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こぺる No.054(1997)

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日(毎月1回25日発行)ISSN 0919 4剖3

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こべる刊行会

NO

.

54

部落差別と共同性をどう考えるか - Y・Hさんへの返信(1) 原口孝博

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13年前、部落差別にかかわって、身のうち・そとに漂う冴えない雰聞気を見つめ、 人間と差別について考えたいとの思いを持ち寄って始めた集まり。これまで「自分 以外の何者をも代表しない。結論や方針を求めない。多数をめざさない」を唯一の 了解事項として、自由隠逮な議論をしてきました。 今回は、講演・分科会・分散会という形式をやめて、 4人のパネラーに思う存分考 えを述べてもらい、参加者も加わって、のべ10時間におよぶ議論を繰り広げようと いう野心的かっ奇抜な試みに挑戦します。体力もさることながら、 J思索の持続力が 試されるはず。 小さな集会ですが、自分の言葉で考え、自分の言葉で表現する人との出会いの場と なり、使いなれた言葉を問い直し、新たな関係をつくりだすきっかけになればうれ しい。みなさんの参加を心からお待ちしております。 パネルディスカッションと討論 テーマ:「部落・部落民・部落差別…」 パネラー:住回一郎(大阪) 畑中敏之(大阪・司会) 原口孝博(福岡) 山城弘敬(三重) 日 程 /9月13日出 14時 開 会 18時 夕 食 19時 再 会 21時 懇 親 会 9月14日(日) 9時 再 会 12時 解 散

人間と差別をめぐって

N

i

i

ーー田ーー

14回 部 落 問 題 全 国 交 流 会

日 時/9月13日 出 午 後2時∼14日(日)正午 場 所/本願寺門徒会館(西本願寺の北側) 京都市下京区花屋町通り堀川西入ル柿本町 Tel 075-361-4436 交 通/JR京都駅より市バス9・28・75系 統 西 本 願 寺 前 下 車 費 用/ A 8,000円(夕食・宿泊・朝食・参加費込み) B 4,000円(夕食・参加費込み) 申込み/阿IJ1j:社 602京都市上京区衣棚通上御霊前下ル上木ノ下町73-9 Tel(075) 414-8951 FAX (075) 414-8952 葉書または封書に、住所・氏名(フリガナ付) ・性別(宿泊な さる方のみ) ・電話番号・参加の形(上記A・Bのいずれか) を書いて、申し込んで下さい。 締切り/8月29日働 五条通

会館 川 通堀| 西 本 願 寺 七条通 ーーーーーーーーーー -IE@-・各地で発行されたピラ・パン フなどを多数ご持参ください。 また第1日日の夜には恒例の 懇親会を予定しています。各 地の名産・特産の持ち込み大 歓迎ですので、よろしく。

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部落差別と共同性をどう考えるか

Y

H

さんへの返信︵ 1 ︶ 原 口 孝 博 ︵ ﹁ 福 岡 水 平 塾 ﹂ 生 ︶ ﹃こペる﹂に寄稿した﹁部落差別と共同体意識の関連 に つ い て ﹂ ︵ 三 八 号 、 一 九 九 六 年 五 月 ︶ への感想文をも らって、あれこれと思いを巡らし、日常の忙しさに身を まかせていたら、あっという聞に時が過ぎてしまいまし た。考え続けていたというのは言い訳にしか過ぎません が 、 逆 に 言 え ば 、 しっかり考えるヒントやテ l マ を 与 え て も ら っ た と 感 じ て い ま す 。 それを下敷きに、自主講座﹁福岡水平塾﹂での論議、 読売新聞への寄稿、夏の全国交流会、秋の大分全研︵解 岡市協としての提起︶、宇佐グループとの交流などの場 を借りながら、﹁部落差別と共同性︵幻想︶﹂を軸に私な り に 考 え て き ま し た 。 頭の中にはいろんな思いやイメージが断片的にあるの ですが、それらはかなり直感的なもので、それを言葉や 文字にして語り書いたりするたびに、すっきり表現でき な い も ど か し さ を い つ も 感 じ ま す 。 ﹁もの書きではないのだから気楽にやればよい﹂とい われでも、文章化するたびに何か自分の思いや感情とは 違ったものになっていくという気がしてなりません。 ︵読み手を意識してわかりやすくとか、文章形式にこだ わるとか、そういう類いではなく、まだ自分の中にある 形 を 持 た な い マ グ マ ︵ 情 念 ︶ のようなものをきちんと整 こぺる 理 で き て い な い か ら だ と 思 い ま す : : : ︶ Y さんの指摘によれば、先の寄稿文は﹁運動論と部落 1

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問題の本質論を同時に提示しよう﹂としているが、﹁本 当はそれらを超えたところに言いたいことがあるのでは ないか﹂ということですが、もともと論としてではなく、 部落や部落差別を対象化して考える︿人間の在り方﹀を 語りたかったので、これは本当に的を射ぬいたように当 たっているなあと頭が下がりました。私はやはり、文章 を 書 く よ り も 一 対 一 ︵コーヒー・煙草付き︶とか、数人 での座談の時が一番イメージが鮮明に働くし、考えなが ら話すことには、相当長時間でもあまり抵抗がないので す が ・ ・ まあ、前口上はその位にして本題に入ります。ここは なるべく﹁運動論でも本質論でもない、自分にとって大 事と思えること﹂︵思いつくまま気の向くままですが、 私がとても大切に感じていること︶を言ってみたいと思 い ま す 。

