Ⅰ. 序―本稿の課題 現在のツーリズム論では、全般的にみれば、ポストモダニティ (もしくはポストモダン)の考えに立脚したものが多い。ツーリズムは、 今日では、社会における流動性・モビリティの進展などにより 量的に発展しているばかりか、バックパッカーなどの形による質 的多様化も進み、余暇と仕事との区別・境界が消滅する傾向 にあって(Ω1,10-11 頁 ; Ω4,9 頁)、ポストモダニティに照応した状 況が多く現出しているからである。 そのなかにあって、現代ツーリズムの基本は、依然として、 モダニティを土台にしたところにあるという見解もある。マスツー リズムを中心にした現代ツーリズムは、歴史的にみれば、産業 革命を契機とするものである(Ω5)。それ故それは、真髄にお いては、産業革命に代表されるところの、かつ、産業革命以 後の社会発展で根本的理念となってきたところの、モダニティ の精神に立脚したもの、あるいは、その一環として発展して きたものであって、現代ツーリズムの基礎となっている原理は、 今日でもこうしたモダニティの思考にあることを否定できない、と いうのがそのエッセンスである。 こうした立場にたったツーリズム論で、しかもそれを体系的に 展開した最近における代表的なものに、ワン(Wang, N.:参照文 献 W)の 2000 年の所論がある。ワンの所論は、方法論的に は社会学的立場にたつものであるが、結論を先にいえば、2 つの点で実に注目されるものである。第 1 に、今日、モダニティ を基盤にしたツーリズム理論の主張者は、数多くないが、その 代表的文献であることである。第 2 に、何よりも、現代ツーリ ズムの全体的理論をモダニティの根本的土台から一貫して体 系的に展開し、「現代ツーリズム原論」というべきものの 1 つ の理論型(prototype)を提示していることである。 現在、世界的にツーリズム研究に求められている課題は、ツー リズム理論を、他の学問(discipline)とは区別され、かつ、並 び立った1つの独自の学問体系として形成するところにあるが、 こうした観点からは、ワンの所論の理論的検討は、避けて通 ることができないものである。本稿は、こうした視点にたってワ ンの所説を考察し、そのうえにたって、現代ツーリズムの基本 原理、つまり現代ツーリズム原論を構築するための 1 つの試み を提示することを課題とするものである。 ちなみに、モダニティ(modernity)という言葉は、もともと 1983 年バーマン(Berman,M.)により提示されたものである(参 照文献 B2,cited in C1,p.31)。バーマンは、社会構造を3 階層に分け、 下部構造というべき、産業革命を契機とする機械主義的合理 主義的生産様式を中心にした生産活動における近代化・現 代化の動き(modernization)と、上部構造である文芸・芸術等 でおきた文化面でのモダニズム運動(modernism)との間におい て、中間的構造を成すものがある。それは、近現代社会にお ける人々の生活上の経験様式(mode of experience)であるとし て、それをモダニティと名づけたのである。ただしワンの所論で、 それがどのように規定されているかは、以下で記述している通 研究論文
モダニティ基盤ツーリズム論の展開
―現代ツーリズム原論の一形態―
The Profile of the Modernity-based Theory of Tourism:
A Framework of Basic Principles of Tourism Studies Today
大橋 昭一
Shoichi Ohashi
和歌山大学観光学部
キーワード:観光学原理、モダニティ、ロゴス、エロス
Key Words:Basic Principles of Tourism Studies, Modernity, Logos, Eros
Abstract:
A key agenda for tourism studies today is to build a theoretical framework functioning as its basic principles, consistent with other disciplines of social sciences. A prototype based on modernity appreciating Ning Wang’s framework is presented in this paper, defining the present society as that of modern, not as a post-modern society.
りである。なお、参照文献は末尾に一括して記載し、典拠個 所は文献記号により文中で示した。 Ⅱ. ワンのツーリズム論の基本的方法論的枠組み 1. ツーリズムの一般的規定 ワンによると、現代ツーリズムは現代社会のあり様に規定さ れる。現代社会は、モダニティの社会としてとらえられるから、 現代ツーリズムは、何よりも、モダニティのもとにおけるツーリズ ムとして論究されるべきものであるが、そのまえに、そもそもツー リズムとはどのような事象をいうものかを一般的に論じている(こ の点についての他の論者の見解はΩ1、第1章を見られたい)。 ワンによると、ツーリズムは、要するに、「隔たりをなくすこと」 (distancing action)である(W,p.vii)。例えば、時間的隔たり(distance
in time)をなくすこと(歴史的遺産の見学等)、空間的隔たり(space) をなくすこと(他の場所にあるものの見学等)、文化的もしくは生活 様式(culture or ways of life)の隔たりをなくすこと(民俗的に異な
るものの見学等)などをいう。 このことは、とりも直さず、ツーリストが、定住地などの場所 から時間的もしくは空間的または文化的に隔たりのある所へ行 くことである。それは現実から隔たること(distancing)であり、 何らかの意味で現実から遠ざかることである。ちなみに、この 考えは、通常のツーリズム論で「逃避」といわれるものに通 じる。またこの点について、トライブ(Tribe,J.)は、マルクスが 宗教は一般大衆にとって阿片のようなものだといった意味でい えば、ツーリズムにもそれに似たような役割があると論じている (T,p.457)。 現在において人々がツーリストとして現実から逃避しようとす るのは、ワンによると、人々の定住場所における日常生活がモ ダニティのなかにあり、そこではロゴス性(logos)、すなわち合 理性、合理主義が支配力をもち、人間性の今 1 つの根本的 属性であるエロス性(eros)を抑圧しているからである。ロゴス 性から逃れ、エロス性に回帰すること、ロゴス性とエロス性と の統合をはかるものの1つがツーリズムである、と規定される。 では、モダニティとは何か。ロゴス性、エロス性とは何か。 2. モダニティの規定 ワンのいうモダニティは、時期的には、ルネサンス時代に始 まるものであるが、典型的には 17 ∼ 18 世紀に確立した社会 体制全般をいうものである(W,p.15)。それは、資本主義という 規定とはどのような関連にあるものか。 ワンによれば、モダニティは 1 つの社会の全体的あり方をい うもので、資本主義よりも広い概念である。モダニティは 1 つ の社会体制として、そのなかに制度的秩序、知的秩序、時 間的秩序、社会・空間的秩序を含むものであり、かつ、これ らを統合する根本理念が合理主義にあるところの社会、と規 定される。 この場合、これらの秩序にはそれぞれいくつかのものがあ り、その時々の状況に応じていずれかが(複数の場合もある) 優勢的支配的なものとなり、その時期の特色を形成する。