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教育的シニシズム状況における学級の人間関係と秩序維持-スクールカースト現象と生徒指導実践を手がかりに-

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Academic year: 2021

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*  鹿児島大学(Kagoshima University) 

** 京都大学大学院人間・環境学研究科学生,天理大学ほか非常勤講師(Doctoral program student of the Graduate school of Human and Enviromental Studies, Kyoto University, Part-time lecturer of Tenri University)

兵庫教育大学 教育実践学論集 第22号 2021年 3 月 pp.39−49 序 章  これまで1970年代後半以降における子どもの変化と その問題については,学校の教育実践や社会学の研究に おいて明らかにされてきた。例えば,「島宇宙化」(宮台, 1994)(1),「オレ様化する子どもたち」(諏訪, 2005)(2),「友 だち地獄」(土井, 2008)(3),「友だち幻想」(菅野, 2008)(4) 「キャラ化する/される子どもたち」(土井, 2009)(5),「教 室内(スクール)カースト」(鈴木, 2012)(6)などを上げる ことができる。  「島宇宙化」とは,社会学者の宮台真司が1990年代半ば の学校現場のクラスの状況を指して言った言葉である。 クラスが一つのまとまりとして成立せず,数人程度の小 さな(同一趣味)グループの内部で人間関係が完結して しまい,クラス全体の一体性や一体感が生まれにくくなっ ている状況である。そしてそれぞれのグループが相互の 交通手段を欠いて孤立したままクラスという大海に離れ 小島のごとく点在しているのである。学級の人間関係が, 共同体的な「世間」意識から不透明な小集団の内輪へと 変転していることを指摘した。  「オレ様化する子どもたち」は,プロ教師の会を主催す る元高校教師諏訪哲二が,1980年代以降の子どもを表現 したものである。諏訪によれば,80 年代から日本は高度 消費社会に突入するのであるが,この「消費者意識」を 至上とする子どもたちが,学校教育の全般において教師 に「等価交換」(商取引の論理)を求めるのである。それは, 権威主義的な教師生徒関係のみならず,学校教育の拠っ て立つ近代的規範意識が解体する事態である。  社会学者の土井隆義は,2000年代以降の子どもたちの 人間関係を「優しい関係」と表現する。それは,対立の 回避を最優先にする若者たちの人間関係のことであり, 他人と積極的に関わることで自分が傷つけられてしまう かもしれないことを危惧する「優しさ」の表れである。 さらに彼らは,ひたすら周囲の空気を読み,自らを「キャ ラ化」することで,この予定調和の「優しい関係」を保 持し続けるのだと言う。彼らが拠っているのは80年代以 前の業績主義的な客観的な属性ではなく,同質的なつな がりで形成された主観的な基準(身体的・生理的な「い い感じ」)である。また,このような「優しい関係」は, 社会学者の菅野仁に言わせれば「友だち幻想」であろう。 彼は,他者との距離感の取り方を「フィーリング共有関係」 と「ルール関係」の2つに大別し,共同体的なつながりが 薄い現在においては前者よりも後者を打ち立てることが

教育的シニシズム状況における学級の人間関係と秩序維持

−スクールカースト現象と生徒指導実践を手がかりに−

平 野 拓 朗*,佐 川 宏 迪**

(令和2年7月2日受付,令和2年12月23日受理)

Class relationships and order maintenance in educational cynicism situations

Using the school hierarchy phenomenon and student guidance practice as a clue

HIRANO Takuro*,SAGAWA Hiromichi**

The paper overviewed the educational phenomenon of Japan since the latter half of the 1970s by characterizing it as educational cynicism situation. Moreover, the purpose of this study is to sketch what the educational cynicism situation has been and what kind of isuues have arisen since the 2000s.

Especially, the paper examined the transition of class relationships and student teaching practice based on the concept of ironical immersion by the sociologist, Masachi Osawa. As a result, it was pointed out that the school hierarchy was maintained through the accomplices of teachers and students, and that there was a twist between consciousness and action in its background. In addition, it was apparent from student guidance practice that teachers were not only passive about their own authority but also were capable of

active recovery, and that consequently established complicity among teachers, students, and parents.

