日本語学習者の学習意欲に影響を与える要因はどのように作用するか
─タイ中部P大学の主専攻者を取り巻く文脈とL2 Selfから─
富吉 結花
キーワード
学習意欲,社会文化的文脈,L2 Motivational Self System,なりたいL2自己(Ideal L2 Self), なるべきL2自己(Ought-to L2 Self),質的研究
はじめに
本研究は,タイ中部P大学の日本語主専攻者を対象に,日本語学習意欲に影響を与える要 因の作用を,L2 Motivational Self System(Dörnyei 2009,以下L2-MSS)を枠組みに分析 した質的研究である。本稿では「熱心に学習に取り組みたいと思う気持ち」を「学習意欲」 と定義する。 学習意欲を包含する「動機づけ」は,日本語教育分野では主に量的研究が盛んに行われて きた。しかし,①日本語学習の理由を対象とした研究に偏っている,②学習者の真の考えが 現れない場合もありうる質問紙を用いた量的手法が主流である,③動機づけを個人側・社会 側の一方に属するものとし相互作用性を捉えていないなど,「対象」「手法」「視点」に関す る問題点も指摘されている(守谷 2002,小西 2006,羅 2005)。これらの指摘を踏ま え,本稿では「学習意欲」を対象とし,学習者の考えを重視する質的手法を用いる。そし て,自己概念と社会文化的文脈の双方から分析し,学習意欲に影響を与える要因がどのよう に意欲の変化に作用するかを明らかにすることを目的とする。なお,本研究は対象を限定し ており一般化を目指すものではない。小西(2006:106)は,今後の動機に関する研究は抽 象的研究や議論ではなく「具体的な学習者や学習場面に根ざして,学習者が自己の望むよう な学習成果を得られるための手助けとなるような形での研究を行うべき」だと述べている。 本稿もこの視座による研究である。 1 .先行研究 まず第二言語習得の動機づけ研究の流れを概観し,本研究の位置づけを述べる。次に,動 機づけ研究の中で特に本研究と密接な関係にある先行研究を概観する。 1.1 第二言語習得における動機づけ研究の流れ 第二言語教育の動機づけ研究は,R.Gardnerらの社会心理学的な研究から始まった。1990 年代になると,社会心理学的な動機づけ研究のみでは現実の教育実践のニーズに応えられな いという批判が生まれ,教育心理学の視点を援用した研究へと広がっていった。しかし,八
島(2004:59)は,教育心理学的な理論は,人間の学習行動を説明する上で普遍性をもつも のであり,特に学校のコンテキストにおける学習の動機に関して示唆に富むとした上で, 「現代語の学習という,異文化背景をもつ人が,日常使っている言語の学習という外国語教 育の特殊性を考慮するアプローチも必要である」と指摘している。そして,近年では既存の 要素と新しい要素を統合した,より広範にわたる新しい動機づけ概念も提案されている (Williams & Burden 1997,Dörnyei & Ushioda 2011など)。また,近年では動機づけの質 的研究の重要性が主張されている。Dörnyei & Ushioda(2011:237)は,インタビューに よる質的調査は,個々の学習者の内にある社会的,文化的,心理的要因の複雑な相互作用を 明らかにするのに適していると述べている。 本研究は,より広範にわたる新しい動機づけ概念の一つである L2-MSS を分析枠組みと し,質的調査から要因の複雑な相互作用を探ろうとするものである。 1.2 学習意欲に関する先行研究概観 ここでは,本研究と密接に関連する,学習意欲の変化に関する質的研究に絞って述べる。 今福(2011)は,台湾の大学における教室内学習場面に焦点をあて,学習意欲に影響を与 える要因を探った。その結果,教師と学習者の信頼関係を前提とした上で,楽しさや満足感 を感じる授業活動を行うことが,学習意欲に強い正の影響を与えると述べている。 西部(2009)は,JSL学習者を対象に,教室外も含めて学習意欲の変動に関わる出来事を 調査した。その結果,学習者が自身の「努力不足」に原因を帰属できる出来事は意欲を高 め,自分の力では変えられない出来事は意欲を下げることが明らかになった。また,心理的 要因の「可能性の予期」が学習意欲と強い関係を持つことが示唆された。 文野(1999)では,中国人留学生Nのライフ・ヒストリーを,第三者へのインタビューや 観察記録を加え複眼的に解釈した。その結果,中国で出会った年下の友人へのライバル意識 が,協力者の留学決定から来日後の進路変更に至るまでの動機づけに強く影響していること が明らかになった。文野(1999)は,動機づけにはある環境におかれた際比較的自然に誰の 内面にも起こるものと,外的要因と個人要因の強い相互作用の結果起こるものがあると結論 づけている。 このように,学習意欲は教室内外の要因に影響を受けることが明らかになっている。上記 の研究は,教室場面の要因や心理的要因など,一部の要因を軸に据えたものである。 羅(2005)は,社会文化的アプローチにより台湾の日本語学習者 Z の学習動機を分析し た。その結果,Zの学習動機は社会的文脈や学習文脈,自己の役割や能力の認識などを含む 自己形成により形作られ,変化してきたことが明らかにされた。そして,学習動機は個人と 社会的文脈との相互作用で生じるものだと主張されている。
Shoaib & Dörnyei(2004),岩本(2010)は,英語/日本語の「学習継続要因」を,動機 づけに関わる種々の概念を整理した「動機構成概念の 7 つの局面( 1 )」を枠組みに検討した。
その結果,要因は 7 局面全てに存在していた。岩本(2010)では加えて,「仲間」や他者と の関わりで生まれる自己概念が,意欲に影響を与える大きな要因であることが明らかにされ