例 えば、制度的秩序には資本主義、産業主義(industrialism)、 国民国家による行政体制(surveillance)、権力の独占体制 (monopoly of violence)がある。知的秩序には、科学とテクノロジー (technology: 工学等)、(古代・中世的な)魔法から脱却した考え 方や諸方法(deenchantment)がある。時間的秩序には、何事 もスケジュールを優先・重視する スケジュール化、同時並行 的な進行・同期化、ルーチン化、テンポ・リズムの加速化など がある。社会・空間的秩序には都市化、グローバル化、空 間の抽象化・非実質化傾向(abstractization of space)などがあ る(W,p.15)。 従って、モダニティは、制度的秩序でいえば、資本主義的 である場合や国民国家による行政体制的な場合などがあり、 実質的に資本主義と同義のような場合もある。モダニティは、 このように時代的には広い時期をカバーするものと規定される から、その間において概ね 3 つの時期区分があるものとされる。 「初期(early)モダニティ」、「本来のモダニティ」、「後期(later) モダニティ」である。そして後期モダニティが、一般にポストモ ダニティ(ポストモダン)といわれるものに相当する。 一般にポストモダニティとよばれるものが、基本的には依然と してモダニティの一部であり、モダニティと区別される必要がな いことは、ワンによれば、ポストモダニティでも根本原理が合理 主義にあって、モダニティ社会であることが否定されるもので はないからである。ただし、ワンの論述でもこの後期モダニティ の時期がポストモダニティと表記されている所があるが、それ はあくまでも便宜的なもの、あるいは「ポストモダニティ論者」 の主張を紹介するためであって、これらの「ポストモダニティ論」 に組するものではないと明記し、断っている(W,p.16)。 以上の規定のうえにたってワンは、モダニティのもとにおけ るツーリズムの特質について何よりも理論的な検討を試みるよ うにするが、その拠って立つ根本的学問方法論は、ポパー (Popper,K.R.)が提唱した批判的合理主義にあるとしている (W,p.22)。ちなみに、ツーリズム論でポパーの批判的合理主義 に言及しているものは、多くない。 3. 根本的方法論 ポパーの批判的合理主義は、一口でいえば、演繹法に 立脚して根本的仮説をたて、人間の持つ知識や知見はす べて、根本的仮説から演繹されているもので、反証可能性 (falsification)をもつものであることをいうものである。実証主義 の基礎となっている帰納法では究極的真理に到達しえないこと は、早くから指摘されてきたが、こうした認識のうえにポパーは、 人間の知識は、完全に実証されたいわば絶対的な真理という ようなものではなく、あくまでも反証されていないだけのものであ り、いつでも反証されて実践不可能性を証するかわからない
ものである、というのである。 ちなみに、現在では、特段の方法論的根拠もなしに、実証 主義的あるいは実態調査的な結果を万能視する考え方が強 い。それもごく狭い範囲のデータによる帰納論的結論をもって 「実証された真理」と考える謬見が実に多い。ツーリズム研 究でも大いに心すべきことであるように思われる。 ワンのモダニティ基盤ツーリズム論は、以上のような根本的 な考え方にたつものであるが、その前提をなすモダニティに ついて、ワンは、それをロゴスとエロスの二重性(dichotomy, ambivalence)のもとにあるものととらえている。モダニティあるい は資本主義について、何らかの二重性あるいは矛盾の観点 からこれを解明することは珍しいことではない。例えば 2012 年 の編著の巻頭論文(foreword)でマクラーレン(McLaren,P.)/ジャ ラミロ(Jaramillo,N.E.)は、ツーリズムの研究・教育では、二重 性把握のうえにたった弁証法的思考(dialetical thinking)が必 要であると力説している(M3,p. xxix; 同様な主張は M2,p.43 にもある)。 4. ロゴス ・ モダニティとエロス ・ モダニティ ロゴスは、ごく一般的にいうと、「理法」・「理性」が宇宙を 貫徹することを象徴的に意味する言葉である。これは、歴史 的にみれば、ギリシャ時代の哲学に始まり、中世の啓蒙主義 の土台となったもので、合理主義を根本原理とする近現代の 基本原理となってきたものである。その意味では、モダニティ は本来、ロゴス・モダニティたるものである。そのエッセンスは、 生産活動はじめ人間の活動は合理主義的になされるべきもの、 あるいは物事は必然的に合理的に進むものと主張するところに あるが、それを立論の根本的基礎としてきたものには、ワンに よれば、マルクス、ウェーバー、デュルケームなどがあり、仕 事の場における典型例としてはテイラー主義等がある。人間 社会は、このようなロゴス・モダニティの進展により豊かになり、 発展してきた側面がある。 しかし他方、それが人間理性の独善的強制となり、人間そ のもの、端的には感性的存在としての人間や、人間以外の生 物あるいは環境に対し否定的な影響を与えてきた側面があっ たことも否定できない。人間の合理主義的行為が、人間の非 人間化(dehumanizing)を惹き起こし、合理性が全体的にみる と非合理的なもの(irrationality)に終わっているという批判は、 マルクスはじめこれまで多くなされてきた。これは、人間にはロ ゴス的側面とともにエロス的側面があり、人間生活はこうした 二重性の統一体たるためである(W,p.27)。 エロスは、一般的には「官能的な愛」を意味する言葉で、 近代では特にフロイトにより「生の本能」を示す用語として提 起され、知られるものとなったが、ここでは、人間の本能的感 性から生まれる側面をいう。従ってそれは、理性・合理主義 とは異なるところの、生物的本能に基づく衝動的ないしは無 意識的な行為や、快楽・遊び・リラックスの追求的行為などを いうものである。モダニティにはこうしたエロス・モダニティの側 面が存在してきた。理性原則であるロゴス・モダニティには、 本能的感性的原則であるエロス・モダニティを抑圧する側面 があり、エロス・モダニティにはそれに反発する側面がある。 この場合、エロス(モダニティ)は、ワンによると、大別して 2者に分かれる。1つは文芸などに象徴される「詩的なエロ ス」(poetic)で、例えば本能的な快楽追求を文芸的作品等 に昇華させるものである。今1つは本能的快楽追求をそのまま 発露させようとする「カーニバル的エロス」(carnivalesque)であ る(W,p.35)。モダニティの維持・発展という点でいえば、前者 の詩的なエロスは、ロゴス・モダニティとエロス・モダニティと の共存を図ろうとするものであるのに対し、後者のカーニバル 的エロスは、本能的快楽の直截的な充足を求めるものである。 ロゴス・モダニティとの共存を求める傾向は少なく、ロゴス・モ ダニティと直接対決しようとする。 以上のようなロゴス・モダニティとエロス・モダニティの理論 に類似したものに、近年では例えば、ロジェク(Rojek,C.)の説 がある(参照文献 R; 詳しくはΩ4)。ロジェクは、モダニティには仕事・ 人間の秩序化・統制をはかる側面と、個別化・非秩序化を惹 き起こす側面との2側面があり、そのいずれが強く現れるかに よってモダニティの様相は変わるとしている。しかしロジェクで は、モダニティの後にポストモダニティの時代が来ることが前提 となっており、モダニティをポストモダニティとの関連で把握して いる点が、ポストモダニティを否定するワンとの決定的な違い である。 ワンによると、モダニティの現実では、結局、何らかの形で ロゴス・モダニティとエロス・モダニティとの調整・統合が行わ れ、社会の維持がはかられる。