• 検索結果がありません。

『宗教研究』123号 日本宗教学会第9回大会紀要

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "『宗教研究』123号 日本宗教学会第9回大会紀要"

Copied!
162
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

――目次――

1,

死の主体的な所在と扱ひ,石津照璽,Teruji ISHIDSU,pp.1-6.

2,

考古学上から見た我が上代人の他界観念,大場磐雄,Iwao ŌBA,pp.7-24.

3,

仏教における死の意義,坂本幸男,Yukio SAKAMOTO,pp.25-38.

4,

我が上代人の来世観,竹園賢了,Kenryō TAKEZONO,pp.39-48.

5,

行苦と罪苦,増谷文雄,Humio MASUTANI,pp.49-57.

6,

死の世界の宗教性,諸戸素純,Sozyun MOROTO,pp.58-65.

研究報告

7,

旧約書における罪の意識,特に歴代誌記者の歴史観を中心にして,赤司道雄,Michio AKASHI,pp.66-67.

8,

神仏交渉の一考察,本地垂迹説前史,安津素彦,Motohiko ANDSU,pp.67-69.

9,

基督教社会主義の胚胎について,社会心理学的研究,井門富二夫,Fujio IKADO,pp.69-71.

10,

ヴャーカラナ・マハーバーシユヤにおける文法学の意義について,伊原照蓮,Shōren IHARA,pp.71-72.

11,

本居宣長と浄土教,梅沢伊勢三,Isezō UMEZAWA,pp.72-74.

12,

原始クリスト教とユダヤ教,大畠清,Kiyoshi ŌHATA,pp.74-76.

13,

最近の米国心理学と宗教体験,大脇義一,Yoshikazu ŌWAKI,p.76.

14,

東北における浄土教伝道の先駆,神尾文猷,Bunyū KAMIO,pp.76-77.

15,

勝論・正理学派並びに中観派の実在観に対する一考察,北川秀則,Hidenori KITAGAWA,pp.78-79.

16,

仏教における神通神変について,紀野一義,Kazuyoshi KINO,pp.80-81.

17,

カントにおける Guter WilleとWillkur,楠正弘,Masahiro KUSUNOKI,pp.82-83.

18,

民間信仰の一形態としての巡礼,小池長之,Nagayuki KOIKE,pp.83-85.

19,

仏教教団思想,主権者の否定,佐藤密雄,Mitsuo SATŌ,pp.85-86.

20,

近世における仏基対論にあらわれたる批判的精神の史的研究,庄司三男,Mitsuo SHŌJI,pp.86-88.

21,

否定の宗教学的意味,竹中信常,Shinzyō TAKENAKA,pp.88-90.

22,

西蔵と中華との初期仏教の交渉,立花秀孝,Hidetaka TACHIBANA,pp.90-91.

23,

他界観念における天上と地下との対置について,棚瀬襄爾,Zyōji TANASE,pp.91-93.

24,

修験道と民間信仰,戸川安章,Anshō TOGAWA,pp.93-95.

25,

宗教的認識について,中川秀恭,Hideyasu NAKAGAWA,pp.95-97.

26,

新興宗教法人の類似性,浜田本悠,Honyū HAMADA,pp.97-99.

27,

仏所行讃と仏本行集経との関係,平等通昭,Tsūshō BYŌDŌ,pp.99-102.

28,

伊豆地方の来ノ宮信仰,平井直房,Naofusa HIRAI,pp.102-103.

29,

戒と律との相違について,平川彰,Akira HIRAKAWA,pp.103-105.

30,

日本宗教史における民俗学,堀一郎,Ichirō HORI,pp.105-108.

31,

宗教の心理学的一考察,正木正,Masashi MASAKI,pp.108-109.

32,

宗教における禅の地位,特に道元禅の立場について,増永霊鳳,Reihō MASUNAGA,pp.109-111.

33,

教行信証述集の年代,松野純孝,Zyunkō MATSUI,pp.111-112.

34,

法華経方便品における法の解釈,光宅,天台,及び聖徳太子の疏について,松見得忍,Tokunin

MATSUMI,pp.112-114.

35,

ルターとアウグスチヌスにおける受動的な義,真方敬道,Norimichi MAGATA,pp.114-116.

36,

宗教的媒介者の論理,諸井慶徳,Yoshinori MOROI,pp.116-118.

37,

岩手県下における秘事法門,山崎教正,Norimasa YAMAZAKI,pp.118-120.

(2)

38,

世親の思想的背景,特に心所法について,山田龍城,Ryūzyō YAMADA,pp.120-121.

39,

道元における無常の意味,脇本平也,Tsuneya WAKIMOTO,pp.121-123.

40,

民衆の宗教,伊豆須崎の報告,高木宏夫,Hiroo TAKAGI,pp.123-124.

41,

原始神道研究における死霊の問題,戸田義雄,Yoshio TODA,pp.124-126.

自由討議

宗教研究の方法を中心とする隣接諸科学との関係,pp.127-136.

書評

42,

宇井伯寿著『仏教汎論』,早島鏡正,Kyōshō HAYASHIMA,p.137.

43,

金倉円照著『印度中世精神史上』,風間敏夫,Toshio KAZAMA,p.138.

44,

中村元著『哲学的思索の印度的展開』,紀野一義,Kazuyoshi KINO,pp.138-139.

45,

辻善之助著『日本仏教史中世篇之一』及び『二』,石田瑞麿,Mizumaro ISHIDA,pp.139-140.

46,

山口益訳『月称造梵中論釈Ⅱ』,泰本融,Tōru YASUMOTO,pp.140-142.

47,

石橋智信著『宗教学論攷』『宗教学概論』『基督教学概説』,丸川仁夫,Hitoo

MARUKAWA,pp.142-144.

48,

岸本英夫著『宗教現象の諸相』,棚瀬襄爾,Zyōji TANASE,pp.144-146.

49,

棚瀬 襄璽著『宗教文化史学序説』,池上広正,Hiromasa IKEGAMI,p.146.

50,

原田敏明著『日本古代宗教』『古代日本の信仰と社会』『日本宗教交渉史論』,堀一郎,Ichirō

HORI,pp.147-150.

