はじめに
まず、公務員の「制度」・「運用」に関する次のような 整理をご覧いただきたい。 公務員制度及びその運用に関する検討課題 公務員制度については、緊急を要するものから順次改 正が行われてきている。しかし、さらに制度・運用の双 方にわたって、いっそう検討を加えて改善を行う必要が ある。課題と考えられるものは、次のとおりである。 1.(民間人材の活用) 民間の人材が公務に従事することを可能とするため に特別のポストを設けること等の制度の整備を行い、民 間における組織経験を活用して行政運用の適正化を図 ること 2.(公務員の資質及び能力の向上) 公務員の職務の複雑化・専門化及びその責任の重大化 に対応できるように、採用前後における研修を行うため に必要な措置を講ずる等公務員の資質・能力の向上を図 ること 3.(行政事務の簡素化・能率化) 府省間のセクショナリズムを除去し、煩雑になってい る規定や事務手続を見直し、行政事務の簡素化・能率化 を図り、行政運営の迅速・適切な処理を行うために必要 な措置を講じること 4.(公務員倫理) 公務員の職責の重大性に照らして公務員倫理の向上 を図るために必要な方策を講じること 5.(公務員の地位の確保) 公務員がその職務に専念して十分に能力を発揮して 仕事を行えるような措置を講じること 6.(人事行政機関の整備) 府省間における人事行政運用上の不統一を防止し、か つ、府省間の人事の交流を円滑にするために、内閣に人 事行政に関する特別の機関を設置すること 7.(公務員の勤務条件の合理化) 公務員の勤務条件に関する制度及び運用の合理化を 図ること 8.(その他) 以上のほか、公務員に関する制度及び運用の改善に関 して必要な事項について検討すること これは、近衛文麿(第二次)内閣の昭和 16(1941)年 4 月 30 日の閣議決定を現代語に訳したものである1 )。 今から 70 年近く前、しかも戦前のものとは思えない ような内容であるが、これを示して「デジャ・ヴュ」と して感慨深く眺めようというわけではない。ここに示さ れた各項目なりイシューは、今日の公務員制度改革の議 論においても取り上げられているものと重なるものが 多い。このことに着目しながら、昭和 11(1936)年か ら同 16(1941)年の間を中心に、昭和 10 年代の官吏(公 務員)制度改革の動きを追って、どんな問題に対してど のように対応しようとしたのかを見ながら今日に通じ る問題について考察することとする。 ただ、歴史上ある事柄や決定が現れるに至るには、そ の背景に複雑に絡み合ったさまざまな「変数」が存在す るのは当然である。 はじめに Ⅰ.昭和 10 年代の議論の概観 Ⅱ.顕在化されたイシューとその対応策 Ⅲ.断絶と継続の中での制度(改革) おわりに昭和 10 年代の公務員制度改革論
鵜 養 幸 雄
特に、政治面の大きな流れを見ても、昭和 7(1932)年 の「五・一五事件」以後の「非常時」体制、「日中戦争」 本格化、国際情勢の大きな変化、そのような中で国内的 には「国家総動員体制」に向かうという状況にあった。 「政党勢力」の後退(凋落)、「軍部」の台頭、「経済界」 の発言力強化など、主要なアクターの力関係が大きく変 化している。(当然、アクター内部での力関係も流動化し、 また、それ以外にも「国策研究会」、「昭和研究会」、「日 満財政経済研究会」等々の存在も無視できない。)他方、 特に官吏制度の改革に関しては「枢密院」の存在も大き い2 )。 しかも、議論される分野も「政治指導体制の刷新」、「経 済新体制」、「官界新体制」など多岐にわたっている。 しかし、本稿では、あえて、大胆に(無謀にも?)、様々 な変数の存在を捨象して、特に「官吏」の「制度」・「運 用」という側面に着目して(切り出して)、論点の整理 を試みたい。アプローチとしては、いわば「偏微分」的 手法であり(もっとも、他の様々な変数も定数としては 顧慮)、そこから制度改革をめぐる各イシューの意義に ついて考察するものである。そして、「古人の求めたる ところを求め」(芭蕉)てみようと思うところである3 )。 (以下、原文を引用する際は、漢字は新字体、カタカ ナはひらがなに改め、適宜句読点を加えている。)
Ⅰ.昭和 10 年代の議論の概観
1. 昭和10年代、特に「二・二六事件」以後に議論が活 発化した状況 「非常時」、「挙国一致」といった言葉は、「五.一五事件」 (昭和 7(1932)年)以降しばしば使われるようになっ たが、国内政治・行政に現れた特徴としては、一般に「軍 部の台頭」・「政党勢力の衰退」といった状況下で「准戦 時」から「戦時体制」に向かう過程で、重要政策の企画 立案の進め方や行政機関全般にわたる見直し等が検討さ れたことがあげられる。 その中で、行政の仕組み、特に公務員(官吏)につい て具体的な提案・検討が行われるのは、特に「二・二六 事件」(昭和 11(1936)年)以降である4 )。 以下では、そこで提示された内容、そしてそれがどの ように議論され、扱われていったかを概観する。 2. 議論の萌芽期 −広田弘毅内閣時に現れた「内閣人 事局」構想− 昭和11(1936)年、「二・二六」事件で倒れた岡田啓介内 閣を継いだ広田弘毅首相は、「非常時局の打開、庶政一 新政策の実現」を掲げる中、官吏制度に関しては、単な る運用の問題を超えた機構改革の必要性が謳われた5 )。 これが、新しい行政機関(統一人事(行政)機関)の 設置が必要であるという方向に向かう。「内閣人事局」 というアイデアもこの時代に現れたものである。この「内 閣人事局」は、総理大臣直属の機関として、人事行政の 公正・統一を図るものとされている。 その経緯・内容を見ると、 ・まず、軍部が陸海軍の共同意見として中央行政機構の 改革案を示す中で、各省の文官人事の統制を図り、広く 民間の人材を登用するなど、「人事行政の統制刷新に関 する事項を掌る機関を創設し、内閣総理大臣の管理に属 す」ことが掲げられた6 )。 ・これが閣内の四相会議の議論では、当初、機関新設に 慎重な方向であり、改革案法制化の検討を委嘱された法 制局も同様の見解を示したが、軍部はこれに対して「絶 対的に必要なり」と強く反対の意を表した。 ・再び四相会議で「人事局」創設を含む案が決定された。 (昭和 12(1937)年 1 月 12 日)7 ) しかし、この案の法制化は、枢密院、各省の反対によっ て、実現せず、次の林銑十郎内閣でも「官吏制度の改正」 が目指されたが、そこでも実現には至らなかった8 )。 3. 紆余曲折の要綱策定とその後の迷走 −「内閣人事 部」構想、そしていくつかの大綱− (まずは、近衛第一次内閣での大綱策定) 近衛文麿(第一次)内閣は成立当初、官吏制度改革(特 に民間人材の活用)を行う旨を検討するとされたものの、 日中戦争の勃発とその本格化の中で、動きは止まってい たが、戦争長期化の危惧も相まって国内体制の強化の必 要性もあり、首相指示に基づいて法制局で検討が行われ、 翌年 1 月に法制局試案が発表された。そこには、試験制 度見直し(「国史」の必須化等)、官吏の処遇見直し、民 間人材の活用方策、官吏の研修(再訓練)導入、そして 「内閣人事部」の新設といった内容が盛り込まれた。 この案に対しては、強い批判・反対意見が表明された。 各省事務次官はこぞって反対し、特に、「人事部」設置 については、各省の統一的人事遂行を不可能にするものとして設置すべきでないとした。政務官会議はおおむね 賛同しつつ官吏分限令の全廃を主張し、他方、陸軍は、「人 事部」設置以外についてはその不徹底さを非難した。 