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この組織的な皐というもののドック、といいますか背後になるという貼で重要なのは、塵史的研究と言えると思い ます。特に教闘が成立した首時でなしに、成立後年月を経た後の教皐を考えますと、之は教祖という人が其慮にあっ て設を説く課ではないのでありまして、説かれたものの惇えられたところに障って之を解揮し、之を承認して行かね ばなりません。最も重要な面は、書き臨席されたもの、及びその教圏の最も根本となる経典に謝する真理内容を、はつ きり記述することに重要性があることになって参ります。 一般の歴史と同じように、歴史的事賓といいますか、史買に封して之を等 重して行かねばならぬのは申すまでもないことであります。ともすれば宗租に封するうやまいとか、経典に封する敬 意は結構でありますが、歴史的事宵を曲げねば承知が出来ないとか、或はそれを権威ずけたいという鋪持から、こと しかし歴史的立場ということになると、 す。事買を隼重するという上に於ては、 さらに瞳史的事買を曲げてその真理性を現わそうとするのは、之は撃として斥けられねばならない在り方だと思いま 一般の歴史と饗りはない曹ではありますけれど、この敢皐の匪史的研究の面 その設展、そういうものの朕態ということが大きな要素にな におきましては、特定の宗教の具瞳的内容、生活活動、 ります。そしてそういう歴史的事賓が、 その宗教の呉瞳的内容、生活活動、及ぴその霊展の上に於て如何なる債値を 持ったか、という貼が研究の大事な所なのでありまして、事買を曲げなければ承知出来ないというのではなしに、 そ それが如何にその宗教の霊展、或はその生活活動の上に、どの様な債値を示 して来たか、ということを認めるということが必要だと思います。ただその意味におきまして慣値を認めなければな の 事 買 を 寧 重 し て 、 そ の 事 買 を 通 し て 、 p り p d
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f L カ それはあくまでも事買を尊重しての債値なのでありまして、自分の奉ずる所の宗教、勿論それは宗教に劃 する異理性を承認した立場から研究するのではありますが、 それなるが故に異理性が紹封的なものでありまして、他 のものはことごとく排斥しなければならぬという見方から、極端な排他的な姿となり、過去のものばかりに紹封的な 員宗教国と教事員 宗 教 援 と 数 穆 四 権威があるという態度は慣しまねばならぬと阜、 そうなると自ら屡史的な数感も根本的な革新ということぞ必製とすることがでてくるのであります。そのようにし で 椴 本 的 な 革 薪 が 生 れ で る と い う こ と は 、 経 史 的 な 数 拳 の ・ − H ・ s− 正 於 て 嘗 然 あ ち 得 る の で し て 、 とは、数撃の毅騒を阻害し萎轄させて行くことに他なら沿いのであります。 それぞおさえるというこ 設 が 異 京 教 観 に 於 て 、 ζ は堅史的な穏に の真宗教壌が、従来、特に江戸時代にも数撃は臨まレく撃ばれ て い ゆ ゆ 仇 し た が 、 璽 史 的 な 数 準 史 と い う 商 か ら の 研 究 の 仕 方 は 、 開 m 議珪史精神に合致しないものが多かったのではない 勺しようか。今取しました撲に、縮努的興理であるとして他のものぞ捧斥するとか、過去のものを鑓封的構戚として 認めて、援史的事買を無麗しようとするような間見方がゐったむではないかと思います。議船的な見方をすれば、回既史 構締にもとづいた握史的な認方をするのではなしに、等教の鈴りに、謂わばひいゑの引き窓し、という形になった様 な姿が窺われる いたします。従って爵家的な保穫を受けて、数額そのものは安泰な袈ぞ持ったかもしれま いる、ということが言えると思います。ですから、勝史務事買による制松本的 な革新などは許されなかった、というのが古い数穆心研究の在り方ではなかったかと思うのであります。 今日ム吋設に於て、本繋に数撃が護展して行く矯には、そ信教穆の盤史的研究はあくまでも田町史精神に縫って事費や 鰭慈し、しかもその酪史事賓がその京数む真理性を現わし、叉一位曾に反映し、生活活動、撲は諜肢の上に形号訴して 来たところぞ認め、間同時に持楽に桝刻してどのようにあるべきか、ということをはっきり臨ホしてゆくようなものにな せ ん が 、 教 事 は 議 抑 燃 し た 形 を と っ ってゆかねばならないのであり、叉そういう践になりつつあるということ、叉現在そういう毘に孫究おれている ζ と は、誠に喜ばしいこ あ る と 思 い ま す 。
この歴史的な面から児るのに封して、もう一つ別の見方があります。その宗教白檀の真理内容、その宗教の持って いる所の人生の債値、人生の一つのきまり、
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及びその宗教のもっている安嘗性を論述する、 そしてその主張 が正雷である課をはっきりさせるのに、 一つの組織的な教皐が打立てられなければならない。ただその言葉から言葉 そ の 異 理 内 容 と 人 生 の 債 値 、 へ繋がったり、、もしくは古い時代のように、車に言葉の研究に終ってしまうものではなく、持っている内容の問題、 ともすれば古い江戸時代の教撃というものが、人生の債値という問題よりも、字句の問 題に終始して、それが如何なる安首性を持っているか、如何なる真理内容を持っているか、叉その翼理内容がどう主 張されているか、こういう風に主張されている真理内容であるが故に、叉安嘗性を持つものであるが故に、こういう 風に主張されている所の人生の債値を持つ、ものであるが故に、之は正しいものである乙とという誼き万ではなかった 貼が多かったのではないでしょうか。その異理内容とか、 そ の 安 首 性 の 主 張 、 それが正嘗であることを述べる上に特 に大事なことは、黛涯的な領持を捨てて述べられなければならない乙とであります。乙れがある時代には、妙に黛源 的な偏見を以て之を研究し述べることに終始しているのではないか、という乙とが多分に窺われます。 こういうような研究の基礎になるのは、先に申しました盛史的な研究が、その本質貫現の過程として大きな役割を 持ってくる諦ではあります。その黛涯的な錆持があってなされる時は、 そ の 本 嘗 の 債 値 、 そ の 正 し さ を 述 べ る よ り も 、 こ の 黛 涯 が 良 い 、 こ の 黛 涯 で な け れ ば な ら な い の だ 、 そういう面を強調しようということになる傾向があり、 そ れ は 本嘗の教撃ではないと思います Q 現在異宗教圏が、十にも分れていますが、本来その主張する教義、真理内容には何も費りはなく、ただ塵史的成り 立ちの原因が違う痛に分れているので、その承認さるべき異理内容には嬰化がないわけであります。従って法要作法 等に於てはそれぞれ相違を持つとして色、数撃の面に於ては各個に孤立した立場で乙れを研究し、恰もその異理内容 異宗教固と教事 五策宗教固と教媛 ~ /',. を異にするものの姿で樹立すべきではないと思います。