51,

文部省迷信調査協議会編『迷信の実態』,柳川啓一,Keiichi YANAGAWA,pp.150-151.

姉崎博士略歴及び主要著作目録,pp.152-155.

Posted in 1950

(昭和25)年

(3)

ゐない。純粋な意味で入

批判してい

。現在に存在

し臣

たる共同存在にある

俺処

人人には精神的な意味で死後

らぬと彼はい

々の変化や錯綜、

ゆる習慣

ノ一

スキ一等︶。実際、個人に

︵ 潰

族や仲間への関係或は仕

︶。

不安の相手にたりてを

を、

私は辿ってみたい。

便宜のために、迂の場合の

死の主体的な所在と

扱ひ

死の玉髄的な所在

と扱ひ

(4)

制が

花上

命 得 ・ 生 て り の ま 実 相 こ は

約常

で 此 は げ で の る き 、 を 普 領 り の 手 こ 、 的 に あ 旭 町 た は 経 」 て 死 の 通 域

(場

の に そ

な在

る で

能鋳

、 る と ゐ に や に の

全面

領 人 の ら り と 注

桂二

そ 未 い る 度 う 心 も 休 と 域 開 一 ぬ 得 い 意 の の ん 来 ふ 只 い

な配

の ) は を の

つ可

る ふ

す委領

な に の 今 と 要 し に に 、 仮 現 の 能 と こ べ

で故

意 あ て の か 実 た 内 於 乙 に 実

特性

い と き

人で味

る は 次 死 の り 花 て の 策 に 異 の ふ で こ り あ で と な の に 死 恐 し 在

第一

の 領

三の

存在領域

撞ヱ

仕組 ある とは 込ん

る。

ない いふ い

刹那 度く には れた ない 領 る す ま に み 、 で い と う 従 に な 逢 り 。 域

領域

る た

於の

独来ひ

ヒ け つ

来い

へ す そ で 域 と 楊 梅 て 領 事 り て か ら で て る と な る れ る で し

といわ在の

なるに

てか

"

ろ ヒ は い ふ

ヒ 。 け

つ終現

、 特 も 自 か

の ら の

そで

れあ てり

しに存の

に ヒ

にの

" を そ

れ。

いをで応現

るあ をに

現在

0

自死。

るま来社領

つるし域の二

そ第

の, の る か 存 尺 度 の は 尤

た死

て は 都 の 梗 で 。 け

今 い

死現

も 死 、 を 自 度 領 も あ と て し の と の

花花

を 専, る 己

の域

と ら か 所 に は 和 合 場 と 各 と 力 。

るく

に を る て を

性 は は 美 艶 な に 来 、 と の い き i 系 Ⅰ - く @@ が " " 存 囲 い あ に 必 も こ ふ

り 現 あ 常 の

る ま す 出 と 、

れ合

後 実 れ に 領 い と の

で末末

を そ ろ っ t こ の で 各 域 ふ い で 迫 る な 観 の 頒 て 額 当 あ 自 は 場 ふ も り " い 金 も 域 を べ の れ の そ 面 死 な 木 し し の で る 場 は 現 の で の け つ か 正 て ( あ 場 や 田 乙 在 基 あ 所 れ て も し を う に れ の 木

於 て 場 的

のそ第

の 一 自 つ り あ 造 て か き 、 領 が

て 得 る 上 梓 と 思、 ひ

願 と い そ 能 処 と ひ た

いふの佳

に 正 達

(5)

りとかいふのは如何なる 姿 死の主体的な所在と 扱ひ 一

んで

待対碑轍

する理由も存するのである。

して、生の向

ふの

、シェラ一等は更

︶。

却ち

彼はⅡ形式

此に

相蒔

したや

を中心とする過去と

捉へようとして

へてをるのは実存

の場面の構造に就

し、

殊にハイ

ヂッガ

であるが、執れも

ヒヒ

を支配し扱く

ち可能性とし

立てられた死とい

。実は可能性の領

。コールはここをも

60

自分の苑は経験

断片後害﹂︶︶

といひ,生 死によ 的な全休 の

在的 時間 と られた現在 る

る 捉へ方で

双方とも 一は迂 こを存在論的に明かにした。

性の領域 はなく苑の

存の終り に 実存的な の上におか

ほ、キヱ に ︵Ⅱ哲学

(6)

といふ生物的な

新学問的な﹁

にかけて考へ

彼の哲学の性格だからである。

在り方を問題

たるもの︶の

したとい

得る

がら、この本末

於ける苑でな

配したり恐れた

から尋ねてみた

破るわけには

ひが・めりはしないか。

れば

ならぬ

毛目

二の問題で

かるといふ

とと

ふか主我的な

先取性が投企

11。引きムロ

出 の

食が

あ と

しが

つ ヱ 存 解 て る て ル す

い 方 こ

ふ 」 、 と る に に れ き そ の を し 。 は は を 連 れ が 晃 子

(7)

在の領域であらうが、をこが

。で、手取り早くいへ ぼ 愛欲

ある。

でなくもあり得る。病気で

るといふ在り方に於て在って

は 出来ない。しかしここに

ままにしようと 願ひ、 足りる

あれを れ 自他を待 対 において・

きまりと区切りをつけて始終 するのである。

のを願はないといふ、その

のであらうか。それら ほ、思

らは悟性や分別が事とするも

に 始終するのである。万端か

が 疎ましいといふ具合になっ てと る かり で・あるの

思ひ煩はれてを る ぽかりな

のに外ならない。死であれば 死の主体的な所在と 抜ひ 五

(8)

せられ 情謂 穂綿されてある

在するのであるが、如何ぞ 如

一の領域に所在し、あれなるも

いのである。それととりとめ

また生死不可得なのである。

木末取りとめられないもの

60 論議を約して道元 碑怖め の話を終らう。

後 あり、かるが故に 佛法

生 といふときには生より

きたら

ただ 迂れ 滅にむか

﹂といふ。

""";"

/

ほ ただ分別の仮定であるのに、

と 取りちがへるのであらう。

(9)

