第二次世界大戦とアジア・太平洋戦争 : その反共的性格についてのノート
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(2) 30. 木村. 大戦の構造と 性格」歴、 1996 、 1M). 英亮. と 書いている。. しかし、 2(H世紀末の段階で、 資本主義諸国と 社会主義諸国の 対立という第二次大戦後の 過程 を 全体としてみると、. 第二次大戦も 独ソの戦争を 基本として整理してもよいのではないか、. と考. えるようになった。 そこで、 本稿では、 20 世紀世界史見直しの 準備作業として、 大戦にかんす る 私のノートを. 整理してみた。. まず、 ファシズムの 概念について、 ヨーロッパの 戦争の口火をきったナチズムに. 比較して、 日. 本 ファシズムの 特徴を確認しておきたい。. 1. ファシズムについて ファシズムについて、 1971 年発行の『哲学辞典』は、. 「資本主義の 矛盾が全般的危機の 段階に. はいっていっそう 深刻化し、 経済的・社会的・ 心理的な不安から 大衆が革命化するという 情勢の なかで、 独占ブルジョアジ ーが 、 もはや民主主義的議会制のわく. 内では自己の 階級支配と帝国主. 義的 侵略政策を維持できなくなり、 むきだしの反民主主義的暴力支配に 訴える政治形態をいう」 と定義している。. (哲. 、 397) ディミトロフの 有名なことばにしたがえ. ぼ 、 「金融資本のもっとも. 反動的な、 もっとも排覚主義的な、 もっとも帝国主義的な 分子による公然たるテロ 独裁」を階級 的本質とする。 近年の平凡社の 百科事典のファシズムの 項を見ると、 具体的にイタリア、 ドイッ、 日本などの. ファシズムについて、 運動、 思想、 支配体制の順に 説明している。 それは「制服を 着用した行動 体 組織の存在と、 それによる暴力の 行使、 集会と行進による 示威、 そして強力な 指導者を中心と する権 威主義的内部秩序. ( 指導者原理 ) 」を特徴とし、. 「新旧の中間層」を 支持者層とする。 思想. 面の特徴は、 1. 「共同体」思想の 急進的な主張、 2. ナショナリズムと 社会主義の接合、 3. 弱肉 強 食の思想にもとづくエリート 体制は 、. 理論、 4. 弱小民族の犠牲に 26. か リスマ 的 指導者による 個人独裁、. をめざし、 国家秘密警察と 強制収容所に. よ. 「生存 圏 」獲得、. 一つの 党 、 一つのイデオロギ 一に 26. であ る。 支配 全体主義支配. る抑圧の体制であ る。 (百 12 、 山口 定 、 ㎝ 族桝 7) なお、. 文化生活は、 強圧的な管理統制の 下におかれるが、 活力あ る充実の様相をしばしば 呈する。 そこ. における民族主義は、 異質の文化圏や 西欧近代の文化的成果を 排斥して、 民族固有の伝統的文化 を絶対視する 傾向をもっ。. (百. 12 、 池田浩 士 、 847-%8). 二 0 世紀の政治的現象は、 世界史的な政治的、 経済的条件によって 規定されている。. 「私の印. 象では、 ファシズムの 問題は従来あ まりにも内政的な 観点から理解されすぎてきたように. 思われ. る. 。 しかしながら、 ドイッ、 イタリア、 日本がファシズム 国家であ ったことを保証するのは、 た. んにそれが一定の 専制的支配体制のもとにあ. ったという事実によるものではない。. なによりもそ. れは、 これら後進帝国主義国が 先進帝国主義国に 対して共同して 世界再分割の 戦争を起こしたと いう世界史的な 事実によって 規定されているのであ る。 この事実の前には、 反 ユダヤ主義が イタ リアにおいて 微弱で、 日本には存在しなかったとか、. ファシズム運動がイタリアにおいて. 相対的. に脆弱であ り、 日本においてはさらに 脆弱であ ったというような 問題は、 同一の種においてもつ ねに存在する 固体 差 の問題として 理解され得るものであ ろう。 第二次世界大戦はまさにかかる 界史的規定を 受けたドイッ 帝国主義にその 根本的原因を 持っているのであ るⅡ. (栗原、. 世. 66 も669). 思想として、 北一輝『日本改造法案大網 ] があ る。 ここでは、 日本の階級闘 争 激化と国際的孤立を 打開する方策として、 「天皇を奉じたクーデタによる 国家改造と、 日本の 日本ファシズムの.
(3) 第二次世界大戦とアジア・. 31. 太平洋戦争. 剣の福音によるアジア 解放とを通じて 大革命帝国を 建設することが 提示され、 国家改造と対外侵 略とを結びつけた」. (百. 運動とはならなかった。. 12 、 今井清一、 851) 。 それは、 イタリアやドイツのような 広範な国民の. 当時出版社に 勤務していた 石堂 清倫は 、. 「世をあ. げてファシズムを 賛美. する風潮に反して、 ファシズムを 研究しようとする 人はごくまれであ った。. (ム. ソリ一二 ) 著作. 集は毎巻 350 か 400 冊しか売れないので、 社長は 4 巻で刊行を中止すると 宣言した。 他社でもナ チズム関係の 本は一般に売れなかったのであ. る。 日本の『ファシズムコ. しない現状打破の 心情の表現だったのであ るⅡ拓生、 日本ファシズムについては、. 183). ファシズムとはいえないという. 当時の日本の 政治支配体制をファシズムと. 見解もあ るが、 鳥海 靖は、. 「この. 定義づけるか 否かはむしろ 第二義的であ り、 極論すれ. ばファシズムであ るとしても、 ないとしてもさしたるちがいないように うした政治体制の 実態を解明することであ. 熱は思想、も政策も必要と. 思われる。 重要なのはそ. る」と述べ、 日本ファシズムの 特色として次の 4 点を. 上げている。 1. それが、 大衆運動からでなく、 「上から」形成されたこと、 2. 強力な独裁体制を 欠き、 独裁者も存在せず、 一党独裁組織をつく. リス. なかったこと、. 3. 反対派の登底的排除、 粛清を欠いていたこと、. 4. 一元的政治指導を 欠き、 とくに権 力の割拠性、 外交政策、 軍事行動の面における 長期的 計画性や継続的政治指導が 欠如していたこと。. ( 鳥海 靖. 「激動の中の 日本」高坂、 304-307). 日本ファシズムの 倭 小性についての 研究は、 丸山真男『日本政治の 思想と行動. が著名であ. ]. る. が 、 ここでは リヒ アルト・ゾルゲの 発言をあ げておきたい。 「日本は政治上指導者に 欠けている。. その政府はもう 何年ものめりだ、 軍部、 官僚、 経済界上層、 政党などの勢力の 内的な カと 決断の ない混合であ る。. 」. ( ゾルゲ、. 5) 日本軍部の実体について、 山下奉文をはじめ 多くの軍人の 意見. を聞いたという 石堂は、 「軍人は軍の 機構のなかでこそ『権 力Ⅰをうごかすことができるが、. そ. れを離れて単独の 個人として日本の 運命に責任をもち、 国民の願望を 表現できるような 人物をも とめるのは徒労ではあ るまいかと思うようになった。. " 中国人は統一的民族国家をつくる. 素質も. 能力もなく、 武力で圧倒すれば、 中国人は日本の 指導に服するであ ろうという期待に、 一言でい えば民族問題についてのまったくの. 無知に立脚していることがわかった」とまとめ、. 辻 政信につ. いては「近 い 将来の展望さえもたず、 その場その場の 戦闘の名人、 いわばただの『殺し 屋Ⅰにす. ぎないのではないか」と 書いている。 ( 石堂、. 200-201). 2. 第 = 次 世界大戦の勃発 第二次世界大戦は、 典型的なファシズムの 国ドイツのポーランド 侵攻によって 始まり、 41 年 の ソ連侵攻によって 、 新たな局面をつくることになる。 江口朴郎は、 「第二次世界大戦にいたる 経緯はかんたんではないが、 1937 年いらいヒトラーがオーストリアを 併合し、 またチェコのド イツ人地域を 侵略しつつあ つたときには、 イギリス、 フランスにとっては、 ぃ ぜんとしてドイッ、. イタリアよりもソ 連にたいする 警戒のほうがつよいといえるような 状況があ った」と書き、. 「独. ソ戦は、 戦闘におけるあ たらしい局面であ ると同時に、 第二次世界大戦そのものの 意義におおき な 変化をあ たえるものとなった」と、 述べている。 (帝国主義戦争から ). ( 江口、. 92 、 93) ソ連の見解は、 「この戦争が. 反 ファシスト的な 解放戦争へ変わっていく 主要な、 もっとも重要な 要因は、. ヒトラー・ドイツのソ 連邦攻撃をきっかけにしてソ. 連邦が参戦したことであ. った。. 」. (M. .. L 研究.