例えば、ロゴス論理のもとに ある製品の売出しの宣伝などで美的要素や快楽志向的要素 が多用されるのは、人々におけるエロス心に訴え、エロス・モ ダニティとの融合を図ろうとする行為である。他方、人々のエ ロス的需要を直接充たすために、エロス的なものの商品化や エロス的なものへのアクセス手段の整備、すなわちロゴス的行 為が行われる。ワンは「ロゴス・モダニティとエロス・モダニティ との間に緊張は確かにあるが、ロゴスとエロスは平和的に融 合して存在しているようにみえる」と書いている(W,p.39)。 こうしたロゴスとエロスとの共存を今日制度的に可能にしてい る有力な手段が、ツーリズムである(W,p.41)。ツーリズムは、本来、 エロス・モダニティの産物であり、エロス・モダニティの論理の もとにある。しかし、それを顧客とするツーリズム産業はロゴス・ モダニティの論理のもとにあり、その多くは営利原則のもとに合 理主義を旨とするものである。エロス・モダニティのもとにあるツー リストが、ロゴス・モダニティの論理のもとにあるツーリズム産業 により組織された形のものになっている。これが、ツーリズムの 今日の姿であり、ツーリズムにおけるモダニティの二重性の発 現形態である。 その際、ワンは特に言及していないが、エロス・モダニティ には詩的エロスとカーニバル的エロスとがあるから、ツーリズ
ムにもこれに照応して、詩的なエロスに立脚したツーリズムと、 カーニバル的エロスに立脚したツーリズムとがありうることにな る。前者は、エウダイモニア主義に代表されるもので、ツーリ ズムを精神的教養的に楽しむことの多い個人ツーリストなどで あり、後者はヘドニズム的欲求の充足に傾くことの多い団体旅 行などがこれに相当する。西欧の一般的ツーリズム論でいえ ば、前者は中産階層的ツーリスト、後者は現在マスツーリズム の主流といえるバナル・マスツーリストをさすものといえる(バナル・ マスツーリズムについては参照文献Ω5)。 ワンに戻って、次に、かれが現代ツーリズムの具体的基本 的特徴をどこに求めているかを考察する。この点でも2つの方 向・二重性があるものとされている。二重性はワンの理論の根 本的指導原理である。ここでは、モダニティの進展がツーリズ ムを押し出す(push)側面と、ツーリズムの諸要素をモダニティ の側に引き付ける(pull)側面である。 前者は、基本的には、ツーリズムの供給側に焦点をおくもの であり、後者は需要側に焦点をおくものであるが(W,p.6)、現 実のツーリズムは、この両側面の一体的統合のなかで動いて いる。pushとpull は、通常のツーリズム論では、ツーリストの 根源的なツーリズム動機の 2 大形態として説明されることが多 いが(例えば参照文献 D, 詳しくはΩ1、96 頁)、ワンでは、それより高 いレベルで、現代ツーリズム自体のなかにある 2 大傾向として 論じられる。 ワンの所論について、ここではまず、前者のプッシュ側面 について考察するが、こうした問題としてワンは、次の4者 を挙げている。①モダニティの制度的次元とツーリズムの本 物・実物性(authenticity)、②モダニティのテクノロジー的次 元と自然ツーリズム(nature tourism)、③モダニティの時間的 (temporary)次元と休暇制度、④モダニティの空間的(spatial) 次元と国際的ツーリズム。 Ⅲ. モダニティのツーリズム ・ プッシュ的側面 1. モダニティの制度的次元とツーリズムの本物性 ここでの問題は、資本主義や産業主義といったモダニティ の制度的秩序のなかで、ツーリズムはどのような地位を占める ものかということであるが、その際第一の論点になるものは、 ワンによれば、ツーリズム目的物の本物・実物性である。しか もこの問題でワンは、これまでの議論とは観点が根本的に異な る命題を提起している。それ故ここでの問題は、何よりも本物・ 実物性に焦点をおいたものとなる(W,p.46ff.)。 ツーリズムにおける本物・実物性の問題は、端的には、 1973 年マキァーネル(MacCannell,D.;参照文献 M1; 詳しくはΩ1,72 頁 以下)が、ツーリストはツーリズム目的物について本物・実物を 求めて旅行するが、ツーリストが実際に観るものは、所詮「演 出されたもの」(staged authenticity)であるにすぎないことを主張 し、一躍ツーリズム論における中心的テーマの1つになったも のである。2007 年チャムバース(Chambers,D.)は、現代ツーリ ズム研究には5つの切口になるパラダイム(cutting edge paradigm) があるとして、その第1にこの「本物・実物性」の問題を挙 げている(参照文献 C2; 詳しくは参照文献Ω1,239 頁)。 この点におけるワンの主張は、要するに、ツーリズムにおけ るツーリストの本物・実物性は、ツーリストが自己のツーリズム 行為を本物・実物と認識するかどうかにあるとするもので、ワ ンはそれを「実存的本物・実物論」(existential authenticity)と 名づけている。これに対し、現在一般にツーリズム論で本物・ 実物論といわれるものには、次の3者がある。 第1は、客体的な(objective)本物・実物論である。これは マキァーネルの所論に典型的にみられるもので、例えばツーリ ズム資源となっているものが、オリジナルな本物・実物であって、 模倣品やコピーではないことをいうものである。これは博物館 的な本物・実物論(museum linked usage of authenticity)ともいわ れるが、ワンは、本物・実物性がこのような意味で論じられる 場合には、ツーリストの観るもの自体が本物・実物であるかとい う問題と、それをツーリストがどのように知覚するかという問題 とが混同されているという。 この問題は、その後コーエン(Cohen,E.)によりこの方向で 問題が整理されているが(Ω1、71 頁)、ワンは、ツーリズム目的 物が客体的に本物・実物であるかどうかは、ツーリスト自体に は二次的な問題であって、そのものを観ることによって、ツーリ ストがそのツーリズム行為を意味あるものとして感じることが肝 心な問題であるというのである。 第2は、構成的な(constructive)本物・実物論である。これ は、ツーリズム目的物が、例えば観る人の思想、信仰、信念 や何らかの社会的強制力などによって本物・実物と思い込まさ れるような場合である。従ってこれは、イデオロギー的背景が あり、シンボル的な意味が強いもの(symbolic authenticity)である。 ただし、ここでいう構成主義(constructionism)は、建築や芸 術等でいう構造主義(constructivism)とは趣旨が異なり、あくま でも社会(学)的な、つまり人間相互間で作り上げられた信仰 など思想や観念において問題となるものである。それ故この考 え方にたつと、何が価値あるものかは、人により異なり、かつ、 同一人においても対象が同一のままで変化することがあるもの (相対的)となる。 第3は、ポストモダン論に立脚した本物・実物論である。ポ ストモダン論は種々多様であり、アーリ(Urry,J.)らのように単 に“postmodern”とよぶ者も多いが(U,p.55)、ワンは、これを postmordernismとよび(アーリらの書でも索引は postmordernism)、 本 物・実 物 論では、「 本 物・実 物 からの脱 構 成 化 論 」 (deconstruction; この点については A,p.89ff. が詳しい)の主張が特徴的 メルクマールであるとする。ポストモダン論は、一般的には、こ れまであった区別・境界の消滅(abolition of difference(C1,p.25); ただしアーリらでは de-differeniation(U,p.98))が根本的テーゼであ るから、原理的にいうと、そもそも本物・実物と模倣品・コピー
