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龍谷大學論集 474/475 - 011松尾宣昭「「輪廻転生」考(二) : 武内義範による実存論的解明」

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(1)

)

信圭F 日

大正十二年、龍谷大学の宗教学教授であった野々村直太郎は、輪廻転生や三世因果の教説はインドの民俗神話に すぎず、西欧的﹁ヒューマニズム L が支配的となった現代において到底維持できる思想ではないと論じた。その論 調には、たとえ僧侶らの猛反発はあっても一般読書人からは圧倒的支持を得るに違いない、との自信が満ち溢れて い る 。 もとより野々村からの影響はないであろうが、続いて和辻哲郎が、輪廻思想に基づく因果応報思想は仏教の実践 哲学には属さぬところの﹁個人的功利的道徳﹂にすぎないと論じた。和辻はさすがに﹁ヒューマニズム L なる組雑 な概念を振り回すようなことはしないが、それでも輪廻を仏教の本質的教義として理解しようとする努力を最初か ら放棄している点では、野々村と変わるところはない。地獄の表象は﹁詩人の幻視において見られ感ぜられた L ﹁想像の所産たる神話的対象﹂にすぎないと何の議論も要せずに断定できた和辻にとって、おそらく輪廻の概念も それと同類のものとしか思えなかったのであろう。 彼が﹁神通力 L 寸 地 獄 L ﹁輪廻﹂といった概念は文学的表象にすぎないと議論なしに断ずることができたのも、そ 「輪廻転生」考(二)ー武内義範による実存論的解明(松尾) 内 喝 u n z t n L

(2)

れを許容するような暗黙の合意が当時の学会に醸成されていた反映であろう。この傾向は当時に限らず、ずっと変 わらなかったようであも。右から約二十年後の昭和二二年、武内義範はこう警告する。﹁輪廻観を古代インド人の 荒唐無稽の空想とのみ考え、原始仏教の縁起思想から極力このような傾向のものを削除してしまおうとする、今日 のわが国の縁起に対する学説は、かなり警戒すべき極端に走っている﹂(吋ω・臼)。さらに二七年後の昭和四九年に 再び書いている。寸今日では仏教学者でさえも、業や輪廻の思想をできうるかぎり回避しようとしている様子であ る。しかしながら、仏教思想のうちからこの固有のエレメントをのぞいて、果たしてどれだけの思想が残存しうる かは、非常に疑問である﹂(叶 N ・ ∞ N ) 。武内によれば﹁原始仏教にみなぎる解脱への激しい渇望は、業や輪廻の自覚 の背景なしには考えることができない﹂(皆

E

-S

)

の で あ る 。 業と輪廻の教説は仏教の核心に属する教説であって、それは J 夫存的根源的時間性の反復的構造から﹂理解され るべきだと武内は早くから言っていた(寸ω・出)。輪廻の観念をめぐるこの﹁実存論的解明﹂(叶 N ・ ∞ N ) は、先述の 昭和四九年の発言を含む﹃親鷺と現代﹄において実際に果たされることになる。だが、この武内の解明は、それに 先立つ西谷啓治の﹃宗教とは何か﹄(昭和三六年)においてなされた、輪廻という﹁﹃神話的﹄な表象の本質的な意 味 ﹂ の ﹁ 解 釈 ﹂ (ZH0 ・

N S

)

と、重なるところが多い。とはいえ、小論の意図は両者の影響関係を詮索することには ない。両者の洞察には、ともに、今日でも有意義なものと、再考すべきと思えるものとが含まれている。本稿の目 的は、両者の洞察を│特に武内のそれを│多少詳しく辿ることを通して、この観念の本来の仏教的意味につい て 考 え る こ と に あ る 。

1

武内によれば、輪廻の観念は、何らかの理論的描像を呈示しているのではなく、﹁理論的把握の領域を超え、 -274一 鷲谷大学論集

(3)

対 象 的 認 識 の 枠 を 脱 し ﹂ た ﹁ 直 接 の 情 態 性 ( ∞ 民 吉 岳 山 岳

w

巴 同 ) ﹂ 、 即 ち ﹁ 感 情 ﹂ ﹁ 気 分 ﹂ を 指 し 示 す も の で あ る

q N

・ ∞ 己 。 そしてこの﹁輪廻の感情は、われわれの生存の根源的な事実性に基づいている。だからそれ自身は直接の事実とし て、古いも新しいもない、まさに今日もそのままの事実性なのである﹂

(

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E

・ ∞ N ) 。確かに今日では輪廻の感情は すっかり消失したかのようである。だがそれは、われわれが﹁生存の重大な事実や危機に直面する場合には、 に立ち返り立ち返り心情の中にあらわれてくる﹂

(

S

E

-生存の重大な危機の極まりは、自己の死である。﹁生の 意義や価値について︹の私の︺もだえ﹂(号広・∞品)が自らの根底から湧き起ってくるのも、自分は死なねばならぬ と い う 寸 限 界 況 位 ( の ﹃

g N

回 目 立 ﹄ 巳 甘 口 ) ﹂ に お い て で あ る ニここには三つのレヴェルが区別されている。最も根底には﹁われわれの生存の根源的な事実性﹂がある。こ れ を T としよう。その内実は私の死をその典型とする﹁生存の重大な事実や危機﹂である。さて、この T に 基 づ い て、﹁理論的把握の領域を超え、対象的認識の枠を脱し﹂た感情があるのだが、その中に輪廻の観念が指し示して いる(と宗教哲学者によって観察される)一群の感情がある。それが﹁輪廻の感情﹂である。これを G と し よ う 。 かくて、輪廻の観念は G を指示し、その G は T に基づいている。武内による輪廻の観念の﹁実存論的解明 L と は 、 そこからどのような感情 G が生まれるかを明らかにす ( 日

σ

-己 ・ ∞ 切 ) 。 何よりもまず T とはどのような事実であるかを明らかにし、 る こ と で 、 T と G がどのように輪廻の観念を言わば構成しているのかを示す、という営みであると言い得る。 T については既にごく簡単に語られた。それは私は死なねばならぬという﹁まさに今日もそのままの事実 性 ﹂ で あ る 。 ではこの T からどのような感情が噴き上げてくるのか。 T と G の両方を包括するものとして読める次 の記述を手掛かりとして、これを明らかにしよう。寸死は、私が回避するところなく勇気をもってそれに面接する とき、私にとって現在するものとなる。それは:::人生の無常を感じて生死を出でんとして菩提心を発するという ときのことである。これは決して私が生理的に死ぬことではない。それどころか私はほんとうの生き方への道を、 つ ね 「輪廻転生」考(二)ー武内義範による実存論的解明(松尾) F 句 u n , e q r u

(4)

初めてそこで見出す。私は生きる、強く生きる。その際私のうちに生と死とは、こもごも交わる。私はこの私の存 在の内ではげしい力の緊張と火花を散らす対立として自覚せられた生死の葛藤を悩みながら、それを内から超え出 ょうとする。それが解脱や救済への求めであり、いわゆる発菩提心である L ( 叶 N ・ ∞ ∞ ) 。 右に早くも﹁生死﹂という言葉が出てきた。これは仏教語としては﹁輪廻 L と同義であって、両者とも 四 寸 印