わ ヒ 妹 ぅ

仕置で

ど で

墳墓と高山

考古学上から見た我が上代人の他界

窩念

しがき

文明人にも存在する思想

上代人にあっては果して

察を下すこと上したい。

時代に遡るぺきで、今ま

死者に対していかなる

あり、推察の程度より外に

かといえば、考古学上でい

相当複

となって来るし、

6%

とがわかる

0

加うるに

判然とした他界観念が

故に以下この方針で説明したいと思

人の他界観念

磐雄

(10)

とする

又は台地上にあって、見晴

0

尾根の自然面を利用し、

、前者には佳ょ舟形のもの がある

円墳丘の位置が丘陵上又は台地上にある

㈹前方後円形が多い

程度までの定説が出来て

%

のものを使用し、副葬品も

qhp

︶︶の観念が強く現われて

、合葬が行われ、

副葬品に

いものであると考えられたら

研究家の間にもほ

容認さ

、必

すしも決定的なものでは

加えて見た

と思

示したものがそれである

するものを

んだものであ

前期の古墳の特質を見ると

(11)

(0 @l)

婆 荻

九 考古学上から見た我が上代人の他界 穏念

丼揖鋭ヰ窩拠令

Ⅱ 労汁鐸 浬

沖湘救蓮欝

・ 注師 暉菩

甲穏ヒ宙営

刊援

輌輯痴油痴咄仔

E 廿 三塁・三

輔菊二

% 菊 軽 ・・ 醗蹉 由 E 臣 いか 巨 弔い トト

挙温搬沖

鯨嶽洸鯨蹄

鯨汁 搬 益益苦諦 沖 軸湘

片 轟 田抑 迅 軽睡 洸 暫

汎汎②

き 肋喪 ⑭ C 軸跡

㊤ エエ ⑬ C C 杣 の

Ⅹ X X l 期 l " Ⅰ Ⅰ 汀 X X@ X@ X@ X@ X@ X@ X X X X X X X X X @ に X X X X Ⅹ X

U 由 U

目 一 X X X X X

姑曲

x x

檎辮

X W Ⅲ 一 %

革肛

藤 刈

田畑

づ X 一一 苗

沸ゆ 糖餌 一一 片 ( 圧報 ) 輔

田 皿

逮逮 蓋俺 笘弗 淋 き

(12)

一一 " 一一一 - 一 " "

浩 丑

溜鍵甜湖寸鰍

風樹Ⅱ

輯坤吾丁

寮ヨ遡拠

仕 キ

l

ロト Ⅱ 芽 か ロト D ト 鳶 達 マ マ 辮 ゃ 淫 ゃ

ト 達 ト 卜 達

目印

刮 澤

エ エ

C C C C

① ま X

し X

X

x x x x x

し X

x x

"

"" " " "" "" "" " " " " " " " " " " " " " " "" " "" ㏄ X

し X

X Ⅹ 荊,

次建

檎婁照輔

描滴

牌宙 詰片 O

-- 一 弗牽 ""

粗軸

X 咄モ

(13)

造 ⑧ I 轄 一一 考古学上から見た我が上代人の他界観念

淋 毒 卸 壷 汁 丑 藩 錨 き 営 今 嶌 ・ 百 ヨ 凋 睡

廿掛由曄藤

E

,E

今 日 摘 沖 痴 E 蒲 三 三 洲 輌 E 咄 一一一

時華

弔達叶達 臣ト

南里

菩臣ト

せ 臣卜

%

達 1 郵 泊 津

埼献ヨ

輯 Ⅱ ヨ

蹄剃 室 弗逮

[ 要 零 % 1

専 Ⅲ to@ X@ X@ X@ X

いの

x x x x x x 。 の 和 繍 Ⅲ

迅 中む c@@ x@ x@ x@ x@ x X X X X X

X X X

l%

葉 の 。

5l

x x x x x

ウド

0

XX XX いものめ 目 ㏄ 粕 Ⅱ

"""

軸 義次

藝輌轄

一一把

%

熟田 弗蕾 目 ㏄ 湘軸 血田 靭蕾

田蕾

(14)

まさ

︵ 巷

三︶石田王の卒せし

時丹

生王の歌

我が聞きつるも

上に坐せっるかも

逆言の托

とかも高山の巌の上に君が時せる

歌 王 の親椀会へや 豊 國の鏡の山を官と定むる 末 皇女の歌 が見む

@ ろせ

二一

の中に五尾切断

︵ 3

︶の提唱

突如として迂の頃にあらめれたものではなく、

既に前代藤生女時代において

引き続いておると言い得る

山上と考えられた点と結び付

︵ 5

︶の興味深い研究がある

帝陵は何れも山上又は岡上に

堺比婆出

に葬るとあり、

訪問を若日子の再来と誤認し

喪山

となったという話の中に

集の挽歌の中にも次の数例があるⅠ

(15)

ヒムで私はもう 隣 國の朝鮮や中 園 憾 乍ら未だ決定的 で浜田博仝の丘尾 の苑に対する信仰 死体を葬る観念か とする風香があっ 考古学上

起源について愚考を述べて見た いるが、果して然らばその拠って 数論 を

8 ︶見るのであるが、何れ 切断 詮は 一志傾聴すべきものと考えられるが、 茸 に地形利用のみで解決出来ると

。私は卒直に云え ぼ この 頃彩

ぅ すると、前方後円墳の起る以前 生式箱式 棺の所在地が往々自然の から見た我が上代人の他界観念

。従来この形状 来る所ほ何であろ も一長一短の感が は思えない。それ 我が上代人に通有 に自然の山又は丘

丘陵上に存する

一一一一

の 墳丘は ぅか、遺 ある。中 には当時 した山に 陵を葬所 という点

前方後円墳の発生

こんな観念は決して上代 は している︵ 6

︶ ゥ

文一般常民の

内幕との両墓制が信ぜられ 0% 態は窺われるのであって られるという考えが 廣く

一般

以上の傍証資料を介して 私

観念を見ると、地上・地下 でも決して自分達の身近い場 の点我が古墳時代前期の他界 節 に説くことと合せて考えな け を 合 " は に " て 問 か 佳

土音

杢緊蓋搬麓丈葉

来 後も別な形で山中 他 として後生山や鳥辺山

く 遺存する点等︵ 7

は 迎えられて・子孫 しているのである。

う 。元来他界表象の中

っては地上が先す 撰

といつた場所に求める 何故高山に 撰 んだかと ならない。 界 観念とな の観念が生 からも・ よ に幅を授け で、その 位 ばれるが、 のが普通で いう点につ い