嘗て、議る線数研究家と自制併する一英罷入から成る人へ宛て た手紙の中に、街故翼宗教顔が、その、賞践的乃若臨史的教撃の留で発金に合題した歩みや w しないのかという意味の ζ とが書いであったのぞ見た ζ とがあります。比の鮎、各家波毎に齢りにも所謂忠節、山の譲い人々によって、翻ち偏 狭な費出護法の志によっ そり教闘が護持おれて来たことも、反省されなければならない時機に来ていることを教 えられるような鏑がいたします。殊に璽史的研慌に最も大事な史料そ各教画で分散弾持していながら、 ζ れや生かす ζ とが出来なかったのは惜しい あ っ た と 患 い 今 聞 こ の 員 宗 連 合 態 。 禽 の 設 立 を 機 曾 と し て 義 宗 教 麗 打 っ て 丸 と な り 、 一 一 暦 明 確 に 招 揺 し 以 っ て そ 合 同 県 灘 内 容 、 の人生に於ける藤健を顕示し、誠一も、過去の事実の解糖評欝に経ることなくして、未来に封ずる理超とし ての意義を一本し、而してここに、新しい墨史ぞ諮り出だす生きた力安持たなければならないと思います。 こ れ を も ち ま し て 、 奨 宗 教 関 と 数 惑 に 障 す る 私 の 話 会 そ 移 り ま す 。
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南 部 設 専 修 寺 に は い は れ る 一 帖 ぞ 織 す る a に む袖書がみる。本文は第九首までが毅驚壁一人の異議で、そり後は間筆であるが、ぞれは外題や諮舎と筆陣織を跨じくす るから、莞黙が寄寓して痔持したものと見られてゐる。覧然は聖人の門弟で、﹃交名帳﹂には所晃はないが、高回入 選宛四十一人自筆書設にその名が見え、高田近在の式士が入信して入選したものと患はれる。この﹁正像末和讃﹂の各讃 の 外 壊 と には護教を一本す肩書の数字はなく、移に﹁己土一一一十関首﹂とあるが、すべて五首あり、算定を誤ってゐる。これ 帖の成立について、なほ考えしなるものがあるが、ぞれはともかく、 こ と は 、 こ む に認して著し く讃数の少いこと﹀ て ゐ る 。 こ の 鹿 一 河 一 一 議 了 巴 二 月 九 日 の 夜 寅 時 夢 舎 に い は く 、 議詑の本豪語ずベし、本願信ずるひとはみな、議取不拾の利益にて、紫上費おばさとるなり。 との和棄をゆめにおほせをかむりて、うれしさにかきつけまいらせたるなり。 吋 一 立 後 来 和 議 ﹄ の 成 立 過 程 七吋 迂 像 米 和 議 ﹄ の 成 立 過 程 と あ り 、 女 げ 山 、 j¥ 愚禿親鷲野書之 と あ る 。 部 ち 正 嘉 一 元 年 間 一 一 一 月 聖 人 八 十 五 設 の 時 応 、 か う し た 形 の ﹁ 一 応 像 末 和 議 ﹂ が 一 往 出 来 た こ と が 知 ら れ る 。 し か 正嘉元年了己壬三尾一日 も 右 の ー に 、 決 の と 隣 係 が 多 い c 別 和 讃 ぞ 載 せ て ゐ る が 、 こ れ 等 は 各 讃 に 註 記 す る や う に 、 ① の 韓 名 は 、 如 来 畑 地 出 合 法 な れ ば 、 不 服 地 向 と な づ け て ぞ 、 祷 念 き ら は る ﹀ 。 殺 事量 八 首 ν ② ③ 大 沼 本 粟 散 玉 、 梯 教 弘 興 の 上 官 邸 点 、 窓 纏 ふ か く ひ ろ く ま す 、 奉 讃 た え ず お も ふ べ し 。 上宮太子方援し、和国の有慣をあわれみて、如来の悲願弘宜せり、慶喜奉讃せしむべし。 奉議﹂第一一台、十一首﹁太子務讃﹂第九設︶ ︵ 一 百 十 回 言 ﹁ 太 子 ① 罪 業 毛 と よ り 所 有 な し 、 菜 畑 淵 瀬 錦 よ り お こ る 、 心 性 み な も と き よ け れ 話 、 衆 生 す な わ ち 併 な り 。 ︵ 改 作 し て 第 一 間 前 ﹀ となれど、心はずなわらひとつなり、この心すなわち密集なり、 と こ ろ で 、 諮 ら く 高 田 山 に 離 す る 額 智 が 正 憲 一 一 一 年 九 局 審 鴇 し だ こ の 心 す な わ ら 如 来 な り 。 は、賢治二年の初稿本と持容において 多 少 異 る も む が あ る が 、 草本云、建長七年乙卯四月廿六日開之 と い ふ 識 語 が 一 本 す や う に 、 建 長 七 年 聖 人 八 十 一 ニ 議 む 時 に 成 っ た も む で あ る 。 し か る に 、 こ の 寓 本 に は 島 知 言 と 巻 罵 と に 八首の郡和讃を載せてある。即ち次の で あ る 。
︿ 品 切 鳶 ﹀ CD 調 詑 む 名 競 と な え つ \ 倍 、 む ま こ と に う る ひ と は 、 憶 念 の 心 つ ね に し て 、 総 仰 恩 報 ず る お も ひ あ わ ノ 。 ︿ ﹁ 疋 像 求 和議﹂草稿本第五首、額智本第二九雪︶ ② 末法五濁むよとなりて、理誕の遺教かくれしむ、調陀の悲願はひろまもりで、念傍往生とげやすし。 ︿ 向 上 翠 稿 本 第 七 賞 、 臨 融 制 相 本 第 一 七 骨 悶 ﹀ R 行 設 か な は ぬ と き な れ ば 、 の と ご と く 、 ム す で に い り た ま ふ 。 本 第 八 賞 、 麟 融 制 開 中 本 第 二 神 岡 ﹀ ︿ 巻 尾 ﹀ ③ 菊詑のちかひむゆへなれば、不可務不可詮不可思議の、功徳はわきてしらねども、信ずるわがみにみちみてり。 寵 無 爵 頚 陀 抽 怖 を と な ふ る に 、 衆 釜 一 一 海 水 む ご と く な り 、 か の 清 盛 悼 む 昔 話 回 み に え た り 、 ひ と し く 衆 生 に 趨 向 せ む 。 ① ︷ 錨 州 上 家 柑 柄 本 第 授 賞 ︶ ① に み て り 。 ム ハ 設 、 部 前 掲 尚 早 務 本 別 和 讃 ⑤ に 向 。 。 ③向上窃に局じ。 右む八言の中、各讃に註記したやうに、その中五首は、文字に多少訂正されたものもあるが、﹁正像末和護﹂の草 橋本に段められ、ニ首は別和讃に挙げられてゐる。従って﹁正像末和讃﹂の製作は建長七年の頃に窮芽のあることを ﹃ 立 像 + 木 和 讃 ﹂ の 成 立 過 程 九
﹁ 正 像 米 和 議 ﹄ の 成 立 過 稼
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認 め ね ば な ら な い 。 次に、高忠告忠則麓正麿三年九月額智書寓む﹁正像末和讃﹄は、本交の懇に、 草本去、正嘉ニ議九月サ四日親驚入十六歳 と あ る 。 部 ち 訴 議 章 一 楠 本 が 成 つ 4内容は齢者に比して著しく増揺し、また整備されてゐる。一丹治本ともいふ≪
あ る が 、 ζ ζ む 切 ︿ 山 叩 帥 附 ﹀ の が あ り 、 れてゐる。そしてこれκ
つ ゾ い て は五十入賞に増加して列ねられてゐるが、その中には草稿本の別和議第一首舎が第一一一十八首に入ってゐる。 こ の 後 に ﹁ 愚 禿 連 組 問 ﹂ と し て 疑 惑 讃 二 十 ニ 蓄 と ﹁ 悲 歎 述 懐 讃 ﹂ 十 一 誉 と そ 環 け 、 ﹁ 日 上 三 十 一 一 一 首 愚禿悲歎議楼﹂と 結び、また前掲正嘉二年の聖人の識語がある。なほこの顕智本には、この次に額智の正臨書寓の英幸一日があり、またそ の後に﹁翠繋翠﹂と﹃観念法門﹂とりニ交を関記してゐる。 と こ と L、
