氏 名 井上 絵梨 博士の専攻分野の名称 博士(工学) 学 位 記 番 号 医工博甲 第466号 学 位 授 与 年 月 日 令和2年3月19日 学 位 授 与 の 要 件 学位規則第4条第1項該当 専 攻 名 環境社会創生工学専攻 学 位 論 文 題 目 赤ワイン醸造においてブドウ由来不溶性化合物がフェノール化合 物の動態に与える影響 論 文 審 査 委 員 主査 教 授 奥田 徹 教 授 柳田 藤寿 教 授 鈴木 俊二 教 授 望月 和樹 教 授 岸本 宗和 准教授 久本 雅嗣
学位論文内容の要旨
赤ワインに含まれるフェノール化合物,特にタンニンおよびアントシアニンは,ワイン に収斂みや苦みなどの味わいや,色調に影響を与え,ワインの品質に大きく寄与している. ワイン中のタンニンとアントシアニンの濃度は,ワインの価格に非常に強い正の相関関係 を有し,これらの濃度が高いワインは,消費者に高品質なワインとして評価されている. 従って,高品質なワインを製造するためには,ワイン製造中のフェノール化合物濃度制御 に関する技術開発が重要である。そこで,本研究では,赤ワイン醸造におけるフェノール 化合物の抽出機構について研究を行った. 1. 赤ワイン醸造時におけるフェノール化合物の抽出 カベルネ・ソービニヨン(CS)およびマスカット・ベーリーA(MBA)を供試し醸造試験 を行った.醸造試験は,コントロール発酵,果皮発酵(種子抜き),種子発酵(果皮抜き) の3 つの系で実施し,ブドウの部位別のフェノール化合物の抽出挙動を調べた。 果皮発酵および種子発酵の醸造試験データを組み合わせることで,コントロール発酵の全 フェノール化合物濃度(TP)およびタンニン濃度(PA)の挙動の詳細が明らかになった.また,MBA では,ワイン中に含まれるフェノール化合物のほとんどが果皮に由来し,種子 由来のものは非常に少なかった.一方,CS ワイン中の種子 PA 濃度は,発酵後期から増加
したが,果皮PA 濃度は減少した.したがって,果皮由来のフェノール化合物濃度に影響を
与えうる醸造中の果帽管理や圧搾のタイミングを考えることが重要であると考えられた. また,本実験結果は,発酵が進む過程でブドウの細胞壁が崩れ,不溶性化合物(Insoluble Cell Wall Materials; IC)がマスト中に露出し,既に抽出されたフェノール化合物が吸着する可 能性を示唆した. 2. 赤ワイン醸造時のマスト液体および果皮中のフェノール化合物濃度の変化 CS および MBA を供試し,醸造試験を行った.醸造試験では,マスト液体部分だけでなく 果皮中のフェノール化合物濃度も分析し,発酵中のフェノール化合物抽出と果皮由来IC の 影響を調査した.CS では TP 濃度は発酵とともに増加し続け,MBA では発酵 5 日目をピ ークにその後減少し,23.3%の TP がマスト液体部分から消失した.CS の PA 濃度は,TP 濃度と同様に発酵中増加し続けたが,MBA では発酵 4 日目をピークに減少した.これらの 結果は第二章でのコントロール発酵の結果を支持した.さらに,CS 果皮中の TP 量は,発 酵9 日目まで減少し続け,その後増加した.PA 量でも同様の挙動が見られた.って,CS では,フェノール化合物の中でも,特にPA が果皮に再吸着したことが示唆された.また, MBA 果皮中の TP 量は発酵 6 日目まで減少したが,その後緩やかに増加した.一方,PA は発酵終了時点で殆どMBA の果皮に含まれていなかった.これらの結果は,果皮の IC は マストに抽出されたフェノール化合物を再吸着し,また,より選択的にPA を吸着すること を示した.マスト液体中のアントシアニン量は,CS および MBA において発酵 6 日目まで 増加し,その後減少した.果皮中のアントシアニン量は,発酵5 日目まで急激に減少し, その後平衡状態となった.また,アントシアニンの疎水性の違いに着目し,抽出挙動を追 った結果,疎水性の低いアントシアニンは発酵初期から抽出され,疎水性の高いアントシ アニンは発酵中後期に抽出される傾向にあることが示された.また,疎水性の高いアント シアニンは,低いものと比べてマスト中に残存していた.しかし,果皮中のアントシアニ ン量は,一度抽出されたが,その後,果皮中で増加することはなかった. 3. ブドウ由来不溶性化合物へのフェノール化合物の吸着特性 ブドウ果皮,果肉および種子からそれぞれ不溶性化合物(IC)を調製し,IC が果皮由来の フェノール化合物に対してどのような影響を与えるか,モデル系実験で検討を行った.ブ ドウはCS および MBA を供試し,部位別に IC を調製した.また,フェノール化合物の抽