ω

同 時 同 印 削

E

L

の翻訳語である。げれどもここで武内が何とか語り出したいと苦闘しているのは、輪廻の観念によっ て指し示されているところの輪廻の感情、逆方向から言い換えるなら、輪廻の観念の根拠となっているような感情 なのである。だから、生き物たちの生まれ変わり死に変わりすることが車輪が廻転するように果てしなく続いてい く、というような理論的描像めいたものは、ここでは意図的に排除されねばならない。その意味では寸輪廻﹂より も﹁生死 L という一言葉の方がふさわしい。そして同じ理由で、その場合の﹁生死﹂は、必ずしも輪廻説に忠実な ﹁誕生と死去しの意味でなければならないわけではない。少なくとも﹁生死の葛藤を悩む﹂と語られる今の箇所に それの寸葛藤を悩む L が意味不明となろう。ここでの寸生死﹂は、 おいて、寸生死﹂を﹁誕生と死去 L と 解 し て は 、 未だ誕生と死去のことではない。 この点を押さえた上で先ほどの課題にとりかかろう。即ち、理論的描像としての輪廻の観念を排除したとこ ろの、情態性としての生死の葛藤の感情とは何か、である。さて、自分が死なねばならぬということを﹁勇気をも って﹂凝視すればするほどっ私は生きる、強く生きる L) 、私の眼には、死を拒絶し、なんとしてでも生にしがみ つこうとして転げ悶える自己の姿が入ってくる(寸私のうちに生と死とは、こもごも交わる﹂)。生(死にたくない) と死(死なねばならぬ)の﹁火花を散らす対立﹂が﹁私の存在の内で﹂展開される。﹁(死な)ねばならぬ L という たい﹂という自己とが、どうしても一致してくれない。否、 五 根源的事実性と寸(生き) 一 致 し な い と い う 以 上 に 、 真っ向から対立しているのである。根源的事実性を仏教では﹁真知(存在のあるがままごと言うが、真如に激し p n u n , d n r u 龍谷大学論集

(5)

く反逆して止まないのが私の本性である。だが同時に、私は自分のこの﹁たい﹂が末通らぬことを知っている。 ﹁ねばならぬ﹂の前に敗れる定めであることを知っている。ここにおいて私は﹁解脱や救済への求め L を起こさず に は お れ な く な る 。 では、このような葛藤の感情と救済への希求が、﹁輪廻の感情﹂なのであろうか。それは輪廻の感情の一部 であるかもしれない。しかし、輪廻の感情とは輪廻の観念が指し示しているところの感情の意味であり、だから逆 方向から言うなら、輪廻の感情は輪廻の観念の根拠ともなるのであるから、葛藤や希求が輪廻の根拠となるという のには、かなりの無理があろう。従ってそれらと輪廻との聞を埋めなければならない。生死の葛藤や生死の超越の 希求の感情がどうして﹁輪廻の感情﹂と成りゆくのか。この点について武内が明快に述べているとは言えない。と いうのは、これまでのところで我々は死を凝視する人の内に生死の葛藤と救済への希求が起こってくるところまで それにすぐ続く武内の説明が次のようになっているからである。﹁そのように解脱や救済への求めに 回 品 . J

確 認 し た が 、 ふりかえって見るとどうであろう。われわれの日常の生は、素朴な信念が生そのものであり、生の歓喜 に生きることとしていたのに、その生の立場も、実は生ではなくて死の連続なのであった。このようにして輪廻的 時聞は、人生の無常を諦観し、菩提心を起こすときの、この生死相交わる葛藤の現在の凝縮した内包量的瞬間時が、 (いわゆる内包量と外延量とを区別すれば)内から外へ、質から量へ、厚みからひろがりへと、外延量的時間、す なわち﹃過去・現在・未来﹄の通俗的時間流に移しおかれたものにすぎない。だから外延的に繰り広げられる生死 輪廻の大海のかぎりない波の起伏は、実は現在の瞬間の内面的な根源的激動に基づいている﹂(叶

N

-g l

勾 ) 。 こ の 説明は、輪廻の観念の根源が生死の葛藤の中にあるということを述べているだけであって、輪廻の観念がどのよう にして輪廻の感情を根拠としているのかについて、そしてこの場合の輪廻の感情とはそもそもどのようなものなの かについては、何も述べていない。先に述べたように、生死の葛藤とその葛藤の解決の希求の感情からどのように 生 き つ つ 、 「輪廻転生」考(二)ー武内義範による実存論的解明(松尾) ヴ t n i ヮ “

(6)

して輪廻の感情が出てくるのかが、思考されねばならないのである。 七武内が述べていないこの問題を考えるために、もう一度、五で試みた彼の思索の追思惟をやり直し、今度は 途中からさらに深めてみることにする。さて、たとえ口先で﹁いつ死んでもいい﹂と言い、また意識の上でも本当 にそう思えていたとしても、心を静めて内省してみるならば、この私は、ほとんど無意識的なまでに生にしがみつ き、死にたくないという有り方を一刻たりとも止めていないことに、気づかされる。死なねばならぬという真如に 反逆するわが本性が自覚される。確かに私は、私は自分のこの﹁生きたい﹂が末通らぬこと、寸ねばならぬ﹂の前 に敗れ去ることを知っている(ここまでは五で確認した)。さりとて、自己がこうして敗れ去ることにおいて、こ の真知への反逆の問題があっさりと解消されるわけでもないことにも、なぜか気づいているのである ( 真 宗 的 に 言 いくら死にたくないとは言っても、実際に死んでしまえば死にたく ないという気持ちもなくなってくれるーということでは全く何の解決にもならないことに、気づいてしまってい うならこの気づきの恵みは﹁宿縁﹂である)。 る。実際、このことが体感できるのでなげれば、 いまだ生と死は﹁火花を散らす対立﹂には入っていない。そして 火花を散らす対立でなげれば、﹁それを内から超え出ようとする﹂動きも起こらず、だから﹁解脱や救済への求め L も起こってこないのである。西谷啓治は指摘する。﹁自分が死ねば自分と共に自分の死もなくなるという自己把捉、 及び死の把捉からは、生死を超える道、生死を脱した場への通路というようなものは全く塞がれている﹂ ( Z 5 ・ ] 5 N )

そして思うに、ここにこそ輪廻の感情の少くとも一つの根があるのである。即ち、真知への反逆の問題は、 たとえ死んだからとてそれでもって解消してくれるような軽い問題ではない、というところに。言い換えるなら、

^

この問題は、今生で解決されない限りは死後に持ち越されてしまう、その死後の来世でも解決できなければ、今度 は来々世に持ち越されてしまう:::以下同様。貧困や病苦は今生でどれほど深刻な問題となっても、死後にまで持 n 対 U 句 t n L 龍谷大学論集

(7)

ち越されはしない。足腰が痛いと愚痴をこぽす老婆に寸そんなのは死ねば治る﹂と言い放った僧侶は、おそらくは 正しい。しかし﹁死にとうないLとこぽす人に対して﹁死ねばそれだって終わってくれる﹂と言うような僧侶がも しいるとするならば、それは偽坊主である。 九右に述べたことが概念的な推理ではなく体験の事実であることの例証となる二二歳の青年の手記を示そう。 真宗の寺の息子であった彼は、帰省の折に同行たちに取り固まれて、その無信心を責められた。﹁あなたは、ただ 今、入る息は出る息を待たぬほどの大無常に押し迫っておられるが、それが露ちりほども苦にならないのです か!Lと迫られた彼は、寸十指の爪先に力を込めて、堅く両手をこまねき、歯を食いしばって真剣に死滅のときを 考えてみた。と、剃那!無劫の恐怖が私の魂をおののかせた。果てしなき生死の大暗黒海が、忽然として、私の視 野に開けてきた。無人空噴の野原に燃え上がる二河白道の火の柱を見て、恐怖のあまり言葉も出ない旅人の心も、 かくや│一切の宗教も感情も生命も息詰まらせてしまう﹃死の黒蛇﹄が、私の喉元を噛んでいるのを知った!こ れほどの大無常の襲来を一剃那の前において、よくもこのおれという奴は、うかうかと妄念妄想を追って、貴重の 寸陰を送りたるものぞ!我が身知らずめ!と、激しくしかる声があったL。この青年は、輪廻説を馬鹿にし、寸後 生Lなどといった﹁古びた陰気な言葉﹂を﹁こつけいに﹂思っていた。人生に不真面目だったのではない。逆であ る。もともと彼はこう考えていた。﹁そんな︹死後の暗黒といった︺ことは私の魂をかむ痛切な問題ではない。私 には、死後の世界などを考える頭もなければ、またこうした謎が人間の知恵で考え得られるものとは思わない。私 は今いかにして完全に生くべきかについて腐心している。私は真実に生き得られないために非常に悩み、むしろ死 をもって生を葬ろうとさえ考えている。:::私は死よりも生命を怖れる。生命さえ完全に荘厳できたら、死の関門 などは苦もなく突破できると思っている﹂。こうした彼が、﹁歯を食いしばって真剣に死滅のときを考えてみた﹂と き、﹁果てしなき生死の大暗黒海が、忽然として:::視野に開けてきた﹂のである。生死の問題がそのようなヴィ 「輪廻転生」考(二)ー武内義範による実存論的解明(松尾)

