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うな関係にあったとすれば 先の そもそも禅の立場を哲学的に究明するということが自分にとって可能になって来た理由 を述べるということは 根源的主体性の哲学 において打ち出された 脱底の自覚 という立場から 宗教とは何か における 空の立場 にいたる彼の 哲学する道 の全行程に働いていた両立場の関係を証

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Academic year: 2021

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I

西

西谷は、 彼の 主著と いわ れる 宗教 論集 I 『 宗教とは 何か 』 を 刊 行 ( I 六 I . 六 一 歳 ) し て か ら 「

一 十 余 年 の 長 い 歳 泛 をへて刊行 した宗 教論 集 n 『 禅の立場 』 の 緒 言 ( 一 八 五 年 執 筆 ) に お い て 、自 ら の「 宗教哲学的 な考察 」 の 立 場 を 「 そ もそ も 禅 の 立 場 を 哲 学 的 に 究 明 す る と い う こ と が 自 分 に と つ て可 能 とな つて 来た 理由 」 とし て明らかにしている。 そ こ に 言 わ れ て い る 「 禅 の立 場 」 とい うのは、 「 禅 と い う 立 場 が 自 分なりの哲学的な自覚の道として受け止められてきた 」 と 言 わ れ て い る 「 立 場 」 で あ る 。 そ れ が「 哲学的な自 覚の道 」 と 言われる場合、 こ の「 道 」 と いう 言葉 に は 二 重 の 意 味 が こ め ら れ てい る。 す な わ ち 、「禅の 立場 」 は 、 西 谷 に お い て 、 最 初 の 著 作 で あ る『 根源 的主体性の哲学 』 ( 一 九 四 〇 年 刊 行) 以 来 、 彼の哲学的思惟 がそこ を踏 みしめ ること によ つ て 自 ら を 確かめてきた、 そ う い う 哲 学 的 思 惟 の 「 脚下 」 の 地 と し て の 「 自覚の道 」 で あ る と 同時 に、 そ こ を 踏 み し め る 歩 み が 彼 の 哲学的思 惟その もの の行程 、 つ ま り 「 哲学 的な 道 」 で あ る と い う 、 そ う い う 二 重 の 意 味 を も っ た 一 つ の 「 哲 学 的 な 自 覚 の 道 」 と し て 受け止められて き た と い う こ と で あ る。 従 っ て 、 「 禅の立場を哲学的に究明す る 」 と い う 事 は 、 西 谷 に お い て は 、 た だ哲 学的 思惟 の立場 から 禅と い i の を 哲 学 的 に 考 察 す る 、 つ ま り 「 禅の立場 」 というも のを考察の対象として そ こ に 哲 学 的な 解析 の メ ス を 加 え る と い う こ と を 意 味 す る の で は なく 、 そ う い う「 禅 の立場 」 に 対 す る 哲 学 的「 解 明 」 が 同 時 に 「 解 明 」 す る 立 場 に 対 す る「 禅の立場 」 から の問いかけ、 すな わち、 「 哲学と いう立場 」 に そ れ 自 身 の「 自 覚 」 を迫る 「 哲学的な自覚の道 」 と し て 作用 して き た こ と を 意 味 し 、 そ の 「 自覚の道 」 が 西 谷 の 「 哲 学 す る 道 」 であった こ と を 意 味 する 。 こ の よ う な 性 格 を も っ た「 禅 とい うもの につ いての 哲 学的考察 」 を 彼 は 「 哲学的な究 明」 と よび 、 そ の 特 質 を r 学 と い う 立 場 に 禅 を 反 映 さ せつ つ禅 の 思想 的な 考察 を深 く追 求 す る こ と 」 と 述 べ て い る 。 西 谷 に お い て「 禅 の立場 」 と 「 哲学 の立場 」 と が 上 記 の よ