との区別・境界は消滅しつつあるものと考えられる。故にポス トモダン論では、旧来のような意味での「本物・実物性論」 は意義をもたないことになる。脱構成化は本物・実物と模倣品・ コピーとの区別からの脱却であり、本物・実物性論自体から の脱却である。 それ故、ポストモダン論で問題となるのは、模倣品・コピー が本物・実物をいかに精緻に模倣しコピーしているかではなく て、模倣品・コピーそれ自体の美しさ・魅力である。これをワ ンは「人為的な(contrived)模倣品・コピーの正当化(justification) であり、……この時代の支配的形態は模造品(counterfeit)で ある」といっている(W,p.55)。 こうしたポストモダン論的本物・実物の典型例は、なんと いってもディズニーランドである。論者のなかには、理論史 的にいえば、マルクスが提起した商品の物神性(fetishism of merchandise)の理論は、ポストモダン論的本物・実物論の、模 造品の出来栄えの良さ・美しさがすべてというテーゼを予言し たものというものもある(cf.A,p.88)。資本主義的生産体制の行 き着くところは、商品は、ツーリズム商品を含めて、結局、こう した見栄えの良さ・美しさに求められるものとなる、とポストモ ダン論はいっているものと考えられる。 以上の3種の、通例的な本物・実物論に対し、ワンはそれ らにはツーリストのとらえ方において誤りがあるという批判から 出発し、次のように主張を展開する。すなわち、そもそもツー リストたちは、ツーリズム目的物の本物・実物性が問題となる 歴史的遺産等の観賞を目的とする者ばかりではない。親戚や 友人への訪問を目的とする者もいるし、レジャー目的で旅行す るとしてもテーマパークのような人工的観光資源を訪れる者も いるし、海岸で日光浴を楽しむことを目的としている者もいる、 等々である。 こうした者は、歴史的遺産等を観ることを目的とした者では ないから、そうした意味でツーリズム目的物が本物・実物であ るかどうかは、問題外のことである。それ故、そもそもツーリ ズム目的物の本物・実物性は、ツーリズム論の主たる論題とな る事柄ではない。それよりも、どのようなツーリズム目的をもって なされるものであっても、ツーリストが行うツーリズム自体が当該 ツーリストにとって意味あるものであるかどうか、つまり、本物・ 実物のツーリズムになっているかどうかが問題である。 このことは、換言すれば、本物・実物かどうかの対象・所在を、 ツーリズムの客体であるツーリズム対象物に求めるのではなく、 ツーリズムの主体であるツーリスト自体に求め、ツーリストの経 験するものが人間としてのツーリストの実存性に寄与するものか どうかを問おうとするものに転換させることを意味する。それは ツーリズムにおける本物・実物論のコペルニクス的転回である。 ツーリズムにおける実存的本物・実物性は、ワンによれば、 ツーリストがツーリズムにおいて「本物・実物である自己自身」 (authentic self)を実現することと定義されるものであるが、これ はロゴスの論理とエロスの論理との、従って理性的な自己抑制 と自己欲望実現とのバランスをはかるところにおいて実現する。 現代のモダニティでは、ツーリズムは、それを可能にする有力 な方法である。 モダニティの制度的次元では、モダニティがこうしたツーリス トの本物・実物性を実現するような制度的なものとなっている かが課題であるというのが、ワンの主張である。以上のワンの 本物・実物性については橋本教授の批判的論述がある(参照 文献 H)。 2. モダニティのテクノロジー的次元と自然ツーリズム モダニティでもロゴスの論理を象徴し代表するものはテクノロ ジーである。テクノロジーは、広くとると、モダニティの以前か らあったものであるが、今日的な意味やレベルでのテクノロジー は、原理的には、産業革命で生まれたものである。ワンは、「モ ダニティは、ある意味では産業革命に始まったものであり、そ れにより自然は、科学およびテクノロジーの諸方法によって支 配され征服されたものになった」と位置づけている(W,p.75)。 テクノロジー進歩がツーリズム進展をプッシュしてきた点につ いてのワンの主張は、次のところにある(W,p.72)。すなわち、 旧来のツーリズム論では、テクノロジーの進歩によって、一方 における交通手段の進歩などと、他方における勤労者の所得 向上や余暇時間増加によって、ツーリズムが発展してきたとい う、テクノロジー進歩のプラス面のみが強調されてきた。これ に対して自然破壊や人間生活のロゴス化による空疎化などの マイナス面が軽視ないし無視されてきたが、後者のマイナス面 を緩和するものとして自然ツーリズム(的なもの)があった。少な くとも、そうしたことが唱えられてきたというところにある。 つまり、テクノロジー進歩による効果にも二重性があって、マ イナス面の緩和のために、自然ツーリズムといったものが盛ん になってきたというのであるが、ただしワンは、テクノロジー進 歩のプラス面とマイナス面とがツーリズム進展に及ぼしてきた影 響は、文化を通じてであったことを力説し、この点の解明が旧 来では不充分であったと指摘している。 例えば、産業革命による交通手段等の進歩によってツーリ ズム発展がもたらされたのも、直接的には、トマス・クックらに よる組織的ツーリズムの発展によるところが大であり、マネジメ ント文化が大きな力になっている。これによりツーリズムに対す る人々の考え方や好み、すなわち人々のツーリズム文化が変 わったことが大きな要因になっている。仮に旅行・ツーリズム は、経済的には人々の所得が向上し、生活維持に必要以上 の余剰があることが必須の条件であるとしても、その余剰が必 ずツーリズムに使用されるとは限らない。それがツーリズムに使 用されるかどうかは、文化の問題であるというのである。 もとよりこの場合でも、ツーリズム志向は二重性をもつもので ある。一方ではロゴス論理の進展によりこれまでは行けなかっ た所に行けるようになったことや、これまではできなかったことが できるようになったことであるが、他方、エロス論理の進展によ
り日常生活の精神的肉体的制約化の深まりからの脱却志向が 強くなってきたことである。 これは、通常のツーリズム論でもツーリズムの2大動機として 挙げられることの多い(参照文献 P1)「何か新しいことを観たり知っ たり行ってみたい」欲求と、「現実からの逃避志向」欲求と に照応するものであるが、ワンは、前者を「物質主義的もしく はヘドニズム的な」欲求、後者を「理想主義的もしくはロマン 主義的なもの」とよんで、ツーリズム志向の二重性とし(W,p.74)、 こうした二重的志向を代表するものが自然ツーリズムであるとす る。 ところで自然は、近世以前では、一般的には、人間の力の 及ばない恐ろしいもの、怖いものと考えられてきた。森などは 悪魔の住む所で、近づくべき所ではないとされてきた。こうし た自然観が改まり、自然は人間の憩いの場あるいは楽しみの 場として考えられるようになったのは、全般的にいえば、ロマン 主義思想の台頭によってであったが、その時期は、西欧でも 概ね 18 世紀後半で、産業革命を契機とするロゴス・モダニティ の一段の進展のころであった(W,p.81)。ルソーが「自然に帰れ」 とよびかけたのは 1762 年であったが、それが広く受け容れら れたのは、その後のことである。ロゴス・モダニティの進展が、 エロス・モダニティの主要な場である自然ツーリズムの門を開い たのである。 都市などが、ロゴス・モダニティの象徴である産業革命により、 機械文明に支配されたものとなりつつあるが故に、そうしたこと のない地方への脱却を求めた。