井伏鱒二著作調査ノート(その一)
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『井伏鱒二全集』別巻II掲載「著作目録」以後-前田 貞昭
『井伏鱒二全集』別巻Ⅱ (筑摩書房、 2000年3月15日。 「著作目録」収載)刊行から2年余経ったD その間、新 たに記載するべき何点かの井伏著作(複写)を、多くの方々の御援助により入手することができたので、ここに 報告する。 全て新字体を用いると、今日旧字体と見なされている字形だけが当時は通用していたかのような誤解を与えか ねないので、 J I S第1水準・第2水準で対応できる場合に限って、原文の漢字字形を再現することを試みた。 調査にあたっては、 『山梨E]日新聞百年史』 (山梨日日新聞社、 1972年7月1日)、津田亮一『瀧井草作書誌』 (津 田亮一、 1994年8月29日)、湯本豪- 「第四次『東京パック』要覧-目次1一覧および人名索引-」 (『川崎市市 民ミュージアム紀要』第7集, 1995年3月31日)、 「井伏鱒二の甲州」 (『山梨日日新聞』第41270号∼第41333号、 1995年4月26日∼6月30日。全36由断続連載)、商杉方宏『資料・源氏鶏太』 (フリープレス〔星雲社発売〕、 2000年 9月12日)、白山巌理「名取洋之助の『週刊サンニュース』」 (『図書』第620号、 2000年12月1日)、花Ef]俊典『清新 な光景の軌跡-西日本戦後文学史-』 (西日本新聞社、 2002年5月15日). 「占錬期雑誌記事情報データベース http://www. prangedb. jp」等を参照した。 掲載資料については、東郷克美、寺棟武夫、面谷哲郎、中将新吾、西村幸夫、阪本幸男、青山泰樹、加藤治、 並木芳雄の各氏にお世話になり、また、国立国会図書館、同憲政資料塞(ブランゲ文庫)、日本近代文学館、神 奈川近代文学館、ふくやま文学館、兵庫県立図書館、三重県立図書館、法政大学図書館J(市ヶ谷),たばこ総合 研究センターの所蔵資料を利用させていただいた。いつものことながら、兵庫教育大学附属図書館の文献複写サ ービスの恩恵に与ったO 深く感謝するO 調査が至らず、書き加えるべきものが多々あろうかと思われる。 〒67.3-1494 兵庫県加東郡社町下久米942-1 兵庫教育大学者箪系教育講座 前田貞昭(研究室直通電話兼用ファックス: 0795-44-2083、 e-raail:sadm㊥soc, hyo go「u. ac. jp)まで御教示賜われば誠に幸いである。 なお、ここに指戟したほか、 ①曾根博義「加藤朝鳥ノート はしがき」 (『舶板』第Ⅲ期第2号、 2002年7月1EL 39頁)に、 『反響』 (1932 年1月 -1938年8月、全72号)の寄稿者として井伏の名前が掲げられている。その続編である、曾根博義 「加藤朝烏と『反響』」 (『舶l板』第Ⅲ期第3号、 2002年11月1日、 13頁)では、井伏「いなづま」、が『反響』 第3号(1932年1月25日)に掲載されている_ことが報告されている。 (診『扶桑書房古書目録』第61号(2002年12月、 15頁)に「304番 たばこ10号 口絵逆トジ 井伏、石坂、 蔵原、谷中 昭和10」として掲血 これは字賀田為吉『煙草文献総覧』和書之那(別録1) (新聞・雑誌類 (定期刊行物)) (たばこ総合研究センター、 1980年3月、 231頁)に掲出の「姻草畑 井伏鱒二 蔑終刊号 (昭和10年2月)」と同じものと思われる。なお、同書「凡例」に、 「昭和十年頃相前後して煙草の雑誌が 三種創刊されている」として、日〕 『響』 (後改題『煙草』)、 (2〕 『凌雲』 (後改題『銀紙』)に続いて、 C3) 『蔑』が次のように紹介されている。 'ニM' (3〕 『蔑』 昭和九年四月五日 創刊 昭和十年二月五日 終刊 東京市京橋匿木挽町二ノ四・竹田ビル・噴山閣脊行(月刊) 本誌編集記に「雑誌『蔑』は一寸一服以外に何等の意味はない。一服吸ふつもりで見てほしい。 買ってほしい。バットの如く大衆的に、スリ⊥キャッスルの如く軟かに、ハバナの如く香気高き頭 物を提供するつもりだ」云云。定価初号より五号まで一部十鎖、六号より十号(終号)まで一部二 十録。 ちなみに本誌「賛刊祝賀座談会」には左の諸氏が出席されてゐる-o 岡B (米星煙草社長) ・柴田(讃嚢新聞編輯局長) ・佐野(尊貴局販貿部長) ・新井(東京繊道局 長) ・鈴鹿(松屋宣樽部長) ・堀内敬三・横田市治・馬場孤蝶・安藤鼎(味の素) ・庸潅木兎・川島 清・古川利雄(東亜煙草).森永源太郎(同上)o これらを併せれば、暁山閣発行『黄』第10号(終刊号、 1935年2月5日発行)に井伏鱒二「姻草畑」が掲載されたと推測される。 以上のような報告に気づいた。いずれも私の怠慢のために現物(複写)を確認していない。それぞれの報告があ ることを、ここに記すに留める。 凡例 1.作品・談話などに分類せず、年代順に並べた。ただし, 『山梨日日新聞』掲載分および「貸間アリ」掲 載誌『週刊サンニュース』については最後に置いた0 2.発行日・印刷日・発行所・発行人等についての記載は奥付の表示に従ったので、 「印刷E]」 「印刷納本 E]」あるいは「編輯兼嶺行者」 「編輯沓行人」、 「印刷」 「印刷者」 「印刷人」等の表示が混在しているが、 統一はしなかった。 3.原則として、人名・社名などの固有名詞と引用文のうち、 J I S第1水準・第2水準で対応できる旧漢 字は原文の漢字字形を尊重するように努めた。 乳母車 乗芳闇(東京市四谷新宿一丁目五一)発行『文畢界』第2巻第8号(8月号、 1925年7月25日印刷納本、 1925年8月1日発行) 4頁∼9頁(「創作五篇」欄の冒頭)に掲載。編輯兼発行者・松本清太郎、印刷所 ・友文社、印刷者・野口常太郎、定価30銭。 いなげ 本文56字×23行。ルビは、 「歪なことを言はずに」の1箇所のみ。奥付の発行所住所は上記の通りだ が、編輯兼発行者住所は「東京四谷匝新宿-丁目五一番地」と表示されているO 目次標題下には 「(小説)」と小さく附されている。本文異同については、拙稿「井伏鱒二「乳母車」をめぐって-「歪なる図案」との本文異同の検討、その他-」 (本誌第13号、 2002年2月10日)を参照。衆芳閥は 井伏が、 1924年9月20日頃から断続的に勤務した出版社。 「歪なる図案」と改題・改作して『不同調』第4巻第2号(1926年2月1日)に掲載。 新版全集第1巻には『不同調』掲載「盃なる図案」を収録したが、解題では『文畢界』掲載「乳母 車」に言及できず、また、初出形としても別巻Ⅱに収録できなかった0 なお、衆芳閣発行『文学界』の詳細については、拙稿「『文学界』 (衆芳閣)細目」 (本誌第12号、 2001年1月20日)、 「『文畢界』 (餐芳閣)細目補遺」 (本誌第13号、 2002年2月10日)を参照。 久米艶子夫人海外めぐり座談曾 株式骨社文聾春秋社(帝京市麹町匝内幸町-ノー大阪ビル)発行『婦人サロン』第2巻第1号(新年 特輯号、 1929年12、月15日印刷納本、 1930年1月rl日発行)の14碩-159頁に掲軌編輯兼発行人・鈴木 氏亨、印刷人・竹内喜太郎、印刷所・日清印刷株式骨社、特価45銭Q 座談会。出席者は、久米艶子、石演金作、ささき・ふさ、中村正常、吉屋信子、井伏鱒二、三宅つ や子、永井龍男、横光利一、近藤経一、池谷信三郎。本文中には以下の見出がある。 「巴里・紐育・l 結婚難」 「面白かったもの・鵡儀飴談」 「グランギニョール」 「ブロードウェイ・料理」 「青年・あひび き・猫逸」 「衣裳・美青年カフェ・磐態」 「百貨店・足袋の洗濯」 「世界一の美女は?J r;レウレット」 「野球・庭球」 「蹄朝」 「巡査・盗難・キネマ・レビュー」 (原文「巡査.盗難・キネマレビュー」を 改めた) 「女中さん・日本人の夫」。 sサ 本文20字×23行×3段組、漢数字を除いて総ルビ。本文末尾に「(レイン・ボーグリルにて)」とあ る。座談会中の写真4枚を掲載。印刷納本日付は奥付記載のものに拠ったが、表4 (裏表紙)は1929年 12月10日印刷納本とするO その後の再録はない。 カフェと時間 東京パック社(東京府巣鴨町宮下一六六三番地)発行『東京パック』第21巻3号(3月号、 1932年2 月15日印刷納本、 1932年3月1日発行)の4貢(「渡文」欄)に掲載Q編輯発行兼印刷人・下EEl憲一郎、 印刷所・東京パック印刷部、定価20銭。 本文15字×5段組Q 井伏文と直接関係しない漫画2枚が同頁に掲載されているので、井伏文の実質は 1、5字×78行、パラルビ。目次標題は「カフェーと時間」とある。本文中には「カフェ」 「カフェー」 わたくしがくせいかうちや 両様の表記があるが、ここでは、本文標題に従った。 「私は畢生のときからカフェで紅茶やコーヒー
