教 に 走 つ た 者 で あ り , 彼 の 三 教 観 は 宋 儒 の 立 揚 を 離 腕 し た も の で な 21 く 、 し か も 雑 駁 を 冤 れ な か つ た 。 虎 關 師 錬 は そ の 元 亨 繹 書 の 辮 圓 傳 に お い て 本 書 が 無 準 か ら 緋 圓 に 付 授 さ れ た こ と も , 辮 圓 が こ れ を 時 頼 に 講 じ た こ と も 、 と も に こ れ を 否 定 し , 殊 に 虎 關 自 身 嘗 て こ の 書 を 普 門 院 で 見 た が 迷 妄 の 甚 し い も の で 、 到 底 無 準 が こ れ を 特 に 探 り 輩 上 げ た と は 信 ぜ ら れ ぬ と て , 自 家 の 詩 文 集 濟 北 集 の 通 衡 の 中 か ら 本 書 に 論 難 を 加 え た 部 分 を 抄 出 し て い る 。 虎 關 の よ う に 正 法 暉 を 墾 揚 し よ う と す る も の に は 本 書 は ま つ た く 迷 妄 で 濟 度 し 難 い も の で あ ろ う 。 し か し 辮 圓 の 目 的 は 要 す る に 自 家 の 教 暉 融 合 の 立 場 を 時 頼 に 了 解 せ し め よ う と す る と こ ろ に あ り 、 そ の た め に は 教 暉 二 門 の 關 係 を 我 が 知 識 人 に 比 載 的 に わ か り 易 い 儒 教 的 論 理 乃 至 表 現 を 借 り る の が 最 も 便 利 で あ つ た 。 こ う い う 辮 圓 の 實 際 的 目 的 の た め に は 本 書 ぱ 相 當 の 利 用 債 値 が あ つ た 筈 で あ る 。 辮 圓 が 廣 く 三 教 に 互 つ て 見 解 を 有 し た こ と は 文 永 五 年 樺 大 納 言 堀 河 基 具 の 問 に 慮 じ て 三 教 要 略 を 述 べ て こ れ を 呈 し 、 建 治 元 年 に は 亀 山 法 皇 よ り 三 緻 の 旨 趣 に つ い て の 御 22 下 問 を 拝 し て い る の で も 知 ら れ る 。 然 ら ば 正 嘉 元 年 鎌 倉 に お い て 辮 圓 が , こ の 宋 儒 圭 堂 の 撰 に 成 り 、 中 に ﹁ 明 道 程 純 公 語 録 ﹂ も 引 用 さ

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れ て い る 大 明 録 を 講 す る に 當 つ て 、 も し 儒 佛 一 致 、 教 暉 融 合 を 論 じ た と す れ ば 、 そ の 際 自 ら 宋 學 の 一 端 が 開 顯 せ ら れ た こ と で あ ろ う 。 23 こ れ が 辮 圓 を 以 て 我 が 國 宋 學 の 草 分 け と す る 読 の あ る 所 以 で あ る 。 辮 圓 が 特 に 儒 佛 關 係 を 論 す べ き 適 材 で あ つ た こ と に つ い て は 文 永 五 年 菅 原 爲 長 と の 儒 佛 の 論 義 の 舅 頭 . 我 が 法 は 佛 々 相 援 け 組 々 相 傳 え , 世 尊 よ り 某 甲 に 至 る ま で 五 十 五 世 で あ る が 必 は 儒 門 に お い て 孔 子 よ り 幾 世 か と の 奇 問 を 呈 し , 爲 長 を し て 窮 せ し め た と や う 話 が あ 烈 る 。 こ れ は 辮 圓 が 儒 門 の 學 統 や 學 風 に つ い て 熟 知 し て い た た め の 勝 利 で , 當 時 の 識 者 の 喝 采 し た と こ ろ で あ ろ う 。 後 世 渡 宋 天 神 又 は 渡 唐 天 神 と て 道 服 仙 勉 に 袈 裟 を 着 け た 道 眞 の 書 像 が 流 行 し た 。 ﹁ 菅 紳 入 宋 授 衣 記 ﹂ 等 に よ れ ば , 辮 圓 の 夢 に 天 神 が 現 れ て 入 門 を 請 う た が 、 辮 圓 の 勧 に よ つ て 渡 宋 し て 辮 圓 の 師 無 準 に 参 じ 、 途 に 法 衣 を 許 さ れ た と い う 。 我 が 國 の 儒 宗 と 仰 が れ た 道 眞 に 辮 圓 が 結 び つ け ら れ て い る と こ ろ に 辮 圓 が そ の 儒 學 に お い て も 我 が 識 膏 の 信 敬 に 値 し た も の を 持 つ て い た こ と が 窺 わ れ る 。 辮 圓 の 我 が 知 識 階 級 の 儒 學 的 教 養 に 訴 え た ゆ き 方 は そ の 後 も 我 が 輝 信 や 渡 來 僧 め 踏 襲 す る と こ ろ と な つ た の で , こ れ ら の 暉 僧 の 儒 語 25 か ら 宋 學 傳 承 の あ と を 辿 ろ う と す る 向 も あ る 。 し か し 例 え ば 子 元 祀 元 の 語 録 に 宋 の 名 儒 方 秋 崖 が 籾 嚴 経 と 圓 畳 維 と は 佛 家 の 士 馬 城 廓 で あ る が 。 儒 家 に は こ れ に 匹 敵 す べ き 堅 甲 利 兵 が 無 い か ら 儒 家 が 輕 々 和 島 中 世 に お け る ・宋 學 の 受 容 に り い て 26 に 繹 教 を 議 す べ き で な い と 言 つ た と あ る よ う に 、 輝 僧 の 儒 詮 は 儒 法 墾 揚 の 方 便 で あ り , こ れ ら の 儒 語 を 弄 し た 輝 僧 が 必 す し も 皆 儒 學 の 本 質 を 把 握 し 、 進 ん で 暉 と 宋 學 と の 交 渉 に つ い て 見 解 を 立 て た と は 限 ら な い 。 か の 一 山 一 寧 は 儒 道 百 家 花 兼 通 す る 博 學 を 謳 わ れ た 渡 來 僧 で あ る が 、 海 藏 ⋮和 尚 ( 虎 關 師 録 ) 紀 年 鎌 に よ る と , 徳 治 二 年 十 月 , 虎 關 が 圓 畳 寺 で 無 爲 昭 元 に 侍 し て い た と き 、 病 に よ つ て 建 長 寺 よ り 常 樂 庵 に 退 去 し て い た 奮 師 囲 山 に 謁 し 、 程 楊 の 易 論 に 就 い て 質 問 し た が , こ れ に 劉 す る 一 山 の 返 答 は 左 の 通 り 甚 だ た よ り な い も の で あ る 。 山 日 , 一 寧 去 秋 病 飴 、 心 力 疲 勢 、 亦 不 能 深 教 文 義 。 兼 眼 昏 健 忘 、 不 得 記 憶 。 公 宜 細 攻 二 公 之 意 。 老 曾 於 此 事 不 曾 留 心 。 難 以 億 読 。 叉 至 於 筆 策 , 天 地 大 術 之 数 、 非 師 授 亦 不 得 而 知 之 , 生 雫 固 未 嘗 學 此 、 所 不 能 知 也 。 抑 々 二 程 子 の 易 哲 學 と 楊 敬 仲 の 己 易 論 と は 初 期 の 宋 學 の 成 立 過 程 に 於 い て 重 要 な 段 階 を 築 い た も の で , 殊 に 程 伊 川 の 易 論 は 華 嚴 経 の 三 法 界 観 に 立 脚 し 、 そ し て こ の 華 嚴 宗 と 暉 の 直 親 心 性 宗 と の 關 聯 は 既 に 唐 の 申 世 に 圭 峯 宗 密 が ﹁ 暉 源 諸 詮 集 ﹂ の 都 序 に お い て こ れ を 力 読 し た と こ ろ で 、 い や し く も 儒 佛 爾 教 に 互 つ て 一 の 見 解 を 立 て る 者 の 見 逃 が す べ か ら ざ る 急 所 で あ る 。 紀 年 録 に よ れ ば 虎 關 は 是 よ り 先 永 仁 五 年 七 月 、 上 京 し て 建 仁 寺 で 無 隠 圓 範 に 侍 し た と き 、 師 に 親 し 一 一 七

