農村子弟の高稜遙学の機会と
農家階層の關係に就いて
教育学研究室 中 ・里. 勤
1.序
2.研究の動磯と目的
3.学校開放の現段階における高簿学校 4.畏地改箪の問題
り5.・調査の地域、資料と方法 6.調査の結果
ω改革前.
② 改革後 {副 改革前後の比較 7・結 藷
一・, 序 ,
「すべて陶民は……その能力に応じて,ひとしく教育を受ける権利を有する。憲法は,と ノ
ういつているが,実際には家が貧しければ学校へはいけない。磯務教育はこれを無償とす 1 圏 1 , 融1
る。憲法はそういつてい超が実際には,義務敷育が寄附金で支えられている。」これは教育 の機会均等の理念が,経済という現実的条件によつて基本的に欄約されるものであること
を端的に示したもめであろう。しかしながら教育の機会均等が杜会階級的,経済的,堆城 的その他能力以外の一切の条件による僑向を蒙るヒとなく,学校藪育が国民全体に対し均
.等に開放されるtと,すなわち就学の機会均等とジあらゆる地域に於ける学校教育がその
N コ の
内容の質と量とに於て最低必要量を充して行われるととを意味する近代市昆社会の内在的 傾向であり,近代国家は何等ゆの形でこれに応じてきたし・また応ぜざるをえなかつたと すれば,またそれがヒユーマニズムの糟神に正しく副うものであるならば,われわれはあ,
らゆる条件特に経済的条件に於ける障碍を克服して,IHの理念の現i剣ヒに努力し1それを促
進するととが必聖あろう・・. .、 1
教育の機会はより根本的には国家に於ける権力の毒格によつて教育制度として決定され るものであって,「貴挨主義的,封建遣制的勢力の強い国家に於ては藪育の機会orS不均等、
藪育の階級性が強くあらわれ,支配階級と被支配階級・とに対して・それぞれそれにふさわ しい数育が行而れる。これに反して封建遺制の残津の存在せぬ国ではとのような敬育の二.
2 茨城大学教育学部紀要 第三号
重組織がなく,学校系統は単線式となり,教育がすべての匡民に宰等に開放されている形 骸2
である。」
わが9に於ける現在の教育制劇ま学校系統の二重雛が存在せす・学校力9すべfの甲民 評等に聞放された形になつて翻,これが憲灘よつて保証されておるわけであるが・
機会均靴法刻』するととと顯的(経済白勺) ・va保証するととeの聞に献泌ギャップ がti5・1), eれがNSRの隊瀕しけれ1群狡へは行騰い」とゆ悩みとして現れてくる のである。家が貧しくてもその能力に応じてU,としく教育を受けさせる,すなわち教育の
齢塒族附に簾するためには「奨学制蹴薩するととが必獅靭・轟τ鰍
船すべで蝦で行 ・it, 1th費が穣になるととはもつとも望ましibeとである・」わが 国の現実は薇緻育のみならt・Sぺtの教散全額公費簸の理想とは遥かにへだたるも のがあり,また奨学制度の典施も党分には行われておらない家櫃である。・
しがし・X −ffの機会均靴よ嬢質的に保証するためには以上1吻げた魎棊を一歩前進 して,よ)1 IEIIg本的1と「貧しき劇を貧しさから解放するとと,より豊かな家たらしめるこ とが前提として要請され 狽唐ッればなるまい。貧しき家をより豊かな塚にすることは∫ただ
単畔鰍育畷ける機会の均靴憾するのみなら稼劇育,その他一切の鉢1勺人
r権の機会の均等を保証する道につながるものであろう。
離1.宗像識也,宮原誠一ua ;魂あいふれて 194頁 t
t 識・,宗鰍也激献学灘激育行轍腋育政策一u4…5F・ t
註}L同上 116頁
、 二、宿「究の動機と目的
こめ研究は農地殴革,小作料の金納化量耕作権の確立等の一連の農付機勝の改革が行われ る以前には,父も母も兄も姉も誰一人として旧制の申等学校べ進学するととなど夢にも許.,
されながつた零細耕地所有農家,或いは所謂小作階級農家の子弟が,tの改革後進学適令
期にあつたために議鰍育絡了後堂屍新鵬等学校へ僻してゆ嫡くの期観1且
.VたととによPて始められた。との改革以前;純農村では中等学校へ準学し得る家とし得 ない家とは大体に於て区別され,進学可能な家は大凡地主自作階級小燕の場合はそれが.