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どこから入っても良いのですが、まず Y さんの感想丈 のいくつかの項目について、私なりの意見や疑問点を述 べていくのが一番いいでしょう。 まず、﹁︵部落︶共同体への帰属意識の違い﹂というあ たりですが、少し引用させてもらいます。 私は:::文章の一言一句、またそれらが出てくる までの内的な過程も含めてよくわかるような気がし ました。中味については、疑問に思うことや、私の 感じ方、考え方とは少し違うなと思う点はいくつか あります。その違いの起因するところはたぶん共同 体への帰属意識の違い ︵ ﹁ ふ る さ と を 捨 て て く る こ とができた私﹂と﹁一度出てまたふるさとに戻った 孝博さんとの間の違い﹂も含めて︶と言っていいと 思 い ま す 。 : : : ︵ 中 略 ︶

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このことを深く分析して追及しても、たぶん袋小 路につきあたるだけで何も新しいものは生まれてこ ないような気がします。 だから帰属意識の違いはこの際意識的に問題にし ないことにします。つまり、今の段階で帰属意識の 違いがあることは事実だとしても、それはいつまで もつづく違いだとは思えないということです。外か ら入ってきて中のことも自分のこととしてよくわか る私と、中にいてそのことを相対化できる孝博さん との聞に今の時点でもすでに違いがあるとは思えな い の で す 。 ︵ 中 略 ︶ もし私と孝博さんとの聞に違いがあるとしたら、 まったく個人的な違いだけだということもできると 思います。このことを部落の出身であるかどうかと いうことで説明するのはあまりにも乱暴だと思いま す ・ ・ ・ ・ ・ ・ 。 私は帰属意識の違いを﹁深く追及しても:::何も新し いものは生まれてこない﹂し﹁個人的な違いだけ﹂と言 い切ってしまうことにはまだ疑問があります︵この点は 後で触れます︶が、その違いをそのままストレートに部 落出身であるかないかというレベルに持ち込もうとする の は 、

Y

さ ん 同 様 に 反 対 で す 。 私がふるさとに戻った理由は、部落への帰属意識が強 くてといった単純なものではなく︵博多が好きで、が 番近い︶、以後地域を出てなお部落解放運動に関わろう とする今の心情も、共同体への帰属意識のなせることと いうよりは、私自身の内面的こだわりや情念の根拠のよ お り うなもの︵長い間、内面に澱のように張り付き、かつ生 きていくエネルギー源のようでもある︿私﹀にとっての ︿ 部 落 民 性 ﹀ や︿部落的なもの﹀とは一体何だろうとい うこと︶を、自らの課題として明らかにしたい、という ﹂ と が 第 一 義 と し て あ り ま す 。 言わずもがなのことですが、部落民としての共通感情 を基礎に差別社会を糾弾し、部落の解放を勝ち取ろうと いった水準で、今一度運動に身を置こうと思っているわ けではありません。この帰属意識 H 被差別集団︵あるい こぺる は差別する側の帰属意識 H 集団︶を無条件前提にしたま 3

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まの解放思想はもはや歴史的役割を終えたものであり、 これに固執するならば、程度の違いはあれ資格・立場の 絶 対 化 や ︿ 部 落 ﹀ ︿ 部 落 民 ﹀ の実体化・固定化は免れな い︵最も良質な部分でさえ、寄り添い寄り添われを繰り 返 す う ち に 、 いつしか社会運動にありがちな同致の構造 に陥る︶と考えています。 私の地域活動で振り返ってみても、立場・帰属に還元 する必要のない、全く個人の主体性や個性の違いの問題 として取り出した方が本当はよくわかるし、解決方法も 具体的に見えてくるということは、結婚差別や教育・保 育 問 題 、 いろんな生活要求運動の中において、確かにた くさんあったと思います。このあたり、 Y さんとも十数 年、運動や生活の場を共有してきただけに、言わんとす るところは、実感として良くわかります。 一例をあげれば、学校現場や結婚・就職差別事件の糾 弾集会の場などでよく感じていたことがあります。最初 の事実確認を進めていく過程から、差別した者と差別さ れた者の個人間の問題は吹っ飛び、なぜか差別側︵非部 落︶と被差別側︵部落︶を相互了解した上での提起や課 題しか論議になりません。糾弾する側にいる私は、 しミ つ の聞にか差別された本人に心情的に寄り添ってだんだん 声が荒くなり、沈黙が支配しだす向い側の人達全てが ︿ 悪 者 H 不正義﹀に見え、その分だけますます自分の内 部で部落民主口者 H 正義﹀としての集団意識が強くうち 固められていくのをどうすることもできませんでした。 その場を離れて一人になってみると、新たな関係どこ ろか、とげとげしくすさんだ感情しか残っていない自分 に 気 が つ き 、 一方で本人同士の個別課題はもちろん双方 の個々人が本音で語り合い、互いに高まる機会をまたも や失ったという後悔に襲われ、﹁何か違う、どこかおか し い ﹂ と い う 自 聞 を 繰 り 返 す 、 ば か り で し た 。 ある時期から、本当に大事と思える問題については運 動組織としてではなく︵立場を問わずてそのことの重 大さに気づき取り組もうとする個々人にできるだけ限定 して関わるように心掛けてきましたが、:::壁は厚いよ う で す 。 感想の中身を少していねいにたどってみたいので、も う一度引用させてください。