(8)

-279-ジョンとなって展開したのであろう。(かかるヴィジョンを存在論的にどのように考えるべきかは少なくとも今の 問 題 で は な い 。 ) さて、既に示唆したように(七)、輪廻の感情の根は生死問題の比類なさという点にあった。そして前段落 で示したように、輪廻の原感情は寸苦﹂であり﹁恐怖しであり寸おののき﹂であり﹁息詰ま︹り︺しである。我々 はさらに先に進まねばならない。こうした輪廻の感情から、どのようにして輪廻の観念が、ひいては輪廻説が、根 拠づげられることになるのかと。この問題の解答は、生死と世界との関係について述べた武内の説明を拡大解釈す

+

ることによって得られるであろう。 彼は言う。﹁世界と私の存在とが、両方とも生老病死によって をも含む存在の全体は不気味な執着性というその根本の骸骨を、ちょうどレントゲンの透視による場合のように曝 け出すことになる。このような執着は日常的な私の自覚では蔽われかくされていて、氷山の一角のようにいわゆる

+

(死の相において)諦観せられるとき、私 私の自愛だけがそこから突き出ているのである。取︹ロ

E

S

E

︺は無意識的な私の深層にひそむ妄想顛倒の我性 (我の根拠)であって、阿含の経典︹で︺はこの薪(石包凶

E )

によって渇愛の欲望(自愛)が火として燃えてい るとか、あるいは欲望(自愛)は多羅葉樹の樹枝で、取はいくら樹枝が切られでもすぐにそれを再生させる根強い 地下茎であると曹えられることはすでに論じたとおりである。ほんのわずかの取の残存物が下意識に残っていても、 自愛は必ず再生する﹂(叶 N ・∞匂)。先の五と七において述べた、私の﹁死にたくない、生きたいしという無意識の執 着が、右に言われる﹁取﹂﹁我性﹂である。そこから派生し意識された欲望が﹁自愛﹂である。我性が切断されな い限り﹁自愛は必ず再生する﹂のであるから、明言されてはいないけれども、自愛も我性も、単に肉体が死んで四 大に分散したからといってそれでもって消滅してくれるような生易しいものではないと ているわけである。死んだからとて自愛や我性から自然と解放されるわけではない。死とともに自愛や我性から自 (武内においても)見られ - 280 龍谷大学論集

(9)

然と解放されるのだという考えが断見であり、そして永遠に解放されないという考えが常見である、と言ってよい であろう。仏教は断見と常見とをともに退け、自愛・我性からの解放をもたらす因について説く。生一前において我 性を解体する因を成就しなかった人、言い換えれば我性解体の因を成就せしめるための修行を完成しなかった人は、 たとえ死んだとしても、我性から解放されてはいない。その人は死んでも我性に縛られ続け、そこからの解放とい う課題を負わせられ続けるのである。 +ニここから輪廻の観念の完成まではあと一歩である。そのためにはテキストの上では遡ることになるが ( 斗 N ・

g

l

昌)、四諦説についての武内の説明を見なければならない。彼は輪廻の観念を完成させる最後の一歩とし てこれを述べているわげではないが、彼の最初の問題(ニ)に丁寧に答えるためには、この論述に触れないわげに はいかない。さて、あらゆる生存は苦に満ちている(苦諦)。苦しみからの解放が仏教の動機であり目的である。 苦しみの原因は自愛にあり、その根本には﹁取﹂つまり我性がある(集諦)。だから我性を滅すれば苦しみから根 本的に解放される(滅諦)。そして我性を滅する道、八正道が存在する(道諦)。これが四諦の教えである。逆にい えば、道を実践しなかった者の我性は滅びないのである。さて、この四諦の教説と前段で概観したこととを合わせ るなら、次のような帰結を引き出すことができる。即ち、我性が苦しみをもたらす。我性を滅ぽす修行の未完成者 は、我性から解放されてはいないために、死んでも自愛が再生し、つまりは死んでも苦しみ続けることになる。 +=一ここに至って、輪廻の観念の少なくとも核心部分は完成をみた。その表現の典型例は﹃ダンマパダ﹄の次 の一節である。﹁たとえ樹を切っても、もしも頑強な根を断たなければ、樹が再び成長するように、妄執(渇愛) の根源となる潜勢力をほろぽさないならば、この苦しかはくりかえし現われ出か円。我性を滅ぼさない限りはたと え死んでも苦しみからは解放されない。だから一刻も早く、苦しみからの解放をもたらす道を完成させよ。輪廻の 観念は、このような命令形となって我々に迫ってくる。武内もまた﹁﹁︹輪廻の教説は︺初めから終わりまで覚醒へ 「輪廻転生」考(二)一武内義範による実存論的解明(松尾) -281一

(10)

の呼びかげであり、呼びかけられた者には︹輪廻説という︺この命題は︹覚醒への︺ 一つの当為であり命令であ る ﹂ ( 同 , N ・

8

)

と 指 摘 し て い る 。 2 すでに見たように(=一i五)、武内は輪廻の観念の根源が生死の葛藤感情の中にあることについては述べ ている。だが、生死の葛藤が輪廻の観念の根拠であるというだけでは飛躍があった。そこで輪廻の観念を根拠づけ ている感情は何かについて考察し(七 j 九てさらにそれが輪廻の観念をどのように根拠づげているのかについて、 縁起と四諦説についての武内の説明を組み合わせて一応の納得を得た(+一i+一三。輪廻説とは何よりも、我性 の重大問題にめざめよという焚き付けであり、それを解決せよという呼びかけであり、命令なのであった。 十五実は武内は、﹁輪廻の感情﹂について、かなり詳細に語っているのである。にもかかわらずそれについて これまで言及してこなかったのには理由がある。寸輪廻の感情﹂について彼は言う。寸業の自覚において、︹どのよ うな関係や交渉にも、なお自己内に閉ざされたままの自愛のしこりが最後まで残されているという︺生存のこの根 源の事実性に目を聞き、目を聞かされたものには、すべての生存を覚醒せねば止まぬ悲願が生じる。:::罪業の自 覚と機悔・回心によって、無辺の衆生と一つである罪の連帯性を自白し、自らの罪を認めることによって他の罪を 許し、自他の罪を悲しみ自他の罪苦をあわれみ慈しんで、自他をともに解放の世界へ導き入れたいとする大慈悲心 が 生 ま れ て く る ﹂ ( 叶 N ・

8

)

。だがこれは、傍点部から明らかなように、回心した者が回心後に味わう輪廻観の味わ いなのであり、即ち問題解決後の情況なのであって、生死の問題を焚き付けられ驚博するような情況、問題を解決 する道を歩めとプッダから呼びかげられ命令されている情況とは、全く異なる。他に挙げられているヤ l ジニャヴ アルキャにおげる寸ただ一度︹かぎりの出会い︺であるが故に、かえって宿世に反復せられねばならない:::愛の 十 四 -282一 龍谷大学論集

(11)

感動と遭遇の喜び﹂(吋

N

-E )

の方は確かに必ずしも回心後でなければならないこともないりれども、少なくとも生 死問題の焚き付けとしての輪廻説に伴う感情ではない。また七三郎の事例から摘出される﹁﹃愛すべし﹄という道 徳的命法の本質を内に包みながら、これを昇華した自然法爾の感情﹂(目