ている。 これらの研究は,質的データを用い,動機づけに影響する要因を包括的に検討したもので ある。上記の 3 つの研究では,要因は幅広い局面に存在すること,要因同士には相互作用性 があることが明らかにされている。特に,自己概念と他者を含む周囲の環境との相互作用 が,動機づけを捉える上で重要であることがわかる。 Buasasengtham・義永(2015)は,ライフストーリー・インタビューの手法を用い,L2-MSSの観点から,非漢字圏日本語学習者の漢字学習への動機づけを検討したものである。 そこでは,漢字学習の動機づけは,L2-MSSの構成要素に加え「社会的要因」にも影響を受 けると主張されている。また,それらの要因は相互に影響を与え合う部分があることが見出 された。加えて,動機づけを動的なものと捉え,その変動を詳細に辿っていく研究の重要性 も指摘されている。 しかし,Buasasengtham・義永(2015)でも指摘されているように,日本語学習者を対 象とし,日本語学習全体の「学習意欲」に焦点を当ててその動的な側面を検討する研究は, まだ十分に行われていない。 富吉(2014)では,自由記述式質問紙調査を行い,上述の「動機構成概念の 7 つの局面」 を枠組みに,タイ中部P大学の日本語主専攻者の学習意欲に影響を与える要因を抽出した。 本稿では,これらの要因がどのように学習意欲に作用するのかを分析・考察し,学習意欲の 変動の一端を明らかにすることを目的とする。 2 .調査概要と分析方法 まず,調査協力者が置かれている社会文化的文脈を示すため,調査協力者および調査協力 校の概要( 2 )を記述する。次に調査方法について述べる。その後,分析の枠組みと分析方法 を示す。 2.1 調査協力者と協力校 調査協力者は,P大学の日本語主専攻 1 〜 3 年生23名( 1 年生 7 名, 2 年生 8 名, 3 年生 8 名。学年は調査時現在)である。この23名は,富吉(2014)の調査協力者の一部であり, メールで調査を依頼した。調査時,稿者と協力者は二度目の対面であった。 P大学はタイ中部に位置する。日本語学科は,学生の日系企業就職を大きな目標としてお り,卒業後は日系企業に就職する学生も多い。日本語主専攻の学習者は,日本語学習のきっ かけや目的のみならず,大学入学までの学習習慣や基礎学力,経歴など多様である。日本語 学習歴は 1 年未満から 5 年程度と比較的短い。高校以前に日本語学習を始めた者(既習者) と,大学で始めた者(未習者)が混在し,割合は約半数ずつである。しかし,既習・未習に よるクラス分けはされず,全員がひらがなの学習から始める。学習者にとって,日本渡航は 金銭面の問題などから容易ではない。大学が行う奨学金つきの日本研修プログラム(選抜有 り)への参加が,日本渡航の主な手段となっている。P 大学が位置する地域は観光地であ り,日本人観光客が多く訪れるため日本人との接触機会が多い。ただし,学習者が望めば比
較的容易に接触機会を持つことができるが,接触を避けることも可能であり,接触時に要求 される日本語レベルも高くはない。また,この地域には日系企業が多く,日系企業への就職 は主に経済面から憧れや目標となっている。 2.2 調査方法 調査は2013年 3 月に実施した。意欲が上がったとき・下がったときの詳細なエピソードを 聞くことを目的に,通訳( 3 )を介して半構造化インタビューを行った。協力者および稿者の 日本語・タイ語レベルを鑑み,詳細なエピソードを語ってもらうためにはタイ語使用が必要 と判断した。ただし,稿者はできるだけ協力者がわかる日本語で話すことを心がけた。ま た,協力者が答える際はタイ語・日本語のどちらを使用してもよいこととした。通訳者に は,逐語的にではなく内容のまとまりごとに訳すよう依頼した。インタビューは一人ずつ, 45〜60分程度行った。全ての協力者に許可を得,やり取りを録音し文字化した。 2.3 分析の枠組み
Dörnyei(2009)のL2 Motivational Self System(L2-MSS)を枠組みとする。これは,認 知心理学の「可能自己(Possible Self)」を援用し,従来の動機づけ研究の成果を統合・再 概念化したモデルである。表 1 に,Dörnyei(2009)に基づきL2-MSSの構成要素を示す。
表 1 L2 Motivational Self Systemの構成要素
英語 日本語訳 定義 1 Ideal L2 Self なりたいL2自己 「なりたい」と望む自己像のL2使用に関連する局面 2 Ought-to L2 Self なるべきL2自己 周囲や自身の期待を受けたり,想定される 否定的な結果を避けたりするために「なる べき」と感じる自己像の,L2使用に関連 する局面 3 L2 Learning Experience L2学習経験/環境 実際の学習経験や学習環境 (稿者和訳) L2-MSSは,次の 2 点から分析の枠組みとして妥当であると判断した。①従来の研究を統 合したモデルであり,説明できる範囲が広いため,複数の要因を関連づけて分析・考察する のに適すると考えられる。②教育現場での応用を視野に入れたモデルである。 なお,心理学の分野では,「理想自己」「義務自己」という定訳が用いられる。しかし, Ideal L2 Self/Ought-to L2 Selfは,より未来志向性が強いと判断した。そこで,変化を表 すために「なりたい」「なるべき」という訳を用いる。また,術語であることを明確に示す ため,本文中では[ ]に入れて表記する。構成要素 3 の L2 Learning Experience に関 しては,定義に学習環境も含まれる(Dörnyei 2009:29)ため,「学習経験/環境」と併記 することとする。
2.4 分析方法
まず,文字化したデータを繰り返し読み,富吉(2014)で抽出された要因に関するエピ ソードを抜き出した。また,Shoaib & Dörnyei(2004)の「動機構成概念の 7 つの局面」 を用いて要因の探索も平行して行い,新たな要因を説明する事例も取り出した。そして,内 容を損なわないように,協力者の語りをまとめなおした。その後,要因同士のつながりに注 目して類似事例をグループにまとめた。そしてL2-MSSを枠組みに,要因がどのように学習 意欲に作用しているか分析・考察を行った。分析・考察の客観性を高めるため,グループ化 できなかった事例は本稿では分析対象としていない。ただし,できるだけ多くの事例が含ま れるように留意してグループ化を行った。なお,富吉(2014)で抽出された要因例は,次 ページ表 2 に示したとおりである。 表 2 富吉(2014)で抽出された学習意欲に影響を与える要因例(一部抜粋) 動機構成概念の 7 つの局面 意欲を上げる要因例 意欲を下げる要因例 1 情意的・統合的局面 学習の楽しさ 勉強の大変さ,プレッシャー 2 道具的・実用的局面 就きたい職業との関わり,日本渡航の奨学金 3 自己概念に関係した局面 満足感,競争心,自己の能力への不満足感 挫折感,劣等感,自己の能力への不満足感 4 目標に関係した局面 理想モデルの存在様々な理由での目標設定 努力と成果が見合わないゴールの遠さの認知 5 教育文脈に関係した局面 試験結果,成績,指名されて答えられない 宿題/学習量の多さ学習内容の難しさ 6 重要な他者に関係した局面 先輩,友人,日本人,両親・家族への思い 先輩,友人 7 L2接触と環境文脈に関係した局面 メディアとの接触,実際使用場面の経験, 実際使用場面での不満足感 実際使用場面での挫折感 「動機構成概念の 7 つの局面」はShoaib & Dörnyei 2004による。