てる上に

柚貴

をを

くじ

@ 由基 " つ て 存在 問 手け 関す の 中 。 そ は次

(16)

次に主体部の構造について見ること上しよ

は当時の習俗たるもがりとも関係があり・苑

の上に喪屋を立てたど僻することも出来る。

たとも考えられよ

。女に迂の時代の棺

櫛は

見て

レる

。そして、

れを通じて大別する

山上に放葬し

だから私は之を

竪穴式石室との

かれている点が注

あるから、大体

それなら

ぽ又

遡ってか上る山に葬るという

くから出獄

対して崇敬の念を懐いていたと

ては

、相当多くの問題を合んでおり、到底

つた

思想であり信仰であったと思われるし、

観念とも結び付いて、山が選ばれたものであ

観念はどうして発生した いう、所謂 山 崇拝にその ム では説き 誌 されないが が清浄な山に存するとし 又 後に述べる様に当時は ろうと推考する。

か、と

れについては推定しか出来ないが

起源を求むべきであろう。我が

本来の

山を紳人の住み

拾う

要所と観じ、之を

、祖霊が

迂ムに

集すると信じたことはお

屍に

対する恐怖の念が強く

之を遠隔の

一四

強いて排斥

祭壇として

た墓

形に統一

たるの観を呈

いたものなの

出作りの語が適切に当つている。

怠 される。 こ れ 丘を封 柴 してを た 習俗が遺存し その未分化時代 一一系統に属する し 難いもの ムあ うたと考える。 されて来た 鴬 め しているのは乏 であって、所謂 、我が 國人 が古 山 嶽 信仰に対し 畏敬するの念は のずから起り 来 地におくという

(17)

舟形を呈せす且つ容器として蓋を有する

され、小林氏は更に古文献からも

葬の存在

以上の事実は当時

葬の存在を立証するもの

して愚見を申し添えたいと思

0

を見ることにしようも第一の蛭子を流した

しこれは決して蛭子の屍を舟に入れて流した

とも解し得るのである︵常世の條参照︶。

考古学上から見た我が上代人の他界

れ念

と、 を 否 では こと ので 二の 舟形 走さ なく 一は 珍 はな 北史, 相 における 細掛 突起の存 れているので・一穂 は蓋 、その痕跡の遺存であり らし小物語の一例であ っ い。恐らく蛭子は天孫の の記事は原典に 当 ると、 一五

ぽかりではなく容器

入棺の乙とを﹁

㈹古典に水上に来世を認めた

こと

︵常世

御 舟人﹂と呼ぶ ヒと に と て 世

推往

と 休 て 置 あ い

界定

々 は 、 部 之 く る る 各 し 全 わ は を と 点 。 國 て く れ を 粘 あ の 小 舟 る の 土, る 未 る を 。 上 そ

開 。 模 ヒ に の 人 そ し の 置 他 又 し た 式 か で ほ て と は れ 被 古 之 考 ヌ, て 覆

をる野見

女國

来者が

" に "

(2)

ば他第茶

差水 は仔

乱神

に で 日

文相 委細

史話

倒 る 山 な 又 く に の

に徴

る の い は

底見

我蛭が

例が粘

面れ

が 子 あ な を 、 土 に は と る お あ

間木

粘 前 蕃

俗輩

と舟げ題 、

土 者

甑佐与襄

C

洋室

は し 入 " の ン

の等が

たれ

吹 傍 ド

形が

設 棺 中 て の 証 ぅ

状原

け を

に流

四 と

式で初

ら 申 屍 し 点 し の あ 曲 れ ・ 已 、 を 棄 を で 舟

つで

て に

般て

挙 は

形て

あ 、 お 上 た げ " を " る 主 い

れてい ても文献

り、後

とが

葬法

きは

(18)

搬の方法を記したものであ

入れて葬ったとあるのでは

拘泥する必要は草もない。

邪神

が粟柄

にはじかれて常世

そうであるが、もう少し古文献

又は海の彼方の楽土という

に一二常夜︵長夜︶の文字を

いう意味となり、死の國︵

通り、当時の来世

観が

U

、その頃まで形式的に

存し

如きは古来

博統

を重んするも

あったなら

、相当永く残ら

入ると・後に述べる通り舟形

榔は全くなくなり、家形のもの一式となる、

で、もしあったとしても海岸

前に

舟葬

が行われたというな

古墳前期だけ忽焉として

言いたいが、中期以後の棺

土床

礫床が

行われ、を

(19)

えて、その傍に前記の鉄器 類 一ヒ 考古学上から見た我が上代人の他界 穏念 て 納め かれる いたも かれて みか、 観念の の 配 貴 之はそ 上 する それ等

例えば鏡は屍の頭又は胸の辺に面を上にして・

二面三面又は数面が寒

する呪力を活かしてお

。玉は多く頸の辺にお

とは考えられないの

力を認めて、ある信仰

がある。

之等

石製品

出土したりする︵は︶。

様な特殊な青銅器も出

思われ、

鉄製の農工具︵

とか

・斧の類

︶が往々副葬されるが、

すべきであろう。昭和

てそれ等が実用の什器とし と で し 者 一 ム は た の 方 し な と 結 は た い 老 台 発 して併用されるに 達して割竹形や舟形 至 えれ

ば、

決して無理 であろうか、尤も中

小。

死 棺と った では 期か 体

ある

恐怖

し 、やがて竪穴式石室へと進み、をの 雨 て 後期の横穴式石室と家形石棺へと進歩 の相違を置くよりも、 ヒ の方がより妥当 が・との問題については後節に触れると

(20)

