遊歴雑記にみる江戸の眺望景観
-景観記述と地形条件に基づく地理学的分析-
Records in the “Y^ureki Zakki” regarding Vested View of Edo-City
Geographical Analysis based on the Landscape Descriptions & Land Conditions
-尾 藤 章 雄
Akio BITO
1. 本稿の目的 遊歴雑記とは、江戸の小石川小日向水道町(現文京区小日向)にある生西寺の住職、十方庵敬順が 1814(文化 11)年に書き上げた地誌書で、1836(天保7)年に完成した江戸名所図会、1830(天保元) 年に完成した新編武蔵風土記 稿などとあわせて、町人文化 が盛んになった時期の江戸の 町を克明に記した書として知 られる。 尾藤(2014)はこの初編の 中で、眺望景観が特に賞賛さ れている神田川落合付近の3 地点の記述に着目し、視点、 景観要素の内容と、相互の位 置関係を分析した。このうち 2地点はいずれも、数十メー トルの比高で南側を東西に流 れる神田川の谷底を見下ろす 台地末端、残る1地点はその 神田川の河原に位置していた。 近景の水流が作り出す長閑な水辺、四季の彩り、中景には人々の生活の舞台となる農村集落、そして 遠景には富士を含む丹沢や秩父の山々があり、この3地点からの眺望景観は、自然と人文にまたがる景 観要素が絡み合う形で奥行きと立体感を持ちながら、しかも一幅の絵のように一望できるものであるこ とを明らかにした。茶を嗜んで風流を解する著者が賞賛する江戸期の景観には、ある一定の構図が存在 することが明らかにされたのである。 本稿は前稿に続き、初編の中で眺望景観が記述されている項目を総て抽出し、その視点、景観要素、 相互の位置関係に加えて、著者がその景観を如何様に評価したかを、当時の地形条件をふまえて詳細に 分析し、江戸の眺望景観にみられる地理学的な特徴を明らかにしようとする。 前稿と同様に、引用した遊歴雑記の記述は、漢字・かな使いとも江戸叢書三巻(江戸叢書刊行会、 1980)に収録されたものによったが、表記の上でやむを得ず新漢字・かな使いに修正した部分がある。 2 遊歴雑記における眺望景観とその評価 遊歴雑記は全部で5編からなり、各編が巻の上・巻の中・巻の下に分かれ、さらに巻の上・中・下と 図1 遊歴雑記本文(江戸叢書 第3巻)もに 60 から 70 前後の項目から構成されている。各項目には著者が逍遙の目的地として訪れた名所旧跡 について、その故事来歴、その場所で実際に見た神仏・草木、その場所で地元の人々から見聞した知見、 そして自らの住まいからその名所旧跡を往復する途中で見た景観、出会った人々との交流などについ て、主観に基づいた忌憚のない意見・感想が書かれている。同時期に完成した新編武蔵風土記稿が公的 な地誌書として、網羅的で画一的な記述となっているのと対照的に、著者の主観に基づいた、いわゆる 当時の風流を解する茶人の本音に基づいた景観評価を分析できる点で、遊歴雑記は大変優れた資料と言 うことができよう。 著者が訪れた名所旧跡の位置を現行の行政区分と重ねてみると、東京 23 区内に位置する場所を扱っ た項目は、初編巻の上に 33、巻の中に 47、巻の下に 44 のあわせて 124 項目あり、初編全体 196 項目の うちの 62%を占める。以下埼玉県(武州北部)に位置するものが 33、千葉県(下総国)に 20、神奈川 県(相州)に 15、そして 23 区外の東京都内(武州)に7、茨城県(常陸国)に2である。さらに武州 でも豊島郡を筆頭に葛飾郡、荏原郡の順に多くなっている。著者が住職を務めていた小石川小日向の寺 表1 眺望景観に関わる記述(初編の上)
が江戸城の北側に位置し、これを出発点として、主に日帰りの逍遙を繰り返していたことを考えれば、 訪れた場所が江戸の北側に偏るのは、当然のことと言えよう。 124 項目のうち、眺望景観に関わる記述が含まれる項目は巻の上に7、巻の中に 13,巻の下に 14 の あわせて 34 項目あり、それぞれの記述から視点(視点場)、景観要素(主対象)、相互の位置関係(視 点場住所と眺望方向)と、著者がその景観を如何様に評価したかがわかる記述(景観評価)を抽出して まとめたのが表1~3である。 表2 眺望景観に関わる記述(初編の中)