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︵ 保 母 を ︶ 退 職 し た の は 、 いろいろな事情があり ましたが一番大きかったのは﹁私は私であって他の 誰でもない、私は私の考えを自由に言いたい﹂とい う気持ちが強くなって同和保育にかかわっている限 り、それはできないと思うようになったからです。 ︵ 中 略 ︶ 社会という視点から見ても私は私以外のものでは あり得ない:::それ以上でも以下でもないのです。 ︵中略︶保育所で出会ったたくさんの子供達にもそ のことだけは確信を持って言うことができます。部 落出身であるとかないとかの前に取り替えのきかな い 自 分 で あ る こ と 、 その自分を肯定して生きること が何よりも大切だということは誰にとっても普遍的 に通じることではないかと思います。︵中略︶部落 民である自分という問題の立て方自体が必然的にそ の子の人生を貧しいものにするのではないでしょう か 自分は部落出身ではないと思っている人がいて、 その人がその共同体意識や共同観念を超えなければ ならない必然性はあるでしょうか?そうしなけれ ば自分がどうしても生きていけないというほどに。 ︵ 中 略 ︶ 私はまずあり得ないような気がします。:::もし 共同観念というものが超えられるとしたら、個人と 個人との関係の中でしか実現されないように思いま す 。 部落問題に関わる︵部落・非部落の︶双方が抱えてし まういろんな迷妄を解く鍵として、ここで Y さんが指摘 することの意味は概ね二つあり、 一つは社会・共同性と 個 人 ︿ 私 ﹀ の視点の分離・相対化、二つ目はそれを一気 に進めて、﹁部落は共同幻想である﹂という前提で、専 ら社会・共同性よりも個人性︿私﹀を優先した視点から の具体的課題の抽出、ということになるだろうと思いま す 。 第一点については、私達自身が自主講座﹁福岡水平 こぺる 塾﹂や雑誌﹃こぺる﹄などでの交流を通じ、身近な実践 活動を展開しつつあると同時に、現在の運動体︵部落解 5

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放 同 盟 ︶ やその周辺の同伴部分が、解放理論・同和教育 などにおいて積極的かっ早急に克服すべき課題としてあ る で し ょ 、 っ 。 分離・相対化の必要性については後で述べるとして、 当面気になる問題はこのこっ目︵個人性︿私﹀ の 優 先 ︶ です。私自身も確かに部落問題を考える際には、この方 法がすこぶる有効であるし、具体的・日常的な場面では 特に、実体も根拠もない共同体意識は限りなくゼロに近 づけて、個性と個性で勝負し合えるような︿関係﹀を作 る志向を持てばよい、と考えてきました。 しかし、﹁共同体への帰属意識の違いを深く追及﹂す ることをやめて、その違いは﹁まったく個人的な違いだ け﹂と言い切るまでの聞には、まだ手付かずの、 よく考 えてみるに値する︿領域﹀のようなものがあるという気 が し ま す 。 また、個人性と言い切ってしまうことで、まだ何とも わけがわからない﹁共同体への帰属意識﹂そのもの、例 えば、部落民としての自分という自覚や共通感情を、 般的に言われる負のイメージのままで捨て去ったり、共 同幻想︵共同的な観念︶の問題としてもう一度相対化し 直すことで、﹁部落や部落民といったものの本当の正体 を暴き出す﹂というような機会を失うのではないか、と い う 危 慎 も 感 じ ま す 。 なぜなら、具体的な生活場面において、個性で勝負し 合える︿関係﹀を志向することと、個々人の内面を問う 場面で、自らが深く依拠し囚われてきた共同性や共同体 意識を相対化し見つめ直すこととは全く矛盾しないし、 現実的な生き方や方向としては、むしろその両方が必要 とされているのではないか。そして、順序としては、 人一人異なる個性を一気に押し出す前に、 やはり共同性 に、そしてその根幹にある﹁部落﹂の共同幻想性︵共同 的な水準で規範化された意識の囚われ︶にまずこだわる べきではないか。即ち、物心ついた時から所与のものと さえ考えてきた部落民意識・自覚や身内・共通感情など が、何故に最優先のものとして自らの内面を縛るのか、 そして、そのほとんどがなぜ自己卑下や屈折感などを伴 う負のイメージとして出てくるのか、といったことを聞 い直し、それらとの内面的な格闘を実践していくことが

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まず必要ではないか、と思うのです。 部落や部落民の本当の正体についての私のイメージは、 それらの実体化を排して見えてくる日本文化・社会の中 の正当な位置づけ直しといった で の ︿ 部 落 ﹀ ︿ 部 落 民 ﹀ 作業によって可能になってくるのでは、と考えています。 ︵ ま だ 抽 象 的 で す が 。 ︶ 二一百でいえば、﹁部落や部落民とは、特定の地域や 人々を指す実体的なものである﹂とか、﹁現在の部落や 部落民は、近世のエタ・皮多:::身分の人達と血縁︵実 体︶的系譜でつながっている﹂などを当然と考える︿共 同体意識﹀が、一般通念として内外を間わず存在し続け る限り、それをまず全面的に札し、撃たなければ、部落 も部落民も正当な評価を得ているとは思えません。 私は、過去数百年にわたって、不当この上ない賎視 差別の行為があり、その結果生じた被差別の事実がどれ だけ数多く存在していようが︵その事実によって、現在 の私達が、怒り・悲しみ・共感といった人間的心情をど れだけ揺さぶられようがて本質的にみれば、それは歴 史的に積み重ねられてきた︿共同的な観念﹀︵に相互に 縛 ら れ て き た 人 々 ︶ の為せる所業だと考えています。何 故ならば、様々な身分や制度、賎民︵被差別民、 コ ニ タ 非人、部落民:::︶といったものは、国家や宗教、天皇 などと同様に、もともと個々人の存在からは独立した観 念的産物、共有化された意識の囚われにしか過ぎず、正 しい意味での︿実体﹀はどこにもないものだからです。 それは、︻法や旋や規範といったある共同性︵幻想︶ のレベルでしか成り立たず、個々の具体的な人間存在に とっては手に取ることも目で見ることもできないもの︼ であり、︻人間同士が何らかの関係︵共同・社会的︶を 持とうとする場においてのみ、第三の場所から互いの人 聞の内面を観念的に縛るもの︼であり、どうしても実体 があると言いたければ、︻そのような共同的関係の場に いる時にだけ見え、時代背景や諸々の条件次第でいくら でも着替えや交換がきく外皮や衣のようなもの︼なので す 。 外皮や衣の内側︵内在性︶にこそ、時代を通じで変わ こベる らぬ︿熱と光を持った﹀人間としての本源的価値がある にもかかわらず、それら︵外在性︶を人間存在にとって 7

