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拙論﹃数行信詮﹄に於げる教済論と時間の問題︒︵﹃親鴛聖人論及﹄第三披︶参照
疑蓋無雑の倫理
一 六
開印
土教
への
新灘
努
二 ハ
浮 士 教
J's、、
の 新 説 費
結 城
A 、
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関
の狙 ひ
ー︑本論孜の立場!
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信仰 と一 一品 ふ特 議な 言葉
︑或 は経 験に 立ち こも らな いで
︑浮 士教 を構 成す る諸 要素
︑が
︑近 代的 知
性に於いて一往融持出来る線を出してみたい︒近代の塵史翠や思慢に堪へうる浮土教への基礎づけが︑四伊土教の建前
をくずすことなく可詣でないだらうかと云ふ立場からの私案である︒
2︑静土教の建前
81
j持土教は︑二議封や一一汚刊に於て︑一般梯教より自己を科到しる如く特殊な建詔を寄って
ゐる
︒そ れは 如来
︑
で ︑
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ま 珍ら し︑て
って
ゐる
︒
3︑
この
への 議開
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iこ
の
では
一
つにわかれて提出されてゐる︒それは︑盟史率的疑応と設現準的疑
問とである︒設者は︑現存の阿含を中心とした簿題教より︑どうして静土設が捻れたかと一疋ふ疑問同で︑その結果は︑
母土数を以て外選的要素ゃ︑西方議題の宗教の混入したもの︑或は方喪的指設の第二義的なもので︑諦教としては梼
系的な︑ものだと一疋ふ騎結申告出さんとするものが多数である︒後者は︑逗代的患惟よりするもので︑だとひ翠土設が悌
教の主流であるとしても︑腿史問題とは裂に︑淳土教の骨子たる建前は︑抑制底ぞのま﹀では近代人に受入れられないG
そ
﹄識 は滋 夫愚 婦へ の方 捜諮 とし て知 識人 心近 寄れ ない もの
︑或 は心 を間 引か れて 信心
︑安
︑む や求 めつ
﹀︑ 然も
その骨子たる某一本構滋への不安むため︑信心の確立の出来ないもの︑途
近代人の建議は補土教の て離れ去るも
について︑ぞれ以土爵進し難い障瞭ってしまってゐると云ひうるG
岳︑新課題
11
2虫
ト一 は理 窟の 潤懇 でな く︑ 街頭 に 組市 土教 が涯 面し てゐ る事 震の 題懇 であ る︒ 親繍 織を 得散 し︑ 四叩 土
殺に
︑
ζを寄せて贈る多くの知識人に於ては︑ぞれと習士教の建前を信ずることとは盟問題になってゐるそで寸毅h u α
驚町議人の教義熔組委中心とする異議に闘する結合研究を認識する﹂ζとをうたって︑然も七百思議恐のお待受けとし
て生れた憶謬舎に謝して︑その研究環自の一として︑時代窓議そのものぞ掻数しうる機系そ有った
要議 する とし ても
︑決 して 不似 合で はな いと 湾へ るむ 以上 の如
︑き もろ
/\ の潤 籍中 管内 沈静 へて
︑今 日は 私自 身諮 問問 題 とし て之 ぞ⁝ 反省 し︑ 開探 して みた い
もの
﹂ 建前への疑問問の中︑藤史的疑問に濁する私案は︑ほんの詩索に過ぎないが︑
﹁師
向曜
時機
借仰
む
﹁出度に於げる初嬬期史教の議関する
︿開
附附
胤祭
抽抑
数機
研究
5
︶
︑
する
もの
﹂
︷後
十品
迂品
阜嗣
閥︑
大衆
悌教
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立史
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究所
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いて
