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立憲君主像と神聖天皇像 : 福沢諭吉と小泉信三の天皇観

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(1)

〈はじめに〉

「小泉信三が悪い。とっても悪いよ。あれは 悪いやつで大逆臣ですよ。…小泉信三はぼく の、つまりインパーソナルな天皇というイメー ジをめちゃくちゃにしたやつなんです」。1970 (昭和 45)年に自決する 7 日前に行われた対談 で、三島由紀夫はこのように語っている1)。ま た、三島はその前年に東京大学教養部で行われ た全共闘の学生たちとの討論会において、天皇 は統治する「人間天皇」と神話的な「幻想天 皇」という二重構造をもっているとし、天皇個 人のパーソナリティに依拠するのは「小泉信三 とかオールド・リベラリストたちの天皇観であ る」2)と批判した。 三島の指摘に登場する小泉信三は、福沢諭吉 の孫弟子にあたり、1933 年(昭和 8 年)から 1946 年(昭和 21 年)まで慶應義塾塾長を務め た後、東宮御教育常時参与として皇太子明仁親 王(現・上皇)の教育の責任者となった人物で ある。 福沢は皇室をめぐって『帝室論』という文章 を書いており、この著作で福沢は、天皇は「君 臨すれども統治せず」(国民統合の機能をもつ が、国政に関与しない)君主であり、「帝室は 政治社外のもの」であることによって、政治的 な対立を越えた「一国の緩和力」をもつ、と述 べている。福沢は記す。「我帝室は日本人民の 精神を収攬するの中心なり」。政党間の争いは 「火の如く、水の如く、盛夏の如く、厳冬の如 く」であるが、「帝室は独り万年の春」のよう で、「人民これを仰げば悠然として和気を催 す」。政府から出される法令は水のように冷た く、その情は紙のように薄いが、「帝室の恩徳 あめ はその甘きこと飴の如く」であり、これを仰げ ば、人民の不満は解消する。どれもみな、帝室 が政治社外に在るのでなければ、成り立たない ことである。「西洋の一学士帝王の尊厳威力を 論じて、之を一国の緩和力と評したるものあ り。意味深遠なるが如し」3) この「一学士」がウォルター・バジョットで あ り、彼 の『イ ギ リ ス 憲 政 論』(The English Constitution)を福沢は参考としていたとされ

原著論文

立憲君主像と神聖天皇像

──福沢諭吉と小泉信三の天皇観──

Constitutional Monarch and Holy Emperor :

The Views about the Emperor of Yukichi Fukuzawa, and Shinzou Koizumi

長谷川 精 一 ・ 奥 谷 正 弘

(2)

てきた。同書でバジョットは次のように述べて いる。 国民は党派をつくって対立しているが、君 主はそれを超越している。君主は表面上、 政務と無関係である。そしてこのために敬 意をもたれたり、神聖さをけがされたりす ることがなく、神秘性を保つことができる のである。またこのため君主は、相争う党 派を融合させることができ、教養が不足し ているためにまだ象徴を必要とする者に対 しては、目に見える統合の象徴となること ができるのである4) バジョットは、イギリスの憲政は国家の「威 厳をもった部分」と「機能する部分」とに分け られ、前者には国民の感覚に訴え尊敬を集める 君主が、後者には内閣が該当するとした。そし て共和制は民衆にとって「面白くない行動をし ている多数の人間に向かって、注意を分散させ る統治形態」なので弱体であり、君主制は「興 味深い行動をするひとりの人間に、国民の注意 を集中させる統治形態」であり、「ひろく多く の者の感情に訴える」ので強力だとする5) 小泉信三は、福沢がバジョットを読んでいた こと、及び、ヴィクトリア女王の孫であるジョ ージ 5 世がケンブリッジ大学のタナー教授の下 でバジョットを読み、立憲君主の職分と義務に 関するノートを作ったことを指摘している。そ して小泉は、君主制を批判して「人主が愚民を 籠絡する一詐術」などと嘲るのは、「生かじり の若造がいうこと」だと断じ、「青年の書生輩」 が「二、三の書を腹に納め」「意味を消化せず して直に吐く」ものであり、皇室による緩和力 があることは「天下無上の美事にして人民無上 の幸福」だという福沢の言葉を引用する6)。そ して、小泉は皇太子・明仁の教育係として、明 仁とともに福沢の『帝室論』とハロルド・ニコ ルソンの『ジョージ五世伝』(King George V.

His Life and Reign, 1952.)の読み合わせをする

こととなる7) しかし、そもそも福沢の天皇論は、本当に 「君臨すれども統治せず」という君主像を示し たものだったのか。そして、福沢の「帝室論」 に言及する小泉の考える君主像と国家観はいか なるものだったのか。本稿においては、「第 1 節」で、『帝室論』その他の論説を分析するこ とにより、福沢は、立憲君主の枠組みでは収ま らない神聖天皇という役割を天皇に期待してい たことを明らかにし、「第 2 節」では、小泉信 三が「最も自然で純粋な人間感情」としての愛 国心と天皇への忠誠心に関していかなる言説を 残したのかについて検討したい。他の諸宗教を 超越した(疑似)宗教としての「天皇教」8) いう視角から、明治期以降、現在までの日本の 歴史を再考することが必要である。本稿で、時 代的背景・時代的思潮が異なる時期に生きた福 沢諭吉と小泉信三の二人をとりあげて考察する のは、そのために他ならない。

第 1 節 福沢諭吉における

理想的天皇像の再検討

(1)福沢の立憲君主像に関する主流的解釈 本節では『帝室論』(1882(明治 15)年)を 中心とする福沢諭吉の帝室(天皇)に関する論 説の分析を通じて、福沢が立憲制の下での天皇 の役割をいかに考えていたのかを再検討するも のである。福沢の天皇観と言えば、「帝室は政 治社外のものなり」1)という『帝室論』の中の 言葉が取り上げられることが多く、この言葉は 簡潔で覚えやすいために、読む者はこの言葉だ けで福沢が立憲政治の中で天皇に期待する役割 が分かったように思い込みやすい。その思い込