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必要であると主張する。「フィーリング共有関係」とは, 共同体的なつながりが強いとき(ムラでの共同的生活など) の関係が前提としてある関係である。他方「ルール関係」 とは,他者と共存していくときに,お互いに最低限守ら なければならないルールを基本として成立する関係である。  そして2000年代以降の学級の人間関係としてしばしば 話題に上がるのが「スクールカースト」(現象)である。 教育社会学者の鈴木翔によれば,それは学級のクラスメ イトそれぞれが「ランク」付けされている状況を表して おり,そのグループ間で生じた格差が,身分差の固定す るカースト制に似ているところから呼ばれるようになっ た言葉である。もちろん学級内の序列・格差は従来から 見られる現象であるが,2000年代の現象として着目され るのは,そこでは「優しい関係」や「キャラ化」とも同様に, 業績主義的な価値よりも(場の空気を読む)コミュニケー ション能力が過大評価されていることである。言い換え ると,このスクールカーストの問題とは,学級の人間関 係が社会の客観的な基準ではなく,学級内の場当たり的 で自足的な基準のもとに確立していること,そしてそれ が内部の人間関係を序列化,差別化するよう機能するこ とである。  ここで重要であるのは「スクールカースト」が「島宇宙化」 と似て非なるものだということである。なぜならば「島 宇宙化」は,グループ同士の干渉がないために,それぞ れの力関係が等価であることをその特徴としていたのに 対して,「スクールカースト」はむしろその力関係の格差 をこそ特徴としているからである。つまり,1970年代後 半以降,共同体的な規範意識の解体と相俟って進行する 学級の人間関係の変化において,2000年代に入りむしろ 「カースト」という形で(序列的な)規範意識が求められ ているということである。  本論では,以上の1970年代後半以降における教育現象 を「教育的シニシズム状況」として特徴付け,概観する。 とりわけ,(1995年から)2000年代以降における「教育的 シニシズム状況」の動向がどのようなものであり,また 学校教育において,いかなる問題を抱えているのかを明 らかにすることを目的とする。言い換えるとそれは,何故, どのように学校教育において,教師―生徒が(自足的な) 規範意識を確立しようとするのかに答えることである。 故に本論で取り上げる「スクールカースト」(現象)とは, 2000年代以降において注目される現象のことであり,コ ミュニケーション能力を中心に序列化・差別化される学 級内の自足的な規範意識のことである。また,本論で扱 う「教育的シニシズム状況」とは,特定の学校教育や段階, 学校種を対象とするものではなく,日本社会との関連に おいて現れる動向を示すものである。  具体的には,まずスクールカーストを課題とする学級 の人間関係を取り上げ,2000年代以降における教師生徒 関係の変化を指摘する。次に,近年の生徒指導論の動向 を概観的に論じることで,教師のポジショニングの変化 を明らかにする。本論の試みは,学級におけるスクール カーストの問題を解決する具体策を提示するものでも, 生徒指導の有効な戦略やテクニックを示すものでもない。 そうではなく,現在の学校教育が抱える問題について, それを生み出す社会の変化がどのようであり,またその 変化を教師と生徒がどのような問題として経験している のかを問うことを目指すものである。それは,船越(2014) が学級の問題として,いじめや暴力の原因を探る際にそ れを「社会的な変化のなかで,子どもの育ちのプロセス そのものの変化のなかに求められなければならない」(7) 述べた通り,問題の解決策は,その問題が埋め込まれて いる状況の吟味を欠いてはあり得ないと考えるからである。  以下,本論第1・2章スクールカーストを課題とする学 級の人間関係についてでは,社会学者大澤真幸の「アイ ロニカルな没入」のアイディアを基軸に,2000年代以降 における日本社会の変化とその具体的現れである学級に おけるスクールカーストとの関連性を明らかにする。と りわけ,教師生徒による秩序維持の変化に注目する。大 澤(2008)は,「アイロニカルな没入」を「意識と(客観 的な)行動との間の,独特の逆立の関係」(8)と定義する。 それは,戦後精神史において95年頃を境に迎えた特異な 時代区分(9)であり,意識のレベルでは,対象に対してア イロニカルな距離を取っている(「ほんとうは信じていな い」と思っている)が,行動から判断すれば,その対象 に没入しているに等しい状態にある(実際には信じている) という事態(10)である。この「アイロニカルな没入」下に おける学級の秩序維持の一形態としてスクールカースト を捉えることで,例えば諏訪哲二の指摘する高度消費社 会における「オレ様化する子どもたち」(=教師の権威性を 否定し,教師生徒関係を五分五分関係と捉える子どもたち) からの変化(特に,教師生徒関係とそこでの教師のポジショ ニング)を説明することが可能となると考えるのである。  次の第3・4章では,2000年代以降における学級の秩序 維持実践の具体的事例として生徒指導の動向に目を向け る。生徒指導を事例とするのは,教師らが啓蒙的理性の 担い手として振る舞えなくなるなかで,「教師」という役 割やその権力が擬制であることを承知しながらもあえて それを引き受けて居直ろうとする,「教育におけるシニシ ズム」(小玉, 2003)(11)のもとでの秩序維持実践として適切 な事例だと考えられるからである。  議論を先取りすれば,本稿では,学級における秩序維 持に際して教師と生徒(および保護者)の「共犯関係」 が重要な要素になっていることが示される。この点は, あらかじめ強調しておきたい。  本論は,学級の人間関係と生徒指導の問題に関して, これまで注目されてこなかった次の二つの点にアプロー

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チすることに意義があるといえる。それは一つに,1970 年代以降の「教育的シニシズム状況」について,そのさ らなる変化(2000年代以降の変化)に注目することである。 そして二つに,2000年代以降の変化を問うことで,学級 における教師生徒関係,および生徒指導における教師の ポジショニングの問題を明らかにすることである。 第1章 戦後日本における学級の変遷 第1節 「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」  第1章では,「教育的シニシズム状況」下における学級 の変化について明らかにする。特に教師生徒による秩序 維持の変化に着目する。本章ではこの変化を社会学者大 澤真幸の「アイロニカルな没入」の概念を中心に論じる。  大澤(2008)(12)は,戦後日本社会を見田宗介(2006)(13) の3つの区分「理想の時代」(1945∼60年),「夢の時代」 (1960∼75年),「虚構の時代」(1975∼90年)のテーゼを継 承する形で,(特に1995年の変化を含めて)「理想の時代」 (1945∼70年),「虚構の時代」(1970∼95年),「不可能性の 時代」(1995年∼)の時代区分を提示している。ここで理 想とは,「未来において現実へと着床することが予期され ている反現実」(14)であり,具体的には「(日本人が想定し た)アメリカの視点にとって,肯定的なものとして現れる, 社会や個人の状態のこと」(15)である。次に虚構とは,「そ れがやがて現実化するかどうかに不関与な反現実」(16) ある。言い換えると,「現実を秩序づける反秩序の中心的 なモードが虚構であるような時代が到来」 (17)したという ことであり,「現実すらも,言語や記号によって枠づけられ, 構造化されている一種の虚構と見なし,数ある虚構の中 で相対化してしまう態度」 (18)が求められたということで ある。そして不可能性とは,「現代の現実を秩序づけてい る反現実は,直接には見えていない」(19)ことを示しており, 虚構の時代の後に,現実を秩序づける準拠点となってい るのが,認識と実践から逃れゆく「不可能なもの」である (20) ことを意味している。つまり,虚構化する現実時代が「不 可能なもの」であるような状況,「たとえば,ある条件の 下では赤く見え,別の条件の下では青く見える対象があっ たとして,その対象の,それ自体としての色ということ を言うことはできない」(21)ような事態である。  以上の大澤による3つの時代区分を参考に,戦後日本の 教育実践を次のように把握することができる(田中, 2017 を参照)。まず「理想の時代」を代表する教育実践とし て,生活綴方的教育方法における「仲間づくり」と生活 指導による「学級集団づくり」を上げることができる。 前者の「情緒的許容」の雰囲気をつくることを前提とし た話し合いと後者の「集団の力」の自覚化とそれによる 民主的な人格の形成とは目指すべき方向が異なるにして も両者に共通するのは「理想」が共有されているという ことである(前者においては仲間意識の確立,後者では 生徒自治集団の確立)。カリキュラム実践においては,「問 題解決学習」と(もう一つの)「現代化」を上げることが できる(前者は子どもの生活経験に,後者は教科の体系 に理想を見たと言える)。次に「虚構の時代」に当たるの は,「学級集団づくり」への批判や見直し,そして「現代 化」の問い直しを迫る「落ちこぼれ・落ちこぼし」や「病 める学力」問題が浮上する1970年代後半である。これ以 降,戦後日本の教育実践は,絶対的に信じるに足る根拠 図 1 戦後日本の学級の人間関係における秩序維持の変遷