出および分画を行い,果皮タンニン画分とアントシアニン画分を得た. CS では,標準モデルワイン溶液中において,果皮 IC は全アントシアニンを 12%吸着し, 果肉IC と種子 IC ではそれぞれ 4%吸着した.MBA では,果皮 IC は 20%,果肉 IC は 5%, 種子IC は 3%のアントシアニン吸着能を有していた.よって,MBA 果皮 IC の高い吸着能 はMBA の特性であることが考えられた.また,CS および MBA において,果皮 IC は約 30%の果皮タンニンを吸着した.分子量が大きいフェノール化合物は IC に吸着しやすいと いう報告があり,アントシアニンに比べて,果皮タンニンがより吸着しやすいことが示さ れた. 赤ワイン醸造の条件によって変化しやすいものにpH とエタノール濃度があり,それらの条 件を変化させたうえで,アントシアニンおよび果皮タンニンの吸着を測定した.pH の変化 に関係なく,MBA 果皮 IC のアントシアニン吸着率は CS に比べて高く推移した.また, アントシアニン吸着率はpH の変化によって変動し,極大および極小の吸着率が認められた. IC の化学的および物理的性質はまだ殆どが明らかになっていないが,IC に含まれるタンパ ク質の等電点やカルボキシ基の酸解離定数がアントシアニンとの相互作用に影響を及ぼし, 吸着率の極大や極小が認められる要因のひとつである可能性が示唆された.さらに,エタ ノール濃度の増加に伴いアントシアニン吸着率は減少したことから,疎水性相互作用を介 してアントシアニン吸着が起きていることが示唆された.一方,果皮タンニンの吸着はpH の影響を強く受け,pH 3.3 付近で極大が認められた.エタノール濃度に関しては,アント シアニン吸着と同様の現象が認められた. 以上の結果より,赤ワイン醸造中にフェノール化合物は果皮や種子から抽出されるが,醸 し発酵中に果皮への吸着が同時に進行し,特に赤ワインの酒質に重要だと考えられる果皮 PA が減少すること,およびその吸着条件としてマストの pH が重要であることを示した。
論文審査結果の要旨
フェノール化合物がワインの品質に重要なことは良く知られており,世界中で多くの研究 が行われてきた。そして,近年,その抽出機構が非常に複雑なことが明らかになってきた。 本研究では,その複雑な機構の解明に挑戦し,下記のような大きな成果を得ている。 ブドウの場合,フェノール化合物の大部分は果皮と種子に存在する。2章の実験では,原料ブドウから種子と果皮を分離し,発酵試験を行うことで,種子および果皮からどのよう にフェノール化合物が抽出されるのかを調べた。我が国で主要な赤ワインであるMuscat Bailey A 種(MBA)では,他の品種に比べてタンニンの濃度が極端に少ないことが以前の 研究で知られており,その原因は醸造中にタンニン濃度が急速に減少することであること が報告されている。本研究では,この現象を再現するだけでなく,それが果皮由来のタン ニン濃度の変化によることを明らかにした。また,Cabernet Sauvignon(CS)でも同様の 知見を得た。果皮由来のタンニンは,高品質ワインに重要な成分であることがオーストラ リアのグループより報告されており,おいしさに重要だと考えられる果皮タンニンが減少 することは,ワインの品質を大きく下げる原因になっていると考えられた。 2 章の結果から,ブドウの品種を問わず,ワインの品質に重要とされる果皮由来のフェノー ル化合物が,ワイン製造中に液体部分から消失することが明らかになった。消失したフェ ノール化合物は,①滓として沈殿した,②果皮などに吸着することで液体部分から除去さ れた,③構造が大幅に変わり測定ができなくなった,の3つの可能性が考えられたが,予 備試験の結果①の量は少なく,③の可能性は考えにくく,②の可能性が高いことが明らか になった。そこで,3章では,ワイン発酵中の果皮中のフェノール化合物濃度も測定する ことで,果皮への結合が起こっているのかを確認した。その結果,アルコール発酵後期に おいて,果皮中のフェノール化合物濃度の増加が確認された。このことから,ワイン醸造 中に果皮から液体部分に抽出されるフェノール化合物が,再度果皮に吸着し,濃度の減少 が起きることが確認された。また,果皮に戻ることを考えると,結合しているのは果皮に 存在している不溶性多糖類などが原因であると考えられた。 3章の結果から,濃度低下の原因は明らかになったが,結合能に関する化学量論的な解析 が不十分であった。そこで,フェノール化合物と不溶性化合物を別々に調製し,これらの 結合能力についてモデル系で分析した。その結果,品種によって差はあるものの,果皮の 不溶性化合物には相当量のフェノール化合物が結合することが明らかになった。また,こ の結合には疎水性が重要であり,アルコール濃度の増加とともに結合量が低下した。また, 興味深いことにpH により結合力は変化し,極大・極小を与える pH が存在した。アルコー ル濃度が影響を与えることから,疎水結合が影響を与えることが示唆された。 以上の結果から,本実験により赤ワイン製造時のフェノール化合物の抽出機構について 大きな成果が得られたと考えられた。一方で,審査員より当初のタイトル「ブドウ由来ポ リフェノールと不溶性化合物の相互作用に関する研究」について「相互作用」とするには 結合定数などが測定されておらず,言葉の使い方が不適切であるとの指摘があった。また, 章の構成について改定案が出された。以上のことから,博士論文のタイトルを変更し,さ
らに章の構成を修正することで,博士課程の学位論文として認めることとした。
その後タイトルを「赤ワイン醸造においてブドウ由来不溶性化合物がフェノール化合物の 動態に与える影響」に変更し,章の修正を全委員で確認し,最終試験の合格と判断した。