これを踏まえ、法制局は、試験制度を中心とした案を まとめた(外交官・領事官任用のための高等試験外交科 を行政科と統合するという新しい案が含まれた)。それ に基づき閣議で議論が行われ、やや旧案に回帰したもの となった(「骨抜き案」といわれた)。その内容は、 ① 試験制度見直し、 ② 試験以外の人材確保(銓衡)の拡大、 ③ 文官分限令(身分保障)の意直し、 ④ 「人事の統合調整」 等が盛り込まれたものであった。 この「人事の統合調整」は、内閣総務部に人事行政事 務担当の職員を置いて次官会議を活用する一方、各省人 事主任者である人事課長・秘書課長で「人事委員会」を 組織して各省の人事交流を図るというものであった。 これに対しても、枢密院での反対が強く、また内閣改 造によって新たに入閣した大臣(外務・商工・文部)か ら根本的な改革をすべしとの主張も現れ、再び検討を加 えることとなり、その後、11 月 18 日にようやく大綱の 閣議決定にこぎつけた。そこでは、 ① 高等試験令改正(行政科と外交科の合併)、 ② 文官任用の弾力化(「専ら産業、経済、通商、貿易、 交通事業に従事する者のうち、学識経験ある者」は試験 に依らずに銓衡によって任用可能)、 ③ 文官分限令改正(身分保障のための委員会を廃止) 及び ④ 各省人事交流の円滑化のための措置 を定め、この大綱に基づき法制局で具体案を作成し、枢 密院にも諮る予定となった。しかし、近衛首相の退陣と ともに未実現に終わってしまった。 (平沼内閣での事務次官会議の強い反発) 平沼騏一郎内閣では、当初首相自身、官吏制度につい ては制度の改革よりも運用の改善に重点を置き、官吏に 対する心構え等の内閣訓示が発せられた(昭和 14(1939) 年 2 月 24 日)。しかしその後、前内閣の案を踏襲した要 綱を作成、閣議に上程はされたが決定に至らず、事務次 官会議に付議されたが、ここで、事務次官たちは、特に 民間人登用について強く反対をした。 その反対理由は、いかにも「行政のプロ」を自任する 現役官吏が述べそうなものであり、組織外人材が官界に 入ることを警戒する思想が明確に示されているので、そ の主張するところ(要旨)を次に記しておく。 ① 民間でいかに産業、通商等のエキスパートであった としても、民間の事業と国の行政は別であるので、その 者が行政官として有能とは限らない。 ② たとえ官界の門戸を開放しても、果たして民間と比 べて給料の低い官吏になるだろうか。もし来る者がいて も、それは有力者との個人的関係によるものなどだろう から、長く在職することはないであろう。 ③ 迎えた民間人が民間に戻っていくと重要な機密が漏 れたり、事業で利用される危険がある。 ④ 民間人を重要な地位に就けるとすると、試験を通じ て資格を得て長く努力して来た官吏の昇進の道をふさぐ ことになる。 ⑤ 重要な地位に就いている官吏は、専門的知識のほか にも、官吏として長く訓練を受ける中でふさわしい資質 も身につけている者であるから、民間人がにわかに上司 になっても部下の指揮監督をする能力を備えているか疑 問である。 その後、事務次官会議の反対により、一度先の要綱よ り消極的な改正案が決定されたものの、再度、改めて実 質的な議論が繰り返された。しかし、平沼内閣が、独ソ 不可侵条約締結という「欧州の天地」の「複雑怪奇の現 象」を見、総辞職したため、この内閣の下でも改革の実 現には至らなかった。 (阿部内閣、米内内閣でも実現には至らず) 平沼内閣を継いだ阿部信行内閣では、重要な対応事項 の一つとして「諸制度の刷新並びに運用」が掲げられ、 その内容として「行政機構官吏制度その他制度の刷新並 びに運用の改善に付き必要なる方策を講ぜんことを期 す」ことが示された。しかし、この内閣も内政上の諸問 題等によってわずか 4 カ月強で総辞職をしたため進展は 見られなかった。 阿部内閣を継いだ米内光政内閣では、首相が就任の翌 月、官吏任用、身分保障について「遺憾なきを期す」こ とを言明し、法制局を中心に改革案が検討され、大綱も 策定されて様様な議論が展開されたが、結局実現を見な いうちに内閣の総辞職に至った(昭和 15(1940)年 7 月 16 日)。
4.制度改正の実現と研究事項の確認 昭和 15(1940)年 7 月に成立した近衛(第二次)内 閣は、官吏制度を単体として取り上げて改革案を立案す る従来の方法とは異なり、8 月 1 日発表の「基本国策要綱」 で「国防及び外交」と「国内体制の刷新」を掲げ、国内 体制の刷新として、新国民組織の確立、議会翼賛制度の 確立と並べて「行政の運用に根本的刷新を加えその統一 と敏活とを目標とする官界新体制の確立」を示した。 新たな大綱として、「官界新体制確立に関する件」を 決定した。その内容は、 ① 官吏制度の改革(文官任用制度・文官分限制度等の 改革のほか、「日満間の交流人事に必要なる制度の確立」 も含まれている。) ② 官庁行政事務の再編成(国防国家体制に即応するた めに重点主義を採用し、不要不急の事務を一時停止する こと) ③ 吏道刷新及び昂揚(官紀の振粛、官吏の再教育・再 訓練、中央地方の総合的な人事交流の実施) であった9 )。 これをさらに具体化し、勅令改正等として、ついに昭 和 16(1941)年に実現を見るに至った。 ここで「改正」されたのは、 ① 試験制度(文官高等試験の外交科を廃止して行政科 に統合、試験科目の整理(国史の必須化)) ② 任用制度(民間人材の採用の円滑化、部内登用の推 進) ③ 分限制度(「身分保障」の見直し(文官分限委員会 の廃止))等 で、昭和 15(1940)年 12 月 29 日に枢密院における審査を 通過し、翌年 1 月 6 日に勅令の改正等が公布された10)。 その際、併せて「研究事項」として閣議決定された内 容は、本稿「はじめに」(及び注 1)で見たとおりである。 なお、同時に細目も併せて決定されている11)。
Ⅱ.顕在化されたイシューとその対応策
昭和 10 年代の官吏制度改革論の中で、いくつかのイ シューが浮かび上がってきている。 それらのイシューに対する対処法としては、端的に新 しい制度を設けるとするもの、既存の制度の問題を解消 するような制度改正を行うとするもの、運用の改善に よって問題の解消を図るもの、制度・運用の両面の見直 しを行うとするものなどがある。なお、運用の問題では あっても、その問題があることを顕在化させて「制度改 正」として「形」を整えるプロセスも政治の場では有用 である。すなわち、運用の改善を宣言し、その推進の契 機とする意味と共に、制度的な保障も担保するという手 法である。 近時の公務員制度改革において、例えば、「キャリア システム」の問題は、運用に起因するものであることか ら、理屈の上では運用の改善で目的は達成できるが、あ えて、「改正法」で「合格した採用試験の種類にとらわ れてはならず」(国家公務員法第 27 条の 2)と掲げるのは、 まさに運用の問題を制度改正(改革)によって対応した 例といえよう。また、「身分に安住しすぎる」という問 題に対しては、「人事評価」(国家公務員法第 3 章第 4 節・ 第 70 条の 2 ∼ 4)の制度の導入によって「分限処分」 の実効性も高めようとするのは、担保措置の制度化によ る間接的な改善措置といえよう。 ここでは、今日の公務員制度の在り方を考える上でも 参考となる内容を含む、特に 5 つのイシュー(試験制度、 民間人材の活用、身分保障、研修及び人事に関する機構) について見つつ、現代における課題にも言及することと する。なお、給与制度については「待遇」の「合理化」 が議論されているが、勤務条件についての基本的なスタ ンスが戦前戦後で大きく異なることから、ここでは取り 上げない。 