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を喪失し,理念や目的よりも方法・手段ばかりが問われ る方向へと進行したと言える(注1)。言わば,絶対化された 教育が終焉し,相対化された教育の世界へと参入するの である。カリキュラム実践においては,以後「人間性重視」 と「ゆとり」の標語のもと,新しい学力(従来型の学力 観の相対化)が模索されていくことになるが,学級の人 間関係で言うならば,これまでの権威主義的な教師生徒 の規範的関係を解体する「オレ様化」や「島宇宙化」が 生じたと言える。そして「不可能性の時代」に当たるの が「スクールカースト」である。ここでは,情緒的な仲 間意識が信じられないまま表面的な序列関係を維持する ためにのみ自足的な規範意識(それ故「理想の時代」に おける規範的関係の復活ではない)が形成されるのである。  上記の戦後日本の教育実践の変遷は,次の四象限で整 理することができる。各象限は「理想」「虚構」「不可能性」 の時代区分を表し,各時代区分の括弧内は学級内の秩序 をどのように維持するのかという,秩序維持に対する教 育的態度を表している。  図1における縦軸は日本社会および学級が向かうべき方 向性であり,それが絶対化なのか相対化なのかを示して いる。絶対化とは向かうべき方向性(理想)が定まって いる状態である。対して相対化とは向かうべき方向性(理 想)が共同体内で共有されていない状態である。あるいは, 共有されているとしてもそれはいくつかあるうちの一つ として選択されているに過ぎない状態,言わば対象から 距離を取った冷めた感じである。横軸は教師生徒関係を 示している。上記の戦後日本の教育実践史を踏まえるな らば,それを情緒的関係か規範的関係かの二つに大別す ることが可能である。例えば,学級内の人間関係のモデ ルが1955年頃を境に生活綴方教育方法における「仲間づ くり」から生活指導における「学級集団づくり」へと移 行し,1975年頃からその「学級集団づくり」への相対化, 乃至批判が展開されたように,である。  本論では,図1における左下に向かう矢印(1975年)以 降の学級の人間関係の変化を中心に論じる。そしてその 中でも特に(1995年から)2000年辺りにおける「アイロ ニズム」から「アイロニカルな没入」への変化に着目する。 第2節 教育的シニシズム状況  図1の四象限において,1975年以降の相対化された時 代を本論では「教育的シニシズム状況」と呼ぶ。それは 高橋(1997)(23)が森田洋司による「プライバタイゼーショ ン」(私化,私事化)のアイディアを踏まえて論じた「第 二次私事化」(1970年代中頃∼1990年代中頃)における学 級の状態に当たる。森田(1991)(24)は戦後日本における「プ ライバタイゼーション」の進行を二段階に分けて考える。 第一次私事化(1950年代中頃∼1970年代中頃)とは,「個 人を直接全体社会や地域社会へと接合する献身価値の回 路の衰退と,中間集団を媒介集団として全体社会や地域 社会へと貢献する回路の衰退によって,個人と中間集団 との関係だけに献身価値が一元化した」現象(図1におけ る左向きの矢印)である。ここでは,国家へのコミット メントが低下し,かえって学校・学級という中間集団へ のコミットメントは強まったのである。高橋(1997)に よれば,全生研の「学級集団づくり」が盛り上がりを見 せたのも,こうした社会的・文化的な状況を背景として いたのである(25)。しかし本論が着目する第二次私事化に おいては,「プライバタイゼーション」のさらなる進行によっ て,学校や職場などの身近な中間集団への貢献価値も弱 まることとなったのである(図1における下向きの矢印以 降)。ここでは,もはや個人と社会の予定調和的楽観論は 完全に否定されるのである。  またそれは,科学や学級の人間関係,学校それ自体が 孕む権力性が暴露され,教育を肯定する,あるいは教育 の正当性を保証する絶対的な根拠が失われた時期でもあ る。一方で教科の高度化に伴う「落ちこぼれ・落ちこぼし」 が問題となり,他方で学級集団による「相互監視・閉塞 感」が指摘されるなか,階層の再生産装置としての学校 が私的で市場的主体を根拠とする「プラバタイゼーション」 の進行を止める術など持ち合わせていないのである。 こうして教育においては,教育目的や理念をそっちのけ にして,ひたすら手段・方法の効率や有効性のみが追求 されるような事態,つまり「教育的シニシズム状況」を 向かえることとなる(田代, 2003(26); 小玉, 2003(27); 広田, 2009(28)を参照)。この「教育的シニシズム状況」下にお いては「教育の目的」とは切り離されたところで,目先 の現実的効用の追求や達成のみが,教師たちの目標になっ てしまうのである。小玉(2003)は,それを次のように 説明している。  これが教育においてどういう問題を生じさせるか というと,教師が社会や子ども,あるいは親に対して, 啓蒙的理性の担い手として振る舞うということが難 しくなってくる,できなくなってくるということで ある。しかし,それにもかかわらず教師は教師であ る以上,何らかのかたちで教師である自分を教師と して維持することを迫られる。そこでひとつの姿勢 として出てくるのが,「教師」という役割やその権力 が擬制,すなわちフィクションあるいは虚偽である ことを承知しつつも,その擬制をあえて引き受け, そこにある意味で居直ろうとする態度である。これが, 教育におけるシニシズムである(29)  そもそもシニシズムとは,スローターダイク(1996)(30) によれば,嘘と迷妄とイデオロギーの次に位置する四つ の虚偽意識の一つである。ここで教育において重要であ