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帝 國 學 士 院 紀 事 第 五 巻 第 ご 、 三 號 か つ た 源 有 房 か ら 易 の 経 文 及 び ト 笠 に 關 す る 秘 説 を 授 け ら れ た か ら 、 こ の 念 所 に 心 づ い て い た の で あ ろ う 。 こ れ に 野 し て 病 飴 と は い え 一 山 の 返 答 が 閉 題 の 核 心 に 鰯 れ 得 な か つ た の は , た ま ・く 彼 の 宋 學 に 封 す る 關 心 の 不 足 を 暴 露 し た も の で は な い か 。 そ の 語 録 に 見 え る ﹁ 孔 子 .頒 ﹂ に し て も , そ れ と 並 ん で 掲 げ ら れ た ﹁ 老 子 頒 、﹂ と 同 楼 , た 穿 彼 の 文 學 意 欲 か ら 制 作 せ ら れ た も の と 見 ら れ , 特 に 彼 の 宋 學 に お け る 造 詣 を 示 す も の で は な い 。 一 山 を 以 て 宋 學 を 我 が 國 に 傳 れ え た 遠 組 と す る 説 に は 何 の 確 .詮 も 無 い の で あ る 。 右 の 虎 關 は 我 が 輝 僧 に し て 最 も 早 く 宋 儒 を 論 じ た 人 で あ る 。 彼 は 、 濟 北 集 ﹂ に お い て 圭 堂 が 程 明 道 の . 佛 氏 之 教 、 滞 固 者 入 於 枯 稿 , 疏 通 者 離 於 恣 雛 L を 稔 引 し た の を 責 め て 、 そ の 道 を 評 す る に 當 つ て 特 に そ の 徒 の 不 善 な る 者 を 墾 げ る 不 公 牛 を 難 じ , ま た 朱 子 が 佛 教 に 委 し か ら す , 謹 経 の 歴 史 を 知 ら な い の に 濫 り に 経 論 を 趣 殿 し , 殊 に 大 慧 の 機 辮 を 借 り て 儒 勢 を 助 け な が ら ﹁ 傳 燈 録 ﹂ を 誹 誇 し た こ と を 非 難 し , 朱 氏 は 儒 名 を 賞 る 者 で あ つ て 醇 儒 で は な い と 痛 撃 し た 。 虎 ⋮關 は な お 、 ﹁ 大 明 録 ﹂ 三 家 章 に つ い て 論 じ て い う 。 圭 飽 は ﹁ 儒 教 本 爲 人 道 之 宗 主 ﹂ と い う が , 儒 は 中 國 一 域 の 化 で 閻 浮 の 通 典 で は な く , そ の 主 た り 得 る の は 時 勢 に よ る の で あ り , 佛 教 か ら 見 れ ば 儒 道 は 人 天 乗 に .と 穿 ま り 到 底 佛 乗 に は 及 ば な い 。 ま た 圭 堂 は 程 伊 川 の ﹁ 眞 具 正 眼 者 , 終 不 妄 摘 其 一 二 句 之 相 似 者 , 強 合 附 會 、 以 棄 儒 宗 立 一 一 八 天 地 正 人 心 之 大 統 ﹂ と い う 語 を 引 い て い る が , 儒 の 五 常 と 佛 の 五 戒 と は 異 名 同 義 で あ り , こ れ を 合 論 す る こ と が 何 故 に 儒 を 素 ろ う か 。 し か し 儒 繹 の 同 異 は 六 識 の 限 界 に お け る 問 題 で あ り , 七 八 識 に 至 つ て は 儒 繹 と い う 庭 分 も 無 い か ら 爾 者 の 會 合 も あ り 得 な い と 。 虎 關 の 儒 學 に 關 す る 見 解 は 大 抵 . 大 明 録 L に よ つ た も の で あ り , ま た そ の 所 論 も 多 く 程 子 , 朱 子 の 佛 教 に 封 す る 態 度 を 論 難 し た ま で で 、 程 朱 學 の 内 容 に 燭 れ た も の で は な い 。 ぬ 虎 關 の 後 に 41 嚴 圓 月 が あ り , 元 よ り 麟 朝 後 多 分 建 武 元 年 頃 ﹁ 中 正 子 ﹂ 内 外 十 篇 を 薯 し 、 性 命 死 生 の 理 を 詮 い て 多 く 易 , 中 庸 を 租 述 し た が 、 し か も 儒 佛 の 相 表 裏 す る こ と を 力 説 し 、 匿 々 と し て こ れ を 分 別 し よ う と す る 儒 家 の 固 随 を 難 じ 、 外 な る 儒 よ り 内 な る 佛 に 帰 す べ き 所 以 を 基 げ 、 殊 に 張 程 の 徒 の 佛 語 を 弄 す る あ る も 佛 心 無 け れ ば 終 に 騨 に 非 す と 斥 け て い る 。 こ れ ま た 儒 家 の 佛 家 に 及 ぼ さ る こ と を 形 式 論 的 に 強 調 す る も の で あ つ て 、 そ の 宋 學 の 本 質 に つ い て 積 極 的 理 ・會 を 持 た ん と す る も の で な い こ と は 虎 關 の 場 合 と 同 様 で あ る 。 そ の ﹁ 上 建 武 天 子 表 ﹂ も 儒 家 の 王 道 倫 を 借 り た 佛 家 の 王 法 論 に 外 な ら な い 。 輝 僧 に し て 直 接 宋 學 に 封 し 明 確 な 見 解 を 示 し た の は .義 堂 周 信 で あ る 。 彼 は 上 佐 の 人 , 夢 窓 に 師 事 し て 博 く 佛 典 儒 書 を 渉 猟 し , 叉 詩 文 に 巧 み で あ つ た 。 延 文 四 年 關 束 管 領 足 利 基 氏 に 招 か れ て 鎌 倉 に 下

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り , 圓 畳 寺 , 瑞 泉 寺 に 佳 し 、 康 暦 一 で年 に 至 り , 將 軍 義 満 の 召 に よ つ て 京 都 に 蹄 り 、 建 仁 寺 , 等 持 寺 に 歴 住 し 、 南 輝 位 に 升 つ て 退 き 、 嘉 艇 28 慶 二 年 六 十 四 歳 を 以 て 入 寂 し た 。 そ の 日 記 日 用 工 夫 集 を 残 後 に 抄 録 補 修 し た 塞 華 日 用 工 夫 略 集 に よ れ ば , 慮 安 四 年 鎌 倉 瑞 泉 寺 に お い て 法 嗣 大 椿 周 亨 に 與 え だ 語 に 、 汎 孔 孟 之 書 於 吾 佛 書 、 乃 人 天 教 之 分 齊 也 。 不 必 專 門 。 姑 爲 助 道 之 一 耳 。 経 云 , 法 術 可 捨 , 何 況 非 法 。 如 是 講 則 儒 書 部 佛 書 也 。 即 ち 佛 法 開 顯 の 方 便 と し て の み 儒 書 講 詮 の 意 義 を 認 め て い る 。 從 つ て 外 書 外 學 に 淫 し て 参 藤 修 道 を 怠 る 者 は 嚴 に こ れ を 誠 め , 殊 に そ の 頃 常 陸 に 在 つ て 儒 書 を 講 じ , 佛 子 に 邪 見 を 起 さ せ て 償 た 資 中 な る ⋮憎 を い た く 非 難 し , 輝 徒 の 彼 に 儒 を 學 ぶ の を 阻 止 し よ う と し た 。 入 洛 後 、 康 暦 二 年 八 日 , 義 滴 が 等 持 院 に 詣 で た と き に 義 堂 を し て 中 庸 を 講 ぜ し め よ う と し た 。 義 堂 は 堅 酢 し た が 、 諸 長 老 管 領 が ﹁ 府 君 本 意 、 欲 興 和 術 談 道 , 今 誹 甚 不 可 也 ﹂ と 渤 め た の で よ う や く 五 六 紙 を 講 じ た 。 然 る に そ の 後 十 一 月 、 義 堂 は 義 浦 に 孟 子 を 諌 む こ と を 勧 め た 。 