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みとはつまり、福沢は天皇が政治に関わること に反対し、天皇と政治を切り離そうとしてお り、この理想的天皇像は大日本帝国憲法におけ る神聖不可侵な帝国の統治者としての天皇像と 真逆であったというイメージである。事実、福 沢は君臨すれども統治せぬイギリス流立憲君主 制の憲法を志向し、天皇が実際の政治に関与す ることに否定的であったという見方が定着して いる2) そもそも福沢が〈「国王は君臨すれども統治 せぬ」というイギリス流の立憲君主制の憲法を 志向した〉と一般的に理解されている根拠は、 お お よ そ 三 点 あ る。一 点 目 は、『民 情 一 新』 (1879(明治 12)年)において、「よく時勢に 適して国安を維持するものは果して何処に在る やと尋れば、英国の治風是なりと答えざるを得 ず」3)と述べたうえで、イギリスの政権交代が 円滑に行われる治風とイギリス人民に王室を尊 崇しない者がいないことを取り上げて秩序ある 社会を称揚していること。 二点目は、『帝室論』を読んだ参事院議官兼 内閣書記官長の井上毅──明治十四年の政変の 過程において明治政府内で福沢のネガティブキ ャンペーンを張ったことで有名──が「福沢時 え 事新報ニ出せる帝室論、大ニ世間之喝采を得 そうろう 候 、官吏中ニも大抵賛成の色ニ相見え候、そ の趣意の在る所ハ、全ク英国之国王ハ臨御而不 マ マ これありそうろう 統冶の説ニ有之候、即、議院内閣之組織ニ帰す るものニ有之候」(1882(明治 15)年 4 月付伊 藤博文宛書簡)4)というように、福沢はイギリ ス流の〈国王は君臨すれども統治せず〉の立場 であると批判していること。 三点目は、福沢が主唱して設立した交詢社の 社員によって作られた「交詢社私擬憲法案」に 「衆庶ノ望」5)として選挙で多数党を取った党首 を天皇が首相に命じ、首相が各大臣を選任し、 内閣が天皇の代わりに全ての政治を行うという イギリスの議会政治に倣った規定があること。 以上の三点から、福沢がイギリス流の立憲君 主のあり方を理想とし、議院内閣制を規定する 憲法が制定されることを望んでいたことは間違 いないと考えられてきた。しかし、福沢はイギ リス流の立憲君主制をモデルにしたとしても、 〈国王は君臨すれども統治せず〉と言われるイ ギリスの国王と同じ役割を天皇に望み、天皇が 実際の政治に関与することを否定したと理解す ることが出来るだろうか。 結論から言えば、『帝室論』に出てくる「帝 室は政治社外のものなり」、および「帝室は万 すぶ 機を統るものなり、万機に当るものに非ず」6) という言葉の意味を慎重に検討すれば、主流的 解釈の誤りが明らかになると思われる。次項で は上記二つの言葉のうち、「帝室は政治社外の ものなり」という言葉の意味を検討してみた い。 (2)「帝室は政治社外のものなり」の意味 『帝室論』は「立憲帝政党を論ず」(『時事新 報』社 説、1882(明 治 15)年 3 月 31 日∼4 月 1 日)の少し後に『時事新報』に掲載したもの で あ り(同 年 4 月 26 日∼5 月 11 日 の 12 回、 のち同年 5 月に単行本として出版)、その中で 官権党を批判しているように、帝政党という名 称を掲げる政党の出現に対する危機感から著わ されたことは明らかである。すなわち、帝政党 と対立する政党が現れた場合、その政党は天皇 に対抗するように見え、また帝政党が他の政党 (民権党)を批判する場合、天皇が民権党を征 伐するように見えかねず、政党の政治的対立の 場に天皇を引きずり込むことになり、天皇の尊 厳を害することを恐れたからである。だから福 沢は言う、帝室は「政治党派の外にあり」7)

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治党派の外にあるべきなのだと。 この言葉は、「帝室は政治社外のものなり」 という有名な言葉よりも、福沢の意図を正確に 捉えられる。「帝室の政党に関係す可らざるや 明なり」8)というように、帝室が特定の政党を 支持したり、支持するように見えることは「人 心を震動するの禍」9)を招くから問題であり、 帝室が狭義の政治(政党間の争い)から超越す ることによって、「一視同仁の大恩」10)を国民に 施して「社会の安寧」11)を維持する、別の言葉 で言えば、「内に社会の秩序を維持して外に国 権を皇張す」12)という帝室の広義の意味での政 治的機能を損なわないことを主張したのであ る。 したがって、「帝室は政治社外のものなり」 という言葉に、天皇は一切の政治的決定過程に 関わらせてはならないという意味は含まれてお いやしく らず、この言葉の後に「 苟も日本国に居て政 治を談じ政治に関する者は、その主義に於て帝 室の尊厳とその神聖とを濫用す可らず」13)と言 うように、天皇は政治家によって彼らの党派的 主張のために利用されるべき存在ではないこと を一言で表したものと解するべきである。 実際、福沢は天皇の政治的行動に期待する場 合もある。例えば、福沢は人民に兵備拡張のた めの増税を納得させるために、「至極事を鄭重 にすれば」という前提付きながら、「勅諭を下 だし給ふも過当の事には非ざるべしと信ず」 (『兵 論』1882(明 治 15)年)14)と 主 張 し て い る。 (3)『帝室論』における神聖天皇像 『帝室論』に残された問題はさらにある。換 言すれば、重要な問題が見過ごされてきたとい うことである。『帝室論』には「西洋諸国に於 ては宗教盛にして、唯に寺院の僧侶のみなら ず、俗間にも宗教の会社を結びて往々慈善の仕 しゅうらん 組少なからず、為に人心を収攬して徳風を存す ることなれども、我日本の宗教はその功徳俗事 わずか に達すること能はず、唯 僅に寺院内の説教に 止まると云う可き程のものにして、到底この宗 教のみを以て国民の徳風を維持するに足らざる あきらか ますます や明なり。帝室に依頼するの要用なること 益 明なりと云う可し」15)という一節がある。この 考え方は、『帝室論』の後に枢密院議長伊藤博 文が 1888(明治 21)年 6 月 18 日に憲法草案の 第一回審議の冒頭で述べた有名な憲法起草の大 意に関する所信演説16)と同じ趣旨であり、『帝 室論』の方が先に“宗教だけで国民の徳風を維 持するには全く足りない、帝室がその役割を担 うことが重要である”という考え方を示して明 治政府部内の国家の機軸としての帝室観の先駆 を為しており、かつ「日本国中、誰かよく此人 情の世界を支配して徳義の風俗を維持す可き や。唯帝室あるのみ」17)というように、帝室を 利用して人民の道徳を維持することを、福沢は 目論んでいたことが分かる18) ここで再び『帝室論』に戻って福沢が天皇の 役割について具体的にはどう考えていたかを見 てみよう。福沢は以下のように述べている。 みず 「専制独裁の政体」では、「君上親から万機に当 て直に民の形体に接」し、「恩徳と武威」で秩 序を保ってきた。しかし、「人民参政の権を欲 ひらか して将さに国会を開んとするの今日」に専制政 府の旧套(旧い慣習)を真似ることはできな い。しかし、「立憲国会の政府」は「国法を議 定して之を国民に頒布するものなり、人民を心 服するに足らず」、言い換えれば「唯全国形体 の秩序を維持するのみにして、精神の集点を欠 く」、「政治は唯社会の形体を制するのみにし て、未だ以て社会の衆心を収攬するに足らざ る」存在である、つまり外的強制力しかなく、