Jを で あ る が 、 そ の 初 に 十 一 一 一 首 の 和 讃 が あ る ο は和讃の選脱が各讃 m w 一 局 に 数 字 で 記 さ れ て あ る か ら 、 られる。そして第一首の初めに﹁浮土和護﹂と題してゐるが、賓は﹁正像宋和讃﹂である。これ等のお護はすでに先 啓が﹃大谷遣法纂嚢﹂に﹁帖外和讃﹂として絞めたところで、藤永語教民の﹃結外和讃集﹄にも投銭してゐるが、近 し か も こ の も の 刊 の 一 “ 4 親 驚 護 人 会 一 集 ﹄ ︵和讃篇︶の﹁和讃拾遺﹂む中にも載せてゐる。この影篤の京本は西本願寺の詰宮下題民所購 の憲一人の巽艦縦であるといふが、谷大本は持出向かむ転篤を経たもので、すでに聖人の翼蹟としての風諮を可なり失ってゐる。しかし日野磁誌の研究によると、原本はすでに解鱒されたらしく、その断簡と恩はれるも爪りが諮摂に脊在する が、それ等は要人の奨膜と認められるといふことである。さてその十一二蓄の和讃とは衣の通りでみる。 議詑む翠癒海水に、われ等が信水いりぬれば、異質報土のならいにて、震構菩提一味なり。 ① ︵ 草 務 本 第 二 一 首 、 開 制 相 関 本 第 二 二 首 ︶ ② ︿ 濃 紺 備 本 態 末 法 五 滋 の よ と な り て 、 醐 押 期 の 選 数 か く れ し む 、 調 陀 の 悲 願 ひ ろ ま り て 、 念 僻 伎 役 さ か り な り 。 制 期 制 総 本 総 一 品 関 ﹀ ③ ︿ 議 橋 本 祭 世 丸 、 綴 総 本 け し む 。 た ま は く 、 む J,. 」 第 一 一 一 一 首 ﹀ ③ 濁註の有績をあわれみて、勢至念捧す﹀めしむ、信心の人を掻取して、開伊土に蹄入せしむなり。 ︿ 草 稿 本 第 二 六 言 、 田 端 容 本 第 三 二 草 ︶ さ ) 組 伸 趨 譲 詑 の 慈 悲 よ り ぞ 、 顕 作 品 開 、 h u は え し め た る 、 倍 、
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の 智 慧 げ い い ち て こ そ 、 梯 思 報 ず る み と は な れ 。 ︵ 草 橋 本 第 − 綴 笹 本 第 一 一 一 三 首 ︶ ③ ︿ 鵠 ゆ 附 例 い か で る な り 、 し こ と は 、 ム 本 然 Q) なはぬときなれば、樺掘の とん\く、韓留にいりたまひにき。 賞 、 毅 樹 首 本 第 二 品 開 ﹀ ︵ 措 伊 土 和 讃 部 和 議 第 一 一 一 言 ︶ @ 三 割 明 容 土 の 大 部 等 、 哀 感 撞 受 し た ま ひ て 、 異 質 信 心 す ﹀ め し め 、 定 磁 界 の く ら ゐ に 踊 せ し め よ 。 ︵ 言 務 本 第 九 首 、 額 欄 知 日 本 第 五 六 首 ﹀ 吋 迂 路 探 求 和 讃 ﹄ の 成 立 過 程吋 正 晶 都 中 木 和 讃 ﹄ の 成 立 過 種 ま こ と の 信 心 う る ひ と は 、 ③ 五 十 六 議 七 千 菌 、 靖 勅 並 口 護 は と し を へ む 、 本 第 一 誉 、 額 智 本 第 二 五 品 目 ︶ ⑮念傍窪生む顕により、等正費にいたるひと、 儲 制 緩 求 第 二 六 首 ︶ こ の た び さ と り を ひ ら く べ し 。 ︵ 草 稿 す な わ ち 鞠 勤 お な じ く て 、 大 般 摂 螺 を さ と る べ し 。 会 ︷ 早 柑 橋 本 第 ゆ へ は 、 い り ぬ れ ば 、 補 鵡 の 縛 駄 に お な じ く て 、 べ し 。 ︿ 落 橋 本 麟 期 制 樹 木 第 一 ︿ 翠 務 十 本 郡 山 相 嚇 裁 第 二 首 V ⑬ 関 部 徳 ふ か く ひ ろ く ま す 、 奉 讃 た え ず お も ふ べ し 。 上宮太子方便し、和閣の有情をあわれみて、如来の悲願弘笈せり、麗喜泰讃せしむべし。 ︿ 首 相 帯 構 本 郷 和 議 第 一 一 一 大日本鐙粟散玉、悌敬弘興の ⑬ 首 ︶ この十一ニ嘗の中、懇のニ営の太子讃は軍務本の轄の別和讃に存するところである。攻に第一首から第十一言までを 首 相 稿 本 と 額 智 本 と に 封 比 す る と 次 の 題 り で み る 。 ③ ① ⑦ R ① ③ 一 一 一 凶 問 問 わ れ 川 や が 揃陀の悲願 さ か り な り の た ま は く せ し む な り 線迦禰陀 末法亙濁の有情の 他 力 の せ の と 、 摘 し た げ 、 陀 め、まや、の け、Iます、怒 り、くし、願 は 像、稼 季、迦 末、車舗 法、陀 の、 衆、 生、 の、 総 力 の 来事語、せの、さ警護 法 F号、しみ、か陀 亙懇、め、ζ、 ち の 濁迦、け‘と、な悲 の か に 、 り 願 手ぎ は、 情 の
⑪ ⑩ ③ ③ 四 三 三 四 四 二 か な は ぬ 龍宮に 鶴 岡 せ し め よ ま こ と の 信 心 う る ひ と は 掬勤 き と る べ し 龍 か 官 な にわ、 す、ぬ で、 l亡、 謹、粥念、隠 す、動悌、せ ぺ l亡、往、し し 生 、 め 信、よ す、 れ、 ぱ、 き 捕 ま い 、 龍 か と 勃 乙 れ 、 宮 な る t亡、とし t亡Ii べ の め ぬ し 信 よ i[_j
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ヲ る ひ と は 乙の十三首本の成立が草稿本よりも成立がおくれ ることを暗示するものである。しかしまた草稿本に等しい文句があり、更に顕智本に存しない太子和讃ニ首がこの一 連の十三首の中にあることは、乙の本が顕智本の抄出ではなく、それ以前に成立したことを物語ってゐる。 かくてこの十三首本の成立は、草稿本と顕智本との間にあると思はれるが、本書にはこれ等前後の雨本に比して左 右の封照によって知られる遁り、顕智本に同じものが多いのは、 乙の十三首本が別個の一本として成立したことを示唆するものであらふ。また先に言及したやうに、 乙の第一首の初めに﹁静土和讃﹂と記してゐることは、乙の和讃の性格や讃名について考へしむるものがある。けだ し草稿本には畳然筆の﹁正像末法和讃﹂の外題はあるにしても、聖人筆の内題はない。﹁正像末法和讃﹂の内題は顕 智本にいたって現はれるのであり、それに先立つ十三首本がなほ﹁替土和讃﹂と記されてゐるとすると、﹁正像末和 讃﹂も初めは﹁曹土和讃﹂と呼ばれてゐたかとも思はれる。これは前週の通り﹁正像末和讃﹂が﹃串土和讃﹄の省首 と容尾の別和讃に源流すること﹀も閥係があらうが、また﹁正像末和讃﹂が先に成立した一具の﹃揮土和讃﹄﹃曹土 高信和讃﹄と矢張り一連の作をなすものであることを示唆してゐる。しかし本和讃には特に末法の時機が深く自費さ ﹁正像末法和讃﹂と帯されること h なったものか 訓 が 少 い こ と は 、 れ て ゐ た ﹀ め 、 と 考 へ ら れ る 。 ﹁ 正 像 末 ﹂ の 文 字 が こ の ﹁ 替 土 和 讃 ﹂ に 冠 せ ら れ 、 ﹃ 正 像 末 和 讃 ﹄ の 成 立 過 程円 廷 後 来 和 讃 同 の 成 立 過 程 四 所謂﹁鰐草稿和讃いは寛政十一年深績が務行したもので、出羽沼田静穏寺前議本を羽州本と躍して宗本とし、珂内 入培慈願寺務議本令河洲本として校異してゐる。とれ等と悶類の和議は、議在室町時代の碍本が右の外にも存し、在 そ れ は と も か く 、 潤 州 本 と 削 州 本 と ら 叩 封 認 す る と 、 く と呼ばれてゐるが、には一切なり相興がある。 そこで先づ瀦剤本を前議離智香寓本と製燕ずると讃敷やその配謹拭異るところはない。しかるに間熊本は、これに 比 し て 翼 に 内 容 を 増 加 し て ゐ る 。 部 ち 麓 惑 議 に お い て 第 二 首 に ﹁ 罪 露 出 矯 ず る 行 者 は ﹂ の 一 首 を 増 し で す べ て 一 一 十 一 一 一 首 となり、また第二十一首﹁信心の人におとちじと﹂と第二十二首﹁自力藷善む入はみな﹂とのこ首は第七・第入首目 に 入 っ て 額 警 本 と 患 遺 が 同 調 っ て 来 る 。 し か も こ の 疑 惑 讃 の 次 に ﹁ 皇 太 子 襲 盛 時 奉 讃 ﹂ 十 一 首 が 新 し く 挿 入 さ れ 、 悲 歎 述 懐讃は五嘗増加して十六首となってゐる。そして麗にその後に議得名蹴自然法瀦掛思議に慰和讃一 が あ る G た 況 中 に は 、 と り 入 れ ら れ て ゐ る 。 ③ 一 首 中 の 第 九 首 に 牧 め ら れ で あ る が 、 こ の ① は 先 夜 言 及 し た 吋 巡 り 十 一 一 一 首 和 讃 に 鑓 承 さ れ た も の で あ る が 、 ま た 、 正 一 一 品 加 ニ 年 二 月 二 十 日 の 識 語 の あ る 一 百 十 四 首 ﹃ 太 子 泰 讃 ﹄ の 第 ニ 首 に 攻 め ら れ で あ る 。 ま た 副 知 和 議 ② は 同 じく十三言和議にも殺めちれてゐるが、建長七年十一月に成った七十五言﹁太子奉讃﹄第一首﹁日本塁麗命聖護太子、 締法弘興の露ふかし、有情救構の慈悲ひろし、選ヤ議不退ならしめよ﹂と関誌があり、それぞ受けたものかと患ふが、 今 の 十 一 首 ﹁ 太 子 奉 讃 ﹂ の 、
和 問 側 の 教 主 聖 徳 袋 、 慶 大 揺 悟 謝 し が た し 、 一 心 に 諦 命 し た て iま つ り 、 め よ 。 ︿ 第 八 昔 日 ︶ と意味において大差はない。しかしこの第九首とは共に一百十周讃吋太子泰讃﹄ ちれてゐるから、草稿本の別和讃の②④のニ首は十一一一首和議と一﹁太手翠讃いぞ綴て十一首 z γ M」E かくて初一続本から麟割勢湾の再稿本会懇で﹁御草稿和議いの河州本へて来たが、議如刊行む文照明甑ぞ同州 本に封比ナると、文間出殺は務一閣の﹁般舟讃いの文を鎮く外讃数や凱盤は栢等しいが、記舗は著しく少い。そして河鮒 い が 、 善 光 寺 和 讃 の 絡 に ﹁ 毅 綿 織 入 十 八 成 都 筆 ﹂ の 一 行 が あ る か ち 、 こ れ 等 一 線 本 で あ ら ふ 。 し か し 、 一 陣 本 の 前 後 鶴 係 ぞ 問 題 と す 探り入れられた べ き で あ ら ふ 。 本 並 げ い 文 時 版 に は 共 に 聖 人 の は共に文鷹元年八 基 く も り し て 惑 っ 一 首 に 絞 め きであら 左剖の少いこと等から、女照的販は珂州本から持化した色のと考ふべ 以 上 の 錠 惑 を 表 一 本 ず る な ら ば 、 凡 ゆ 々 決 の ゃ う で ゐ る 。 ︵ 十 一 ニ 首 和 讃 ﹀ ︵ 同 級 智 潟 本 ﹀ ︵ 河 州 本 ﹀ 円 弱 掛 川 忠 之 に 附 川 巴 ︶ 鮫 舟 讃 の 文
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﹃ 正 措 鶴 来 和 讃 加 の 成 立 過 程 五﹃ 正 像 末 和 讃 ﹄ の 成 立 過 程 一 六 善 光 寺 讃 I l l l o ︵ 五 ︶ 獲得名貌自 I l l l ﹀ 然 法 爾 章 ︵ 四 先に言及した通り﹃正像末和讃﹄述作の萌芽は建長七年聖人八十三歳の頃にあり、 その後茨第に護展して文明版に いたったと思はれるが、次に考ふべきは、 そうした述作の契機が何であったか、といふ問題である。それについて先 づ建長七年の頃聖人の身透に惹起されてゐた重大な問題を考慮するならば、 それはいふまでもなく、善驚事件である。 由来善驚の問題は未だ杢貌の委曲を詳かにしないが、 その輪廓は凡そ推知されてゐる。卸ち闘東で成長した善驚は、 その後関東の門弟の聞に異義が起ったので、聖人の使者とし 恐らく聖人踊京の際共に上京したやうに考へられるが、 て下向した。しかるに善鷺は、聖人踊京後の聞東数圃の首領となろうといふ野心を抱き、特異な策動を行って東園門 徒を惑凱せしめた。しかも彼は地方の有力者である領家・地頭・名主等と結んで、彼の意に従はない聖人の有力門弟 達を、好んで悪事を行ひ、神祇を蔑如するものとして、鎌倉に訴へた。かくて念悌者は大いなる弾監を蒙ったのであ
ヲ 。 。
この事件は建長七年から表面化したが、 それが善鷺の策動に基くことを知った聖人は、 翌八年五月ついに善鷺 を義組するのである。ところで、 かうした現貫相を凝観した聖人は、末法の意識を深化せしめたにちがひない。昔時 聖人が門弟に遺った書般に、 ﹁五濁増時多疑訪、遺俗相嫌不用問、見有修行起唄毒、方便破壊競生怨﹂の文 ︵ ﹁ 法 事讃﹂巻下﹂﹀を屡々引用してゐることによってもその一班が推察される。 きれば﹃正像末和讃﹂の述作が建長七年の頃 に費起されてゐることは、頗る由縁の存すること﹀いはねばならない。 かくて末法意識を深化せしめられた聖人にとって、強くそこに担起されたのは聖徳太子である。聖人が、太子を末 世の衆生を化度せんために出現された方と仰信したことは、聖人書寓の廟窟偏︵金津専光寺戴︶によっても考へられる が、上述の通り初稿本の別和讃に太子を讃詠した二首があり、建長七年十一月には﹃皇太子聖徳奉讃﹄七十五首を製 作し、衣いで翌々正嘉元年二尽には﹁大日本国粟散王聖徳太子奉讃﹄ 一百十四首をものしたのは、首時の聖人の太子 への傾投を物語るものである。しかもその問麗元元年二月には、前述の夢北口讃を感得してゐる。この和讃は何人から 受けた夢告か明記はないが、その内容並に七十五首と一百十四首との雨太子和讃製作の中間にあることから、太子の 夢告と見て必ずしも安首を散くものではあるまい。それはともかく、右の雨天子和讃は、六角堂や天王寺等の太子闘 係の寺院の線起や太子の停記等が多く讃詠されてゐるが、その根底にある色のは観音またはその化身としての太子で ある。しかもその中には善鷺事件が想起されてゐるので、たとへば衣の七十五首﹃太子奉讃﹄の、 如来の遺教を疑詩し、方便破壊せむものは、弓削の守屋とおもふべし、したしみちかづくことなかれ。 ︵ 第 六 四 首 ︶ つねに併法を誹語し、有情の邪見をす﹀めしめ、頓教破壊せむものは、守屋の臣とおもふべし。 ︵ 第 七 二 回 ︶ と い ふ ニ 首 を 見 て も 、 その一面が推知される。即ちこ﹀には現在念備を艶詩ずるものが譲想されてゐる。それは支配 階級の槽力をもって念悌を弾摩する善鷺や領家・地頭・名主等一−味の徒に外ならない。 なほ、河州本や文明版には﹁皇太子聖徳一挙讃﹂十一首が疑惑讃め衣に牧められてゐる。その来るところは、すでに 言及したやうに初稿本の別和讃であるが、それが七十五首や一百十四首を経て、こ﹀にとり入れられ十一首に展開し たのである。こ﹀に太子讃が加えられた理由は上述するところによっても凡そ明かであらうが、それと共に今一つの ﹃ 正 像 末 和 讃 ﹂ の 成 立 過 程 七