そこには自然が豊かにあった。 従ってそれは、自然ツーリズムの提唱者になった。ワンは、「テ クノロジーの進展、それに依存した都会の出現、工業・産業 的環境変化と関連付けることなしに、地方(country side)や自 然を求める思想は、考えることができない」(W,p.88)と述べて いるが、同様な観点は、すでに 1955 年ドイツの著名な論者、 クリスタラー(Christaller,W.)によって提起されている(参照文献 C3、詳しくはΩ1,61 頁、Ω2,153 頁)。 モダニティのテクノロジー的次元と自然ツーリズムに関連する ワンの所説は、大要以上であるが、その主張は、ロゴス性の 進展による自然的なものへの逃避に重点があって、自然への 逃避がエロス性の復権である点での主張はやや弱いように思 われる。 3. モダニティの時間的次元と休暇制度 ここでモダニティの時間的次元とは、モダニティでは社会の 運営がすべて「時間」を単位・基準にして行われ、人々の 生活も「時間刻み」に進む体制になっていることをいう(以下 は W,p.91ff.)。例えば、職場における労働の仕方は、合理的規 則的に分業化されたものの時間厳守的実行というものとなり、 職場はその構造化されたものとなる(cf.K,p.5)。 このように労働者は、時間に拘束され時間的に管理された ものとなるが、それは人間の本能的感性的存在、つまりエロス・ モダニティの論理に照応しないところがあり、労働者において は、ロゴス・モダニティで進行する働く時間体制から、一時的 にしろ、解放を求める声が起きてくる。時間短縮や有給休業 日を設けるべしという要求である。 労働時間短縮分や有給休暇は、労働者が時間を自らコント ロールできるものであり、「時間そのものの消費」(consumption of time itself)である(W,p.115)。有給休暇は今日では広く社会 的にも認められ、定着したものとなっている。憲法でそれを保 障している国は、2000 年当時 65 か国あり、それ以外の法令 で規定している国も多い(W,p.110)。 モダニティは、こうした人々の働く体制という点でいえば、ロ ゴス論理に基づく時間管理と、エロス論理に基づく休憩を含 めた休暇制度との二重的存在である。そしてこうした人々が 休暇で求めるものは何か。それには、大別して「変化」(change) すなわち「現実からの逃避」と、「何か新規なものを求めるこ と」(novelty)とがある。後者は、「何かを観ようとするもの」で、 英語的には sightseeingというべきものであり、空間の変化に関 連するものであるので、次項で「空間」との関連で取り上げる。 ここでは長期休暇客(vacationer)が対象であり、その動機は、 基本的には「生活の変化」にあるものと思われる。 以上が「モダニティの時間的次元と休暇制度」の領域でワ ンが究明しようとする問題意識であるが、中心問題である人々 の労働の仕方をみると、それは、作業方式がどのようなものか によって変わる。作業方式は、一般的には概ね 1970 年代中 頃から、フォード主義的な単一製品の大量生産方式から、ポ ストフォード主義的な多品種少量生産方式に変わったといわれ るが、ワンはそれに対し、実際には旧来のフォード主義方式が なくなったのではなく、少なくともポストフォード主義方式と併存 していることを強調する。 特にツーリズム産業では、フォード主義が残っている。その 端的な例は、一般民衆対象のパッケージ・マスツーリズムで、 そこでは「ツーリズム商品の標準化・均質・固定化が特徴的 で、規模の経済を実現することが目標になっている」というの である(W,p.92)。 ワンも、ツーリズム産業では 1980 年代以降顧客であるツーリ ストの多様化が進み、セグメント化が行われ、それに照応して オルターナティブ(alternative)なツーリズム形態が進展している ことを充分認めているが、少なくとも(かれの書の刊行の)2000 年当時では、マスツーリズムのフォード主義的パターンはなくなっ たとはいえないとしている(W,p.92)。従って、フォード主義的な マスツーリズムの顧客である労働者ツーリストたちは、仕事の 場ではポストフォード主義的環境にある場合でも、ツーリズムの 場面ではフォード主義的な大量生産方式の、しかも客体として 存在することがありうるものとなる。 モダニティにおける労働時間および余暇時間を通じて最も問 題となることは、それが、時間を基準にして規定され、取り組 まれるべきものとなることである。これは要するに、モダニティ
のもとでは、時間も商品化しているためである。ワンは、モダ ニティにおける時間の特質として、「時間は金(かね)なり」と 「時間は限りある資源なり」以外に、第 3 のテーゼとして「時 間は商品なり」を挙げ、「時間の商品化は現代資本主義を特 徴づける基本的な事柄である」としている(W,p.97)。 従って、有給休暇制は労働時間の直接的減少をもたらすも のであるから、実に大きな問題である。これは、もちろん、労 働者側からの要求・闘争により生まれたものであった。ちなみ にこの間の事情について、ベレクツ(Böröcz, J.)は、「19 世紀 中葉から 20 世紀初頭にかけて労働者階級の闘争目標は、明 確に、労働時間の短縮と規制におかれていた。それは別言 すれば、余暇時間の拡大のための闘争であったが、この闘 争の結果は、余暇時間の標準化、正準化(normalization)お よび商業化(commercialization)であった」と書いている(B4,p.28)。 もっともベレクツは、現代ツーリズムが資本主義の所産であり、 それは「トラベル資本主義」(travel-capitalism)とよんでいいも のという見解にたつものであるが(B4,p.23ff.)、それにしても、こ こには、余暇時間の費消が資本主義的に商業資本に包摂さ れたものとなることがはっきり述べられている。ここでいわれて いる余暇時間の商業化の 1 つの方法がツーリズムに出ること で、周知のように、トマス・クックらの活躍の場であった。 有給休暇は、労働者が自らコントロールできる「時間の消費」 であるが、ツーリズム産業のもとで組織的ツーリズムとしてなさ れる場合には、ロゴス論理で動くビジネス(資本)の支配下に おかれ、「自らのコントロール下で行う時間の消費」という本来 の性格はかなり失われたものとなる。近年、パッケージツアー などでもツーリスト個人個人の希望に対応するものであることが 求められ、そうしたものが多くなっていて、ラッシュ(Lash,S.)/アー リ(Urry,J.)のように、これを「end of tourism」とよぶものもあ