(4) 32. 木村. 英亮. 所 、 21) というものであ る。 ドイツは、 1939 年 8. 月. 23 日、 ソ連と独ソ不可侵条約を 結び、 秘密議定書に 調印した。 この 議. 定書は、 バルト諸国とポーランドにおける. 勢力範囲を画定し、 バルカンにおけるソ 連の政治的優. 越性を認めたものであ る。 ソ連はこれにもとづいて、 バルト姉国とそれぞれ 相互援助条約を 結ん で 基地の使用を 認めさせ、 40 年援助条約を 守っていないとして 占領してその 下で ソ ヴェト政権. を樹立し、 8 月にソ連に加盟させた。. この時 170 万人のバルト 諸民族とポーランド 人がシベリア. に 追放された。 加盟については、 三国の ソ ヴェト政府も 積極的ではなかったと 言われているが、. ファシスト政権 に交代した. ソ. ヴェト政権 の成立については 検討が必要であ ろう。 89 年 5. 25 日、. 月. バルト姉国でソ 連からの独立要求の 運動が高まるなかで、 ゴルバチョフは 秘密議定書の 存在をよ. うやく認めたが、 この年の 8. 月. 23 日、 独ソ不可侵条約締結 50 周年の日、 バルト姉国の 住民 2 ㏄ 万. 人 以上が人間の 鎖をつくり、 独立の意思を 明確に示した。 これは、 バルト姉国の 独立、 ソ連の解 体にいたる画期的な 出来事であ った。. 斎藤治子は、 公表されたソ 連の文書を検討し、 「ポーランド 攻撃の必要上ソ 連を中立化させる 目的でドイッがイニシアチ. ヴ をとったのは. 明らかであ り、 ソ連は初め慎重に、 次第に積極的に 対. 応し 、 終盤ドイツにリードされて、 独ソ不可侵条約と 付属議定書に 調印したのであ る」と結論し 、. ソ連がドイツのポーランド 攻撃を容易にした 責任を免れえないこと、 スターリン、 モロトフの 思 考 に民主主義と 平和を守り抜くという. 決意が欠けており、 その正当性を 他国の共産党や 人民に押. しつけることはできないこと、 独ソ秘密議定書は 帝国主義時代の 秘密外交がソ 連外交に入り 込ん だもので、 ソ連外交がここで 転換したことを 付け加えている。. (斎藤、. 287-288). ソ連は 、 英 4ムとも交渉を 続けていたが、 最終的にこちらがまとまらなかったことについて、 川政則は、 イギリス外務次官補サージェン. 綱. の 9 月 2 日外務省覚書が 、 対ソ交渉に際しての イギ. ト. リス側の基本姿勢をあ る程度示唆している、 として引用している。 「私が思うに、 ドイッの侵略 に対してバルト 諸国を保護する 問題に直面してのモロトフの ぅょ. 主張は、 これら諸国の 独立保持とい. り、 われわれの同意を 獲得した上で、 最初の尤もらしい 口実のもとにこれら 旧 ロシア領土の. 併合を狙. う. スターリンの 願望に関する 明白な証拠であ ると い える。 この ょう な条件でわれわれを. 協力させることの 不可能性を認識したので、. いまや彼はロシアの 拡張政策がドイッの 協力によっ. て 20 多く促進させ 得るかどうかについて 見極めようと 決意したのであ る。 ". 」. (綱川、. 276). ここに見られるソ 連の権 力外交を評価するにあ たっては、 ソ連に対するロシア 革命以降の欧米 諸国の干渉と 敵視政策、 ナチス・ドイッへの 宥和政策を忘れてはならないであ ろう。 斉藤孝は 、 ソ. ヴェト政府が 1921 年に、 トルコ共産党を 武力弾圧したケマルパシャのトルコと 友好条約を結. んだことをあ げて、 国家としてのソ 連と在野の各国共産党という. 問題はレーニンの 時代にもあ っ. たとし、 「ソ連は宥和政策に 対抗するとともに、 民衆レヴェルの 反 ファシズム闘争を 見捨て、. と. うとうソ連は 各国共産党の 頭越しに 39 年に独ソ不可侵条約という、 まさに権 謀術数的覚交戦術 によって、 自国が戦争にまきこまれるのを 防ぐという手段をとるに 至る」と書いている。. し と. 戦. 争. 義. 王 国. 帝. の と. 英ィム. と ツ イ ド. は. 大戦. 一 "一 ". 界 世 次. 第. 9. 月. 年. 9 3 19. の ネ糸. 約. 結 締. 侵 。 可 下 る. て. ソま. 条. 8 をⅠ㏄). 独始. Ⅰ. ( 斉藤、.
(5) 第二次世界大戦とアジア・. 太平洋戦争. 33. アジア・太平洋戦争. 3.. a. 戦争の勃発 リヒ 「本年 7. アルト・ゾルゲは 1940 年に日本とアメリカとの 衝突を見通して 次のように述べている。 月の米内・有田政府の. イギリス. と. アメリ. ヵ. 転覆にさいして、 『伝統的日本対覚政策』を 旗印とし、 つまり大国. との合意を標 傍 しつつ日本の 増大する『生命. 圏 Ⅲの要求を満たす. 最後の試み. が崩れた。 すでに中国との 紛争が日本の 数十年来の外交的伝統の 現実の基盤を 奪っていたといえ る. 113) この年 9 月 27 日独伊三国同盟が 締結される。 翌 1941 年 6 月 25 日大本営政府連絡会議は 南部 ィム印 進駐方針を決定し、 7. 。. 」. ( ゾルゲ、. 船団が出発した. 日後、 近衛首相から 相談を. 2. ぅ. けた幣原喜重郎はただちに、. 月. 28 日に実行した。. これは大きな 戦争に. なりますと断言し、 「出来るならば 途中から引返させて、 台湾 か 何処かの港に 留めて置き. ワ シ ン. トンの日米交渉を 継続して、 真剣に平和的解決に 全力を挙げられた い ものです。 しかしも. 6. 軍がサイゴン か 何処かに上陸したならば、 なったらよいでしよう」. (幣原、. 日本. アメリカと交渉しても 無益ですから、 それはお止めに. 203) といったと記している。. 日米関係の中心は、 中国からの撤兵問題であ った。 アメリカの村中援助は、 第 1 に帝国主義的 利益のためであ った。 ヴァルガは 1940 年に、 「アメリカ帝国主義は、 この の損失をも蒙らないばかりでなく、. ( ヴァルガ、. 軍大臣は 10 月 14 日の閣議で、 「撤兵問題 ハ 心臓 ダ 。 撤兵 ヲ何 ト者ヘル. 力. 「他国の領土に 無期限に駐兵するの. 273) と書いた。 東条陸. 。 陸軍トシテ ハ 亡八重大. 視 シテ 居 ルモノ ダ 。 満州国 ヲモ危クスル 。 サラニ朝鮮統治 そ危ク ナル」. 対して、. 援助』のために 一銭. 武器を売って 圧迫し、 同時に、 支那から余分の 銀を引出して、. ますますアメリカへの 依存性を大ならしめようとしている」. 東郷茂徳外相はこれに. 丁. (家 、. 1985 、 128) とし、. 条理なきこと、 従って期限付. 撤兵が士気に 関すとの思想の 誤てること、 居留民の保護は 究極的には軍隊の 駐在に 2. 0. 困難とな. ること、 向日本が隣国支那に 対し長きに渉り 兵力を以て圧迫を 加ふることは 東洋永遠の平和を 維 持する所以に 非 ること、 並に軍隊の力を 籍らざれば維持出来ざるが 如き企業は採算上 2 之を放棄して 可 なること等の 理由を挙げて 激論数刻に渉り 尽くる所なき 状況であ アメリカは 、. Ⅰ. 0. 同 2. 日にハル 4 原則を確認し、. トを 提示することになるが、 あ. Ⅰ. その態度決定には、. る。 当時同盟通信社編集局長であ. ていたことは 間違いない」と. 書いた。 なおこのあ. 見るも. った。 (132) 」. 1 月. 26 日に日本の最後案を 拒否してハル・ /. 6月. 22 日の独ソ戦開始が 大きく影響したようで. った松本重治は、. い て喜んだ。 チャーチルほどではないにしても、. 0. 「. (ハル長官は ). 一. 独ソの開戦の 報を机をたた. ァメリヵ は日本の情勢の 変化をすこぶる 重視し と7 月. 24 日に大統領が 野村大使に仏印中立案を. 提案したが、 大使はこれを 日本にはっきり 報告しなかった、 「日本のためになるのだから 日本が オーケーしないはずはないものだった」、 「野村さんは 実にいい人だけれども、 外交の経験は 一切 無かったのだから、 実に日本にとって 不幸だった」と 松本は記している。 義井博も 、 独ソ開戦を重視して、 次のように書いている。. (松本、. 127 、 138). 「アメリカの 対日強硬政策は、 " ハ. ル国務長官の 態度の硬直性を 指摘することも 重要であ るが、 それよりもむしろ、 独ソ開戦に伴. う. アメリカの世界情勢の 変化にたいする 対応策の策定の 中に、 強硬 策 発動の根源を 見究めるべきで あ. ろう。 その意味で、 ルーズヴェルト 大統領が独ソ 開戦の直後にソ 連に接近する 決意を固め、. ソ. 連を支持してドイッの 打倒に乗り出す 方針を定めたという 事実は極めて 注目すべき出来事であ っ た。. " したがって、 中国からの撤兵問題や 南部仏印進駐をめぐる 日米交渉の難航は 、 独ソ開戦後.