1.試験制度の改正 検討対象となった戦前の試験制度は、明治 26(1893) 年の文官任用令(勅令 183 号)及び文官試験規則(勅令 197 号)等を基本とする。「親任官」を含め試験によら ず自由任用されるポストを除き、新規に事務系の行政官 として官界に入る者に対して、文官高等試験と普通文官 試験が用意されており、それぞれ「奏任官」と「判任官」 に対応していた。技術官・教官については、試験によら ない能力の判定(銓衡)が実施されていた12)。 原則として試験によるという仕組みは、客観的な能力 判定により資格を認めるという点で、メリット・システ ムを支えるものとして一定の評価もされているところで あるが、特に文官高等試験(「高文」ともいわれる)に ついて批判が生じた。採用後速いスピードで昇進してい くこの試験に、帝国大学学生には予備試験の免除が認め られていたということなどに対する不満等もあったが、試験内容に関して、大きく 2 つの非難があった。 (知識偏重・法科万能に対する批判と「人物重視」) 1 つは、試験が求められる人材像と関係のない学科中 心(知識偏重)であること、2 つには、その試験内容も 法律科目が重視されすぎている(「法科万能」)ことであっ た。 当時「人物」を重視することが掲げられたが、採用段 階の試験でどのような能力を検証するかという観点か ら、知識に偏重することを避けるといった発想は今日に も共通する。そのことは同時に、「人物」を客観的にど のように評価するかについてなかなか完全な正解を得ら れないことも示している(望ましい「人物像」について の「各論」は、戦争遂行時と今日との間で大きな差はあ るが)。 人物試験(面接)でどのように「人物重視」の評価を 行うことが適切かということに関して、平成 18(2006) 年の国家公務員採用Ⅰ種試験以降導入された方式は、「経 験学習力」の確認を「コンピテンシー」の手法を活用し て実施のための「構造化」を行ったものである。仕事ぶ りを正確に観察してそこから抽出されて認められた能力 をもとに人事管理に活用するという本来の「コンピテン シー」の考え方からすれば、多くの場合実際の仕事の経 験がなく、さらには仕事ぶりを実際に見ることができな い(面接の場で口頭のやり取りで聞くしかない)という 大きな制約の中で開発された苦心作といえよう15)。さ らに、平成 21(2009)年 4 月から本格実施された「人 事評価」制度も「コンピテンシ−」と「MBO(目標に よる管理)」の手法を活用したものであり、この制度に ついての評価は将来にゆだねられるが、客観的な「評価」 という課題は、古くからの難問である。 (試験科目の問題) 試験科目をどのようにするかも簡単に答の出るもので はない。行政の具体的な課題等がはっきりしていれば、 その課題解決に必要な能力の検証のために必要な科目を 設けることができるが、行政及び社会の複雑化等によっ て課題と解決方向が単純でなくなり、かつ、行政官に求 められる資質の検証にふさわしい試験科目をどのように 定めるかは議論が定めにくい要素があろう。「法科万能」 といわれた原型は、国づくりの初期に法律をしっかり整 備することの必要性が反映したものであろうが、「法律 が重要」→「国家として法律教育が重要」→「その教育 を身につけた者が行政を担当することが望ましい」とい う図式が容易に想像できるところである。しかし、その ような単純な図式では行政が進められない中で、むしろ、 法律の「固さ」、「融通のなさ」などの批判が生じるもの の、ではどのような試験科目がふさわしいのかという点 については、さまざまな議論の中でも、科目を見直して 不要なものは削り、新規に必要なものは加える(場合に よっては選択科目として)といった試行錯誤が繰り返さ れている。 昭和 4(1929)年に選択科目として登場し、昭和 16 (1941)年に必須化された「国史」についても、その時 代背景から理解できる部分があるものの、試験科目の役 割について考えさせられるところがある13)。 「そもそも」の議論に立ち返って考えた場合、能力に 応じて公務員採用を行うべきであるという理念(メリッ ト・システム)は近代以降肯定されていることを前提に、 具体的な能力検証方法については国によっても異なる形 態が現れる。 「試験」(しかも「筆記」を必須の要素とする)は、我 が国では戦前・戦後を通じて一般的に認められている(信 頼されている)ものといえる。「明治の日本が近代化の ために「試験」を導入したのに対して、中国では近代化 のために「試験」(科挙)を棄てた」というのは R. M. Spaulding Jr.の問題提起であったが、戦後においても「公 務員試験」というもの自体についてまったく廃止せよと いった議論が多数となったことはない(試験が受験者に とって知識の記憶など試験自体の突破に重点が置かれる 面で、公務に必要な「職務遂行能力の検証」ではなく「試 験遂行能力の検証」だ、としばしば揶揄されるが)。そ れだけに、従来から「改善」・「見直し」といった漸進的 手法を重ねているものの、今後の試験の在り方の見直し (平成 21(2009)年 3 月段階では平成 24(2012)年の実 施を想定した)においても、どのような人材確保のため にどのような試験(科目)が必要かという課題が残る。 (外交科の廃止) また、昭和 16(1941)年に外交科が廃止されて行政 科に統合されたが、当時の「ねらい」は、むしろ、戦時 体制における軍部対外務省といった図式の中で、外務省 の弱体化をねらったものとも見られている(「国際間の 問題を外交による平和的手段よりもむしろ武力に頼って
解決しようとする時代」、「専門の外交技術がさほど重視 されなくなる」(近衛首相)といった言葉にもにじみ出 ている)14)。「意図」は別として、国際化の中で、採用 段階では他の省庁職員と別建てにせずに共通の試験に よって人材を確保して育成していく方法を選択した点で は、平成 13(2001)年から外務公務員採用Ⅰ種試験を 国家公務員採用Ⅰ種試験に統合したことと、外形上は似 ているところがある。 2.民間人材の活用 時代が進むにつれて、行政部内に蓄えられた専門性の みでは対応できない課題が生じてくるのに対して、「外 部」すなわち民間人材の確保の必要性が感じられるよう になる。特に、物資の動員、総合的な経済計画の策定な どといった局面での現実的なニーズも見られた。 およそ一般的な制度として多数の民間人材の確保が可 能となる措置を講じる、あるいは職業官吏の中の上位の ポストに民間人材を任用することに対する、行政内部か ら非常に強い反発があったことは、Ⅰ.3.で見たとお りである。その後の実態としては、特別の技能等に着目 して、有為な民間人材が(必ずしも数は多くならなかっ たが)、企画庁・企画院等を中心に採用されていった。 なお、他方、逆に、部内での能力が外部で活用できる かという面でいわゆる「天下り」(「天降り」)に対する 反対論もあった16)。 民間人材の確保については、平成に入ってからも、新 規学卒者等の(試験)採用を基本としつつも、公務の部 内では育成できない知識・経験・能力をもつ人材を確保 する必要性が認識された。その際には、手法として、任 期を定めた採用を可能とする(採用時の処遇を弾力化す る)措置を導入することによる円滑な人材確保も検討さ れた。