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重要な何ものかであると思い込んで為されてきた行為で あり、それが特定の地域や人間集団に観念的に患いて生 じたものである以上、患いた状態︵個々の入聞にとって もともとないものをあると思い込み、囚われた状態︶を、 そのまま客観的事実などと言って認めるわけにはいかな い わ け で す 。 本当の正体を暴き出すためには、現時点で部落・部落 民と規定していようがいまいが個々人にとって外在性 ︵外被や衣︶でしかないものを X 線のように透過し︵実 体化を排してその向こうに見えてくる人間としての本 源的価値︵内在性︶の地点から、日本文化・社会の中で の︿部落的なもの﹀や︿部落民性﹀といったものの精神 ー的な位置を見つけていかねばならないのではないでしょ ミ コ λ ノ 4 H N ︷ 即ち、部落や部落民とは、本当は特定の実体を持たな ぃ、現在に生きる私達全ての人聞が持っている共通の ︿ 観 念 的 先 祖 ︵ 子 孫 ︶ ﹀ の こ と な の だ と 思 い ま す 。 そ し て 、 歴史上繰り返されてきた具体の差別的関係・事実から、 結果として差別・被差別民とされた人々がその生活の中 で生み出し育んできた全ての営為を︿私達の共有財産﹀ としてとらえ直し、それらを日本社会の歴史的︿精神・ 文化の一源流﹀と考えることで、現代へ再−評価していく 契機とすべきではないでしょうか。︵例えば、梅原猛氏 らが唱える縄文的精神︿弥生以降の大和文化を超えるも の﹀や網野善彦氏の非農耕民的世界観︿国家・制度の枠 を超えた海人、山人、呪術民等の生活文化﹀と、現在の 部落に観念的・伝承的に受け継がれてきていると思われ る生活・習俗・規範などの中にある︿部落的なもの﹀や ︿部落民性﹀との関連を、太い水脈を持つ共同幻想の連 続 性 と し て 見 直 す な ど ・ : ・ ・ ・ ︶

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い き な り こ む つ か し い 話 に な り ま し た 。 ど 、 フ も わ か り にくいのでは、と思うので感想文に戻り、部落をめぐる 共同性や共同体意識などについての私の疑問点をもう少

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し具体的に言ってみることにします。 例えば、私は九歳くらいから熱狂的な野球︵ライオン ズ︶ファンでかつアンチ巨人︵東京︶派ですが、これば 九州人、特に博多の人間には特徴的な傾向です︵但し四

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代位までで、今はホ l クスに変わりつつありますが ・ : ︶ 。 今 で も か つ て の 西 鉄 ・ 西 武 時 代 の 主 要 選 手 に は 、 過剰な思い入れがあるし、逆に巨人戦が多い

FBS

︵ 日 本テレビ︶にはいつも苦い気分にさせられ、﹁野球は見 たいが巨人はいやだ﹂と迷った揚げ句、巨人の負け試合 のみ見ょうとする傾向が強くあります。 また、﹁ひいきの引き倒し﹂という言葉がありますが、 どこかよその場所にいても福岡・九州出身者に会うと、 よく知らなくても親近感を持ち、趣味があったりすれば もう相当な友人になったり、身内や友人の行動・振る舞 いについても、他人や外に対しては余程のことがない限 り最優先で支持、少々の身勝手も理屈抜きに許してしま うという傾向も、私は強く持っています。 また不思議なことに、九州人同士の場になると、こん どは﹁佐賀んもんが歩いたあとは草も生えん﹂といった 勝手な理屈で、佐賀出身と問いただけで逆に一歩マイナ スのハンディをつけたり、そういう輸は場面場所でどん どん狭くなったり広くなったりし、同じ博多でも﹁西 ︵農村部︶はどうも肌が合わない﹂と感じ、 オリンピッ クになれば日本人の金メダルに一喜一憂してよその国は どうでも良いとしてしまう、そういう傾向が相当強い自 分に気がつきます。︵もちろんそういう決めつけのみで 全ての人間関係を作っているわけではないですが、そう いう予備感情や先入感情とでもいうものが、 ふ っ と 沸 い てしまうのはどうしてか、と思うことがよくあります。︶ こういう例はまだたくさんありますが、このような傾 向を部落問題に置き換えてみると、先日