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精神面から服従させ、人心を収攬することがで きない。だからこそ、「帝室に依頼すること必 要」なのである。そもそも、「人生を両断すれ ば、形体と精神と二様に分れて、よくその一方 を制するも、他の一方を捨るときは、制御の全 きものと云う可らず」、ゆえに天皇と国会の両 方の役割によって、「国民の心身を併せて共に 之を制御」することができるのである19)。福沢 が考える立憲制下における天皇の役割とは、形 すい 体の「帥」(指令元という意味)である精神を 制することによって、形体の秩序を維持するだ け(国民を外面的に服従させるだけ)の立憲政 府の弱点を補完することにあったと言える。立 憲制は天皇の存在なしに円滑に機能しないと福 沢が考えていたということであり、立憲制下の 国会や政府が担えない国民の精神を秩序づける 役割を天皇に期待していたのである20) では、福沢は国民に天皇をどのように見せる ことが有効であると考えていたのか。福沢は以 下のように述べている。「今の文明の程度に於 すこぶ いやし て人民の智愚を平均すればその品格 頗る卑く して、事物の真理を看破する者は殆んど絶無と 云うも可なり。滔々たる凡俗の群集、これに理 を説くは形を示すの優れるに若かず。故に政府 の威厳など称して、或はその君王の尊きを示 し、或は法律の重きを装い、兎も角もして外面 を張るものは、平均大多数の凡俗をして方向を 知らしむるの方便にして、その外面に見る所、 鄭重なれば自から之に帰依して、知らず識らず の間に服従の念を発起す可し。〔中略〕政府は 単に国民の公心を代表するものなりと云えば道 いえど 理に於て争う可らずと雖も、此を装うに或は君 王の尊きを以てし或は憲法の重きを以てし、兎 も角も辺幅を張て神聖犯す可らずの習慣を作る に非ざれば、凡俗の安寧を維持す可らず」(『福 翁百話』(九十三)「政府は国民の公心を代表す るものなり」)21) 事物の真理を看破することのできない「平均 大多数の凡俗」に「方向を知らしむるの方便」 としては、君主や憲法(共和国の場合)の外見 を飾って「神聖犯す可らず」の習慣を作ること である。そうすれば彼らは政府に服従する念を 持つというのである22)。これは立憲君主制憲法 における君主無答責の意味を持つ「神聖犯す可 らず」ではなく、まさに君主を神聖不可侵な存 在として国民に尊崇させる意味であることに注 目すべきである。 そして、福沢は国民に秩序に服従させた上 で、具体的にいかなる行動を求めたか。『時事 新報』社説「徳教之説」(1883(明治 16)年 11 月 22∼29 日、下 記 の 引 用 は 27 日 掲 載 分)で は、「道徳論の目的は唯社会の安寧に在る」と したうえで「儒教を以て我国民道徳の標準」と する考え方に反対して以下のように述べる。 「封建の制度は廃したれども士人忠誠の心は消 かいびゃく 滅す可きに非ず。日本 開闢 以来の歴史と共に 終始を共にして、諸外国に誇る可き一系万代の 至尊を奉戴し、尽忠の目的は分明にして曾て惑 迷す可き岐路を見ず〔中略〕世界中我日本国に 限りて、帝室は日本の帝室にして、日本国中他 に区別を煩わすを要せず、日本国民は唯此一帝 室に忠を尽して他に 顧 る 所 の も の あ る 可 ら ず」23) すなわち、日本の帝室は諸外国と違って「一 系万代」の血統である、日本国民は帝室に忠を 尽すものであり、帝室を犯す者はいないとす る。そのうえで、日本の士人の気風である「尽 忠報国」を徳育の標準とせよ、日本を強大文明 の国にして天皇を強大文明国の至尊として仰ぐ に至ることが日本「臣民」の務めであると言 う。また、別の論稿では、君位に危機が迫った ら生命財産を犠牲にしてでも君位を守るように

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行動せよと福沢は述べる(『福翁百余話』(九) 「独立の忠」)24) 以上のような福沢の国民に対する要求は、 「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壤無窮の 皇運を扶翼すべし」という「教育勅語」におけ る臣民への要求と同じものと言って良い。で は、天皇を尊崇するどころか逆に天皇を侮辱す るような人間が出てくればどうすべきか。1882 じょうよ (明治 15)年頃の未発表稿「乗輿に触るゝの罪 人」では以下のように述べる。「我国にて乗輿 に触れたる狂病者もあらば、これを一種の病院 た と おもんばか に投じて、仮令い全癒を告るも尚再発を 慮 り マ マ てその滞院の期限は如何様にも為して可らんの み」25)。すなわち天皇を侮辱するような人間は 精神に異常を来しているので無期限に精神病院 に閉じ込めるべきだと主張する。 以上引用した数編の主張を総括すれば、福沢 は国民に天皇を神聖視させ、天皇のために死ぬ ことを厭わない国民が「尽忠報国」という社会 の気風の中で育つことを願い、君主制を否定す るような思想が現れることに危機感を持ってい たことが分かる。これは明治政府指導者が国民 教育、さらには教育勅語や軍人勅諭によって国 民に植え付けようとしたもの、警戒したものと 変わりがない26) しかし一方で、福沢は君主制を貶めるような ひそか 事も述べている。すなわち、「 竊に我輩の所見 を以てすれば、今の文明国に君主を戴くは国民 な の智愚を平均してその標準尚ほ未だ高からざる が故なり、その政治上の安心尚ほ低くして公心 集合の点を無形の間に観ずること能わざるが故 なり、彼の政客輩が一向に共和説を唱うるは、 み ず 身躬から多数の愚民と雑居して共にその愚を与 にするの事実を忘れたるが故なりと、断言して はばか 憚らざる者なり〔中略〕要は唯その国民智愚の うかが 程度を窺いその歴史習慣の如何を察して適当な るものを撰み、百千年の後に大成を期す可きの み」(『福翁百話』(九十四)「政論」)27) この言葉を読めば、君主制とは国民の智力が 低い「愚民」の間だけ暫定的に行われる政体で あると福沢は考え、国民の智力が向上する「百 千年の後」に共和政体になることを期待してい たかのようであるが、当の福沢は公共の教育を 「社会の悪事を予防する」ためだけの「最も低 き処に止め」るべきだと主張した人物であるこ とを指摘しておかなくてはならない(「公共の 教 育」1888(明 治 21)年 5 月 24 日)28)。福 沢 は人民が知恵を付けて社会主義に関心を持った り労働者の権利を主張しストライキを起こすよ いやしく うになることを警戒していた29)。また、「 苟も 具眼の識者ならんには、甘んじて之(君主…引 用者注)を戴くこと、世俗と共に宗教上の崇拝 を等閑に附せざるが如くにして、ますますその 信心を厚からしむるこそ経世の本意なれ」30)と、 君主に対する信心を厚くすることを主張した人 物であることも忘れてはならない。福沢は公共 教育の水準を低く保つことで人民が智恵を付け るのを防いで君主政体を否定する人民が大勢に なる時代が来るのを先延ばしようとしたのだと 思われる31)。このような主張をする人物はとて も共和制論者と呼ぶことは出来ず、熱心な君主 制論者と呼ぶのがふさわしい。 (4)神聖天皇像がもたらしもの 福沢が理想とした、否、秩序維持のために必 要とした天皇像は、国民が神のように崇める神 聖天皇であった。神が別にいてそれ以上の存在 になれないヨーロッパの世俗君主と違って、国 民に神のように崇められる天皇をして国会・政 府が担えない国民の精神を秩序づける役割を担 わせることによって明治国家の統治秩序を維持 しようとしたのである。そして、その神聖さを