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うな 関 係に あっ たと すれ ば、 先 の「そ もそ も禅 の立 場を 哲学 的に 究明す ると いう こと が 自分 に と っ て 可 能 に な っ て 来 た 理 由 」 を述 べ ると いう ことは 、『根 源 的 主 体 性 の 哲 学』 に お い て 打 ち 出 さ れ た「 脱底 の自覚 」 と い う 立 場 か ら『 宗教 とは 何 か 』 に お け る 「 空の立場 」 に い た る 彼 の「 哲学する道 」 の 全 行程 に働いていた両立場の関係を証す こ と を 意 味する 。す な わ ち、 こ の事 は西 谷 に お け る 哲 学 的 思 惟 の 根 本 的 自 己 省 察 に 他な らな い。 そ の 「 緒 言 」 に お い て西 谷は 、「 自身 が 禅に 係わ るに 至っ た 個 人 的 な 事 情」 とし て二つ の事 情を明かしている。 一 つ は 、 彼が 西 田 幾 多 郎 の も と で 哲 学 を 学 び 始 め る 以 前 に も っ た 禅 へ の 関 心 で あ る 。 彼は 十四歳の時に父を亡くしたが、 そ の 事 に よ って 、 「 生 き る こ と を 困 難 に す る よ う な い く つ か の 問 題 」 が一度に残された母子 1 1人の 生活を襲い、 彼 自 身 も 病 気 に た お れ た 。 そうい う生 活の 中で 、 青春の最 中にあ った 彼の 生命 か ら は 「 生き る喜び 」 が根本的に 奪われ 、 彼 は「 生 き る こ と の 意 味 」 を喪 失して いった 。「 絶 望 の う ち に た だ と も か く も 生き て いる という だけ 」 の 情 況 の 中 で 、 彼は夏 目漱石 や鈴木 大拙の書物 を読み 、その 影 響 で 禅 へ の 強 い 関 心 を も っ た と い う 。 こ れ は 、「 哲 学 以 前 の 場 で の ( へ の ) 係 わ り 」 で あ る 。 他 の 一 つ は 、 彼 が 別 の 機 会 に「私の 場合 は、西 洋 哲 学 が 禅 の " 行 " に 結 び つ い て い っ た」 と 語 っ て い る r 学以後 」 の 係 わ りで あ る 。 こ れ は 、 彼 が す で に 教 壇 に たっ て哲 学を 講じ つ つ 「 い ろ い ろ な 哲 ■ の思 想を研 究し てい るう ちに 、 自 分 自 身の内に大 きな空 虚を感 じて 来た 」 と いう事 に起 因して いる。 彼 は こ の 空 虚 感 を「 修得した はずのその思想が、 す べ て 本 当 の意 味で 自分 の身 につ いてい ないと いう 感じ」 と も 、 「 自 分 の 足が 地に 着い てい ない とい う感 じ 」 とも、 ま た 「 自 分 自 身 の脚下 に異様 な空 虚 があ ると も言 うべ き状 況 」 と も 述 べ て い る 。 こ の 「 異様な空虚 」 の 状 況 と い う の は 、 彼 の 〃 哲 学 す る " 事 を と お し て そ の 事の 内か ら露 呈し てき た 「 質 子 の 立 場」 その ものの 根本 的な 問題 状況 、あ る 意 味 に お い て 、 「 学 す る 」 と い う 事 に 潜 む 根 本 的 な「空 虚 」 の 状 況 で あ っ た 。 す な わ ち 、 例 えば 西洋哲 学史の 中で は偉大 な峰を 形成 してい るァ一 リ ス ト テ レ ス や へ ー ゲル が哲学知の最終的立場と し て 示 し た 6 "no es is n o e s e o s "という立場、 す な わ ち 絶 対 知 と し て の 哲 学 一 の 立 場 は 、「 哲 学 す る と い う こ と が 哲 学 す る と い う こ と 自 身 に な っ た 」 立 場 であ る。しかし 、 こ の 高 次 の 知 の 立 場 、 「 想 (t he or ia )」 の 立 場 (b io s t h e o r e t i k o s ) は 、 「 何処 か直 接性が欠け ている 」 とい う感じであった。 つ ま り 、 そ の「哲 学的観想 」 の 立 場 は 、 存 在 す る も の一 切 を 包 括 し つ つ 存 在 の 究 極原 理を 理論 的に 捉える 学的知 性が自 らの 〃知る 働き" そ れ自 身を自 知した 、 そ う い う " 学 の 学 " と し て の 高 次 の 知 の 立 場 で は あ る が 、 そ の 立 場 に は 、「哲 学 的 実 存 」 すなわち 「 哲 学 す る 存 在 者 の〈 存 在 〉 」 の 問 題 が 欠 落 し て い る と い う 感じで あった 。 こ の 「 哲 学 す る 自己 自身の存在把握 」 の 欠 如