されたことである。頭部の近

するのも常識上からおかしい

櫛の有する呪力が利用された

テ 円いので

ハン

存したと思われる。

ち身体

ない。古くほ死体とその霊魂

等を悪霊︵しの︶

ロ 0

口 ︶の

所震と

考える。それがや

文化が進

なる。他界観念の意識は後

ていたかと推察される。

即ち

現世の生活とは異なった

いろ

品が捧げられたと思

のである。

うであるが、

こム

で一恵結末をつけてお亡う。

以上述べた通り我が國の上

高台又は山上に之を求めた

恐怖観念が濃く

従って

後世に至ると、身体現

と別

山中にありと意識し、身体現

次節で述べることとする。

(21)

て 見よう。中期と後期とでは

後期と前期との過渡期として、

に 対しては便宜上両者を引くる ち 次の五点が挙げられると思 う 。 Ⅲ墳丘の位置は平野 へ 下ってくる

榔は地平線上か以下におか ㈹ 一棺 欄内に多人数の合葬が認められる

くなる ㈹埴輪殊に形象埴輪が盛行する

の 墳丘の位置は、中期から

万夜 W 墳の如きほ平地に隆然 た

第 ㈹の 棺榔は 中期には前期の

竪穴武石楠 が別 つどき行われて 考古学上から見た我が上代人の他界 視念 別表に示した通り若干の相違 両者の要素があらわれて居り めて前期と異なった特徴を見

丹 t -

そ ら ⅠⅡ平野に下る傾向が見

人工の小山を作ること

な 木 棺や粘土棺を受けて発達し いるが、後期になると 殆んど

一九

え 、後期は大部分 り、 又周 浬を廻ら たと思われる割竹 一般に家形相又は ることにする。 、古墳文化の漸遷 があり、正しくは 却

に 祖霊の存在を認めることが、 廣く 常民の間 に

葬の諸相

ては一流の貴族又は 点である。勿論この 共通する観念でめる ある。 地方 疑は こと 有数 一志 が窺

(22)

馬人

簗等

がある。

生前の

刻して、恰も家内におるかの

象どつ

たもの等もあり

建築のブランとを比較対照

しなければならないことは

、封土を築いたと考えられ

られる。

葬の風の盛んであったこと

姦人Ⅰ㌧

p

Ⅰ号目。

︶Ⅰ ソ

としての

。次に第㈲の副葬品は

一面か二面といつた程度に

・鍋鉄は全く見えす替りに

ぶりを示して来たことであ

あらうそうとする意図と考え

必要な器具としてこねを

供されたらしく、現にその

一部が残存していた

"

合も相当にある

︶。

二 O

(23)

とを物語り、副葬品や埴輪の或ものからは

す べく 考えられたと思われ、文一 棉榔 内に

を 持続すべ き 念慮の存在を見るのである。

後の世界が現世と余り遠くないところに

ぬ上 又は地下にありと思惟せられ 末 つたも

黄泉

と根玄圃

泉國と根之國 ︵又は根 之堅洲國 ︶とがそ

見ると、をの位置が現世より下方 却ち 地下

石 隠り給ひて﹂とある点や 、ヒ ム に 至るに 考古学上から見た我が上代人の他界 棚念

その生活が生前と同様身分に

じた

多くの遺骸を葬ってある点から、

そして

Ⅲの墳丘の位置が千

に下

求められて来たことと示し。

棺榔が

のに体ならないと思うのである。

0

具体的なものであり、その内容は

にあったと考えられたことは、祓詞

黄泉千坂を通って行く

乙と

又根

一一一

存在等は、死者が来世に於て

住宅の模型や威儀の具と に面白いことは人物像の 女に該当するものである や、特殊な姿態をもつも をそのま ム象どつ たもの の一斑を物語るぺき品々 とを前提としている ヒと 以上の諸事実を通じて

。 殊

と采

人物

状態

生活

6% をよく示していると思う。

に私

(24)

二二

られる。 即 ち伊井 諾貧が冊貧

なので燭火をつけて見られた。

怪物が住み、ことに入ったも

れていた。更に乙の國から 現

之國 又は根の堅 洲國 について

には蛇の室や英 公と 蜂の室等

黄泉 國と 似た世界なのであ

ち拾う とあるし、 又 同じ道 饗

諸悪霊の集会する暗黒の世

桃子等呪力ある品が使用され、 えて之を塞いだと物語られてい

すものということが出来

石 ︵即ち千引 石 ︶に外ならな

八雷が 鳴り 蛆 たかれとろ ろぎ

われて居り、後期古墳に見る

神話の意図が タヴ一 を犯した

となったのであろうと思 う

同郷の北方磯辺の西方に 窟

至る者は必 す死 ぬといわれ、

(25)

ゑの

概略を迦

として、同様の

前期のをれとは

べきか、他文化の

文化の影響が特に

長持

棺から、

大陸文化にあ

遷りつ

あり、

60

二十五巻八・九号︶

雑誌二十五巻十二早

三巻二号

考古学上から見た我が上代人の他界観念

たが、 要之 住宅に住み 亡い変化が 刺激を受け 著しかつた 横穴式石室 ると信ずる つて他界の

通性が多いのである。何となれ

いるのである︵㏄︶。我が國にあ

では、それが黄泉

國と

考えられ

0

がをれである。

ち苑の繍

一体未開人の間に洞窟を以て

でも 称す % き恐ろし 他界とする観念は展 は 西方は訂没を意味 つても往々海辺の洞 たこともあり得たと いとこ 力 認め し、 日 窟を原 思う。

ろで

・当時迂の地方

られるものであつ

没は闇黒の世界で

- め

時代の墓穴とした

(26)

) ) ) ))

ⅠⅠⅠⅠⅠⅠⅠ

( 打 ( 丹 0 (・。 Ⅰ ( , ノ共 ユ (。 <,] (( 12 1 Ⅰ ( Ⅰ Ⅰ I Ⅱ り ハ ハ Ⅱ り し )) Ⅰ ) ) ) ) ) )) レ

二四

一群︶

/ 河原・二

%

血ノ

Ⅱ棺桶を

ヤマ

オケ

・虹形

模倣

けて立てかけられ、

第二十冊︶

町鏡塚

では滑石製品番

大賈

土山古墳の例がそれである

高橋健自民

﹁古墳と上代文化しに記述がある

小林行雄

﹁黄泉戸喫﹂︵考古学

集刊

第二冊︶

地上の他界表象の條に説かれている

(27)

死の意義等に分けて考察して見ようと思ふ。

死の定義

"P ︵ $ セぢ が用ひられ、其の外

ヰ ︵ 螢 ︵離生︶等も死と訳されることがある。

、 彼 彼の有情類の中に 於け

繭の破壊・身体の投棄、之を死といふ。﹂

コひト の ぎ Ⅱ 笘目ぢキ目ヴゴ の 年つ

︶毎タ︶ トセ由 CC 酋ひ, ︶ 目 Ⅱ 由 ㏄の︶

木質とし、 n 現在の u 趣を失 ふ

るが故に苦なり、と知るべし。 し

Ⅱ ざ ヰ中 ゴ由ヴゴ目 Ⅱ 笘珪 0 ﹁ ア ﹁ガガテぢ け 二五 佛 致に於ける死の意義

坂本幸男

佛数

に於ける死の

意義

(28)

︵ @.