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るのは,嘘と迷妄とイデオロギーの三つの虚偽意識に対 しては啓蒙の戦略が通じるが,シニシズムについてはそ れが通用しないということである。シニカルな主体は, イデオロギーの仮面と社会的現実との間の距離を認識し ている(=規範的関係を相対化している)。にもかかわらず, 仮面(=規範的関係)に執着するのである。このようなシ ニシズムの態度を,大澤(1998)は「そんなこと嘘だとわかっ ているけれども,わざとそうしているんだよ」(31)と説明 している。 第2章 スクールカーストを課題とする学級の人間関係 第1節 「オレ様化する子どもたち」からの変化  以上の教育的シニシズム状況の時代を教育実践の文脈 において論じたものとして,諏訪哲二(2005)(32)の『オ レ様化する子どもたち』を上げることができる。諏訪は, 80年代において子どもが変わったと言う。日本が80年代 に完全な「消費社会的」段階(高度消費社会)になり,「自 己」(の主観)そのものの確かさに回帰しはじめたからで ある。それは,戦後民主主義の夢想した世の中をよくし ていく社会(政治)的な主体ではなく,どんどんバラバ ラの経済的な(私的)主体である。そのような消費社会 的主体である子どもたちにとって「教師のもつあらかじ めの指導性(権威)は,子ども(生徒)の内部で否定さ れることになり,教師と生徒は『建前』上の上下性を消 失して,対等な『等価関係』になった」(諏訪, 2012, p.89)(33) と言う。そしてこのような状況下においては,教師は生 徒たちに「真実」ではなく「建前」を教えよ,と主張する。  〈人格の完成〉とか人間的成長とか,人間性の向上 とかは,子ども(生徒)が学校で勉強し,自己を形 成していくうえで,超越項として必要である。人間 的成長とは自己が普遍的な人間の生き方を求めて変 革されることであり,それは「人間は超越的かつ普 遍的な価値を求めて生きなければならない」という ような倫理観を持っていなければ出てこない考えで ある。これが現在の教育の場では欠落しており,教 師たちの困難の大きな原因である(34)  つまり諏訪は,教育的シニシズム状況(=相対化された 教育の世界)下において,(かつて絶対化されていた)近 代的規範意識を演じて見せよ,と言うのである。「建前」 は近代的規範意識であり「真実」ではない。つまり,「真 実」ではないことを知りつつも教師が教師として振舞う ために敢えて「建前」を利用するということである。確 かにそれは「教育的シニシズム状況」を引き受けて尚も 教師であるための最善の道のように思える。しかしそれ は教師が教師であるための態度ではあるが,同様にシニ カルな子どもに対して教育的態度になり得るであろうか。 これは非常に難しいように思える。なぜなら否定される 前の「建前」を知っている教師と「建前」が否定された 後の「真実」しか知らない子どもたちとの隔たりは年を 経る毎に広がらざるを得ないからである。現に諏訪自身, 90年代にK女子高(最後の勤務校)の生徒たちに「みな さんが勉強することはみなさんのためになると同時に, 社会のためにもなるんですよね」と(「建前」を)語った ところ,誰も顔を上げて自分の顔を見ようとしなかった ことに一人赤面したというエピソードを語っている(35)  このような教師と生徒の間 ,言い換えると教師のシ ニカルな態度が通用しなくなる程子どものシニシズムが 進行している事態に,諏訪の言う消費社会的主体からの 図 2 (95 年から)2000 年頃を境とする学級における秩序維持の変化

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変化を読み取れるのではないだろうか。それは例えば, スクールカースト現象に,である。なぜならスクールカー ストに従属する子どもたちは,自分たちのご都合主義的 な「真実」を主張する消費社会的主体とは相容れないよ うに思えるからである。堀裕嗣(2015)(36)は,著書『スクー ルカースト–––キレイゴト抜きのいじめ対応』において, 諏訪の子ども認識が古いと言う。  80年代の生徒たちは確かに当時の教師たちを驚愕 させるに足る変化を示しただろうと思う。しかし, 90年代から2000年代にかけて,生徒たちは80年代を 凌駕する変化を示したのだというのが僕の実感であ る。そしてそこには,諏訪哲二の言うような市場の 論理が生徒たちを主体としたというだけでは説明し きれない時代背景がある(37)  その時代背景とは,景気回復幻想も消えた2000年代に おいて日本社会に蔓延する「自己責任圧力」である。そ してそれがスクールカースト現象,とりわけその固定性 と深い親和性があると言う。堀は,学校教育において生 徒たちに「建前」は通じなくなったが,しかし,生徒た ちはかつての生徒たち以上に(自己責任の名の下に)「建前」 に搾取され,凌辱され,精神を絡め取られている(p.141 を参照)(38)と言うのである。つまり,「自己責任圧力」の 増大によって,「自己責任」を引き受けることのできる上 位層とそのような競争意識から降りようとする下位層の 分離によってカースト化が強固に進行するということである。 第2節 「第三者の審級」の不在  堀の言う「自己責任圧力」による子どもの変化を,学 級の人間関係の文脈で読み解くとどのような変化と言え るであろうか。このような問いは,子どもの変化を見な い諏訪に対して,教師と生徒にある距離の(学級における) 意味を示すことになる。また,同時に教師の変化を見な い堀に対して,現在の教師が被る教育的シニシズム状況 の困難を問うことになると言える。先に諏訪が問題とし たこととは,大澤(2008)の用語を用いるならば,それ は学級において「第三者の審級」が否定されている状態 である。「第三者の審級」とは「規範の妥当性を保証する, 神的,あるいは父的な超越的他者」(39)のことである。つ まり,近代的規範意識としての「建前」である。ここに おいては「第三者の審級」を否定し,そこから距離を取 る「アイロニズム」の態度が見られる。重要であるのは, この時点においては「第三者の審級」が否定されるが故に, それが意識されているということである。しかし,堀が 問題にしているのは「第三者の審級」が不在であるとい うことである。堀の言う「建前」とは諏訪の言う消費社 会的主体がその成れの果てとして身につけた「真実」だ からである。それは,近代的規範意識とは似て非なるも のである。大澤は,1995年以降に彼が見る「不可能性の 時代」を次のように説明している。  このことは,言い換えれば,われわれが,普遍的 な真理や正義を知っているはずの理念的な他者(第 三者の審級)が,未来に,歴史の先に待っている, と想定することが困難になっている,ということを 含意する。つまり,われわれは,今や,第三者の審 級の意志がわからないだけではない。そもそも,第 三者の審級が存在していないかもしれない,との懐 疑を払拭することができないのだ(40)  それは対象からクールに距離を取る「アイロニズム」 ではなく「アイロニカルな没入」(大澤, 1998(41); 2008(42) という事態である。大澤(2008)は,この概念を「意識と(客 観的な)行動との間の,独特の逆立の関係」(43)と定義す る。それは,戦後精神史において95年を境に迎えた特異 な時代を表す区分(44)であり,意識のレベルでは,対象に 対してアイロニカルな距離を取っている(「ほんとうは信 じてはいない」と思っている)が,行動から判断すれば, その対象に没入しているに等しい状態にある(実際には 信じている)という事態である(45)。このことは,意識の レベルでは不快な関係として認識しているスクールカー ストが,行動の上では積極的に維持しようとしていると しか思えない状態に現れていると言える。例えば,スクー ルカーストにおける「コミュニケーション能力」とは, 消費社会的主体の言う主張とは大きく異なる。それは〈空 気〉に乗ることが前提とされ,そこからの逸脱は決して 許されない,そしてそれこそが生徒たちにとっては最も 大切な〈同調力〉なのである(堀, 2015, p.36を参照)(46) このことは,鈴木(2012)の次のようなインタビューに も表れている。 アオイ:教室は,気合い….うーん,やっぱやる気かな。 (中略)そういう子たちは,みんなにやる気を求めるん だけど,求めるくせに誰かがすごい出しゃばると「お まえ調子のってんだろ」みたいな。結局,自分らが一 番でいたいみたいな。やっぱそういう子たちが,まわ りに「やる気を出せ」って言うのは,「自分を超えない 程度に,自分を立てながらその範囲の中でやる気を出せ」 みたいな意味だと思う。自分には従うけど,普通はや る気を出せって感じだと思う。だから何ていうんだろ, なんかとりあえず,自分に従って盛り上がれみたいな 感じだと思う。 鈴木:難しいね。 アオイ:ある意味まあ,いいとこ取りだよね。なんか, だからそういう子はまわりに,従いながら盛り上がっ