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さんを含め話 した時の話題のように、﹁数人で話していてその中のあ る人が、あるきっかけで部落出身ということがわかった 途端に、それまでにはない身内感情が生じ、その人の発 一 言 ・ 行 動 を い つ の 間 に か 支 援 す る 態 度 を 取 っ て し ま う ﹂ という感情や、もっと一般化すれば、︿部落﹀ へ の あ る こぺる イメージを持つ︵部落外の︶人が部落出身者と最初に対 面した時に感じてしまう何がしかの違和感:::などとの 9

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共通部分が相当あるな、と思うのです。 よく考えれば、私達は場面・場所を変えながらも、あ る共同性を背中にしょった感情をたくさん身につけてい るし、その多くは無意識で何らかの利害を含んでいるし、 そのこと自体は当たり前と言えば当たり前という気がし ます。その中身が身内になったり、部落や地域になった り、職場になったり、固になったりと。 そしてまた、依拠しているはずの共同性も、その人の 恐意のままに調子よく、右に左に、軽くも重くもなり得 る も の と し て あ り ま す 。 例えば、小さい頃から親の転勤で、全国各地を転々と 移り住んだ人を思い浮かべてみます。その人の持つ性格 や傾向や価値観によって、ある人には転々とした土地が 全て我が故郷と思える場合もあろうし、ある土地でたっ た半年でも大恋愛を経験した時には、その時間密度の濃 さによって、その場所のみが我が故郷と思える場合もあ る だ ろ う し 。 ここで考えるべき問題は、山ある共同性を背負ってい る場面というものは、大抵の場合閉じる︵排他的︶傾向 になりやすいということ、凶依拠していると思っている 共同性自体が、時と場面で結構移ろいやすいもの︵相対 的 ︶ で あ る こ と 、

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その根拠を厳密に問われれば勝手な 決めつけや思い込みによる場合が多いこと、のような気 が し ま す 。 差別意識が問題として出てくるのは、必ずこの何がし かの共同性を背負ったレベルにおいてではないでしょう 台 、 一般的な同和研修での啓蒙・啓発や同和教育などが どこか的はずれになっていくのは、この︿無意識に背負 った共同性︵当然何がしかの利害や排他性を持つ︶﹀の 視点を取り出すことと、それを相対化し、自在に射し貫 いたり無化したりが可能な︿個人性︵利害や排他性を超 えたり、枠組みをズラしたりして主体的に乗り越えてい く︶﹀との分離が完全に欠落しているからだと思います。 ︿ 無 意 識 の 共 同 性 ﹀ に は 、 よく検討すれば、帰属を前 提として﹁利害選択や排他性で当然差別をしてしまう﹂ という面と、同じく帰属を前提とした近代的平等観によ る﹁差別する側が悪く、差別される側は善︵という利 害・排他性︶﹂というこつの面があると思います。ここ

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で問題だと思うのは、どちらの立場を取るにせよ、︿共 向性﹀に取り込まれたレベルから発想しているという点 で は 全 く 同 じ だ と い う こ と で す 。 差別を当然と考える人は論外︵徹底糾弾あるのみ!︶ としても、差別をなくそうと真剣に考えている人でさえ 陥る落とし穴はこの辺にあります。個々人の︵部落側と か非部落側といった︶集団的︿帰属性﹀自体は無条件前 提としながら、その各々の相対的根拠とそれが持つ力学 のようなものを全く無視し、共同倫理︵近代的平等観に よる立場認識︶のまま、個々人の心情にずかずかと入り 込む。従って、大抵の場合、﹁差別する側が悪い﹂とい う共同性︵立場・根拠︶を絶対化した被差別正義の理念 に部落・非部落双方ともメタメタやられて、 一 方 は 拝 脆・蹟罪を、もう一方は甘え・独善を生んでしまう。 背負った︿共同性﹀の持つ利害・排他性を不問にした まま、﹁差別はいけない﹂と誰も否定できない倫理をお 経のように繰り返したとしても、それはただお説教主義 が 蔓 延 す る だ け で あ り 、 一歩離れた現実の場では︵被差 別側の者が差別側の者を付き従えさせ、優位に立つとい う︶﹁逆差別﹂とでもいうような事態も出てきてしまう という大きな錯誤に陥っていると思うのです。 こういう共同性や共同体意識の持つ傾向や根拠、かつ 手前勝手な臨機応変性というものを、それらに依拠しな い︿個人性﹀としてきちんと対象化し、前提されている 共同性︵帰属・立場︶自体の枠組みを聞い直したりズラ したりという視点を持ち得ない限りは、︵部落差別に限 らず︶差別意識そのものを無化・根絶できるはずがあり ま せ ん 。 また、よく言われる部落の持つ暖かさや連帯感や活力 というプラス要素も、ある共同性の範囲を逸脱した場合 はいつでも排他的になりうる。ヨソ者としての嫁や丑松 的人間、外と交流し得る者への冷遇など:::。そういう 場面は部落の生活の中でたくさん見てきたし、その意味 では︿共同性﹀自体に無関心である限り、部落民もまた 諸々の差別意識と決して無縁ではないと思います。 一九七二年の連合赤軍事件や最近のオウム真理教をめ こベる ぐるおぞましさは、このような問題を必ず含んでいる。 ある閉じた共同性が外に向かう場合と内に向かう場合の 11