の成立過程 八 意 味 が あ る と 患 ふ 。 けだし聖人の讃詠は帰れも太子を観音の化身とする持一一治が基調をなしてゐるが、これより先に成 った﹁害土和護﹂の移に勢至讃八首があること﹀患ひ合せると、この太子議十一言は遥かにそれに封建するものと見 る べ き で み ら ふ 。 割 ち 内 賢 治 二 年 成 る と こ ろ の ﹁ 塑 土 和 讃 ﹄ の 同 県 績 本 に は 、 ま つ と し て 、 勢 一 会 が 怠 伸 の 人 委 掻 駐 し ﹁ 賞 揚 巌 経 に よ り て 大 勢 歪 窓 口 議 和 讃 し た て 入れしめる国緯を一本す八首を列ねてゐるが、その iま と し て てゐる。ところ あ る が 、 入れしめたの は太子と上人とを日本における観音と勢釜と現いたので、 のに封して、吋正像末和讃いには翻音の化身としての太子が讃仰されたのである。 この後に克える善光寺讃は未だ充分整ってゐないが、恐らく一話題の太子和讃の一部であらふ。それは三河 が法然上人の木地で で怒ってるる 因 み に 、 講性寺は別殺の太子和讃集にこの善光寺和讃む診山山を牧めてゐることによっても示唆されるところでみる。 まE 次 い こ れ い た る と と な る 。 ζ の ﹁ 帥 抑 制 問 う だ が ふ つ み と が の ふ か き ζ とをあらはサこるものであるが、 疑諮﹂といはれるやうに、末法濁院の賞詣である。その故にこの疑惑議が正俊米和讃につぜいてあらはされたことは 自然といふべきであらふ。 衣にこむ疑惑讃につ Y い て 悲 歎 透 一 様 護 が あ る ︵ お 州 本 や 文 明 版 で は そ の 煎 ど 太 子 議 十 一 首 が あ る ﹀ 。 これは議笹本では十 であるが、荷州本・文明版では五誉会タ増して十六首となってゐる。そむ初め六首許りは多く恕一人の遠演と見るべ
、きであらうが、第七首以下は首時の伸教徒の現買相に封する聖人の悲歎であり、また批判である。即ち第七首以下の 五首は、首代僧俗は共に天地の鬼神を祭把し、吉日良辰を揮ぴ、ト占に耽る等、 ﹁外儀は悌教のすがたにて内心外道 に踊散せ﹂る貫相を指摘してゐる。また第十二首以下は僧尼が自ら持すること少くして構力者に侍り、世人は僧尼を 奴蝉僕使の如く蔑如して怪しまないことを慨し、末法濁世には無戒名字の比立であっても舎利弗・目蓮等に等しかる べ し と し て 、 その曾置を説く。しかも文末には、 己 上 十 六 首 、 これは愚禿がかなしみなげきにして述懐としたり、 この世の本寺本山のいみじき借とまふすも法師と まふすもうきことなり。 と述べてゐるのは、以上は聖人の悲歎述懐であると共に、 それが首代伸数への鋭い批判であることを有力に物語るも の で あ る 。 ところで、右のような悲歎述慎讃の所読を考へる時、こ﹀に組起されるのは﹃数行信誼﹄殊に﹃化身土器﹄の所明 である。卑見によると、﹃数行信謹﹄は、南都北嶺の僧徒が時機に暗く教の義理を時ぜず、徒らに惇統的数槽の保持 に関心し、政府官僚と結托して、専修念伸を弾塵することを、元仁元年の念伸停止を契機として、鏡く批判し、 ﹁ ム 寸 の道俗、己の分を思量せよ﹂と重大な反省を要請したところに撰述の契機がある。印ち首代僧徒が鎮護国家を名とし て園家檀力に依存し、伸教を民族宗教化せしめた上代以来の悌教|律令悌教の批判に謹端する。そして殊に﹃化身 土省﹄においては、南部北嶺の僧徒や政府官僚が、念伸者を破戒無漸と罵り、一神祇を蔑如すると難じて念悌を弾監す るが、由来倒徒の遣は戒の有無にあるのでなく、殊に末世の借賀は無戒名字の比正である、として借貨の曾巌を説き、 悌教以外の諸天鬼神を祭閲したり、吉日良辰を選揮したり、或はト占に耽ってゐる如、き律令悌数こそ、正しく悌数で なくて外道である、と鏡く批判するにある。 ﹃正像末和讃﹄の成立過程 九
﹃正像末和讃﹂の成立過程 一 一 O かくてこ﹀にとりあげられてゐるのは、念悌弾塵・戒の持破・諸天諸一珊の祭杷等であるが、 これは善驚によって惹 起された東固における事件と内容において相等しいものがある。従って﹃化身土巻﹂の所明に相通ずる批判が正像末 和讃につ Y くこの悲歎述懐讃に鏡く表出されたことは首然の踊結である。律令悌教を批判して、出抑教徒のゆくべき道 と 末 代 償 費 の 争 巌 を 説 、 き 、 悌 数 の い は Y 主瞳性を樹立する、それが聖人の生涯を貫く大きな精神であり、反律令悌数 的 立 場 と も い ふ べ き − も の で あ る が 、 それが善鴬事件を契機として、晩年鮮活に表明されたのが﹃正像末和讃﹄であ・る といふことが出来るであらふ。 − 1 昭和二十九年十一月稿・同三十年六月補訂
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附記 右の本文中に﹃宗祖国民蹟集﹄の十三首﹁閉土和讃﹂に言及した。しかるに、頃白書一段より入手した﹁往相還相廻向文類酔ハ綿布刷献﹄ と題する一馬本の初めにも右の﹃異蹟集﹄を潟し、同機十三首の和讃等を牧めてゐる。外題に﹁井諸文﹂といったのは、﹃翼蹟 集﹄を指すのである。乙の﹁姐向文類﹄の原本は三河佐 h 木上宮寺の蔵本で、議琳の識語によると、賓暦六年九月彼が野寺本誼 寺で講談の序にこれを奔見し、侍者慧湧をして筆書字様まで摸寓せしめたことが、その識語に見える。右の所謂﹁詩文﹂︵真蹟 集︶はそれと閥係があるのか否か不明であるが、﹁廻向文類﹂の前に寓しである。いづれにしても、乙れは﹃真蹟集﹄が江戸時 代 に お い て 事 者 の 聞 に 知 ら れ て ゐ た こ と を 一 不 す 一 文 献 で あ る 。 ︵ 三 O 年九月校正の時︶﹃
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医又 主三主 宗祖親驚聖人の撰述には、殆んど撰述乃至は書寓の年月日が自署せられてをり、それは異蹟本の存する限り、著作 年時を判定する根援として、聖人述作の特徴をなしてゐる。然るに同県蹟本の存しないもの、或は遺作年時か書篤年時 かの明確でないもの、乃至は全く年時の自記を歓くもの、については、多くの問題を残すのであって、その一に﹃岳町 土 文 類 家 紗 ﹄ が あ る 。 ﹃揮土文類家紗﹄は宗祖の真蹟本が現存せず、また現存最古の寓本と考へられる滋賀牒蒲生郡西大路村の光延寺本 ヂ﹂+ 4、