その和訳は,小西2006,岩本2010を参考に稿者作成。 3 .分析と考察 事例をグループ化した結果,①〈実際使用場面での不満足感〉と〈友人〉,②〈先輩〉の 影響,③〈実際使用場面の経験〉と教育文脈における学習の意味づけ,④既習者と未習者の 混在,⑤教育文脈におけるワークロード⑥意欲が上がる授業・下がる授業の 6 つに分けられ た。 以下に,協力者の語りをまとめた事例や,協力者の発言を で囲んで示し,分析・ 考察をする。使用した記号の凡例は次の通りである。
本文中の〈 〉 富吉(2014)で明らかになった要因 事例中の「 」 協力者のタイ語による発言の日本語訳の引用 事例中の「斜体」 協力者の日本語による発言の引用 ( ) 内容を理解するために必要な補足事項 3.1 〈実際使用場面での不満足感〉と〈友人〉 事例 1 :ムアイ( 4 )( 1 年生) 日本語学習開始時期:大学(未習者) ムアイは意欲が上がったエピソードとして,「友達が目の前で日本人と話せているのを見たと き」を挙げた。 1 年生になったばかりの頃,友人と一緒に,道に迷っている日本人観光客に会っ た。助けたかったが,まだ入門期だったため話せなかった。その時,既習者の友人が目の前で日 本人と話せているのを見て,「もっと勉強しなければならないと思った」。「友達に(日本人が何 と言っているのか)聞くのではなく,自分で直接話したい。自分で言えるようになりたい」と強 く感じた。その後,ムアイは友人に追いつくべく努力を重ねた。「教科書の単語の暗記」に始ま り,「インターネットで日本語上達法を調べた」り,「友達が知っているのに自分が知らない言葉 をすぐメモする」ようになった。 この事例からは,実際使用場面で友人との差を感じ,奮起した様子が見て取れる。これ は,〈友人〉と共に実際使用場面に遭遇し,自分だけできないという経験をしたことが,〈実 際使用場面における不満足感〉を生んだといえる。クラスメイトとの能力差を目の当たりに することで,〈競争心〉が芽生える。そして,これらの〈友人〉は身近な存在であり,「自分 も同じようになれるはず」という気持ちを喚起すると考えられる。この〈友人〉は,単に『自 分より能力が高い』のではなく,『自分がしたいと望むことを遂行できる能力を持っている』 存在である。その意味で “ 身近な理想モデル ” といえる。 “ 身近な理想モデル ” としての 〈友人〉は,L2-MSS の[なりたい L2自己]の具体例であり,[なりたい L2自己]の明確な イメージを持たせると考えられる。 一方,実際使用場面で〈友人〉との能力差を感じたが,意欲向上には結びつかず,意欲の 低下を招いた事例もあった。 事例 2 :ネーン( 2 年生) 日本語学習開始時期:高校(既習者) ネーンは意欲が下がる場合として,友達が日本人と話せているのを見たときを挙げた。ネーン は,友人が日本人教師や,日本から交流に来た大学生,Facebook上などで日本人と話している のをよく目にする。その時,「(友達と比べ)自分はどうして話せないのか」と思い,「ストレス を感じる」。「友達は日本人とちゃんと会話ができるが,自分は何を話せばいいのかわからない」 ため意欲が下がると言い,「勉強はできるが会話は下手。書くのはOK,試験もOK」と述べた。 そして,自分は「恥ずかしがりや」であり,会話では「緊張しすぎる」と説明した。 ネーンの場合,『日本人と会話ができる友人』は,[なりたいL2自己]のイメージにつな がっていないと考えられる。どちらかと言えば,ネーンにとって『日本人と会話ができる自
分』は[なるべきL2自己]なのではないだろうか。ネーンは,勉強や試験という教育文脈 内の日本語能力に自信を持っている。そのネーンにとって,同じ教育文脈で学習している友 人ができることは,自分もできなければならないことであろう。つまりこれは,周囲の友人 やネーン自身の期待が反映された[なるべきL2自己]であると考えられる。しかし,自身 の性格や実際使用場面における緊張感から,[なるべきL2自己]の実現は難しいと認識して いる。したがってネーンの場合,〈友人〉と共に実際使用場面を経験したことは,[なるべき L2自己]の達成の挫折といえるだろう。そのため,事例 1 とは異なり,意欲低下に結びつ いたと考えられる。 以上から,実際使用場面を〈友人〉と共に経験し,〈実際使用場面における不満足感〉を 感じることは,意欲の向上にも低下にもつながることが明らかになった。自分より能力が上 の友人を[なりたいL2自己]と結び付けて捉えれば,その友人は “身近な理想モデル” と なり,意欲向上につながる。しかし,友人を[なりたいL2自己]と捉えられなかったり, その実際使用場面を[なるべきL2自己]の達成の挫折経験だと認識したりすると,意欲が 低下してしまうと考えられる。 3.2 〈先輩〉の影響 〈先輩〉も,学習者の[なりたいL2自己]の形成を促進していた。 事例 3 :A 日本語学習開始時期:大学(未習者) Aは 1 年の時,奨学金つき日本研修プログラムの存在を知り,参加者である先輩の話を聞いた ことで学習意欲が上がった。Aは企業で働いた経験から,「通訳になりたい」という目標を持ち 入学した。それでも,プログラムを知る前は,「ボーっとしていた」。授業を聞き宿題をするだけ だった。しかしプログラムの話を聞き,「ドキドキして」自分も行きたくなった。そして,奨学 金をもらうためにはがんばらなければならないと思った。また,日系企業に勤めている先輩の話 を聞いたり,Facebook上で生活の様子を見たりした時にも意欲が上がる。特に給料の話をよく しており,一般よりかなり高い初任給の額を聞き,「いいなぁ」と思う。しかし,日々の宿題や 授業,漢字の多さなどで意欲が下がることも多い。先輩の仕事の話を聞き意欲が上がっても,宿 題や授業で意欲が下がり,また先輩の話を聞いて意欲が上がる。学習意欲はよく「上がったり下 がったり」し,維持するのは難しいと述べた。 この事例からは,〈先輩〉が,大学の奨学金つき日本短期研修プログラムへの参加,日系 企業への就職の 2 点で[なりたいL2自己]に結びついていることがわかる。特に日本研修 プログラムへの参加は,複数の協力者から言及されており,P大学の学習者にとって意欲向 上のきっかけになっている。これは,要因の作用が学習者を取り巻く文脈と密接に関わって いる例である。 また,〈先輩〉も “身近な理想モデル” となっていることがわかる。特に先輩の場合,友 人と比べて〈競争心〉より『憧れ』の気持ちを喚起しやすいと思われる。〈競争心〉はとも すれば〈挫折感〉につながる。また,友人との比較から〈劣等感〉が生まれる場合もある。