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汚さないために天皇が党派対立の一方に肩入れ せず、政治家も党派的利益のために天皇を利用 しないことが大事と考えたのである。 こうした君主を神聖化してそれを統治に利用 するアイデアは、「はじめに」でみたように、 バジョット『イギリス憲政論』から学んだ部分 が大きい。しかし、そのアイデアが果たした悪 影響は日本の場合測り知れないものがあったと 言わねばならない。日本では、天皇が権威のみ ならず、権力まで掌握しそれを行使することは 古来よりほとんどなかった。権力は外戚として 天皇を掌中に収めるか、もしくは征夷大将軍と して統治を委任された権力者が振ってきた。幕 府政治を否定して成立した明治政府は、天皇を 維新の元勲たちの指示通りに動く操り人形のよ うに思う一方で、国民に向けては教育を通じて 天皇を「神」の如く思わせるこ と に 注 力 し、 「神」と思わない者を弾圧した。この体制では、 天皇の権威をバックに権力を振りかざす政権や 国体に反していると糾弾する者に論理的な抗弁 が通用せず、危ういと思う一部の者の声はかき 消されて日本人全体が同じ方向に突っ走るしか なかった。内閣において戦争継続か終結かの意 思を統一できず珍しく天皇の一存に任せた結果 としての「聖断」でようやくブレーキを掛けた 時には国の主権を失うに至ったのが、第二次大 戦の日本の経験であった。 天皇制国家秩序と対決したイメージを持たれ ることが多く、古い秩序を否定する啓蒙思想家 の代表格とされる福沢であるが、事実はイメー ジと反対に、帝国憲法・教育勅語体制と何ら対 決することなく、天皇を「神」と思う、国家に 従順な「臣民」の形成に一役買ったことは否定 しがたい事実であると言わざるを得ない。近代 日本において天皇の果たした役割を再考すると き、多くの日本人がもつ一般的なイメージとは 大きく異なる福沢自身の著作から浮かび上がる 天皇論から目を背ける訳にはいかないであろ う。

第 2 節 「最も自然で純粋な人間感情」

1)

としての愛国心と天皇への忠義

──小泉信三の国家観

小泉信三が福沢の『帝室論』に言及したこと はよく知られているが、小泉自身がどのような 天皇像や国家観をもっていたかを論じた研究は 少ない。小泉の父・信吉は福沢諭吉の弟子であ り、早くに父を亡くした小泉は福沢の邸内に 1 年近く居住した後、慶応義塾普通部、大学予 科、大学政治学科と進学し、卒業後は同学部の 教員に採用された2)。その後、英国に留学した 小泉は同じく慶応義塾から留学した友人の三邊 金蔵との議論で、三邊が個人は自己の利益のた めに国家の存在を承認すると主張したのに対し て、次のように述べたと小泉は日記に書いてい る。 吾々が国家を認めるのは吾々に国家が幸福 を与えるからだとすれば、その謂わば、幸 福享受の手段として存在する国家の為め に、個人がその最大の幸福を犠牲にすると いう事実(戦死の場合)、並びに道徳律は はなは 説明がつかない。これは冠履転倒の太だし きものである。個人が国家の為めに自己の 利益を捨てて尽くすのは、ただその捨てる 利益が、受くる利益より小なる場合に限ら れなければならない道理である3) この日記には、国家と君主に関して、以下のよ うにも記されている。 忠義とか愛国心というものはある一つの立 場から見れば容易に説明される。即ち君主 の立場から見るのである。(道徳は古より

(8)