るが(L,p.259; 詳しくはΩ1,7,217 頁)、ツーリズムでも「自らのコントロー ル下で行う時間の消費」をできる限り実現しようとするツーリス トが増加していることを示している。 ちなみに、既述のように、労働(生産)過程でフォード主義 方式が頂点に達したのは、概ね 1950 年代∼ 1960 年代で、 それ以降はポストフォード主義的なものへの移行が始まってい るが、いわゆる団体的規律行動重視型のパッケージ・マス ツーリズムが最盛期であったのも概ね 1950 年代∼ 1960 代で、 「フォード主義的労働体制と旧来型マスツーリズムとの間には 密接な関連がある」(W,p.102)。これらのことは、モダニティで は余暇時間でも、究極的には、ロゴス・モダニティの論理が 優位なものになることを示している。 4. モダニティの空間的次元と国際的ツーリズム ここでの問題は(W,p.117ff.)、人間生活には空間的広がりが あるということであるが、ツーリズムではさしあたりどこへ行くか という点が問題となる。この点からすると、ツーリズムのなかで も、サイトシーイングとしてのツーリズム、あるいはそれに類した ツーリズムが対象になる。 それ故、ここでは、そうした日常とは異なる空間が、モダニ ティではどのように形成され、ツーリズムをプッシュするものとな るかが究明課題になる。まず、空間とは何か。このことにつ いては、早くから哲学等で論究されてきたが、今日のモダニティ、 そしてツーリズムの分析で前提になるのは、空間一般ではなく、 社会的意味を持った空間(socialspatial nexus)である。それは、 ワンによると(W,p.120)、次の 4 点で特徴づけられるものである。 第 1 は空間が、何らかの行動の根拠となる場合で、自己の 土地を確保するための行動などにみられる。第 2 は空間が、 時間との関連でとらえられたような場合である。時間的推移 において空間の持つ意味が変化する場合で、時間・空間軸 (time-space nexus)として問題となるものである。第 3 は空間が、 利用方法と関連して問題となる場合で、空間(土地)が売買 手段という場合や、物品等の製造や生活維持との関連で問 題となるような場合である。第 4 は空間が、自己の支配地で あるかどうかで問題となる場合である。 他方、ツーリズムの空間という場合、そこを訪れるツーリスト の側からはどのように考えられるか。ここで対象となるツーリズ ムはサイトシーイングとしてのそれであるから、ツーリズム先には、 ツーリストとしては何らかの意味において非日常的なもの、つまり 「珍しいもの」(curiosity)のあることが必要である。それを求 める範囲は、究極的には全世界であり、国際的ツーリズムで ある。最近ではさらに広く宇宙も視野のものになっている。 ただしこの場合、そうした珍しいものについて単に話しを聞 いたり写真などで見て、それで終わりという場合と、実際にそ のものを観たり体験するために当該場所まで出向く場合とに区 別される必要がある。前者の単なる知覚的行為は、ツーリズ ム意欲を高めるものではあるが、ツーリズムそのものではない。 ツーリズムはあくまでも「観たい・知りたいもの」のある所に行っ て、実際に観たり体験することである。 また、「珍しいもの」には、ツーリズムとしてそこに行くことが 種々な意味・程度で安全でない場合もある。ツーリストにとって 「珍しいもの・非日常的なもの」とは「未知なもの」を意味し、 恐怖や危険と一体の場合がある。そうした危険をなくすには、 ツーリズム先の国・地域において何らかの形で安全を確保す ることが必要である。国際的ツーリズムではそれが全世界的に なされる必要がある。 これをみると、ツーリズムも、少なくとも空間的広がりについ ては、ロゴス・モダニティの進展に待つところが大きいものとなる。 というのは、恐れや不安を除去し、安全性を高める有力な方 法は政治上や経済上の措置の進展であり、その 1 つが国家 的統一の強化であって、国家的規模でのモダニティ(nationalized modernity)の発展であるからである。グローバル化、国際的ツー リズムの発展・展開も基本的にはそのうえにおいて可能である。 従ってワンによると、グローバル化は、一面では世界の同 質化過程(homogenizing process)を進めるものであるが、それ
は同質化(homogenization)と同義のものではない。少なくとも 国を原基とするグローバル化はそうである。ワンは「グローバ ル化は、正確にいえば、同質化過程であるとともに、差異化 (differentiating)の進展過程でもある。特に文化に関しては、グ ローバル化は、文化的同質化よりも、(文化的差異化のうえにたった) 文化的な相互接触・交流・混交(creolization)を進めるもので ある。…それはむしろ、文化的差異化を残し、活性化するも のである。今日の世界は、同一化の方向にあるよりも、差異化・ 多様化・複数化の方向にある」と述べている(W,pp.133-134)。 それ故この点でいえば、ツーリズムの国際化は、ナショナリ ゼーション(国家的統一性)とグローバリゼーションとの二重性の バランス、国内的な「親密なもの」と国外の「親密でない、 珍しいもの」とのバランス、「不安のないもの」と「不安のあるもの」 とのバランス、「違いのないもの」と「違いのあるもの」とのバ ランスのもとに行われるものである(W,p.144)。 モダニティの進展と、「珍しいもの」すなわち「未知のもの」 とは、一般的には、トレードオフの関係にあるが、しかし、種々 な意味でそれまでアクセス不可能であった所も、モダニティの 進展によりツーリズム可能になるものが多い。例えば高い山な どでも登山道が整備され、ケーブルカーなど交通手段が設け られることにより、ツーリズムは拡大する。このような意味でもモ ダニティの進展は、ツーリズムの拡大をもたらし、プッシュする 機能がある。モダニティにおけるロゴスの論理とエロスの論理 とは統一体であるが、ここではこのように理解されることが必 要である。 ツーリズムでは空間は実に主要な問題であるが、ワンの展開 しているツーリズムに関連したモダニティの空間次元の論究で は、空間の公共性、特に景観の公共性の問題が欠けている ように思われる。ツーリズムでは、景観の問題は避けて通るこ とができないものであるが、私的所有制度のもとではその公共 性は特に大きな問題である。現代社会における空間の公共性 については、山田教授の鋭い分析がある(参照文献 Y)。ツーリ ズム論ではモダニティの空間論においてこうした分析観点が必 須のものであろう。 Ⅳ. モダニティのツーリズム ・ プル的側面 現代ツーリズムのこの側面は、ツーリズムに必要な諸手段や 諸要素、例えば交通や宿泊、その基となる人々の所得や時 間が、モダニティに引き寄せられることをいうものであるが、こ のことは、現代において人々が所得や時間をツーリズムに使用 するのは何故かを問うことであり、人々のツーリズム動機・誘因 にはどのようなものがあるかの問題である。一口にいえば、ツー リズムが人々を誘引する(seduction)事象の解明である。こうし た問題としてワンは、①イメージの誘引(lure of image)、②言 説(discourse)の誘引、③消費(consumption)の誘引、④サイ ン価値(sign value)の誘引を挙げている(W,p.153ff.)。 1. イメージの誘引 ツーリズムでは、ツーリズム先のイメージが大きな誘引力にな る(Ω1,111 頁以下)。イメージは、まず、絵や写真等で見たとき の印象ともいうべきレベルのものと、その後心のなかに残るレベ ルのものとに分かれるが、ツーリズム先のそれを含めたイメージ には、ワンによれば、次の諸特徴がある(W,p.159)。 第1に、イメージはビビッドで具体的なものである。その人の 感じているものが投影されたものであることが多いからである。 第2に、イメージは社会的な影響がある場で形成されるもので ある。第3に、イメージは対象事物を余すところなく映し出した ものではないという意味では、部分的で選択的なものである。 第4に、その場合選択は人により異なるものであるから、結局、 イメージも個人個人で異なるものとなる。第5に、イメージは、 ステレオタイプ的性質があり、急に変わることが少ない。第6 に、イメージは具体的なものであるが、対象事物の全体をカバー したものではないから、必ずしも一貫したものではなく、相反し た要素が混在するものである。第7に、イメージは往々にして 良悪の価値判断を含んだものである。第8に、イメージは図書、 パンフレット、メディアの報道や人の話から作り上げられること が多いものである。 ツーリズムでは、ツーリストが持つ当該ツーリズム目的地イメー ジが重要ポイントとなるが、ツーリストの持つイメージは、あく までもツーリストの立場からのもので、高度にツーリスト・エゴ 的なものである。