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力の働き方をよく暗示しているし、決して私達自身にと っ て 無 関 係 と は 一 言 え ま せ ん 。 私が、部落であれ非部落であれ﹁︿個人﹀として︿両 側から超える﹀べき対象は、共同観念 H 共同体意識では ないか﹂と考える意味は、このあたりにあります。そし て部落差別の場合には、部落・非部落という実体的に存 在するかのように思われている垣根︵各々の共同性の根 拠︶が、地縁の意味でも血縁の意味でも、もともと初め からないのであり、あると考えられているのは、ただ長 い歴史的時間の経過や︵近世の︶法的身分制などで幻惑 さ れ つ つ 生 き 延 び 続 け て い る 共 同 幻 想 が 、 メ ン バ ー 個 々 人 の ﹁ 無 意 識 ﹂ に 観 念 的 に 作 用 し て い る 結 果 、 だ と 思 え る の で す 。 いわば足場のない雲の上で﹁お前は向こうだ、俺はこ っちだ﹂と勝手に決めつけ、差別したり差別されたりし ているようなものですが、この共同幻想の力が部落問題 の場合には、屈辱的な被差別体験や宗教・習俗などを含 む長い歴史・伝統性といったものに一面支えられて相互 に血肉化しているため、私達自身も含めてこれを共同の ︿ 虚 構 の 観 念 ﹀ の 問 題 と し て 対 象 化 す る こ と は 、 や は り と て も 大 変 な こ と だ と 感 じ ま す 。

*

*

Y さんが指摘する﹁そうしなければどうしても生きて いけない程に、その人が共同観念を超えなければならな い 必 然 性 は あ る で し ょ う か ? ﹂ と い う 問 い に 対 し て は 、 私の中にまだ迷いがあり、矛盾しますがとりあえず二つ の 答 え ︵ YES と N O ︶ を 考 え ま し た 。 て コ ︵ YES ︶は、その人がいろんな場面で置かれて いる立場がどのようなものであれ、その共同性・共同体 意識の持つ﹁傾向﹂や﹁根拠の相対性﹂を︿個人﹀意識 として対象化しない限りは、ほとんど共同性の持つ引力 に持っていかれてしまうだろう。従って、決して共同性 に身を委ねることを全部百定せよとは思わないが、共同 性と個人性を分離して考える視点を持つことで、逆に個 人としての︿倫理﹀や︿主体﹀を明確に持づことが可能

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に な る だ ろ う と 思 え る こ と 。 二 つ 目 ︵

N

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︶は、共同幻想との格闘なんかを考えて し ま 、 つ の は 、 Y さんの言葉で言えば﹁共同幻想をまた実 態化する﹂からであり、個人と個人の主体同士の︿関係 ︵ 意 識 ︶ ﹀ の 中 で あ れ ば そ れ は 越 え ら れ る と い う 理 解 で と らえなおせば、︿個人﹀としての共同観念の対象化作業 は、どうも遠回りをしてしまうとも思えます。 ここはよく考えてみる必要があると思うので、再び引 用 さ せ て く だ さ い 。 ︿共同幻想﹀は共同幻想であって、共同幻想とい う実態ではないと思うのです。共同幻想をマイナス のイメージで実体化してしまうと共同体の中にいる 人間一人一人の心の中をすべて疑ってかからねばな らないハメに陥るのではないでしょうか。そうでは なくて、︿共同幻想﹀という取り出し方をした瞬間 に そ の 囚 わ れ か ら 解 放 さ れ る 、 つ ま り 相 対 化 で き る 、 そのような側面も持っていると思うのです。 大昔の人たちは空気の存在を知らなかったと思い ますが空気を吸って生きてきたでしょう?でも空 気を発見して空気という言葉でそれを命名した時か ら空気は人間にとって存在し始めたと思うのです。 言葉は人に何かを伝えるためだけではなく、自分の 世界が変わるために力になってくれるものでもある と思います。そのような言葉で部落のことが言えた ら ど ん な に い い か と 思 い ま す 。 ﹂の指摘は私が思いもつかなかったことなので、大変 びっくりしました。よく考えてみると、私達は依然とし て﹁観念︵意識︶は存在︵実態︶に規定される﹂﹁観念 ︵意識︶は存在︵実態︶に反作用を及ぼす﹂といった近 代唯物論的認識の呪縛に、根強くとらえられているんだ なということを実感させられました。﹁三つの命題﹂を はじめ、私達が無意識に依拠してきたこの方法は、 タ イ ムスパンを長くとり、観念や存在概念についてある抽象 操作を施した場合のみ規定できる、逆に言えば、観念や こぺる 存在自体はそのまま独自な歴史や内在性を持つものとし て扱えるという理解を持たない上部構造・土台論︵マル 13

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クスのテ l ゼ ︶ の 機 械 的 適 用 に し か 過 ぎ ま せ ん 。 例えば、住田一郎さんや藤田敬一さんが述べる次のよ う な 文 章 が あ り ま す 。 明治維新後の近代社会ではエタ村はそのまま被差 別部落として存在したし、それを取り巻く地域社会 の人々の意識の中に確実に熔印された現実なのであ る。たとえその熔印が共同幻想であるとしても、人 ︵被差別部落︶と人︵他地区︶との関係において生 き続けてきたことは否定できないであろう。だから こそ、私は自らのル l ツが旧エタであることを積極 的に背負いこむべきだと考える。客観的事実の範囲 に お い て 、 エ タ で あ っ て な ぜ 悪 い 、 と 。 ︵ 中 略 ︶ 部落差別問題はそもそも共同幻想に基づく人と人 との関係性の上に根強く成り立って来たのである。 まさに部落差別は主観を超えた客観的事実として存 在しているのである。︵住田一郎﹁部落を名乗る意 味 ﹂ ﹃ ﹁ 同 和 は こ わ い 考 ﹂ 通 信 ﹂ 九 九 号 、 一 九 九 五 年