σ

E

・巧)については、これは明らかに回心 後のことである。だが輪廻説とは、何よりもまずは、我性という問題の重大さについてのプッダの警鐘乱打なので あった。従って、問題が喚起するところの感情こそが、まずは解明されるべきなのであって、問題解決後の感情に ついては、二義的扱いでかまわないのである。武内は輪廻説の性格を、解脱への呼びかけ・命令として解明しなが ら、そして、輪廻説はその限りにおいて決して運命的決定論なのではないとの正しい洞察を示しながら、輪廻説を あくまでも呼びかけ・命令としてさらに解明していく l たとえばその命令が求道者の上にどのように響きどのよ うに受け取られてゆくべきかといったことについて考える│ことが、なかったかのようである。 いずれにせよ武内は、生死の葛藤の感情の﹁緊張﹂﹁悩み L ( 吋 N ・ ∞ ∞ ) と い っ た 否 定 的 な も の に つ い て 自 ら 指摘しつつも、それらをかなり過小評価しているように思われる。それは輪廻説の問題提示的性格や命令的性格を 詳しく観察することがなかったからではないか。﹁解脱せよ!﹂の命令を問いただけで解脱し、あるいは救済され たというケ l スも絶無ではないかもしれないが、大多数の場合は、求道に悩み、苦しむのである。﹁自己を垂直に 貫くという仕方で訪れ︹るもの︺﹂(斗 N ・自)が最初から救済者であることは極めて稀であり、最初は﹁解脱しなけ れば死んでも苦しむぞ﹂という恐るべき警告の声である(もちろんそれも救済者からの声なのではあるけれども、 それがわかるのは事後的にである)。いずれにしても否定的な感情が宗教経験においてかなりのウエイトを占めて いることは疑いない。真剣に道を求める者であれば、禅で大疑団と言われ、あるいは真宗で仏智疑惑と言われるよ うな壁に、突き当たらないことはないであろう。こうした求道の実際から言うと、武内のいう輪廻の観念の﹁実存 いささかの疑義を持たざるをえない。以下本節終りまで、そのことについて述べる。

+

/、 論的解釈 L に は 、 「輪廻転生」考(二)ー武内義範による実存論的解明(松尾) 句 、 υ O 内 V 9 “

(12)

彼の実存論的解釈の肝要部分については以前の大で引用したが、そこではごく簡単な批評しかしなかった。 そこで改めて検討するために、煩を厭わずもう一度、今度は少し後までを含めて引用しておく。きて、人は生死の 問題に悶える中で救済を求めずにはおられなくなるが、﹁そのように:::救済への求めに生きつつ、ふりかえって 見るとどうであろう。われわれの日常の生は、素朴な信念が生そのものであり、生の歓喜に生きることとしていた のに、その生の立場も、実は生ではなくて死の連続なのであった。このようにして輪廻的時聞は、人生の無常を諦 観し、菩提心を起こすときの、この生死相交わる葛藤の現在の凝縮した内包量的瞬間時が、(いわゆる内包量と外 延量とを区別すれば)内から外へ、質から量へ、厚みからひろがりへと、外延量的時問、すなわち﹃過去・現在・ 未来﹄の通俗的時間流に移しおかれたものにすぎない。だから外延的に繰り広げられる生死輪廻の大海のかぎりな い波の起伏は、実は現在の瞬間の内面的な根源的激動に基づいている。そうしてその原初的な波立ちは、そこで実 はその波立ちを跳躍板として、一つの飛躍が(生死を出る方向への運動が│自己からにせよ、他者からにせよ│) 起こったことを示している。だから輪廻観は決して、生一死的な人間の存在をあるがままに説明し記述するためでは なく、それを超克するために、いわば象徴的な説明原理として出されたものである﹂(叶

N

-g l

∞ 吋 ) 。 短 く ま と め る なら、輪廻説は生死的人間存在を﹁あるがまま﹂に説明したものではなく、生死問題における凝縮した瞬間を﹁象 徴的﹂に、つまり寸外延量的時間﹂の表現に﹁移しお︹い︺﹂て表現したもの寸にすぎない﹂、となる。 +八差し当り二つのことを明らかにしなければならない。第一に﹁あるがまま﹂の意味である。輪廻は生死的 人間存在の﹁あるがまま﹂の説明ではないとは、輪廻説は﹁象徴的﹂説明だということであるが、では﹁象徴﹂と は何かということ。武内は﹁象徴﹂について直接的定義をしておらず、例示による間接的定義が暗示されているだ けであるから、読者の方で再確認しておく必要がある。第二に、くだんの外延量的時間なる表現が象徴的な説明 寸にすぎない﹂というのなら、生死問題における、かの凝縮した瞬間が外延量的時間なる表現を採ることは、果た

+

七 -284一 龍谷大学論集

(13)

-・ す る と き 、 という問題。﹁輪廻が人間存在の生と死、時間性と永遠との問題を解決しようと その論理は必然的に象徴的と:::ならざるを得ない﹂(叶 N ・ ∞ ω ) と言われているのは象徴表現を取る その象徴表現が外延量的時間なる表現を取って輪廻説とならねばならなかったことの して必然的であったのかどうか、 こと自体の必然性であって、 必然性では必ずしもない。右のテキストはこの問題には答えていないので、これも読者自らが検討しなければなら ない。実際、武内は既にみたように、﹁原始仏教にみなぎる解脱への激しい渇望は、業や輪廻の自覚の背景なしに は考えることができない﹂と述べていたが、ここでの﹁業や輪廻﹂を、外延量的時間ならざる表現である﹁五謹の 苦・無常・無我 L に置き換えても、全く何の違和感も与えない(因みに右の文中の﹁解脱 L は四でみた意味での ﹁生死﹂からの解脱であって、輪廻からの解脱ではない)。だから、生死問題からの解放がどうして外延量的時間 なる表現を取らねばならなかったのかについての必然性は、未だ明確になっているとは言えないのである。 十九さて、まず第一の問題であるが、くだんの﹁あるがまま﹂は、仏教にいう﹁真知 L の 意 味 で は な い 門 。 そ れ は寸客観的な事象そのもの﹂(叶 N ・ ∞ 吋 ) ﹁ 客 観 的 事 実 L C E 件足)と言われる際の﹁客観的﹂と同義である。武内は ﹁ 客 観 的 L を定義していないので、それはごく常識的な意味であろう。即ち、次の二つの含意のある特徴が﹁客観 的 L ということである。第一に、ある事柄に対する主観の関わり方がどうであろうが、それが誰であろうが、そも そも主観がそこに存在しようがしまいが、そういったことには左右されずに成り立っていること。これが寸客観 的 L と通常は言われている。では、ある事柄がそうした﹁客観的﹂な事柄であるかどうかの判定を、我々はどうつ けているか。明らかに、圧倒的大多数の﹁正常﹂な人聞にとって経験可能でありその報告の一言葉の一致するものを ﹁客観的﹂と判定している。そしてそれが﹁客観的﹂の第二の意味であふ。さて、ある教えの表現﹁ P ﹂が寸象 徴﹂であるとは、寸 P ﹂はこうした意味での寸客観的事実 L を言い表したものではない、ということである。もし 寸 P A ﹂が﹁客観的事実 L を言い表しているというのであれば(そしてそれは今の場合仮説ではないのだから)﹁ P L 「輪廻転生」考(二)ー武内義範による実存論的解明(松尾) F h u o o q r u

(14)

は偽となる。﹁ P L は聖典の言葉であるから神学者がこれを偽とするわけにはいかない。だから﹁ P ﹂は字義通り に受け取られではならないことになる。寸 P ﹂がそれでもって受け取られるべきところの意味 H を明らかにする ﹁解釈﹂が必要となるのである。この場合、 H は字義通りに受け取られるべきであるが(さもなくば解釈の無限遡 行が引き起こされる)それは寸客観的事実﹂を陳述しているのではなく、主体的な宗教的真理を伝えようとしてい るのである。確かに、その H もまた、それ自体は言表不可能な究極的真理を指し示すだけの﹁月をさす指﹂にすぎ ないかもしれない。それでもその月は、寸 P L によるより﹁ H ﹂による方が的確に指し示される、と考えられてい