この表1~3については、視点(場)住所は記述された寺社の名称などから現行の住所を特定してい る。また、視点場の地形面は東京都(1997)に掲載された地形分類の名称を用いた。眺望方向について は記述された内容に基づくが、推定を含めて特定した所もある。原文の眺望方向の記述の中で、視点と の位置関係からみて誤りと思われるものについては適宜修正した。主対象及び景観評価については、原 文の縦書きの記述を横書きで表記しているため、奇〈妙〈(=奇奇妙妙〉、こゝろ〈(=こころこころ) のように踊り字(繰り返し符号)についてはわかりにくくなった。景観評価の記述も原文から可能な限 り忠実に抽出したが、表記の上で適宜新漢字・かな使いに修正した部分がある 表3 眺望景観に関わる記述(初編の下)
3 眺望景観の記述にみられる特徴 (1)風色・景望・風景の使い分け 眺望景観の記述に用いられた語を整理すると表4のようになった。景観を示すものとしては、風色 (23 カ所;以下この語の出現頻度)」「景望(10)」、あるいは「風景(7)」が多い。広辞苑によると、「風 景」は「風色」とほぼ同義に用いられるが、後者が天候状況を含めた「ながめ、ありさま」を含意する のに対して、「風景」の方は人の様子を意味する「風采」をも含意するという。 遊歴雑記においても、「墨田堤を人の行通ふ様(初中 19)」に対して「風景言語に絶たり」とある一 方で「目に障る物なく、唯蒼海の青みたる(初下 40)」に対して「風色いはん方なし」など、眺望の中 に人の描写を含む場合について「風景」が用いられるようである。ただ例外もあり、「隅田堤を行客の 引きもちぎらず往来して、櫻の花色にうかれ歩行様(初下 47)」に対して「総て風色の天然奇〈妙〈」 と用いられている例もある。「景望」は広辞苑にはないが、眺望と同様に遠くを見渡すという意味を持 ち、主に開放的な見渡せる景観に対して用いられている。 なお、本稿の「眺望景観」或いは「景観」は風色・景望・風景と混乱しないように、これら3つの語 を包括して指すものとした。 (2)人為の加わらない自然のままの風景を評価する「風色天然」 「風色、景望、風景」の語と「天然、天造、自然」の語とを組み合わせた「風色天然」「風色自然」「天 然の風色」或いは「風色元来自然にして」の文例は 13 と多い。著者は初編巻の中 76 の「日ぐらしの眺 望雪見寺」の項目で、「予が愛するものは天造の風色自然の景地たり、・・・(中略)・・・愛すべきは作 らずして天造の景望なる事を」と述べており、人為 の加わらない自然のままの風景を見てまわることを、 逍遙の第一の目的に挙げている。すなわち遊歴雑記に おいて、「人為の加わらない自然」に対して用いられ る「風色天然」およびその類似の語は、眺望景観を最 も高いレベルで評価したものと判断できる。表1~3 においては、この文例に=(二重下線)をつけて示した。 ではこの高い評価につながった主対象にはどのよ うなものがあるのだろうか。「風色天然」については、 「耕地を眺望、和田戸山を望み、猪のかしらの下流を ながめ(初上5)」、「渚に千鳥鴎などの求食、海士の 藻引ありさま、又海越の幽、あなたに房総の遠山を 景望す(初上 49)」など自然的要素が主となっている。 「風景天然」については、「耕地の爽圃と覚敷きは黄色に、青みたるは苗代、赤く美しきは撫子の類の草 花を作れるにや有ん(初中 51)」、「木母寺より御菜園場へと懸わたせる反橋を、人の往來する様の遙見 えで(初下 27)」など耕地、苗代などの人文的要素、人の往来する様であっても周囲の自然的要素と一 体化している場合には、この高い評価につながったようである。 同様に、「風色、景望、風景」の語と「一品(あり)」とを組み合わせた文例は5つある。一品とは、 優れた品、絶品の意味である。「四方山の花咲き揃ふ頃より、耕地一面の菜のはなも又めづらしく、夏 はほとゝぎす、ほたる、むしの音、花野、紅葉、雪見まで(初下 44)」に対して「風色一品の土地とい はんかし」、「深田のみにして、渺漠と目にさはるものなく、後ろをかえり見れば、本門寺の山は獨立し て木立尤も繁茂し(初下 52)」に対して「風色又一品なり」と、自然的要素、特に草木を広く見渡すよ うな開放的な眺望景観を高く評価する傾向がある。 表4 景観の記述に用いられた語 (数字は初編における出現頻度)