の喫茶
棺店
時間を 店のおとよさん ・カフ 空費すた0最現法学校の鼓ぐ勘う鱒衰蔵筐ばかり行って醇が、前すれば、そ
といふ女給に私は幾らか厚意があったからであらうと思はれる。」と始まり エ薄いを語った後 る癖が声盈0封、へん悪い」と忠告を受け、「啓怠けに目がさめて、胸に芋をあてゝ考憤る友人」から手紙でJ君は近くのカフェ 忠喫茶店に行てて仕様がな法Aと結ばれる0「観照後記」
へるときなどには、時間を空費したことが全くなさけなく には、「渡文の方は最近、躾を逐うて好評を強化しうゝありま 佐々木敏郎、井奉泉城昌幸、上塚貞雄、'矢田津世子諸氏の 更に一層の好評が期待されます。」とある。 その後の再録はなく、新版全集にも未収録。 濃をよ′ 贅玉賢篇 こ本掛ま、井伏鱒二、中野重治 ん を網羅した得た」とによって 尼さんのゐる海岸風景 日本無線電信株式骨社(東京市麹町匝大手町二ノ二)発行『日本無線』第73号(1933年9月25日印 刷、 1933年10月1日発行)の52頁∼57貞に掲載。発行人・半田英雄、編輯人・米戸博、印刷人・古橋 照太郎、印刷所・箸護東京築地活版製造所。 本文27字×17行×2段組、ルビなし。定価の表示はない。冒頭段落は次のように始まる。 「かういふ 話題はいろいろの意味からして誤解をまねきやすいかもしれないが、このあいだ私は潰寺の海岸で妙 遠といふ名前の若い比丘尼と知りあひになって、どちらかといへば物好きな性分の私は、この尼さん に封してたいへん誘惑を感じた。」 本文標題は手書き文字。目次標題は活字で「尼さんの居る海岸風景」とある。ここでは、本文標題 に従った0本文末尾に「(完)」とある。その余白に波罫で囲んで「井伏氏作「蒲囲屋の乗訪」より」 として同作の引用がある。 「係から讃者へ」として、 「この小冊子は外固電報御利用の方々のために作ったものですから、御 綴込の上保管なさると御便利だと存じます。」とある。 その後の再録はなく、新版全集にも未収録。 葉煙草 響編輯部(東京市本所匝横川橋一丁目東京地方専賓局内)発行『響』第4巻第12号(1935年11月25 日印刷納本、 1935年12月1日発行)ゥ32頁∼34頁に掲載。編輯発行人・林青書、印刷人・栢留甚平、 印刷所・一元社印刷所。定価15銭o 目次には「第四巻第三十八耽」とあるが、この「第三十八鱗」の表示は創刊号からの通巻号数と思 われる。表紙には「響」の題号に添えて「煙草組誌」とある。奥付・目次などには「煙草雑誌」とい う文字はない。 日本たばこ総合研究センターの並木芳雄氏の御教示によれば、掲載誌の『響』は、創刊(1932年11 月1日)当初は単に『響』という題号で発刊された、非売品の社内報的文学雑誌(東京地方専売局秘 書掛内の響編輯部の発行で、庶務の痩相生が書いた戯曲、秘書の柴山郁郎が書いた小説、その他詩・ 短歌を掲載)であったらしい。第4巻第1号(1935年1月1日)から、煙草に関する趣味の宣伝、常識の 普及、文献の紹介をモットーとして、表1 (表紙)の題号表示に「煙草雑誌」の4文字壷加えて、 『煙 草雑誌 響』と銘打って市販(15銭)され第5巻第2号(1936年2月1日)から『煙草』と改題、翌年 の1937年7月まで続いている。 本文末尾に「-早相田文撃より-」とあるように、 『早稲田文畢』第2巻第6号〔第3次〕 (1935 年6月1日)掲載同題作品「葉煙草」の再録。本文27字×20行×2段組、ルビなし。字詰めは初出『早 稲田文畢』と全く同じ。初出と同様に「植ゑつけて」とあるべきが「植えつけて」、 「収穫」とあるべ きが「収獲」とあること、 「監定人」の表記が本文途中から「鑑定人」に変更されること、同一箇所 で行頭禁則処理のための字間調整が施されていることなどから、初出を底本として忠実に組版が行な われたと思われる。ただし、初出に2箇所ある「罰」字が2箇所とも「蔚」とされている点、 「また植 ママ えつけてある煙草の葉が一枚不足してゐても、栽培してゐる百姓は罰を受けなくてはならない。」がママ 「また植えつけてある煙草の葉を一枚不足してゐても、栽培してゐる百姓は罪を受けなくてはならな い。」となっている点(傍点-前田)が相異する。 「編輯後記」に「井伏鱒二氏の「葉煙草」は、恐らく二十年も前の思出であらう。今日とはだいぶ ん様子もちがってゐるやうだが、つまらぬ題材ながら、さすがに文筆専門家の手にかゝると、こんなにも優腕に書けるものかと、感嘆されるばかりo」とあるo 初出『早梅田文撃』では「創作」欄に掲載されず、 (随筆)として扱われたためか、中野重治「記 録の面白さ」 (『新潮』第32年第7号、 1935年7月1日)中の言及が同時代評として残っているくらいで あろうか。中野は、 「煙草がいかに百姓を苦しめつつ栽培されてゐるか、煙草栽培をめぐっていかに 百姓達が苦しめられ、専賓局の役人が百姓達をこづきまはし、高利貸しが搾り取り、料理屋が吸ひ取 るか、それかわづか三ぺ-デのうちに遺憾なく描かれてゐて」、 「僅か±ペ-ヂの田舎旅行の記録では あるが、はかの大きな小説などから受けた`ものに劣らぬ感銘を受け、むしろ幾つかの大小説などより も強い感銘を受けたともいへる。」と評価している(引用は初出による)0 必ずしも専売局に好意的とは解しがたい表現を含むことを「編輯後記」でも娩曲に認めているが、 それを押して再録されたと思われる点と、 「編輯後記」の評は、この中野文献に次ぐ貴重な同時代評 価と見てよいだろう。 山の宿 観光文化協骨(東京市神田匿材木町八)発行『旅人』第1巻第1号(8月号、 1937年7月15日印刷、ママ 1937年7月20日発行)の15頁∼17頁(「随筆」欄)に掲載。編輯発行人兼印刷人・松永宏保、印刷所・ 大塚富次郎、定価20銭。 本文22字×18行×2段組、パラルビ。 表l (表紙) /には横書きの顧号「旅人」の上に、小さく「旅行趣味雑誌」とあるO奥付頁には編集 後記に相当する「編輯室」と題する欄があり、そこには、 「旅に関する綜合的高級趣味雑誌は嘗てな く、又同好讃者の編輯する雑誌も尊兄できませんo本誌は賓にこの甫誌未到の境地、言葉を襖へれば 旅行趣味同好者の協同的雑誌として誌面を磨く・讃者諸氏に開放するものであります」と謡われ、その 上部に研究・紀行文・随筆などの「原稿募集」言己事が掲載されているoなお、印刷所の火災のた捌く 原稿全部が焼失し、創刊号の発行が遅れた旨も「編輯室」には記されている。 目次には「山と宿」とあるが、本文標題および初収録単行本『山川草木』 (雄風館書房、 1937年9月 27日)に従って「山の宿」の標越を採用した。初出未確認のまま、新版全集第6巻には『山川草木』 を底本に用いて収録。新版全集と初出との異同を以下に示す〔新版全集第6巻の該当頁行 新版全集 本文-初出本文〕。なお、初出は踊り字「ゝ」 「ゞ」を使うが、 『山川草木』は仮名同字を反覆使用し ている。この踊り字の異同については以下から省いた。 495頁2行目 涙を拭ふとき、 -涙を拭ふときには、 495貢3行目 囲炉裸をふさぎ、 -園膿裡をふさぎ〔初出では行末のために読点を省略したと思 われる〕 495頁5行目 新作郷土小唄-新作案内小唄 495貢6行目 きくことのできない歌である。 -きくことのできない歌であった0 495頁7行目 思想の波のいや高く-思想の波のいや高く、 495頁8行目 生活難の風吹けビー生活難の風吹けど、 495頁9行目 ここは仙郷日本一-ここは仙郷E]本一、 495頁12行目∼13行目 こんな宿に泊ることはあらゆる意味でなさけないことであった。 -この 宿に泊ったことはあらゆる意味でなさけなかった。 497頁5行目 胡坐をかき、渓流の音を-胡坐をかき渓流の音を 497貢6行目 こんな歌をきかされるとは、とせっかくの旅行も台なしになったと-こんな歌を きかされるのは、日ごろの心がけが悪かった蔚ではないかと 498頁5行目∼6行目 彼は宿の主人としてあまりに-彼は宿の主人として、あまりに 〔-、最も好きな季節の温泉 二、印象に残る旅館の奉仕〕 観光文化協骨`(東京市神田匝材木町八)発行『旅人』第1巻第1号(8月号、 1937年7月15日印刷、 1937年7月20日発行)に「はがき御回答」の一つとして41頁に掲載.編輯発行人兼印刷人・松永宏保、 ママ 印刷所・大塚葛次郎、定価20銭。 井伏回答に個別の標題はなく、ここではアンケートの設問を仮に標題としたO 「青根温泉(丹野七 兵衛旅館) /増嘗温泉附近の新谷。 /新緑のころは大いによろしいO諸賢の再連をすゝめます。」以 上、井伏回答全文。