P

が三世なる外延量的時間流における生死輪廻、 H が﹁生死相交わる葛藤の現在の凝縮した内包量 る 。 今 の 場 合 、 的瞬間時 L で あ る 。 そこで第二の問題である。即ち、﹁生死相交わる葛藤の現在の凝縮した内包量的瞬間時﹂が外延量的時間 の表現を採ることは必然的なことかなのかどうか。これは武内にとっては、 二 十 一般的な問としては今や愚問でなけれ ばならない。﹁ P ﹂について H という実存論的解釈が要請されたのは﹁ P L の表現が字義通りの客観的事実として は少なくとも現代では受け入れられないからであった。 H は﹁ H ﹂として語り得るのであるから、当時であればと もかく、今や H を語るために﹁ P ﹂の表現がどうしても必要とされるはずがない門。先に(+七)引用した﹁輪廻的 時 間 は ・ ・ ・ ・ ・ ・ 生 死 相 交 わ る 葛 藤 の 現 在 の 凝 縮 し た 内 包 量 的 瞬 間 時 が ・ ・ ・ ・ ・ ・ 外 延 量 的 時 間 ・ ・ ・ ・ ・ ・ に 移 し お か れ た も の に す ぎ な い L という言い回し(傍点部)などは、武内がそのように見ていることの証左であるように思われる。ただ、他 聞 方で武内には、くだんの必然性を認めているようにも見えるところもある。或る講演録にて彼は、宗教的真理はど んな表現をもってしでも表現し切れないものであり、﹁その都度その都度、精神情況や社会の情況とか、現実の情 況というものに即して、表現の仕方を変えていい部分:::変えてゆかねばならない面があ︹る︺﹂(吋 N ・ 自 N ) と 述 べ それでは今の輪廻的時間、即ち外延量的時間の表現については、変えていいのか、変えるべきなのか、 て い る が 、 - 286一 龍谷大学論集

(15)

変えてはならないのか、あまりはっきりしないのである。この暖昧きは、本書にお砂る象徴概念の定義がどれほど 注意深くなされたものであったかについての、見通しの悪さに由来するように思われる。 生死問題の葛藤現在の凝縮的瞬間が﹁生前 L とか﹁死後﹂とかいうような外延量的時間の表現を取ること は、はたして必然的なことかどうか。この問題についての解答は、少なくとも西谷の場合ははっきりしている。も ともと武内の洞察と西谷のそれとは重なるところが多い。西谷もまた生と死が表裏一体であるという武内と同じ認 ω 識から出発し、生の意味への聞が起こってくるのはこうした生の無化の自覚の深まりにおいてであるという認識に ω おいても共通し、さらに武内がそうであったように(四)、同じ﹁印白骨品

E

L

の訳語として通常は﹁輪廻

L

と 全 く 等価である﹁生死﹂の言葉を、輪廻とはあえて区別して、輪廻の観念を生死の観念の方から説明しようとする方向 性についても、同じである。即ち﹁人間の生死、つまり:::︹人間︺存在の有限性が:::﹃六道﹄の聞における輪 廻として、世界のうちにおけるさまざまな他の存在形相、さまざまな異類を包括する全体的地平から見られたとい うことは、実は人間自身の生死というものの本質の真実な把捉を表わしている。:::生死はそこで︹ H 六道輪廻に おいて︺真に生死として捉えられている﹂ (ZH0 ・

5

品・傍点部にて既に外延量的時間の表現が必然的であることが示 唆されている)。このように西谷と武内は共通する点が多いのであるが、ただ最後の点については、そのような方 向性においては同じであるとはいえ、 その説明の中身が違っている。 即ち西谷によれば、我々の﹁有る L は寸時﹂において﹁有る﹂のであるが

(

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・ 民 N ) 、それは、絶え間 ない﹁為す﹂において、絶え間なき﹁成る﹂としてのみ成り立つ(摩区・虫色。寸かくして絶えず何かを為しつつ有 る我々の現存在は、﹃時﹄のうちで、また﹃時﹄として、生成転化する﹂、﹁そのように、我々は限りなく何かを為

L i

-自らの生成流転の場としての﹃時﹄を自ら造りつつ有る﹂

(

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・ 虫 色 。 寸 か か る : : : 限 り な い 業 作 の 源 と し ての自己中心性を︹従来の武内の言葉でいう我性の更に根源を︺、古人は﹃無明﹄乃至は﹃根本無明﹄として捉え 「輪廻転生」考(二) 武内義範による実存論的解明(松尾)

(16)

-287-たのである。そこでは我々の身口意の業:::は、無限の相のもとに見られている﹂

c z a

-無明の聞から一瞬の間 断もなく湧き上がってくる﹁為す﹂﹁成る﹂﹁有る﹂として流れ続けるその因果の流れの絶え間なさが、﹁時﹂の両 方向にわたる無限の深淵を開示する。﹁それ ( H 無限な因果必然の連鎖︺が始めをもたないということは、考えら れるあらゆる可能な過去よりも更に過去なる以前があるということである。終りがないとは、あらゆる可能な未来 においてもなお未来であるような以後があるということである。然もそのあらゆるものの以前と以後とが、各人の 現 在 に あ ︹ る ︺ ﹂

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・目。)。武内においては、外延量的時聞が﹁通俗的時間流﹂としてしか言及されていなかっ た(六、+七)のに対し、西谷においては言わば非世俗的な外延量的時間とでも言うべきものが考えられていて、 我々の無明は必然的にかかる寸時﹂を﹁造り続ける﹂とみられていることが見て取れる。武内では輪廻の観念が、 死による生の全否定が生の全てに浸潤していることの驚博的直観の(言わば)エネルギーの、﹁通俗的時間流﹂へ の﹁移しお︹き︺﹂として説明されていたのに対し、西谷においては輪廻の観念は、我々の絶え間ない寸為す﹂﹁成 る﹂﹁有る﹂のその無限性によって﹁時﹂が造られる│現在の自己がそのつど﹁時﹂へと﹁投射﹂される ( 目 立 己 ・ ) │ こ と そ れ 自 体 と し て 、 洞 察 さ れ て い る の で あ る 。 二三我々読者もまた、かの内包量的瞬間が必然的に外延量的時間として展開しつつもそれが通俗的時間流では ないような例を、挙げることができるように思われる。それはプッダが病人、老人、死人の上に他ならぬ自己自身 闘 の姿を直観したときである。その直観は﹁内包量としての実存の根源的時間性における現(存)在の質的反復 L 、 即 ち﹁(現)存在を非存在(無)の深淵に投げ入れつつ、再びかかるものとして取り上げる(すなわち反復する)こと﹂ ( 叶 ω・ω己であった。あるいは﹁自己が自己自身の存在を、その存在の根拠にある虚無から、つまり自己存在の最 後の限界線から自覚するということ﹂

( Z

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-N -N

)

であった。だが、それはプッダの出発点であって、そこが到達点 だったのではない。生死の問題が切り込んできたことが内包量的瞬間時を造ったのであって、解答が切り込んでき -288一 龍谷大学論集

(17)

、 、 たのではない吋。そしてその問題を受けたプツダは、やがて来るべき老病死の苦を解決するために出家、求道を始め たのである。﹁やがて﹂といっても無論それは次の瞬間かもしれない。が、それでもそれが﹁来るべき﹂ものであ る限り、生死の問題は、外延量的時間においてプツダにつきまとったのである。だからといって、そのプツダの求 道の眼差しが、﹁通俗的時間流﹂つまり、かの(十九)﹁客観的事実﹂の容器であるかのような時間の流れにおいて 老病死を眺めていた、ということにはならないはずである。自らの老病死苦は常に眼前にある(通俗的時間流に非 ず)、それでいて自らの老病死は常に﹁来るべきもの﹂である(外延量的時聞において先取されている)。外延量的 時間において主体的求道をなすことは、単に﹁﹃自分は現在可能的に老病死者であり、他日必要的にかくなるもの である﹄と明瞭に自己自身に言って聞かせること﹂(寸 ω -N ω ) とは、全く違うことである。外延量的時間の概念が即 ち﹁通俗的時間流﹂の概念であるわけではない。 二回そもそもどこかに内包量的瞬間時なるものが、あるいは外延量的時間なるものが、はたまた通俗的時間流 なるものがあるわけではないし、また或る言葉が単にそれだけで内包量的瞬間時を、あるいは外延量的時聞を、は たまた通俗的時間流を伴っていたりするわけでもない。主体が時を﹁造る﹂のだという西谷の発言は、主体が﹁時 のうちを﹂生成流転することに含まれる或る一面を、即ち時が主体と内的関係にあって切り離し得ないことを、述 べている。老病死の苦そして死後の苦を説く言葉は、時の経過の表現を、つまり外延量的時聞の表現を、取らざる を得ない。けれどもそうした表現を受け取る主体のすべてが、それらを通俗的時間流において受け取るわけではな い。即ち﹁自分は現在可能的に老病死者であり、他日必要的にかくなるものである﹂(寸 ω -N ω ) として受け取るわけ ではない。若き法然や幼少の白隠は後生の地獄の説法を真受付して恐怖に懐いたが、彼らはそれを通俗的時間流と してではなく、つまり世俗内的(自己ロ皆ロ)な態度においてではなく、明らかに内包量的瞬間時において、つまり 側 、 今のわが身への一撃として、受け取っている。それでもそれが将来的な死の昔、また死後の苦であることには変わ 「輪廻転生」考(ニ)ー武内義範による実存論的解明(松尾)