行政が対応すべき新たな分野(当時では、例えば、 デリバティブ、マネーロンダリング等)での人材の確保 のための措置、また、特に科学技術の研究分野では「科 学技術創造立国」を目指すためにも優秀な研究者の招聘 と若手研究者の育成のための任期を定めた研究者の採用 のための制度化が検討され、平成 9(1997)年任期付研 究員法(一般職の任期付研究員の採用、給与及び勤務時 間の億例に関する法律、法律 65 号)、翌年に人事院規則 1 − 24(公務の活性化のために民間の人材を採用する場 合の特例、この制度は任期を定めない場合の採用時の能 力実証、初任給の決定の特例を定めるもの)、さらに、 平成 12(2000)年には、任期付職員法(一般職の任期 付職員の活用及び給与の特例に関する法律、法律 125 号) 等の制定に至っている17)。 3.身分保障の見直し ここでいう「身分保障」には、やや特殊な意味がある。 今日、公務員制度における身分保障といった場合、「職 員が意に反してみだりにその官職を失ったり、あるいは 官職の保有に基づく各種の権利をみだりに制限ないし奪 われることのないよう、制度上、これを保障することで ある」と説明される18)。このように、法律の定める事 由によらなければ意に反して公務員という地位を奪われ ず、その他の不利益な処分に対しても法令の根拠を必要 とするという内容で一般的に理解されている。 これに対し、「五・一五事件」後の昭和 7(1932)年 斉藤実内閣で見直されて制度化された「身分保障」は、 それ以前のいわゆる二大政党による政権交代の時代に、 政党の意向によって官吏の更迭が頻繁に行われたことへ の軌道修正として、抑制のための手続措置を講じたもの であった。 明治 32(1899)年に設けられた文官分限令(勅令 62 号) の下では、「官庁事務の都合のために必要」ということ を理由とした「休職」が可能とされていた。休職という 形を取るが、その期間が満了する 2 年後には自動的に身 分を失うと言う意味で「更迭」・「馘首」の効果があった。 大正時代から昭和初期における、特に地方官任用をめ ぐる状況は、政権政党に近い者を任命するために、現職 を休職にするというやり方がしばしば見られた。その際 に「官庁事務の都合」による休職が濫用されたのである。 任命が政権政党の影響を受けるという意味でスポイル ズ・システム的側面はあったが、あくまで試験採用者の 中からの選別という意味で「二部交代」、「高文スポイル ズ」などといわれている。 「官庁事務の都合」による休職濫用の反省から「身分 保障」を図るべく、「休職を命ずるの手続を慎重ならしめ」 るため、「文官分限委員会」を設け、休職を命ぜられた 者が同意しない限り同委員会の諮問を経なければならな いこととする旨の分限令改正が行われた19)。その検討 自体は、二大政党時代の田中義一内閣、浜口雄幸内閣で も行われていたが、実現したのは、斉藤「挙国一致」内 閣時であった。 この改正が「身分保障令」の制定といわれたものであ
る。「官庁事務の都合」による休職制度自体については、 行政の運営上「新陳代謝」を図るためにも有用性が認め られると考えられたものの、その濫用を防止するための 措置が必要なものとされたのである。政党等の利益のた めに「官庁事務の都合」による休職が濫用されることを 防ぎ、「休職を命ずるの手続を慎重ならしめ」るため、 文官分限委員会を設け、休職を命ぜられた者が同意しな い限り同委員会の諮問を経なければならないこととされ たのである20)。 文官分限委員会が設けられていた期間に諮問された件 数は、高等分限委員会に 13 件、普通分限委員会に 14 件 であった。 文官分限委員会に諮問された事例を見ると、心身の故 障に基づくもの、適格性の欠如、行方不明のケースも「官 庁事務の都合」の中に含まれていたことがわかるが、活 用実態の全般から見ると、「身分保障強化」のための文 官分限委員会であったにもかかわらず、認めたケースは、 当時の政権(又は軍部)にとっての「不適格者」の排除 を追認するようなものであった面も否定できない。(例 えば、滝川幸辰が教壇を追われた際の審査記録21)。) その後、この機能がもはや不要という考えが一般的に なり、近衛(第二次)内閣時に、「身分保障制」につい ては、「人事行政往年の弊は其の跡を絶ち」、「本制度と しては既に其の所期の目的を達成した」ことを理由に、 文官分限委員会制度は廃止された22)。 4.(再)訓練(研修)の必要性 戦後、アメリカから招聘された対日合衆国人事行政顧 問団の団長の B. Hoover は日本の公務員制度を観察した 上でいくつかの問題点を指摘したが、その中の 1 つに「研 修制度がないこと」が含まれている。戦前から養成・訓 練の問題として認識されていながら、外から診断されて みると、不十分な結果になっていたわけである。
行政に必要なスキルは、OJT(On the Job Training) によって得られるとされ(このことは、事務次官たちが、 民間人材登用に反対する際の一つの理由として、行政部 内の経験によって培われるべき能力が民間人材にはない と指摘したことにも如実に表れている。)、特定の行政的 なスキルの確保のための訓練施設はあったものの、一般 的な訓練・研修組織は設けられていなかった。知識の陳 腐化、新しい課題への対応などの必要性から、(再)訓 練の必要性が共有されるに至ったものの、効果的な実施 は行えなかった。 近時(実は、久しく何十年も)行政をめぐる社会の高 度化・複雑化が進んでいるといわれる状況の中で、現在 の公務に必要な知識・技能を取得するための研修の必要 性も指摘され、さまざまな工夫(近時の e −ラーニング によるスキルアップ等)がなされている。さらに、府省 の枠を超えた合同研修の意義・効果も重要であるといわ れている。初任時期の研修での重要性はいうまでもなく、 一定年数の公務員経験を重ねる中で、節目節目の段階で の、幅広い新しい知識の習得、さまざまな府省から参加 する公務員同士の交流、研究、議論等を通じた一体感の 醸成等の効果も大きいものと考えられる。ただ、特に off− JT については、「総論」として研修の意義が確認 されても、個々の職員が研修に参加することはその所属 局課にとっては「実員」の減少、戦力の低下であり、大 きな「コスト」と認識されることから、「各論」として は円滑な実施に支障を生じる結果につながることも公務 の現場で見受けられるところである。雇用の流動化が進 みつつも、平均在職年数が決して短くはない公務の場で の研修の在り方は今日の大きな課題の 1 つである23)。 なお、中野登美夫が官吏養成(研修)の必要性を論ず る(「官吏制度の改革」(昭和 13(1938)年))中で、官 吏養成のための国立教育機関を「行政学院」と称し、こ れを「人事院総裁の監督に属する」べきであり、技術養 成等のために各省に置かれた養成機関もなるべく「整理 統一して人事院の所管に属せしむべきである。」として いるのも興味深いところがある。 5.人事に関する機構整備 人事の諸問題に対応するために、組織・機構の整備を 行うという施策もしばしば施策検討の俎上に上がる。人 事管理の運用から生じた諸問題に対処するために、「運 用の見直し」では不十分であり(新たな運用を保障する ための担保がない)、「改革」・「制度化」の過程で組織自 体を変えていこうという動きが生じる。 まず、林内閣時に議論された直接の契機は、地方官人 事を中心として、「内務畑の人事」(身分としても内務省 に所属)といった内務省が独占的に人事をコントロール することに対する批判で、経済、社会行政等の行政課題 に対応するためにも、他省からの任用も必要であるとい う主張が背景にあった。その根本には、「割拠主義」(セ クショナリズム)の弊害に対する問題意識もあり、これ