延 慶 二 年 け 門 / ト / 正 月 二 十 日 の奥書があるけれども、それは明かに書寓の年時であって、撰述年時のてが﹀りとはならない。それ故に本書の撰述 ① 年時については古来種々の異説が存するのであって、それを要約すると、大龍三説となる。 め の 撰 述 と し 、 一、建長四年八十歳話。これは﹁正明痔﹄及び﹃正統停﹄の説であって、 ﹃正統痔﹄巻六には、宗租八十歳の三月四日の撰述と記してゐる。然しこの雨量回は、その史的債値に ﹃正明痔﹄巻固には、宗租八十歳三月初 ﹃ 浮 土 文 類 豪 妙 ﹄ に 就 て の 疑 問﹃ 掴 伊 土 文 類 豪 妙 ﹄ に 就 て の 疑 問 於いて問題があるので、直ちにその読はとり難い色のがある。 二 、 建 長 七 年 八 十 三 歳 説 。 こ れ は 東 本 願 寺 本 ︵ 議 一 官 官 ︶ の 奥 書 に 、 愚 禿 親 驚 一 幹 建長七年七月十四日 これと同一の識語を有するものに、滋賀鯨滋賀郡北比良の一繭侍寺本がある。更に注意すべきは、 香月院の﹃串土文類家紗講義﹄に、理綱院の惇へられた存畳上人延書本が、同じく﹁建長七年七月十四日書之、愚禿 と あ る に 基 く も の で 、 親驚八十三歳﹂とあると記されてゐることである。 これらに依て、建長七年八十三歳読は最も麗く用ひられてゐる読 であって、第三読と照醸してこれより確買な根操は、少くも現在のところ護見し得ないゃうである。 これは大谷大皐園書館職、室町末期の寓本と考へられる延書本に、 一 二 、 正 嘉 元 年 八 十 五 歳 説 。 正喜︵嘉︶元年林鐘四白書寓之、本奥親鷺聖人以朱染御筆、愚禿親驚八十五歳貼之 と あ る に 基 く も の で あ る 。 これに就いても香月院は、開轍院の惇へられた費如上人延書本に、 ﹁ 正 嘉 元 年 林 鐘 四 日 馬 之﹂とあると云い、従って前掲の理綱院所停の存畳上人延書本と封比して、それが再治清書されたことを示すものと 八 十 一 ニ 歳 御 製 作 、 八 十 五 歳 再 治 清 書 と 侍 へ て 来 た の で あ る 。 云ってゐられる。かくて一般には、 その他、年代不明と見る読もあるのであって、 それは多くの古寓本に全く撰述年時が記されてゐないのに基くので ある。かうレた吠態であるから、本書の撰述年時に就いての決め手がなく、こ L に﹃教行信謹﹄との聯闘に於いて本 ② 書の撰述が﹃教行信謹﹄の前であるか、後であるかとの論議を生ずるに到った。 本書の撰述が﹃教行信謹﹄よりも後であるといふことは、従来殆んど疑ふものがなかった。それは﹃数行信誼大意﹄ I乙 こ の ゆ へ に 親 驚 聖 人 、 一部六容の書をつくりて数行信謹文類と抽抗して、くはしくこの一流の教相をあらはレたまへ
り 、 し か れ ど も 、 この書あまりに慶博なるあひだ、末代愚鈍の下機にをひて、 その義趣をわきまへがたきによりて、 一 部 六 容 の 書 を つ Y め、肝要をぬきいで﹀一容にこれをつくりて、すなはち串土文類家紗となづけられたり に問題ともならなかったのである。 近年﹁教行信謹﹄ ﹃数行信謹﹄より前に撰述せられたのではないかとの読が行はれるやうになった。 日 演 法 霧 が ﹃ 文 類 来 紗 蹄 湾 記 ﹄ に 、 ﹁ 叉 租 之 製 一 一 斯 文 − 也 未 レ 考 一 一 年 暦 ﹁ 恐 在 一 一 そこには何等の理由も根擦も示されてゐないのであるから、特 の撰述年時が問題とせられることと並んで、本書が といふ謹樺があるからである。尤も古く、 六容庚書之前−欺﹂といふ読を出してゐるけれども、 然 る に 、 これは如何に考へられるべきであ ら う か 。 この問題に就いて、夙に﹃串土文類家紗﹄ ︵ 略 本 ︶ が 先 で 、 ﹃ 数 行 信 詮 ﹄ ︵慶本︶が後であるとする意見を護表せら れたのは、生桑完明師︵高田皐報第六輯︶であり、更に詳細に同意見を開示せられたのは桐渓順忍師︵其宗事第九並に印 度事例数皐研究五︶である。その他正親含英師が大谷大撃員宗国字曾に於いて、同じ意見を謹表せられたことがある。更 に近時﹃教行信謹﹄の撰述に就いて信春別撰論を提示し、開宇界の注目をひいた結域令聞師は、信容を除いた﹃教行信 謹﹄よりは、略本は後であるが、信者を加へた唐本よりは先であると考へられてゐる如くである。 之に封し、庭前略後の従来の読を支持せられるのは、山口竹千代師︵高田挙報第八輯︶岩田繁三師︵高田皐報第三五輯︶ である。今、生桑、桐漢雨師の論説に基いて略前由民後読を摘記するならば次の如くである。 生桑師に依れば、略本を以て賢本撰述過程にあらはれた習作とするのであって、その撰述年時は闘東遊化時代か、 更に朔つては越後流請時代に構想を回らされたものでないかと推定してゐられる。その理由としては、 ﹃ 湾 土 文 類 緊 紗 ﹄ に 就 て の 疑 問
﹃ 国 伊 土 文 類 棄 紗 ﹄ に 就 て の 疑 問 二 四 一、賓略二本の内容から見て、一二法から四法への展開が思想的護展として嘗然である。それ故略本の三法から慶本 の 四 法 法 門 へ 展 開 し た も の と 見 る 。 二、正信念悌備から念悌正信偏へ展開することは思想的逆轄であり、叉文辞も正信備の方が念悌偏よりははるかに 整備せられてゐる。殊に正嘉二年八十六歳撰述の異本を惇へる﹃曾闘員像銘文﹄には、正信偏の文を翠げて通揮を加 へ ら れ て ゐ る 。 三、高田所得の古典に依る推定に依れば、顕智上人は﹃漕土文類﹄の内に、 ﹁ 数 行 謹 云 ﹂ と し て 略 本 の 文 を 引 き 、 叉﹁閉土文類豪動云﹂として同じく略本の文を引用してゐられる。即ち穎智上人は略本を呼ぶのに、慶本の遺稿であ る﹃数行誼﹄を以てし、叉﹃串土文類家紗﹄とまさしくその名を用いてゐられる。そして贋本を指す場合にも、 ﹃ 敢 行 謹 ﹄ と 云 っ て ゐ ら れ る 。 これから推定すれば、賢本の撰述後は略本を﹃閉土文類取県鈴﹄と呼ばれたのであり、従っ て贋本を同名で呼ばれたこともあったと専空上人の自筆﹃口停動﹄を撃げ、従って雨書は首初から別箇の撰述でなか っ た と い ふ の で あ る 。 桐揮師の主張は茨の如くである。 一、序文に於ける雨書の疑問。鹿本紹序の文後序の文と、略本の序題の文結勘の文とを比較すると、慶本組序の一 連の文が略本では序題と結勘に分断されてゐる。之は何の必要があってか説明ができない。従って略本がまづあって、 広本で整備せられたと考へられる。 二、コ一法四法の問題。広略二本を比較して最も重要な問題は、思担展開としては三法より四法へであるべきであっ て、略本は三法々円であり、広本は四法々円であるから、略前震後と見られる。更に略本を三法々門と決定したのは借 館以後のことであり、自由な立場で広略二本を比較すると、略本
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四法々門と考へられぬことはない。従って略本は四法々門の未だ整はぬ形顕であり、従って略本が賢本の前であると考へなければ、略本が三法々円であるといふ結論を 導き出すのに異論のある貼、行下に閉信を出して十七十八雨願の成就文を連引した貼などを説明することができない。 一 二 、 正 信 偏 の 問 題 。 正信備に﹁踊命無量寄如来南無不可思議光﹂と整った踊敬序があるのに、