(18)

-289-り な い 。 あるいはその逆の場合、即ち過去からの我性の相続が今のわが身に結果していることを、今度は或る青年 の体験談によってうかがってみよう。﹁

PMP

から帰ってカウンセリングのワークショップの世話人をしていた。 とてもしんどくてその気持ちを表明した。 二 五 そのグループは何となく消極的なグループで、動きがなかった。私は、 メンバーからは拒否の態度が返ってきた。私はこのことから、動かないメンバーに腹が立ってきた。そし す る と 、 て、その気持ちを表明したのである。そこからである。次から次へとメンバーを攻める心が湧いてくるのである。 ふと我が身を振り返って思った。なんと怖 ろしい自分なのであろう。攻める心は底無しなのである。この深さはとてつもないもので、生まれる前からずっと ω 続いているというイメージも湧いてきた。その自分に惇然とした L 。この場合も、外延量的時間の表現をとっては いても(傍点部)、その過去世は内包量的(寸なんと怖ろしい L ﹁深さはとてつもない﹂)瞬間時において出会われて 当然メンバーからも反論が返ってくる。私も次々と反論していったが、 い る 。 だから、繰り返すが、外延量的時間の概念がどんな場合でも通俗的時間流の概念と同じになるわけではな い。従って、いわゆる三世両重因果観を直ちに﹁通俗的時間概念による輪廻の思考﹂と断ずる武内の姿勢(寸 ω 出 ) には疑問を感じる。更に言えば、﹁業と輪廻は対象的に見られると、全く生存の運命的必然性を強調する教義と考 え ら れ る ﹂ ( 吋 N ・出)ということも当たらない。対象的な見方が直ちに﹁客観的事実﹂のみに関心をもっ自然主義的 態度となるわげではない。対象的描像を主体的に受け止める者もいるからである。例えば西谷の無常観(﹁銀座は 現在の美しい銀座のままで薄原と観ることができる。:::実は、そういう二重写しが真実の写しである。:::百年 一 一 占 ハ たてば今日歩いている老若男女は一人も生きていない。しかし一念万年、万年一念というように、百年後の現在は 今日すでに現在である。それ故、元気に歩いている生者そのままを、死者として二重写しに見ることができる﹂

Z

-290-龍谷大学論集

(19)

呂 -u ∞)は、それ自身は対象的な見方ではあるが、この見方に留まって感傷に耽るだけの者もおれば、これを思わ ずわが身の上にも引き当てて、生死の問題に捉えられる者もいる。地獄を聞かされた幼少の白隠も、聞かされた言 説は地獄の対象的 l 絵画的描像であったであろうが、それを自らの死後の問題として主体的に受け取っている。ち ょうど医者の提供する情報がそれ自身は理論的なものであっても、それをわが身のこととして聞く人とそうでない 人とがいるのと同じようなものである。

3

以上、かなり組っぽい仕方でではあるが、輪廻の観念についての武内の実存論的解釈を、時折西谷と比較 しつつ概観してきた。両者は野々村や和辻に反し、仏教における輪廻説の重要性を認識する点において一致し、輪 廻説を仏教の出発点である生死問題と本質的に関係する教説として位置づけ、生死問題の方から輪廻説に対する実 存論的解釈を遂行した。ただ本稿の検討によれば、武内のそれは求道過程の実際と合致しない点があり、必ずしも 十分なものではなかった。とりわげ、﹁死後﹂といった外延量的時間の表現を直ちに﹁通俗的﹂と見なすところが あり、このことは、我性はその根が切断されぬ限り必ずいつか再生するという、武内自身が確認した縁起説の核心 部分に抵触することでもあった。他方、西谷は、我々の存在(有る)は、絶え間なき業(為す)による無限の因縁 所生(成る)であることを指摘した。無限の業果の連鎖が続いてゆくことが我々の存在の本質的な有り方であるな らば、誕生による開始や死去による終鷲などは考慮に入らない。この解釈は、ある意味で輪廻説そのものであると も言えるが、生前や死後という言葉を使わず、業の因果連鎖の無限性を中心にしている点で、やはり実存論的解釈 である。その業連鎖の無限性と死とが関連してくるとすれば、両者を結ぶ点は、以前にも引用した﹁自分が死ねば 自分と共に自分の死ということもなくなる﹂というようなエピクロス的考え方ではこの無限性の切断の道が﹁全く 二 七 「輪廻転生」考(ニ)ー武内義範による実存論的解明(松尾) -291一

(20)

塞がれている﹂というところに求められるであろう。要するに、業連鎖の無限性の根拠となっている根本無明から の脱却という課題からは、死んだからといって解放されはしないのである。求道者とは何よりもまず問題のこうし た重さを感じる者のことである。西谷の解釈はこうした求道の実際と合致していると吾一問える。実際、彼は輪廻を ﹁ 絶 望 の 境 位 ﹂ (ZH0 ・

5

∞)として把えている。それによれば、輪廻の自覚において、自己は、現在の生涯という限 定を脱した無限性と、天上的・人間的・動物的などといった限定をも脱したところの包括性とにおいて、寸ただ世 界のうちに有るというだけの純粋相へ突き詰められる

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5

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5

1

5

∞ ) 。 ﹁ そ れ は 人 聞 が 、 ﹃ 人 間 ﹄ と い う 限 定 を も 超えた端的な世界 l 内 l 存在の場で、最後の限界境位に達することである﹂(正門戸)。輪廻の自覚は人をかかる﹁絶望 の境位 L に追いやる。つまり輪廻説が、問題を焚き付けるものとして、それを聞くものをして救済を求めずにはお られなくさせるところのものとして、つまりは(第一節の末尾で明らかにしたような)解脱への呼びかけ・命令と 倒 して、把えられているのである。 最後に、両者に対して共通に覚える不満を覚書ふうに書き留めておきたい。それは輪廻の観念に関する実 存論的解釈という手法そのものに対する不満と言えるかもしれない。両者はともに輪廻の観念は﹁神話的 L で あ る と言い(叶 N ・

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25

5

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、しかしこれを﹁科学 L の立場に立って無下に排斥することは湯とともに盟の中の赤子 まで流してしまう愚であると指摘し、輪廻の観念の﹁本質的なもの﹂﹁積極的意味﹂を取り出す﹁実存論的な解釈﹂

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ω

)

寸 宗 教 的 実 存 論 的 解 明 ﹂ ( 叶 N ・ ∞ N ) の必要性を説いた。その内実には有益なものが多く含まれていたと 思う。ただ、こうした解釈には、明らかに、神話的な物語のままでは本質的なものが取り逃がされるとの認識があ る。しかし、そのような認識に基づいてなされる解釈においては、必然的に、神話的な物語よりも当の解釈の表現 ニ 八 の方が、言わば的を得た表現であることになる。例えばブッダ自身は神話的な語りをしたけれども、それは当時の 人々に合わせてのことであって、もしブッダが現代にましましたならば、より的確に、実存論的に語ることになる -292一 龍谷大学論集

(21)