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という事 態が、西 谷 が 自 身 の 脚 下 に 感 じ た 「 異様 な空 虚 」 と い う 事 態 で あ る 。 こ の 事態 は、 「 哲学 以前 」 に お け る 「 き る こ と の 意 味」 の 喪 失 と い う問 題 が、 今は、哲 学 の 立場 にお け る 〃 哲学 的虚 無" とも言うべき問題とし て西谷 の上に 顕在 化 し て きた 事態 と言 え る で あ ろ う 。 こ う し た 事態の 中で西 谷 に生じ て きた 疑問 は、 後の表現によれば、 存在するもの の事 実性ないし実在性はそもそも知によって、 しか も学 へと 方向 づけられた知によって、 究め尽 くされ 得るものなのか否か、 という疑問であり、 また、 哲 学 が 神 話 的 表 象 の 世 界 か ら "世 界 へ の " そ し て 〃 自 己 へ の "新 しい 目覚め と し て 成 立し た時 、 そ れ は 「 哲 学的 観想 」 と 「 哲学的実 存 」 と が 一 つ で あ る よ う な 立 場 の 上 に 成 立 し た の で は な か っ た の か 、 と い う ® で あ っ た 。 こ の よ う な " 哲学 的虚無" の 状 況 を と お し て 西 谷 に 見 え て き た の は 、 " も の " の現 実存在 に直 接し てい る 5 以 : の 感 覚 的 経 験 の 世 界 (西 谷 自 身 の 生 の 事 実 的 世 界)、 し か し 今 それは 同 時に 、 哲 学 的 思 惟 の 立 場 が 自 ら の 実 存 の た め に " そ こ " へ と 出 て 行 き 〃 そ こ " に 立 脚 せ ね ばな らな い「 _ 以 後 」 の〃 実 在の 実在 的な 世界 " で あ っ た 。 西谷は 、 哲 学 的 虚 無 の 状 況 を 脱 し て こ の 直 接 に r e a l 世 界 へ 出 る 道 を い ろ い ろ と 求めた が、 「 結 局 そ の 道 は 禅 の 他 に は な い と い う こ と を 次 第 に感ず るよう にな った 」 という 。 以 上 が「 哲 学 以 後 の 禅 へ の 係 わ り 」 と 言 わ れ る 事 である 。 因みに 、 西 谷 が 参 禅 を 始 め た の は 三 士 一 歳 の 終 わ り ( 一 九 三 三 年 十 一 一 月 ) 頃と 推測さ れる 。 上 記 の 事 は 西 谷 の「 個人的な事情 」 に は 違い ない が、 し か し 、 そ こ に 生 じ て い る 問 題 は 単 に " 私的な " 問 題 で は な か っ た 。 「西 洋 哲 学 が 禅 の 〃 l u に 結 び つ い てい っ た」 と言われ て い る 事 も 、 西 谷 個 人 の 実 存 の 上 に 顕 在 化 し て き た "C と し て の 哲 学 自 身 の 根 本 問 題 で あ り 、 青 春 時 代 に 彼 を 襲 っ た 「 生 き る こ と を 困難 にす る 」 間 題にも 、 単 に 〃 私 的 " に は 処 置し きれな い近 代曰本 におけ る、そして 近代世 界にお ける、 倫理的宗教的エト スの喪 失状 況とい うもの の反 映が あ っ た 。 こ れ ら の 問 題 は「 個 人的 」 で はあ っ て も 単 に 〃 私 的 " な も の で は な い と い う こ と 、 そ の こ と を 1 番よ く知 って いた のは 他 なら ぬ西谷 自身で あっ たと言 える。 こ れ は 彼 の 全 著作 が証 明一 し て い る 事 であ る。 7 「 思想 なんか は暫ら く傍 らにお いて、 た だ 坐る」 と い う 参 一 禅 の 生 活 を 始 め て し ば ら く す る 間 に ( 一 、 ニ 年 か ?) 、 「 脚 下 の空虚 と呼ん だ危 機もど うに か脱 却 する こと が出 来た」と 西 谷は 述べ てい る。 こ の 事 は 、 彼 が 、 〃 学 の 学 〃 と し て の 哲 学 の 立 場 の 底 を 破 っ て 、 r 〈 哲学 以後 〉 の 道 に 入 っ た こ と」 で は あ る が 、 し か し 、 そ の 「 こ と 」 は 、 彼が いわゆる禅の 悟 り を えた とか 、 哲学 を放 棄し て宗教 の立場 に立 ったと かとい う こ と を 意 味す るも のでは ない 。 こ の 〃 着 地" の 地 点 は 、 む し ろ 、 哲 学と か宗 教と かと いう 以前の 原初的 で直 接的な 自己実 在 の事実 、 つ ま り " そ こ " からその実在 の実在 性の 究明が 、 一 方 で は 、 ど こ ま で も 実 在 的 事 実 に 直 接 し た " 行 " と い う 仕