らの問題を解決するためには、内閣で統一的・統合的な 人事管理を行うことが必要であり、そのための組織・機 構の整備も必要であるという主張につながっていった。 近時の内閣人事局(内閣人事庁)を設置しようという議 論でも、「天下り」、「セクショナリズム」等の弊害除去 の問題が念頭に置かれているところである。 「統合的統一的」に「内閣」が主導する仕組みに対し ては「各省」(事務次官以下)の反対も強いことは他の イシューとも共通するが、地方官人事問題については、 議論を重ねるうちに、「現実的な対応」として、「人事交 流」の実施で収束していった。具体的には、内務省・文 部省・厚生省・商工省の間で適切な人材の地方派遣を行 うことで人事の交流が実施された。 戦後、臨時行政調査会等の議論、またいわゆる橋本行 革時において、セクショナリズム等の弊害を除くために 省庁別採用を改めて「一括採用」を行う案なども検討・ 議論の対象となっていた。「人事の実態」、「実行可能性」 などの観点から「一括採用」から「一括管理」の模索へ と議論が展開していったが、公務員人事管理について、 何が行われるべきか、そのためにどのような措置が必要 か、それを実施するためにはどのような組織・機構の整 備が必要か、さらに組織・機構を設けた場合に、実際ど のような機能が果たせるのか、についての分析的かつ総 合的な検討が必要であろう。
Ⅲ.断絶と継続の中での制度(改革)
その後の官吏制度自体の検討・制度改正は、戦争の進 行の中で独自のものとしては目立たなくなっているが、 井出成三内閣法制局参事官(当時)が 2 年にわたり『自 治研究』に掲載した「文官制度の諸問題」などをみると、 さらに各論としてさまざまな検討・議論が行われていた ことがうかがえる。 民間人材の活用に関しては、どのような分野での活用 が効果的か、政治任用との関係をどう整理するかなどが 論じられ、その他のテーマとして、行政機構としての外 局制度の問題、待遇職員の扱い、官名の統一の要否など が扱われている。 これらの検討・研究は、戦後間もない時期に幣原喜重 郎内閣で示された「官吏制度改正に関する件」(昭和 20 年11月13日閣議決定)や、さらにはその後の公務員制度制 度改革をめぐる議論にもつながっているものである24)。 歴史の流れの中で「過去」が何を語りかけているかを 読み取るのは簡単ではないが、官吏・公務員制度につい て、生き残った「官のシステム」(大森彌)の土俵の上で、 昭和 10 年代の改革を振り返ることによって、イシュー の選択、施策の手法等について、単にアナロジーという 以上のヒントが多く得られるものといえる。 公務員制度は、「官僚制」として語られるように、ま さに一度できあがると壊しがたい存在(M.Weber)であ り、まして、その「制度改革」となると、慣性の法則さ ながら、動かないときは動かず、動き出すと動くものと いう性質も考慮すべきであろう。戦前の辻清明論文(「現 代官吏制度の展開と科学的人事行政」(昭和 17(1942) 年))が、米・英の人事行政制度を丹念に分析・紹介し た上で、最後に、日本の制度の変化・改革への期待を示 し、好機の到来を捉えて行うべきであると述べているの もこの点に関わるものといえよう。(もっとも、「戦争」 という異常事態にあることが改革推進に資するかに読め る部分は議論の余地があろう。戦後、「対民衆官紀」の 必要性を説く際には、「民主化」の時期だからこそ行う べしとしている。)おわりに
以上、官吏(公務員)制度という「変数」に着目して、 その制度改革に関する戦前の動きを見つつ、今日にもつ ながる「論点」について考察したものの、行政全般の問 題、あるいは行政機関改革という観点から見た場合、そ の主役をわきに置いた議論になってしまったうらみは免 れないところである。 「総合国策機関」を設置し、そこで重要施策を検討し ていく方向は、本稿で触れなかった。重要政策の決定を 既存の官僚制との関係で主導的に行おうとする場合に、 官吏組織・制度をどのようにしたら効率的かといった点 は議論の入り口で捨象してしまった。 いうまでもなく、「内閣調査局」(昭和 10(1935)年 5 月、内閣審議会の事務局として設置)、「企画庁」(昭和 12(1937)年 5 月、庁に昇格して設置)、そして「企画院」 (昭和 12(1937)年 10 月、企画庁と資源局を統合して 設置)、さらに、商工省と統合した「軍需省」へとつな がる組織改編とその過程での軍部の発言力の強化(内閣 審議会及び内閣調査局を設置した岡田啓介自身が、すで に設置時に抱いていた危惧が現実化してしまったこと)といった事情も現代政治・行政を考える上で、非常に重 要なことがらであるが、今回の「偏微分」の結果をさら に吟味したのちに、検討していきたいと考えている。 また、制度改革の客体ともいべき側(官吏のすがた) の視点も扱わなかった。 「新官僚」・「新々官僚」・「革新官僚」などと呼ばれる 一群の官僚たちの活動が世間の耳目を集めている時期が まさにこの時期であり、二大政党時代の政治が関与した 地方官(特に知事)の頻繁な異動は減少しているが、企 画院等を中心に内務省、商工省、大蔵省等出身の「気鋭」 の官吏の発言力が増し、「国の在り方」づくりが展開さ れたが、その果たした意義・限界等についても、別の機 会に譲ることとしたい。 (蛇足:「満州国」という「白地のキャンバス」に描か れた公務員制度) 過去からの「しがらみ」から離れて(あるいは、逆に 「古いしがらみ」を離れたが「新しいしがらみ」にどっ ぷりとつかって)新しい制度を設計したと考えられる満 州国における制度が興味深い参考例を提供してくれる。 このような動きは、あたかも、戦後の日本の公務員制 度の設計に当たって、招聘された対日合衆国人事行政顧 問団の団長である B. Hoover が「あるべき人事行政のか たち」を夢見て、本国の人事委員会を超えた強力な中央 人事行政機関の設立を異国の地、日本に対して提言した 姿と重なるところがある。 ここには「改革」の先取りのような姿をみることがで きる。満州国の行政機構の特徴としては、次のものがあ げられる。 ① 統一的な人事機関としての「人事処」が設けられて いる。 満州国の行政機関は「国務院」であり、国務院には「総 務庁」が置かれる。この総務庁は、国務総理大臣(唯一 の国務大臣、行政各部の統督を行う)の職務執行のため の機関であり、その下に、人事処が位置付けられる。人 事処は、官吏の人事及び給与の統一調整に関する事項を はじめ、任免、進退、身分、紀律、賞罰、養成及び訓練 に関する事務を所掌することとされていた。 ② 官吏に関する総合的法典である「文官令」(康徳 5 (1938)年勅令 95 号)が定められている(当初は、暫定 的な法規によっていたが、6 年目に制定)。 なお、文官の種類には、特任官、簡任官、薦任官及び 委任官があったが、それぞれ、日本における親任官、勅 任官、奏任官及び判任官に相当する。 ③ 薦任官・試補に対する養成訓練機関(大同学院)が 設置されていた。国務総理大臣は、この大同学院を直接 管理することとされていた。 また、その他、官吏の人事に関する特徴としては、 ① 試験制度はあるものの、すべての行政官に銓衡任用 の途があった。 ② 給与制度は簡素で、月俸制とされていた(日本で官 等が詳細に定められ、年報制であったのと異なる)。 ③ 分限については「身分保障」の仕組みは設けられて いなかった。 ④ 日本、満蒙、中華民国、特殊会社等との間の人事交 流に関する措置が定められていた。 ⑤ 試補制度(本官採用前の見習い)が実施されていた。 