義 浦 は こ れ を 諾 し 、 そ の 後 實 際 に 孟 子 を 學 ん だ と 見 え , 翌 永 徳 元 年 一 九 月 二 十 二 日 義 堂 に 向 つ て 、 昨 日 儒 學 者 が 孟 子 の 書 を 講 す る に 、 そ の 義 各 同 じ か ら ざ る は 如 何 と 問 う た 。 義 堂 は 答 え て い う 、 所 見 不 同 也 。 . 近 世 儒 書 有 新 奮 二 義 , 程 朱 等 新 義 也 。 宋 朝 以 來 儒 學 者 、 皆 参 吾 騨 宗 、 一 分 嚢 明 心 地 。 故 注 書 與 章 句 學 迫 然 別   。 和 島 巾 世 に お け る 宋 學 の 受 容 に つ い て 四 書 盤 於 朱 晦 庵 、 々 '及 第 大 恵 書 一 雀 , 爲 理 性 學 本 云 々 。 こ れ は こ の 三 日 後 、 太 政 大 臣 二 條 良 基 の 新 奮 二 學 の 不 同 如 何 と い う 質 問 に 封 し て , 漢 以 來 及 唐 儒 者 、 皆 拘 章 句 者 也 。 宋 儒 乃 理 性 達 。 故 繹 義 太 高 。 其 故 何 則 皆 以 参 吾 暉 也 , と 答 え た の と 同 趣 旨 で あ り , 暉 僧 の 宋 學 に 封 す る 見 解 を 如 何 に も 明 快 に 示 し た も の で あ る 。 義 浦 は そ の 後 も 屡 々 孟 子 中 の 記 事 に つ M て 質 問 し た が , 義 堂 は 一 々 こ れ に 明 答 を 呈 し , 殊 に そ れ に 關 聯 し て 儒 繹 の 同 異 差 別 を 説 く に 努 め ㍗ そ の 年 + 二 月 ・ 蕪 は 畢 の 嚢 を 穂 き 畢 り , 次 に 大 學 を 聴 と う と し た 。 こ の と き 義 堂 は 唐 人 の 四 書 を 學 ぶ 者 は ま す 大 學 を 讃 む , そ れ は 大 學 が 治 國 脩 身 の 要 諦 を 教 え る か ら で あ る 。 も し 殿 下 が 四 書 を 學 ん で 怠 ら す ぼ 天 下 自 ら 治 ま る で あ ろ う と い い 、 ま た 略 々 四 書 の 次 第 を 論 き , 大 學 、 中 庸 は 最 も 治 世 の 書 30 で あ る と 述 べ た 。 義 満 は 義 堂 の 言 に 從 つ て 學 庸 を 賠 き 終 つ た ら し む い 。 翌 永 徳 二 年 ・二 月 、 義 満 は 義 堂 を 幕 府 に 招 き 論 語 を 講 ぜ し め , ま た ﹁ 仁 義 ﹂ の 一 噛季 を 問 う た 。 義 堂 は こ れ に 封 し 、 か の 輔 教 編 を 引 い て 儒 繹 ; 教 の 義 を 合 論 し , 在 儒 仁 , 義 , 禮 , 智 , 信 、 在 繹 不 殺 、 不 盗 、 不 婬 、 不 妄 、 不 酒 。 儒 謂 之 五 年 、 繹 謂 之 五 戒 、 其 名 異 其 謹 同 。 佛 初 爲 下 根 凡 夫 人 天 乗 、 .即 五 戒 十 善 也 。 然 則 佛 教 得 兼 儒 教 、 汝 救 不 得 兼 佛 教 、 一 一 九

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帝 國 學 士 院 紀 事 第 五 巻 第 ﹃ 三 號 と い 、 、 な お ﹁ 申 庸 ﹂ の 二 字 に 關 す る 義 満 の 質 問 に 封 し て も 、 喜 怒 哀 樂 未 .獲 , 謂 之 中 , 嚢 而 中 節 , 謂 之 和 。 々 .即 庸 也 。 謂 未 獲 .即 佛 教 一 念 未 生 以 前 也 。 這 箇 田 地 、 非 識 情 能 所 及 、 但 能 忘 情 者 得 到 云 々 、 32 と の 佛 ⋮教 的 解 繹 を 呈 し た 。 か よ う に 義 堂 は 四 書 の 談 義 に こ と よ せ て 義 満 ⋮を 儒 教 よ り 次 第 に 佛 教 に 導 い た 。 義 満 は 既 に 康 暦 二 年 以 來 頻 に 義 堂 に 輝 要 を 問 い , 圓 覧 経 を 講 ぜ し め な ど し た が 、 四 書 の 勉 強 の 進 む に 從 い , 永 徳 二 年 頃 よ り 漸 く 眞 摯 に 暉 道 に 入 つ た 。 從 つ て 塞 華 日 用 工 夫 略 集 に も こ の 年 九 月 條 よ り 下 に は 儒 教 關 係 の 記 事 を 漸 く 見 ぬ よ う に な つ て い る 。 そ も ー 儒 佛 融 合 の 理 を 論 き な が ら 儒 教 の 世 間 的 實 利 主 義 に 野 し て 佛 教 の 出 世 間 的 理 想 主 義 を 開 顯 し 、 宋 學 と 暉 宗 と の 交 渉 を 論 じ な が ら 實 践 哲 學 た る 宋 學 の 形 而 上 學 的 燈 系 は 暉 宗 の 直 観 的 理 倉 を 學 ん で こ そ 確 立 さ れ た も の で あ る こ と を 閾 明 す る の は 當 時 の 佛 家 澤 僧 の 會 心 と す る と こ ろ で あ つ た が , .義 堂 の 義 満 に お け る 場 合 の 如 き は そ の 最 も 成 功 し た 例 と い え よ う 。 輝 僧 の 儒 語 は そ の 後 も い よ く 繁 く 、 讐 然 た る 五 山 文 學 の 盛 観 を 現 出 し た が 、 そ れ は た 穿 暉 林 生 活 の 枯 淡 の 趣 味 を 拙吋 文 に 反 映 せ し め て 檀 那 の 好 爪同 に 投 す る も の に 過 ぎ す , 既 に 貴 族 佛 教 と し て 地 歩 を 確 立 し た 後 の 輝 宗 の 信 侶 は 次 第 に 宋 學 を 援 用 す る 積 極 的 理 由 を 忘 却 し た 。 宋 學 の 最 も 自 由 な 解 繹 者 た る 信 侶 の 一 二 〇 こ う し た 功 利 主 義 的 態 度 は 嘗 然 我 が 國 に お け る 宋 學 を そ の 本 質 に お い て は 展 開 せ し め な か つ た 。 そ こ に 我 が 宋 學 史 の 展 開 が そ の 受 容 形 態 の 方 面 か ら 特 別 に 考 察 さ れ ね ば な ら な い 理 由 が 存 す る の で あ る 。 三   近 代 猫 清 軒 玄 恵 法 印 , 以 宋 朝 漂 洛 之 養 爲 正 、開 講 席 於 朝 庭 以 來 、 程 朱 二 公 之 新 繹 可 爲 肝 心 候 也 。 凡 そ 我 が 宋 學 研 究 史 を 論 す る も の の 先 す 取 り 上 げ る 史 料 は 尺 素 往 來 の 右 の 一 節 で あ る 。 そ し て 大 日 本 史 が 右 の ﹁ 朝 庭 ﹂ を 專 ら 後 醍 醐 天 皇 の 朝 廷 と 解 し て 以 來 , 玄 恵 を 以 て 宋 學 の 首 唱 者 と し 、 皇 家 中 興 の 思 想 的 原 因 を 南 朝 忠 臣 の 宋 學 研 究 に 見 出 だ そ う と す る の が 近 世 星 界 の 流 風 で あ つ た 。 沢 素 往 來 は 現 に 内 閣 交 庫 に 長 享 、 大 永 , 永 緑 年 間 の 古 爲 本 を 存 し 、 そ の 中 の 長 享 本 の 奥 書 に は 明 か に ﹁ ︻ 條 灘 閤 兼 良 公 御 作 ﹂ と あ る が , 本 書 が 果 し て 博 學 の 兼 良 の 撰 に 成 つ た か 否 か は 本 書 の 内 容 の 信 愚 性 と は 自 ら 別 問 題 で あ り , 殊 に そ の ﹁ 朝 庭 ﹂ に つ い て の 大 日 本 史 の 解 繹 は 確 實 な 傍 誰 の 無 い 限 り 軍 な る 臆 断 で あ る こ と を 冤 れ な い 。 玄 恵 が 儒 道 忙 達 し て い た こ と は 、 花 園 天 皇 震 記 元 慮 元 年 閏 七 月 二 十 二 日 條 に , 今 夜 資 朝 、 公 時 等 於 御 堂 殿 上 局 談 論 語 、 僧 等 濟 六 交 之 。 朕 窩 立 聞 之 , 玄 恵 僧 都 義 誠 達 道 欺 、 と あ つ て , こ れ が ま た 當 時 の 記 錬 類 に お け る 玄 恵 の 名 の 初 見 で あ