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伸備ではた Y ﹁ 西 方 不 可 思 議 等 ﹂ の一句となってゐる。これは蹄敬序としては整ったものとは云へず、宗祖としては多く例を見ない西方の文字を用ひ てゐられる。それに主観的と云へばそれまで Y あるが正信備の方が修辞が整ってゐること、特に﹁本願名競正定業﹂ それは安域の御影の銘文と考へられる。それほどの文を何故に略本に於いて原 @ 己下の二十句は﹃銘文﹂に通揮され、 型を寄しないほど費更せなければならなかったか、説明ができない。 ⑪ 正信侮は行信雨巻の聞に置かれてゐるのに、念悌偏では三法の説明が終ったところに置かれてゐることも不 審 で あ る 。 四 、 三 一 問 答 四 悼 の 問 題 。 ④賢本では大信の説明の中にコ二問答が出て納得できるが、略本は念悌備が終ったところで突如として示され、 前後の関係が明かでない。賢前略後とすれば、念悌偏の安慮も、三一問答の安魔やその組織及び量の多いことが説明 き れ な い 。 @内容から見ると、慶本では合三角一の理由として 一愚鈍の衆生をして解了し易からしめんが魚、二浬繋の 員因は唯信心を以てする、との二由が示されてゐるのに、略本では前の一由のみ示して、教義上重要と思はれる後の 一 由 が 示 さ れ て ゐ な い 。。
字訓揮を封照すると、度本は六字で一定した名目になってゐるのに、略本では五字四字等の整はない形態に ﹃ 湾 土 文 類 家 紗 ﹄ に 就 て の 疑 問 二 五明 暗 伊 土 交 類 部 拠 品 貯 ︺ に 就 て の 疑 問 問 一 一 六 な っ て を り 、 これは略前賓後の鐙左では江いか c 五 、 二 経 の 一 一 一 心 一 問 題 を 訴 す に 、 は 一 期 経 に ニ面そ示してゐるのに、略本では悶の面 だ け し か 一 本 さ れ て ゐ な い 。 以 上 が 、 略 前 震 後 を 主 張 せ ら れ る 離 脱 の 設 の ふ へ 閤 阻 で あ る よ う に 見 え る 。 この問題は、故に栂演締も指議せられるやうに、何れむ立場ぞとるにして色、 て主観的な論械に立つのであっ て、客額的な新費科がでない躍り、議黙ぞ決定的ならしめることはできないであらう。だとへば、正信備の修辞が念 悌嶺よりは撃ってゐる つでも、それは主観的な問題であり、一一一法問法の問題にしても、倒れの設も成立し得ない ものではない。従っていま提ポしようとする摂設も恐らくは決め手にはならないであらうし、叉前遠の諸婦の所設に も充分背けるものがゐるのであって、放でそれに完封するのではないが、かうした離鮎も許おれないかといふ問機謂を 提 出 し た い の ℃ あ る 。 時前農後の設に謝して、近く賢前撚後の摂説を護表せられたのは、 舗であるが、私も亦震前路後の説を支 持したいのである。岩田部は 一 、 略 本 で は 一 本 の 内 務 か ら 諭 鐙 し て 、 護椋利他む回山内を開示せられた譲楢化盆の鮪現として惑戴してゐ ら れ る が 、 はその熱未だ明確でない て い 穏 や 明 ず に 就 い て 、 康 本 は 妙 泉 は 難 或 で な い が 信 轍 慨 が 難 獲 だ と 間 関 す も難露であると訴され、その理府令関すに略本がより一中間切になってゐるので、ぞれは宗罷娩年の 略本では謬俗も難穫であち、 で あ る 。
一 一 一 、 費 略 一 一 本 合 組 織 は 、 略 本 の 若 が 整 備 さ れ て ゐ る 。 部 ち 略 本 は 問 問 法 替 、 一 一 経 三 心 一 異 問 答 、 ⋮ 経 一 一 一 、 む と 一 括 し て ゐ る 如 き で あ る 。 相 ぞ 並 べ 明 し た 後 に 念 体 渇 を 雷 、 念 、 ⋮ 問 心 と の 一 回、正師団燭は随翠的であり、意締出閣は解読的であって、後者は晩年の作であるこ 五、念品鰐掲龍樹滋の吋造十住昆襲裟論﹂は曇驚章の﹁論説解﹂に封慈して綿織せられたものであり、叉龍樹事駄に於 は稽念不認であるが、念時開備では稽名不退になってゐ e る の は 、 宗 一 組 が 機 急 不 退 か ら 摺 偽 名 不 迭 に 型 連 せ て ゐ る 。 い て 、 られたことを示すもので、 そ の て﹃正像末法和議いの一昔、現行の淳土和讃 あるとして 化そ見 ⋮ 深 議 本 願 興 翼 宗 ﹂ は 、 へと襲ってやり、殊に正詩的閣の閉し万は聖人臨年の借境と箆りがあるので、資話路後と一誌は 諮の始めで なくてならぬ勾であり、叉際情撲でもそり饗 る 。 ねばならない c ア } 主 張 で あ り 、 ζ の立場から網議闘の設を一々反駁してゐられる。 ζ の岩田掃の隷晋にも幾多の示唆 がみれノ、教へちれる怖が多い。然しやはりをむ主張は主観的であって、決め手となるやうな綜観性はないやう 従って問題が決定的になることは恐らく烹難であらうけれども、 々はそれをできる誤り客翻的資料に依て裏づけて ゆ か ね ば な ら な い 。 題 ふに、従来藤前略後とする設が一般的に行はれ、疑はれなかったのは、 からである。熱し 記航行信護大窓いむ設が謹擢とせ 人説、異議未決前等があっ む撰者に就いては、知僧上人齢、覚如上人説、 能魔上人説、蓮如上 、必ずしも従来惇承せられ来ったやうに、費如上人或は存質上人と決定する ζ とができ 河 原 土 文 類 審 来 診 ﹂ に 就 で の 疑 問 一 一 七
吋 淳 土 女 類 凝 紗 い に 就 て の 疑 問 /¥ ない。けれども、若し本議が覚如上入、或は待費上入の援越であるとするならば、経に摘渓師が指織してゐられるや うに、宗髄の滅後
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漫 く 、 た し か に 京 租 面 接 の 議 弟 、 も 生 存 し て を つ 一 舗 が 勝 手 な 臆 粥 で か う し あ ら う か ち 、 だことを記される答もない。突っ の 設 は 、 で は な か ら う か お っ て か ﹀ れ ば 、 一 一 睡 眠 肱 史 的 客 撃 的 な 根 壊 と な る も の で あ っ いろ/\の難鮎も見出され縛るからで ζ オ1 っ て か h る 出 韓 鮎 が 騒 げ い 問 問 題 と な ある。ぞれ裁に私は の詑連安殿前略後の第一の論議としたいの 第 二 に は 、 多くの撰述が、藤本の成立し 部 ち の 摸 越 年 時 で あ る 安 治 一 一 ム ハ 裁 判 以 っ て 、 こ の 続 年 に 多 く の 聖 教 が 棚 供 述 せ ら れ た こ と は 、 部 品 人 の 思 翻 倍 仰 が 欝 熟 し た こ と 、 或 は 大 悲 停 普 北 の ったことは却論であらうが、その的加の外縁として鱒策数閣の絞勢に影響せられるといふ ζ の 額 一 栄 数 機 は 、 山 部 題 と い ふ 党 税 を 失 ふ こ と に 依 て 、 幾 多 の 門 徒 に 分 れ 、 そ の 詩 の止かに止まれぬもの と が な か っ た で あ ら う か 。 借仰上の疑義粉蹴が幾いたといふことは、賓際的には門誌聞の勢力とも絡みあって、 ってゐる宗観的終息の殆んど凡でが、全く信母上の問題であることは、かうした粉凱が知抑制に厳しいものであ こ と の で き ぬ 事 震 で あ る 。 