ことなどがあげられる25)。 もちろん、このような制度の背景には、主要官職を日 本の官吏が占めるために、日本の官吏が無試験で満州国 の官吏として採用される仕組みが必要であるという現実 的な要請があったが、一方で、当時の日本の制度下では 実現できない統一的な意思決定、迅速な処理、効率的な 運営を目指す一つの姿が示されているものといえよう。 共通の土壌をもちつつ異なる行政・公務員の制度を設け たこの貴重な「実験」についても、さらに吟味・研究し ていく必要があろう。 注 1 )閣議決定の原文を示すと次のとおり。 文官に関する制度及其の運用に関する研究事項(昭和 16 (1941).4.30) 文官制度に付ては曩に一応の改正を見たる所なるも時局の 現段階に即応し更に制度及運用の双方に亘りて一層の検討 を加え其の改善に付考究を重ぬるの要緊切なるものあり之 が研究項目を例示すれば左の如し。 一(民間の組織経験の活用) 民間の人材を登用して行政事務に参与せしむる為特別の官 又は職を設くる等制度の整備を行い民間の組織経験を活用 して行政運用の適正を期すること 二(官吏の素質及能力の向上) 官吏の職務の複雑化、専門化及其の責任の重大化に顧み任 官前及任官後に於ける養成及訓練に必要なる措置を講ずる 等官吏の素質及能力の向上を期すること 三(官庁事務の簡捷及能率増進) 行政各部の対立的傾向を除去し繁文縟礼の弊を去る等官庁
に於ける事務の簡捷及能率の増進を図り以て諸般の行政の 運用上機敏且適切なる処理に付必要なる措置を講ずること 四(吏道の刷新昂揚) 現下官吏の職責は重且大なるに鑑み官紀の刷新昂揚を図る に必要なる方途を講ずること 五(官吏の地位の確保) 官吏の地位を安定し官吏をして安んじて其の職務に専念し 得しむるに必要なる方途に付考慮を加うること 六(人事行政機構の整備) 各庁間に於ける人事行政運用上の不統一を防止し且各庁人 事の交流を円滑ならしむる為人事行政に関する特設機構の 設置に付考慮すること 七(官吏の待遇合理化) 官吏の待遇に関する諸制度及其の運用の合理化を図ること 八(其の他の事項) 前諸項の外官吏に関する制度及其の運用の改善に付必要な る諸般の事項に付考慮すること 2 )いわゆる隈板内閣(明治 31(1898)年)において政府・ 行政機関への政党人の登用が多かったことに対して、次の山 県第二次内閣が、自由任用の幅を狭めること等官吏任用に関 して文官任用令を全文改正し(明治 32 年勅令 61 号)、同時 に文官分限令(勅令 62 号)・文官懲戒令(勅令 63 号)を公 布したが、その際、文官任用等に関する制度の改正について は、枢密院の諮詢事項とした(御沙汰書)。その後にまた政 権交代が起こった際にこれらの勅令を再び改正されること を、枢密院という牙城で防ごうとしたのである。 3)「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ。」(松尾芭 蕉『許六離別の詞』」元禄 6(1693)年)。ちなみにこの発想 のヒントは、かつて空海が、良い字を書こうとしたなら、先 人の良い字をただまねようとするのでなく、その字を書いた 人がどのように思って書いたかを考えなければならないとし たこと(「書亦以擬古意為善、不以似古迹為巧」(書もまたい にしえのこころをなぞらうをもって善しとし、いにしえのあ とに似たるをもって巧みとなさず)『性霊集』)から得ている。 「古典に学んだ古典」の例でもある。 4 )宮沢俊義「行政機構」『国家学会雑誌』53 巻 9 号、.49 頁。 5 )「庶政の匡革は今や単に作用運営のみにおいて完きを期し 難く、大に吏道を振粛し行政機構の更新を必要とするに至れ り」(昭和 11(1936)年 3 月 17 日の政綱声明書)。なお、広 田内閣から近衛(第二次)内閣までの官吏制度改革をめぐる 議論については、吉富重夫「官吏制度の改革(一)」『公法雑 誌第』7 巻第 4 号が、また、近衛(第一次)内閣以降につい ては、柳瀬良幹「官吏制度」『国家学会雑誌』第 53 巻第 9 号 が詳細に紹介して論じている。 6 )昭和 11(1936)年 11 月 9 日に陸海軍当局談として発表さ れた中央行政機構改革案で示されたもの。その提案趣旨では、 「内閣人事行政機関。本機関は各省文官人事の統制均衡に当 り、中央、地方人事の脈絡を規正す。尚、文官任用令を改め 自由任用の範囲を拡張して広く人材の登庸を図り、特に国営 事業その他産業の統制指導に任ずる政府機関の役員には民間 堪能の士を任用する等、人事行政百般にわたり刷新す」とさ れている。 7 )昭和 12(1937)年 1 月 12 日の決定では、「内閣に人事局 を設置」(内閣総理大臣直属の機関)し、「取り扱う範囲は勅 任官以上」として「各省大臣の権限に牴触せざる範囲におい て人事行政の公正統一を図」り、「官吏の任用、昇給、給与、 賞罰、恩給の事務を掌」り、「各省における人事行政を掌る 官吏を以て構成する委員会を設置し人事の公正を図る」こと を内容としていた。 8 )「政治の刷新、行政の改善を図ること」の項中「国運進展 に伴う行政機構の整備、なかんずく、中央航空行政機関の新 設、官吏制度の改正を行い、また、一面第一線の各種行政事 務を刷新して民衆の利便を図らんとす」(昭和 12(1937)年 4 月 10 日の新政策声明)。 9 )昭和 15(1940)年 8 月 9 日に閣議決定された官吏制度改 革要綱 第一、文官任用制度に関する件 一 、勅任文官は現に自由任用たる官を除くの外総て当該官 の職務に必要なる学識技能及び経験を有する者より勅任 文官銓衡委員会の銓衡を経て之を任用することを得るも のとする事、右の為に新に勅任文官銓衡委員会を設置し 内閣総理大臣を会長とし会長及び委員若干名を以て之を 組織する事 二、奏任文官に就ては (一)民間其の他各方面の智能経験を官界に吸収摂取す る為必要に応じて新規に当該官の職務に必要なる学識、 技能及び経験ある者から銓衡任用し得る特殊の官を設け る事 (二)一定の経験を有する者を奏任文官に特別任用し得 る道を左の如く定むる事 (イ)奏任の教官又は技術官として一定年限以上在職 したる者を同系統の事務奏任文官に任用し得る途を拓 く事 (ロ)判任文官より特殊の奏任文官に特別任用せられ たる者を更に他の一般の奏任官に任用し得るの途を拓 く事 (ハ)奏任官待遇の地方職員、教育職員又は専門学校 程度以上の私立学校職員として一定年限以上在職した る者を同系統の奏任文官に特別任用し得る途を拓く事 (ニ)地方自治団体の吏員として一定年限以上在職し たる者を地方地務官其の他の地方行政に関係深き奏任 文官に任用し得るの途を拓く事 第二、文官分限制度に関する件 所謂文官身分保障制を撤廃する事 第三、高等試験制度に関する件 従来の行政科試験と外交科試験とを合併し且試験課目を適