しかし,『憧れ』はそのようなネガティブな概念にはつながりにくいだろう。よって,友人 の成功に比べ,先輩の成功は意欲低下につながる可能性が低いといえるのではないだろう か。 一方,〈先輩〉の日系企業への就職という点は,意欲向上に一定の効果はあるものの,影 響は短期的・一時的に留まっている。日系企業に就職した先輩の話を聞いて上がった学習意 欲も,日々の学習上での困難に影響を受け,下がってしまうのである。これは,〈先輩〉の 影響によって形作られる[なりたいL2自己]の明確さに差があるためと考えられる。事例 3 では,〈先輩〉は 2 つの点で[なりたいL2自己]に結び付いていた。すなわち,『奨学金 つき日本研修プログラムに参加する』点と,『日系企業に就職し,高い給料を得る』点であ る。このうち前者に関しては,参加者である先輩の写真を使った掲示物などがある。つま り,具体的な場面を伴ってイメージすることが可能である。一方,後者の日系企業への就職 や給料に関しては,話に聞くのみで実際に勤務している様子を見ることはない。つまり, 『日系企業に就職する』という[なりたいL2自己]のイメージはやや漠然としたものである のではないだろうか。そのため,向上した意欲の維持に結びつかなかった可能性がある。 以上をまとめると,〈先輩〉は学習者の[なりたいL2自己]の形成を促進しているといえ る。しかし,〈先輩〉のどのような面を[なりたいL2自己]に結び付けているかによって, 意欲向上や維持に与える影響の強さは異なる。特に,日系企業への就職という[なりたい L2自己]の形成の面においては,一定の効力はあるもののイメージの明確化には不十分で あり,その結果,短期的・一時的な意欲向上要因となるに留まる可能性が示唆された。 3.3 〈実際使用場面の経験〉と教育文脈における学習の意味づけ ここでは,〈実際使用場面の経験〉と教育文脈における学習の関連が言及された事例を見 る。 事例 4 :ポー( 2 年生) 日本語学習開始時期:高校(既習者) ポーは意欲が上がったエピソードとして,高校のときに日本から来た高校生と交流したこと と,P大学の短期研修プログラムで日本へ行き,日本の大学生と交流したことを挙げた。どちら の時も,「知っていることがまだ足りない」と感じ,もっと勉強をしたいと感じたという。今で もメールやFacebookを通じて交流を続けており,次は「 1 年の長期留学に行きたい」と希望し ている。そのために,選択科目で作文の授業を取った。「(P大学の奨学金つき長期留学プログラ ムに)応募するときに作文を出さなければならない」からだという。 また,意欲が下がったエピソードとして,「(応募書類作成に)役に立つ」という思いで履修し たその作文の授業で,思うように書けず,泣きながら居残りをして作文を書いたことを挙げた。 しかし,日本語の勉強そのものをやめたいと思ったことは「ない」という。作文も「(今は)上 手になりました」と満足気に語った。 この事例からは,ポーが自らの日本語学習に意味づけを行っていることが読み取れる。 ポーは次の目標を長期留学と定め,その達成のために作文の授業を自律的に選択した。その
中で思うように書けないという経験をしながらも,意欲低下は一時的なものに留まり,最終 的には作文が上達したと認識するまでになった。ポーは授業の履修目的が明確で,『なぜ(そ の)勉強をするのか』という問いにはっきりとした答えを持っている。つまり,学習の意味 づけを行っているということである。そして,この目的の形成や学習の意味づけに〈実際使 用場面の経験〉が大きな役割を果たしていると考えられる。 ポーは,〈実際使用場面の経験〉から『日本人との交流に必要な知識を十分に持っている 自分』『長期留学をする自分』という[なりたいL2自己]を形成している。そして,その[な りたいL2自己]に近づくための手段の一つとして,教育文脈における学習を捉えている。 つまり,この事例からは,[なりたいL2自己]から[L2学習経験/環境]への影響が見られ たといえる。L2-MSSは[L2学習経験/環境]を[なりたいL2自己]および[なるべきL2自 己]とは異なるレベルに位置づけている。その上で,[L2学習経験/環境]から[なりたい L2自己]/[なるべきL2自己]へのつながりを想定している。しかし事例 4 では,実際使 用経験が[なりたいL2自己]を形作り,それが[L2学習経験/環境]の捉え方を変えてい る。また,[なりたいL2自己]に支えられた学習の意味づけは,課題の困難さなどの意欲を 低下させうる要因の影響を防ぐことが示唆された。つまり,[なりたいL2自己]と[L2学習 経験/環境]は,相互に作用しあって学習意欲に変化をもたらすと考えられる。 3.4 既習者と未習者の混在 協力校ではクラスの中には常に既習者と未習者が混在している。そのため,既習者にとっ ては初期の学習は復習となり,始めは既習者と未習者には大きな差がある。しかし,ある時 期からこれまで学習したことのない内容が出てくる。このような状況で,既習者が『自分よ り上手な未習者』を意識したとき,意欲が低下した事例があった。また,次のような事例も 見られた。 事例 5 :ビー( 2 年生) 日本語学習開始時期:高校(既習者) ビーは高校で日本語学習を開始したが,高校では毎年日本語の教師が変わり,そのたびにひら がなからやり直した。そして,大学入学後,習熟度別のクラスでは下のグループになった。他の 高校で日本語を学習してきたクラスメイトの中には,「(自分たちを)見下している」と感じるよ うな態度の人もいたと語る。ビーは,他の高校で勉強した人ができるなら自分にもできるという 気持ちで,また,高校での未習者を助けたいという気持ちで勉強したと述べた。その結果,ビー は下位クラスに属しながら上位クラスのトップの学習者を上回る成績を取り, 2 年進級時には上 位クラスに入ったという。 事例 5 では,既習者同士のライバル心も加わり,既習者として奮起した様子がうかがえ る。既習者・未習者が混在する環境では,既習者は未習者よりできるのが当然であるという 雰囲気が醸成されたとしても不思議ではない。その状況で習熟度別のクラスで下のグループ に配されたことは,ビーの自尊心を大いに刺激したと思われる。ビーは「未習者を助けたい