(3)人や動物の行為に対して評価する「面白い」 「風色、風景」の語と「面白い(し)」の語とを組み合わせた文例は 13 ある。美しい景色を形容する 語として、目の前が広々と開ける感じ(広辞苑)を含意とし、「気持ちが晴れる、愉快だ、心をひかれ る」などの意がある。表1~3でこの文例には (下線)をつけて示した。「青みたるよしきりと云 鳥の彼方此方に囀る(初中 51)」に対して「聲の面白く」、或いは「墨水の流れ清く、帆あげて走る船 あり、又は三弦のつれ彈に漫興をそふる屋形船、扨は釣りを垂、網を打或は艪おし切て猪牙の急ぐ(初 下 21)」に対して「面白く」とある。いずれも主対象が人や動物の行為である場合が中心で、その行為 に心ひかれるという評価を与えたものと解釈できる。 (4)希少な景観に対して評価する「奇々妙々」 「奇〈妙〈(奇々妙々)」も文例が9と多い。奇観も 同義とみて良いだろう。この文例にも 表1~3で (下線)をつけて示した。「茂林松柏の風情(初中 25)」、「増上寺の茂林塔の九輪迄手を近く、海上の風 色皆一望の中に有(初中 30)」、「果しなき耕地を見晴 し、蒼濱海を眺望して(初下 40)」に対して「奇〈妙 〈」、或いは「奇〈妙〈といはんかし」とある。「奇妙」 には、「珍しい、不思議」の意があり、奇〈妙〈と重 ねることで、意味はさらに強調される。上記の場合も、 林の中に松と柏が一緒に見られること、増上寺の塔 がとても近く見えること、海上が一度に見渡せるこ とが、江戸周辺の名所旧跡を数多く訪れている著者 にとっても、他に例がない思えるほど珍しいと感じ て、評価したのである。 このほか景観自体を評価する語として、「勝地(4)、景 地(2)、絶景(3)、美景(2)、雅景(1)」がある。勝地 は景色の良い土地、名勝の意で、すでに人を集める程に なっている場所を指し「一箇の勝地ともいはんかし」と 用いられる。絶景、美景などとほぼ同義だが、すでに人 に知られているという点を含意として評価したものと言 えよう。 以上から、眺望景観の評価においては、(1)人為の加 わらない自然のままの風景、(2)人や動物の行為、(3) 希少な景観要素、をそれぞれ主対象とする3つの尺度が 存在する事が明らかになった。 4 眺望点と景観要素 視点場の位置を特定し、台地・低地・河川流路など地形条件と重ねて示したのが図1~図3である。 地形条件については、国土地理院の作成した数値地図5m メッシュ(標高)のデータをカシミール3D 図2 眺望景観と地形条件(神田川・谷田川) 図3 眺望景観と地形条件(隅田川・海浜)
のフリーソフトを使って地図化し、起伏を強調する加工を施した上で標高に応じて着色を施した。また、 明治期に作成された迅速図を参考に、江戸末期の海岸線になるよう図を修正した。各視点場について景 観評価につながった主対象を推定し、視点場からの眺望方向に合わせてアルファベット記号(M、R、S、 A、F、H、P)を配置して示した。 眺望景観が評価された視点場の分布には、集中する場所が2つある。1つは江戸城の北側を東流する 神田川と谷田川の左岸で、河川沿いの低 地を臨む台地(豊島台、赤羽台)の南端 或いは西端であり、神田川沿いには6カ 所(尾藤,2014 の3カ所を含む)ある(図 2)。 もう一つは隅田川の浅草。向島辺りか ら北に綾瀬川との合流点までの間で8カ 所ある(図3)。この他に、江戸城の南側 を東流する渋谷川と目黒川の左岸、河川 沿いの低地を臨む台地(淀橋台)の南端 にも6カ所ある(図4)。 