︑ 考へ 方的 方向 刊を 鴻ぺ て置 いた ので
︑
ここには時間む都合上麓れないこととする︒
む露関的性格と潔理由持士教的性格について
部開
土教
の
制測 する 疑問 は︑ 車土 教の 有つ 特殊 的性 縮か ら雨 様に 分れ る︒ ザは キヲ スト 教と の監 問︑
一は
揮土
教の建前そのものへの援問と去ふことになる︒
罷じく数済教と一五ふ駄で︑開閉土数はキヲスト教と艦めて類似した性格を有ってゐる︒そのために︑母士教的キリス
ト教 的理 解と 一玄 ふも のが 栢殺 なさ れつ
﹀あ る︒
これ ぞ混 宿さ すこ とに なる と︑ 容ム しい 教の キリ スト 教関 へむ 進出 な
鎚m土
教へ
の新
説魔
一 六
添え教への新説策
コハ
西
どは力議いもの︑無意味なものとなり︑叉不必要なものとしてしまわれるでゐらう︒アメリカの二世諸君と議して︑
特に この 問問 題に つい ての 感を 深く する
︒
キヲスト教との異質的冨閣を︑吾々は害土設自身のためにも確認せねばなら
ない︒その場合︑私は漕土教の翼理能性格を密擦にすることによって︑挺救済教の成立の場の相遣を礎認することが
出来 る
ふ
のも のへ
いでも成立しうる悌数の
これ
は︑
般的知識人から畿せられる所のものであるが︑ぞ爪
於てはどうしても︑如来︑期土︑灘生︑窓生等の嬢系が組織され︑然うした栂教が構成されねばならない︑その必然
性を解明することこそが必要であると患ふ︒今は勿論後者そ問題とするわけである︒
さてここに﹁翼理の串土数的性指﹂と云ひ︑﹁密閉土教の真理的性椙﹂と署したが︑それは一謹伺を意味する告であ
一設 によ く知 られ てゐ る一 言葉 を出 して みる と︑ 大経 に於 げる
﹁令 諮衆 生功
﹁帯 都安 穂微 妙快 撲と 無建 混一 器之 謹
L﹁諸韓関替陵天人と皆受自然強
法旬︑そり他議設
m w ﹁
拐好
肢
の他にも多くある︒然もこれ
々 は
︑
ついての必紫張︑欝ち悌殺に
らうか︒若し静土の経︑論︑揮について︑
徳成就と生空無穏無願之法無作無起銀法強化﹂
の如
き︑
こ
すも
らは︑財団れも鵜簿聖人によって︑そむ著書に引用用されてゐるのであるから︑げ﹀聖人自身の思想内に持率ずるもの
であ る︒ 更に 翠入 自身 の音 葉に よる なら ば﹁ 関嫡 詑如 来と 一如
﹂な ど︑ 之亦 同意 の言 葉が 多数 にあ る︒
・十 却に あげ た一
⁝一
葉の中心部者︑部ち人格的︑秩序的︑有担告な謹系を︑私はここに器対土教的性格と云ひ︑後者︑部ち超人格的︑卒等
的︑無担倒的な韓系︑梯数一般︑或は用組聞きへ饗更すれば︑一般的な患推に入り込みうる真理的な盟系︑それをここに
翼理的性絡と講したのである︒組叩土較的設格は︑ぞのま﹀先に述べた顛土数的建前を構成するものであり︑翼理的性
格は︑その建前の立ってゐる場を示してゐる︒故に同じ救済教でも︑キリスト教と週間土教とは︑場を異にした意味で
異質的ではあるが︑聖遭教と串土教とは︑場を等しくする意味で共に悌教であるが︑その建前を異にしてゐるわけで
ある
︒
︵悌 教各 涯の 圭一 運動 の知 きも
︑
この基盤を確認しないで︑従来の教判的立場のま﹀で︑賞践に於てのみ圭一
たらんとしても︑ちぐはぐな錆持から脆し得ないであらう︶︒
さてここに異理的性格と帯した場なるものは︑もっと突込んで云ふならば︑善導が買にいみぢくも云った﹁諸悌所
謹卒等是一﹂なる如来の悟り︑それは諸悌所詮卒等是一なるが故に︑盛史的に云へば揮等の悟りであるわけである︒
それに封する静土教的性格は︑故に一見︑それを礎石として︑その上に築かれた上層建築の如く考へられるかも知れ
ない が︑ 買は この 雨者 は︑
そんな二元的なものではなく︑卒等是一なる紹封の悟り︑員理が︑人間︵の煩悩︶に鯛れ
たとたん︑盛史的秩序の世界に入り︑人倍開係に於ける長高道徳として︑自己を自ら表現したもの︑それが串土教的