と思った」と述べているが,既習者として期待される役割を果たしたいという思いもあった のではないだろうか。それが強い学習意欲を生み,成績の向上につながったと解釈できる。 このように,既習者は未習者と共に学ぶことで,既習者として周囲や自分自身の期待に応え られる存在でありたいという意識を持つと考えられる。これは[なるべきL2自己]の定義 に当てはまる。したがって『未習者よりできる自分』は,既習者にとっての[なるべきL2 自己]であるといえる。本研究の事例からは,[なるべきL2自己]を実現・維持したいと感 じると意欲向上に結びつき,その維持が脅かされると意欲が低下する可能性が示唆された。 また,[なるべきL2自己]と教育文脈および[L2学習経験/環境]のつながりの一端も示さ れたといえる。既習者・未習者というのは,教育文脈によって作られる役割である。さら に,既習者と未習者が混在しない環境においては,その役割は顕在化しないであろう。つま り,上記の事例の既習者としての[なるべきL2自己]の形成には,教育文脈とP大学の学 習環境が作用しているといえるのではないだろうか。加えて注目すべき点は,[なりたいL2 自己]と[なるべきL2自己]の関係である。ビーの事例では,『既習者として未習者を助け られる自分』というイメージが意欲を向上させていた。これは[なるべきL2自己]である と捉えられる一方で,自分よりできる既習者の姿に喚起された[なりたいL2自己]として の側面も持つのではないだろうか。つまり,[なりたいL2自己]と[なるべきL2自己]は二 分が不可能な場合もあるといえる。 3.5 教育文脈におけるワークロード 富吉(2014)では,意欲が下がる要因として教育文脈に関係した局面が圧倒的に多く言及 された。中でも多かったのは,①〈宿題の多さ〉,②〈学習量の増加〉,③〈学習内容の難し さ〉の 3 点であった。これらは,学習者のワークロードに関する問題である。以下,事例を 見ていく。 3.5.1 〈宿題の多さ〉 事例 6 :トット( 3 年生) 日本語学習開始時期:高校(既習者) トットは学年が上がるにつれて意欲が下がってきたと語り,その理由の 1 つとして宿題の量を 挙げた。複数科目の宿題の期限が重なると,間に合わせるために適当に済ませざるを得なくなっ てしまう。それが続くと,「自分はちゃんとしていない」「宿題も適当にして,出すだけ」と思 い,意欲が下がるという。時間があったらもっときちんと宿題をやりたいか,と問うと,ともか くまずは宿題をゆっくり考える時間が取れると思う,満足していないのに出さなければならない ことがある,と答えた。 事例 6 から,宿題に関しては,量が多いだけではなく期限に間に合わないという面が意欲 の低下に影響していることがわかる。学習者は日本語のみならず,他の科目も履修してい る。また,日本語関係の授業でも様々なクラスがある。しかし,教育文脈ではほとんどの場 合,宿題は授業ごとに出されており,提出期限の調整などはなされていないだろう。宿題の
量が単に多いというだけではなく,学習者の時間上の制約内でできる量を超えたものになっ ていると推察できる。つまり,宿題に関しては,ワークロードの量が学習者の持ち時間に対 して不適切であることが,意欲低下を招いているといえるのではないだろうか。 教育文脈においては,『宿題をきちんとやり,期限までに提出する自分』は学習者の[な るべきL2自己]であると考えられる。しかし,ワークロードが不適切であると,学習者は この[なるべきL2自己]の実現は難しいと認識する。つまり,[なるべきL2自己]の実現可 能性の低さが意欲を低下させているといえるだろう。 3.5.2 〈学習量の増加〉 ワークロードに関しては,『多さ』に加えて,『変化』についても言及された。 事例 7 :ミン( 3 年生) 日本語学習開始時期:高校(既習者) ミンは意欲が下がったエピソードとして,3 年生になり宿題が増えたことを挙げた。宿題は「山 のよう」にあると言い,一日何時間くらいかかるかと問うと「ずっと」と答えた。さらに「(こ んなに宿題が多いのは) 3 年生だけ」と述べ, 2 年生より増えたという。具体的には,通訳,翻 訳,ITの科目の宿題を挙げた。特にITは会社で役に立つとは思うが,元々コンピューターが得 意ではないため,非常に大変だったと語った。 ミンのエピソードには,宿題の『量』の変化と『内容』の変化が見受けられる。協力校で は 2 年生で初級の学習が終わり, 3 年生からは専門的な科目が多くなる。これらの科目は日 系企業への就職を見据えたものとなっており,ビジネス場面で実際に使われる言葉や表現が 出てくる。また総合日本語のクラスも,初級が終わると急に難易度が上がることは想像に難 くない。このように,協力校のカリキュラムでは, 3 年生になるとワークロードの量・質と もに大きく変化しているといえる。この急激な変化が,意欲低下を引き起こしていると考え られる。 3.5.3 〈学習内容の難しさ〉 〈学習内容の難しさ〉も,教育文脈に関係した局面において,意欲低下要因として多く挙 げられた要因である。 事例 8 :プロイ( 2 年生) 日本語学習開始時期:高校(既習者) プロイは意欲が低下する状況として,「難しい文法や漢字」が出てきたときを挙げた。文法に は例外があり,それを覚えるしかないときに意欲が下がる。具体例として “召し上がる” などの 尊敬語を上げ「最低!」と語った。漢字に関しては特に「覚えられないとき」に意欲が下がる。 しかし,漢字は「好きでも嫌いでもない」といい,それは「(漢字の学習は)やらなければなら ない」ものであるからだという。教師が例として配ったひらがなだけで表記したプリントを見 て,そのわかりにくさから漢字の必要性を感じたと述べた。 事例 8 からは,次の 2 点が読み取れる。 まず,『難しい文法』に関しては,暗記力に頼るしかない状況が,難しさとして認知され
ていることがわかる。ここでは尊敬語が例として挙げられたが,教科書主体で文法を学ぶ場 合は,説明を聞き暗記するという活動が大きな比重を占める。実際使用を伴わないこの活動 は,楽しさも感じられず,心理的負荷が大きいため,意欲を低下させると考えられる。 『漢字』に関しても,暗記ができないことが意欲低下を招いている。しかしその一方で, 必要性も認知されている。必要性を感じているがゆえ,「覚えられない」ことは挫折感を覚 えさせるものであると考えられる。もしくは,必要性を感じてはいるものの,それはいつ終 わりが見えるとも知れない漢字の暗記に取り組むには,十分な強さでない可能性もある。こ のように,非漢字圏の学習者にとっては,漢字学習は非常に負担の大きい課題であり,意欲 低下の大きな要因となっているといえる。 以上をまとめると,『難しい文法』『漢字』など「面倒だ」「大変だ」と感じる学習活動が, 意欲の低下を引き起こすと考えられる。これはワークロードの質の問題であるといえる。し かし,このような学習活動は,他にもあるのではないだろうか。文法や漢字は,その象徴と して語られている可能性がある。つまり,具体的な『難しい文法』や『漢字』を要因として 捉えるだけではなく,心理的負荷が大きい学習活動が意欲低下要因になると考えるのが妥当 であろう。 