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日本の経営学は何を語るのか (栁川高行教授 吉川薫教授退職記念号)

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論文

日本の経営学は何を語るのか

What is KEIEIGAKU in Japan ?

KURODA Tsutomu

黒 田   勉

 【目 次】         はじめに         1.文献上初出の「経営学」         2.日本経営学会の創設         3.経営学の学問的特徴の問題         4.公衆の立場に基づく経営学の必要性         おわりに

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はじめに

日本では現在、経営戦略・戦略経営・企業戦略・事業戦略・人材戦略・ 財務戦略・マーケティング戦略・グローバル戦略などをはじめとして、表 題のどこかに戦略の名の付く書物、あるいは表題には用いられていないが 本文に何度も登場するほどの戦略の語は花盛りの状態にある。しかも、そ の書物の引用欄や参考文献欄を見ると、アメリカ製が“かっぽ”しており、 論者の思考の軸足が弱く不安定であれば、日本の数的データを用いながら も知らずのうちにアメリカ製に吸い込まれてしまい、そこから抜け出せず に埋没するのではないか、という懸念をいだくことさえある。日本では分 野によっては、アメリカ製への憧れと魅力とが相当強い、ということに起 因しているように思えてならない。 そうした戦略の分野も経営学は内包しているが、経営学という名称自体 はこれまでに日本において数限りなく使用され続け、大学の経営学部や経 営学科が多く存在しているにもかかわらず、日本で語られる経営学につい ての基本性質の理解が未だに有力説に向かって集約されていく気配はない。 そのことに留意して本稿では、日本において経営学という名のもとで歩ん できた知見の大枠的な道程を振り返りながら、そこに横たわっている性質 や問題などを多少なりとも明らかにし、今後の日本の経営学の進む方向性 を示すことにしたい。 なお、本稿のなかでは、 ① 古い文献を引用・参照する場合、実際に書かれている漢字や仮名づか いは、現在使用されている漢字や仮名づかいに直して表記した。 ② 文献などの発行年は、様々な基準からの比較を容易にするために、実 際の奥付に明記されている元号の場合には、西暦に直して表記した。 ③ (上田→増地)の表記は、現在の大学名称下での一橋大学においての師 弟関係をあらわしている。この表記を一橋大学に限定したのは、本稿にお いて述べたように日本経営学会の創設が当該大学の関係者によって主導さ

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れたことから、そこでの師弟関係を示せば当事者の位置づけが明らかにな る、と考えたからである。また、一橋大学はこれまでに校名を変更しなが ら現在存立しているために、同一校でありながら誤解されることを避ける 意図から一橋大学という校名に統一した。

1.文献上初出の「経営学」

経営学は19世紀末から20世紀初めにかけて誕生した学問である、という 主張は日本において出版されてきた経営学という名称の付く書物のなかで はたびたび見受けられ、また同時に一方でドイツが経営学発祥の地の一つ であり、他方ではアメリカもその一つである、という主張も見られて今日 に至っている。すなわち、前者は経営学の萌芽期を主張しており、それに 対して後者はその場所を主張しているのであるが、それらの主張の背後に は、経営学が一つの学問として成立している、という思考前提が日本にお いて定着し、その状態にあるからこそ経営学の萌芽期や発祥地が主張され ることとなっているのである。 そのように、他の諸学問と比べての経営学の独自性について、日本の 研究者の間には明示的あるいは暗示的にしろ少なくとも“一応の合意”は、 なされていると言えよう。しかし、その合意に対し研究者が疎遠な関係に なればなるほど、自分の関心事が経営学の領域に属しているかどうかにつ いての興味が薄れたり判断力が乏しくなったり、あるいは何のためらいも なく経営学の名称を使用するようになり、次第にその合意についての疑問 をいだくことは消え失せ、学問としての経営学へのこだわりは無くなって いく。 そうしたなかにあって、経営学に対する自分の関心事の位置を知ろうと するならば、知識や技術の単なる羅列ではなく整序された体系化を目指す 意図のもとで展開されてきた位置づけの基準と思える主張に出会うか、あ るいは位置づけの基準を自分自身で作り出さなければならない。そのいず