であろうということになる。 けれども本当にそうであろうか。このような疑惑を抱かざるを得ないのは、神話的輪廻説を聞いても子ど もだましとしか思わなかったのに、その実存論的解釈を読んで、単に納得したり感動したりするにとどまらず、生 ニ 九 死の問題にめざめ、真剣に身をかけて求道するようになった実例など、聞いたためしがないからである。反対に、 よくあるのは、神話的輪廻説を聞いておとぎ話としか思わなかった人が、僧侶や求道者との出会いによって、ある いは実生活上の辛酸を嘗めたことで、かの﹁神話﹂に耳を傾ける気になり、そうするうちに﹁神話﹂が活きて迫っ てきた、というようなケ l スである。もちろんこうした個人的な見聞範囲にたよって確かなことが明らかになるわ 砂ではない(今は実存論的解釈という手法に対する私自身の疑惑の単なる動機を記している)。しかし、例えば神 話の言語と、哲学の言語(実存論的解釈が指し示しているところのものは﹁直接の情態性﹂であって哲学的ロゴス その語りの様式はあくまでも実存論的解釈、つまりは哲学の営みである)との身体性を比較す 側 つまり言葉を受け取る者に与える力が、はるかに高いのである。 で は な い け れ ど も 、 るならば、神話の言語の方が、言語的身体性が、 神話的輪廻説の表象内容よりもむしろ、神話的言語の力について、その力がどこに由来するのかについて、考える 必要があるのではなかろうか。同じ輪廻説を提示されても、その神話的表象内容のみを受け取るだけの者と、それ にとどまらずその言葉に込められたプッダの想いに撃たれる者との違いが、あると思われるのである。 ( 二

OO

九 年 、 四 月 三 十 日 ) 註 ﹃ 武 内 義 範 著 作 集 ﹄ は T 、 ﹃ 西 谷 啓 治 著 作 集 ﹄ は N と略記し、その後に巻数とページ数をドットをはさんだアラビア数 字で示す。引用文中の︹︺は引用者による補充ないし注解。また引用文中の傍点はすべて引用者によるもの。なお、 テ キ ス ト の 旧 漢 字 と 旧 か な づ か い は 新 し い も の に 変 更 し て お い た 。 「輪廻転生」考(二)一武内義範による実存論的解明(松尾) -293一

(22)

ω

野々村直太郎﹃浄土教批判︿復刻本﹀﹄中外日報社出版局、昭和五五年、

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五 七 頁 。

ω

和辻哲郎﹃原始仏教の実践哲学﹄(﹃和辻哲郎全集、第五巻﹄岩波書庖)二七

01

一 一 七 一 一 貝 。 こ の テ キ ス ト は 昭 和 元 年 より雑誌﹃思想﹄上で順次発表され、昭和二年に単行本として出版された。

ω

右 掲 書 、 二 七 三 頁 。

ω

右 掲 書 、 二 七 九 頁 。

ω

この傾向は今日に至っても変わっていない日本特有のもののようである。森章司 1 死後・輪廻はあるか│﹃無記﹄ ﹃ 十 二 縁 起 ﹄ ﹃ 無 我 ﹄ の 再 考 ﹂ ( ﹃ 東 洋 学 論 叢 ﹄ 第 三

O

号、平成十七年)一八

01

一七六頁。榎本文雄﹁輪廻思想と初期 仏教﹂(﹃シルクロード・奈良国際シンポジウム記録集﹄第九号、二

OO

八 年 ) 五 頁 。 刷﹁苦(仏吾

E

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)

という語は自己と存在(世界)とのかかわり方が﹃うまく適合しない﹄というのが本来の意味で﹂ あると武内は指摘している(吋 N ・吋 ω ) 。 間後述のように、彼のいろいろな箇所からの叙述をつなぎあわせて再構成することは可能であるが、その再構成を彼が 承認するかどうかは疑問である。 山間﹁この場合の﹂を強調したのは、後に武内は輪廻の感情について述べるからである。しかしその折に指摘するが(+ 五)、それは今の場合の(つまり生死の葛藤から輪廻の観念がまさに生まれ出んとするところでの)輪廻の感情ではな 削もう一つとして、業報の観念を構成している感情の起源についても考えねばならない(輪廻の観念は業報の観念と密 に関係しているので)が、今回はその余裕がなかった。次節で言及する西谷の思想を更に検討することによって見えて くるものがあるように思われる。今後の課題としたい。 側伊藤康善﹃仏敵﹄春秋社、二

OO

四年(発表年は大正十二年)一四七頁。

ω

右掲書、一四五

1

一 四 六 頁 。

ω

﹃プッダの真理のことば感興のことば﹄岩波文庫、五七頁。

ω

あるいはこれは﹃親鷲と現代﹄という一般読者向けという性格の本だから、だったのかもしれない。とはいっても、 別の著作論文でも、生死問題の焚き付けとしての輪廻説というテ l マ は 特 に 取 り 上 げ ら れ て い な い よ う で あ る 。

01

二 、

二 ハ 、 . 二 -、 四

01

四 三 、 五 -294一 龍谷大学論集

(23)

ω

後註 M 酬 を 参 照

ω

真知において輪廻はないということであれば、それは当然のことである。なぜなら、我性から完全に解放されること が真知と一致することであり、つまり真知の世界に出ることであるが、それができた者には、輪廻の定義上(七、八、 +一j+=一にわたって調べてきた輪廻の本質を参照)もはや輪廻はないからである。つまり真如においては輪廻はない。 真知に反逆した我性の世界においてのみ輪廻がある。だから輪廻観は生死的人間存在の﹁あるがまま﹂の記述ではない と言う際の﹁あるがまま﹂を真如の意味で理解するなら、その発言は単なる同語反復になってしまう。よって、今の場 合の﹁あるがまま﹂は真如の意味ではない。 側第一と第二の意味の聞には実は不整合があるのだが、それは通常は問題とはならないし、本論の文脈においても問題 と な る こ と は な い 。 仰先述のように﹃親驚と現代﹄においては﹁象徴﹂の概念は直接には定義されておらず、例示による間接的定義が示唆 されているだけである(但し他の著作においても私が調べた限りでは﹁象徴﹂の直接的定義はないようである)。即ち ﹁︹神学者の︺ロビンソンは、神は天上に在るという考え方が、現代人の自分には、もはや真面目に受け入れることが できないと正直に告白している。そういう立場から、神は天上に在るとはどういう意味であるか:::を考えようとして、 ::・神は:::外に超越しているのではなくして、いわば人間の精神の根底の方向に超越しているとしている。︹:中略 ・:︺超越的な神は人間の根底としてはたらくと考えれば、神と人間とが新しい統一に入っていると言いうる。そういう 意味で、従来の天

(

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2

2

)

という表象も、人間と神との根源にお砂るこのような統一が、一つの調和

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-を形成しているということの象徴的表現として、意味をもちうると解釈している﹂(叶 N ・ 臼

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)

。このあたりの本文は 右のテキストに基づいている。なお武内自身はロビンソンのこの﹁天﹂の解釈内容そのものには反対しているが、今は ﹁ 象 徴 L の間接的定義を確認することだけが問題であるから、反対していてもかまわない。 制例えば、プッダの教説に対する理論的反省は﹁いつでもこの︹輪廻に基づく世界観の根底にある︺論理を超えたこの ものを含み、これを指し示し続けなければならない。理論的反省は:::月をさす指であって、絶えず︹、それとして は︺言いあらわしえない源本の事実性に目を向けていなければならない﹂(寸 N ・ ∞ O ) 。なお﹁月をさす指﹂に関連した問 題については、制論﹁いわゆる﹃非神話化の問題﹄について﹂(光華会編﹃親驚と人間 l 光華会宗教研究論集第三巻﹄) 二 三 二

1

二 三 三 頁 を 参 照 。 「輪廻転生」考(二)ー武内義範による実存論的解明(松尾)

(24)

-295-同ことのことは先のロビンソンの解釈の場合には明らか。﹁神と人間とが新しい統一に入って:::調和を形成している﹂ ことを、どうしても寸神は天上に在る﹂という表現で言わねばならぬ必然性はない。 側武内は、輪廻的時間を内包量的瞬間時の外延量的時間への移しおきとして解釈する自らの説明を、誰もいない深山の 中の池を訪れた小鳥が、水面につけた波紋の響えによって更に説明して、﹁その場合水面にとってこの小鳥の訪れを表 現する方法は、小鳥の接した水面の点を中心として平面上に繰り広げられるいくつかの波紋の同心円による以外にはな い ﹂ ( 吋