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てほしいんだよね。自分のまったく権力のはたらかな いところで調子に乗られると「あいつ調子のってんね」 とか言ってくる。(47)  以上の「第三者の審級」に関する教師生徒による秩序 維持の相違は,次のようにまとめることができる(図2)。 左は,高度消費社会における「第三者の審級」の否定で ある。その態度とは,「アイロニズム」であり,彼らが重 用するのが商取引における等価交換である。ここでの教 師生徒関係は共同体的上下関係を体現する教師とそれを 否定する生徒との競合関係と言える。対して右は,自己 責任社会における「第三者の審級」の不在を示している。 その態度とは,「アイロニカルな没入」であり,そこで求 められるのは同調を伴うコミュニケーション能力である。 そしてここで見られる教師生徒による秩序維持とは,「第 三者の審級」の不在に対する不安の現れであり,意識の レベルでは不快なものを行動の次元で積極的に維持する 関係である。つまり,教師-生徒はスクールカーストに教 育理念としての正当性を見ていない,にもかかわらず彼 (女)らはそれを積極的に保持するのである。それは,学 級内部でのみ通用する自足的な(擬制)の規範にせよ, それに則ることでのみ教師・生徒で有り続けることがで きることを知っているからである。  鈴木は,スクールカーストの調査において教師と生徒 が共犯的にスクールカーストを維持していることを見出 している。生徒が「権利の多さ」を軸とする,「権力」構 造としてスクールカーストを解釈しているのに対して, 教師は「能力の高さ」を軸とする「能力」のヒエラルキー だと解釈しているのである(48)。つまり,「アイロニカル な没入」状態にある教師と生徒の共犯関係によってスクー ルカーストが維持されているのである。 第3章 教育的シニシズム状況における生徒指導  前章までの議論をふまえ,以下では2000年代以降の教 育的シニシズム状況のなかで,どのように学級の秩序維 持がなされているかを検討する。その際,事例として取 りあげるのは生徒指導場面である。小玉(2003)(49)によ れば「教育におけるシニシズム」状況の特徴は,教師ら が「教師」としての役割や権力が擬制であることを承知 しながら,あえてそれらを引き受けて居直ろうとする点 に見出される。そこで以下では,生徒指導の傾向として 便宜的に,教師役割に「消極的に居直るあり方」と「積 極的に居直るあり方」の2つにタイプ分けする。前者は, 教師役割の擬制性に気づいているからこそ教師役割から の可能な限りの撤退をするタイプである。一方の後者は, 教師役割の擬制性に気づきながらもなお教師役割に則っ て振る舞うタイプである。  本章では,それぞれの生徒指導のタイプがいかなる特 徴をもつのかを,二次分析のかたちで検討する。議論を 先取りすれば,教育的シニシズム状況を象徴する傾向と してとらえうるのは後者の「積極的に居直るあり方」で ある。したがって,検討の重点は後者に置かれることと なる。なお本章では,生徒指導実践がいかにして可能に なっていたのかといった要因を分析することを主眼とし ていない。そうではなく,教育的シニシズム状況を具体 的にどのような教育実践場面に見出せるか,またそれが どのように成立しているといえるのかを検討することを 目指す。  具体的な分析に入る前に,本章でいう「生徒指導」を どのようにとらえているのかを示しておきたい。文部科 学省は生徒指導について,「教育課程の内外において一人 一人の児童生徒の健全な成長を促し,児童生徒自ら現在 及び将来における自己実現を図っていくための自己指導 能力の育成を目指す」実践であり,そこでの「自己実現」 を「単に自分の欲求や要求を実現することにとどまらず, 集団や社会の一員として認められていくことを前提とし た概念」(文部科学省, 2010)(50)ととらえている。したがっ て,「生徒指導」という実践は生徒に社会規範を内面化さ せ自律を促す働きかけを含むものと把握することができ る。この点をふまえ,本章では「生徒指導」を生徒の行 為を抑制したり促進したりする(端的にいえば「統制する」) 実践として把握する。 第1節 「消極的に」教師役割に居直るあり方  まず,以下で提示するのは「消極的に」教師役割に居 直る生徒指導のあり方である。このタイプを検討するこ とは本章の主眼ではないが,「積極的に居直るあり方」と は何かを示すための比較対象として分析する。  事例として取り上げるのは「コンサマトリー化」状況 下の生徒指導として把握される実践である。コンサマト リー化とは,1990年代以降に見られるようになった「現 在志向(コンサマトリー)の強い『心地よい学校(=居場 所)』に変えていこう」(伊藤, 2002)(51)とする傾向のこと である。伊藤によれば,その具体的な傾向として,染髪 など従来は逸脱とされていた行為を「個性」や「選択肢」 として許容するといったことが挙げられる(注1) 以上をふまえ,まず取りあげたいのは「教育困難校」で ある東京近郊の公立全日制普通科高校で2000年代半ばに 行ったフィールドワークによって「コンサマトリー化」 状況下の生徒指導実践の内実を明らかにした吉田(2007)(52) である。  吉田は「コンサマトリー化」した学校において「秩序 維持についてはどのように解決されているのだろうか」(53) と問題を設定し検討している。吉田によれば,調査校で は欠課時間の5分カウント制など,生徒があらかじめ守る べき規準が「外部化」(54)され,教員は「生徒との間に存