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れにしても、経営学という名称と関連づけて語られてきた意味や内容がど のような傾向をたどってきたかについて注目する必要性が生じるのである。 その際に、日本においては経営学という名称がいつ頃、誰によって、どこ で初めて表記されたかを突き止めることは大きな出発点となるであろう。 この課題を達成するためには、一つひとつの文献を歴史的にさかのぼる地 道な学史的研究が求められるのであるが、経営学の学問的先駆者とも言わ れて久しい二人の研究者がともに、同一人物によって経営学という名称が 文献のなかで古くから用いられていたことを述べている指摘は注目される べきである。 そのうちの研究者の一人が古川栄一(上田→増地→古川)である。古川 は上田貞次郎が1904年(明治37)に『商業大辞書』のなかで経営学の言葉 を使用したことを指摘し(古川,1964,172頁,参照)、「経営学なる名称は、 このように、上田博士がわが国において早くから用いられていたものであり、 それがまたわが国では最初のものであった。」(古川,1964,173頁)、と述 べている。古川によれば、日本の文献のなかで経営学という言葉は、今か ら100年以上前の明治時代後期に、上田貞次郎によって初めて記されたの であった。 古川の指摘から10年後の1974年に、今度は山本安次郎が古川と同様な指 摘を行っている。「1904年(明治37年)博士(筆者:上田貞治郎を指して いる)によって「経営学」なる言葉が初めて用いられ」(山本,1974,14頁)、 しかも上田貞治郎が経営学の言葉を掲載した文献名は『商業大辞典』(山本, 1974,17頁,注3)であることを指摘している。しかし、山本の場合、本 人は気づいていないのであろうが、文献名について若干の誤りがある。文 献名は『商業大辞典』という辞典ではなく、正しくは『商業大辞書』とい う辞書なのである。その後者の正しさの根拠となる資料には、上田貞治郎 自身の執筆した文献をまとめて新たに出版された『上田貞治郎全集』(上田, 1975)があり、そこには『商業大辞書』という文献名(上田,1975,316頁) が明記されている。また、末松玄六(上田→末松)も『上田貞治郎全集』

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の巻末の「解説」のなかで、「明治37年の『商業大辞書』」(末松,535・543頁) という文献名を2個所に記しているので、『商業大辞書』が正しい文献名 であると言えるであろう。 以上のように、古川と山本の二人によれば、日本の文献のなかで経営学 という言葉を初めて使用したのは『商業大辞書』に寄稿した上田貞治郎で あった。上田はその辞書のなかに「商業学」(上田,1975,310~316頁)の 項目を設け、そこに描かれた図(下図が相当する)に経営学という言葉(上 田,1975,315頁)を表記したのである。 ただし、上田は図に見られるように、経済との関係での位置づけとして 経営学を明記しているものの、経営学自体の性質については『商業大辞書』 の「商業学」の項目のなかでは取りたてて言及することを行ってはいない。

2.日本経営学会の創設

名実ともに、経営学の普及に最大の貢献を果たしたのは日本経営学会で あろう。日本経営学会の主要な会員は教員であり研究者でもあるために、 各地の教育機関で受講生を前に教鞭をとるので、授業内容が多岐に渡った り力点の置き所に相違があったとしても、経営学の言葉を使用する頻度は 当学会が創設されて以降は増したと判断できるからである。すなわち、日 本経営学会は経営学の研究だけではなく、経営学の普及の中核をなす機関 としての役割をも担っていたと言えよう。        国民経済学         (経済組織の立場より研究す) 広義経済学         財政学(国家の経済を研究す)        経営学    家政学(家族の経済を研究す)         (経済単位の立場より研究す) 商業学(企業の経済を研究す)