今日に至るまで大体に於て、君主から下民 に下し賜った法則である。下民がその法則 に対し疑を挟み、または批評を加えるなど という事は怪しからぬ事であったばかりで なく、事実において想像されなかった事で ある。)個人が全く主観を捨てて仕舞った ものと想像すれば説明は訳けなく付く。即 ち国家と云うものの生存は大切であって、 個人の生存はこれに比べて大切でないと云 う事を先にきめるのである。これさえきま ればあとは何でもない。忠義愛国心と云う ものは、価値なき個人と云うものを捨て て、価値遥に大いなる国家と云うものの存 在と利益の為めに尽くさんとする心であ る。…因襲の久しき、吾々は始終純然たる 主観的見地に立って物を観ると云う能力を 失ったのである4) 次の留学先のベルリンに滞在中の 1914(大 正 3)年 7 月に、オーストリアからセルビアに 宣戦布告し、ドイツは総動員令を出して日独間 に開戦の危険性が高まったことから、小泉はイ ギリスへ移った。この間に彼の主張には変化が 見られるようになる。戦争反対を唱えていたド イツ社会民主党が態度を一変させ、沈黙してし まったことに対する批判を述べて、英国から恩 師の福田徳三に送った返信には「愛国は恋にひ としく、共に思案の外に有之候」と記されてい た。その翌年に書いた時評で小泉は、反戦的な 主張をしていたオッペンハイマーが総動員令発 令の前日、講義をとりやめて愛国の演説を行 い、その晩に戦争を讃える杯を挙げていたのに 言及し、「自分はこの矛盾を喜び、これに同情 する」と述べた5) そして、愛国心は「矛盾」した「思案の外」 の不合理的なもの、という考えは福沢の著作に も見られる、と小泉は言う。「合理主義をもっ てしては、国家国民の存在は論証せられない。 この思想からすれば、平等なる個人と世界との はず みが認められる筈であって、何故に国と国とが 対立するか、また何故一国の国民が自国独立の ために苦労しなければならぬかの説明は付かな いのである」。「福沢先生も他に対して一国民を 結合せしむる要素」として「懐旧の口碑」と 「喜憂栄辱」を共にすることを挙げているが、 「喜憂を共にしたものだけが何故に特に一国民 を形成しなければならぬか」、これを説明する には、「或る目的に対する手段と見るのとは反 対の、或る不合理(irrational)なものが必要と なる」6) 小泉はその後、1933(昭和 8)年に慶應義塾 長に就任してから、アジア太平洋戦争の敗戦を 挟んで戦後に至るまでもずっと、「価値なき個 人」を捨て「大いなる国家」の存在と利益の為 めに尽くす「忠義愛国心」をひたすら説き続け ることとなる。 1938(昭 和 13)年 の 天 皇 誕 生 日(天 長 節) に慶應義塾大講堂において、小泉は述べた。 仁慈の御徳、勇武の御徳、共に御年ととも にその輝きを加えられましたることは、実 に私共の感激に堪えないところでありまし て、かくの如きは今や世界にその例のない ことであります。…唯吾々日本国民の至大 なる幸福と申すより外ありませぬ。…吾々 共は所謂草莽の臣でありまして、平生遥に 天顔を拝し奉る機会すら少ない者でありま すが、国事のために力を尽し 陛下の御為 に聊かでも御軫念を少なくすることが出来 ますれば、何時でも身を挺して事に当る覚 悟を持っている者あります。…この心をも って諸君とともに立って、聖寿の万歳を唱 えたいと思います」7) さらに小泉は、教育勅語五十年記念式(1941

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(昭和 16)年)では、「この不磨の大典のあら わき ん限り国民民心はその拠るところを弁まえ、限 りなき聖徳を鑚仰し奉る」8)と講話した。我々 日本国民は、「国事のために力を尽し」、天皇の 懸念を少しでも減らすことができるならば、 「何時でも身を挺して事に当る覚悟」をもって いるとする小泉は、アジア太平洋戦争が始ま り、戦局が厳しさを増すようになると、特別攻 撃隊の賛美をくり返した。 (特攻作戦の)立案者は誰であったかは 固より知るべくもないが、長官としてこれ を実行することは、即ち部下将兵にむかっ もら てただ、命は貰う、と申渡すことに外なら ぬ。世界の他の如何なる国の陸海軍に、部 下を信じてかく申し渡し得る上官がある か。ここに私は上下父子の如き我が将兵の 相互信頼と帝国陸海軍の史上無前の決意と を見る。 そもそも魚雷とともに、身をもって敵艦 ごう を轟沈するというようなことは、空想は別 として、誰にも容易に実行することが不可 能のように考えていた。しかるに、このた びの勇士等は、ただ一つの決心さえあれ ば、不可能は決して不可能ではないという ことを立派に証拠立てられた。…このたび の勇士のうち、私は或る人々のその大学生 時代を知っているが、その平生は決して英 雄豪傑という型の人々ではなく、父母同胞 を愛し朋友相信ずる、まことに温良誠実な 青年であった。その温良な人々が一たび国 な 家存亡の危うきに臨めば、かくも鬼神を哭 かしめると申してもなお足らぬほどの勲功 を立てておられるのである。しかし、これ がわが日本の青年であり、そうしてかかる 青年をもつのが日本という国である。(「神 潮特攻隊に応える途」) 敵は我より物もあり智恵のあり力もある ものと敬い恐れ、仕事はもとより、恥も外 聞も忘れ、事ある毎に国民儀礼を行って宮 とう 城を遥拝し、戦没将兵の英霊に感謝の黙祷 を捧げて来た身であることも忘れてひたす とん ら遁走を事とするような混乱を、万一にも 演出することがあったら、それは敵にとっ ては思う壺なる戦果であろう。…竹槍で戦 車を破壊することは出来ぬなどと、したり 顔に唇を翻すことはするものではない。な ふせ るほど竹槍で戦車は禦げぬであろう。しか マ マ し一人の生命と××キロの爆薬とをもって 数万トンの巨艦と千人、二千人の乗員を海 底に沈め得ることは、特別攻撃隊の勇士等 が事実によって証明した。…しかし、かの 勇士等の功勲についてただその壮烈の一面 を見てはならぬ。それは忠烈悲壮の極致で あると共に、最も冷徹精密なる智謀と計策 の結実である。わが資材と人員とには限り があって。そうして国家の存亡は目前に迫 っている。われはこの資材と人員とを極度 に確実に節約的に用いなければならぬ。そ れは特別攻撃法を措いて外にはない。特攻 兵器による攻撃は死を軽んずる攻撃法では ない。それは反面において最も人命を重ん じた攻撃法である。ただそのためには選ば れたる勇士等は絶対的に死ななければなら ぬ。それが特別攻撃の真正の意義である。 わずか …特攻隊勇士等は纔に二十を超えた青年で ある。この青年等は、その往きて必ず帰ら ぬ出撃によってその父兄等に、敢えて試み ることなくしてたやすく不可能の語を口に するなということを無言の裡に戒めてい る。(「戦勝と道義精神」)9) 「不合理なもの」としての「忠義愛国心」を説 く小泉にとって、合理的な思考は「小賢しげな