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り 、 更 に そ の 頃 宮 中 に て 暉 儒 融 合 の 宋 朝 學 風 が 行 わ れ て い た こ と は 同 じ く 震 記 元 亨 二 年 七 月 條 に , 廿 七 日 、 晴 , 談 両 書 , 人 数 同 先 々 。 其 義 等 不 能 具 記 。 行 親 義 , 其 意 渉 佛 教 、 其 詞 似 暉 家 。 近 日 禁 裏 之 風 也 。 脚 是 宋 朝 之 義 也 , と 見 え る の で 明 か で あ る 。 し か し 玄 恵 そ の 人 が 宋 學 に 通 じ , か つ 宮 中 で そ の 講 席 を 開 い た と い う こ と は ま つ た く 史 誰 を 得 な い 。 何 と な れ ば 文 保 二 年 御 腕 展 後 の 花 園 上 皇 が 夜 中 窮 に 立 聞 き 遊 ば さ れ た ﹁ 御 堂 ﹂ が 後 醍 醐 天 皇 の 宮 中 で あ つ た と は 考 え 難 く , 震 記 に ﹁ 達 道 ﹂ と 評 せ ら れ て い る の も , 必 す し も 玄 惑 が 宋 學 の 道 學 的 部 面 に 通 達 し て い た こ と を 仰 せ ら れ た と は 断 定 で き す 、 ま た 他 方 宮 中 の 宋 學 講 莚 に を 玄 恵 か 砥 候 し た 確 澄 が 無 い か ら で あ る 。 も と よ り 太 雫 記 に は 有 名 な ﹁ 無 禮 講 附 玄 恵 文 談 事 ﹂ の 一 條 が あ り , こ の 無 禮 講 が 宮 中 に お い て 日 野 資 朝 、 同 俊 基 等 の 主 催 し た も の で あ つ た こ と は 震 記 正 中 元 年 十 一 月 朔 條 に 見 え る が 、 玄 恵 の 文 談 は 專 ら 太 弔 記 の 傳 え る と こ ろ で あ る 。 か の 難 太 .雫 記 に よ れ ば , 太 牛 記 の 初 稿 本 は 錦 小 路 殿 即 ち 足 利 直 義 の 校 閲 を 経 た も の で あ り , し か も 玄 惑 が こ の こ と に 與 つ て い る の で あ る か ら 、 文 談 の 一 事 は 必 す し も 否 定 さ る べ き で は あ る ま い 。 廊 只 際 文 談 の 條 の 太 雫 記 の 記 哉 は 當 時 直 義 の 恩 顧 を 受 け て い た 玄 患 の 立 場 を そ こ ね る も の で は な い 。 し か し 玄 恵 の 文 談 が 果 し て 太 雫 記 の い う 通 り 昌 黎 文 集 の 談 義 で あ つ た と す れ ば , こ れ を 以 て 直 ち に 宋 朝 漁 和 島 中 世 に お け る 宋 學 の 受 容 に つ い て 洛 の 義 が 講 ぜ ら れ た 澄 擦 と す る こ と は で き な い 。 畢 寛 玄 恵 の 宋 學 首 唱 は 史 上 に 明 徴 が 無 く 、 從 つ て 皇 家 中 興 蓮 動 に お け る 彼 の 貢 厭 も ま た そ の 確 誰 を 得 た こ と で は な い 。 尺 素 徒 來 の 作 者 は か の 震 記 の 記 事 二 箇 條 を 不 用 意 に 結 合 し て そ の 詮 を 成 し 、 大 日 本 史 は こ れ と 太 雫 記 の 記 事 と を 關 聯 せ し め て ﹁ 朝 庭 ﹂ を 後 醍 醐 天 皇 の 朝 廷 と .即 断 し た の で は な い か 。 玄 恵 が 足 利 氏 に 仕 え た こ と は 建 武 式 目 の 撰 定 者 八 人 中 に 名 を 列 ね て い る こ と に よ つ て も 明 か で あ り , そ の 親 慮 元 年 三 月 二   ぴ     日 入 寂 に 至 る ま で 直 義 の 厚 遇 を 享 け た こ と は 太 雫 記 の ﹁ 直 義 隈 遁 附 玄 恵 法 印 末 期 事 ﹂ の 條 に よ つ て 窺 わ れ ・る 。 こ の 親 慮 元 年 よ り 九 年 も 後 の 延 文 四 年 に 新 千 哉 集 が 勅 撰 さ れ た こ と を 哉 せ た ﹁ 遊 學 往 來 ﹂ が ﹁ 天 台 沙 門 玄 恵 撰 ﹂ に 擬 せ ら れ て い る が 、 こ れ を 太 雫 記 作 者 が ﹁ 比 叡 山 開 關 ノ 事 ﹂ の 條 で 、 ﹁ 大 智 廣 學 ノ 物 知 ﹂ た る 玄 恵 を し て 山 門 草 創 の 次 第 を 委 し く 語 ら せ て い る こ と に 照 合 す れ ば 、 玄 恵 は 元 廉 天 台 の 學 僧 と し て 知 ら れ た 者 で あ つ た と 思 わ れ る 。 喫 茶 往 來 , 庭 訓 往 來 な ど も 玄 患 の 作 に 假 託 さ れ た こ と は 周 知 の 通 り で あ る 。 し か し 玄 恵 34 の 儒 學 が 宋 朝 風 の も の で あ つ た と い う 誰 跡 は 依 然 見 當 ら な い 。 大 燈 國 師 語 録 に は 比 叡 山 の 曾 洗 心 子 玄 恵 が 諸 宗 の 英 特 及 び 一 時 の 碩 儒 を 率 い 、 (示 論 に よ つ て 暉 宗 を 破 せ ん 重 pを 奏 請 し て 許 さ れ , 宮 中 に お い て 南 暉 寺 通 翁 鏡 圓 及 び そ の 侍 者 宗 璽 妙 超 と 野 論 七 日 に 互 つ た が 、 問 答 は 灘 宗 側 の 勝 に 滞 し 、 爾 後 玄 恵 は 宗 峯 に 蹄 依 し , 爲 に 今 の 大 徳 寺 吋. 一 =

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帝 國 學 士 院 紀 事 第 五 巻 第 二 、 三 號 35 の 方 丈 を 造 つ た と い う 。 こ の 所 謂 正 中 宗 論 め 事 は 輝 宗 側 の 一 方 的 に 傳 え る と こ ろ で あ り 、 殊 に 叡 山 の 曾 が た や す く 灘 宗 に 韓 じ た と は 、 36 . 當 時 の 教 輝 關 係 か ら 見 て も 濫 り に 信 を お く べ く も な い 。 假 に こ の 玄 恵 修 輝 の こ と を 事 實 と 認 め 、 暉 儒 融 合 の 關 係 か ら 玄 恵 の 宋 學 師 承 の 可 能 性 を 探 ろ う と し て も 、 宗 峯 そ の 人 の 宋 學 理 倉 に つ い て 何 ら こ れ を 知 る べ き 手 が か り も な い 。 園 太 暦 に よ れ ば 玄 恵 の 晩 年 、 貞 和 五 年 七 月 十 二 日 、 光 明 上 皇 の 御 方 ( 持 明 院 殿 ) に て 禮 記 の 御 談 義 が あ り 、 大 外 記 中 原 師 利 が 殿 上 人 の 上 に 候 し て 郊 特 牲 を 講 繹 し 、 師 須 , 師 貫 と と も に 玄 恵 法 印 が 乙 板 敷 庇 に 候 し た が , ﹁ 強 無 殊 事 也 ﹂ と 記 さ れ て い る 。 か よ う に 玄 患 は 絡 始 持 明 院 統 乃 至 武 家 方 に 關 係 深 く , そ の ノ 儒 風 も 別 し て 新 奇 の 特 色 が あ つ た 様 子 は 見 え な い の で あ る 。 