その後の再録はなく、新版全集にも未収録。 『島』難詰 日本旅行骨(東京市芝匝新橋二ノ十ノー)発行『旅とカメラ』第1巻第4号(8月号、 『島』特輯号、 1937年7月15日印刷納本、 1937年8月1日発行)の6頁∼7貢(増量あの島この島」欄)に掲載。編輯人・ 金田幸三郎、発行兼印刷人・南新太郎、印刷所・日本旅行骨印刷部、定価30銭。 本文22字×31行×2段組、ルビなし。行末の句読点は省略。隠岐島風景写真2枚を掲載。 「島雑話」の標題で『山川草木』 (雄風館書房、 1937年9月27日)に初収録。初出未確認のまま、新 版全集第6巻には『山川草木』を底本に用いて収録。新版全集と初出との異同を以下に示す〔新版全 集盛6巻の該当百行 新版全集本文-初出本文〕。なお、初出は踊り字「ゝ」 「ゞ」を使うが、 『山川草 木』は仮名同字を反覆使用している。この折り字および行末句読点の異同については以下から省いた. 486貞12行目 野生の山紫陽花が満開であったo 鷺は-野生の山紫陽が満開であったO そして鷺 は〔新版全集は底本の「山紫陽」を「山紫陽花」と改めた〕 487貢1行目 嘗ての夏、 -先年の夏、 487頁4行目 一台あるにすぎないがこれは-一基あるにすぎないが、これは〔新版全集は底本 『山川草木』に従ったが、 『山川草木』はぶら下げ組をしていない。 『山川草木』 ではこの読点は行末・行頭にかかるので組版の都合で省かれた可能性もある。た だし、 『山川草木』には、行中の句読点下の空きで調整して、行末読点を省略しな い箇所もある〕 487頁9行目 この港町の若い女は眉目うるほしい。しかし-この港町の若い女は眉目うるほし く、旅行家の云ふいはゆる「郎まれ」とはこのことであらうかと思はれた。しか し 487頁11行目 「われこそ目つかちのくせに」 - 「われこそ目めかちのくせ」 487頁13行目∼14行目 知らないと云ったO 栗原玉菜と与謝野晶子-知らないと云ったo しかし 栗原玉葉と輿謝野晶子、 487貞18行目、 19行目 因ノ島上図の島 488頁1行目 悪くない0 -悪くはないQ 日向を語る 日向観光協骨(宮崎願廟土木課公園係内)発行『霧島』第6巻第2号(紀元二千六百年に輝く祖国日 向、 1939年12月10日印刷、 1939年12月15日発行)の2頁∼30頁に掲載。編輯発行兼印刷者・白垣愛輔、 印刷所㌧平和印刷所、発売所・文筆堂書店(宮崎市橘通三丁目)、誌代50銀。 '座談会o 標題下に肩書き附きで、岡田三郎(小説家)、上泉秀信(劇作家)、中川-疏(画家)、井 状鱒二(小説家)、尾崎士郎(小説家)、中村地平(小説家)と出席者を掲げるo ママ 本文21字×22行×3段組、ルビなしo ただし、上段には、冒頭に「時 二月骨諸家を迎えて/虚 宮崎市、賄教育曾講堂/人 諸家の外に地元の人たち多数(敬構略)」と座談会開催日時場所参加者 など、続いて座談会に関わる写真計51枚(各頁2枚宛)、最後に「二月禽諸家執筆-発表」を掲げるの で、座談会は原則として、中段・下段に掲載O また、 10頁と目貫の間には「ペン部隊二月骨の思出」の標題で写真13枚を掲載(6頁分。ノンブル &l主 本文中には以下の見出がある。 「のびやかな自然」 「給になる景色・ならない景色」 「感心したとこ ろ」 「平凡な虚に在るよさ」 「歴史の関係」 「古典との結びつき」 「やわらかな人情」 「素直な気分」 「豊 かな水の眺め」 「明るさ.杉の美しさ」 「神楽と郷土舞踊」 「夢見るやうな岩戸神楽」 「熊襲蹄と神化 舞」 「白太鼓踊・その他」 「二月骨の成立」 「面の保存と民話」 「二千六百年祭と日向」 「祖圃振興隊の 活動」 「先づ青年層へ」 「完成への道」 「八紘之基柱など」 「宣博も必要である」 「根本を認識せよ」 「静 かないゝ町・宮崎」 「全国からの憧憾地・青島」 「鵜戸神官の社務所」 「供肥と油津」 「野馬の都井岬」 「都城と閲立公園霧島」 「明るい御地・狭野の杉」 「佐野原・黒貫寺・杉安・住吉」 「都農・高鍋・細 島・美々津」 「延岡から高千穂へ」 「観光施設について」 「自然を尊重してほしい」 「神と人間との交 流」 「拳固的祭典に際して」O 末尾に「(カットと漫垂は松本静太郎氏)」とある0 10頁右脇には誕生月日(いずれも2月生まれ)と各自の署名を附した「二月骨縁起」があり、そこ
には「みなみの空に雲の峰?競ひ立つ日、中央文壇の諸家枚を連ねて迄かに乗るo /人呼んでペン部 隊日向に厨へると云ふO昭和聖戦のさ中にして、祖国日向に沓祥したる猛くして遠き祖先の顧たちな ればなり。 +/諸家、世々を経、久方にして験のふるさとに蹄へり乗れば、山美しく水は清らかに、人 の情のあつくして、そゞろに人の世のよろこびをあげ、神々に額づきけるに♂汝等はすべてこれ\梅 の佳節を連ねて生れたる腰はしき六つの星なり。文運の世々に栄ゆべきこと、高千穂の峰、大淀の流 れとゝもに旺んなるべし。宜しく睦びて、紀元二千六百年に輝くわが子、祖園日向を宣揚すべし 諸家、即ち整感を享けて、こゝにペン部隊二月骨を結ぶ。」とある。 末尾に「(自垣生)」と署名のある「編輯後記」には「本掛ま郷土出身の作家中村地平氏の芋に依っ て出来上ったと申してもいいほど中村氏の熱JL、な御援助を煩はした。 /その第一は智頭に掲げた二月 禽諸家を中心にした「日向を語る」座談骨の記事であるが、これは督方で筆記したものを同氏の校閲 を経たもので、中村氏は多忙の中から三度にわたり、懇切な訂正を加へて下さったのであったQ」ま た「本掛ま最初九月下旬に発行の線定であったが、前記「旅」の十一月弓鋸こ二月骨諸家の座談骨記事 が掲載される事になり、 「旅」と同時頃単行する事に期日を磐更し、既に印刷所に原稿を廻してゐた ところ突然私が車病し臥床月蝕に及んだためこのやうに脊行がのびべになってしまったo」とあるo 表1 (表紙)には大きく左辺に「紀元二千六百年に輝く祖国日向」 (扉では中央)と墨書で縦書きさ れ 右隅に小さく横書き活字で「霧島 第六巻第二獣」とあるo ノンブルは47頁まで打たれているが, 「編輯後記」に言うように、ほとんどの頁轟「二月骨」の座談会とその座談会参加者の寄稿文が占め る。 目次を写しておくと以下のようである。 八紘之基柱(表紙給) - --一一・一-梨本正太郎---紀 元 二 千 六 百 年 へ … ‥ -岡 田 三 郎 上 泉 秀 信 中 川 一 政 日 向 を 語 る ‥‥‥… .‥.‥‥.井 伏 鱒 二 … ‥….. 尾 崎 士 郎 中 村 地 平 二 月 曾 縁 起 ‥‥. ‥‖‖.‥l.L一 〇 線 審 調 書 を 顧 る ‖… … ‥‥‥‥… ‥‥. ‥.l‥井伏 鱒 二 l.‥I.三 一 雲 の 放 送 抄 .‥‥.… . ‥… .中 川 一 政 ‥‥‥三 三 日 向 の 印 象 断 片 ‥‥… ‥… … … ‥..‥ ‥‥一… 上 泉 秀 信 ‥.‥.三 五 合 歓 の 花 と 杉 の 木 … … .:.… ‥‖‥‥陶 EEl三 郎 三 八 『八 紘 之 基 柱 』 の 工 程 進 む ‥… ‥‥ ‥‖… .… … ‥四 〇 宮 崎 願 奉 祝 曾 便 り.… … .:‥‥… ‥ … ‥‖..‥ 四 一 P m 官 幣 大 社 鵜 戸 神 宮 の 参 道 … ‥‥ ‥… 高 橋 末 男 … 官 幣 大 社 宮 崎 神 宮 の 朝 … ‥… ‥… ‥‥… … ‥.大 健 隆 嘩 … 高 千 穂 峡 ‥日.‥… .‥‥‥‖… … ‥.‖ ‥‖… 那 須 三 陽 ‥. ペ ン 部 隊 童 報 ‥.‥… … … ..‥ なお、 「編輯後記」に「「旅」の十一月班に二月骨諸家の座談骨記事が掲載される」とあるのは、 『旅』第16巻第11号(1日]号、 1939年11月1日)掲載の「日向を語る」を指すO その後の再録はないo 線審調書を顧る 日向観光協骨(宮崎嚇磨土木課公園係内)発行『霧島』第6巻第2号(紀元二千六百年に輝く祖固日 向、 1939年12月10日印刷、 1939年12月15日発行)の31貢∼32頁に掲載。編輯発行兼印刷者・白垣愛輔、 印刷所・平和印刷所、発売所・文草堂書店(宮崎市橘通三丁目)、誌代50銭o