当に整理改善すること 第四、満洲国等との間の交流人事に伴う待遇改善に関する件 高等文官にして退官又は退職の上満洲国等の官吏として一 定期間以上在職せる者を高等文官に再任又は再就職せしむ る場合には其の在職期間を高等文官の在職数と見做し之が 官等を定むることを得るものとする事 10)改正・制定された勅令は、高等試験令中改正(昭和 16 年 勅令 1 号)、高等試験委員及普通試験委員官制中改正(同年 勅令 2 号)、文官任用令中改正(同年勅令 3 号)、勅任文官銓 衡委員会官制(同年勅令 4 号)、奏任文官特別任用令中改正(同 年勅令 5 号)、大正二年勅令第二百六十二号中改正(同年勅 令 6 号)、外交官、領事官及書記生任用令中改正(同年勅令 7 号)、待遇職員等ヲ奏任文官ニ任用スル場合ノ官等ニ関ス ル件(同年勅令 8 号)及び文官分限令中改正(同年勅令 9 号) 11)細目(「文官に関する制度及び其の運用に関する研究事項 細目」)では、例えば、「官吏の素質及び能力の向上」につい て、 1 任官前における養成の問題 イ 大学その他の教育制度の検討 ロ 試補制度の採用 2 任官後における再訓練の問題 イ 特別の再訓練施設の設置 ロ 他の官庁、自治体又は民間会社等への派遣 ハ 大学等における聴講、海外出張等による訓練 3 その他 が掲げられ、また、「人事行政機構の整備」について、 1 内閣人事部(仮称)の設置 2 人事連絡委員の設置 3 その他 が掲げられている。 12)文官高等試験の概要、実態等をまとめたものとしては、拙 稿「戦前の『高文(こうぶん)』(文官高等試験)−果たした 役割と残した課題−」『人事試験研究』213 号、平成 21(2009) 年。 13)「国史」として実際に出題された内容の例として、昭和 17 (1942)年には、「国体の起源」、「徳川時代後期と維新期に於 ける我が国と米英との関係」が問われている。 14)昭和 15(1940)年 10 月 8 日枢密院審査委員会における近 衛文麿首相の説明。 15)人物試験技法研究会報告書(平成 17(2005)年)『人物試 験におけるコンピテンシーと「構造化」』では、人物試験(面 接)を通じて経験学習力を確認することを提案している。そ れに基づき平成 18(2006)年度の国家公務員採用Ⅰ種試験 からこの手法が採り入れられている。 16)例えば、『金融之世界』第 5 巻(昭和 13(1938)年)第 3 号の巻頭言のタイトルは、「官吏の天降り人事の排撃は正当 だ」である。 17)平成 13 年度の人事院年次報告書は民間人材の活用につい てまとめた分析を加えている。 18)佐藤達夫『国家公務員制度第 8 次改訂版』学陽書房、平成 21(2009)年、138 頁。 19)升味準之輔『日本政党史論 第 6 巻』231 頁では、「挙国 内閣が成立したとき、官僚は、政党政治の重圧から救出され た。斉藤内閣の地方官更迭や文官分限令改正はその一歩で あった。」と記している。 また、横溝光暉「文官休職に關する二三の考察」『自治研究』 9 巻昭和 8(1933)年 6 号 92 頁では、斎藤総理の施政方針演 説を引用しつつ、[文官分限令の改正を]「以て身分保障の確 実を期するところがあつたことは、既に周知の事である。斎 藤内閣は之を以て政界浄化の一手段としてゐる。第六十四回 帝国議会に於ける斎藤内閣総理大臣の施政方針演説中に『現 内閣は政治の浄化を図り、宿弊のエキ除に当るべきことを以 て、その使命の一つと考へて居るのであります。政府がここ に行政官吏の身分保障に関する制度を設けて党弊の浸潤を避 け、官紀の振粛に努めましたのも亦、その一手段にほかなら なかつたのであります』とあるのは蓋し之を宣明されたもの といふべきであらう。」と記している。 20)枢密院の審査報告書では、次のように記されている。(森 省三編述 『旧憲法の下における人事関係の制度と実例に関 する資料(その三)』68 頁) 「右の規定[官庁事務の都合による休職]により、休職は官 庁部内に新陳代謝の途を存し、行政の運用を円滑ならしむる 為之を全廃すべからざるものの、一朝其の公正なる適用を誤 らむか、為に官吏の地位を著しく不安ならしめ、其の身分の 保障を有名無実たらしむに至るべきこと明なり、乃ち内閣に 於ては、爰に適当なる防範の制を設け、以て官吏身分の保障 を調整するの必要ありと為し、右休職を命ずるの手続を慎重 ならしめ苟も過誤なからむことを期する。」 21)内閣編『文官分限委員会會ニ関スル調』に記された「京都 帝国大学教授(勅任)滝川幸辰休職の件理由」によると、審 査結果は次のように「時代」が反映したものとなっている。 「右者、大正 7 年 9 月京都帝国大学助教授に任ぜられ、同 8 年 8 月刑法刑事訴訟法講座を担任し、同 13 年 4 月教授に昇任 引続き上掲の講座を担任し以て今日に至れるが、本人の思想 は漸次左傾し教壇より学生に対して之を忌憚なく講述すると 共に極めて過激なる内容を有し為に発売頒布を禁止せらるる が如き著書を公刊して憚らざるに至れり。本人の学説及著書 の内容別紙(略)の如し。近時過激なる思想の伝播力は頗る 旺盛にして甚憂慮すべき状態となり、之が防止に就ては国を 挙げて努力しつつある所なり。京都帝国大学に就て之を観る も、所謂京大事件以来引続各種の左傾事件を惹起し、その事 件数被処分学生数、被起訴者数極めて多数に上り、大学とし ては之が防止善導に極力努力せざるべからざる緊切の状況に あり。元来大学教授たる者は大学令に示されたるが如く、人 格の陶冶及び国家思想の涵養に留意すべき義務を有するもの にして若し是等の義務に相反するが如き思想を懐き之を教授
し発表するが如きことあらば大学教授の地位と相両立し得ざ る所にして大学教授としての地位よりこれを排除せざるべか らず。然るに本人が前述せる如き過激なる思想を懐抱し且つ 之を発表し教授するに至りては到底看過すべからざるものあ り。此儘在職せしむることは教育上支障頗る大なるを以て休 職を命ずるの必要ありと認むるに由る。」 22)なお、現在の公務員法でも「分限」に関する規定が置かれ ている。国家公務員法制定過程で、アメリカ側の草案にはな く、日本側の要請によって追加される際に、公務能率の維持 を図るための仕組みとして、旧制度を参考として「分限」と いう古めかしい言葉と共に加えらえたものである。さすがに 「官庁の事務都合」による休職制度はないものの、仕組みは かなり共通するものがある。 23)「公務研修・人材育成に関する研究会」(人事院の研究会、 座長:西尾隆国際基督教大学教授)の報告書『新しい時代の 職業公務員の育成−政治主導を支える「全体の奉仕者像」−』 (平成 21(2009)年 2 月 24 日)。 24)「官吏制度に関する件」の原文は次のとおり(備考は省略)。 その内容は、翌昭和 21(1946)年 10 月の「官吏法案要綱」(臨 時法制調査会答申)などにも反映されている。 一、官名の統一 一官一職を相当とする官その他特殊の官を除き、官名は、 事務系統及び技術系統別に概ね同一官名とし、例えば事務 系統の官は「何々(省)事務官」、技術系統の官は「何々(省) 技官」のごとくすること。 二、官と職との分離 官と職とを分離し、従来官とせられたる部局長等は之を職 名とし、職の授与は補職の方法により之を行うこと。 三 、高等官及び判任官の区別の撤廃並びに官等等級の制の簡 素化 一官一職を相当とする官その他特殊の官を除く、勅、奏、 判の区別を撤廃して同一の官名とすると共に、官等等級の 制を簡素化し、例えば一級ないし三級の三種のごとくする こと。 四、俸給制度の統一 俸給制度は官又は官等に伴い区々となりおる現行制度を改 め、原則として、官又は等級に関係なくなるべく単一の俸 給制度とし、勤務の年限及び成績により同一の職のまま高 級俸に至り得るごとくすること。 五、官吏更迭の抑制 官吏の頻繁なる更迭を抑制するため、例えば官吏は一定期 間同一の職にとどむべきものとするの原則を確立する等の 方途を講ずること。 六、高等試験制度の改善 官吏の任用が資格試験による任用とする現行制度は之を維 持するも、併せて銓衡任用の制度を拡充すると共に、行政 科及び司法科の高等試験については、左の諸点につき改善 を考慮すること。 (一)試験科目を再検討し、その画一的傾向を排し、幹部職 員たる一般能力を判定し得るのほか、将来その者の奉職せ んとする官界の職域に必要なる科目をも加え、之に応ずる 能力をも判定し得るごとくし、もって適材を適所に登用し 得るの途を拡むること。 (二)試験委員が現在主として専門の学校教員中より任ぜら るる傾向を改め、相当数の官民の実務家をも加え、学理及 び実際の両方面より試験を施行するごとくすること。 (三)高等試験制度と並行し試補の制度をも研究すること。 七、官吏研修制度の設置 新に官吏研修の機関を設け又は大学等既存の教育施設を利 用する等の方法により、官吏に対し数ヶ月間研修を受けし むると共に、一定期間民間における実際業務等に従事しせ しむるがごとき制度を考慮すること。 八、信賞必罰の励行と監察制度及び考科表制度 (一)内閣及び各省に監察官を置き、部内職員の執務の能率、 勤惰その他事務処理の実況を考査せしめ信賞必罰を励行す ると共に、兼ねて官庁事務の能率向上、職員の福利増進等 に関する事項をも調査立案せしむること。 (二)内閣及び各省は、部内の二級以下の官吏につき考科表 制度を設け考科表は概ね年に二回作成することとし、当該 官吏の直近の上官(課員たる者については課長、課長たる 者については部局長のごとし)において自ら記入し、記入 者の直近の上官において之を査閲し必要なる記入をなし得 るものとし、進級、昇級、賞与その他の優遇は主として考 科表に基づき之を行うものとすること。 考科表の様式及び記載項目は、充分科学的かつ合理的たら しめ、之が記入に不公平なることなきよう考慮すること。 25)双方喜文「満州国の文官制度」では、特色として、総合的 官吏法典、国務院総務庁人事処の存在及び組織的総合的な官 吏養成訓練機関の存在を掲げる(本稿と同様)が、文官制度 の特色としては日満比較の観点から 8 つに整理している。 参考文献 (全般にわたるもの・単著) ・有馬学『帝国の昭和』(日本の歴史 23)講談社、平成 14(2002)年 ・石川準吉『総合国策と教育改革案−内閣審議会・内閣調査局 記録−』清水書院、昭和 37(1942)年(文官制度改革に関 する論点メモ及び文献リストが収められている。) ・井出嘉憲『日本官僚制と行政文化』東京大学出版会、昭和 57(1982)年 ・『入江相政日記(第 1 巻、第 2 巻)』朝日新聞社、平成 2(1990)年 ・岩波講座『日本歴史』17 巻岩波書店、昭和 37(1962)年(大 島太郎「官僚制」ほか) ・岡田啓介述『岡田啓介回顧録』毎日新聞社、昭和 25(1950)年 ・『木戸幸一日記(下巻)』東京大学出版会、昭和 41(1966)年 ・小林英夫『超官僚』徳間書店、平成 7(1995)年 ・人事院『国家公務員法沿革史(資料編Ⅰ)』昭和 44(1969)年
・人事院『国家公務員法沿革史(記述編)』昭和 50(1975)年 ・人事院編『人事行政の課題と展望』平成 20(2008)年 ・辻清明『新版 日本官僚制の研究』東京大学出版会、昭和 44(1969)年 ・辻清明『公務員制の研究』東京大学出版会、平成 3(1991)年 ・内閣官房編『内閣制度九十年史』昭和 50(1975)年 ・内閣官房編『内閣制度九十年史資料集』昭和 50(1975)年 ・内閣官房編『内閣制度百年史』 昭和 60(1985)年 ・秦郁彦編『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、平成 13 (2001)年 ・林茂・辻清明編『日本内閣史録(第 3 巻、第 4 巻)』第一法 規出版、昭和 56(1981)年 ・原田熊雄『西園寺公と政局(第 5 ∼ 8 巻、別巻)』岩波書店、 昭和 26(1951)年∼ 31(1956)年 ・古川隆久『昭和戦中期の総合国策機関』吉川弘文館、平成 4 (1992)年 ・同『昭和戦中期議会と行政』吉川弘文館、平成 17(2005)年 ・升味準之輔『日本政党史論(第 6 巻、第 7 巻)』東京大学出 版会、昭和 55(1980)年 ・御厨貴『政策の総合と権力』東京大学出版会、平成 8(1996)年 ・水谷三公『官僚の風貌』(日本の近代 13)中央公論新社、平 成 11(1999)年 ・三宅雪嶺『同時代史(第 6 巻)』岩波書店、昭和 29(1954)年 (文官制度等に関する論文) ・井出成三「文官制度の諸問題」『自治研究』18 巻(昭和 17(1942) 年)9 号 39−50 頁、11 号 55−70 頁、12 号 51−70 頁、19 巻 (昭和 18(1943)年)1 号 71−86 頁、10 号 25−36 頁 ・大石義雄「改正文官任用令の施行」『公法雑誌』7 巻(昭和 16(1941)年)6 号、47−53 頁 ・金森徳次郎「官吏採用制度雑感」『法律時報』2 巻(昭和 5(1930) 年)10−13 頁 ・栗本勇之助「官界新体制に関する意見」『国策研究会週報』3 巻(昭和 16(1941)年)2 号 1−7 頁 ・国策研究会『官吏制度改正に関する中間報告』昭和 12(1937)年 ・国策研究会『官吏制度の改革』(第 1 輯)昭和 13(1938)年 ・小松堅太郎「近代官僚制の本質」『社会科学討究』4 巻(昭 和 34(1959)年)301−20 頁 ・佐藤達夫「高等試験令の改正について」『法律時報』13 巻(昭 和 16(1941)年)43−45 頁 ・重信崇雄「官界新体制の変遷と新体制要望の諸点」『文藝春秋』 19 巻(昭和 16(1941)年)2 月号 76−82 頁 ・清水澄「官吏ノ任用及其地位保障」『法学協会雑誌』33 巻(大 正 4(1915)年)739−61 頁 ・清水澄「官吏制度の改正に関する管見」『国家学会雑誌』51 巻(昭和 12(1937)年)8 号 1−15 頁 ・末弘厳太郎「文官試験制度の改革」『法律時報』12 巻(昭和 15(1940)年)538−39 頁 ・末弘厳太郎「外交科試験を廃止すべし」『法律時報』7 巻(昭 和 10(1935)年)1215 頁 ・杉村章三郎「官吏制度の改革」『自治研究』17 巻(昭和 16(1941) 年)69−74 頁 ・中野登美雄「官吏制度の改革」『早稲田政治経済学雑誌』61 号(昭和 13(1938)年)31−49 頁、62 号 41−60 頁 ・双川喜文「満州国の文官制度」『法律時報』13 巻(昭和 16(1941) 年)1 月 51−53 頁 ・三宅太郎「戦前戦後における官庁人事管理の中心課題」『社 会科学討究』7 巻(昭和 37(1962)年)325−64 頁 ・宮沢俊義「行政機構」『国家学会雑誌』53 巻(昭和 14(1939) 年)9 号 35−67 頁 ・宮本吉夫「行政機構の改革」『国家学会雑誌』54 巻(昭和 15 (1940)年)6 号 90−104 頁 ・宮本吉夫 「官吏制度の改革」『公法雑誌』6 巻(昭和 15(1940) 年)9 号 53−70 頁 ・村上恭一「文官制度改革論雑俎」『自治研究』16 巻(昭和 15 (1940)年)71−86 頁 ・村上恭一「文官制度改革の成立を迎へて」『自治研究』17 巻(昭 和 16(1941)年)53−68 頁 ・村上恭一「文官制度改善の一端」『自治研究』18 巻(昭和 17 (1942)年)8 号 49−62 頁 ・柳瀬良幹「官吏制度」『国家学会雑誌』53 巻(昭和 14(1939) 年)9 号 68−100 頁 ・柳瀬良幹「官吏制度改革問題 −その一つの見方−」『法律 時報』12 巻(昭和 15(1940)年)22−25 頁 ・吉富重夫「官吏制度の改革」『公法雑誌』7 巻(昭和 16(1941) 年)4 号 46−74 頁、5 号 62−82 頁 ・蠟山政道「文官任用令の改正問題 −その改正方針について −」『自治研究』14 巻(昭和 13(1938)年)87−96 頁