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月 ︶ 部落民というのは、部落差別︵意識︶を媒介にし て成り立つ人と人との関係の中の幻像であって、部 落民という民が存在しているわけゃない。しかし、 この幻像が実体化される。つまり部落民というのは 存在しない。存在しないのに存在させられる。実体 としては存在しないのに実体化される。実体化され ﹁ 対 談 ・ 部 落 る か ら 差 別 さ れ る わ け で 。 ︵ 藤 田 敬 一 解 放 運 動 新 時 代 の 可 能 性 ︹ 下 ︺ ﹂ ﹃ こ ぺ る ﹄ 一 七 号 、 一 九 九 四 年 八 月 ︶ 住 田 さ ん は 、 エタの﹁熔印﹂や部落差別が﹁共同幻想 に基づく﹂もの︵原因︶であるとしながら、その原因そ のものを問わないまま、それを﹁客観的事実﹂という言 い方でもう一度実体化してしまい、藤田さんもまた﹁関 係の中の幻像であって、部落民という民が存在している わけゃない﹂と規定しながら、もう一方で﹁この幻像が 実体化される﹂﹁実体化されるから差別される﹂と述べ て、誤った[意識]が[実態]に逆戻りする︵共同幻想 の実体化︶という考え方にやはり滑り込んでしまってい

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る と 思 う の で す 。 いうならば、ここでは︿二重の実体 化﹀という落とし穴にはまってしまっているのではない か と 思 え る の で す 。 一般的な部落問題理解の水準では、﹁現在の部落は近 世 ︵ 中 世 : ・ : ・ ︶ の 賎 民 身 分 集 団 と 地 縁 ・ 血 縁 的 に 連 続 性 がある﹂ということを、そのまま受け入れた土俵で考え る︵累代の系譜を持つ部落や部落民は実在する︶という、 第一の実体化が前提されているし、これこそは真っ先に た た い て い く 必 要 が あ り ま す 。 しかし、それを、人と人との関係の幻像や幻想に過ぎ ないとして正しく対象化しようとする人達もまた、その 幻像や幻想が現実に反作用︵逆戻り︶してくるという形 で﹁︵主観的には︶存在しないのに︵客観的には︶存在 させられる。﹂という第二の実体化を呼び込み、虚像の 根拠であれ差別する存在と差別される存在︵という客観 的事実︶は否定できない、という新たな垣根がまた再生 産 さ れ て く る よ う に 思 う の で す 。 部落差別の︵原因︶となっているのが、虚像としての ﹁ 共 同 幻 想 ﹂ であり﹁関係の中の幻像﹂であるならば、 そ の 大 元 で あ る ︿ 共 同 幻 想 ﹀ 、 ︿ 関 係 の 中 の 幻 像 ﹀ そ の も の を そ の ま ま 歴 史 的 な ︿ 観 念 ﹀ の 問 題 ︵ 頭 の 書 き 換 え ︶ として撃てばよいのです。また、誰かが主観的に﹁部落 や部落民というものは関係の幻像であり、事実として存 在しない﹂と本当に考えることが一きるならば、それは そのまま︵誰もがそう考える︶客観的事実に必ずなり得 るはずであって、私達自身が再び、幻像を現在の部落 ︵ 地 域 ︶ や部落民︵住民︶に実体化して考える︵観念の 思き場所を、観念自体を問わぬまま認めてしまう︶必要 は 、 本 当 の と こ ろ な い は ず で す 。 し か し 、 翻 っ て み れ ば 私 自 身 も ま た ﹁ ︿ 個 人 ︵ 意 識 ︶ ﹀ による共同幻想との格闘の必要性﹂などを強調してしま う の は 、 ま 、 ぎ れ も な く 自 身 の 内 面 に 、 共 同 幻 想 が 実 体 化 した︵患いた︶存在としての︿部落民﹀としての私・私 達という囚われが明白にあり、親達から語り継がれ、差 別に苦しむ周囲の隣人達の姿を目のあたりにしてきた ︿生活や体験﹀を我がこととして、頑迷にも居座り続け こぺる ょうとしているからだということを、認めないわけには い き ま せ ん 。 15

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なぜ、こう頑迷に居座り続けるのか? たぶん住田さ んや藤田さんを含め私自身の中に、︿個人﹀としての意 志に反して共同幻想としての︿熔印﹀を内面的にも強い られ︵惑わされて深く傷ついてきたという︿体験の事 実﹀や友人の北口忠さんの言う︿体験の副産物﹀が、理 念による頭の書き換えや認識の転換をどこかで素直に受 け入れることを妨げてしまうような︿何か﹀としてある、 ということではないでしょうか。このような葛藤自体が、 言葉や理念では表現しようのない、焼けつくような情念 の落ち着き場所や生の人間の︿魂﹀の安息場所を、必死 あ か に捜し求め続けているということのまぎれもない︿証 し ﹀ に 他 な り ま せ ん 。 ここには、﹁貴様ら、決して許さんぞ﹂と振り上げた 怒りの拳と余儀なくされた内面のねじれや屈折を、どの ようにして冷静かつ毅然とした精神の地平へと︿昇華﹀ させることができるのか、という重いテ l マ が 、 厳 然 と 存在しているように思います。そして、その方向はやは り 、 Y さんが指摘する︿共同性﹀を対象化し、かつ︿個 人﹀として自立した人間同士における﹁個と個との︿関 係﹀﹂の中でこそ実現可能なことなのではなかろうか、 と 感 じ ま す 。 ま た 、 ﹁ ︿ 共 同 幻 想 ﹀ と い う 取 り 出 し 方 を し た 瞬 間 に そ の囚われから解放される﹂﹁言葉は人に何かを伝えるた めだけではなく、自分の世界が変わるために力になって くれるものでもあると思います。﹂という指摘は、個人 と社会、人間と世界観、現実と言葉・思想、情念と理念 といったものの関係について、深く考えさせてくれる大 き な テ l マになり得るという気が