(6) 34. 木村. の ヨーロッパ情勢にたいするアメリカの. 英亮. 対応策という 視点から展望してこそ、 整合的な理解を 得. られるといえるであ ろう。 シュレーダーは 中国問題を日米関係破局の 真因と強調しているが、 筆 者は中国からの 日本軍の撤兵問題をもまた、 果たして日米関係破局の 真因と い えるかどうか、 再 検討すべき事柄ではないかと 「永野. (. 考える… 目. (義井 、. 1977 、 4). 軍令部総長 ) の開戦決意は 勝算にたいする 合理的な判断からというよりも、 むしろ. 「死中に活を 求める. ]. 日本的な精神主義に 支えられた判断だったことを. 知らねばならない」. ( 義井 、. 1968 、 263) 。 義井は、 「ハル公文を 受諾した後の 日本の地位が、 敗戦後の現在の 地位と大差なき ものとなるべきであ ることはまた 疑いの余地はない。 されば戦争による 被害がなかっただけ 有利 ではなかったかとの 考えがあ るかも知れぬが、 これは一国の 名誉も権 威も忘れた考え 方であ るの で論外であ る。 日本が永い間侵略的行為があ ったとか外国権 益を侵害したとの 事実は別とし、. 日. 本は当時大国としての 地位を維持することを 希望し、 かつ戦争につき 見通しをつけ 得る唯一の機 関であ った軍部は戦争には 敗 けはせ ぬ との見通しを 有していたことを 忘れてはならぬ」という 東 郷 外相の発言を. 引き、 「開戦に強く 難色を示し、 軍人よりも柔軟な 思考の持主であ ったとされる. 外交官出身の 東郷外相でさえ、 開戦理由を現実的な 国家的利益よりも、 むしろ国家の『名誉Ⅰ や 「権 威」に求めた. 当時の政策決定者たちの 意識を是認し、 そのうえさらに、 戦争の見通しにたり. する軍部の不敗の 信念について 暖かい理解のあ とを示していることが 注目される」. (2M) として. いる 0. ポール・ジョンソンも 日本の参戦はドイッ 同様、 近視眼的だったが、 背景はより複雑で、 計算 されたヒステリーとでも 言いたくなるような 要素を含んでいた る. 。 「目をつぶって 高いところから 飛び下りるというのが、. ( ジョンソン、. 582). と 書いてい. 日米開戦の決定をした 日本のイメー. ジとしてぴったりであ る。 (586) 「緒戦の第 1 段階の作戦を 完了したら、 インドとオーストラリ 」. アに 進撃する計画だった。. しかし、 アメリ. ヵ. を侵略したり、 戦争から脱落させたり、 その戦争遂. 行能力を破壊するといった 計画はなかった。 要するに戦略的に 勝利するための 計画はまったくな かったのであ る。 唯一あ ったのは、 アメリカ るであ ろうという楽観的な 思いこみだった。. 」. ( そしてイギリス ). は和平のための 外交工作に応じ. (588) 他方、 米英指導者は、 日本が敗北確実な 危. 険 をおかすとは 思わず、 また日本軍の 能力と技量を 過小評価していた。 そこには人種的偏見もあ った 0. ( ソーン、. 上、 9) Ⅰ. b. 一五年戦争の 第三段階 アジア・太平洋戦争は. 日中戦争の延長として 始まったものであ るが、 それはさらに 1931 年の. 満州事変にまでさかのぼりうる。 家 永姉郎は、 1968 年の『太平洋戦争 ] の序の冒頭で、 それは 「柳条 溝 事件から降伏にいたるまでの、. 日本と諸外国との 連続した、 一連不可分の 戦争を指すの. であ り、 厳密には「一五年戦争』と 呼ぶべきものであ る」と記している。 これは、 日中戦争との 連続性を強調するためで、 一般に太平洋戦争は 一五年戦争の 第三段階とされている。 極東軍事裁 判も同じで、 ここでは日本の 戦争責任を 1928 年にまでさかのぼって 追及している。 日本政府は 、 1941 年 12 月の米英にたいする 宣戦布告に際し、 「大東亜戦争」と 呼び、 1937 年以後の「支那事変」 を含めた。 作家の永井荷風ははやくも. 1941 年 6 月 15 日の日記に日中戦争が 満州事変の連続であ. ることを次のように 記している。 「日立今回の 戦争は日本軍の 張 作森 暗殺及び満州侵略に 始まる。 日本軍は暴支店 懲と 称して支那の 領土を侵略し 始めしが、 長期戦争に窮し 果て俄に名目を 変じて.
(7) 第二次世界大戦とアジア. 35. ,太平洋戦争. 聖戦と称する 無意味の語を 用ひ出したり。 欧州戦乱以後莱草根はざるに 乗じ、 日本政府は独伊の 旗下に随従 らの. し 南洋進出を企図するに. 至れるなり。 然れどもこれは 無知の軍人ら 及び猛悪なる 壮士. 企 るところにして 一般人民の よる こぶところに 非ず。 国民一般の政府の 命令に服従して 南京. 米を喰ひて不平を 言はざるは恐怖の 結果なり。 麻布聯隊叛乱の 状を見て恐怖せし 結果なり。 仝 日 にては忠孝を 看板にし新政府の 気に入るや. う. にして一様なさなと 焦慮するがためなり。 元来日本. 人には理想なく 強きものに従ひその 日その日を気楽に 送ることを第一となすなりⅡ. (永井、. Ⅰ. 43). 現在、 「アジア,太平洋戦争」という 呼び方が一般化しっつあ るこの戦争はまた、 米英 ソ 中な どの連合国と 日独 伊と 枢軸国の間で 戦われた第二次世界大戦の 一部であ る。 1937 年に盧溝橋に 日本軍がいたのは、 1900 年の義和団事件による。. 日露戦争後 1905 年のポー. ツマス条約によって、 日本は長春・ 旅順間の鉄道を 譲り受け、 この鉄道守備兵を 置く権 利をえ 、. 関東軍がつくられた。 さらに 15 年には 21. カ. 集 要求をつきつけて 内蒙古に足掛かりをつかみ、. 1917 年 11 月石井・ランシング 協定によってアメリカに. 中国における 日本の特殊利益を 認めさせ. た 。 日中戦争の原因を 追求していくと、 このように義和団事件にまでさかのぼることになる。. の前の日清戦争をふくめると、. そ. 日中間の戦争は 50 年にもわたることになる。. 日中戦争は、 強国間の戦争ではなく、 日本が中国を 植民地としようとした 戦争、 しかもそれを 世界史的に植民地が 独立の方向にあ るときに、新たに植民地をえようとした 戦争であ った。 また、 分裂し、 内戦の状況にあ る国の政治に 介入し、 革命を防ごうとした 反革命戦争であ った。 この 意 味 では、 ヴェトナム戦争などと 共通の性格をもっている。 1924-27年、 2 か31 年と外相をつとめた 幣原貴重郎は、 中国統一を支持しつつ 日本の意思を 実現. しょうとした。 27 年に交代した 田中義一首相兼覚相は、 国民革命から 満蒙を切り離そうとした。 おりしも蒋介石は 反共クーデタ 一で南京政府を 樹立したが、 日本軍は 28 年 6. 月. 4 日帳 作 森を爆殺. した。 息子の張学良は 12 月に国民政府への 参加の態度を 示した。 29 年田中内閣は 総辞職し、 30 年 4 月ロンドン海軍軍縮条約に 調印した次の 浜口首相は右翼に 狙撃された。 1931 年成立した犬養内閣は、 首相が 32 年五・一五事件で 射殺されて倒れ、 斎藤内閣は 34 年帝 人事件で総辞職、 岡田内閣は 36 年二・二六事件で 崩壊、 次第に軍部の 発言権 が強まる。 広田、 林 内閣を経て、 37 年 6 月第 1 次近衛内閣が 成立し、 この下で日中戦争が 始まる。 近衛内閣の 1938 年、 ソ連との最初の 本格的な戦争であ った張鼓峰事件 がおこる。 この戦いと翌 39 年のノモンハン 事件. ( ハルハ. 川. ( ハ サン. ( ハルヒン・ゴル. 湖 付近の戦闘. ). 川 ) 付近の戦闘. ). の敗北によって 日本の対ソ戦略は 挫折した。 日本にとってこの 事件では、 現地軍部の独走、 閣僚間の不一致、 天皇の態度の 不明確さがみら れ、 この戦いの敗北は、 戦争政策を中国からソ 連に向け転換させようとした. 皇道派の宇垣覚交の. 失敗であ った。 以後軍部は統制派の 下に米英との 妥協を退けて 中国侵略の拡大をはかる。 ソ連に とっては、 前年 6 月のトハチェフスキー 粛清以後の軍の 弾圧が続いており、 始めに赤軍を 率いた. ブリュヘル元帥は、 この年のうちに 逮捕銃殺された。 このような事情のためか、 この戦いについ ては日ソ両国とも 追求が進んでいないようであ る。 この後 1941 年 4. 月. 13 日に日本はソ 連と有効期限 5 年の中立条約を 結んだ。 これは、 41 年 12. 月. 日本が対米英宣戦した 後、 45 年 8 月にソ連の対日宣戦によって 破られるまで 保持された。 中立条 約を破ったことについて、. ソ連は次のように 主張している。 すな ね ち、 日本政府は、 41 年 7 月. 日の御前会議で、 独ソ戦の推移によっては 北進. ( ソ連を攻撃 ). 2. すると定め、 独ソ戦開始後 3 週間.