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在する権力関係を隠 し,規準の設定に関わる者として の責任を回避しつつ,生徒が規準をクリアできるよう支 援する者として優しくソフトにふるま」(55)っていた。  吉田は,こうした指導がとられる背景にアカウンタビ リティの問題があると指摘する。吉田によれば,調査校 がある東京近郊は地方よりも学校や教員の権威が低下し ており,公務員に対してアカウンタビリティを求める意 識が高い。逸脱行為に対して行う特別指導の内容や進級 に関わる判断に対して保護者からのクレームが生じうる 状況のもとで,教員は「ぶつからず」また「説明しやすい」(56) 欠課時数を媒介にして生徒や保護者と関わる。吉田は, 上記のシステムを,「社会と学校との関係が変化しつつあ る中で(中略)学校という制度的空間を維持するために 編み出された,新しい教員文化」(57)として把握している。  他方で,コンサマトリーな指導を生徒の出身階層との 関係で考察した伊佐(2010)(58)の研究がある。伊佐は, 2000年代後半から2010年にかけて調査を行い,ある地域 の北部と南部にそれぞれ位置する,北中と南中の指導の 在り方に着目した。伊佐は,北中をミドルクラス出身者 が多い学校,南中をワーキングクラス出身者が多い学校 ととらえ分析している。伊佐によれば,「北中のような学 校では『コンサマトリー化』が進行しつつあ」(59)る。注 目したいのは,北中でコンサマトリー化を促進させる要 因として,「教師が生徒の文化に歩み寄る形で『現場の教 授学』を構築」(60)していたことが指摘されていることである。  北中に勤務する教師は,生徒の特徴として「丁寧やね んけどちょっと人間として冷たい」(61)とか「結構自分を 守る(中略)悪いことをしたら普通謝るんだけれども, まずその防御に入るというね。(中略)言い訳やね。自分 はほんとは悪くないんやと。」(62)ということを挙げる。伊 佐は,北中の教師―生徒関係について「『子どもが何を考 えているのかわからない』なかで(中略)少し距離を置 いた関係をとらざるを得ないといった状況がある」(63) 指摘している。  また,北中の教師らは保護者からのアカウンタビリティ の要請の強さを背景に生徒への厳しい統制を避けて「生 徒に歩み寄らざるを得ない」(64)。生徒を統制する際にも, 「お願い」という表現を用いるなどして強制を避け,「教 師の側からの命令的コントロールを極力避けようとする 意図もうかがえる」(65)という。  ここまで,コンサマトリー化として把握される(生徒 指導実践の)傾向とはいかなるものであるのかを概観し てきた。ここではコンサマトリー化のポイントとして, 統制をめぐる教師らの振る舞いに注目したい。すなわち, 統制に用いる規準をあらかじめ明示し「ぶつからない」 しくみを構築したり,強制しないといった態度を選択す ることである。こうした教師らの振る舞いは,統制の緩 和という面で「教師」の役割を縮小しつつも,あくまで「教 師」という役割を引き受けているといえる。その意味で「教 育的シニシズム状況」下の生徒指導の姿勢の一つのあり 方として把握できるだろう。ひとまず,こうした姿勢は「消 極的に」教師役割に居直る姿勢としてとらえうる。 第2節 「積極的に」教師役割に居直るあり方  以上をふまえたうえで,一方の「積極的に」教師役割 に居直る生徒指導に焦点をあてる。その事例として,前 出の伊佐(2010)(66)が北中と対比させている,南中にお ける生徒との関わり方や統制の手法に注目してみたい。  幾度となく「荒れ」を経験してきた南中において,教 師らは「荒れる」原因を説明する枠組みのひとつとして「愛 情の欠如」を用いており,それが「『かまってほしい』子 どもが多い」背景にあると考えている(67)。上記に加え, 「ひとなつっこく,素直」な生徒が多いとされる南中では 「教師と生徒の距離が近く情でつながる関係が求められ」(68) る。具体的な南中の教師―生徒関係の特徴として,伊佐 は教師が「生徒を『お前』と呼ぶこと」(69)や教師が生徒 とコミュニケーションをとる際に「けなす」,「いじる」(70) といった手段をとることを示している。  こうした教師―生徒関係を形成する南中においては, 生徒を統制する方法も北中とは異なる。伊佐いわく,「南 中では,教師が生徒を激しく怒鳴っている場面は度々目 にするもの」であった(71)。南中の指導の姿勢は,ある教 師が新任教師に対して語った内容からもうかがえる。  俺は,子ども泣かしたら勝ちやと思ってんねん。 泣いたら,何か子どもに伝わったときやと思うし, 指導が入るときやと思う。だから,あの手この手で 泣かしたるな。(72)  このように,南中では,情でつながることを基本的な 方針としながら「生徒との衝突も辞さない」(73)かたちで の厳しい統制が行われている。厳しい統制が可能となる 背景には,「うちの子は権力に弱いからな。担任が絶対や ねん」(74)という南中の教師の言葉が示すように,「教師と 生徒の間に力関係が成立すれば,それに従うという(生 徒の)傾向」 (75)があると考えられる。伊佐は,南中の生 徒の傾向について「外部の権威に同調しやすい」(76)とも 述べている。  また,南中では教師らが「保護者に対するアカウンタ ビリティの必要性に追われている様子は,ほとんどみう けられない」(77)ことも,教師らの指導を可能にする背景 として考慮すべきだろう。伊佐によれば南中では,登校 指導の一環として,正門を通って遅刻した生徒のみに腕 立てなどをやらせるといったことが見られた。伊佐は, 教師による「『体罰やろっ !』て言う人もおらへんし,お かあちゃんも喜んでくれてるし。わけわからんわ」(78)