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方で 、す なわち 本当の 意味 の己 U K 九 明 ( 禅 ) と し て 、 同 時 に 他 方 で は 、その 事実 究 明の うち に 働 い て い る 理 知 が 実 在 の 実在的 な理の 自覚化として自らを展開して行く、 そ う い う 首 パ 摯な学知の哲学 として 、 開 始 さ れ る 、 そ の よ う な 原 初 的 で r e a l 出 発 地 に 立 つ た と い う こ と で あ る 。 西谷 自身は この 〃 着 地 " という 状態を 、 そ れ ま で に も 師 の 西 田 が 言 う 「 直 接 経 験 ( 粋 経 験 ) 」 という事はあ る意味 では わかっ ていた が、 「それでいながら直接経験と いうこ との 意味が 、 直 接 に はわ かつ ていな かつ たと いう 、 そういうよ うな感 じ 」 と い う 言 い 方で 述べている。 こ れ 以 降 、 彼 の 「 人 生の道 」 の 歩 み は 、 後 に 語 っ た彼 の言 葉によれ ば、 「 坐って は考え 、 考 え て は 坐 る」 という 日々の 歩みとな り、 彼の 哲学的 思索は本質的に〃行" と 結 び つ い た " 思 素 的 と な っ た 。 すなわち、 「 哲 学 以 前 か ら 哲 学 へ 、 さらに哲 学から 哲学 以後へ という 道 」 は 、 同 時 に 、「 哲学以 後で あ る 禅 の バ F の 立 場 か ら 哲 学 を 通 し て 哲 学 以 前 の 場 に 還る道 」 で も あり、 「 の 間 に 哲 学 す る と い う 働 き が 媒 介 的 な役割を果た すとい う形 」 で あ る 。 こ の 往 き 還 り の 道 行 き は 無限 の運 動であ る。 何故なら、 生き て在 る人間 の実生 活の 事 実 ( 学 以 前 ) は無 限 に開 かれ た、 ま た 無 限 の 深 み を も っ た 事実 である からである。西 谷 は「 ( ら の ) 人 生 の 道 が 、 哲 学以前 と哲学以後という両翼に輔けられつつ、 哲 学 す る 道 と して開 かれ且 つ維持 されて来たように思える 」 と述べ ている 。 し か し 、 そ のよう に 哲学 以前と哲学以後と を 媒介 し うる哲 学 の立場 、 すなわち、理 知以 前の個 々の事 実世 界と 理知 以後 の 〃 l F 的 世 界 を 「 両 翼 」 と し つ 、 、両 世 界 の 内 と 外 に 立 っ て両 世界を 媒介 する哲 学の立 場 とは 如 何な るも ので ある のか 。 こ の 問 題 を 解 明 す る 鍵 は や は り 西 谷 の " 着 地, と い う 経 験 の 事実にあり、 彼が その 経験 を如 何に 自覚し たかに ある であろ う 。 こ の 自 覚 化 が 明 確 な 形 で な さ れ た の は 、 彼 の 最 初 の * 揚 . 『 根源的主体 性の哲 学』 の r璧吕 」 に お い て で あ る 。 そ こ に おい て彼は、 そ れ ま で の 十 年 間 の「苦渋な模索の時期 」 を 振 り 返 り つ 、 、 自 ら の 思 索 の 立 場 を「 脱底の 自 覚 」 の 立 場 と し て 打 ち 出 し た 。 それ は次の よう に述 べら れて い る。 一 「 わ れ 在 り 」 と い う こ と の 究極の 根底は 底な きもの で あ る 。 8 吾 々 の 生の 根 源に は脚 をつ けるべ き何も のも無 いと いう所 が一 あ る 。 むし ろ立脚 すべ き何も のも 無い 所に 立脚 する 故に 生も 生なので あ る 。 そし てそう いう 脱 底の 自覚 から 新し い主 体性 が 宗 教 的 知 性 と 理 性 と 自 然 的 生 と を 一 貫 す る も の とし て現 わ れて く る 。 「 立脚 すべき 何もの も無 い所 」 というのは 、 実在の実 在性 の場で あり 事実 の事 実性 の場 であ る。 換 言 す れば 、 心 身 | 体 たる 自己の 生が それ自 身にお いて 息づい ている 場であ る。 何 故 無く 〃生 が生 自身に おい て息 づいて いる " という事実は、 哲 学 と そ の 以 前• 以 後 と い う次 元を 超 えて それ らに 通底 して