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こと」、「小才覚」として排除され、敗戦に至る げき まで、小泉の「檄」は続くこととなる。 この戦争に妥協的、中間的終末はあり得な い。勝つか亡びるか、いずれかである。こ れ以外の途もなく、われ自身の外の恃むべ き力もない。同胞は間違っても、あまい、 生ぬるい考え方をしてはならない。万一に も敗れ、もしくは屈服することがあったら 我々自身、我々の子女は永劫の苦痛と屈辱 の淵に沈まなければならない。…小賢しげ なことをいって立ち騒ぐものに限って昔か ら本当の智慧のあったためしはない。今は 小才覚をめぐらすときではない。「決心第 一、智術第二」ただ戦うときである。そう してそれによって必ず路は開かれる。(「わ が軍、わが国民」)10) 1945(昭和 20)年に敗戦となり、慶応義塾 内には戦時中に小泉が「学内の気風を引き締 め、率先して軍事教練を行い、学徒出陣を激励 した」のは時局に便乗したことだとして責任を 問う声も上がった11)。しかし 11 月に塾長に再 選された小泉は、塾内に掲示された「塾生諸君 に告ぐ」で、8 カ月ほど前に一億玉砕を叫んで いた人間とはまるで別人のごとく、「平和国 家」、「民主主義」の語をちりばめて、次のよう に述べている。 吾々は戦うべからざるに戦ったという悔恨 に心を噛まれておりますが、しかし国家の ために身を捧げた人々の──殊に若い人々 の──忠誠はこれを忘れてはなりません。 …戦時において国民の本分に忠なる人は、 即ち平和国家の建設においてもまたその責 務に忠なる人でなければならぬ。…(福 沢)先生はまた、本来人に貴賤なし、貴賤 はただ人の学ぶと学ばざるによって岐れる と訓えられました。吾々は今にして先生の 教えを思うことが切であります。吾々は学 ばざるがために敗れ、学ばざるがために戦 うべからざるに戦いました。国民は肝に銘 じてこの事を記憶しなければなりません。 …民主主義の根基は各人の自尊自重の念に あることを、諸君は寸時も忘れてはいけま せん12) 小泉は GHQ による公職適格審査のために戦時 中に発表した文書等を提出することを求めら れ、後任の塾長となる高橋誠一郎に「パージぐ らいは当然である」、「はなはだ暗澹たるものが ある」と語っていたが、結局、公職追放を免れ た13) 戦後においても、小泉は日本人の「忠義」と 「愛国心」に関して、戦前と同じ見解を記して いる。「日本人は君侯を対象とし、皇室を対象 とする忠(loyalty)を教えられることによって loyalty そのも の を 教 え ら れ た」、「友 に 対 し、 公共団体に対し、或いはわが奉ずる主義に対し て、ロオヤルでない性格のものは、また皇室に 対してもロオヤルでない。忠の対象は様々であ り得る。しかし、忠そのものには共通なものが ある。その心を日本人は皇室を対象として養っ た」、「日本人はこの敬虔を知る国民であり、自 分もその一人であるように思う」(「忠(ロヤル ティ)」14)と、戦前と変わらない見解を記してい る。 そして小泉は、「国民が自衛の権利と義務を 捨てるときは、国民が、その独立を捨てるとき 以外にはあり得ない」、「自衛権なき独立国とい うのは、生命なき生物というのにもひとしい」、 「全地球上の如何なる独立国民も、その領土の 防衛を、自分は一滴の血も流すことなしに、他 の国民の血の犠牲において求める権利は持たな いし、また持ってはならぬ」、「アメリカ青年の 血の犠牲のみに頼り自国の防衛せられんことを

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願う」のは「人の恥ずるところである」15)とし て、日米安保条約下での日本の再軍備の必要を 主張し、防衛大学校創立十年式典での祝辞で は、かつて特別攻撃隊を「忠烈悲壮の極致」で あり「最も冷徹精密なる智謀と計策の結実」で あると激賞し、学徒出陣を激励したのと同様 に、「今日ここにこの大学に学ぶものは、最も 注意深く教育せられ、訓練せられた日本の青 年、気品があり、高い使命感をいだき、しかも 謙虚の何たるかを知る日本の青年である」16) 語っていた。

〈おわりに〉

本稿の冒頭で、三島由紀夫が述べた、天皇は 統治する「人間天皇」と神話的な「幻想天皇」 という二重構造をもつという論にふれた。三島 は、天皇は「一つの純粋持続」であるとして、 天皇個人のパーソナリティに依拠しない自己の インパーソナルな天皇像を語っている。三島の 「二重構造」の説明は、「民衆の中に集約された 幻想」、「観念性として超越するところの天皇」 と「皇居にいて皇后陛下といちゃいちゃやって いるところの」「現実の天皇」とを三島が「無 媒介的にくっつける」ところに曖昧さがあると いう全共闘の学生の批判に対する返答としてな されたものであった1) 戦後の小泉信三は、戦争責任を忌避したとの 非難から逃れられなかった昭和天皇とは異なる 新憲法の下での新時代を象徴する「戦後のホー プ」としての皇太子・明仁の教育係となり、明 仁と「民間人」出身の正田美智子との結婚をア シストするなど、「人間天皇」個人のパーソナ リティに依拠する「象徴天皇」の創出を担っ た。三島はこのような動きを「週刊誌天皇制」 と名づけて批判した2) しかし、本稿第 1 節で「神聖天皇像」と表現 した福沢諭吉の天皇観においても、また、第 2 節でみた小泉信三の「非合理なるもの」として の「忠君愛国」主義においても、世襲制の天皇 は皇祖皇宗から万世一系で続いてきた世界に例 を見ない日本の伝統であるという「神話」は、 基本的な前提となっている。そして、天皇は生 身の統治する「人間天皇」と神話的な「幻想天 皇」との側面を同時にもつという「神話」は、 明治期に創出されてから、アジア太平洋戦争の 敗戦を経て現在に至るまで、日本の「国是」で あり続けているのである。 そして、すでにバジョットも福沢も、その類 の「神話」的な君主像は、「無教養な民衆」・ 「凡俗」にとって適合的なものだと指摘済みで あった。バジョットは『イギリス憲政論』で述 べている。(君主は)「教養が不足しているため にまだ象徴を必要とする者」に対して、「神秘 性を保つことができる」、「相争う党派を融合さ せることができ」、「目に見える統合の象徴とな ることができる。…無教養な民衆の空想による と、…王家の出身でもなく、王冠や聖油と関係 のない人間とは、全く違った人種なのである。 かれらは、神秘的な権利によって服従を命じる ただひとりの人間が存在することを信じてい る。またそれゆえに、この人間に服従している のである」3)。また、福沢は『福翁百話』で言 う。「君王の尊きを以てし或は憲法の重きを以 てし、兎も角も辺幅を張て神聖犯す可らずの習 慣を作るに非ざれば、凡俗の安寧を維持す可ら ず」4) 福沢は「徳教之説」において「諸外国に誇る 可き一系万代の至尊を奉戴し」「唯此一帝室に 忠を尽」す「尽忠報国」の気風こそ「我士人の 宗門」であり、日本人は「その門徒たる可きも の」だと述べたが、この一種の宗教と呼ぶべき