% り

屈宙

三︶Ⅱ∼

口を

内的

燵セ

・ははの︶

言語を発せす意識活動が

、呼吸は忠

言語を発せす

%

と滅

和宏との区別を明か

軽安

となり、心行︵忠愛︶

軽安

となり、請待減して

だ蓋

きす

気は未だ

ます、

諾根は澄溥

なり﹂

︵の・

b4.

ムド・

Q.0.

ロハ

目 ︶ コ

三︶

れば名

けて諸行と震

﹂と

﹂とか、或は又﹁

雑食

︶とかと説かれる如く

︵倶舎論五巻︶と云はれて

物質的なものと非物質的

謎部派と

倶に

杖を物質

本論書たる

発智論

︵十四巻︶

此の隷が能く体温たる

・識の三

が身体

離れる

と に で な ゐ 命 若 か 南

安城

に 意 中 と す

ては﹁

とほ一存

グ 衆生︶に用

一一山、 ノ 二せ︵次年 曲邑 ︶けぢ︶ - ︶・ ヘイよ雀 - 二三二︶コジャ的的 ぢ七 ・ 白 つ い ︶

(29)

先づ 生理的方面からすれば、 に 死 する場合は倶舎論︵ 千 巻︶ 往く者と阿羅漢とは仏戒 に 於て の方から意識が無くなるにつれ 佛数 に於ける死の惹 弗 我我の世 桶 に 徒へ ぼ 、 意識が滅す て身体も冷 たる欲界に 地獄に堕す ると誘いて 卸 し最後に

歓然として滅し:潮吹 る者は 蜂に於て、天界に 巻︶等に従へ

悪人は頭 意識が無くなるにつれて

二七

、死する時の生理的・心理的状態

米英二瓦域間 @ 如 二木皿 ぎ識

ゆに得し、苑の最後に捨する

分別論者は﹁ 毒蹊 識の三は互

説一切有部は若しも蕾が 随心

なら放いといふ規定に反する

であらうと反駁した。之に 対

と 弁護して ぬ るのであるが、

諦三巻参照︶。

の 心身組織を一生涯相続 せ

の 如きもので、別に実体があ

部の如く実法と見るか、或は

理論十三巻等を参見せられた レい Ⅰ

(30)

一一八

於ては命終時の最後の出入

恩人息、これは死を最後と

色法が一生滅する間に心心

るために

心より前の十六番

ことが出来、或は座に坐して

の埋せ

・はのめ︶。

Z

に反して非常

竪ち

手足紛乱し遂には

使磯を

りと言はれる

末俺

農具

利刀の如く彼の末

庇に

触れて

水が

せば

庵病

が起り、

みは軽いけれども悪人の苦

みは重いとせられてゐる︵

輸伽論

一巻︶。

起して安楽に

し、不善根

何れも無記心を起し不吉本

と相

庵する異熟無記

か或は

するに好都合であるからであ

せられてゐる。蓋し

定心

ないからであら

︵倶舎論士

︶。

界に

於ては更に眼

亜古身

(31)

廻の苦を断ち切ろ

死する

︶第三は樹木が枯れ鍋が錆び

第五は死すべき時に非すして

時花 と 第五の非時花である。

@.2

帽音死

︵ せ由

目口碑 ガガゴ曲田の,,|

れたる命根の連続の断絶との

来同会死なり﹂と同じもので

Qpq 碑 臼田 pqpdp

︶・め一博

圭地死

幅轟

足 して﹁ 云 何が業 死 なりや。

に死 するのを 業 死と老けたも

綾に依って説いたもので・

0

楡伽論

詔一正︶。

故に。一期の生の中常に随

的付 震 たる業であり、全人類 佛 致に於ける死の意義

二九

捨し

、漸次に命終する場合は

する場合であるが、善心で

丸根とするのである︵倶舎論三巻︶。

、死の種類及び死の原因

(32)

ち過去に曾て他人の生

するといふことはあり得ない

O

上下するのであるが︵倶舎論

合が

きて

する

毒康苑は百

が表

きて来世に生れ

L

めるべ

を時死の申に入れてゐるが、

が減離し

れに因りて命終

ハ巻

レと

述べてゐる。

轟きることは直接死に対し

五巻順正理論十三巻︶。

場合印

不節制や不養生等

60

非時死の原因に就いて

9

罪責

Ⅲ生面不熟Ⅱ熟面

持レ

へ、

鹿論︵五六巻︶はエ無

乗浬葉経

︵二四巻︶は天爵の九

随二医

-6

レ随

暗病教敷

@

楡伽論

︵一巻︶も不平等を避けざるが故に非時

苑を致す

因縁としてエ会無二

非時

9

重行

非梵行∼を挙げ

てゐる

0

(33)

、人為的

死 ︵自殺と 捨 多書行︶

九巻等︶に

6% とを知 っ

にして 貧 欲す

して居られる 一一一一 佛数 に於ける死の意義 は 、病苦に堪へ て身体に対して べからさること のであるが、 併

ると考へられるので・めるが、

醜悪たる 老と 短命たる死とを

南方上座部や北方の論一切符

の死を肯定したので・ある。 そ

漢 非時死の否定論である。 却

経文を根拠として、輪廻中に

阿羅漢に於て受け幾らなけれ

である。併し 婆沙論 ︵二十巻︶

であるけれども地獄が終って

命 を短促ならしめたことの等

死を認めることになったので ある。

(34)

%

晩者

自殺肯定論は脈

て部派

他を利益し安楽ならしめる

轟くる

歓喜すること

幅出

に施し第四禅定に人

り定

に言

ふ時

、詩命を短縮する

であるのに如何にして斯く

休を鱒

することは不可能であ

る業

ありしも

災障

ありて実現

薄行に違

ふが

故に詩

を捨

ある︵

婆沙論

一二六巻︶。倶舎

・捨歩薄行の反対に

%

るに他に適当な人攻

く而

かも

業は願はくは

偕鱒

じて濤の異

来るといふのである。

を惑んで死の美を讃歎

どとと等を波羅夷

とし

9o.