故に、政治に無関連的なものであり、歴史 的背景に欠けるものである。ロマン主義的であるかもしれな いが、多くの場合観光地を上からみる新植民地主義的性向 (neocolonialist)であることを免れないものである。 ちなみに、放送などメディアによる広告・宣伝では、通常、 以下の4点ほどが指導原理となっており、ツーリズム地を中心 にしたイメージは、こうした観点から作り上げられたものという 度合いが強い(W,p.165)。第1は美的化(beautification)である。 第2は理想化という意味でのロマン主義化(romanticization)で ある。第3は神秘化(mystification)である。第4はフェミニゼー ション化(feminization)で、ソフト性を重視するものである。 それ故ワンは、ツーリズム地のイメージは歪んだもので、非 現実的なものとなり、作り話的なもので、幻想的なものとなって いることが多いと結論づけているが、しかしツーリズム論として は、ツーリズム産業がそうしたことを行うことの是非よりも、ツー リストたちがこうしたことに簡単に従ってしまうものとなることを 解明する方がはるかに重要であるとし、1964 年ブーアスチン (Boorstin, D.)が、直接的には広告・宣伝についてであるが、「こ れは顧客の注意の無さからくるものではなくて、騙されることや 誘惑されることに楽しみを感じることからくるものである」と書い ていることを紹介している(B3, cited in W,p.166)。 2. 言説の誘引 ここでの問題は、人々の間の会話、例えばツーリズムについて
の会話や談話がコミュニケーション機能を発揮して、ツーリズム への誘引になることである。言説とは、広くは、通常の会話、 口コミ、印刷物、広告、報道等をいうが、狭くは、ツーリズム をどのような名目で、例えば自己啓発などに有用とか、日照時 間の長い所に行って日光浴をするのは健康に良い、といった 名目や(大義)名分(taste)、会話・談話のトピックなどをいう。 定義的にいえば、ここでいう言説は「全体として何かを伝 える言明(statement)のシステム」をいうが(W,p.173)、信仰や イデオロギーが1つの教義の伝播であるのに対していえば、他 の言明を排除しない形で、1つの考えを表明したり、意見を交 換しながら結果として1つ(複数の場合もある)の見方・考え方 を、時には不特定の人に伝える、社会的集団的な意思の交換・ 伝達の行為である。 従って、それが世論を形成し、社会的オピニオン・リーダー となることがある。それで形成されたオピニオンがモットーやス ローガン的な形で表れたのが、上記の名目や名分である。そ れがさらに凝固した形になると、イデオロギー的なものとなる。 ところで、これまでの西欧のツーリズムについてみると、こうし た名目や名分にはいくつかのものがあった。 中世以後のモダニティの時代でみると、17 ∼ 18 世紀のグ ランドツアーでは、形式的な名分となったものは教育であった。 当時先進国と考えられたイタリアやフランスの諸都市を巡って 研修を行うというのが名分であった。次に現れたのが健康で、 健康に有効な海水浴や日光浴のため海岸地帯に旅行するとい うものであった。17 世紀後半以後では都市人口の増加、機 械文明の生成とともに、「自然に帰れ」というロマン主義運動 が盛んになった。 ツーリズム論上における旅行・ツーリズムのこうした名分をめ ぐる最大の事件は、恐らく、19 世紀後半を中心に展開された トラベルとツーリズムの言葉の違いに象徴される、旅行の庶民 (主として労働者階級)への拡大に関連する名分の問題であった。 この問題については、一端を拙稿(Ω5)で論じているが、 当時トマス・クックらが庶民対象のパッケージツアーを催行した ことを契機として、そうした旅行業者によるパッケージツアーは、 旅行・トラベルの品位を貶すもので、推進されるべきものでは ないという批判があり、それに対しトマス・クックらが、旅・旅 行の民主化になるものと反論を展開したことに象徴されるもの であった。 旧来からの旅行の擁護論者たちによると、トラベルとよばれ るものは、旅行の計画・遂行・実行上の困難克服をトラベラー 本人が行うものであり、そうしたことを本人ではなく、旅行業者 が代行し、その保護のもとで旅行がなされるようなものはトラベ ルとはいえない。それはツーリズムといわれるべきものであると いう主張がなされ、結果、言葉のうえでも一般に、トラベルに 変えてツーリズムが用いられるようになったのである。これは、 旅行の内実の違いもさることながら、何よりも旅行者の階層的 違いに焦点があった。庶民対象のパッケージツアーの反対者 は、旅行・トラベルは自らの力でこれをなしうる富裕層あるいは 中産階層に限定されるべきものと主張したのである。 ワンは、こうした「トラベル論」と「ツーリズム論」との違いは、 モットー・名分の違いであるとして、前者を「高い名分」(high taste)、後者を「低い(low)名分」のものと位置づけたうえ で、1980 年代以降盛んになった、環境の持続的維持等を名 分としたオルターナティブ・ツーリズムなどは、現代における「高 い名分」のツーリズム形態であると位置づけている(W,p.181)。 少なくともそれらは、一般大衆対象的なマスツーリズムとは、そ もそもの趣旨が違うというのである。 3. 消費の誘引 ここでの問題は、商品としてのツーリズムを前提として、そ れがどのような性格や特徴をもって、ツーリストすなわちツーリ ズム消費者の誘因となっているかである。この際ツーリズムは、 システム性に基づき旅行の準備過程、旅行過程、旅行後の 総括的過程に大別されるが(この点について詳しくはΩ1、116 頁以下)、 このなかでツーリズム商品として本来対象となるのは、準備過 程と旅行過程であるので、ここでの対象となるのもこの両過程 である(総括的過程は次項で取り上げる)。この両過程では、ツーリ ズムという経験的商品の、物品的商品とは異なる文化的特性 を明らかにすることが課題となる。ワンによると、この点では次 の諸点が命題として提示されるものである。 第 1 に、ツーリズムが典型的には庶民対象的なマスツーリ ズムとして、トラベルとは別れて、商品としていわば自立したの は、モダニティのなかでも産業資本主義時代においてであり、 その商品化は、何よりも「資本家的商品化」としてであって、 資本主義のツーリズム部門への延長と解されるべきものである (W,p.191)。 それ故、ツーリズムは商品として、他の商品と異なることが ない普遍性を持つものである。すなわちそれは、モダニティの 基本原理である合理主義のもと、資本家的商品として利潤追 求原則のもとにおいて合理化、標準化、ルーチン化、数量化 によるコスト削減法則という文化のもとにある。このように、ツー リズムの商品化では、ワンの論述は、資本主義のもとでの解 明が前面にたつものとなっている。 第 2 に、ツーリズムという経験的商品の消費文化は、物 品的商品の消費文化の延長であり、商品化が非物品的商 品にまで及んだという意味では、これは「商品の脱物体化」 (dematerialization)を意味するが、ツーリズムなどのサービス行 為は「生産即消費」であるから(この点について詳しくはΩ2、6 頁 以下)、ツーリズム商品の消費は時間それ自体の消費である。 消費(者)の圧力は、物品的商品では、商品を媒介するか ら生産者に直接伝わらないことがあるが、サービス商品では、 生産者に直接伝わる。 第 3 に、今日のようなポスト工業化時代には、社会的重点は、 生産ではなく、消費におかれるものとなる。特に音楽、スポー