(8) 36. 木村. のうちに満州駐留日本軍を. 2. 吏亮. 倍 70 万人、 42 年 1 月には関東軍を 110 万人に増大しており、 はじめ. から条約を守る 意思をもたなかった。 また大戦中、 日本は海軍基地をドイツのレーダ 一に提供し、. ソ連商船を抑留し、 領空を侵犯し、 津軽海峡などの 航行を禁止した。 ソ連は、 連合国への義務に したがって宣戦したが、 「かかる政策こそ 各国民をこれ 以上の犠牲と 苦難とから救い、 日本人を してドイツの 無条件降伏後なめた 危険と破壊とを 回避させうる 唯一の手段と 思考する」. ( 朝日、. 下、 80) としている。 日本がドイツとともに 戦っていた連合国のなかにソ 連が含まれていたにも かかわらず、 日ソ両国とも 両面で戦う余力をもたず、 中立が維持されていたのは、 変則的であ っ たともいえよ. う. 。. c. 戦争の経過. 1941 年 12 月 8 日対米英宣戦布告の 後日本軍は、 12 月 25 日に香港、 42 年 1 月 日シンガポール、. 3 月 8. 2. 日マニラ、. 15. 2月. 日ラングーンを 占領した。 真珠湾攻撃が 最後通告の前におこなわれたこ. とは、 よく知られているが、. 東南アジアの. 場合にはイギリス、. オランダへは 最後通告さえ 準備さ. れなかった。 (荒井、 1995 、 111). 1942 年 6 月. 5. 日のミッドウェー 海戦が転機で、 43 年 2 月ガダルカナル 島撤退、. 島で全滅とじり 貧となり、 44 年 7. 日サイパン. 月 7. 島 全滅直後の 7 月. 5 月. 29 日アッツ. 18 日東条内閣は 総辞職した。. ドイッも 43 年 2 月スターリングラードで 敗北し 、 独ソ戦も転換期が 始まっていた。. 日本は開戦にさいして、. ドイッが短期間にソ 連に勝利し対米英数にあ. たることを期待していた。. 当時の日本のソ 連 親 は、 「指揮と士気と 武器の劣っている 赤軍は 、 必ず極めて短期日に 独軍に残 ン 滅され、 それが端緒となってスターリン 政権 の没落、 反共政権 の樹立等目まぐるしい 変化が ロ、. 186) というものであ った。 ドイツが破竹の 進撃をしていた 941 年の 7 月 20 日に「たとえバットルには 勝ち続けても、 97 一にはどうであ るか、 にわかに 判断されない」 (太田、 460) と 書いたような 意見は例外であ った。 しかし、 日本が対米英宣戦し ア 国内に続出するであ ろう」 (吉村、. Ⅰ. たころドイツ 軍はモスクワ 前面で進撃が 鈍り、 42 年 5. 月. 12 日に前駐 ソ 大使 建川 英次中将は 、. 「. ソ. ドイツに屈服しない。 対独 妥協等は思いもよらない。 長期戦になるであ ろう」 (松谷、 23) と帰朝報告した。 43年シベリア、 トルコ経由でドイツを 訪れた日高大使と 陸海軍武官一行の 使. 連は. 師団 は 、. 8. 月に「ドイツの 国力は使節. 件を克服しない. 限り、. 団 が日本で判断していたより. (@Y 山橘、 119) と報告した。. ドイッの勝利はむ づ かしい」. ドイッ側は日本にくりかえし 対ソ戦に加わる よう 的 ・待機的政策を. 抱きながら、. 遥かに低く、 今後多くの 難条. 要望したが、. 「日本政府はソ 連に対して敵視. 幾度となく日ソ 関係の根本こそ 中立条約であ. 橋 、 116) 重光覚相はさらに 43 年 6. ると強調した。. 」. (抽. 19 日の大本営政府連絡会議で、 「当面の対ソ 施策に関する. 月. 件 」を決め、 北 樺太石油及び 石炭利権 のソ連への有償移譲など 日ソ間の懸案の 積極的解決を 図ろ うとし、 さらに 43 年 9 月、 44 年 4 月、 スターリンは、 1944 年 11 月. 7. 9. 月独ソ間の調停を 行おうとしたが、 ソ連側に断られた。. 日に日本を侵略図と 呼び、 45 年 4. 五条約を延長しない 旨 通告した。. 7. ゲッベルスは、 連合国の崩壊を 期待しており、 チャーチルやルーズヴェルトではなく、. り、. 日、 モロトフ覚相は. 日ソ 中. 月日本は近衛文麿特使をソ 連に派遣して 戦争終結の斡旋を 依. 頼しょうとしたが、 ソ連側は回答を 引き伸ばし、. であ. 月 5. 8月8 3 月. 日に対日宣戦を 布告した。. 21 日の日記には、 それは「総統によると、. スターリンだという。 スターリンは 徹底した現実主義者. こちらとしては 他の指導者よりもスターリンに. 目をつけていたほうがよい」と 記してい. ムトー.