馬のめ

︶に依れば・

死に輪廻しないなら

大過

ことになる理である。

惟ふ

して 死 せ て禁じて 自殺して は 無いと に人問と

しめたり︵

H.

・Ⅱ

e

或は不浄観を修

めるのでめる

0

乙で此の両者の矛盾を如

も苑後

飴身

が相続して生死に輪廻するなら

誘かれてゐるから、既に解脱し

つた者に

-

して生れた限り如何に苦しくとも解脱を実

一一一一一

(35)

が説

ら に

学派の苑後宥恕 論 十六種・

三 二巻 20

000 経

は 何れも無記を以つて答へ

ほ腔詞 迦葉

佛は何故に記

0 玉繭でなけれ

ならない

ふは 正しから チ 、同様に死後

一一一一一一

佛 致に於ける死の意義

対す

㈲ 日 ㊤ 田 長 」 の す る 抑

がらへらるべきである

解釈せんが 俺 めに現れ

他の立場から見れば 衆

濤 量目頭の﹁実の滅にあ

として注意すぺき 点

︵五巻︶に依って表示

佛の自ら 般浬典 するも 他書非自害 1帖・卵に処する有情。 l 自害他書

余の多分の欲界の有情。

・欲界の一分の有情︵

陸と此の菩薩を懐胎 す 五

、死後の有無

誠 体に ほす 滅現 で める。 しよう。 の

佳す る 母と 蒔 輪王 と縛 輪王を懐胎する母となり。

(36)

綾 とし 有 男 生死は である。 を引かす り無であ があるが 把握出来

三穂の意生身節 ち変

を 得ることになるの

ては、をの問が議 利

問 に対して我は本 よ

答へるといふ解釈 と

有 或は無の概念では

無 に就いて無記た別

漢も

、それは・

︵煩悩︶を

ならないといふのが、阿舎

であったのである。

否 かに 就

釆 の死後

有 なりと

震し、

0 色を取するにより色を

其の点に就いては後ち

﹂と説かれてゐるから

であるとせられてゐる

つて

論斧

の一題目となつ

三四

ある。

或は と述べ

羅漢 のであ にょつ

する

解決

(37)

三五 佛敦に 於ける死の惹 義

若は重き疾患にかかる時、彼

︶の

︶には 死 すぺき者にし ﹁虚室に於ても海中に於ても 山 Ⅰはの︶と歌はれ,或は﹁幼少者 a 乱落

目宙

Ⅵ結文 c.0% ︶と説か % も 之を逃れることは出来ない

す、

況んや 役 た飴の凡俗をやⅠ は 出来ないのである。をして﹁

︵のⅠ

レ まな

Ⅱ セ目

日田山

ノヨ

0.

ミの

︶のであ h 即 ち自然であって

之を逃れる である。 即 ち﹁四時不二 暫停

-

ぽ ざる処は世界に無しし︵日︶ ゃ

∼︶︶︶

口曲 セミす主色

ほ 死に左右せられ凡ての者は必す死に至る﹂

免 れることは不可能であり、 又 如何なる人

よやま

ほ おろか 佛陀 さへも死の現象から免れる 迂

れた人人にも同じく常に死の恐怖があるⅠ

﹂ 来 り、且つ﹁苑に至ることは生ける者の法

こ ︶苑に対する恐怖の一管深刻なものがある

別訴 雑 阿舎八巻︶である。 の 性 と れ と

死の恐怖と其の超越

つて答へられた 意志に依る自主 円鏡智 にょ 6 音 荷 、新妓上人 帰らんに同じ。 解決に深い示唆 といふことは、如来の死後にば 的な衆生済度の震めの示現の生 門 示現は実に斯かる点を説示し の御傭末の御書の﹁我が 茂 きほ 一人居て喜 はム 二人と思ふべし を典 へるものがあると思ふ。 煩悩 業 に 死、 即 ち たもので まりて 安 ・二人屑

無いが。謂はぽ自由

のであって

彼の大

あらう。

たを浪の寄せかけ

御文

此の問題の

(38)

二 一

よハ

失ふ

なら

-

んと恐れる。

あり

ある者は我

正法に

離別するが故に㈹愛する

ビス

ソチヰマッガ甘

・ ひ

0

め ︶

苦みたる肉体的苦痛との

訳である

従って苑の恐怖

非すとせられて

るのである︵

め堅

八巻︶。

すること

却ち

念死

挙げ

者の如く生命ある考を必

す苑

必す

凋落する如く

苑に対し

も幅徳

ある者も体力ある者も

とを

比して死を随

する。

とて苑を随

する。㈲人々の

する。㈹詩合の期間、苑の

つて死を随

する。㈹人の霞

とならす

実に入る息は出る

なりとて刹那の短きことによ

食欲の心を離れ無常

無我

苑を超越することになると

(39)

佛 致に於ける死の意義 三七

観 すれ ば 苑の苦悩を解糖すと

︶ と 説いてゐる 0 従 つて四諦

ことではなくて

苑寿

する 恐

怖畏を超越す﹂︵ 呂比 ︶山口 隼館

であらう。

生 に依りて来る。五口 れ 若し

くべ く苑を怖るる ヒと 勿れし

むべし。若し人生花の外に 佛

苑の因をあつめてさらに解脱

し 。 ヒ の時初めて 生 苑を離る

。かるが故に 佛法 のなかには

ふ 。 生 といふときには生より

継承して 御 蓑口 博に ﹁三界 Z

に井ざるなり。 生 苑を見て 厭

蓮等 の 類 、南無妙法蓮華経と

て 生を越えんとし、道元及 び

レの 。 七

、死の意義

(40)