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その日本経営学会の創設に携わった人物のなかの一人に平井泰太郎(上 田→平井)がいる。平井によれば、日本経営学会が創設される1926年(大 正15)当時の日本は、第一次世界大戦を境に、好不況を経験しながら経営 問題が大きな関心事になると同時に、労働問題で揺れ動く様相を呈した時 代であった(平井,1958,383~384頁,参照)。しかし、「とくに社会科学の 領域から申しますと、唯一でございました学会が社会政策学会」(平井, 1958,384頁)であったので、「社会政策学会に代って新たな人文科学、社 会科学に共通の学会を作ろうというので、こういうことから、若手が話し 合い始めたというのが、経営学会のもとなのであります。(途中略)若手 だけではやれまえ。そこへ先輩をそれぞれかつぎまして、(途中略)全国 の学者に呼びかけて、この学会を樹立しようということになったのでござ います。」(平井,1958,388頁)。そのように日本経営学会の創設への高鳴 る気運は、若手の研究者の間で生まれたのである。 その若手研究者の一人であり、また日本経営学会創設に労をいとわなかっ た人物は増地庸次郎(上田→増地)であった。増地は学会創設の案内状の 返信受取人になったり、日本経営学会・第1回大会のなかで発表された研 究報告や講演を掲載した『経営学論集』第1集の編纂をし、さらには創立 会議や第1回大会などの会務報告も行っている。そのため学会の創設事情 を良く知る増地によると、「6月21日如水会において各大学から少数の有 志者が集まり、協議した結果、一度全国各学校から代表有志者の参会を求 めて学会創立を議定することとなり、渡辺、瀧谷、向井、上田、小林5教 授の名義をもって、商学部、経済学部を有する全国の各大学、高等商業そ の他の専門学校の学部長、校長等に(途中略)案内状を発した。」(増地, 1927,258~259頁)。そして、多数の学校の賛同を得て、1926年(大正15) 7月10日午後3時から丸の内生命保険会社協会で創立会議が開催され、上 田貞治郎(一橋大学)が挨拶をし、佐野善作(一橋大学・学長)が座長を 務め、会議へは25校・45名が参加したのであった(増地,1927,260~262頁, 参照)。そこでの最初の大問題は、学会の名称であったのである。平井に

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よると、創立総会の「入口には日本商学会創立会議場(筆者:平井は別の 個所では会場と記している)と書いて発足」(平井,1958,389頁)したも のの、学会名で紛糾することが予想されたので、「座長案で、商学経営学 会という名はどうかというようなこともありましたが、これは否決」(平 井,1958,390頁)され、2時間に渡る大論戦になったということが当初の 混乱ぶりをあらわしている。最終的に採決を行った結果、増地によると、 「日本経営学会を可とするもの27名、日本商学会を可とするもの12名」(増 地,1927,262頁)に至り、学会名を日本経営学会と定めることが決定され たのである。平井の指摘によると、他の議事の終了後「出る時には日本経 営学会創立会場として出たのであります。看板を実際書き換えたのであり ます。」(平井,1958,390頁)というように、この時から日本経営学会は経 営学の名称とそのもとでの研究内容との整合性の問題をかかえて出発した のであった。 学会名称に続いての「他の議題は平穏に進行」(増地,1927,262頁)して、 「会則を議定し、ここに本学会の設立を見るに至った。」(「趣意書」,1927, 274頁)、と言われている。従って、日本経営学会の創設は1926年(大正15 年7月10日)であったので、今日までに90年を超える歴史を歩んできてい ることになる。その創設を基準にして、経営学と当時学問的に関連する代 表的な分野を持つ、他の学会の創設を年代順に列挙すると、次のようになる。  社会政策学会…………1896年(明治29)〔日本経営学会の30年前〕 (社会政策学会「社会政策学会資料集」,参照)      日本経済学会…………1934年(昭和9) 〔日本経営学会の8年後〕         (日本経済学会「日本経済学会小史」,参照)       日本商業学会…………1951年(昭和26)〔日本経営学会の25年後〕 (日本商業学会「学会概要」,参照)          日本経営学会が創設された年の9月11日現在の常務理事には、東京商科 大学教授(一橋大学)の上田貞治郎、東京帝国大学助教授(東京大学)の 中西寅雄、神戸高等商業学校教授(神戸大学)の平井泰太郎(上田→平井)、

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東京商科大学助教授(一橋大学)の増地庸次郎(上田→増地)、大阪高等 商業学校教授(大阪市立大学)の村本福松の5名がおり、そのうちの3名 (上田・平井・増地)が一橋大学の関係者であった。しかも、学会の事務 所は東京商科大学(一橋大学)研究室内に置かれている(日本経営学会編, 1927,288頁,参照)ことを考慮すると、日本経営学会の創設を主導したのは、 まさしく一橋大学の関係者であったことが判明するのである。なお、日本 経営学会創設の翌年の1月25日での会員数は342名になっていた(日本経 営学会編,1927,288頁,参照)。