性格 たる わけ であ る︒
習土教的性格の意味するもの
然う云ふ云ひ方をすると︑論理が飛躍したと考へられるかも知れないが︑その飛躍を補填するため︑私は揮土教的
性格について次の知き考察を下してみやうと思ふ︒淳土教的性格︑或は建前と云ふものは︑何れも梯教に於ける貫践
論理︑郎ち誼得道理を立場として成立せしめられてゐる︒如来や揮土が︑貫践修道者の行きつく場所として立てられ
てゐるのは請を待たないが︑然し行きつくまでの過程に於いて︑それらは修道者に封して如何々る役目を果してゐる
かと
云ふ
は︑
それば観経や串土論が教へてゐる通り︑買に観察︒封象となってゐる︒如来や串土が観察の封象となっ
てゐると云ふことは︑賞は知来や崎市土の形相を問題としてゐるのではなく︑それによって何が異理であり︑員賞であ
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土数
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五
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るか︑部ち悟りであるかを示さんがだめでへる︒世自在主併が法麗比迂
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薄 し め た の は
︑ ざ ま に 法 麓 揺 り を 求 め ん と す る 心 を 充 足 せ し め ん が た め で あ ち
︑ る こ と に よ っ て
︑ 法 蔵 は 課 に 無 上 殊 欝 の 翻 義 組 護 し 得 た の で あ る
︒ 叉 麓 経 の 挺 身
﹁換身ぞ翻るを以てむ故に亦棒︑むを見る︑俳身とは大慈悲これなり﹂と稽し︑飾郡身を観るを訟での故に掛
部ち岡県震なるものを見得てゐるりによってもわかるマあらう︒議設の庭路相入によれば︑
の ︑ 心 ︑
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十九蓮華態ぞ観察することは︑ぞのま︑路湾一法旬︑部ち翼賓智葉銀役締法身を観ずるこ
翼賞とは仰向ぞやを確認すること
あり
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祷懇
無銭法身を観ずることは︑ぞのま︑
一 ム
l九種荘緩そ観ずることであって︑
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﹁晃
無量
議伸
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簡棒
正説
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土数
絞に
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にも有名である︒
斯くの如く考へくると︑良理的性格と幣土教的性格とは︑
てコ
二元的なものでなく︑
議設
俳句
引用
し
べら
れて
ゐる
如く
︑
﹁椙
静寂
縦割
無桔
法身
﹂︑
翻ち栴好謹震必静土数的強格が︑﹂邸娘細制法身
+ 品︑ たる翼理的性格たるわけである︒この意味に於て︑先にあげた大盤以下︑論︑揮に及ぶ
m w 土教的性格と興期的性格と
の一令詩紫生め鵠成就と住空無州知無願之法﹂より以下︑議註の一﹁偽物身と繋椙身﹂にことを以って
つながれたそ
部を
︑以
れるべきであるc
それでは攻に︑指好荘蹟朗無初相談身たる悟りが︑
のは
﹃時
々の
同じ
借り
が︑
於て
は︑
般的には翼理的性的情として超人一俗的︑義理的に表現されてゐる
揺来
︑理
士︑
笹生等と︑浮士教的性格む下れね迂な
らないむであらうかが設の問問題となる︒