一一一八

つて、死の恐怖が深刻でな

物語るものである。即ち

に人生最高の目的たる解脱退

告げん。諸行は壌

たり。

されたのは実に此の嶌めである。

一律ではなく、時に浅深

してゐる。即ち馬に一は

鞭影

察する馬、三は鞭杖を以

者の心に随

ふ 馬がある如く

つて苑を諦

すること

得られるであらう。

(41)

から,水生

木 苑の観念が出て

件 つて来ると、

苑 彼の生活に

三九

我が上代人の来世

我が上代人の来世

園賢了

(42)

つた。

ミの國が地下にあ

はけがれた不気味な所で・

とを目的とする祭事を行

出来るから、

出入した

の悪霊を防ぐために

タブ一の行事であり、道具で

以上のよう と、右のよう なう示教をもつ の 他界観念で に 従来の民族

ついて見る

のような素朴

すに移り、

佛教

末世

のため

信仰を圧倒した感じがする。

考えて、ヒムに永遠の生

異にしたものとなって

苦楽の区別をつけ 生じ、更に善悪の のである。

等に大きな差異を生じて、

し、

ヒムに天上と地下、薬

四 。 光明の世界、時黒の世界の区別が 土と苦界との二元的対立が生する

(43)

左右 吉氏 、神代史の研究第二十二章参照︶

四一

我が上代人の末世

あった。

風習があった。

又ヒ

た祀祀

もあるから、

肚墓

一休

死者を紳とほ

なかつた

所であり、けがれた悪霊の

拘らず、貴賎善悪の入首

ねば

差別なくヒム

行くのであった。

道徳的行

樵報

によって

世界とも考えられなかつた。

とム

考えていたけれども、

結びっかなかつたが、苑が

であるとゆ

考えはあった。

存在した根源的世界であ

天界に関心をもたなかつた

いても、

又ア昌

ミズムの段階

ばれた頃に

いても、

考え、

中ッ

國の根源として

(44)

ぅか 。永生

界 では 放 くし

界を教えたの の 他界観念は取って代わられたのである。

ヒ とを知 っ

うによんでい

ゑの ﹁世間の佳 り 難きを哀しめる 歌 ﹂に

五 、八 0 四 と ゆ う のがある。

却 宗 に る ち 漱 し 肚 入

って

大和以前の時代を呼んだ

彼方の楽土とゆ

意味に用い

とは出来ない。

四二

つていなかつたから、トル

0 世界としての高天原、中

と ゆ う 他界観念をもつたに 過

四 0 頁 ︶、天威に対するハ一

(45)

四三 ぽ癖 めりし人の毒草

︵ 億 れ田

油崎

︵韓三、四六 0

とあり、

6

間は楽しくをあら

︵ 巻二

、三四九︶

覚ったものである。

﹁大串

大伴

凶問に報ふる

﹂に

︵ 巻五

、七九三︶

す悲

しかりけり

思はなくに

とあり、﹁膳部王を悲傷める

しに

︵ 巷

三、四四二︶

満ぢ訣

けしける。

とある。

大伴家持の歌に

︵ 巷

三、四六五︶

つるかも

とあり、

沙穏満

哲の歌に

︵ 巷

一 、一一一五一︶

きがごとし

我が上代人の来世

天皇

詔の中に

︵続紀、養老五年十月十三日像︶

哀詩

-

歌に

しあれ

ぬれ

(46)

とある。或は﹁世間の無常を悲しむ

6 月もみちかけしけり、

斯くのみならし、紅の色

如く常も無く

移ら

見れ

にはた

み、流るる波止めかね

一九、四一六

0

﹂﹁常にあらむと

思は

なくにし

を佛

数の用語﹁

﹂に当てた

言い表わしたと見ることも

ることも出来ると思う。

争ひ侵して、際を渦ぐる

要期

に違

、独飛・

牢跣

厭離す。本願主をかの浅利

託せ

彼自身に彼岸の信仰をもつ

によって理解せられていた

とが推察出来る。

鮭し

﹂︵﹁痢に沈みて目ら

ぶ文

﹂︶

宗教生活をしていたから

(47)

水生を来世 を 厭 う歌 Ⅰの申の

るかも

き 知らすも

ことは、たと とム 察せられる。

もあった。 にある

尋ねな

遇はむため 我が上代人の末世 槻 を 求めよ ぇ 彼岸や 大伴家持

((

春巻

巷一

ぼ土 巷 一 ( と

「病に

と 玉

ム八

"t

"

を 明 に

ら 現 四五 れて来た。例えば﹁世間の無常 かに来世に永生を求めていたこ しみ,修道を欲して作れる 歌 Ⅰ

世間を憂しとやさしと思へども飛び立ち

老身、重病を経て辛苦

す、

児等を

もなく苦しくあれば出で走り去なな

の歌で知る

とが出来るが、世間を離脱

世の否定でもなかつた。

か ねつ鳥にしあらねば

巷五 、八九三︶ 息う 歌 ﹂の甲の と 思へど児等に障りぬ ︵拳玉、八九九︶ 道 に入ることでもなかつた。勿論 現

ゆう気持をもつていたことは

﹁貧窮問答の歌﹂の中の

参照

関連したドキュメント

専攻の枠を越えて自由な教育と研究を行える よう,教官は自然科学研究科棟に居住して学

インドの宗教に関して、合理主義的・人間中心主義的宗教理解がどちらかと言えば中

大学教員養成プログラム(PFFP)に関する動向として、名古屋大学では、高等教育研究センターの

Fiscal Year 1995: ¥1,100,000 (Direct Cost:

工学部の川西琢也助教授が「米 国におけるファカルティディベ ロップメントと遠隔地 学習の実 態」について,また医学系研究科

ハンブルク大学の Harunaga Isaacson 教授も,ポスドク研究員としてオックスフォード

「イランの宗教体制とリベラル秩序 ―― 異議申し立てと正当性」. 討論 山崎

経済学研究科は、経済学の高等教育機関として研究者を