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いう語りを引きながら「生徒からも保護者からも疑問の 声があがらないことが,『おかしさ』として語られながらも, 許容されている」(79)(注2)と述べている。  すなわち,南中の指導の特徴は,教師らが生徒に対し て持つ力関係を自覚したうえで,権力を振るいながら生 徒らを統制する点に見出すことができる。こうした教師 の姿勢は教師役割に「積極的に」居直る姿勢として把握 できるだろう。 第4章 教師役割に「積極的に」居直ることを可能にす る「共犯関係」  ここまで,生徒指導関連論文の二次分析によって,教 育的シニシズム状況下での生徒指導の方向性を提示して きた。ひとつは,「『コンサマトリー化』した生徒指導」 と把握される厳しい統制などを避けるあり方であり,教 師役割に「消極的に」居直る姿勢であった。そして,も う一つはむしろ教師としての権力を利用するかたちで統 制をしていこうとする,「積極的に」居直る姿勢であった。  前者の「コンサマトリー化」した生徒指導は,教育的 シニシズム状況下での指導のあり方として容易に想像し うるものであるだろう。すなわち,教師らは「教師」役 割やその権力が擬制であることを自覚して,強力な統制 から撤退し,客観的な規準をもとに生徒との交渉を進める。  しかしながら,もう一方の,教師役割に「積極的に」 居直る姿勢はどのように考えれば良いだろうか。すでに 確認したように,教師役割に「積極的に」居直る姿勢とは, 教師としての権力を自覚しながらもあえてそれを行使し, 統制していくあり方であった。仮に,小玉(2003)(80)による, 教師らが啓蒙的理性の担い手として振る舞うことができ なくなっているという指摘が妥当であるならば,上記の ような振る舞いは本来不可能である。では,いかにして 可能となっているといえるか。  重要なことは,教師の「積極的」居直りを生徒や保護 者の側が,追認する面があったことであろう。教師らは, 生徒指導実践にあたって,構造的条件として生徒や親の 傾向ないし反応を考慮に入れることになる。たとえば, 伊佐(2010)(81)の論文で登場する南中において,遅刻の ペナルティについて生徒や保護者から異議が出ないこと や「喜んでくれる」ことは,それを追認ないし期待して いるものととらえうる。こうした条件のもとで,教師ら は厳しい統制を可能にしていた側面があったと考えられ ないだろうか。つまり,上記の南中のできごとは,教育 的シニシズム状況において,「アイロニカルな没入」の態 度をとる教師らが教師役割に「積極的に居直る」ことを 生徒および保護者との共同によって達成していた事例と とらえうる。したがって,上記の現象にも第2章末尾で指 摘された,教師―生徒関係と同様の「共犯関係」を見出 すことができるのである。  小玉(2003)は,1960年代末から70年代にかけて各国 で提起された「教師の権力性を批判する議論」や「問い」 を通じて,導かれた「権力のエイジェントとしての教師」 という教師像が,「結果的に,教師が権力存在であること に居直るシニシズムを導いた側面もあったのではないか」(82) と指摘していた。こうした見立ては妥当であろう。だが, 本節の検討からはシニシズム状況を可能にするファクター として,さらに生徒や保護者に目を向ける必要性が示唆 される。すなわち,「教師が権力存在であることに居直る」(83) ことは,生徒や保護者が教師の態度を追認することによっ て,言いかえれば,生徒や保護者との「共犯関係」によっ て成立する面があると考えるべきではないだろうか。  本検討では,二次分析を採用したため,上記2タイプの 実践がどのような効果をもたらしたかなど,実践内容の 評価にまで踏み込んだ議論を展開することはできなかっ た。だが,教育的シニシズム状況が教育現場でどのよう に観察されうるか,その一つの筋道を提示した。この点に, 本検討の意義を見出すことができるだろう。 終 章  本論では,大澤真幸の「アイロニカルな没入」の概念 を基軸に,1970年代以降における「教育的シニシズム状況」 の問題に関して,(1995年から)2000年頃の変化がどのよ うなものであり,また,いかなる問題を抱えているのか を論じた。まず第1・2章において,スクールカーストを 課題とする学級の人間関係を取り上げ,2000年頃の教師 生徒による秩序維持の変化とその問題を指摘した。次に, 第3・4章において,近年の生徒指導実践の動向に着目し, 2000年代以降の学級の秩序維持がどのようになされてい るのかを事例的に検討した。  第1・2章の結果として次の3つのことが明らかになっ たといえる。一つは,1970年代後半以降の教育的シニシ ズム状況において,1990年代半ば頃にさらなる変化(「ア イロニズム」から「アイロニカルな没入」へ)を確認で きるということである。二つは,90年代半ばの変化は, 「第三者の審級の解体」(反共同体)から「不在の第三者の 審級に対する不安」だということである。そして三つは, 「不在の第三者の審級」に対する教師生徒の不安の現れ(共 犯関係)としてスクールカーストが維持されているので はないか,と考えられることである。つまりスクールカー ストは,「自己責任圧力」の直接的反映というよりも現在 の学級において,教師生徒が陥っている「意識と行動と の間の捻れ」に因るのではないかということである。「不 在の第三者の審級」に対する不安という見方は,スクー ルカーストにおける教師―生徒の共犯関係の指摘に留ま らず,共犯関係を形成する動機やその関係の強固さの由 来を説明する可能性をももつものであるといえる。  また,第3・4章では,教育的シニシズム状況が「積極