ったかぞ物語ってゐるし、ぞれは純粋で滋剰とした信火の膿えてゐる新興数還にあっては、醤祭のこと三訟はねばな らぬ。そして畿絡は迭に善驚信義絶問題に及び、 ぞれは晩年む宗租令して館情に しめたであらうか。かう し た 中 に あ っ て 、 恐 ら く 京 語 の 念 願 は 、 遺 弟 を し て 如 来 の 教 法 を 、 一 元 議 的 縛 の 念 帥 抑 信 m w を誤らしめてはならないとい あり、そこに老鱗を鞭うって、幾多の製教を書かずにはゐられなかったのではなからうか。鰐消息に見える の高弟である援費、経寛の ふ こ や う に 、 や E「 念 多 念 分 別 事 ﹄ ことをす﹀め ~ 2怪 紗 文 意 ﹄ 、 町 一 念 多 念 文 意 ﹂ 戸 、 、 w ゐなかのひと/\の こ﹀ろもしらぬ、あきましさ経務きはまりなさゆへに、こ﹀ろえさせんとて、おなじこ④ と書き添えてゐられるところに、宗患の意認が滋みとれるのである。そして松谷隔が指摘せられたやうに、三本灯秒﹄ とをたび/\とりかへし/\かきつけたり を見ても、宝二十二章の中、元租相承の設文が九ケ露、善導相示の話交が六ケ露も見出され、宗祖の忌葱類自が彊く 善 導 一 沌 認 の 念 機 に 額 い て い っ た と い ふ こ と は 顕 著 な 事 費 で あ っ て 、 これは関東敢闘を顧みるとき、始めて鎮かれるこ とであらう。そして略本はかうした一の環鈷として撰述せられたもの へ ら れ る 。 て ゐ る に し て も 、 い て は 、 近 判 的 iと た も の へ る ζ と は 、 れ る と こ ろ で あ ら う 。 そ し て 略 本 心 撰 述 や そ 援 に 建 長 七 年 八 十 一 一 ⋮ 換 と す る と 、 そ の 閤 約 十 年 の 年 月 が あ る 。 は、現存の資料だけでは決定的でないけれども、東本願寺本は少くも室荷初期の古馬本であり、一聴講寺本は拝見して 一握肩書の上で合致す ゐないけれども、室町中期の寓本と云はれてゐる。従って之を反謹する吉湾本がないかぎり、 る奥蓄は簿慣用してよいのではないであらうか。そしてその閥の関東教閣の続勢を考へることに於いて、費本の上に、 略本会舎かずにゐられなかった京組の憲懇が揺察されないであらうか。 ζ tま の そ の 中 、 間 の i乙 十八日灘驚聖人都返事 ぞ れ が 建 長 入 年 八 十 四 議 の 樹 齢 捨 患 で あ る こ と が 知 ら れ る 。 認 し て 文 の 始 め に 、 と あ る か ら 、 五月二十六日たしかに見さふらひぬ といふ書きだしで、行信の一念が不離であること巻説、き示してゐられる。第九蓮と第十二通は年代は明かでないが、 呂 月 七
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欝 ふ み 、 器 開 土 交 類 凝 妙 ﹂ に 就 て の 疑 回 開 一 一 九﹁ 週 間 士 文 類 豪 紗 ﹄ に 就 て の 疑 問
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恐らくは建長八年前後と組像されるのであって、第九遁には誓願名競同一の事を記して、 誓願を不思議と信じ、また名競を不思議と信じとなへつるうへは と 記 し 、 叉 第 十 二 通 に は 、 尋仰られ候念梯の不審の事、念悌往生と信ずる人は透地の往生とてきらはれ候らん乙とおほかたこ﹀ろえがたく候 と云ってゐられることに徴すれば、首時関東教圏に於いて問題になった乙とは、誓願と名競、即ち信心と念梯であっ て、それは何を物語るものであらうか。 思ふに、誓名別執の計が闘東教圏にあって大きな問題となったことは、 ﹃歎異釣﹄の第十二章にこのことを論じて ゐ る こ と に 依 て も 察 せ ら れ る 。 ﹃歎異動﹄が唯園に依て述作されたことは圭く偶然ではないのであって、 ﹁ 先 師 口 停 之其信﹂に異る﹁自見之畳悟﹂を以て、他力の宗旨を蹴るものが多かったからであり、然もかうした異義の最初に翠 げられてゐるのが、誓名別執の計である。誓名別執といふのは、誓願を重んじて名競を軽んじ、従って、信心を重視 し て 念 悌 を 軽 観 す る の で あ る 。 そ の 所 立 は 、 ﹃ 異 宗 亀 鑑 ﹄ ︵ 計 ニ ︶ に 、 誓願不思議を信ずる心より二心なく名暁をとなふる機は、南国深ありといへども、みなこれ他力異貫の信心なり、名 披不思議を信じてとなふる機は、曲目深あちともみなこれ他力の中の自力の信心なり とあるが如く、名競不思議を信じて稽ふるは、名指の功徳に眼がか﹀り、誓願不思議の信心でないから、他力中の自 力で透地の往生しかできないといふのである。これは﹃末灯妙﹄の第九遇、第十二週に通ずるものであり、それが形 をかへれば、信行一念の問題ともなるのである。かうして梯智を偏重し、得名を軽んずる傾向は恐らくは宰西の一念 義から影響を受けたものではないであらうか。 凡そ関東教圏に於ける異義には、二の傾向があるのであって、 一は元租門下の教撃に影響されたもの、二は首時の庶民階級に行はれた低俗な民間信仰と結びついたものであるが、これらの間にあって、宗租が念僻信仰の純粋性を明 かにしてゆかれることは、非常な難事であったに違ひない。師に宗祖が一念義の徒と同調せられてゐたことは、塵史 その一面を偏執する徒にとっては、たしかに信心を重んじて念帥仰を軽んずる風潮、印ち偏信の傾 的 に 明 か で あ る が 、 向がでてきたことは雷然である。かうした偏信の傾向がいつ頃から顕著になったかは明かでないが、前述の御消息に 徴 す る 建 長 八 年 頃 に は 、 その問題が切賓となったことは明かで、 そ れ に 封 し 宗 祖 は 、 信と行と二ときけとも、信をひとこえするぞとき﹀てうたがはねば、行をはなれたる信はなしとき﹀て候、また信 をはなれたる行なしとおほしめすべし と 答 へ て ゐ ら れ る が 、 こ﹀で特に注意されるのは、 ﹁ き ﹀ て 候 ﹂ ︵ 元 祖 相 承 ︶ と ﹁ お ほ し め す べ し ﹂ ︵ 己 詮 ︶ の 封 向 で あ っ て 、 それは飽くまで元祖相承を離れて、自己の信仰がないことをあらはさんとしたものである。また第十二週で lま 信心ありと色名暁をとなへぎらんは詮なく候、 一向名抽出をとなふとも、信心あさくば往生しがたく候、きれば念悌 往生とふかく信じて、しかも名競をとなへんずるは、うたがひなき報土の往生にであるべく候 と一五つて、特に念悌往生と信ずることが強調されてゐることは、 かうした偏信の傾向に謝する矯正の深い意趣が一部さ れてゐるのであって、唐本の正信念悌伺が略本では念悌正信偏とせられたところに通ふものがあると云へないであら う か 。 然色唐本の撰述が大略七十五才頃で移ったとすれば、内題には三法を示してゐられるけれども、特に信者を別開し て別序まで加へられた宗祖の意趣は、却て偏執の徒から自見の畳悟を骨張する根操とせられ、愈偏信の傾向を助長す るに遺ひない。勿論、唐本は難解で色あり、叉限られた門弟にしか披見を許されなかったであらうけれども、かうし ﹃ 習 土 文 類 豪 紗 ﹄ に 就 て の 疑 問