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気風は「天皇教」という語で表現されてきた。 「天皇教」の宣教師として、教育者たちが何を してきたのかに関しては、第 2 節で検討した小 泉の言説がその一端を示しているが、戦前の修 身教科書から、国歌斉唱・国旗掲揚を教育的活 動として定める学習指導要領に至るまで、教育 の現場で、小泉の言う「忠君愛国心」が人々の 精神と肉体へ擦り込まれてきた事実は過小評価 し得ないだろう。 戦況が厳しくなる中、「勝つか亡びるか」以 外の思考は「小賢しげなこと」、「小才覚」だと 叫んでいた小泉は、敗戦から 15 年後に、次の ように述べている。「吾々が最も自然に抱くそ の愛国心を、小さな智恵才覚や、或いは幾分生 意気な了見から、強いて抑え、またはケチをつ けるもののあった場合、それを指摘し、排除す ることは、遠慮に及ばぬところであると思う」 (「愛国心」)5)。ここには、特別攻撃隊に象徴さ れる狂信的で不条理な愛国心教育が、この排除 の論理に従って引き起こした悲劇への反省な ど、微塵もない。 しかし、「歴史から学ぶ」ためには、「忠君愛 国心」に抵抗する者は遠慮に及ばず「排除」す べきだという「信仰」を相対化し、脱構築する 「智恵才覚」こそが、必要不可欠なのではない か。 今後の課題として、以下の点を稿を改めて今 後、検討していきたい。まず、福沢諭吉の言説 に関して、「帝室は万機を統るものなり、万機 に当るものに非ず」という言葉の解釈につい て、また、和戦を親裁する天皇像、及び、政治 的対立を調停する天皇像という点から、『帝室 論』に対する従来の解釈の妥当性について、さ らに詳細に考察することである。次いで、天皇 個人のパーソナリティが現実の政治史に及ぼし た影響に関して、「君臨もして、統治にも口出 しする君主」としての昭和天皇と、「国民ひと りひとりのために祈ってくれる象徴天皇」とし ての平成天皇について、その政治的言動の意味 を検討することである。これらを通じて、立憲 君主の政治関与について、イギリスをモデルと した「君臨すれども統治せず」という君主像と は異なる日本の天皇のあり方の実態に関して、 理解を進めていきたい。 (「はじめに」、「第 2 節」、「おわりに」 :長谷川精一 「第 1 節」 :奥谷正弘 ) 註 〈はじめに〉 1)「三島由紀夫 最後の言葉」(『決定版 三島由 紀 夫 全 集』第 40 巻、新 潮 社、2004 年、752 頁)。 2)「討論 三島由紀夫 vs. 東 大 全 共 闘」(同 上、 『決定版 三島由紀夫全集』、493 頁)。 3)福沢諭吉『帝室論』(『福澤諭吉全集』、5 巻、 265 頁)。なお、「一学士」がウォルター・バ ジョットを指すかどうかについては検討の余 地もあり、今後の課題としたい。福沢の文章 の引用は慶應義塾編『福澤諭吉全集』再版、 岩波書店、1969-71 年から行う。以下『福沢全 集』と表記する。なお、本稿では、適宜旧漢 字仮名を現代表記に改めている。 4)ウォルター・バジョット『イギリス憲政論』 小松春雄訳(中公クラシックス、中央公論新 社、2011 年)55 頁。 5)同上、バジョット『イギリス憲政論』、47 頁。 6)小泉信三「帝室論」(『小泉信三全集』、文芸春 秋社、1972 年、第 26 巻、394 頁。 7)小泉「この頃の皇太子殿下」(上掲、『小泉信 三全集』、第 16 巻、523 頁。) 8)「天皇教」に関しては、吉馴明子他編『現人神 から大衆天皇制へ』(刀水書房、2017 年)を 参照されたい。 〈第 1 節〉 1)『福沢全集』第 5 巻、261 頁。 2)第二次大戦後の福沢研究をリードした丸山真