以上,意欲低下要因として,教育文脈におけるワークロードを,①宿題の多さ,②学習量 の増加,③学習内容の難しさの 3 点から分析した。教育文脈におけるワークロードは,まず その不適切な量が意欲低下につながることが明らかになった。そして,ワークロードの変化 も意欲に影響を与えることが示唆された。特に,ワークロードが重くなると意欲低下を引き 起こすといえる。これらは,[なるべきL2自己]の実現が難しいと認識されることに起因す ると考えられる。また,学習活動や内容が学習者に与える精神的負荷も,意欲の低下を招く ことが明らかになった。このように,[L2学習経験/環境]内では,ワークロードに関する 問題が,意欲低下に結びつくといえる。ここで 1 点考慮すべきことは,ワークロードにまつ わる意欲低下エピソードは,他のエピソードに比べまとまった量の語りとして現れなかった 点である。このことから,学習意欲に影響する要因には,長期的に持続するものと,短期的 な影響に留まるものがあると考えられる。3.1から3.4で分析した事例は,長期間にわたる “ス トーリー” が多かった。一方,教育文脈におけるワークロードに関連する意欲低下エピソー ドは,ある一時点においての “出来事” であり,繰り返される “パターン” であった。今 回の調査からは,教育文脈における意欲低下要因には,短期的な影響力ではあるが繰り返し 現れるものが多いことが明らかになった。つまり,P大学の日本語主専攻者の[L2学習経験 /環境]には,短期的な意欲低下の経験が多く含まれると考えられる。 3.6 意欲が上がる授業・下がる授業 インタビューでは,まず特に場面を限定せずに意欲が上がるとき・下がるときを尋ねた。 上記の3.1から3.5は,その回答の分析である。それに加え,意欲が上がる・下がる授業につ いても質問した。なぜなら授業は,教育文脈の中でも特に教師の関わりが深いからである。
教師側から学習意欲に働きかける方法を見出すために,授業における意欲の変化を分析する ことは重要である。以下,授業に関する協力者の発言を分析し,考察を加える。 3.6.1 意欲が上がる授業 意欲が上がる授業には,次の 2 点の特徴が見られた。一つ目は『楽しさ』や『心理的負担 の軽さ』を感じられる点,二つ目は『教室外との関連』が見出せる点である。 まず,一つ目に関しては,特に教室内活動や教授方法に対しての言及が多く見られた。 ・ 会話の授業は楽しい。インターアクションがあるし,ゲームをしたり(先生が)絵を使ったり してくれる。日本人の先生と直接話せるのもいい。 [ムアイ・ 1 年生・未習者] ・ 会話の授業は,ゲーム形式の活動や発表があって楽しいのでやる気が出る。ガイドの授業も話 すし活動もあるが,一人で話さなければならないから会話とは違う。それに,専門的な内容を 覚えなければならない。会話は自由,(話す内容は)何でもいい。 [エット・ 3 年生・未習者] ・ 先生が面白い例文,例えばクラスメイトの名前を使うような例文を挙げてくれる授業や,絵や 写真を使ってくれる授業は意欲が上がる。 [ケット・ 2 年生・既習者] 会話の授業では,ゲーム形式の活動が取り入れられたり,絵が用いられたりする。これは 学習者にとって取り組みやすく,楽しいものであると考えられる。さらに,友人や教師との インターアクションがある。そして,発表や活動など,学習者が主体的に取り組める要素も ある。また,学習者側に選択の余地があることが,意欲向上につながることが窺える。加え て,教師の話を飽きずに聞くことができる点も,意欲向上要因になっている。このように, 授業で『楽しさ』を感じられることが,意欲を向上させると考えられる。さらに,以下の例 からは『心理的負担の軽さ』も,意欲向上に結びついていることがわかる。 ・ (意欲が上がったのは)日本語 1 (初級前半レベルの総合日本語クラス)。簡単だったから。 [ビー・ 2 年生・既習者] ・ どう使えばいいかわかるから,文法の授業は意欲が上がる。 [ネーン・ 2 年生・既習者] これらの発言は,学習者の能力内で容易に取り組める授業,すなわち心理的負担がない授 業が意欲を上げた例と考えられる。 このように,『楽しさ』『心理的負担の軽さ』が,意欲を向上させる授業の特徴であるとい える。しかし,これら要素はその場その場で感じる,一過性のものであるといえるのではな いだろうか。これらの要因で意欲が上がったとしても,それは授業内,もしくはその中の一 瞬で完結してしまう可能性があると考えられる。一方で,実際使用や将来の目標との関連を 見出せる授業を,意欲が上がる授業として挙げた協力者もいた。
・ ガイドの授業は意欲が上がった。敬語などもたくさん覚えなければならなかったが,外で本当 のガイドのように日本人と話すことができた。実際に日本人と話す機会があったので,会話の 授業より楽しかった。 [スー・ 3 年生・既習者] ・ 意欲が上がるのは会話の授業。自分は話せるようになるために日本語を勉強しているので,目 標と一番合っている。 [ナ・ 3 年生・既習者] ・ 意欲が上がったのは翻訳の授業。日タイ翻訳は簡単だった。タイ日翻訳は難しいが好き。でき ないからできるようになりたい。将来,通訳になりたいので。 [ミン・ 3 年生・既習者] 1 点目は,実際使用場面と結びつく授業で意欲が上がった例である。授業が実際使用に役 立つと認識できる場合に,意欲が向上していると考えられる。 2 , 3 点目の発言からは,将 来の目標との関連が読み取れる。つまり,授業が目標達成への道であると捉えられる場合, 意欲向上に結びつくといえるのではないだろうか。今福(2011)では「楽しさや満足感を感 じる授業」が学習意欲を高めることが指摘されている。授業が将来の目標の達成に結びつく と認識されることは,この「満足感」をもたらすと考えられる。 上記の例に出てきた実際使用場面や将来の目標は,学習者にとって教室の外に存在するも のである。したがって,『教室外との関連』が見出せる授業が意欲を上げるとまとめられる。 教室外にある実際使用場面や目標は,教室での一過性の『楽しさ』『心理的負担の軽さ』と は異なり,学習者個人に根ざしたものであるといえる。つまり,ここでもL2-MSSの[L2学 習経験/環境]と[なりたいL2自己]との関連が見出せる。4.3では,実際使用経験により, 先に明確な[なりたいL2自己]が形成され[L2学習経験/環境]の意味づけにつながって いた。上記の 1 点目の例は,[L2学習経験/環境]が『ガイドとして働く自分』という[な りたいL2自己]の形成・明確化につながっていると考えられる。 3.6.2 意欲が下がる授業 意欲が下がる授業として多く挙げられたのは,「作文」「タイ日翻訳」の二つであった。 作文の授業で意欲が下がる理由は,「度重なる書き直し」が主である。 ・ 作文は,書いて提出して,またもう一回やり直して「面倒くさい(笑い)」。提出して,「終わっ た!」という気持ちでいると,(添削されて)戻ってくる。それが,「1 回だけではなく毎週毎 週毎週……。」 [スー・ 3 年生・既習者] ・ 作文を提出すると,(赤ペンで訂正されて)真っ赤になって返ってくる。自分では正しいと思っ て書いた部分が訂正されているのはおもしろいが,全体としては(作文の授業は)嫌。(やり 直しを)「何回やらせる気!?」と思う。 [ビー・ 2 年生・既習者] 上記の例からは,作文の書き直しは,学習者にとって心理的負担およびワークロードが重