(9) 第二次世界大戦とアジア・. る. 。. ( ゲッベルス、. 37. 太平洋戦争. 260) 日本については、 「いままで日本はソ 連に危害を加えたことがないとか、. ヨーロッパを 再組織するのはソ 連の仕事であ り、 一方、 東アジアは日本にまかせてほしいといっ. ている。 思慮深くもこの 優先順位のなかでドイツのことには 何も言及していない」. (383) と書. く 。. 日本の航空機生産は 1944 年 6 月にピークを 迎え、 2857 機がつくられたが、 それ以後は連合軍 の空襲により 減少の一途をたどる。 戦時を通じて 日本がつくった 航空機は 6 万 2795 機にすぎず、 そのうち. 5. 万 2109 機が失われた。 アメリ. ヵは. 1943 年には年間 10 万機以上を生産している。. 軍艦. も同様で、 戦時下に日本が 就役させた空母はわずか 20 隻、 そのうち㎎隻が 破壊されたのに 対し、 1944 年の夏にはアメリカだけで 約 100 隻の空母が太平洋で 任務についていた。. 44) ドイッ. と. ( ジョンソン、. 下、. 同盟国は、 1991 年 6 月軍用機 4980 機、 戦車と攻撃兵器 4300% 、 ソ連は 1540 機、. 1475 輔であ ったが、 43 年 7 月には逆転し、 2980 機、 5850 輔に対し 10200 機、 10200 輔と ソ連側が はるかにしのぐようになった。 アメリ. ヵ. ( 木村 英亮. 「連合国の戦後処理構想」中村、 116). はサイパン鳥占領後、 日本の都市の 爆撃を始め、 たちまち大部分の 都市は灰焼に 帰し. た。 そのなかの最大のものは 1945 年 3 月 10 日の東京空襲であ る。 その日午前 0 時、 B29 爆撃機. 279 機は 1665 トンの爆弾を 東京に投下し、 アメリ力戦略爆撃調査団の 見積もりでは、 死者 8 万 7793 人、 負傷者 4 万 918 人、 家屋を失った 者 100 万 8005 人を出した。 著者は、 「在欧州アメリ 力戦略航空軍司令官は、. ( シェイファー、. 188) この. ドイッ国民に 爆撃を加えることで 彼らの士気阻. 喪を狙うという 勧告に反対した。 この将校は爆撃にともなう 道義的問題を 繰り返し提起し、 ワ、 ン ントンの航空軍司令部は 司令部で、 こうした作戦は 航空軍政策と 国家的理念に 反するという 理由 で彼を強く支持したのであ る。 (5) 」. この空襲について、 対処』. 3 月. 11 日づけ. D. 朝日新聞』は、. 叩 軍官民は不敵な. 敵の盲爆に一体となって. し、 『わが本土決戦への 戦力の蓄積はかかる 敵の空襲によって 阻止せられるものでなく、. か へって敵のこの 暴挙に対し 滅 敵の戦意はいよいよ 激しく 爆煙 のうちから盛り 上がるであ と、 景気のよい文章でむすんでいる。 アメリカは 8. 1995 年 11. 月 7. 月. 」. ( 早乙女、. ろう』. 177). 6 日には広島に 原爆を投下したが、 その惨状について、 平岡敬広島市長は、. 日の「核兵器の 使用の違Ⅴ 去 ,性 」について判定するための. 世界法廷での 口頭陳述で、. 「広島の被害については、 手記・絵画・ 写真・映画など、 たくさんの記録があ. ります。 しかし、. 直接被爆した 人たちは、 そのどれもが 自分たちの体験したこととはかけ 離れ、 とてもこの世の 来 事とは考えられないと 感じています」と 述べた。 ( 『軍縮問題資料 原爆は続いて. 8 月 9. 日長崎に投下され、. 8. J. 出. 1996. 4 、 66). 日に宣戦したソ 連軍も、 中国軍、 モンゴル 軍 ととも. に 中国東北に進撃を 始め、 この中で日本は 14 日ポツダム宣言受諾を 決定、 9. 月. 2 日に休戦協定に. 調印し、 第二次世界大戦は 終結した。 「ソ連の参戦は 支配属に大きな 衝撃をあ たえた。 " すでに民心の 動向が憂慮されるまで 国民生 活は悪化していたが、 ソ連の参戦はいっそう 危機感を増幅し、 戦争終結をいそぐ 気持ちを決定的 とした。. 」. ( 荒井信一「. 1945 年 8. 月. 15 日」歴、 1990 、 44) 日本が確認を 求めた国体の 問題につい. ては、 ホワイト・ハウスでも「戦争終結がおくれることはいたずらにソ スティムソンの 発言が大勢を 決した」. (46). 連を利するだけだという.
(10) 38. 木村. 吏亮. d. 東京裁判の歴史的意義と 限界 スターリンは、 1943 年 11 月. 6. に 次のことをなさねばならない、. 日、 十月革命 26 周年記念日の 報告で、 われわれは連合国ととも として 5 項目をあ げ、 その第 3 項で、 「現在の戦争と 諸国民の苦. 難の責任者であ るあ らゆるファシスト 犯罪人がどの 国にかくれようとも、 彼らがおかしたすべて の 悪業にたいして 彼らのすべてに 厳重な処罰と 報復をくわえろように 処置をとること」. ( スター. リンⅠ 29) を提案した。 このことは、 983 年に東京で開かれた 東京裁判を問う 国際シンポジウム Ⅰ. で、 オランダの B レーリンクによって 指摘されている。. 東京裁判の問題点として、 荒井信一は次の. 3. (細谷、. 216). 点をあ げる。 ( 荒井、 1995 、 163.172). 1. アジア不在であ ること。 「裁判に参加したのは、 十日占領の管理機関であ る極東委員会に 参加 ヌ. した. 11 カ国であ る。 そのうち戦争の 主要な被害を 直接に受けたアジアの 国は中華民国、 フィリ. ピン、 インドの 3 カ国にすぎなかったⅡ 2. 南京事件や強制連行など「人道にたいする 3. 1948 年. 1 月. 罪 」が追及されなかったこと。. 12 日の刑の宣告、 12 月 23 日の処刑によって 終わり、 他の A 級戦犯容疑者 17 名は. 全員釈放され、 日本の指導者に 帝国意識を残させたこと。 これは、 冷戦の開始によって、 アメリ 力. などの方針が 変わったためであ る。. 大沼保昭も、 1987 年に東京裁判の 歴史的意味を 次の 5 点に要約した。 (大沼、 U4 も150) 1. 「勝者の裁き」で、 当事者の一方による 裁きであ った。 また、 裁く側も汚れていた。 「それは 第二次世界大戦を 湧ること四世紀にも 及ぶ近代の歴史総体、 戦争中の行動、 そして戦後の 行動と いう三つの点において 認められるものだった」として、. 植民地獲得と 支配、 原爆投下、 都市の無. 差別爆撃、 ソ連による日ソ 中立条約侵犯、 米国のヴェトナム 戦争、 ソ連のハンガリー、 チェコス ロヴァキア、 アフガニスタン 派兵などをあ げる。. 2. 米国の日本占領政策の 一環として遂行された。. 3.. 「文明の裁き」の. 建前、 すなわち自らの 文化を普遍的「文明」と 称し、 異文化を野蛮、. 「未開」. というイデオロギーがあ る。. 4. 戦争違法化の 流れのなかで、 それを国家指導者の 刑事責任を問うというかたちで 実現した。 他面では、 一部の指導者の 裁判と処罰にとどまった。 5. 裁判という形式により、 質量ともに圧倒的に 多くの事実が 明らかにされた。 「東京裁判の 同時 代 史的な積極的意義としては、 1. おそらくこれが 最も重要なものであ ったと思われる。. 」. で指摘されている 点では、 連合国側の「人道にたいする 罪 」、 とくに都市爆撃、 原爆が重要. であ り、 戦勝者側にこれらの 罪が認識されていないことは、 る 現在の行動を. ヴェトナムやイラク、 ユーゴをめく。. 生んでいるように 思われる。. 東京大空襲のときの 地上の様子をシェイファーは 、 次のように描いている。 「群出は、 あ る者 は悲鳴をあ げながら、 東京中を雪崩を. ぅ. って逃げまどっていた。 床下の防空壕にとどまっていた. 人々はたちまち 火炎旋風によってあ ぶり殺された。 " 極度に過熱した 空気は人々の 肺を焼き、 そ の衣服を発火させた。 衣服は、 ズボンの下から 這い上がってくる 炎で燃えだしたり、 火の粉を防 ぐ 防空頭巾から. 燃えはじのたりした。 " 子供をおんぶしていた 母親のなかには、 立ち止まったと. き初めて自分の 赤ん坊が燃えているのに 気づいた人もいた。 数千人という 群衆が、 公園、 十字路、 庭園、 安全と思われる 地域に向かって 逃げたが、 安全はしばしば 幻想にすぎなかった。 あ る集団 が空き地にやってきて 荷物を積み重ねると、 突然その荷物に 人がつき、 周りにいる人々に 燃え 移.