本文31字×20行×2段組、ルビなし。 「日向から折るとき延岡の輝で、何だか顔見知りのやうな紳士 が汽車に乗り込んだo私はその紳士の顔を見て、直ぐにはその人の名前を思ひ出せなかったが自然に 微笑がこみ上げて来たO なるほどこの紳士は数日前に細島で食った三輪願昏議員であった。 /しかし、 なぜ微笑がこみ上げて来たかといふに、それには一つの挿話がある。私たちが高鍋の城鉦を見物'Lて、 それから美々津に行き、細島に着くと、時刻はもう確定より三時間近くも遅れてゐた。なにしろ山盛 りのやうな目次の慌しい旅である。私たちは時間を端折って次の目的地延岡に馳せつけやうと思った が、さすが細島の三輪氏は議政壇上の人だけあって細島を端折ることは断じて許さなかった。 『いや、 大丈夫です、時間はまだ充分あります』と云って三輪氏は鉾の浦の旗亨に私たちを案内して歓迎の軒 ママ を述べられた。遠路わさわざの御光来まことに感謝の至りだといふやうな前置きで『願はくぼ東京に お蹄りたなったら、みなさんの御麗筆で、みなさんの御麗想で、この風光明眉な細島を天下に紹介し て頂きたいのであります』と述べられたQ」ところが、いよいよ出発する段になると実は次の延岡に は大幅に遅れると言う。その挿話があったので、愛郷心に満ちた三輪氏を見て微笑がこみ上げて来た のである。その日の日程は立て込んでいて、 「秩序だって思ひ出せないほど磐化に富んでゐた」とし て、後で送られてきた観光日記を引用し(この目記のことを、ある友人は「一行六人の韓審調書」だ と言った)、最後に日向の風景の印象を語る。 その後の再録はなく、新版全集にも未収録o 鐘供養 陸軍帆兵部(東京都牛込匿本村町)発行『陣中諸物』第1号(1943年12月253印刷、 1944年1月1日 発行)の78頁∼84頁に掲載。編輯所・文化奉公骨「陣中讃物」編`輯課(東京都芝匿琴平町三四)、印 刷所・大日本印刷株式骨社榎町工場。 編輯人・発行人・印刷人等の個人名、定価は記載されていない。奥付右脇に「本雑誌は首都監修の 下に圃民の熱誠によせられた他兵金を以て調製し、配布するものであります。 /陸軍他兵部」とある。 表1 (表紙)の横書き題号上には「陸軍の慰問雑誌」とある。 本文27字×20行×2段組、漢数字と干支を除いて総ルビ。挿画2枚は野間仁根。本文末尾に「(完)」 とある。 なお、新聞連載小説「ひかげ池」 (『中部日本新聞』第252号∼第331号、 1943年5月13日∼7月31日、 67回連載)中の「鐘供養の日」の章にも同一のエピソードが記されている。 「鐘供養の日」 版全集第10巻には 第10巻の該当頁行 497頁2行目 497責4行目 497頁5行目 497頁6行目 497貢6行目 の標題で『御神火』 (甲鳥書林、 1944年3月30日)に初収録。初出未確認のまま、新 『御神火』を底本に用いて収録。新版全集と初出との異同を以下に示す〔新版全集 新版全集本文-初出本文〕。ただし、初出のルビは原則として省略した。 その寺の庭園改造-庭つくり その後は自分ひとりの手で一日分ひとりの手で 庭いちめんを菜園畑に-庭いちめん菜園畑に 立て前で竜禅寺の-立て前で、縫禅寺の 菜園畑に満足して、 -菜園畑に満足し、 497頁6行目∼7行目 保ちつづけて来たさうである。 -保ちつづけて来た。 497頁8行目 ところで、 -ところが 497買11行目 高田さんも、 -高田さんも 497頁13行目 据ゑ、 -据え、 498要1行目 意外にも-以外にも 498真3行目 国家安泰祈願のため、般若心経を一関家安泰祈願のため般若心経を 498亘3行目∼4行目 般若心経と申しますは、つまり観自在菩薩といふ-つまり般若心経と申し ますは、観自在菩薩といふ 498頁4行目 衆僧ならびに檀徒一同が-檀徒一同が 498頁7行目 別紙にその文章を書いておきました0 -別紙に書いておきました0 498頁10行目 檀徒総代の祝辞。これは、貴方さま-檀徒絶代の祝軒、つまり貴方さま 498頁11行目 鐘をつきますが、一同衆音に-鐘をつきますが一同衆苦に〔初出では行末のため に読点を省略したと思われる〕 498頁11行目∼12行目 楓諭してをります間に、一風諦する間に、
498貞12行目 鐘を私が十回一鐘は私が十回 498頁13行目 貴方さまが打鐘-貴方が打鐘 498貞17行目 檀徒総代の祝辞-檀徒継代祝離 498頁17行目 住職に見てもらふと、 -住職に見てもらフたが、 498貢19行目 「しかし、当日お天気ならよろしいですが。」 - 「しかし皆目、お天気ならよろし いですが。」 498頁20行目 -499頁2行目 高田さんが云ふと、 〔中略〕と住職が相槌をうった。 -高田さんが云 ふと住職も、 〔中略〕と相槌をうった。 499頁6行目 この鐘撞堂の前に、白い布で-この鐘撞堂の前に白い布で 499頁6行目∼7行目 大きな壇と小さな壇が設けられ、大きな壇には-大きな塊が設けられ、 499頁8行@-9行目 小さな壇には干柿や蜜柑などの供物をお供へしてあった。 -もう一つの壇 には干柿や蜜柑などの供物が載せてあった。 499頁9行目 天井のあたりから-天井から 499頁12行目 -僧を先きに立てて一一僧を先頭に 499頁12行目 その後から、五人の-その後から五人の〔初出では行末のために読点を省略した と思われる〕 499貞12行目∼13行目 坊さんがみんな合掌して、微かに-坊さんが、みんな合掌して微かに 499頁13行目 499頁13行目 499頁16行目 499頁17行目 499頁17行目 499貢18行目 499頁20行目 500頁4行目 500頁5行目 500貞7行目 500貢8行目 500貞9行目 500頁13行目 500頁15行目 お経を唱へながら一念僻を唱へながら 主着についた。 -主着につき、 それにつづき、みんなも-それにつづきもみんなも 供物壇の前に並び、 -壇の前に並び、 参詣者はみんな大根畑の畔に-みんなは大根畑に いよいよ、鐘と-いよいよ鐘と 遠征韓旅の空にありて-遠征蒔旅にありて 最後に響く鐘の音-最後の鐘の音 往きて国難に一行きて国難に 石段をのぼって-石段にのぼって 不意に深い当惑の色が-深い音感の色が みんなの顔にも当惑の-みんなの顔にも、酋感の つり 釣を-釣を しかし今さら施す手もなかったので、住職は気を取りなはし、 -しかし住職は菊 を取りなはしたと見え、 500頁16行目 二つ三つ大きく振りをつけてから-大きく振りをつけて 500頁16行目∼17行目 もとより釣鐘は「ゴオン、ンンンン--・」と-釣鐘はゴオン、ンンンン ---と 500頁18行目 ちがひなかったが、みんなは-ちがひなかったがみんなは〔初出では行末のため に読点を省略したと思われる〕 500頁20行目 鐘を十回つき鳴らした。 -鐘を十回撞き鳴らした。 501貞1行目ノ 浮かべてゐた。なかには、コツンと-浮かべ、なかにはコツンと 501頁3行目 ふえて来たやうであった0 -ふえて衆た0 501頁4行目 そして住職は、また-衆同書を導いて般若心経を-そして住職はまた-衆同音を 導いて、般若心経を 501頁4行目∼5行目 この間に、随喜の坊さんたちは一人づつ-この間に随喜の坊さんたちは、 一人づつ 501頁7行目∼8行目 音がして、高田さんが一書がして高田さんが〔初出では行末のために読点 を省略したと思われる〕 50.1頁8行目 応召する鐘に感謝-鐘に感謝 501頁9行目 一人づつが次から次に一一人づつ次から次に 501貞10行目 とりかかった0 -とりかゝつた0 501頁14行目 大根畑をよけて通り-大根畑の畔道を通り