いことが読み取れる。また, 2 点目の例からは,自分の能力不足がわかることを「おもしろ い」と感じながらも,やり直しによって結果的には意欲が下がっていることがわかる。「何 回やらせる気!?」という発言は,ワークロードの妥当性に疑問を感じていることの表れで はないだろうか。作文の授業で意欲が下がるのは,心理的負担が重く,ワークロードの妥当 性・適切性が感じられないためと考えられる。ここには,教師の意図と学習者の受け取り方 のギャップが見られる。 タイ日翻訳の授業に関しては,内容に関する言及が見られた。 ・ タイ日翻訳は難しすぎる。工場の規則や方針,ビジネスニュースなど,(翻訳する)原稿自体 が難しい。その上「宿題も多い(笑い)」。この授業を受ける前は,通訳・翻訳の仕事をしたい と思っていた。(日→タイ,タイ→日を)直すだけだから簡単だと……。でも,この授業を受 けたことで本当に(通訳・翻訳の仕事を)やりたいかわからなくなった。 [チャエーム・ 3 年生・既習者] P大学の翻訳の授業で扱うのはビジネスに関連する文書である。加えて,調査地の日系企 業は工場が多いため,工場での専門用語が主となる。これらの文書は,学習者にとってタイ 語でもなじみが薄い。対応する日本語の語彙や表現も,総合日本語のクラスでは出てこない ものが多く,翻訳はワークロードが重い困難な授業であることが推察できる。また,この例 の場合,授業の困難さが,「通訳・翻訳の仕事に就く」という目標を揺るがしてさえいる。 授業内容が『教室外との関連』を持っていても,授業の難しさ,心理的負担やワークロード の重さが,教室外の目標を目指す力に勝ってしまう場合もあるといえるのではないだろう か。L2-MSS の[L2学習経験 / 環境]が,[なりたい L2自己]への負の影響力を持つ可能性 もあると考えられる。 以上,意欲が上がる授業・下がる授業を分析した。授業に関する意欲向上および低下要因 は,次のようにまとめられる。まず意欲向上要因には,『楽しさ』『心理的負担の軽さ』およ び『教室外との関連』があることが明らかになった。前者 2 点が,教室内での一時的・一過 性のものであるのに対し,後者 1 点は,学習の目的や将来の目標と結びつくものである。こ の点で,3.2〈実際使用場面の経験〉と教育文脈における学習の意味づけでも述べた,[なり たいL2自己]と[L2学習経験/環境]との関連が再び示唆された。一方,授業における意 欲低下要因としては,心理的負担やワークロードの重さ,ワークロードの適切性や妥当性が 見出された。また,心理的負担やワークロードの重さを伴う[L2学習経験/環境]が,その 経験と関連する[なりたいL2自己]の維持を脅かすという,負の影響力を持つ場合もある ことが示唆された。
4 .分析のまとめ 以上の分析結果を図式化し,図 1 に示す。 学習意欲に影響を与える要因の作用をL2-MSSの 3 要素に注目して分析した結果,要因は [なりたいL2自己]および[なるべきL2自己](以下,この二つを合わせて[L2自己]と表 す)に影響を与え,意欲向上・低下に結びついていることがわかった。それぞれの要因は, [L2自己]の形成・達成・維持に結びつくと意欲向上をもたらす。反対に,挫折・維持不可 となると,意欲低下を引き起こす。また,要因によっては,意欲向上要因にも低下要因にも なり得る。つまり要因は,文脈により学習意欲に異なる働きかけをするという,両面性・多 義性を持つといえる。
加えて,L2 Motivational Self Systemを構成する 3 要素である①[なりたいL2自己],② [なるべきL2自己],③[L2学習経験/環境]の関係性の一端も垣間見えた。[なりたいL2自 己]と[なるべきL2自己]は両面性・連続性を持ち,二分が不可能な場合もある。また,[な りたいL2自己]と[L2学習経験/環境]は相互に影響しあい,[なりたいL2自己]の明確化 や[L2学習経験/環境]の意味づけをもたらす。一方,[L2学習経験/環境]が[なりたい L2自己]を揺るがす可能性もある。このように,Dörnyei(2009)が指摘する[L2学習経験 /環境]のボトムアップ的影響に加え,[なりたいL2自己]からのトップダウン的影響も見 図 1 P大学の学習者の学習意欲に影響を与える主な要因とその作用
られた。また,Buasasengtham・義永(2015)が指摘したL2-MSSの構成要素の相互作用性 が本稿でも確認された。 さらに,[L2学習経験/環境]における意欲向上・低下要因は,短期的な影響に留まるも のと,長期的な影響力を持つものがあることが示唆された。特に,意欲低下要因には短期的 な影響力ではあるが繰り返し現れるものが多く,P大学の学習者の[L2学習経験/環境]に は,短期的な意欲低下の経験が多く含まれると考えられる。 おわりに 本稿では,富吉(2014)で抽出された学習意欲に影響を与える要因の学習意欲への作用 を,L2-MSSを枠組みに分析した。学習意欲に影響を与える要因は,[L2自己]を形成した り,形成された[L2自己]の達成・維持に影響を与えるものとして捉えられたりする。そ して,[L2自己]の達成・維持に結びつく場合は意欲を向上させ,達成・維持を脅かす場合 は意欲を低下させる。加えて,要因がどちらの[L2自己]を形成するか,形成された[L2 自己]の達成・維持をもたらすか脅かすかは,普遍的・一定的ではない。そこには学習者が 具体的文脈をどう捉えどのように自己と結びつけるかが関わる。つまり学習意欲は,羅 (2005)やBuasasengtham・義永(2015)でも指摘されているように,学習者と学習環境や 社会文化的文脈との相互作用によって生み出され,変化するものであるといえる。 以上を踏まえ,教育実践現場で教師ができることを考えたい。[L2自己]は,学習者が文 脈と自己を関連させて捉えることで形成され作用するものである。つまり,教師が[L2自 己]を学習者に “与える” ことはできない。