(11) 第二次世界大戦とアジア・. 太平洋戦争. 39. った 。 群衆が無傷のしっかりした 学校や劇場に 殺到すると、 その建物も炎上し、 中にいた人々は 閉じ込められてしまった。 " 数千人の人々が 、 ロ だけを水面すれすれに 出して悪臭のする 澱んだ 掘割りのなかに 浸 かっていたが、 多くの人々は. 煙りの吸引、 酸素欠乏症、 一酸化炭素中毒で 死ん だり、 上から倒れ落ちてくる 大勢の人間によって 溺死させられたり、 火炎旋風が水を 熱すると 熱. 湯 のなかで死んだりしたⅡ. ( シェイファⅠ. ヴェトナムにおけるアメリカの. 18色189). 行動について、 バートランド・ラッセルの 呼びかけで、. ナム における犯罪調査日本委員会」が. 支援して、 1967年 8 月に開かれた「東京法廷」は. 「ベト. 、 次のよ. うに判決した。. 1,. 戦争行為は、 世界戦争史上双例のない、 国際法と 人道に違反した、 帝国主義侵略戦争犯罪に 該当し、 この点につきアメリカ 合衆国政府は 有罪であ アメリカ合衆国政府のヴェトナムにおける. る。. 2. アメリカ合衆国政府が、 ヴェトナムにおいて 使用している 兵器および新兵器ならびにその 使. 用方法は、 国際法と人道に 反するものであ り、 この点についても 有罪であ る。 3. 日本政府および 日本独占資本は、 アメリカのヴェトナム 侵略、 戦争犯罪に積極的に 担 しており、 国際法上、 アメリ ヵ の共犯者として 有罪であ る (松井、 141-143)0 第 2 項について、 (1) ボール爆弾は、. 1. 協力・ 加. 個の親爆弾から 十数万 発 の小鍋球を炸裂させる 残虐 兵. 諾 であ るが、 これを学校、 教会、 病院に投下している。 その他、 パラシュート 爆弾、 蝶々爆弾、. 風圧爆弾、 ダムダム弾も 使用していること、 (2) 「いわゆる」農薬、 毒ガス、 などの化学兵器、 青 いりキャン デ Ⅰ毒物の飲用貯水池への 投下をおこなっていること、. (3) 大量のナパーム 弾 、. 高熱兵器を使用していること、 (4) 堤防、 水門、 潅概 用水路、 用水池、 海岸防潮堤 などの水利施設を 爆撃していること、 (5) これらの行為が、 1907年 1(H 月 18 日のハーバ陸戦法規 リン弾などの. 慣例にかんする 条約、 1946 年 9 日の集団殺害罪. 月. ( ジェノサイド ). 、ジュネ ー ヴ条約、 1898 年 7. 月. 30 日および 10 月. 1. 日のニュールンベルク 判決、 1948 年 12 月. 9. 条約、 1949年 8 月 12 日の戦時における 文民の保護にかんする. 29 日の毒ガス禁止にかんするハーバ. 宣言、 そして 1925 年 6. 月. 17 日. の窒息性、 毒性、 またはその他のガスおよび 細菌学的戦争方法を 戦争に使用することを 禁止する 議定書に違反したものであ ることを断定する、 と述べている (207-209)0 e. 今日における 戦争責任問題 ヴェルサイユ 条約がドイッに 負わせた賠償責任という の 違法性を前提としている。. 考え方は、 被害をもたらした 国家の行為. 「その意味で 国家の戦争責任という 思想や戦争そのものを. -全面的で. 方を生みだし、 戦争 観 自体の転換と 結びついてゆく」 ( 荒井、 1995、 46) またドイッ皇帝の 処罰が問題とされたことは、 主権 国家を至上とする 観念が総力戦の 経験を 通して疑われ、 平和の保障を 国際秩序の樹立に 求めようとし、 それと関連して 戦争責任問題が 意 識 されていた。 (62) 第一次世界大戦で 受益 国 であ った日本はこのことに 気づかなかった。 ないにせよ -違法とする考え. 政府の戦争責任の 認識の不十分さほついては、 教科書検定などでよくとりあ. げられている。. こ. れは中国、 朝鮮などアジア 諸民族に対するものが 多い。 しかし、 日本国民に対する 責任もまだ自 覚されていないように 思われることがしばしばあ る。 先述した 1995 年の核兵器使用の 違法性に ついての世界法廷での 政府の態度も、 その例であ る。 この法廷に 、 他の国が「覚務大臣を 政府代 表 として派遣して、 裁判官に対し 真剣に核兵器の 違法を訴えているのに. 対して、 被爆 国 であ. るわ.
(12) 40. 木村. 英亮. が 国は、 外務省の審議官を 差し向け、 しかも自らは 核兵器の違法の 陳述をしないだけでなく、. 自. 分の陳述の後で、 政府の意思に 反して核兵器の 違法の陳述することが 予想される広島・ 長崎両市. 長の陳述について『両市長の 発言は承認、 としての発言であ り、 事実の叙述以覚の 発言があ れば、 それは政府の 見解を表明するものではない ユと 、 わざわざ『申し 添え』たのであ 「世界法廷での 広島・長崎市長」『軍縮問題資料. J. る」 ( 池田真. 1996.4 、 60) 。 原爆については 教科書も、. 規. 「原爆. の被害の実態などなにひとっ 記述されておらず、 まるで他人ごとのような 書き方に終始している。 教科書はかくも『客観的 d 、 無味乾燥な事実だけの 記述で よい のか」 あ. ( 別技 、. 132) という状態で. る。. また、 戦争責任者の 慰霊についても、 戦後靖国神社がくりかえし 問題にされているが、 粟屋憲 太郎は、 この問題について、. 「ぼくは. 碑 違憲訴訟の原告側証人として. 1991 年、 東京豊島区の 日スガモ プリズン跡にあ る戦犯記念. 東京高裁法廷にたった。 この公費による 記念碑は、 かってこの地. で処刑されて 東京裁判の A 級戦犯や BC 級戦犯を記念して 建立されたものであ る。 " 戦犯を歴史 のまったくの 被害者とする 慰霊の顕彰 碑 にほかならない。 " 日本人は沖縄をはじめアジアの 戦地. 180) 。 「祈俳館」の 計 画 にたいしても 同じ立場から「靖国」の 思想、を引きずるものとして 反対している。 (230) 私も昨 に戦友の死を 悼む戦友会の 記念碑を平気でたくさん 建てている。. 」. ( 粟屋、. 年金沢を訪れたとき、 護国神社の境内に 新しい少年飛行 其 の碑など多くのこのような 記念碑が建 てられているのを 見て違和感をもった。 国民の責任という 点も考えていく 必要があ. る。 鶴見俊輔は、 日本文化の特徴であ る鎖国性に由. 来する、 加藤周一が「忠臣蔵 症候群」と呼ぶ 症状によって、 大戦期の日本人の 態度を説明してい る. 。. 「この 侍 集団の指導者は. 優れた知性の 持主であ り、 その想像力は、 はじめに考えた 旧主のた. めに復讐をするという 計画を実現するということにすべて. 捧げられて 、 ます。 その集団の目標は レ. 運動のはじめに 立てられたまま 固定しています。 " 日本人の知性は 戦争が泥沼のなかにはまり. 込. んだときに、 すでにはじめに 掲げられた目標を づ くり直すということのためには 用いられません. 鶴見、 34,35) 戦争責任をとくに 自覚してほしいバループは、 教師集団とジャーナリズムであ. でしたⅡ. (. 1945 年 12 月から日本に. 1. 年滞在し 、 『ニッポン日記』を 書いたアメリカのマーク・ゲインは 、. 次のような体験を 記している。 「午後あ る中学校の校長と 話をした。 ボロボロの洋服を 着、 顔色は寒さに 蒼 ざめおどおどしていた。 は ついて彼は、. る。. 小 っぽけな 購. (大地主で. しげな男で、. W のボスの. ). 本間一族. 『本間家は私の 学校に寄付をしてくれましたし、 町の図書館の 開設にも頗る 尽力. しました。 酒田の第一市民です』といった。. これが典型的な 教育家だった。 なぜ日本が戦争に 突. 入しそして 欺 けたか、 その理由が私にはわかるような 気がした。 ". (教師たちが ). 民主主義の. 考えているかときいたら、 彼は確信をもって 答えた。 T もちろん。 東京から命令の 来次第Ⅲ ( ゲイン、 上、 58) このような態度は、 今日も変わらず、. 観念を日本の 青年に教えることができると. また教育行政はますますこの 方向を助長し、 むしろ奨励しているように 思われる。 ジャーナリズムについては、 池井が「…関東大震災、. 世界恐慌の影響によって 失業者が街にあ. ふれ、 農村で娘の身売りが 相次ぐ状況の 中で発生した 満州事変が、 『不況脱出への 光明 ] の人々が考えても 不思議ではなかった 雰囲気の中で、 マス・メディアは. " 事変 ". と 一般. を最大限に利用. 伸ばし、 営業成績を上げるため 軍 以上の強硬論をあ ふり、 軍国美談を作り 上げ、 戦争協力への 姿勢を惜しまなかった。 といって軍当局が 言論統制その 他の圧力を加えた 事実は少 して発行部数を.