3.経営学の学問的特徴の問題

日本経営学会が創設された翌年から数えて50年後の1977年(昭和52)の 会員数は1,677名になり、最近では2,000名弱に及んでいる(日本経営学会「沿 革」,参照)。そのような会員数の増加と創設から経過した90年を超えた時 間とから分かるように、これまでの間に経営学の学問性に関する議論が活 発に幾度となく行われてきているだけに、社会科学の分野においての経営 学の独自的な特徴が既に整えられた状態に達していても良いように思える のである。しかし、必ずしも、そのような状態にあると直ちに結論づける ことはできない。 例えば、三戸公は経営学史学会の『経営学史事典』のなかで、経営学の 学問対象やそれへの方法について未だに共通認識が形成されているとは言 い難く、その結果、経営学がどのような学であるかの理解・意義の共通認 識がなされていない、ということを述べている(三戸,2002,2頁,参照)。 この三戸による2000年代初頭の指摘は継続されて、2010年代に入っても、 日本経営学会・第87回大会のプログラム委員長の上林憲雄は「統一論題趣 旨」のなかで、経営学の学問的展開は極めて多岐で、さらに体系や方法も 多様であり、未だに学界として「経営学とは何か」についての統一見解は 困難な状況にあるため、この大会では今一度「経営学の学問性を問う」こ

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とを統一論題として設定した、と述べている(上林,2014,3頁,参照)。 そのような経営学の学問性の問題に対して、上述の三戸と上林との指摘 のほぼ中間時点であった2008年(平成20)に、日本学術会議(「大学教育 の分野別質保証推進委員会・経営学分野の参照基準検討分科会」)は文部 科学省から教育課程編成上の参照基準の策定を依頼された。すなわち、こ れまで不明確・不統一であった経営学の学問的内容を定めて、それを教育 上の参照基準にしたい、という文部科学省の意向である。日本学術会議は それに応えて、2012年(平成24)に『報告:大学教育の分野別質保証のた めの教育課程編成上の参照基準・経営学分野』を公表したのである(日本 学術会議,2008,ⅲ頁,参照)。その『報告』に基づくと、経営学の定義に ついて次の内容が指摘されている(①②の番号は筆者が記した)。  経営学とは、①営利・非営利のあらゆる「継続的事業体」における        ②組織活動の企画・運営  に関する科学的知識の体系である(日本学術会議,2008,ⅲ頁)。 ②についての例として、新しい事業の企画、事業体の管理、その成果の 確認と改善、既存事業の多角化、組織内における各職務の諸活動が挙げら れ、それらを総体として「経営」(日本学術会議,2008,ⅲ頁)と呼んでいるが、 その例は具体的であるものの「組織活動の企画・運営」であり、それは目 的の円滑な達成を目指して結び付く意識的行為を意味するので、広く言え ば管理をあらわしている性質のものである。従って、経営=管理と言い換 えることができる。そうすると、次の問題は何を経営=管理するのか、す なわち経営対象=管理対象の問題になるが、その対象は①にある営利・非 営利のあらゆる「継続的事業体」であり、その具体例が私企業、国、地方 自治体、学校、病院、NPO、家庭など(日本学術会議,2008,ⅲ頁)が指 摘されているので、「継続的」に存在すればあらゆる種類の「事業体」と いう組織体を経営対象=管理対象として扱うことになる。従って、以上の ように②①を理解すると、日本学術会議の『報告』のなかに見られる経営 学は、継続的に存在さえすれば、あらゆる種類の組織体を対象にする管理

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の学である、と言える。すなわち、ここでの経営学は「管理論」的経営学 なのである。 また、この『報告』によると、経営学には3つの視点がある、と述べら れている(日本学術会議,2008,ⅲ・6~7頁)。  第1の視点……… 継続的事業体を俯瞰的に見る:「経営者の視点」(あ るいは「経営主体の視点」)  第2の視点……… 職能単位組織の課題を効率的に解決する:「管理 者の視点」  第3の視点……… 継続的事業体の活動を社会全体の発展と関連づけ て点検する:「諸科学と共通する視点」 第1の視点の「経営者の視点」および第2の視点の「管理者の視点」は 本来、「管理論」的経営学そのものの視点であるし、また第3の視点の内 容である「継続的事業体の活動を社会全体の発展と関連づけて点検する」 ことに対して最終的に責任を負う主体は経営者であることを考慮すると、 その視点は「経営者の視点」であり得ることになり、それら3つの視点は ともに「管理論」的経営学が本来持っている視点に相当している。 以上の日本学術会議の『報告』を総括すると、そこで述べられている経 営学は「管理論」的経営学という学問的性格に行き着き、それはあらゆる 種類の「継続的事業体」(組織体)を「経営」(管理)の対象にする汎用性 に富んだ学問であることを意味している。その点では経営学は便利な学問 であるが、一つの特定の「継続的事業体」に役立てようとする場合には、 その「継続的事業体」自身が特有的に持つ性質を加味する高度な技法を駆 使しなければ、具体的には扱え得ないという実用性の問題に直面すること にもなる。こうして「管理論」的経営学はあらゆる種類の「継続的事業体」 を扱うと言われながらも、それぞれの事業体に対し同等な重きを置いた アプローチを、これまでに一貫して採用してきたわけではない。「継続的 事業体」のなかでも特に、代表として考察の中心に鎮座し続けてきたのは 企業であった。従って、企業の考察から得られた研究成果は豊富であるた