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的に居直るあり方」による生徒指導として観察されるこ とを示した。検討からは,当該のタイプの生徒指導が教 師と生徒・保護者の共犯関係によって可能となっている ことが示唆された。したがって,学校教育における教育 的シニシズム状況を把握するためには,教師-生徒という 範囲にとどまらず,生徒の背後に控える保護者にも目を 向ける必要があるだろう。  以上,本論の成果として次のことを上げることができ る。それは,(1995年から)2000年の変化として,何故, どのように教師―生徒が規範的関係が相対化された後に, 尚も(自足的な)規範を形成するのか,という点に関す る見立てを得たことである。そしてそれは「不在の第三 者の審級」に対する不安の現れであり,教師-生徒(ある いは保護者)の「共犯関係」によって形成されるという ことである。また,このような見立ては,日本社会の動 向と関連する学校教育の変化を把握したものであり,そ の意味において,小学校から高校までの学校教育のあり 方を捉える一つの包括的な観点として想定されるもので あると考えられる。  今後は,以上の知見を指針として学校現場における調 査を行い,現在の学級の人間関係がどのような状況にあ るのか,実態の把握を進めていきたい。 ― 注 ― 1  ただし,佐川(2019)(84)が指摘しているように,「コ ンサマトリー」化をある時期以降の生徒指導の全般的 な傾向として把握することには慎重であらねばならない。 2  この引用箇所では,南中の教師の語りが北中の教師 の語りと注釈され提示されている。表記の誤りだと思 われる。 ― 文 献 ― ( 1 )宮台真司『制服少女たちの選択』講談社,1994 ( 2 )諏訪哲二『オレ様化する子どもたち』中公新書ラクレ, 2005. ( 3 )土井隆義『友だち地獄――「空気を読む」世代のサ バイバル』ちくま新書,2008 ( 4 )菅野仁『友だち幻想――人と人との〈つながり〉を 考える』ちくまプリマー新書,2008 ( 5 )土井隆義『キャラ化する/される子どもたち――排 除型社会における新たな人間像』岩波ブックレット, 2009 ( 6 )鈴木翔『教室内(スクール)カースト』光文社新書, 2012 ( 7 )船越勝「第Ⅴ部教育実践のための教育方法学研究  第7章自治の力を育む」日本教育方法学会編『教育方法 学研究ハンドブック』学文社,p.378,2014 ( 8 )大澤真幸『不可能性の時代』岩波新書,p.233,2008 ( 9 )前掲大澤,2008,p.2を参照 (10)前掲大澤,2008,p.233を参照 (11)小玉重夫『シティズンシップの教育思想』白澤社, 2003 (12)前掲大澤,2008 (13)見田宗介『社会学入門――人間と社会の未来』岩波 新書,2006 (14)前掲大澤,2008,p.3 (15)前掲大澤,2008,p.29 (16)前掲大澤,2008,p.3 (17)前掲大澤,2008,p.68 (18)前掲大澤,2008,p.68 (19)前掲大澤,2008,p.166 (20)前掲大澤,2008,p.166-167を参照 (21)前掲大澤,2008,p.166 (22)田中耕治「序章 戦後日本教育方法論の史的展開」 田中耕治編『戦後日本教育方法論史〈上〉――カリ キュラムと授業をめぐる理論的系譜』ミネルヴァ書房, 2017を参照 (23)高橋克己「学級は 生活共同体 である――クラス集 団観の成立とゆらぎ」今津孝次郎・ 田大二郎編『教 育言説をどう読むか』新曜社,1997 (24)森田洋司『「不登校」現象の社会学』学文社,1991 (25)前掲高橋,1997,p.125を参照 (26)田代尚弘「啓蒙と教育(2)――教育の『シニシズム』 をこえて」小笠原道雄編『教育の哲学』放送大学教育 振興会,2003 (27)前掲小玉,2003 (28)広田照幸『ヒュマニティーズ 教育学』岩波書店, 2009を参照 (29)前掲小玉,2003,p.67 (30)スローターダイク, P. 高田珠樹訳『シニカル理性批判』 ミネルヴァ書房,1996 (31)大澤真幸『戦後の思想空間』ちくま新書,p.209, 1998 (32)前掲諏訪,2005 (33)諏訪哲二『生徒たちには言えないこと――教師の矜 持とは何か?』中公新書ラクレ,p.89,2012 (34)前掲諏訪,2012,p.178-179 (35)前掲諏訪,2012,p.88を参照 (36)堀裕嗣『スクールカーストの正体――キレイゴト抜 きのいじめ対応』小学館新書,2015 (37)前掲堀,2015,p.136-137 (38)前掲堀,2015,p.141 (39)前掲大澤,2008,p.167 (40)前掲大澤,2008,p.139 (41)前掲大澤,1998 (42)前掲大澤,2008

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(43)前掲大澤,2008,p.233 (44)前掲大澤,2008,p.2を参照 (45)前掲大澤,2008,p.233を参照 (46)前掲堀,2015,p.36を参照 (47)前掲鈴木,2012, p.184-185 (48)前掲鈴木,2012,p.273を参照 (49)前掲小玉,2003 (50)文部科学省『生徒指導提要』,文部科学省ホームペー ジ,p.1(第1章),2010(2020年11月9日 取 得,https:// www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/__icsFiles/afield file/2018/04/27/1404008_02.pdf) (51)伊藤茂樹「青年文化と学校の90年代」『教育社会学研 究』70,p.95,2002 (52)吉田美穂「『お世話モード』と『ぶつからない』統 制システム――アカウンタビリティを背景とした『教 育困難校』の生徒指導」『教育社会学研究』81, pp.89-109,2007 (53)前掲吉田,2007,p.90 (54)前掲吉田,2007,p.104 (55)前掲吉田,2007,p.99 (56)前掲吉田,2007,p.104 (57)前掲吉田,2007,p.106 (58)伊佐夏実「公立中学校における『現場の教授学』― ―学校区の階層的背景に着目して」『教育社会学研究』 86,pp.179-199,2010 (59)前掲伊佐,2010,p.195 (60)前掲伊佐,2010,p.196 (61)前掲伊佐,2010,p.184 原文の下線は省略 以下同 様 (62)前掲伊佐,2010,p.185 (63)前掲伊佐,2010,p.189 (64)前掲伊佐,2010,p.192 (65)前掲伊佐,2010,p.192-193 (66)前掲伊佐,2010 (67)前掲伊佐,2010,p.184 (68)前掲伊佐,2010,p.188 (69)前掲伊佐,2010,p.189 (70)前掲伊佐,2010,p.190 (71)前掲伊佐,2010,p.193 (72)前掲伊佐,2010,p.193 (73)前掲伊佐,2010,p.193 (74)前掲伊佐,2010,p.185 (75)前掲伊佐,2010,p.185 括弧内は筆者による (76)前掲伊佐,2010,p.185 (77)前掲伊佐,2010,p.187 (78)前掲伊佐,2010,p.187 (79)前掲伊佐,2010,p.187 (80)前掲小玉,2003 (81)前掲伊佐,2010 (82)前掲小玉,2003,p.69-70 (83)前掲小玉,2003,p.70 (84)佐川宏迪「生徒指導のパラダイム論に関する一考察 ――『コンサマトリー化』を事例として」『関西教育学 会研究紀要』第19号,pp.48-60,2019

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