(13) 第二次世界大戦とアジア・. ない。 それが行われるのは、 昭和. 9. 41. 太平洋戦争. 年以後、 よりはっきりするのは 昭和 12 年の日華事変以後のこ. とであ る。 したがって、 1931 年 9 月から翌年の 満州国建国にいたる 時期でマス・メディアが 果た. した役割は、 国民意識を『帝国の 生命線、. 満州. j に向けさせ、. 支那の不当への 正当行為』として 関東軍の行動を. であ る。. 」. ( 池井 優. 「. 『帝国の正当な 歴史的権 益を侵す. 支持し、 戦争ムードを 世間に流布していったの. 1930 年代のマスメディア」姉輪、. 191) と書いているが、 まったく同感であ. る。 しかし、 一方で私は新聞を 読む国民の責任も 大きいと考えざるをえない。. 言論統制が厳しくて. 本当のことが 分からなかったと、 だまされていたと 責任をもっぱら 政府に転嫁する 意見が多いが、 いちがいにそ. う. も言えないのではなかろうか。. 私は、 スターリングラード 戦におけるドイッ 軍の敗北がどのように 報道されているか、 943 Ⅰ. 年1. . 2. 月の『朝日新聞』の 記事を調べてみたことがあ る。. 『毎日新聞. コ. (「. 1943 年 1 月. 紙面にみるスターリングラード 戦 」『横浜国立大学人文紀要. 2. コ. 月の『朝日新聞』. 第 31 輯 、 1985.10). ・. 当. 時日本は、 対米英戦の展望がなくなり、 独ソ戦はドイッの 有利には進展せず、 ソ連との中立関係. を維持せざるをえなかった。. したがって国際記事は、 一貫した検閲方針をとれない 状況にあ り、 国際情勢の解説記事などには 欧米の論調をふまえた 意外に水準の 高いものもあ り、 戦争の実状を 示すヒントも 出されているような 印象も受ける。 いくら新聞が 偏った報道をしていたとしても、 紙面を. よ. く読んでいれば、 すでに 1943 年初めに危機的段階を 迎えており、 日本の勝利の 展望が. まったくないことは 理解できたはずだとおもわれるのであ を 継続したのは. るが、 この後 2 年半も勝利を 信じ戦争. 不思議であ る。 ここにみられるのは、 まさに「忠臣蔵 症候群」であ る。. 4. 大戦と民族解放 帝国主義諸国は 連合国側も枢軸国側も、 大戦後の植民地諸民族の 独立を予定していなかった。. 諸民族は戦後、 自ら独立をかちとらざるをえなかった。 1941 年 8 月英米は、 「大西洋憲章」をまとめたが、 その第 2 項民族自決の 解釈については、 両 国間に対立があ り、 議会で戦後における 植民地放棄を 追及されたチャーチルは、. イギリスの植民. 地 には適用されないと 弁明した。 ( 油井、 52) 植民地本国の 共産党などは、 ソ連の参戦以後は 動 員に反対しなくなり、 また諸民族の 戦場での経験は 戦後の解放運動の 基盤となった。 大戦中にお ける戦略物資の 原料の生産、 自前の工業の 発展によって 労働者も増大した。 連合国は戦後も、 自分たちの植民地について、 独立を認める 意思はなかった。 スターリンは 、 戦後においても、 ソ連の存続を 第一として米英との 妥協はやむをえないと 考え、 中国については. を認めて援助し、 挙国一致の民主的連合政府を 樹立しようとする 共産党の方針 を 認めず、 東アジア全体の 安定をはかることを 選んだ。 この観点から、 朝鮮については、 5 年間. 国民政府に代表権. の信託統治を 認める方針をとったのであ. る。 林哲は 、 「日本帝国主義の 強圧下で分散的にしか 抗. 日運動を持続しえなかった 朝鮮に 、 米ソ 両 大国の極めて 権 力政治的な分割統治が 便宜的に押しつ. けられた」とし、. 「人民委員会に. 結集し進歩的民主主義論にたった 朝鮮人民共和国の 実現を目指. した闘争において 示された朝鮮人の 思想" 考え方の特徴」の 検討を課題としてあ げている。 (林 哲 「朝鮮の『解放』と. 中国」歴、 1996 、 9 、 349). インドネシアでは、 8 月 17 日に独立が宣言されたが、 それを認めないイギリス・オランダ. 軍が進駐して 闘争が始まり、 結局 49 年に認めた。 ヴェトナムも 独立同盟. ( ヴェトミン ). 連合 の指導.
(14) 42. 木村. 下に 蜂起し 9. 月. 英亮. 2 日にハノイで 独立を宣言したが、 英仏連合軍がサイゴンにはいり、. 独立の闘争. が 始まった。 独立はアメリカとの 長い戦争を経て、 1975 年にようやく 実現される。 ビルマでもイギリス 車 との折衝が繰り 返され、 48 年に独立する。 フィリピンはアメリカとの. 同盟関係を強めながら、 1946 年 7 月に独立した。 大戦中約 250 万人を動員してイギリスに 協力し たインドは長い 闘争と交渉の 後、 1947 年 8 月 15 日に独立し、 イギリス軍は 48 年 2 月までに撤退 した。 しかしそれはまず 自治領としての 独立で、 イスラムのパキスタンは 前日 8 月 14 日に分離独 立した。. このように、 アジアをはじめとする 植民地諸民族にとって、 第二次世界大戦は、 解放のための 戦争とはいえなかった。. 利用しようとした。 それはすでに 関東軍の満蒙工作にあ らわれていた。 「日 本の工作は社会革命を 促すものでなく、 一部の王公や 将領ら支配階級を 対象としたものであ った 日本も民族主義を. から、 経済的利益また 政治的野心から 日本軍に味方する 一部蒙古王公を 除いては、 自発的な運動 として拡がらなかったのであ る。 " 関東軍の内 蒙 工作は、 もっぱら軍事援助と 買収工作によって すすめられていたのであ るⅡ. (. 藤原、 14). 日本政府は 1943 年 5 月御前会議で 大東亜政略指導要網を 決め、 マレー・ビルマ・フィリピンな どの独立を認めることとし、 11 月に中国の汗 兆銘 、 満州国の張貴恵、 フィリピンの さウシ. ル ら. 開き、 共同宣言を発表した。 栗原は、 日本の同じ黄色人種であ るアジア諸 民族への連帯表明には、 人種主義を媒介した 一種の自己欺 哺 があ ると述べている。 ( 栗原 優 第 を 集めて大東亜会議を. 「. 二次世界大戦の 歴史的意義」『歴史評論』 を植民地として. 544 号、 15) 「日本はすでに 半世紀にわたり 朝鮮や台湾. 搾取し、 民衆の自立の 動きをいっさい 厳しく抑圧してきた。 」中国大陸では 何千. 万人もの中国民出の 生活を制限し、 残虐行為も働いてきた。 このような実績からしても、 アジア 諸民族のナショナリズムへの. 呼びかけが 欺哺 であ ることはあ きらかであ った。 アジア諸民族の. 「共存共栄」と い いながら、 現地住民を「土民」と. よ. んで蔑視した。. ( 柴田. 304-305)それは日本. 国家膨張のためのイデオロギ 一であ り、 「しかも日本がこれらのイデオロギ 一実現のために 戦争 を 起こしたものでなかった。 」. 竹内好は、 も2オ象. 「. ( 国内の ). とされた。 ". (林 、. 477). 思想の圧殺は、 左翼思想からはじまって、 自由主義に及び、 次第に右翼. ( 中野正剛や石原莞爾の ). 比較的にはアジア 主義的な思想を 弾圧することに. よって共栄 圏 思想は成立したのであ るから、 それは見方によってはアジア 主義の無思想化の 極限. 状況ともいえる。. 」. (竹内好「アジア. 主義の展望」竹内、 14) 大東亜戦争は、 一方でアジアでの. 導 権 を、 他方では欧米駆逐による 世界制覇を目標としていたが、 に相互矛盾の 関係にあ. 指. 「この両者は、 補完関係と同時. った。 なぜならば、 東亜における 指導権 の理論的根拠は、 先進国対後進国. の ヨーロッパ 的 原理によるほかないが、 アジアの植民地解放運動はこれと 原理的に対抗していて、 日本の帝国主義だけを 特殊例外あ つかいしないからであ. 日本の政策には、 具体,性と 構想が欠けていた。. る。. 」. (竹内好「近代の. 「ドイツは占領国の. 超克」吉本、 402). 国民の再教育と「解放. ]. を. 準備したが、 日本にはそうしたことをす る 時間も、 大胆さも、 さらには方法的精神すらなかった。 また諸民族を 計画的に独立に 導くため には、 政治教育係や 言語学者が当然必要になるが、 それらも存在しなかった。 ( ギラン、 142) 「ひとつの文明が 仮に地球の 4 分の 1 の地域に君臨しようとした 場合、 武力によるのではなく、 ま. 担当するはずの 征服者あ るいは占領地区長官のチームを. 」. ず 人びとの心と 精神をとらえねばならない。 " 日本はこれまで 驚くべき夢を 描き、 その行動によ.