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め、それを他の「継続的事業体」に応用する試み(汎用性)は当然である と思われており、また同時に他の個々の「継続的事業体」に対して具体的 に使用できる可能性(実用性)も注目されてきたという趨勢があったので ある。なお、企業が「継続的事業体」の代表として位置づけられてきた理 由は、万仲脩一によれば、第1に「経営学の成立を要請したものは企業規 模の著しい拡大とそれに伴うその管理の複雑化および困難化であった」(万 仲,2000,28頁)ことに加えて、第2に「企業がわれわれの生活に対して、 経済的のみならず、社会的、文化的などのさまざまな面で著しい影響を及 ぼしている組織である」(万仲,2000,29頁)ことに由来している。 その企業自体に大きな関心を寄せて、当初から経営学の学問対象を企業 に求める研究者の一人に榊原清則がいる。榊原は「対象世界を特定化して、 それに対して多面的に接近する学」(榊原,2002,15頁)の一つに経営学を 位置づけ、「対象世界」を企業という「領域」に定めて、経営学を「領域学」 として理解する(榊原,2002,15頁,参照)。そのように経営学を「領域学」 という分野名称で表現することが適切であるかどうかは別にして、榊原に よる経営学についての主張を簡潔に述べると、経営学とは対象を企業に限 定した上で、企業に多面的に接近する学、を意味することとなる。こうし た企業把握を生む背景には、企業が多面的な性質を持つために複眼的思考 を必要とする、という研究方法上の前提が存在している。しかし、ここで 注意しなければならないのは、どのような学問であっても確かに対象に対 して複眼的思考を必要とすると言えるものの、実は、それが学問の独自性 を損なうことにつながる大きな原因になりかねない、という危うさをも併 存させている点である。 例えば、複眼的思考の一つとして、企業を人間から構成された組織体と 考えた場合、一人ひとりの気持ちや人間同士の秩序を扱う心理学や社会学 の学問的成果が研究者自身の問題意識の解決に役立つことを知って、その 研究者が経営学の分野に所属することに執着しようとしなくなれば、自分 の研究領域に対して経営学の名称を用いたとしても、経営学という名称の

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下で理解されてきた学問領域と心理学や社会学の学問領域との間にあった 境界は色あせて不鮮明になってくる。こうした展開が、一方で経営学の独 自性の問題を常に提起させてしまう事態(“常”)を生みながら、同時に他 方では経営学の内容に新鮮味を与えたりあるいは新たな学問領域の開拓の 必要性を提唱すること(“新”)にも結びつくのである。 そのように既成分野への所属にこだわらずに自分の研究課題の解決に諸 学の学問的成果を導入あるいは参照することが有効であると判断すれば、 上記のような “ 常 ” と “ 新 ” との同居状態は自ずともたらされるので、その 状態は一概に経営学の独自の基本性質であるとは言えず、経営学をも含む 広く学問全般に渡って本来内在している基本性質であると言っても良いで あろう。それでは今、どのような関心事への探究が、特に経営学にとって の学問的な問題提起(“常”)と内容あるいは領域の新しさ(“新”)とを生 み出そうとしているのだろうか。次に、その一例を挙げることにしよう。