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い る 生 自 体 の 端 的 な i で あ る 。 こ の 端 的 な w w に 出 で 立 ち 直 接 す る 事 が「 脱底 」 と言 われ、 そ の 脱 底 的 生 の 事 実 が "生 き て 在 る 事 " 自 身 の 内 に 映 じ て く る 事 が「脱 底の 自覚 」 と 呼 ばれて い る。そ の 自 覚 の 当 体 が「新しい主 体性 」 で あ る 。 こ の 「 主体性 」 が 「 新 し い 」 と言わ れる のは 、 そ れ が 、例 え ば 絶 対 有 ( ) と か 理 性 的 精 神 ( 間 ) と か 物 質 ( 然 ) と か と い っ た 、 何 ら か の 根 拠 ( h y p o k e i m e n o n ) を に 成 り 立 っ て い る の で はな く て、 そ の 意 味 で 従 来 の す べ て の 実 体 観 念 を 破 っ て そ の 背 後 に 出 で 立 っ た 所 す な わ ち 「 立 脚 す べ き 何 も の も な い 所 」 に お い て 、 そ の 無 」 の 良 樣 と し て 成 り 立 っ て い る 「 主 体性 」 であ るが 故で ある 。 こ の よ ぅ な 脱 底 の 自 覚 体とし ての主 体がそ の 脱底 の原 事 実自 体の 実相 をど こま でも 自 体 的 に 究 明 し て 行 く と こ ろ に " 行 , 的 体 験 知 と し て の r 教的知性 」 すな わち〃 宗教の立場, が 成 立し 、 原 事 実 自 体 に 働 い て い る 実 相 の 理 ( 実 の 実 相 の 理 す な わ ち 事 理) を理とし て 、 換言すれば、己 事 の 事 理 を " 人 " の 事 理 と し て 究 明 し て 行 く と こ ろ に「 理性 」 すな わち 〃哲 学の 立場 , が成 立し、 脱 底 の 原 w w 自体 におい て自 体的 に生 きる とこ ろに「 § 的 生 」 が 成 立す る。 こ れ が 、「新 しい 主体 性 が 宗 教 的 知 性 と 理 性 と 自 然 的 生 と を 1 貫するものとし て現わ れく る」 と 言 わ れ て い た 由 縁 で あ ろ ぅ 。 その場 合、 二 貫 す る も の と し て 現 わ れ て く る 」 と 言 っ て い る 当 の 西 谷 の 立 場 は 、 自 己 実 在 の 根 源 を 「 吾々 の生の 根源 」 と 捉え うる 上記 の哲 学の 立場 である 。 「脱底 の自 覚 」 と い う 立 場 は「 脚 をつ け る べ き 何 も の も 無 い 」 と 言 わ れ る 意 味 に お い て「立場な き立場 」 で あ る 。 従 っ て こ の 立 場 は 、 自らを も不変 の立 場 とし ては 止め おか ない 無 限の自己超 克運動 を本 質とす る立場 であ る。 こ の 無 限 の 自 己 超 克運 動が 、 先 述 し た「 哲 学以 前 」 と 「 哲学 以後 」 と を 住 き 還りする哲学の 無限の 媒介 運動、 すなわち、 ど こ ま で も 「 実 在の実在的な自覚 」 を 掘 り 下 げ て 行 く西 谷の 思索 的行 に ほか な らな い。 そ し て、 こ の 思 索 的 行 が そ の 行 き 着 く べ き と こ ろ に 行き着き、西 谷 が実 在が 実在で 有る 世界の 実相と その自 覚 の 場自 身を 明ら かに なし えた 、 そ の 立 場 が 『 宗教と は 何か 』 に お け る 「 空の立 場 」 で あ る 。従 っ て「 空の立場 」 は 、 西 谷 が禅 ないし 仏教 思想を 前提に し てそ の 哲学 化を はか った 立場 で あ る と か 、 東 洋 的「 無 」 の 思 想 を 前 提 に し て 西 洋 的「有 」 の 思 想を 批判 的に 超え よう とし た立 場で ある と かと いう よう なもの では ない 。 こ の 事 は 西 谷 自 身 が そ の 著 書 の「緒言 」 で 明確に 否定し てい る事で ある。 「 空の立場 」 は 「 脱 底の 自覚 」 と い う 彼 の 哲 学的 立場そ れ自身 がそ の行き 着く べ き と こ ろ に お いて 開き えた立 場であ り、 「 脱 底の 自覚 」 と い う立 場そ れ 自 身 が 根 本 的 に「 脱底 」 された 、 そ の 意味 では 、 西 谷 に お け る 一 種 の 転 回 ( K e h r e ) を含んだ 立場である。 「 脱 底 の 自 覚 」 と 言 わ れ た 立 場 は「 われ在り 」 の 「 根底 」 な い し 「 吾 々 の 生 」 の 「 根源 」 で あ る 「 無 」 の 自覚 に 立 っ た 立 場 で あ る 。 し か し 「 空 の立場 」 とは 、 明確 に次の よう に言わ れうる 立場 である 。