(15) 第二次世界大戦とアジア・. って世界を驚かせてきたのだが、. 43. 太平洋戦争. またしても自分自身については. 愚にもつかない 説明しかできな. (147). かったのだ。. 」. 日本が目標として 掲げた日本精神主義、 日本農本主義、 日本アジア主義というニッポン・イデ オロギ一について、 戸坂潤は 1935 年に、 「丁度本物の 文学が『世界文学 じに、 或る民族や或る 国民にしか理解されないないように. コ. でなければならぬのと. 同. 出来ている哲学や 理論は、 例外なく 二. セ 物であ るⅡ伊坂、 Ⅰ 53) とし、 これらのイデオロギーは 日本人さえ理解できないと 批判した。. この太平洋戦争で 日本人の死者は 310 万人であ ったが、 中国の死傷者は、 軍人 400 万、 民間人 約 2000 万人といわれている。 フィリピンでは 軍民約十数万人が 死亡したがその 他の地域の犠牲 者数は不明であ る。 (藤村、 27 も279 、 百 9 、 木坂順一郎、 100). 5. 反共的性格について 第二次世界大戦のなかで 大きな比重を 占める独ソ戦は、 ファシズムと 社会主義との 戦いであ っ た。. Ⅰ. 941 年 6. 月. 22 日、 ドイッは 153 師団を投入した。 「ドイツとともにルーマニア、 ハンガリⅠ. フィンランドが 対ソ戦に参加し、 ただちに 37 個師団を派遣した。 ソビエト国境には 全部で、 550 万人の 190 個師団、 3700 台の戦車、 約 5 ㎝ 0 機の飛行機、 た」 ( キム、. 4. 万 70 ㏄以上の大砲・ 迫撃砲が集中され. 514) 43 年春独ソ戦線にはドイツ 軍など 232 個師団がいた。 (544). その前の大戦間期ソ 連は孤立させられており. ドイッにナチズムが 台頭して来たとき、 西欧諸. 国はその反共性を 評価し、 宥和政策をとった。 「鉄のカーテン」ということばは、 すでに 1945 年 3 ( ゲッベルス、. 183) ゲッベルスは 1943 年 2. 月. 月. 13 日にゲッベルスが 日記に使っている. 18 日、 スターリングラードで 大敗した後、 全 ョ一. ロッパに赤化の 危機が迫っていると 警告した。 「もしドイツ 軍が東方におけるボリシェヴィキの 脅威を克服できなければ、 あ. ドイツのみならずヨーロッパ 全土がボリシェヴィズムの 犠牲となるで. ろう。 ドイツ軍とドイツ 国民とその同盟国以外、 この脅威からヨーロッパを 救うものはいない。. しかもこの危険は 極度に急迫しており、 すみやかにかっ 徹底的に対処しなければ、 時期はすでに 遅れるであ ろう」㎝朝日新聞』 1943.2.20夕刊 ) 。 連合国とはいっても、 米英とソ連との 間に信頼はなかった。 デンマークの 核 科学者ニールス・ ボーアは 1944 年 5 月、 戦後の核軍備競争を 阻止するため、 ソ連に対する 相互信頼を基礎とした 誠. 実なアプローチを 説いたが、 チャーチル首相に 受け入れられず、 ローズヴェルトもボーアの 助言 を無視したばかりでなく、 ド. ・. ソ連のスパイになりかれないとして. パ一 ク 協定を結んだ。 その第 1 項は、 「管状合金. を目的として、 世界. ( ソ連 ). ( 原爆 ). にこの件を知らせるべきであ. 警戒し、 9 月にチャーチルとハイ の管理と使用にかんする. るという. ( ボーアの ). 国際協定. 示唆は受入れ. ろ. れない。 本件は最高機密とみなされ 続けるべきであ る。 しかし『爆弾』が 最終的に利用可能とな. った時には、 それはおそらく 熟慮ののちに 日本人にたいして 使用されるであ ろう。. ・‥」. (. 荒井、. 1985 、 23) と定めている。 この対立は、 ポーランド政府の 問題で顕在化し、 戦後ギリシャ・トル 発動、 1950 年 2 月から始まったマッカ ー シズムと. コ問題でトルーマン・ドクトリンが. よ. ぼれる 反. 共 ヒステリーは、 50 年 6 月からの朝鮮戦争のなかで 強まった。 日本の場合も、 満州国の建設は、 資本・商品の 市場、 原料供給地の 確保とともに、. そこを六十 ソ. 戦の戦略基地としようとするものであ った。 1936 年 6 月、 日本政府は、 「帝国国防方針」を 改訂 してアメリカとならんでソ 連を第. 1. の目標とし、 11 月には日独防共協定を 結んだ。 続く日中戦争.
(16) 44. 6. 木村. 対ソ戦争の一環としての. 英亮. 性格を強くもち、 また、. 日本資本主義の 危機を中国侵略によって 解決. し、 革命運動を民出動員で 抑え込もうとしたもので、 二重の意味で 反共性をもっていた。 戦前の日本では、 大学や研究所でロシア 語文献・資料を 収集したり読んだりすることはできな かった。 ソ連に関心をもつだけで「危険分子」とみなされた。. 1941 年 10 月には、 リヒアルト・. ゾルゲ、 尾崎秀実がソ 連のスパイとして 逮捕され、 佃 年 11 月 7 日に処刑された。. アジア・太平洋戦争末期、. 作成した、 1945年 2 月 14 日の上奏 手を握るべしと さへ 論ずるものあ り、 又延. 近衛文麿は吉田茂らのバループが. 文 で、 「軍部の一部は い かなる犠牲を 払ひても ソ聯と. りとの事に御座候。 以上の如く国の 内外を通じ共産革命に 進むべき 日一日と成長いたしっつあ り、 ・‥勝利の見 込 なき戦争を之以上継続するは 、 全. 安 との提携を考え 居る者もあ あ く. らゆる好条件が. 共産党の手に 乗るものと存じ 、 随て 国体護持の立場. きものなりと 確信仕り 候 。 最大の仕事であ. ・‥」. (歴 4 、. り、 吉田らはこのため. 1954 、 208) 4 月. よ. りすれば、 一日も速に戦争終結を 講ずべ. と 書いている。. 15 日に逮捕された。. これは吉田バループの 工作の. 質問に答え、. 近衛は天皇の. 「無条. 件降伏しても、 アメリカならば、 日本の国体を 変革して皇室まで 無くすようなことはしまいと う. 。. あ. るいは日本の 領土は半分に. が出来て、 国体を維持し、 てはならない. 口. (ダ. 減るかも知れないが、. 皇室の安泰を. 居、. それでも国民を 悲惨な戦禍から 救 う こと. 計ることが出来るならば、. われわれは無条件降伏も 厭っ. ワニ 上 、 391) と答えた。 ダワ一は チャーチルも 吉田と同じく、 世界的規. 書いている。 (下 、 24-25) 東条英機は遺書に、 「国内的の自らの 責任は死を以て 償えるものではない。 しかし、 国際的な 犯罪としては 無罪を主張した。 今も同感であ る。 ただ力の前に 屈服した。 ( 岩波、 東条遺書. 模で「左への 地 すべり」が起こっていると 論難してはばからなかったと. 」. 1948.11.15、 136) とし、 「今次戦争の 指導者たる米英側の 指導者は大きな 失敗を犯した。 第一に 日本という赤化の 防壁を破壊し 去ったことであ. る、. 第二に満州を. 赤化の根拠地たらしめた、. 第三. 東亜紛争の因たらしめた。 (138) と書き残している。 戦後の日本の 政治は、 吉田がにない、 アメリカとの 講和条約に調印し、 ここで方向づけられた 安保体制の下で、 日本は朝鮮戦争、 ヴェトナム戦争などでアメリカの 兵姑 基地の役割を 果たし、 に朝鮮を二分して. 米ソ冷戦の一端をにな. 前に、. 」. う. ことになる。 戦前の天皇制の 下での 反ソ 反共主義は、 それが克服される. アメリカ軍の 占領下の 反ソ 反共 ィ デオロギ一に 引き継がれるのであ. る。. むすび 感激し、 大きな解 放感をもち、 自分が編集していた 雑誌 p 文芸 ] に作家たちの「戦いの 意志」の原稿を 求めたが、 断った者はひとりもいなかった、 ということであ る。 (竹内好「近代の 超克」吉本、 397) この 戦 争 に反対というはっきりとした 感情、 意見をもつためには、 絶対平和主義者か 社会主義者でなけ 独ソ戦でひそかにソ 連側を応援していた. 高杉一郎は、. 日本の対米宣戦布告に. れば、 無理だったであ ろうが、 それを求めることはできなかった。. 20 世紀は全体として、 帝国主義国勢力に 対して社会主義国と 社会主義運動、 植民地諸民族の 解放運動が闘った 世紀であ った。 このなかで、 第二次世界大戦は、 ファシズム的帝国主義のドイッ. 柱で、 それに他の諸国が. と 社会主義のソ. 連との戦争が. 社会主義運動が. るとみたい。 ただし、 帝 高まり、 ファシスト軍の 占領地域では、 抵. 強まった。. また植民地諸民族の 独立は大戦後に 激しい. 帝国主義戦争の 要素をもって 加わったものであ. 国主義国内部でも 反 ファシズム運動・. 抗 運動のなかで 共産党など社会主義勢力が.
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