4.公衆の立場に基づく経営学の必要性

日本において公表されてきた学術的な経営学書や書店に並ぶビジネス書 は、企業の経営者や管理者であるいわゆる企業人の立場(前述した学術会 議の『報告』のなかでは視点という表記)に身を置いて書かれている場合 が多い。例えば、優良企業の戦略、成功した企業家像、売れ筋商品、ビジ ネスの活発な海外展開、先を見越したM&A(提携・合併)、先進的な生産・ 販売体制、効率的な資金運用、円滑な情報伝達、弾力的なグループ編成、 AI(人工知能)を導入したビジネス変革など、企業の合理的な組織運営 を重視する傾向のあるものばかりである。従って、「経営学は誰のために あるのか」という問いかけを行うとすれば、その答えは当然のごとく企業 人あるいはそれを目指す人々であるということになる(黒田,2017,1〜2頁, 参照)。 そのように理解すると、経営学は企業内で職務を担うあるいはそれが予

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定されている人々以外にとっては関心の的になる必要性がない学問である、 という位置づけがなされてしまう。また、現代の企業は、私たちの生活全 般に渡って有用な商品などを提供するプラス効果をもたらすこともあれば、 それとは逆に全ての生命体に影響を与える地球の温暖化などのマイナス効 果をも生み出してきている現実を考え合わせると、経営学が狭い範囲の主 体にだけ限定された学問であるという性質を前提にし続けた場合には、経 営学という学問自体の社会的意義を見失うことにもなる。すなわち、経営 学という学問と日常生活を送る私たちとの距離感を縮めて、経営学を誰に とっても身近な学問へと導いていく必要性のある時代を迎えていることに 気づかなければならないのである。このような経営学の学問的な軽薄さを 克服する方法として、一人の人物がある時には顧客になり労働者になって いるように、同一の人物が様々な属性を持って企業と関係していることに 注目した上で、その属性の原点を、私的家庭生活を送り世論を形成する主 体である公衆に求める、という主張が有効であると黒田勉は考えてきた(黒 田,2017,2頁,参照)。 その公衆と顧客との関係を見ると、公衆は自分の生活のために、顧客と して商品を購入し、それを公衆として最終使用する立場にあるが、このよ うな主体の転化(公衆→顧客→公衆)は、各段階において完全に独立した 主体(公衆・顧客・公衆)への変身を意味しているわけではない。公衆が 家庭での生活のために商品を購入する顧客となって市場に登場すると、そ の顧客は生活のために商品を購入しようとする意思を持つ公衆の立場に規 定された顧客として存在し、また公衆が商品を使用する場合も同様に顧客 の立場からの規定を受けた上での公衆として商品を使用することさえ多々 ある。 例えば、前者の公衆→顧客という段階を見ると、公衆自身の生活の気分 転換になりさえすれば高額商品であっても躊躇せずに購入する常連の顧客 になっている場合もあり、後者の顧客→公衆の段階では、顧客が安価な商 品を購入すると公衆の生活の使用場面では商品を費消せずに惜しげも無く

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途中で廃棄することもある。すなわち、商品を介しての公衆を把握すると、 公衆→顧客→公衆という転化過程は前段階の属性に規定されながらの連続 的な転化となって展開されている。そのために、公衆が家庭での「生活の 基本価値(安心・安全、快適・創造)」(黒田,2017,111~113頁,参照)に ついて、浪費せず無駄のない充実した生活実感を享受したい、という願望 をいだくならば、その時々の属性からの規定を受けながらも、連続的な転 化過程をたどっていることを確認し、それを自覚していなければならない。 もし自分は公衆であって、他の主体に対して何の関心も持たない独立し た存在である、という自分に固執してしまうと、現実的な生活を送ってい る自分を振り返ることは不可能になり、自分が勝手に振る舞えるのは当然 だというように誰も寄せ付けない、自分の世界に閉じこもることになる。 また、公衆として身を置く家庭では子供に対して優しく接する温厚な父親 が、職場では部下に過度なノルマをかけ続け疲労を蓄積させるほどの上司 の例も、ひとたび職場に身を置けば自分は指揮権のある経営者・管理者で あるという上下関係に固執した、自分の状態をあらわしている。その時々 の属性下にある主体が、自分の位置づけを固定化し、他の主体を考慮しよ うとしない自己中心的な社会では、絶え間ない対立が繰り返され、他者だ けではなく、自分自身の生活さえも心地良いものになることはないであろう。 しかし、私たち公衆が、ある時は顧客になり、労働者になり、株主にな り、あるいは経営者・管理者になっている、という主体間の結びつきのな かで過ごしていることに留意できるようになれば、主体間に見られる関心 事が異なっているにもかかわらず、互いを理解し合える共通した基盤が次 第に形成されていき、主体間の関係が円滑になった社会を構築することが できる。こうした社会のなかでは、企業が営利を追求する商品生産体であ るという性質を保持しながらも、社会と企業との間には大きな利害の隔た りを発生させることはなくなり、企業は“社会”からの要請や期待に“対応” した“経営”を実践する公器になり得ると言えよう(黒田,2017,153~161頁, 参照)。すなわち、どのような属性を所持した主体になろうとも、公衆の「生