501貢15行目 石段を控へてゐる-石段を控えてゐる 501頁18行目 各所の寺の焚鐘が-寺の焚鐘が 501頁20行目 駅員の協力のもとに縄を解き-縄を解き 502要l行目 供出焚鐘と較べてこの竜禅寺供出の-供出焚鐘と較べて見て、龍滞寺供出の 502頁3行目 随伴僧たちが帰って行き、 -随伴僧たちが掃って行くと、 502頁4行目 眺めながら、住職が-眺めながら住職が〔初出では行末のために読点を省略した と思われる〕 502頁6行目 雪は、屋根や-雪は屋根や 502頁6行目 直ぐに消えた。しかし釣鐘の-直ぐに消え、釣鐘の 502頁8行目∼9行目 鐘は寒いんでせうかO鐘の症のところが冷たいんでせうか。 -疫のところ は冷たいんでせうかO 502貢12行目∼13行目 黙読に近いやうであったその低い声は、 -獣讃に近いその低い聾は、 502頁13行目 502貞13行目 502貢14行目 502頁15行目 502貢17行目 502貢20行目 502頁20行目 503頁7行目 はっきりとした音韻に-はっきりとした音頭に 住職は朗読調で-住職は、朗讃調で 檀徒一党にこれを告ぐ。 -檀徒一同にこれを告ぐ。 末代に若し一朝国難ありて-一朝国難あり 高田さんの顔を見た。 -高田さんを見て唾を噛み、 はっきりとした覚悟が-はっきりと覚悟が いったいこの鐘はいつごろの-いったいこの鐘は、いつごろの 江戸時代の年号の順序は一年親の順序は 503頁9行目∼10行目 時代でして、 -時代で、 503頁10行目 寄合芸者とし?ふのが盛んで、世を挙げて野卑に-寄合垂者といふのが盛んで野卑 に 503貢11行目 なってゐますから、 -なってゐますから〔初出では行末のために読点を省略した と思われる〕 503頁11行目 漸く彼に失政の池が乗らうと-失政の油が乗らうと 503貢12行目 住職は容易にそれを信じなかった0 -しかし住職は容易にそれを信じさうでなか った。 503貢13行目∼14行目 筋めの工合ひですが、一筋めですが、 503要14行目 簡疎清浄-簡疎 503貢15行目 また至って-至って. 503貢15行目 一つもない一一もない 503頁17行目∼18行目 といふ順序でして、明和が終って安永の約十年間を経て天明ですが、 PJ 和時代は、後の天明調といふ下司な-といふ順序で、明和時代はその十年後の芳 明調といふ、下司な 503貢20行目 昔のこのEE]舎で、一昔のこの田舎で〔初出では行末のために読点を省略したと度 われる〕 503貢20行目 こんな古雅な焚鐘を鋳ることが出来ます-こんな古雅な焚鐘が出爽ます 504貢1行目 御座いますからな。」 -御座いますからな。 〔初出ではカギ括弧が誤脱〕 504貢1行目-2行目間 〔なし〕 -住職の云ふことは少し大げさであった。 504貢3行目∼4行目 昔の田舎のことですから、鐘の鋳型師がその時代の当世流行に感染しなカ ったのかもしれませんね0 -この焚鐘鋳造の職人は、名工だったのかも知れまゼ んですな。 504貢6行目 左様。 -左横、 504責6行目 依頼なされた一俵醸された 504頁7行目 いや、お寺さん。 -いや、お寺さん、 504頁8行目 頭をかいた。二人の-頭をかいた。 /二人の 504亘9行目 ゐなかったO 牡丹雪の-ゐなかったO /牡丹雪の 初出行末のために省かれ、初収録単行本『御神火』で加えられた読点は一々触れたが、初出行末¢ ために省かれ、 『御神火』で加えられたところ句点(3箇所)は明白なので掲げなかった。なお、初115
録単行本『御神火』は行末句読点を略さず、ぶら下げ組みを採用している。 初出79頁上段10行目(新版全集497貢13行目に相当)の「うかゞった」と初出82貢下段6行目の「と りか′ゝつた」 (新版全集501頁10行目に相当)の2箇所で締り字「ゝ」あるいは「ゞ」を用いているが、 初出においては、これ以外の踊り字を用いうる箇所でも同字を反覆使用している。ちなみに、初出78 貢5行目(新版全集497頁3行目)では「とりかかった」とある。 また、初出の「撞木」のルビが初出81頁下段7行目(新版全集500頁8行目)までは,「しゆもく」と あったのが、初出82貢上段1行目(新版全集500貞16行目)以降は「どうもく」と変更されている。 釣り場 警護旺文社(東京都牛込匿横寺町五十五)発行『建設青年』第8巻第10号(10月号、 1944年9月27日印 刷納本、 1944年10月1日発行)の40頁∼44頁に短篇小説として掲載。編輯人・池EEl佐次馬、発行兼印 刷人・赤尾好夫、印刷所・共同印刷株式禽社、配給元・日本出版配給株式骨社、定価30銭、特別行為
vl, '蝣-紬∴iL .三i:i. ∴i;.j
本文20字×24行×3段組、パラルビ.ただし、 40頁の上段は小川鼻音のカット(カット中の標題に は「盟」の角書)、 43頁・ 44頁下段は広告が入るので、井伏文の実質は20字×24行×12段。小川寅吉 のカット中には桑野(表1)題号脇、法定文字の上に四角囲みで「青年糖」占屠<転さつ 「いま甲州の盆地では、勝沼あたりから酒折の声酔こかけ、人々は葡萄の悠貨皇;U忙殺されてゐるQ しかし今年からは、葡萄の賓を食べてはならない規則になつ亘。葡萄の賓で酒石酸をとり、その酒石しんへいき 酸で新兵器の或る大事な部分をつくることになってゐる。」と始まるが、ある葡萄畑のはずれを流れ る小川で釣をしていた疎開児童の二人連れと、同じ場所で釣をしている最中に召集令状が着いたこと を知らされた男のエピソードを描く。 その後の再録はなく、新版全集にも未収録。 釣竿 三帆書房(福岡市住吉九一五)発行『文化展望』第1巻第2号(5月号、 1946年4月25日印刷、 1946年 5月1日発行)の目貫に掲載。発行人・宮崎宣久、編輯人・高田康治、印刷人・大隈憲次郎、印刷所・ 西日本印刷株式骨社、配給元・日本出版配給株式骨社、定価2円50銭。 井伏文は15字×51行×3段、パラルビoただし、 2段目中央に標題と筆者名があるので、この2段目 の行数は37行。掲載誌はタブロイド判で、井伏文掲載鄭ま全10段組。同貢には、竹内てるよの詩「再 禽Jt菅田康治による武田麟太郎脚「武田さ隼のこと」を掲軌っ 「『釣り』も三?いて書盤いふ編輯者の注文であるoそこで、私の釣りの噌佐藤垢石の諒による と『お前は、釣師として卿か見込みがあるO この調子で、一心不乱にこの道に精進したら、十五年後 つえうさを か孟十票後には、 人前の釣師になれるかもしれぬQ要するに、釣竿を持って川原に立った場合には・ 無念無想、おのれを山川草木にとけこませなくちやいけないo』といふのであるoそれが今から約十かんがいくん 年前に、富士川の激流を前にして感慨ふかくきかされた垢石の教訓であったO」との段落から始まり、 戦時下に伊豆の河津川に鮎釣りに出掛けた時、同車した八字髭の人物から釣りは「非常時」を弁えなてう い所業だと難詰された上、 「ぼやぼやしてをると、徴用するぞ〔。〕名前を報告してもらひたいか」と 「痛烈な威かし」を聞かされたため、帰途に同じような人物に出会すことを恐れて、釣竿を南豆荘に 預けてきた挿話を記す。奥付(16頁)上に「氏名/ (職業) /出身/撃校/主著/現住所/年齢」を 紹介する「執筆者紹介」欄があり、井伏に関しては「井伏鱒二氏(作家)福山、早大俳文、 『多甚古 村』 『難肋集』福山市外加茂村、四九歳」とある。 なお、 『文化展望』の発刊事情、発行人・宮崎宣久などについては、花田俊典『清新な光景の軌跡 -西日本戦後文学史-』 (西日本新聞社、 2002年5月15日)の「屈辱の苦杯の味を- 「文化展 望」創刊と大西巨人『神聖喜劇』 -」に触れられている。 その後の再録はなく、新版全集にも未収録o 警官と払 公安社(東京都豊島匿雄司ケ谷一ノ三九二)発行『公安』創刊号(1948年8月20日印刷、 1948年9月 1日発行)の7頁∼8頁(「随筆」欄)に掲載。編輯人・澁谷清、発行人・菊池武憲、印刷者・渡遁祐介、 印刷所・第一中外印刷株式骨社、定価30円。