四 我 が 宋 學 研 究 の 最 初 を 物 語 る 史 料 と し て 珍 重 さ れ て 來 た 尺 素 往 來 の 記 事 な 今 や そ の 信 葱 性 を 失 墜 し た 。 我 々 は 當 時 の 我 が 儒 學 界  の {貫 際 を 傳 え る 第 一 等 の 史 料 と し て 、 花 園 天 皇 震 記 を 仰 ぎ 奉 る べ き で あ る 。 震 記 は 天 皇 御 在 位 中 の 延 慶 三 年 よ り 御 護 位 後 の 元 弘 二 年 ま で 二 十 二 年 簡 に わ た り , 雨 統 迭 立 期 の 宮 廷 事 情 を 知 る べ き 貴 重 な 史 料 で あ る が 、 殊 に 當 時 の 儒 佛 ; 教 の 流 行 に つ い て 全 篇 到 る と こ ろ に 示 さ れ た 卓 抜 な 御 見 解 は 中 世 宗 教 思 想 史 研 究 者 の 無 上 の 指 針 と 拝 せ ら れ る 。 天 皇 は 御 幼 少 よ り 佛 法 に 蹄 し , 御 譲 位 後 ま す 念 佛 宗 を き こ し 召 一 二 二 し , つ い で 天 台 、 眞 言 爾 宗 に つ き 御 研 鐙 あ り 、 し か も ﹁ 佛 法 本 意 、 37 又 是 以 所 濤 爲 本 哉 ﹂ に つ き 疑 念 を 抱 き 、、 や が て 元 亨 元 年 末 僧 妙 曉 を 38 召 し て 碧 山品 録 を 護 ま し め ら れ 、 ﹁ 於 此 宗 濁 有 頓 誰 義 ﹂ と て 爾 來 輝 宗 に 御 心 を 傾 け 給 い 、 妙 漉 入 元 後 は 南 暉 寺 通 翁 鏡 圓 の 侍 瀞 宗 峯 妙 超 に 滞 依 あ ら せ ら れ た 。 そ し て 建 武 二 年 十 一 月 御 薙 髪 の 後 荻 原 殿 に 移 御 , 延 元 二 年 宗 峯 入 滅 後 そ の 高 足 關 山 慧 玄 を 請 じ , 花 園 離 宮 を 捨 て て 暉 刹 と し 、 こ 、 に 参 じ て 問 法 あ ら せ ら れ た 。 こ れ が 帥 ち 妙 心 寺 で 39 あ る 。 か く て .貞 和 五 年 十 一 月 十 一 日 實 算 五 十 二 を 以 て 荻 原 殿 に 崩 御 40 あ ら せ ら れ た 。 浮 土 門 を 怨 で て 聖 道 門 に 入 り , 教 宗 を 究 め て 灘 宗 に 麟 し 給 う た 上 皇 の 信 仰 の 御 生 涯 を 貫 く も の は 實 に た ゆ み な き 修 道 の 御 精 神 で あ る が 、 上 皇 は 御 學 問 の 方 面 に て も 不 断 の 御 研 鑛 に よ つ て そ の 奥 義 に 通 達 せ ら れ た 。 震 記 を 拝 す る に 上 皇 は 御 在 位 中 御 年 十 八 の 時 , 正 和 二 年 十 月 寛 不 御 記 を 叡 覧 あ り , 菅 原 道 眞 等 の 諌 臣 の 多 か つ た 往 時 に 比 べ て 不 忠 不 直 の 臣 の 朝 に 満 つ る 末 代 澆 季 の 時 に 生 れ ら れ た 御 不 蓮 を 悲 し ま れ た が 、 御 譲 位 の 後 は ﹁ 只 養 精 紳 也 、 更 非 懸 思 於 政 道 , 所 期 脩 一 身 也 ﹂ と の 御 思 召 を 以 て 愈 々 學 道 に 御 精 進 遊 ぱ さ れ た 。 既 に 元 慮 元 年 三 月 以 來 貞 槻 政 要 の 御 談 義 を 行 わ せ ら れ た が 、 や が て 御 學 問 の お 樹 手 と し て 御 見 出 だ し に あ す か つ た の が 日 野 沓 朝 で あ つ た 。 震 記 元 慮 元 年 閏 七 月 四 月 條 に 仰 せ て い う , 入 夜 資 朝 参 。 召 前 談 道 。 頗 可 謂 得 道 之 大 燈 者 也 。 好 學 已 七 八 年 、

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雨 三 年 之 間 煩 得 道 之 大 意 、 而 興 諸 人 談 未 樗 旨 。 今 始 逢 知 意 、 終 夜 談 之 、 至 曉 鐘 不 怠 倦 。 そ し て 二 十 二 日 上 皇 が 中 原 章 任 か ら 令 論 を 受 け 給 う 時 、 資 朝 を し て 参 候 せ し ぬ ら れ た 。 か の 御 堂 殿 上 局 に て 資 朝 , 菅 原 公 時 等 が 玄 恵 等 の 僧 と と も に 論 語 を 談 す る の を 立 聞 き せ ら れ た の は 實 に こ の 夜 の こ と で あ つ た 。 徒 然 草 に は 、 爲 裳 大 納 言 入 道 、 召 し 捕 ら れ て , 武 士 ど も う ち 囹 み て 六 波 羅 へ ゐ て 行 き け れ ば 、 資 朝 卿 一 條 わ た り に て こ れ を 見 て 、 あ な う ら や ま し , 世 に あ ら む 思 ひ 出 , か く こ そ あ ら ま ぼ し け れ と そ い は れ け る 、 と い う 一 段 が あ る 。 京 極 爲 兼 は 永 仁 六 隼 三 月 事 に 坐 し て 武 家 に 捕 わ れ て 佐 渡 に 流 さ れ 、 後 赦 さ れ て 肺 京 , 椹 大 納 言 と な つ た が 、 正 和 二   年 出 家 , 同 四 年 十 二 月 又 捕 え ら れ て 土 佐 に 配 せ ら れ た 。 徒 然 草 の 右 の 記 事 は 正 和 四 年 、 ・即 ち 資 朝 が 論十 六 歳 で 、 客 氣 に 浦 ち て い た と き の 話 で あ ろ う 。 し か し 震 記 に 現 れ た 限 り で は 、 資 朝 が 特 に 革 新 的 の 學 詮 を 唱 え た と も 認 め ら れ な い 。 そ も ー 花 園 上 皇 は 政 治 就 會 に 於 、 け る 實 践 倫 理 的 敷 用 の 獲 揮 を 以 て 學 の 眞 面 月 と 思 召 さ れ た と 拝 察 さ れ る 。 今 日 伏 見 宮 家 に 御 草 稿 を 存 す る 學 道 之 御 記 の 辟 刀 頭 に , 夫 學 之 爲 用 , 堂 唯 多 識 文 字 , 博 記 右 事 而 巳 哉 。 所 以 達 本 性 、 脩 道 義 , 識 禮 義 , 辮 攣 通 、 知 往 堕 來 也 , 和 島 申 世 に お け る 宋 學 の 受 容 に つ い て . と あ り , 以 下 近 年 の 學 者 の 二 患 と し て 、 彊 識 博 聞 を 本 意 と し て 本 性 の 道 を 知 ら ぬ こ と , ま た こ の 本 性 を 究 ・盤 す る と て 濫 り に 聖 人 の 言 に 恣 意 的 解 繹 を 下 す こ と を 指 摘 さ れ て い る 。 震 記 に 伐 せ ら れ た ﹁ 凡 所 讃 経 苫 目 録 ﹂ ( 正 巾 元 年 ) に は 内 典 四 十 四 部 , 外 菩 三 十 二 部 、 本 朝 書 井 記 録 十 九 部 が 墨 げ ら れ や そ の 中 外 書 の 部 に は 左 傳 , 毛 詩 、 尚 書 , 禮 記 , 孝 経 、 倫 階 、 孟 子 、 史 記 , 漢 書 , 後 漢 書 , 通 鑑 、 老 子 、 荘 子 、 萄 子 、 准 南 子 , 貞 槻 政 要 等 が 見 え , 特 に 孟 子 に つ い て は , ﹁ 其 旨 誠 美 、 仲 尼 之 道 委 見 干 此 書 歎 。 准 人 之 心 性 、 明 道 之 精 美 、 不 可 如 此 書 ﹂   と 評 せ ら れ て い る 茄 、 目 録 に よ れ ば 上 皇 の 御 覧 ぜ ら れ た の は 古 注 で あ つ た 。 