ツ観戦、ツーリズムなどの経験的商品の消費が前面に出てくる。 これらの多くは、本来は家庭外でなされるのが特色で、ツーリ ズムは、家庭外消費のなかでも、消費者が自己の意向を強く 発揮できる消費活動である。 第 4 に、このことは、特段の観光資源のない所でも、例 えばテーマパークなどを人工的に設けて、ツーリズム事業化 (touristification)、すなわち地域のツーリズム商品化を行いうるこ とを意味する。ただし、国・地域のツーリズム事業化は不均 等に進む。不均等発展の法則が妥当する。一般的にいうと、 経済的に発展度の高い所は有利である。というのは、例えば 交通手段などが整備されているし、高所得の人たちが近くに 居ることが多いからである。しかし、発展途上国(地域)でも、 古いもののあることがツーリズム資源となり、それ相当の形で ツーリズム事業化が可能である。 4. サイン価値の誘引 ここでの問題は、ツーリズム後の総括的過程において、例 えば購入してきた土産品等が持つツーリズムへの誘引的意味 を解明することである。ワンは、それをツーリズムのシンボル的 消費過程(symbolic consumption)の問題としてとらえ、端的に はサイン価値の問題として論じる。それは、例えばヴェブレン が 1899 年の著(参照文献 V)で展開した「見せびらかしの消費」 (conspicuous consumption)の理論を先例とするもので、ツーリズ ムを含めて物品の消費が、自己自身の直接的な必要の充足 のためではなく、他人に対して優位性を見せびらかすために 行われることの意義を問うものである(この点について詳しくはΩ4)。 それはツーリズムに行ってきたことが見せびらかしの用具とされ ることであり、周囲の人に配られる土産品はそのシンボルであ り、サインの価値の持つものと位置づけられる。 もともと物品には総じて、そうしたシンボル的サイン的価値が ある。他人に対する謝意や祝いの念を物品で表し、相手に 贈ることは日常的になされていることで、そういう意味ではボー ドリヤール(Baudrillard,J.)のいうように(B1; cited in W,p.201)、物 品には、当該人間の直接的欲求をみたす使用価値および交 換価値以外に、「ステイタスを示すシンボル的価値」あるいは 「デモンストレーション的なコミュニケーション価値」があると考 えられる。 ツーリズムの場合、土産品がシンボル的価値を持つことは、 とりも直さず、その元であるツーリズム自体にシンボル的価値が あることを意味し、人は単に自己自身の欲求をみたすだけでは なく、自己の名声やステイタスを考えてツーリズムの仕方を選ぶ。 ツーリズム先の選定、使用する交通手段やホテル・旅館・ルー ムのランクなどの決定は、自己の名声やステイタスを考慮して なされる。ツーリズムはこのような意味では、ヴェブレンのいっ た「見せびらかしの消費」以外の何物でもない。ワンはいう。 「ツーリズム消費は、どのようなものであれ、要するに自己表
現(selfexpression)とステイタス資本(status capital)の向上を目
指す競争のなかで行われるものである」(W,p.204)。 ツーリズムは社会的環境のなかで行われるものであるから、 もともと、このような本質的特性を持つものである。それ故ツー リズムは、ツーリストにとって、単なる経験的商品と位置づけら れるだけのものではなく、社会的コミュニケーション機能、ステ イタス表現機能を持ったシンボル的な商品消費という意義をも つものである。従って、ツーリズムで用いられる交通手段や宿 泊施設等では、これに照応して、ランクに上下があるものとなる。 Ⅴ. 結―モダニティ基盤理論の意義と限界 以上の考察のうえにたって、最後に、ワンの所論の意義 について総括的に一言しておきたい。まず、現在の世界に おけるツーリズム理論の状況を大観し、2010 年アラムベリ (Aramberri,J.)は、ツーリズム研究には、目下、一般に認められ た確立したパラダイムはないと指摘し、世界的に流行している ポストモダニティ論でも、多くがポストモダニティの概念規定す ら不充分で、耳目を引く「急進的な」理論の提示たらんこと に急で、それに照応した結果を伴っていないものが多いと論評 している(A,pp.10-11)。 これは多分に、現在のポストモダニティ的と思われる現象が、 本質的には、多くがモダニティの矛盾的構造のうえにあり、そ の矛盾の発展的展開形態であるにもかかわらず、このことを 軽視もしくは無視しているためである。現在の状況は、これを ポストモダニティと規定するにしても、ワンのいうように、それは 合理主義を根本原理とする点では、本質的にはモダニティと 変わるところがないと考えるべきなのである。 事実、ポストモダニティ的現象には、モダニティの部分的修 正と考えられるべきものが多い。この意味で、現在のツーリズ ム論の根本的土台には、少なくとも、こうしたモダニティ基盤ツー リズム論が置かれるべきであり、ワンの書は、これを体系的に 解明したもので、現代ツーリズムの理論的基礎を提示したもの として高く評価されるべきものである。 ちなみに、イギリス・ウエールズ大 学 のプリチャード (Pritchard,A.)は、2012 年の論考で、ツーリズム関連の研究は 近年大いに進展し、例えば「ツーリズム関連学術誌は 1970 年代 10 数誌のみであったが、2011 年には約 150 誌を数える にいたっている。……しかし、その多くの研究は狭い実態調 査的なものに終始し、理論的研究は進んでない。……そのた めツーリズム研究は、多くの社会科学的研究分野でこれまで 推進されてきた方法論的学問的考究においては全く隅の方の 存在となっている」と述べている(P2,p.11)。ワンの著は、このツー リズム研究の遅れを取り戻す、1つの理論的内容をもつもので ある。 ところでワンは、近現代の社会について、資本主義を含ん だモダニティとしてとらえているが、モダニティないしモダンのと らえ方は、既述のように実に多様である。ツーリズム論でみて
も、前記のアラムベリは「モダニティ(モダン)は、西欧でみると、 ナポレオン戦争のころ、つまり19 世紀への変わり目ころを中心 に起きた産業革命と植民地拡大運動に始りのメルクマールが あるものであって、……それは、要するに、資本主義とよばれ ることができるものである」と述べている(A,p.4)。 今日の社会をモダニティ、特にポストモダニティと規定しよう とする試みの意図は、これを充分に理解できる。特にツーリ ズム論では、「モダニティ論的分析」、さらには「ポストモダニ ティ論的分析」は決して排除されるべきものではないが、現代 ツーリズム論としては、その基礎には「資本主義基盤的分析」 がおかれるべきものと考える。そうでなければ、今日社会の基 本的動向を本質的根源において把握することができない。例 えば、ツーリズムにも大きな影響を与えている今日の世界的大 不況が、モダニティ(あるいはポストモダニティ)というよりは、資 本主義というものに根源があることは、誰もがこれを認めざるを えないであろう。ツーリズム論分野でも、前記で引用した 2012 年の論考で、マクラーレン/ジャラミロは同趣旨のことを、すな わち、「今日の世界的経済危機は資本主義そのものに原因が あるもの以外の何物でもない」と述べている(M3,p.xvii)。 本稿で取り上げたワンのツーリズム論は、本質的には、「資 本主義基盤的ツーリズム論」の 1 つの提示形態として理解 されるべきものであると思われるが、ツーリズム論のさらなる発 展のためには、それを土台にし、ベレクツの所説(参照文献 B4, B5)なども踏まえて、本格的な「資本主義基盤的ツーリズム論」 が展開されることが望まれる。本稿は、その 1 つのきっかけに なることを期待するものである。 [参照文献]
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