随筆欄は15字×25字×4段組、ルビなしO 井伏文はそのうち6段分を占める。 「私は警官にはあまり 知りあひがない。ときたま口をきくこともあるが、こちらから口をきく場合には、交番で道順をたづ ねることぐちゐなものである。先方から口をきくやうなことは、私が夜ふけて家に締る途中、誰何さ れる場合にきまってゐる。」と始まり、近所の加納君という若い友人の家からの帰宅途中に交番の警 官に誰何された体験、太宰治の発案で交番の巡査をからかおうとした体験、また、後に「「医Iノ島」 といふ小説に脚色した」体験を記す。なお、文中に「多甚古村」の題材とモデルについて、 「讃岐の 中洲といふ町の河野巡査をモデルにしたもので、材料は河野巡査から貰ったのである」と記されてい る。 表紙と奥付には「司法警察研究舎監輯」とある。 「司法警察研究骨設立趣意書」と会員名簿が目次 の直前頁に掲載されているQ その後の再録はなく、新版全集にも未収録。 mm '展覧会パンフレット『品濃晶品蔽/第二回・北川賓洋書個人展』 (1948年12月1日〔推定〕)に掲軌 本文23字×27行×2段組、ルビなしO井伏文はそのうち17行分を占め、続いて小林和作「画家の生 活に就て」を掲載。井伏文は「近衆、備後といふところは、有望な美術家の出る土地だといはれてゐ ますO」との一文から始まり、 「尚は、これを機縁に、更らに北川君の勇猛精進を切望します。」と終 わる。北川に連載小説の挿画を描いてもらって以来の仲であること、北川に「詩人としての魂醜」を 感じること、個展を成功させるには先輩知己の後援が必要であることなどに触れるC 同展の会期などについて表1 (表紙)には、 骨 期 . 昭 和 23年 12月 1 日- S B 禽 場 . 福 山 市 天 満 屋 主 催 . ぶ ら ん だ る じ ゃ AJ 後 援 . 中 国 新 聞 社 福 山 支 局 とある。 発行日は開催初日の日付によった。 「作品目録」によれば、北川作品16点を展示o ママ 末尾には「北川賓客歴・本郷研究所修。濁立展、中央美術展、二科会等十七回入選。二科骨々友、 白日会々友に推選さる。府中町在住。明治四十一年生」とある. 井伏と同じ備後出身の北川は、井伏連載小説「青首の庭」 (『新女苑』第5巻第1号∼第12号、 L941年 1月1日∼12月1日)のはか、 「サイカチの木」・(『サンデ-毎日』涼風特別号第31年第31号、 1952年7月1 0日)等の挿画を担当した。会場の天満屋は地元の百貨店。 その後の再録はなく、新版査集にも未収録。 捕物演出 鹿島管区警察畢校松風編輯部(康島賄佐伯郡大竹町小島新開四〇一番地) ,発行『松風』第2巻第6号 (4月特輯号、 1949年4月5日印刷、 1949年4月10日発行)の7貫(「随筆」欄)に掲軌編集兼発行人・ 有田俊治、印刷者・斎藤悦三、印刷所・中国印刷株式骨社、定価35円o 表1 (表紙)には「松風」と題号を横書きした下に「MATSUKAZE」とローマ字書きされ、 右脇に縦書きで「四月特輯鍍」とある。なお、表1 (表紙)右肩の発行日は1949年4月1日となってい る。 『朝日新聞』 2002年8月19日(大阪本社発行第43419号第27画第13版)掲載記事「幻の作品米にゴッ ソリ/占領期に雑誌掲載/目次DB公開へ」が、 「48年から49年にかけ、東京や広島の警察雑誌「公 安」と「松風」に、随筆「警官と私」、 「捕物演出」をそれぞれ掲載」と報じているが、この「捕物演 出」は、潰根汽船株式禽社出版部発行『瀬戸内海』第5号(1947年11月20日)に「内海随筆」として 掲載されたものの一部再録である(新版全集第11巻371頁6行目 -372貢12行目までの部分)。両者の間 には、仮名遣いや読点の異同、同一語の表記の相異(-方が仮名で他方が漢字となっている)などが あるが、それ以外に大きな異同はない。
便り 展覧会パンフレット『第3回 北川賓洋書個人展』 (1949年12月7E] 〔推定〕)に掲載o 本文25字×30字×2段組、井伏文はそのうち22行分を占め、小林和作「感想」、木下夕爾「日録のは しに」とともに掲載。井伏文には、 「総合展」に硲伊之助に連れられていったこと、ショーウインド ーで見かけた壷が欲しいこと、干柿への礼などが記されていて、書簡からの引用かと思われる。 同展の会期などについて表1 (表紙)には、 会 期 昭和 24年 12 月7 日 - Il ° 会 場 福 山 市 天 満 屋 . 後 援 中 国 新 聞 社 福 山 支 局 上あS-) 発行日は開催初日の目付によったO 「作品目録」によれば、北川作品16点を展示。 ママ 表1 (表紙)柱は「北川実略歴 明治四拾壱年生 本郷研究所修 燭立展 春陽会展 中展 白日 会展 二科会展等 拾八回入選 二科会友 白日会友 鷹島燥展審査員 芦品郡府中町在住」とあるO その後の再録はなく、新版全集にも未収録。 選後感 監禁民主会(東京都千代田区丸ノ内三ノ三)発行『東鉄文華人選集』 (1950年5月25日印刷、 1950年6 月1日発行)の65頁に(創作)の選評として尾崎一雄と連名で掲載(著者名は井伏、尾崎の順)。編集 人・飯塚信二、発行兼印刷人・坂井正治、印刷所・民主会印刷部。 井伏・尾崎文は26字×16行×2段組Q ただし、下段は15行目で終わるQ 表1 (表紙)には「東鉄文蛮人選集/東京鉄道局」とあり、目次の書名も「東鉄文塾入選集」とあ る。奥付には書名が「東鉄文化読本特集号(第十七号∼二十一号)」とあるo以下に奥付の発行等に 関わるところを抜粋するO (東末鉄道局) 編 軸 人 飯 塚 信 二 'l ・' '蝣: ・. .: " 東 京 都 千 代 田 区 丸 ノ内 三 ノ三 印刷所 民 主 会 印 刷 部 東 京 都 千 代 田 区 丸 ノ内 三 ノ三 癖 所 毘禦 民 主 会 し 電 辞 丸 ノ 内 (23) 四 八 六七 番 鉄 道 電 話 東 京 交 換 一 四一 三 ノ乙 (非費 品 ) 目次の前に置かれた「労働課長 飯塚信二」名義の「序にかえて」には、 「管内職員が、昨年一年 間に労作した文垂作品の中から、選ばれた作品を、 / 〝東鉄文導入準集fJとして、発表出来ることは、 私のもっとも喜びと存ずるところでありますQ /この前のIときも、かなり多くの作品が寄せられまし たが、今度はこれに倍する状況なので、さぞかし、良い作品が現われることと柴しみにしておりまし たが、大体予期の結果が得られたのは嬉しい限りですo /今度の場合も、前の場合でも痛感されるこ とは、それぞれの作品が、.すべて吾々の、まいにちまいにちの生活記録で彩られていることです.云 はば国鉄職員の生活史でもあります。お互がそれぞれに思索し、探求し、自己発見に努力している尊 い姿が、わたくしの目に映ります。 /この集にのせた作品の個々に、こうした努力がなされているこ とが判り、こうした努力が、やがて、よい閲鉄をつくりだす力となることは必然と思いますし、私が 文垂をこころざす方々に期待する所以でもあります。 /どうか、この集に作品が載せられた方も、そ の他の方々も.益々この道に精進きれるよう熱望してやみません。 /おわりに、審査に当られた諸先 生、地びにいろいろと御意力をいただいた方々に厚く御礼を申上げて、発刊のことばといたしま す。」とある。 各ジャンルの選者は以下のようである。創作(井伏鱒二、尾崎一雄)、詩(室生犀星、草野心平)、