上 皇 は 元 亨 二 年 二 目 廿 三 日 、 菅 原 公 時 、 渤 修 寺 繧 顯 、 中 原 師 夏 を 召 し 、 勤 學 の 爲 に 翁 醤 の 談 義 を 開 か れ た 。 震 記 に そ の 御 趣 旨 を 記 し て 。 ﹁ 近 代 儒 風 大 慶 。 近 日 中 興 、 然 而 未 及 廣 、 或 有 異 義 , 爲 解 人 之 過 殊 所 談 也 ﹂ と 仰 せ ら れ て い る 。 こ の 御 談 義 は 翌 々 年 ま で 績 け ら れ 、 旺 中 元 年 ・三 目 八 日 尭 宴 を 賜 う た 。 こ の 聞 資 朝 も し ば く 砥 候 し た が , 謬 繹 は 專 ら 菅 中 爾 家 の 説 に 準 擦 し た 。 そ の 後 上 皇 は 引 績 き 論 語 , 毛 詩 を 溝 談 せ し め ら れ , こ れ に も 公 時 、 師 夏 等 が 奉 仕 し た 。 ま た 正 中 二 年 六 目 , 易 銃 を 讃 ま せ 給 う た が , こ れ は 易 は 五 十 以 後 に 學 ぶ べ し ど い う 俗 説 を 疑 わ れ て の 御 事 で 、 あ え て 積 極 的 に 易 哲 學 に 興 味 を 寄 せ 給 う た と は 拝 せ ら れ な い 。 右 の 菅 原 公 時 は 後 に 光 明 天 皇 の 御 知 遇 を 恭 う し , 庚 永 元 年 十 月 二 十 二 日 そ の 亮 去 す る や 、 天 一 二 三

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帝 國 學 士 院 紀 事 第 五 巻 第 二 、 三 號 皇 は 花 園 法 皇 , 光 嚴 上 皇 藷 つ て 普 曲 を 停 止 芒 め ら 臨 ・ ま た か の 玄 恵 が 砥 候 し た 貞 和 五 年 七 月 の 光 明 上 皇 の 御 方 に お け る 禮 記 御 談 義 に は 中 原 師 利 が 講 繹 し た こ と 前 記 の 通 り で あ り 、 一 た い に 持 明 院 読 に お か せ ら れ て は 菅 中 爾 家 の 學 問 を 用 い ら れ 、 特 に 宋 學 を 重 ん す る に 至 ら な か つ た よ う に 拝 察 せ ら れ る 。 こ れ に 封 し て 大 畳 寺 統 , 殊 に 後 醍 醐 天 皇 の 御 學 問 に つ い て は 直 接 に こ れ を 傳 え る 史 料 が 乏 し い 。 皇 考 後 宇 多 法 皇 は 天 性 聰 敏 , 博 く 経 史 を 覧 、 詩 句 に 巧 み に , 隷 書 を 善 く し 給 い 、 御 脱 展 後 , ・宇 多 法 皇 の 先 躍 を 追 い 密 ⋮教 の 奥 義 を 究 め 前 大 僑 正 灘 助 よ り 秘 密 灌 頂 を 受 け ら れ   た 。 法 皇 は な お 夙 に 灘 宗 に 御 心 を 寄 せ ら れ 、 南 浦 紹 明 の た め に 嘉 元 寺 を 建 て ん と し て 叡 山 の 反 封 に よ り 果 た し 給 わ な か つ た が 、 そ の 後 あ 一 山 一 寧 に 露 依 し 、 正 和 四 年 南 灘 入 院 の 勅 請 を 下 さ れ た 。 南 浦 , 一 山 は い す れ も 密 教 の 師 承 の 無 い 正 統 的 輝 僧 で あ る 。 我 々 は そ こ に も は や 榮 西 , 舞 圓 の 如 き 教 灘 兼 修 僧 を 介 せ す し て 自 ら 輝 密 一 致 の 妙 境   に 悟 入 せ ら れ た 法 皇 の 佛 道 に 劉 す る 深 き 御 理 倉 を 拝 す る 汎 、 法 皇 の 儒 道 に 封 す る 御 見 解 に つ い て は 特 に 傳 え ら れ る と こ ろ が 無 い よ う で あ る 。 或 は 寛 牛 御 遺 誠 に , 天 子 難 不 窮 維 史 百 家 、 而 有 何 所 恨 乎 。 唯 群 書 治 要 早 可 請 脅 。 勿 就 雑 文 以 沿 ⋮日 月 耳 、 と あ る の に は 從 わ れ た の で も あ ろ う か 。 紳 皇 正 統 記 も 、 後 醍 醐 天 皇 1 一 二 四 が 皇 太 子 に ま し ま し た と き , 皇 考 よ り 密 法 の 奥 義 を 受 け , な お 諸 流 諸 {示 を 學 ば せ 給 う た と と を 述 べ て 儒 學 め こ と に は 及 ん で い な い 。 然 る に 花 園 天 皇 震 記 に よ れ ば 後 醍 醐 天 皇 御 印 位 の 初 、 元 慮 、 元 亨 の 間 に 先 す 吉 田 冬 方 、 日 野 俊 基 等 の 張 行 に よ つ て 頻 に 道 徳 儒 敏 の 事 47 の 沙 汰 が あ り , や が て 主 上 が 中 庸 を 學 ぱ せ 給 う に 至 つ て 儒 教 中 興 の 紹 、 機 蓮 に 向 い 、 前 記 の よ う に 輝 儒 融 合 の 宋 朝 學 風 の 流 行 を 來 し た の で ゆ あ つ た 。 こ の 後 醍 醐 天 皇 の 宮 廷 に お け る 宋 風 流 行 に 玄 恵 が 必 す し も 積 極 的 な 關 係 ・を 持 た な か つ た こ 走 は 前 述 の 通 り で あ つ て こ 、 に 繰 返 り す ま で も な い が 、 さ り と て ま た こ の 流 行 の 淵 源 を 的 確 に 見 出 だ す こ と も ま た 困 難 で あ る 。 天 皇 側 近 の 學 者 と し て は ま す 吉 団 定 房 , 萬 里 50 小 路 宣 房 、 北 畠 親 房 の 所 謂 ﹁ 後 の 三 房 ﹂ を 基 ぐ べ き で あ ろ う が , こ れ ら の 人 々 と て 必 す し も 革 新 的 學 風 を 振 作 し た と は 認 め ら れ な い 。 元 億 三 年 辛 酉 歳 を 迎 え 。 延 喜 以 衆 の 慣 例 に 依 つ て 改 元 せ ら る べ き と こ ろ 、 そ の 正 月 二 十 九 日 大 外 記 中 原 師 緒 は 逸 早 く 勘 文 を 上 り , 延 喜 以 前 の 本 朝 史 籍 に は 辛 酉 當 否 の 事 を 載 せ て い す 、 経 書 に 照 し て 緯 詮 の 信 す べ か ら ざ る こ と を 詮 き , 改 元 の 無 用 を 主 張 し た が 、 朝 廷 は 終 に こ の 革 新 的 意 見 を 容 れ ら れ な か つ た 。 花 園 天 皇 震 記 是 歳 二 月 條 に 次 の 御 記 載 が あ る 。 廿 四 日 戊 辰 、 今 日 未 刺 侯 議 了 云 々 。 盆 日 不 可 有 改 元 之 由 風 聞 、 然 而 猫 有 議 改 元 云 汝 。 元 亨 之 由 治 定 云 汝 。