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すなわち、 空の立場の根本は、 自己 が空であるというよりも、 む し ろ 空が自己であるということ、 「 も の 」 が 空 で あ る と い う よ り も、 空 が 「 もの 」 であ るとい うこ とに 存す る。 『 宗教と は何か 』 にお いて 西谷 は、 近 代 生 活 ( 学 以 前 ) に 潜 む 基 本 問 題 ( 分 と し て 虚 無) を 哲 学 の 立 場 に 媒 介 し つ つ ( 覚 的 と な っ た 虚 無)、 ど こ ま で も ニ ヒ リ ズ ム 自 体 が 指 し 示 す 方 向 ( 理 ) に 沿 っ て 「 何 が 真 に 実 在で ある か」 を究明 して 行き、そ の 「 道程 を挪付ける 」 という仕 方で、 宗 教の 本 質を問題 にして いる 。 そ の「道 程 」 を 通 し て 西 谷 に 開 示 さ れ て き た の は 、 虚無そ のものが空せられ、 「 程 」 が 三 六 o 度 「 転回 」 さ せ ら れ る 「 空の 場 」 す な わ ち 「 も の 」 が 「 脱体的 に 現 成 し て い る」 世界であ った。 こ の 世 界 そ の も の 、 つ ま り 個々現成 の空の 現場 自体は 、た だ行 に よっ ての み開 示さ れ体 現されう る宗教 的な 絶対事 実の場 であ るが、 そ の 空 の 開 け が 今 は 「 実在の実在 的な自 覚」 の 場 の 開 け と し て 哲 学 の 立 場 に 媒介され、 哲 学 的 に 自 覚 化 さ れ た「空の立場 」 と し て 表 明 さ れてい る ので ある 。 自 ら の 〃 思 索 的 行 〃 の 赴 く と こ ろ に 従 っ て 「 空 の 立 場 」 に 到達し た西谷 は、 そ の 後 、 自 ら の「空 の立場 」 が 〃 理 知 の 自 覚 " と し て の 「 哲学 の立場 」 自身 に有す る意 味を つぶ さに 自 己 点 検 し ( 文 . 「 般 若 と 理 性」 ■ 一 九 七 九 年 ) さ ら に 、 そ の 立 場 が 「 哲学以前 」 の 「 情 意 」 の 世 界 を 如 何 に 媒 介 し 究 明 し うるかを自己検証して い る ( 文 . 「 空 と 即 」 . 一