短歌(土屋文明、木俣修)、俳句(富安風生、石田波郷)、戯曲(金子洋文、北候秀司)、評論(青野 季吉)0 その後の再録はなく、新版全集にも未収録。 天燈鬼、龍燈鬼 奈良・興福寺-普歪美術出版社(東京都牛込局市谷本村町15)発行『日本の彫刻』 Ⅵ (鎌倉時代) (1952年4月15日発 行)の5頁∼6貢〔活字貢〕に掲載Q 図版番号VI14-16の解説。編集者・今泉篤男/岡虎之助/瀧口修 造、発行者・大下正男、本文印刷・普註大完堂、グラビア印刷・東京グラビヤ印刷株式禽社。 井伏文は横書きで5頁は39字浩粕き〔この頁には図版が本文右に入っているた釧こ1行字数は少な い〕、 6貢は60字×9行の分量。 「龍燈鬼の得意げな様子には邪気がない。ほとけ様に奉仕できる優越感 の現われだろうO私はすぐに好感が持てたO」と始まる竜灯鬼についての感想を主として述べ、最後 に天灯鬼についても触れる。なお、見出「VI 14--16 天燈鬼、龍燈鬼 奈良・興福寺」と井伏文と の間に安置場所や製作者について触れる無署名の解説文が置かれている。 奥付には次のようにある。 日 本 の 彫 刻 Ⅵ 鎌 倉 時 代 ¥ 320 195 2年 4 月 15 日発 行 編 集 者 今 泉 篤 男 岡 鹿 之 助 瀧 甲修 造 車 行 者 大 下 正 男 東 京 都 牛 込 局 市 谷 本 村 町 15 本 文 印 刷 箸詮大 化 堂 東 京 都 青 梅 市 根 ヶ 布 3 8 5 グ ラ ビ ヤ 版 印 刷 東 京 グ ラ ビ ヤ 印 刷 株 式 禽 社 製 本 鑑 大 完 堂 哲盃美 術 出 版 社 東 京 都 牛 込 局 市 谷 本 村 町 15 電 話 九 段 (3 3) 204 3,3 36,8 620 振 替 東 京 16670 0 本書扉には「撮影/藤本四八」とある。 『日本の彫刻』全6冊は、坂本万七・土門拳・藤本四八・人 江泰吉撮影の図版頁と作家・詩人・美術史家などの解説を掲載した活字貢とから成る。第6巻挟み込 みしおりは片面が「園版-覚表」、もう片面が「執筆者紹介」で、 「執筆者紹介」には岡本謙次郎(莱 文畢者美術評論家「運慶」他)、北川桃雄(美術史家「美しき奈良」他)、福田恒存(評論琴 劇作 秦, 「否定の精神」他)、野尻抱影(天文研究家「星座巡頑」他)、井伏鱒二(作家「多甚古村」 也)、廉津和郎(作家「風雨強かるべし」他)、金子良運(美術史家 東京国立博物館館員)、富永惣 ∼(美術評論家「ギリシアの彫刻」他)、北由克衛(詩人美術評論家二科脅員)、菅原安男(彫刻 家垂術大畢教授)、高見順(作家「如何なる星の下に」他)、久野健(美術史家美術研究所員)と 掲げられている。他の巻では、小林秀雄、高見順、志賀直哉、亀井勝一郎、武者小路実篤、花田清輝、 井上晴、宇野浩二、瀧井孝作、川端康成などが執筆。 その後の再録はなく、新版全集にも未収録。 因島 毎日新聞社(東京本社東京都千代EEl区有楽町-の一一、大阪本社大阪市北区堂島上二の三六、西部 本社門司市清港町-の九〇二、中部支社名古屋市中村区堀内町四の-)発行『サンデー毎日』第33年 第56号通巻第1850号(12月12日号、 1954年12月12日発行)の「私のカメラ紀行(広島)」に掲載。編 集人兼発行人・石井貞二、定価30円。 佐内正撮影「城山からみた因島」 (見開)の左脇に掲載。井伏文は20字×7行×3段。EW^^^^^^^^^^^^^^^^^^^KWI 「この写真は、因ノ島の和冠の城跡-海賊衆の拠ってゐた本城の鉦ですO ここに登ると、この城に
対する附城の鮎が岬の突端に見え、岡の切れ目から西南の方の海がちらりと見え東の方の海や鳥山は 一望です。」と始まる。なお本文末尾に「(原文のまま)」とある。 〔公開すべきかどうか〕 朝日新聞社(東京本社東京都千代田区有楽町二ノ三、大阪本社大阪市北区中之島三ノ三、西部本社 小倉市砂津字富野口北三八〇ノー、名古屋本社名古屋市中区広小峰通二ノーー)発行『週刊朝日』第 61巻第22号通巻第1910号(1956年5月27日増大号、 1956年5月27日発行)の19頁∼20頁に掲載。編集人 ・扇谷正造、発行兼印刷人・春海鎮男、特価50円O 談話筆記かO 「『アリスのような町』をめぐって-イギリスの〝反日映画N-」の内O 井伏文は 15字×32行。 「私自身の感じをいえば、どうも後味のよくない映画だO 少なくとも、子供たちには観 せたくないなと思ったO」と始まり、マレー従軍中の体験と映画との相違、また、映画中の日本人に 対する固定概念について批判する。井伏回答冒頭には「作家 井伏鱒二氏」とのみあって、個別の標 題はないo ここでは小見出を標題としたO 明示はないが、文体から見て談話筆記と推定されるO 記事全体のリードは「ある〝反日映画〟が話題になっているo /英国映画「アリスのような町」 (A Town Like Alice)だO これは、英国の有名な映画会社、アーサー・ランク社の一九五六年度 作品、ロンドンで三月第一週に封切られたものである。 /封切直後のロンドンでは、在英邦人に対す る一部ロンドン市民の感情が険悪化したというo またとくに、この映画は、マレー半島を舞台とする だけあって、シンガポールでは大当りをとったと伝えられている。海外の対日感情を知る上からいっ ても、この映画はさまざまな問題をふくんでいるようだ。」とある。 記事の全体は「1 映画のすじは」と「2 公開すべきかどうか」の二つの小見出で整理され、 「、1 映画のすじは」の末尾に「本誌では、英国映画協会(BCFC)の好意により特別に試写会を 開き、次の各氏を招待し、意見を聞いてみたO」とある。続いて「2 公開すべきかどうか」の小見 出を掲げて、井伏を筆頭に、笠信太恥飯島正、桶谷繁雄、大宅壮丁城西志疎、小山いと子、植草 甚一、中島健赦、伊藤整、滞松佐美太郎がコメントを載せているo その後の再録はなく、新版全集にも未収録。 亡友の遺作展 展覧会パンフレット『北川実遺作展』 (1957年5月11日〔推定〕)に掲載。 孔版印刷。井伏文は31字×9行。 「北川君は、画業の上では才気換発、巧みに各派の画風を消化して をりました。」と始まり、 「このたび、北川君の遺作展が開かれるに当り、在りし日の彼を思ひ、画家 としての彼の常の気性に敬意を表する次第です言と結ばれるO 上部に北川実作晶「目録」 42点を掲げ、その下に、井伏文、木下夕爾「北川実さんを憤ふ」、中山 一郎「通人」を掲載。 同展について表1 (表紙)には「とき・5月11日(土) -13日(月) /ところ・ニコニコ本社三階ホ ール」とあり、表4 (裏表紙)に「主催、グループアトリエ/後援、府中市教育委員会 在府中各新 聞社」とある。表1 (表紙)下には「北川実略歴」として「明治四十一年生 本郷研究所修/独立展、 春協会、中展、白日会展、二科会展等/19回入選・二科会友、白日会友/広島県展審査員/昭和32年 3月21日 東京都澁谷区代々木大山町1072にて投 享年49才」とある。 発行日は開催初日の日付によった。開催年の表示はないが、北川投年の1957年と推定。 その後の再録はなく、新版全集にも未収録。 新しい常識への道しるべ 筑摩書房(東京都千代田区神田小川町)発行『現代教養全集全15巻』内容見本(1958年8月〔推 定〕)の2頁に「推薦の言葉」の1篇として掲載。 表4 (裏表紙)に「第1回配本 《1分戦後の社会 9月25日発売」とあり、綴込予約申込書の申込締 切が「昭和三十三年九月末日迄」とあるので、第1回配本の1箇月前の1958年8月発行と推定。 新版全集第20巻には『図書新聞』第468号(1958年9月20日)を底本に用いて収録し、同巻解題、別 巻] 「著作目録」には同紙を初出としたが訂正する。 なお、本内容見本掲載井伏文末尾の一文「おそらく解説文は歯ざれがいい。」が、 『図書新聞』掲載 分にはない。