これらの視点場に共通するのは、いず れも河川という水辺に近いという点であ る。図2と図4をみると、神田川と谷田 川、渋谷川と目黒川はいずれも武蔵野台 地を浸食して、両側に急な崖を伴った比 較的幅の広い谷底平野を形成している。 谷底が広いのは、台地面がかつて扇状地 であった時代に流れていた水流の大きな河川の水路の跡で、その流路が海面高度の低下につれて移動し た後に、その谷の中を、当時は湧水などで涵養される水量の少ない川が名残川として流れたためとされ ている(松田,2008)。このような谷を見下ろす台地の末端は、比高数十メートルに過ぎないが、谷の 走る方向に沿ってかなり遠方まで見渡すことができ、河川の水利を利用して、江戸中心部から離れた郊 外では水田や農村集落が多数立地している。眺望景観の中に自然的、人文的要素が多数交錯し、結果と して著者が高く評価するような眺望景観に恵まれた視点場が集中することになったのである。 神田川、谷田川沿いで挙げられた主対象は、川(R)はもちろん、遠方の山々(M)、近景の花や木(F) そして神田川の水流を引いて谷底に広がる耕地(A)が多く、これが「風色天然」という高い評価につ ながる一方で、江戸市中に近い東部では主対象は集落(H)や人(P)であり、これらは「奇妙」とい う評価につながっている。 また一方、図3の浅草、向島は江戸の遊興地であり、隅田川沿いは桜の名所として知られ、常に人通 りが多く、川面にも渡し場にも行き来する多くの舟を見る。沖積低地上で起伏がない中で、これらを見 渡せる高まりとしての堤上が、評価につながる視点場を提供したのである。 見渡す限り広がる耕地(A)、水量多く蕩々と流れる隅田川(R)に櫻(F)という自然的景観(注) が「風色天然」という高い評価につながる一方で、江戸市中の家々(H)と堤の周辺に憩う多くの人々(P) の様々な動きが「面白い」という評価につながっている。 同じ水辺であるが、江戸湾を臨む海浜にも3カ所分布している。眺望方向は南側の海(S)にあり、 遠方の房総の山々(M)と東海道筋のながめに、近景の遠浅の浜辺や沿海で遊ぶ水鳥、漁労にいそしむ人々 (P)が主対象となる。このうち 2 カ所の評価がいずれも「奇妙」となっているのは、「小日向の山陰に 図4 眺望景観と地形条件(渋谷川・目黒川)
住わびる身には、海濱の景望一〈皆面白し(初中 15)」からもわかるように、海から離れた場所に住む 著者が、見慣れない海辺の風景に特別の思いを抱いて評価したことを示すものであろう。 本稿は江戸の眺望景観が高く評価されている場所について、遊歴雑記に書かれた記述と当時の地形条 件から分析し、その地理学的な特徴を明らかにした。その結果、景観評価には自然的景観を主対象とし て「風色天然」、人文的要素に対して「面白い」、著者が見慣れない主対象に対する「奇妙」の3つの尺 度があり、江戸の眺望景観には大きく分けて3カ所、すなわち、神田川など武蔵野台地を浸食して東流 する河川沿いで谷底平野を見下ろす「風色天然」或いは市中近傍の「奇妙」の評価を得る場所、隅田川 沿いの浅草周辺の「風色天然」と江戸市中近傍の「面白い」の評価を得る場所、そして江戸湾海辺の「奇 妙」を中心とした評価を得る場所があることが明らかになった。 今後は、本稿で分析対象に含めなかった遊歴雑記の巻の中、巻の下にある眺望景観の記述もあわせて、 江戸の眺望景観についてまとめたいと考えている。 参考文献・資料 国土地理院(2003):『数値地図標高5m メッシュ』日本地図センター. 釋敬順(1814)十万庵遊歴雑記。江戸叢書刊行会(1980)編『江戸叢書 第三巻』1-440. 独立行政法人農業環境技術研究所(2010):歴史的農業環境閲覧システム迅速図画像(http://habs.dc.affrc.go.jp/) 松田磐余(2008):『江戸・東京地形学散歩』之潮,66-71. 尾藤章雄(2014):「遊歴雑記」にみる江戸茶人の風景観 -風景の復元による地理学的解析-. 山梨大学教育人間科学部紀要,15 巻 ,11-16.(DVD)