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活の基本価値」に基づきながら、今現在の時点での存在を分析できる自分 の形成が求められるのである。それは、自分を公衆である自分が見つめて いる、という状態を意味している。こうした理解の上に立つならば、公衆 の立場に基づく自己分析能力を持った主体の養成を目指す経営学が求めら れている、と言うことができる。

おわりに

素朴な疑問は複雑な問題を伴い含んでいるので、素朴な疑問に対して多 くの人々の得心がいく答えを導き出すことは極めて難しく、また素朴な疑 問であればあるほど、その答えを巡って様々な主張が繰り広げられること にもなる。そうした事情のあることを知りながらも、本稿の表題を素朴な 疑問である「日本の経営学は何を語るのか」として設定し、研究者がその 疑問にどのような答えを用意しようと務めてきたかについての道程をたど り、そして自分なりの一つの結論を導き出したい、という筆者が常日頃持っ ていた関心をこれまでの文章のなかに書き記してきた。だが、その私的関 心事に決着をつけることは到底不可能であることを実感した。なぜならば、 繰り返しになるが、素朴な疑問に答えようとすれば次から次へと連鎖的に 新たな素朴な疑問が湧き出てくるので、普遍的な答えを用意することは不 可能だからである。結局、終わりはないのである。ただし、この点を確認 できたことによって、その時々の新たな現実の課題に取り組んでいる状況 下にあっても、常に存在する素朴な疑問に向き合うことが、固執しがちな 思考に柔軟さをもたらし、同時に思考の軸足を鍛錬し続け得るのではない か、というささやかながらも一つの結論に達っすることができた。

<参考文献>

上田 貞治郎全集刊行会(1975)『上田貞治郎全集 第1巻 経営経済学<非市販品>』 第三出版。

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上林 憲雄(2014)「統一論題趣旨」日本経営学会編『経営学論集・第84集 ―経営学の 学問性を問う―』千倉書房。 黒 田勉(2017)『社会対応経営論としての経営学』(初版・第2刷)東京図書出版。 榊原清則(2002)『経営学入門(上)』(日経文庫853)日本経済新聞社。 社会政策学会「社会政策学会資料集」(http://jasps.org/history-3.html)。 「趣意書」(1927)日本経営学会編『経営学論集・第1集』同文館。 末松 玄六(1975)「解説」上田貞治郎全集刊行会『上田貞治郎全集 第1巻 経営経済 学<非市販品>』第三出版。 日本 学術会議(2008)『報告:大学教育の分野別質保証のための教育課程編成上の参 照基準・経営学分野』。 日本経営学会「沿革」(http://keiei-gakkai.jp/keieigakkai)。 日本経営学会編(1927)『経営学論集・第1集』同文館。 日本経済学会「日本経済学会小史」(https://www.jeaweb.org/about/abouthistory)。 日本商業学会「学会概要」(http://jsmd.jp/about)。 平井 泰太郎(1958)「日本経営学会の発展について(第3部・記念講演)」日本経営学 会編『経営学論集・第29集 ―技術革新と経営学―』第29集,同文館。 古川 栄一(1964)「日本の経営学説」古川栄一・高宮晋編『現代の経営学』(『現代経 営学講座・第1巻』)有斐閣。 増地庸次郎(1927)「会務報告」日本経営学会編『経営学論集・第1集』同文館。 万仲 脩一(2000)「経営学の構想 ―経営学の研究対象・問題領域・考察方法―」経営 学史学会編『経営学百年 ―鳥瞰と未来展望―』文眞堂。 三戸 公(2002)「1.意義(経営学史研究の意義と方法)」経営学史学会編『経営学史事典』 文眞堂(改訂版)。 山本 安次郎(1974)「第1章 上田貞治郎 ―経営学の肯定説と否定説―」古林喜楽編『日 本経営学史 ―人と学説―』日本評論社。 (本学経営学部教授)

参照

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