〔古川太郎琴曲公演〕 公演プログラム.『古川太郎撃曲公演』 (1959年11月27日発行〔推定〕)に掲載。 井伏文は20字×12行で、標題はない。 「古川さんは御自分の悲しみとか楽しさとか嬉しさなどを琴 の音によって感動的に人にお伝へになるo」との一文から始まる、自作詩が作曲されることへの感想 を記-.1-、一 共表紙でノンブルはないが、井伏文は表1 (表紙)から数えて時日に掲載。表2が広告に宛てられ ているので、本文としては最初の記事に当たるO 表1 (表紙)には「古川太郎等曲公演」とあり、脇に日時などが「一九五九年十一月二十七日 (金)六時半/都市センター・ホール」と記載されている。演目に「歌曲小品/井伏鱒二の詩より二 つ/イ 顎/ロ 歳末閑居」とあり、本プログラムには古川文「井伊鱒二の詩」、また、 「歌詞」とし て井伏作「顎」と同「歳末閑居」も掲載されている。 発行目付は公演日によった。 古川太郎は井伏「琴の記」 (『週刊朝日別冊』昭和35年第2号(早春特別号)、 1960年3月1日)に生田 流の琴の名人として登場。 その後の再録はなく、新版全集にも未収録。 『海ほほづき』推薦文 瀧井孝作著、桜井書店(東京都文京区大塚町三三)発行『海ははづき』 (1960年1月10日発行)の帯 に掲載。発行者・桜井均、印刷者・横山要太郎(東洋印刷)、定価550円。 新版全集第21巻では、 『素直』第9集(1960年7月10日)を底本として収録し、同巻解題、別巻Ⅱ 「著作目録」には同誌を初出とした。このたび『海はほづき』帯を確認したので、これを初出と訂正 する。なお、新版全集では、 『素直』第9集掲載時の標題「『海ほほづき』推薦文」を採用したが、初 出には固有の標題はないo なお、文末日付「昭和三十五年一月一月」 (これは『素直』掲載分も同様)の後に、初出では「井 伏鱒二しるす」とある。これ以外、初出と、 『素直』第9集との間に本文の異同はない。 荻窪村 朝日新聞社(東京本社東京都千代田区有楽町2ノ3、大阪本社大阪市北区中之島3ノ3、西部本社 小倉市砂津字富野口北380ノ1、名古屋本社名古屋市中区広小路通2ノ11)発行『アサヒグラフ』通 巻第18619号(1960年5月15日号、 1960年5月15日発行)の20頁(フォト・ルポ「国電・中央線」末 局)に掲載。編集人・松島雄一郎、発行兼印刷人t・田中利一、定価70円。 談話筆記O 本文末尾に「(談)」とあるo 井伏談話は16字×41行×5段.ただし上2段分には標題・筆 者名と写真が配きれているため、各9行。 「私が荻窪に家をもったのは、昭和二年の秋だから、ここに 住んでもう三十三年になるo」との一文から始まり、昭和初頭の荻窪生活の回想が語ら・れ、 「私は出掛 けるときは、電車だとこむから、荻窪発のバスに乗るようにしているO」と結ばれる。 なお、同誌は毎日曜日発行。 その後の再録はなく、新版全集にも未収録。 源氏鶏太の人がら 株式会社三世社(東京都千代田区神田三崎町二ノー六)発行『傑作小説』第1巻第12号(11月号、 秋の臨時増刊・源氏鶏太小説読本、 I960年11月15日発行)の143貢 -145貢に掲載。編集人・石川精亨、 発行人・石坂幸男、印刷所・富士高速印刷KK/中外印刷株式会社、定価130円o 表1 (表紙)には「傑作小説」の左横書き題号末尾に割書で「臨時増刊」、左脇に縦書きで「源氏鶏 太 小説読本」、右下に横書きで「11月号」、目次冒頭には「傑作小説臨時増刊号/源氏鶏太小説読 本」、奥付には「傑作小説」の題号下に「秋の臨時増刊」とある。なお、表1 (表紙)上辺と表4 (塞 表紙)左辺には巻号表示があるが、目次・奥付には巻号表示はない。 新版全集第21巻には、 1960年発行の『傑作小説』臨時増刊に掲載と推定し、初出本文を底本として 収録したが、このたび初出誌の書誌的事項を確認した。
作者の意図 劇団テアトル・エコー(渋谷区原宿三の二九〇)発行公演パンフレット『新ハムレット 劇団テア トル・エコー第19回公演』 (1960年11月30日〔推定〕)の16貢に掲載。編集は第19回公演・新ハムレッ ト宣伝部、編集責任者は市村昌治O ママ 井伏文は38字×29行。 「太宰君はどんな意図で「新ハムレット」を書いたらうか。いつかこのこと ママ について、太宰は新しい一つの性格を創造するつもりであったらうと云ふ人がゐたO」と始まり、 「昭 和十六年八月二目投函」の太宰書簡を引札「新ハムレット」は、 「一つの新しい性格が今にも創造さ れかけてゐるやうな作品だと思ふ。」と終わる。なお、引用の太宰書簡は『太宰治全集』第11巻(筑 摩書房、 1991年3月20日)に書簡番号420として掲載されている。同太宰書簡は、多少部分は異なるが、 井伏書評「太宰治著 新ハムレット」 (『都新聞』 1941年8月18日)にも引用されている。 奥付には「●編集第十九回公演・新ハムレット宣伝部●発行劇団テアトル・エコー●事務所渋谷区 原宿三の二九〇」とある。公演期日については、扉に「1960年11月30日(水) -12月4日(日)毎夕6 時開演・土E]マチネー/於 有楽町・第一生命ホール」とあるO 発行日は初演日付によった。 太宰治原作「新ハムレット」は、このとき、脚色・西島大、演出・栗山昌良で上演C その後の再録はなく、新版全集にも未収録。 〔『八丈実記』推薦文〕 緑地社(東京都新宿区神楽坂-ノ一四)発行『八丈実記』全七巻内容見本(1964年10月〔推定〕) の「御推薦文」の欄に掲載O 井伏文は29字×6行。 「約三十年前、私は伊馬春部氏を介して折口信夫氏から筆録本の「八丈実記」 を借覧した。つい面白さのあまり、青ヶ島(八丈島の属島)に関する記録を抜粋してダイジェスト貨 を書き、 「青ヶ島大概記」と名づけて雑誌に載せた。」と始まる。 両面印刷1枚ものを片観音折りO 「御推薦文」として一括し、それぞれの推薦文の冒頭に氏名に括 弧書きで肩書きを附したものを見出とし、個別の標題はない。 「御推薦文」には、井伏のほか、小林 秀雄、山本健吉などが寄稿している。 『八丈実記』ノ第1回配本第1巻は1964年11月25日発行。実見した内容見本には、第1巻、第4巻を既刊 として掲げ、第2巻を第3回配本とし、 「全六巻 本文完結 定価二万一千円/第七巻(四十八年刊行 予定)予価三千五百円」と記したゴム印が押されている。ちなみに第2回配本第4巻は1966年7月20日 初版(1975年8月25日発行「二版」の奥付によるoあるいは、与れは初版印刷日付を指すかo神奈川 近代文学館資料検索では1966年7月25日発行)。第3回配本第2巻は1969年3月25日初版発行である (1975年9月25日発行「二版」の奥付による。ここには「初版」ではなく「初版発行」と表示)。また、 第6回配本第6巻は1972年3月31日発行O これらから推すと、実見した内容見本は第2回配本第4巻発行 .の1966年7月25日から第3回配本第2巻発行の1969年3月25日までの間に印刷され、ゴム印は本文(第1 巻∼第6巻)完結の1972年3月31日以降に押されたものと推定されるo なお、最終第7回配本第7巻奥付 に記された発行日は1976年10月30日O ここに収録された井伏文中に「青ヶ島大概記」 (『中央公論』 1934年3月1日)のことが「約三十年 前」とある。また、 『八丈実記』.第1巻末尾「緑地社 小林秀雄」名義「あとがき」 (525頁に該当、ノ ンブルなし)冒頭に「本書の企画から第-巻刊行に至るまでまる二年を要し、その間予約募集もいた しましたので早々とお申込みを頂いた方々には申訳ありませんでした。」とあり、 「さらに本書の刊行 に当って進んで推薦の辞をおよせ下さった小林秀雄・伊木寿- ・井伏鱒二・山本健吉・和歌森太郎・ 池田弥三郎・有賀喜左衛門の諸先生にも遅延のおわびとお礼を申し上げたいと思います。」との一文 もある。これらからすると、本書企画に近い時点で井伏推薦文が執筆され、実見したものとは別の内 容見本が作成されていた可能性が高い。しかし、現時点では、その時期は確定しがたい。ここでは便 宜的に、第1回配本の1箇月前に発行されたものとしておく。
http://www. asahトnet. or. jp/ dnk8k-thm/kobayashi. html掲載の「小林秀雄著作目録」 (2001年12 月30日確認)では1964年11月のところに「推薦文『八丈実記』内容見本」として掲出。
なお、兵庫県立図書館蔵『八丈実記』・第2巻に図書館収蔵時に綴じ込まれたと思われる『あLしたば il,鵠習晶左』 6貢掲載の「緑地社より」 (日付は一九六八・四)には、 「●佐々木次郎太夫.肖像井伝は青 ヶ島在住の小林亥-氏の模写されたものを同氏井に井伏鱒二先生のご好意により掲載させていただき