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震 記 に よ れ ば こ の 佼 議 は 内 大 臣 花 山 院 師 信 を 上 卿 と し , 二 十 三 日 戊 荊 に 始 め て 翌 日 の 未 刺 に 及 び 、 議 論 沸 騰 し た と の こ と で あ る が , 改 元 部 類 に 牧 め ら れ た 花 山 院 師 賢 の 手 記 に よ れ ば 、 も は や 改 元 そ の こ と の 可 否 は 問 題 で な く 、 文 章 博 士 日 野 資 朝 勘 申 の ﹁ 元 亨 ﹂ と 文 章 博 士 菅 原 家 高 勘 申 の ﹁ 弘 元 ﹂ と に つ い て 難 陳 の こ と が 行 わ れ 、 そ の 中 元 亨 に つ い て 先 す 宣 房 ( 前 中 納 言 ) が 、 亨 字 は 本 朝 に て は 新 字 で あ る が 唐 筒 宗 朝 に 乾 亨 元 號 の 嘉 例 が あ る と 基 げ , つ い で 親 房 ( 中 納 言 ) が 易 .の 文 を 引 い て 、 ﹁ 依 革 命 改 元 , 亨 字 有 使 之 由 ﹂ 数 刺 に わ た つ て 演 述 し 、 こ れ ら に 封 し 定 房 ( 橿 大 納 言 ) は 年 號 に 新 字 を 用 う る こ と 、 殊 げ に 慮 よ り 元 に 改 め る こ と に は 不 吉 の 先 例 が あ る と 難 色 を 示 し た が , 師 賢 が 反 封 に そ の 吉 例 を 塞 げ た の で 一 座 こ れ に 服 し 、 か く て 奏 上 の 結 果 、 元 亨 と 改 元 さ れ た の で あ つ た 。 こ の 間 の 三 房 の 論 議 は 先 例 に 準 擦 す る か . 然 ら す ば 維 文 に 拘 泥 し 、 し か も 終 に 緯 説 を 超 腕 し 得 ぬ も の で あ つ た 。 こ れ よ り 三 年 の 後 , 今 度 は 甲 子 の 歳 を 迎 え 、 革 令 改 元 の 侯 畿 が あ つ た が , 三 善 清 行 の 詮 に 從 い 、 紳 武 天 皇 元 年 を 一 蔀 の 首 と す れ ば , 今 年 は 大 愛 の 年 に 當 ら ぬ と い う も の が 多 く 、 改 元 の 議 51 は 一 た ん 取 止 め と な つ た 。 然 る に そ の 年 十 二 月 に 至 つ て や は り 正 中 と 改 元 せ ら れ た 。 そ れ は 風 水 の 害 に ょ る 改 元 と 稻 せ ら れ た が , 依 然 緯 説 を 無 覗 し 得 な か つ た た め ら し く も あ る 。 花 園 天 皇 震 記 是 歳 十 二 月 十 日 條 に 、 和 島 中 世 に お け る 朱 學 の 受 容 に つ い て 甲 子 改 元 今 年 無 沙 汰 。 及 歳 末 沙 汰 尤 不 審 。 但 依 風 水 改 元 云 々 。 然 而 實 者 若 甲 子 之 実 重 畳 之 故 鰍 、 と 見 え て い る の が 、 け だ し 眞 相 を 語 る も の で あ ろ う 。 從 つ て 前 記 の よ う に 元 慮 、 元 亨 年 間 に 吉 田 冬 方 や 日 野 俊 基 等 の 張 行 に よ つ て 頻 に 道 徳 儒 教 の 事 の 沙 汰 が あ つ た の も , 繹 儒 融 合 の 宋 朝 學 風 が 流 行 し た の .も , 必 す し も 後 醍 醐 天 皇 の 朝 廷 に お け る 學 問 の 蛮 も 展 の 必 然 的 肺 結 で は な く し て 、 朝 樺 "恢 復 の 計 を ⋮進 め ん と し た 一 部 の 朝 臣 等 の 啓 蒙 蓮 動 の 一 端 で あ り , 印 ち 政 治 的 契 機 に も と つ く と こ ろ で あ つ て 、 必 す し も 儒 學 の 革 新 そ の こ と を 本 來 の 目 的 と す る も の で は な か つ た 。 花 園 天 皇 辰 記 元 亨 三 年 七 月 十 九 日 條 に 仰 せ ら れ て い う 、 凡 近 日 朝 臣 多 以 儒 教 立 身 、 尤 可 然 。 政 道 之 中 興 又 因 蝕 鰍 。 而 上 下 合 躰 所 被 立 之 道 、 是 近 代 中 絶 之 故 、 都 無 知 實 儀 、 只 依 周 易 論 孟 大 學 中 庸 立 義 、 無 口 傳 之 間 , 面 々 立 自 己 之 風 。 依 是 或 有 難 誇 等 欺 。 然 而 於 大 躰 者 山豆 有 疑 殆 乎 。 但 近 日 風 躰 以 理 學 爲 先 、 不 拘 禮 儀 之 間 、 頗 有 隠 士 放 遊 之 風 。 於 朝 臣 者 不 可 然 鰍 。 此 是 則 近 日 之 弊 也 。 こ の ﹁ 不 拘 禮 儀 ﹂ は 同 じ ぐ 震 記 正 中 元 年 十 一 月 朔 條 に , 凡 近 日 或 人 云 , 資 朝 俊 基 等 、 結 衆 會 合 説 遊 , 或 不 着 衣 冠 、 殆 裸 形 、 飲 茶 之 會 有 之 。 是 學 達 士 之 風 鰍 。 岱 康 之 蓬 ・頭 散 帯 , 達 十 先 賢 荷 不 冤 其 駿 教 之 識 。 何 況 未 達 高 士 之 風 、 偏 縦 嗜 欲 之 志 、 濫 稻 一 二 五

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帝 國 學 士 院 紀 事 第 五 巻 第 二 、 三 號 方 外 之 名 。 山豆 協 孔 孟 之 意 乎 。 此 衆 姦 輩 。 蕉 之 羅 講 羅 破 之 衆 云 々 。 ⋮緬 素 及 数 多 、 と い う , ま さ に 無 禮 講 に ま で も 展 開 し か ね ぬ 楼 を 見 そ な わ し て の 御 記 載 で あ ろ う が , こ う し た 雰 園 氣 の 裡 に お 炉 て 宋 學 の 本 質 が 眞 摯 に 究 明 さ れ た と は 到 底 考 え 難 い 。 殊 に こ の 資 朝 の 性 格 に つ い て 徒 然 草 に 今 一 つ 牧 め ら れ て い る 挿 話 が あ る 。 西 大 寺 の 長 老 静 然 が 腰 か 穿 ま り 眉 白 く , ま こ と に 徳 た け た る あ り さ ま で 参 内 し た 時 , 内 大 臣 西 園 寺 實 衡 は そ の 如 何 に も 高 徳 の 僧 の さ ま に 打 た れ た の で あ つ た が , 資 朝 は 事 も な げ 忙 ﹁ 年 の よ り た る に 候 ﹂ と い い , し か も 後 日 む く 犬 の あ さ ま し ズ 老 い さ ら ば え , 毛 も は げ た の を 實 衡 の も と に 引 か せ ﹁ こ の 氣 色 た ふ と く 見 え て 候 ﹂ と い い や つ た と い う の で あ る 。 傅 統 的 な 皮 相 的 な 椹 威 に 反 擾 し よ う と す る 資 朝 の 意 氣 は 一 慮 壮 と す べ き で あ る か も 知 れ ぬ が 、 そ の や り 方 に は 如 何 忙 も 街 氣 が あ ら わ で あ る 。 こ う い う ゆ き 方 に 導 か れ た 新 學 佛 究 が 、 し か も 政 治 還 動 と 結 び つ い た と こ ろ に 究 理 益 性 の 内 省 的 思 索 探 究 が 展 開 す る こ と は 期 待 す べ く も あ る ま い 。 殊 に こ の 正 中 元 年 九 月 十 だ 日 忙 は 六 波 羅 が 討 幕 の 謀 の あ る の を 知 つ て 兵 を 遣 わ し て 土 岐 頼 飛 、 多 治 見 國 長 を 殺 し 、 資 朝 , 俊 ' 52 基 を 捕 え た 所 謂 正 中 の 攣 が 勃 獲 .し た の で あ つ て 、 資 朝 や 俊 基 に 依 つ て 宮 廷 で 張 行 さ れ て 來 た 新 學 が 、 相 常 進 展 を 示 し て い た と し て も , こ の 際 一 頓 挫 を 來 し た こ と は 疑 う べ く も な か ろ う 。 か く て ﹁ 主 上 殊 謂 ご 六  ゆ 令 學 中 庸 道 給 。 政 道 可 鯖 淳 素 ﹂ と 期 待 せ ら れ 、 後 世 に も 喧 傅 さ れ た 後 醍 醐 天 皇 宮 中 の 新 學 謙 鑓 も 、 結 局 は 皮 相 的 な 啓 蒙 蓮 動 に 終 始 し た も の と 認 め ら れ る 。 