年 ) 。 こ の最 後の 論 文 を も っ て 彼 の 言 う 「 哲学 以前 」 と 「 質

以 後 」 とを媒介する 哲学の 働き は大き く一巡 し、「 哲 学 す る 道 」 と し て の 西 谷 の「 人生の道 」 の 全 容 が ハ ッ キ リ さ せ ら れ た よ う に 思 わ れ る 。 そ の 論文の中で彼は、 「 哲 学 以 前 ( . 意 )」 と 哲 学 と 「 哲 学 以 後 ( 教 )」 と い う 三 つ の 立 場 の 立 体 的 な 構 造連関をほ ぼ次の よう な仕方 で明ら かに してい る。 す べ て の 〈 も の 〉 や 〈 こ と 〉 は 全 体 と し て 一 つ の 連 関 を な し 、 万 物 • 万 象 • 万 法 な ど と 言 わ れ る よ う な〈世界 〉 を 構 成する 。 この 連関 は限 りな く複 雑 で、 生け る 連関 とで も呼 ぶ ほかな いも のであ るが、 一 応 そ れ の 構 造 の 骨 格 を 一 即 多 、 多即一という形式 で考え れば 、 そ の 連 関 の 両 極 に は I 方 で な ん ら 多 な き I 、 他 方 で 何 ら 一 な き 端 的 な 多 が 問 題 と な る 。 こ の 「 多なき一 」 と は 世 界 の 「 開け 」 そ のも の、 す な わ ち 「 I 物も なき絶 対的な開け、 全然 の虚空 」 で あ り 、「 一 な き 芝 と は 「 各 々 の 〈 も の 〉 や 〈 と 〉 が 現 実 の W t K と し て 全 く 別 々」 で あ る 「 〈 混 沌 〉 の 相 」 で あ る 。 こ の 絶 対 的 な「 一 」 と ®# 的 な 「 多 」 と は 、 一 方 は 何 も の も な き 開 け の 「 虚 」 として 、 他 方 は あ ら ゆ る 有 る も の の「実 」 として 、 論 理 的 に は ま っ た く矛 盾し あう 。 し かし 、「 一 」 は 万 象 が 現 成 す る 万 象 の「場 の 開 け 」 として、 ま た 「 多 」 は そ の 全 体 が 世 界 を 意 味 す る

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「 世界の局 所 」 として 、 絶 対 的 に 矛 盾 し あ う 両 極 は 矛 盾 ( 不 回 互 ) の ま ま で 「 物 • 万 事が 現或す る世界 」 す な わ ち 「 対 的 な 〈 事 〉 」 の 世 界 ( 一 切 の 理 路 を 絶 し た 「 事 事 無 礙 法 界 」 ) を現成せ しめて いる 。 両極とい う面か ら言え ばそ の中間 に、 1 即多、 多即一 と規定 され うる回互的な具体的世界の連関、 す なわち 、 連 関 の 筋 道 と し て さ ま ざ ま な 理 法 . ロ ゴ ス を 含 ん だ 世 界 ( 「 理 事 無 礙 法 界」 ) が成 り立っ ている 。 従 っ て 、「そ う い う 理 事 無 礙 的 な〈 法 界 〉 ともい うべき 世界 連関 は、 そ の 理 事無礙 なる ロゴ スの 支配 を限 界づ ける 両極 をも つ てい る 」 。 し か しそ の i は 、 存 在 論 的 に は 、 事 事 無 礙 法 界 と し て 、 r 〈 理 事 無 礙 〉 法 界 と し て の 現 実 の〈 世 界 〉 を 世 界 と し て 可 能な らしめてい る 」 の で あ る 。 逆 に 言え ば、 「 あ ら ゆ る 哲学 的 な 存 在 論 や 認 識 論 の〈理 法 〉 の 究 極 す る 処 に お い て 、 つ ま り 、 …… 理事無礙 な る 〈 法界 〉 の 極 ま る 処 に お い て 、 そ の 法 界 が 1 歩 自ら の外 へ出て 、も と も と 自 ら の 根 底 を な し て い た ものへ 、そ れ 自 身 の「 もと 」 へ か え っ た 所 、 い わ ば 理 事 無 礙 法界の 脱自な自覚の所、 そ れ が 事 事 無 礙 法 界 と い わ れ る 所 に 外ならぬ 」 の で あ る 。 〇 新 刊 案 内

秋 月 龍 珉

『 絶

西

哲 学 』 鈴 木 大 拙 の 禅 学 と 西 田 寸 心 の 哲 学 と に 通 底 す る 宗 教 的 実 存 の 論 理 構 造 を 究 明 し 、 滝 沢 克 己 の 神 学 を も 参 照 し て 独 自 の 宗 i 学 を 構 築 す る 。 著 者 の 畢 生 の 業 績 を 一 巻 に ま と め た 労 作 。 解 説 . 八 木 誠 一 「 禅 思 想 家 と し て の 秋 月 龍 珉」 四 六 判

四 六 ニ 頁 、

I

九 六 年

I

ニ 月 刊 青 土 社 三 、 五 〇 ニ 円 一 11—

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