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ま す 。 長い感想になりましたが、とりあえずこれを第一信と します。もう少し関連で触れてみたいことがありますが、 後 日 を 期 す ヲ ﹂ と に し ま す 。 読 み づ ら い 文 章 を お 許 し く だ さ い 。 ︵ 一 九 九 七 年 六 月 三 O 日 ︶

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﹃ こ ぺ る ﹂ の読者を広めていただけませんか ﹃こぺる﹄の復刊から四年あまり、わずか二ハ頁の小冊子ながら、 ﹁人間と差別﹂をめぐって、自由に伸びやかに議論ができる誌面づく りをめ、ざして努めてまいりました。おかげさまで、差別問題に関心を 寄せる人々、部落問題の解決に取り組む人々のあいだで、それなりの 評価を受けているように感じます。 しかし、部落問題をとりまく情況が影響しているのでしょうか、コ ピーが出まわっているとのウワサは耳にするものの読者が一向に増え ないのです。それでも毎年、黒字決算になっているではないかとおっ しゃる方があるかもしれませんが、あれは友情に甘えて︵?︶原稿料 を寄付してもらっている結果です。このまま推移しますと、第三種郵 便物認可限度部数を割る可能性も出てきました。 ﹁こぺる﹄は、集団や組織に頼らず、個人の寄金と購読を基礎にし ています。それは、個々人の出会いとつながりこそが差別問題に向き 合う前提だとの考えによるものですが、それだけ読者の皆さんのお力 添えをいただかなければ宣伝力はほとんどゼロに近いわけです。 どうか窮状をお察しの上、ご友人などに﹁こぺる﹄を勧めてもらえ ないでしょうか。見本誌や掲載論文一覧、郵便振込用紙をお届けいた しますのでご連絡くださればありがたく存じます。 一九九七年九月 こぺる刊行会事務局 鴨水記 マ改正された部落解放同盟加盟登録 規程に、﹁部落住民・部落出身者以 外の者で、部落解放運動に貢献し、 なお誠意と熱意をもって運動に参加 する者については、支部・都府県連 が厳重に審査し、中央本部に推薦し、 中央本部が慎重なる審査の上これを 認 め る こ と が で き る 。 ﹂ と あ り ま す 。 ﹁ 部 落 民 ﹂ と い う 一 言 葉 が 綱 領 か ら 消 えても旧態依然とした組織論が根強 いことが分かります。同盟が加盟規 程をどう決めようと自由であって、 要らぬ差し出口は慎まねばなりませ んが、これでは新たな発想に基づく 取り組みが生まれる可能性は少ない の で は あ り ま す ま い か 。 ︵ 藤 田 敬 一 ︶ ﹁ こ ぺ る ﹄ 合 評 会 の お 知 ら せ 九 月 二 七 日 ︵ 土 ︶ 午 後 二 時 よ り 六月号、野町均さん 一 、 、 京 都 府 部 落 解 放 セ ン タ ー 第 二 会 議 室 EO 七 五 四 一 五 一 O 三 O 編集・発行者 こぺる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所京都市上京区衣棚通上御霊前下ル上木ノ下町739 阿件社 Tel. 075-414-8951 Fax 075-414 8952 定価300円(税込)・年間4000円郵便振替 01010マー6141 第54号 1997年9月25日発行

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連続講座・シンポジュウム

新たな部落史像を求めて

シンポジュウム 教育・啓発における部落史の再検討 11月8日 出 午 後1時開会 京都府部落解放セン聖−4階ホール 資料代2,500円 パキラー 斎蕗 洋一(信州虚村開発史研究所) 住本健次(福岡県立北九州高等学校) 外 川 正 明(京都市小学校同和教育研究会) 師 岡 佑 行(京都部落史研究所) 司 会 前川 修べ東海地Z落史研究所} 連続講座 『京都の部落史』を鶴む会 一 購視観の系措 ①10月3日凶古代・中世人間と差別のおこり ②11月7日 側 近 世 帯l度としての差別 ③12月12日側近代なぜ郵落差別は残ったのか ⑥1月9目白副現代 なにが解消したのか.I豊題は 京都府部落解放セン11-2階実習室/午後6∼9 受指料各2,500円 積 師 師 岡 佑 行(京都部落史研究所所長〉

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百 :c \』./ 、ι,J

Jjl下 鉄 駿 馬口駅下車2分 主催/京都部落史研究所 干603京 郷 市 北 区 小 山 下 総 町5-1 京郵府部落解放センター3階 TEL 075 415 1032 五 四 号 一 九九七 年 九 月二十五日 発 行 ︵ 月一回 二 十 五 日 発 行 ︶ 一 九 九 三 年五月 二 十七 日 第 三 種郵便物認可 定 価 三 百 円 ︵ 本 体 ニ 八六円 ︶

参照

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