教師ができるのは,学習者が文脈と自己を関 連づけて捉えられるように支援すること,その結果形成された[L2自己]の達成・維持が できるような環境を整えることであると考える。言い換えると,学習意欲を維持し高めるた めには,まず学習者による自身の日本語学習や実際使用への主体的・積極的な関与が不可欠 である。したがって教師は,日本語学習と教室内外での実際使用が有機的に繋がるような活 動を設計し,学習者が活動に主体的に関与しながら[L2自己]を形成・達成・維持できる ように支援する必要がある。 最後に,本研究の限界と今後の課題を述べる。まず,本研究はタイ中部P大学における日 本語主専攻者に対象を限定したものである。これは小西(2006:106)の具体的学習者や学 習場面に根ざして学習者の手助けとなる研究を行うべきだという主張に深く同意し,稿者が 意図したことである。しかし,P大学が置かれる社会文化的文脈は,日系企業の位置づけや 観光地であることなどから,比較的特徴的な面が多いことは否めない。今後は異なる文脈に おける研究の蓄積が必要だろう。加えて,本研究の協力者は日本語主専攻者であり,容易に は学習をやめられない。学習をやめてしまった学習者や,学習を継続するか否かを自由に決 められる学習者にも対象を広げた研究が望まれる。また,本稿の協力者は比較的学習継続期 間の短い初級学習者であった。しかし,長期間学習を継続している学習者は,学習経験にお いて挫折も数多く経験し[なりたいL2自己]を持てなくなっている場合もあるだろう。そ
のような学習者の学習意欲を検討することで,特に意欲の低下や再向上の側面がさらに明ら かになると考えられる。 次に,本研究で得たデータはインタビューでの語りであった。つまり,あくまでも学習者 の自己申告に基づくものであり,学習意欲の変化が実際にはどの程度であったのか,実際の 行動に本当に影響を与えたのかなどは不明である。文野(1999)は自己申告によるデータの 情報の偏りを指摘し,他のデータを用い複数の視点から解釈する必要性があると述べてい る。今後は,複数の手法を組み合わせてデータを得,観察や担当教師からの報告,学習の成 果物なども含め複眼的に解釈し,考察を深めたい。そして,学習者自身が用いる自己動機づ けストラテジーを含む意欲向上ストラテジーの提案につなげていきたいと考える。 付記 本稿は,2014年に桜美林大学大学院に提出した修士論文,および,2014年度日本語教育学会春季大会で行っ た口頭発表をもとに,加筆・修正を加えたものである。 注
( 1 ) 「動機構成概念の 7 つの局面(Shoaib & Dörnyei 2004)」は,これまでの研究における第二言語学習動 機の異なる構成概念を 7 局面に整理したものである。 ( 2 ) P大学日本語学科長への聞き取り調査によるもので,調査時点(2013年)の状況である。 ( 3 ) 日本語能力試験N1レベルのタイ人男性である。次の 4 つの理由から依頼した。①通訳の経験が豊富に ある,②協力者に年齢が近く,リラックスした雰囲気を作ることができる,③日本語教育に携わって いるため,背景知識を持ち,稿者の研究内容を理解してもらえる,④P大学関係者ではないため,協 力者が気兼ねせず話しやすい。 ( 4 ) 名前は全て,協力者本人が決めた仮名である。 引用文献 岩本尚希(2010)「外国語学習者の学習継続要因に関する一考察─言語学習ヒストリーから─」『桜美林言語 教育論叢』第 6 号,pp29-43. 今福宏次(2011)「教室内学習場面における日本語学習意欲の変化─学習意欲を高め自律学習を促す教師の役 割─」『淡江日本論叢』第23号,pp185-204. 小西正恵(2006)「動機・態度」津田塾大学言語文化研究所 言語学習の個別性研究グループ(編)『第二言 語学習と個別性─ことばを学ぶ一人ひとりを理解する─』第二部Ⅱ- 3 ,春風社,pp92-108. 富吉結花(2014)「日本語学習者の学習意欲に影響を与える要因に関する質的調査─タイ中部P大学日本語主 専攻者を取り巻く文脈において─」『桜美林言語教育論叢』第10号,pp39-54. 西部由佳(2009)「教室内外での出来事による学習者の『学習意欲』の変動とその背景となる心理的要因─ 『可能性の予期』に注目して─」『小出記念日本語教育研究会論文集』第17号,pp21-32. Buasasengtham, A.・義永美央子(2015)「ライフストーリーから見られた非漢字圏日本語学習者の漢字学習 への動機づけ─L2 Motivational Self Systemの観点から─」『多文化社会と留学生交流:大阪大学国 際教育交流センター研究論集』第19号,pp13-34.
文野峯子(1999)「学習過程における動機づけの縦断的研究─インタビュー資料の複眼的解釈から明らかにな るもの─」『人間と環境─人間環境学研究所研究報告─』第 3 号,pp35-45.
守谷智美(2002)「第二言語教育における動機づけの研究動向─第二言語としての日本語の動機づけ研究を焦 点として─」『言語文化と日本語教育』2002年 5 月特集号,pp315-329.
八島智子(2004)『外国語コミュニケーションの情意と動機─研究と教育の視点─』,関西大学出版部 羅暁勤(2005)「学習者のモチベーションを研究する」西口光一(編著)『文化と歴史の中の学習と学習者─
日本語教育における社会文化的パースペクティブ─』第 9 章,凡人社,pp189-211.
Dörnyei Z. (2009) The L2 Motivational Self System. Z. Dörnyei. & E. Ushioda. (eds.) Motivation, Language Identity and the L2 Self. Bristol: Multilingual Matters. pp9-42.
Dörnyei, Z. & Ushioda, E. (2011) Teaching and Researching Motivation (Second Edition). Harlow: Longman. Shoaib, A. & Dörnyei, Z. (2004) Affect in Lifelong Learning: Exploring L2 Motivation as a Dynamic Process.
P. Benson. & D. Nunan (eds.) Learner’s Stories. New York: Cambridge University Press pp22-41. Williams, M. & Burden, R.L. (1997) Psychology for Language Teachers: A Social Constructivist Approach.