N

S

)

と言っている。但し、この比喰の寸小鳥 L は内包量的瞬間時の響えであり、それはもともと寸生死相交わ る 葛 藤 の 現 在 ﹂ ( 吋 N ・ ∞ ∞ ) の こ と で あ っ た は ず が 、 こ こ ( 忌 広 ・ 由 日 ) で は 、 そ の 生 死 の 葛 藤 は い つ の 間 に か 解 決 さ れ て 、 小 鳥は我々﹁相対者 L と﹁この世界﹂を﹁超越﹂する寸絶対他者﹂の警えとなっている(その絶対他者は前後の文脈より して明らかに救済者の意味である)。それに応じて、小鳥が水面に触れた時の内包量的質の記述も、﹁自己を垂直に貫く という仕方で訪れたものに対する感動と心情の傑え﹂(日 σ広・)となっている。だからこの比倫における水面の接点と波 紋とは、以前にも(+五)指摘したところの、回心以後に味わわれたところの輪廻の感情(真宗的にいうなら﹁宿縁﹂ ﹁宿業﹂の感情)について警えたものであって、前節から何度も確かめてきたところの、寸生死相交わる葛藤の現在﹂ の外延量的時間化としての輪廻の感情、即ち問題提示としての輪廻の感情(真宗的にいうなら﹁後世を助からんずる縁 にあひまひらせん﹂の感情)の替えとは、なっていない。従って、この小鳥の比聡の文は、回心以前の輪廻の観念、即 ち人をして求道に入らしめるところの輪廻の観念が、外延量的時間の表現をどうしても取らねばならぬか否かという聞 に答えたものとは言い難いところがある。

ω

﹁ ﹃ P ﹄ は H の象徴である﹂というロビンソン流のように、﹁ P ﹂が﹁ H ﹂として明示的に解釈できるのであれば、寸 P 、 Q 、 : ・ ﹂ 一 一 一 一 口 語 で 書 か れ て い る 聖 典 を よ り 誤 解 の 少 な い よ う に ﹁ H 、

v

、 ・ : L 一言語で全面的に書き換えてはどうか、なぜ 書き換えないのか、単なる郷愁以上の理由があるのか、といった問題が起こってくる。それに対し、例えば﹁超越的な リアリティが時間・空間的な世界へ触れてきた場合、そのリアリティを表現するためには、此の世界の事柄を籍りて象 徴するよりほかに道がない﹂ ( Z ∞

- N

E )

といったフルンナ l 流の﹁象徴 L 理解の場合は、﹁H﹂に相当する人間的一言語は 存在しないか、あるいは﹁ H ﹂自身が﹁ P ﹂に取って代わる新たな象徴表現であるかの、どちらかしかない。前註(口) の武内の言葉はロビンソン流での J u L の限界を述べているとみるべきか、それともプルンナ l 流の﹁象徴﹂理解を述 べているとみるべきか、私にはわからなかった。なお象徴と解釈の問題については、拙論﹁南無阿弥陀仏から出る言 -296一 龍谷大学論集

(25)

葉﹂(浄土真宗経学研究所﹃真宗と言葉﹄所収)九一一

1

九 五 頁 を 参 照 。 間﹁死は何十年かの後に我々が出会うものではない。:::我々の生は一歩一歩死にぶつかり、絶えず片足を死のうちに 置 い て い る ﹂ (ZH0 ・

e

。 側寸我々が何のためにあるかという問題が起こることは、我々の存在の根底から虚無が現われて来て、そこから我々の 存在そのものが我々自身に疑問符と化するということである L ( Z E -m ) 。 倒寸取しと﹁無明 L との関係については稿を改めて論じる。ここでは極めて粗っぽく、取の根源を無明としておく。 倒例えば武内も引用するところの﹀ Z 口同旨﹁私もまた老法であって老を越えない。しかも果たしてそうであるなら ば、私もまた老法である存在として老を越えないのに、他人の老いたのを見て応に悩むべく患うべく圧思すべしと思う のは、それは私にふさわしくない。故に諸比丘よ、私がかく考えてからすべての若さにおける若さの誇り、それは悉く 消 え て し ま っ た ﹂ ( 叶 ω ・3 0 側確かに、問題が本当に問題として身を貫いたと同時に解答も来ていた、というようなことはありうる。浄土真宗にお ける﹁機法一体﹂や﹁二種深信二種一具 L の教義にはそのような合意が確かにあると思われる。しかし問題が右にいう ﹁本当に問題として﹂身を貫くより以前の身には実は未だ全く何の問題も存在していなかったのだ、というのも明らか な誤りである。出家以前のプッダは明らかに本当の問題を持ったのである。 問弁川定慶﹃法然上人伝全集﹄(法然上人伝全集刊行会、昭和五三年、第三版)七九六頁。﹃白隠禅師法語全集、第三 冊﹄(禅文化研究所、平成十一年)一二、一四一頁。﹁神話的精神 L が息づいていた時代に生きた法然や白隠を引き合い に出すことは時代錯誤であるとの批判は当たらない。生死問題(真宗的にいえば﹁後生一大事﹂の問題)に限っては時 代性など関係がないことは、九で引用した青年の手記からもうかがえる。その青年は求道以前には寸後生 L など時代遅 れだと心から思っていたのである。 側山下和夫﹁パ l ソンセンタード・アプローチと﹃聞法﹄による究極のめざめ﹂(西光義倣編﹃親驚とカウンセリング﹄ 永田文昌堂、一九九六年)三七六頁。私自身にも類似の体験がある(龍谷大学宗教部編﹃りゅうこくブックス﹄一一八 号 、 一 二 七 頁 ) 。 側ただ、西谷の方も、少なくとも﹃宗教とは何か﹄においては、武内の場合と同様(十六)、この﹁絶望の境位﹂につ いて、それを求道の実際に即してさらに説明することはなく、一転して絶望からの﹁新生﹂について語っている。﹁世 「輪廻転生」考(二)ー武内義範による実存論的解明(松尾) 巧 d n w d つ u

(26)

界 1 内 1 存在の本質が﹃死への存在﹄であるならば、浬柴はかかる死への存在を通しての、それからの本質的転換である。 :::果てしなき生死からの出離として、浬紫は真の生への蘇りであり、新生である﹂ ( 2 5 ・

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∞ ) 。 そ し て ﹁ 生 死 即 浬 繋﹂の境位についての詳細な味読が続く。﹁果てしない未来に渉る﹃業﹄の因果の歴史、例えば蹴胎を出でてまた馬腹 に入るというようなことが、そのまま仏の生命である L ( B E ・8 8 0 ﹁ 十 牛 図 L でいうなら第十図、真宗でいうなら浄 土の菩薩の還相の境位である。いずれにしても武内の場合と同様、超越的命令としての輪廻説は求道者においてどのよ うにして受け取られる(ぺきな)のかという点についての詳説を欠いている。 側宗教的一言語の多くは命題提示としての言葉ではなく、一種の身振りであるという趣旨のことを私はかつて論じたこと がある。拙論﹁言語的身体としての法の言葉﹂(浄土真宗教学研究所﹃プラサ l ダ﹄第十一号、二

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一 年 ) 参 照 。 ︿付記﹀本稿は、二

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七年度の龍谷大学特別研究員としての研究成果の一部である。特別研究員の機会を与えて頂い た龍谷大学関係機関、文学部および哲学専攻の諸先生方に深く御礼申し上げる。なお、次の論考も同じくその研究成果 の一部であることを、ここで記しておきたい(筆者の不手際により、それら論考にその旨を記し落としたことを、お詫 びいたします)。拙論﹁仏教と﹃輪廻﹄の概念│並川孝儀氏の所論をめぐって﹂(﹃龍谷哲学論集﹄第二二号、二

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八年)。拙論寸釈尊による死後存続問題の﹃無記﹄について﹂(﹃如是我聞﹄第十号、二

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九 年 ) 。 キーワード 武内義範、輪廻、死 -298-龍谷大学論集

参照

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