こ の 間 の 治 息 を 傅 え て 委 曲 を 霊 し た も の は 元 徳 二 年 二 月 花 園 土 皇 が 皇 太 子 硅 仁 親 王 に 聡 ら せ た 震 翰 ﹁ 誠 太 子 書 ﹂ 中 の 左 の 7 節 で あ ろ う 。 近 世 以 來 , 愚 儒 之 庸 才 、 所 學 則 徒 守 仁 義 之 名 、 未 知 儒 教 之 本 。 勢 而 無 功 。 馬 史 之 所 譜 博 而 寡 要 也 。 叉 頃 年 有 一 群 之 學 徒 。 ⋮僅 聞 聖 人 之 一 言 , 自 舳 胸 臆 之 論 , 借 佛 老 之 詞 , 濫 取 中 庸 之 義 , 以 湛 然 盧 寂 之 理 , 爲 儒 之 本 , 曾 不 知 仁 義 忠 孝 之 道 、 不 協 法 度 、 不 辮 禮 儀 、 無 欲 清 浮 則 錐 似 可 取 , 唯 是 荘 老 之 道 也 。 貴 爲 孔 孟 之 教 乎 。 是 並 不 知 儒 教 之 本 也 。 不 可 取 之 。 め 後 年 、 量 仁 親 王 即 ち 光 嚴 上 皇 に は 花 園 法 皇 の 仙 洞 荻 原 殿 に 御 幸 、 紀 行 親 等 を 召 し 禮 記 、 中 庸 の 談 義 を 行 わ せ ら れ た つ 洞 院 公 賢 は こ の こ と を 園 太 暦 康 永 三 年 十 目 二 十 一 月 條 に 記 し 、 是 近 廉 稀 儒 教 、 以 佛 教 混 齪 , 定 申 之 輩 有 之 歎 。 目 禁 裏 蓮 々 御 談 義 倫 義 等 之 時 、 少 々 有 雑 説 事 。 防 召 彼 輩 。 法 皇 頻 有 楓 諌 勅 定 、 事 及 再 三 。 尤 交 道 之 紹 隆 欺 。 先 輩 先 師 定 有 両 饗 欺 。 法 皇 の 御 楓 諫 は 恐 ら く ﹁ 誠 太 予 書 ﹂ の 御 趣 旨 を 繰 り 返 さ せ ら れ た も の で あ ろ う 。 こ の 行 親 は 観 貞 和 元 年 。 ﹂目 ヒ 日 盗 賊 に 害 せ ら れ た が 、 こ れ に つ い て 公 賢 は ﹁ 儒 學 事 随 分 誇 張 近 來 諸 人 之 師 也 。 尤 不 便 。

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但 所 立 之 義 勢 若 不 叶 聖 黎 欺 。 可 怖 々 々 ﹂ と 記 し て い る 。 街 學 的 な 宋 朝 談 義 が 當 時 の 措 紳 に 如 何 な る 印 象 を 與 え て い た か が 察 せ ら れ る 。 五 こ 瓦 に 鎌 倉 , 南 北 朝 時 代 の 宋 學 に つ い て 結 論 を 下 す 前 に 是 非 と も 注 目 す べ き は い う ま で も な く 北 畠 親 房 の 學 ⋮問 で あ る 。 現 に こ の 章 の は じ め に 引 い た 尺 素 往 來 は 綾 い て な お 紀 傳 道 の こ と を 記 し 、 次 紀 傳 者 、 史 記 井 爾 漢 書 , ・三 國 史 、 督 書 , 唐 書 及 十 七 代 史 等 , 南 式 菅 江 之 数 家 被 傳 其 詮 乎 。 是 又 當 世 付 玄 恵 之 議 資 治 通 鑑 , 宋 朝 通 鑑 等 人 々 傳 受 之 。 特 北 畠 入 道 准 后 被 得 葱 奥 云 々 , と 見 え る 。 司 馬 光 の 資 治 通 鑑 編 纂 の 目 的 が 政 道 に 於 け る 渤 誠 に あ つ た こ と は そ の 進 表 に 於 い て 明 か で あ り , 既 に 花 園 上 皇 も ﹁ 此 書 歴 代 54 治 乱 與 君 臣 善 悪 大 概 無 遣 , 尤 櫃 要 之 書 也 ﹂ と 評 せ ら れ た 。 親 房 が 玄 恵 か ら 資 治 通 鑑 を 傳 受 し た と は 他 に 確 諮 の 無 い こ と で あ る が 、 親 房 に 神 皇 正 統 記 の 著 が あ り , そ の 後 醍 醐 天 皇 崩 御 の 條 に 、 ﹁ 昔 仲 尼 は 獲 麟 に 筆 を 絶 と あ れ ば 、 愛 に て と ぐ ま り た く 侍 れ ど 、 神 皇 正 統 の よ こ し ま な る ま じ き 理 り を 申 し 述 べ て 素 意 の す ゑ を も あ ら は さ ま ほ し く て , し ゐ て し る し つ け 侍 る な り ﹂ と い 弓 と こ ろ か ら 親 房 が 春 秋 の 遺 旨 を 糧 ぐ も の で あ り , そ の 正 統 論 も 通 鑑 に 依 つ て 學 び 得 た 大 義 に 由 來 す る と い う 見 方 が 大 日 本 史 以 來 行 わ れ , 今 も な お 一 つ の 通 説 と 55 な つ て い る 。 し か し 通 鑑 巻 頭 の 名 分 論 に お い て 君 臣 の 大 義 を 強 調 し 和 島 中 世 に お け る 朱 學 の 受 容 に つ い て た 司 馬 光 も 正 統 論 に は 極 め て 治 極 的 態 度 を と り , 從 廉 の 政 治 的 統 一 を 要 件 と す る 正 統 論 は そ の 統 ︼ 王 朝 の 存 績 す る 間 だ け に 意 義 の あ る も の で あ り , 從 つ て 各 時 代 を 一 貫 し て 正 統 の 系 列 を 立 て る こ と は 困 難 で あ る こ と を 指 摘 し , 己 が 修 史 の 目 的 は た Ψ 國 家 の 盛 衰 、 生 民 の 休 戚 を 叙 し 、 槻 者 を し て 自 ら そ の 善 悪 得 失 を 撰 ん で 勧 誠 と な さ し む 56 る に あ る と 言 つ た 。 甫 宋 時 代 に は 政 治 的 統 一 を 要 件 と す る 正 統 論 は 立 場 を 失 つ た が 、 朱 予 は 麺 鑑 の 客 親 的 態 度 に 懐 ら す 、 そ の 著 通 鑑 綱 目 に お い て は 正 統 の 根 擦 を 專 ら 政 治 倫 理 に 置 き , 種 々 の 義 例 を 設 け て 正 閏 名 分 を 正 し 、 殊 に 尊 王 擁 夷 を 鼓 吹 し 噂 正 統 論 と 名 ・分 論 と の 轍 合 に よ り 春 秋 學 に 宋 代 の 學 と し て の 特 徴 を 賦 與 し た 。 親 房 が こ の 通 鑑 綱 口 を 讃 ん だ か 否 か は 詳 で な い が , 通 鑑 綱 目 が 督 , .階 の 間 を 、無 統 と し た の に 劉 し て 親 房 は ・ ﹁ 南 は 正 統 を う け ﹂ ﹁ 階 は 北 朝 の 後 周 と い 57 ふ が ゆ づ り を う け た り き ﹂ と , む し ろ 資 治 通 鑑 に 從 つ て い る 。 元 來 王 朝 の 交 迭 が 是 認 さ れ て い る 中 國 の 正 統 論 , 名 分 論 は 根 本 的 に 我 が 國 に 適 用 さ る べ く も な い 。 ﹁ 伏 犠 氏 の 後 , 天 子 の 氏 姓 を 稗 た る 事 す で に 三 十 六 ﹂ に 及 ぶ ﹁ こ と さ ら み だ り が は し き 國 .﹂ 震 旦 に 比 較 し て 我 が 國 腿 の 優 越 を 基 げ 、 唯 我 國 の み , 天 地 ひ ら け し 初 よ り 今 の 世 の 今 日 に 至 る ま で 日 嗣 を 受 給 ふ 事 よ こ し ま な ら す 、 ︼ 種 姓 の 中 に を き て も , を の つ か ら 傍 よ り 傳 へ 給 ひ し す ら 、 猫 正 に か へ る 道 あ り て ぞ た も ち ま し = 一 七

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