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男は以下のように述べている。「いかに福沢が ここで日本の皇室にたいし、溢美の言を呈し ていても、その論の核心は一切の政治的決定 の世界からの天皇のた!な!あ!げ!にあります。そ こでは天皇の政治的機能は、下敷にしたバジ ョットの議論よりも、さらにまた、バンジャ マン・コンスタンの立憲君主政論における中 立的=調整的権力(pouvoir neuter et modéra-teur)という位置づけよりも一層消極的なもの なのです」(丸山真男『「文明論之概略」を読 む 下』岩波新書、1986 年、320-21 頁、傍点 は丸山)。 3)『福沢全集』第 5 巻、42 頁。なお、天皇「観」 の具体的な姿として現れたものを天皇「像」 と考える。 4)井上毅傳記編纂委員会編『井上毅伝史料篇 第四』国学院大学図書館、1966 年、62 頁。 5)家永三郎、松永昌三、江村栄一編『新編明治 前期の憲法構想』福村出版、2005 年、282 頁。 6)『福沢全集』第 5 巻、263 頁。 7)『福沢全集』第 5 巻、292 頁。 8)『福沢全集』第 5 巻、278 頁。 9)『福沢全集』第 5 巻、279 頁。 10)『福沢全集』第 5 巻、292 頁。 11)『福沢全集』第 5 巻、263 頁。 12)『福沢全集』第 5 巻、279 頁。 13)『福沢全集』第 5 巻、261 頁。 14)『福沢全集』第 5 巻、347 頁。 15)『福沢全集』第 5 巻、280 頁。 16)「抑も欧洲に於ては憲法政治の萌芽せる事千余 年独り人民のこの制度に習熟せるのみならず、 又た宗教なる者ありてこれが機軸を為し、深 く人心に浸潤して人心ここに帰一せり。然る に我国に在ては、宗教なる者その力微弱にし て、一も国家の機軸たるべきものなし〔中略〕 我国に在て機軸とすべきは、独り皇室あるの み」(瀧井一博編『伊藤博文演説集』講談社学 術文庫、2011 年、18 頁)。 17)『福沢全集』第 5 巻、280 頁。 18)福沢が天皇という人民が尊崇する存在を宗教 の代わりに利用して人民を明治国家の統治秩 序への服従を図ろうと考えたのはバジョット の影響が大きいと思われる。 19)『福沢全集』第 5 巻、264 頁、267 頁。 20)福沢が国会・政府だけでは国民の完全な服従 を獲得できないと考えたのは、バジョットの 影響が大きいと思われる。 21)『福沢全集』第 6 巻、361∼62 頁。 22)福沢における知恵のない人民を国家の秩序に 従わせる方便として天皇を利用する考え方も バジョットの影響が大きいと思われる。バジ ョットいわく、(下層階級の)「最大の尊敬を 呼び起こしやすいものは、演劇的要素、すな わち感覚に訴えるもの、最大の人間的想像の 化身であると自負するもの、またある場合に は超人間的起源を誇るものである」(上掲『イ ギリス憲政論』11 頁)。 22)『福沢全集』第 9 巻、280 頁。 23)『福沢全集』第 9 巻、287∼88 頁。 24)『福沢全集』第 6 巻、406 頁。 25)『福沢全集』第 20 巻、255 頁。『帝室論』でも 同様のことを述べている。「我日本国に於て は、古来今に至るまで真実 の 乱 臣 賊 子 な し 〔中略〕若しも必ず是ありとせば、その者は必 ふうてん ず瘋癲(精神が正常でない人…引用者注)な らん。瘋癲なれば之を刑に処するに足らず。 一種の檻に幽閉して可ならんのみ」(『福沢全 集』第 5 巻、262 頁)。 26)福沢と明治政府指導者の考え方の類似は国体 観についても指摘できる。奥谷正弘『福沢諭 吉の思想と行動−視角としての国民形成論』 (デザイ ン エ ッ グ 社、2018 年)第 5 章「福 沢 における古習を利用した国民統合論の展開」 を参照されたい。 27)『福沢全集』第 6 巻、363、368 頁。 28)『福沢全集』第 11 巻、489∼90 頁。 29)「貧富智愚の説」(明治 22 年 3 月 6∼7 日、『福 沢全集』第 12 巻、63∼64 頁)参照。 30)『福沢全集』第 6 巻、368 頁。 31)石河幹明は、福沢は西南戦争に少し前に以下 のように門下生に語ったと記している。「学問 の進歩は恐ろしい事だ。もう少し経つとお前 達に書いて見せることがある。それは世の中 がだんだん進んで来ると天子様を別にしなけ ればならぬ。そうしないと遂には天子様を的 にして弓を引く者が出来ぬとも限らぬ。文学 が進んで来ると妙なことになる。昔は拝むと 眼が潰れるといった天子様に対する考が、今 に変って来るだろう」(石河幹明『福澤諭吉 伝』岩波書店、1932 年、第 4 巻、695 頁)。 〈第 2 節〉 1)戦後に書いた「愛国心」で小泉は言う。「国と

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は何か。民族とは何か。…苦楽安危を共にし て今日に至ったその同胞と、祖先も子孫もそ こに住むわが国土に対する吾々の感情は、人! 間!感!情!の!最!も!自!然!に!し!て!純!粋!な!る!も!の!に属す ることは動かしがたい」(『小泉信三全集』、第 15 巻、383 頁、傍点は筆者)。 2)武藤秀太郎「第 6 章 小泉信三の天皇論── 君主をめぐる公と私」(『近代日本の公と私』、 NTT 出版、2014 年、所収、140 頁。この論考 は、青年時代から戦後に至るまでの小泉の思 想を詳細かつ丁寧に分析した労作である。 3)小泉信三『青年小泉信三の日記』、慶應義塾大 学出版会、2001 年、348 頁。 4)同上。 5)武藤秀太郎、上掲書、147 頁、上掲、『青年小 泉 信 三 の 日 記』、525 頁、小 泉 信 三「大 学 と 私」(『小泉信三全集』、第 11 巻、447 頁。) 6)小泉信三「師・友・書籍」(『小泉信三全集』、 第 12 巻、54 頁)。 7)小泉信三「天長節講話」(『小泉信三全集』、第 13 巻、491 頁)。 8)小泉信三「記念式式辞」(『小泉信三全集』、第 13 巻、500 頁)。 9)『小泉信三全集』、第 17 巻、126 頁(1944(昭 和 19)年 11 月 21 日)、『小 泉 信 三 全 集』、第 17 巻、130 頁(1945(昭 和 20)年 4 月 8 日)、 『小泉信三全集』、第 17 巻、132 頁(1945(昭 和 20)年 4 月 29 日)。 10)「わが軍、わが国民」(『小泉信三全集』、第 17 巻、128 頁(1945(昭和 20)年 3 月 23 日)。 11)『小泉信三全集』、第 17 巻、170 頁。 12)『小泉信三全集』、第 17 巻、170 頁(1945(昭 和 20)年 12 月 1 日)。 13)今村武雄『小泉信三伝』、381 頁。 14)『小泉信三全集』、第 15 巻、155 頁。 15)「独立国民のいろは」(『小泉信三全集』、第 18 巻、391∼393 頁)。沖縄での米国軍人による 少女暴行事件に示されるような「治外法権」 を認める日米安保条約による様々な制約ゆえ、 日本は古典的な意味合いでの「独立国」では なく、米国の一「衛星国」に過ぎないことが、 矢部宏治、吉田敏浩、末浪靖司、新原昭治ら の研究で明らかにされてきた。日本は戦後の 占領期以降も、一度も「独立」を成し遂げて いないのである。「アメリカ青年の血の犠牲」 は日本を防衛するためのものではなく、同盟 国日本への関与により米国の覇権を守るため のものであることは、安保条約の文面を読め ば明らかである。「独立国民」でありたいとい う小泉の願望にも関わらず、戦後史の「いろ は」を小泉は理解できていなかったか、もし くは、承知の上で、隠蔽していたことになる。 16)「独 立 国 民 の 用 意──防 衛 大 学 校 創 立 十 年」 (『小泉信三全集』、第 18 巻、395 頁) 〈おわりに〉 1)「討論 三島由紀夫 vs. 東 大 全 共 闘」(上 掲、 『決定版 三島由紀夫全集』、493 頁) 2)「国家革新の論理」(上掲、『決定版 三島由紀 夫全集』、270 頁) 3)上掲、バジョット『イギリス憲政論』、55 頁、 316 頁。 4)福 沢 諭 吉『福 翁 百 話』(『福 沢 全 集』第 6 巻、 361∼62 頁)。 5)『小泉信三全集』、第 15 巻、381 頁。

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