富裕な商家であったlj ).給料生活者であつ脇〜二μらの家は能力の有無にはあまり 関係な く子弟が連続的に進学して行つて教育の恩恵を受け得渇ようであD,一方進学不可能な家 は大凡堺細耕地所有盤家i小作階級に属する農家であつて,これらの家の子弟には能力が あ・?て室経済的に上級学校の門はかたくとざされておつたように思われる。これは時代を さかのぼればさかのぼるほどはつきりした癖実となるように思われる?一方倭当然の如く
吋樫;ge村子弟の高技進学の機会濃郷皆思の関係に就いて 3
学校に入り,他方は当然の如く入らない(じつlS入れない)という事実の裏に経済的条件 ・ が大きくものを云つていたこと.を見逃してはなるまい。とれらの事実は全く当然の〜二とと レて(或いはやむを得ないこととして)村昆に承認され,教育の機会の不均等に対する是 認または獣認またはあきらめの形として現われfe e
事態は今や一変して伝統的に上級学按とはおよそ豫が逮く,進学は羅蜜的であつたとれ らのtl:の提家の子・弟も大手をふつて上級学校の門をくぐり教育の恩恵を享受するようにな
,つたqまさにそれはそれらの家kの教育史に於て割期的な出來専であるに相違ないし,戦 育の機会均等史に於ても注目に値する事異であるように思われる。との事実は六三三制と,
いう敢育制度の改革とも大きな関連があると思われるが,特に爆地改革を中心とする農村 解撫よつ℃鰯限に襯鵬を許されてib7・titE主はその保有繊る醸1醐限され,
余剰耕地は不在地主の所有耕地とともに解放されて窩藩田耕地所有襲家或いは小作農家の手 比移り,改革以前は全メ耕地を所有せす,或いは極く零細な耕地しか所有しなかつたそれ らρ少作農家が、或る程度の自作もしくは自作鮫小作農家となり,また小作料も高率な現 、
㈱が極く廉鰍金納化となり・しカ・もその小作地は耕作権が確立した等の理由によρて 翠家の耕地所叡よつて徹さ泌経済的条件に変化をきたし・懸楓がまし繍的地
位が安定したととが1第!一の原因となつて生じたように思われる。 ・ 本論文に於ては学校開放の現段階における高等学校と灘也改革の問題を論究レ…次に_
農村を対象とする調査の結果によつて,耕地所有,耕作面積,山林所有等の経済条件から 見た盤家階層が改革前後に於ていかに変化したか,遜村の高校,(旧制中等学校)進単者を・
出せる農家が改革前後に於ていかなる農家階居に属していたか,そしていかなる階居から いかなる妹態で進学していたかをできるだけ明かにして,上級学校進学の機会が経済的条
件(ゴ誕家階府)とどのように開連するものであるか,かつての小作農家の子弟が高校響 : t句能になつたのぼ(教育の機会均等が或る程度とこに実現したのは)遜地改革と関連ある
のかどうかを究明し,それによつて家の経済的条件の変化がその家の子弟の進学の機会に どのように影響するのであるか1戦育め機会均等ゐ理念を現実化するためには貧しき家を より豊かにするということが前捉として要請されねばならないというととを実証しようと
1す6・. ものである。
1 、
・・.三・挙校朋放の現段階に於ける高等挙校 1 第』衣米国戦育使節扇が「日本の教育制度は,大衆と特巌階級とに対して別々な型の藪 髄1 一
育を用意していた」と指摘した通り戦前のわが国の戦育欄度は,羅対主羨的国家権力下の 教育制度が常にそうであるように高度に中央集権化せられており,「学校体制に於ける二
、
4 i蒙城大学教育学部紀要 第三号
鮒勲傾向納祖しめていたe ・CLとレ」・学校のみ離轍に鮒姻評等の思灘 よつて学廊あらゆる人堀購鰍され鮒ればならSa・V・ものであるととを弾校緻
の原睡レ講猶灘購の方策として貫坤澗もなくその難繊戴されるこ ととなつて,撒にはあら噸民の子弟力・入学するとと諭」・、こ鍛灘於脳
機会均等は契現せられていた。中等教育の段階に於ては中等学佼制度と小学校高等科及び
青年学綾を結んだ燃灘育ゐ㈱・二耀として綴せられ,ととに灘禦教鯛
SUがとられて・・kibeである.こζ礁要なこと晦徽も述べてV・ 7」ように「学嫁弊 の条項や学校細の趣旨の如何なる部分にも,学健二蘇統とず襯定肱く謁 戦 修了者は総べで中等学校入牽を志望することはできる制度となつている。それであって,
笑離小挙榔無のうちの一・9tJ五舵度が中騨校教育を完了しているにすぎない実惰 であっ庭」というととである。生徒牧容数に制限あるためとは云いながら,二つの学校制 度縣へ分継るを得ぬその条件雌力匹励てではなくて・そa多くは経済的fie力跡 じてであつたと思われる・「戦後の学校犠民主化政策の轄とするとと砧ヒの鰍 型の学校休系を単線型のそれに改正せんとするととであり」,六三制の実施はまさにその 顛にほかならない.新制申学校の特色は小学痴釘者を全部牧容しτ三ケ年の義緻肯
tr 行V− ・1従来の二蘇統学羅系e改めて中等単校蝉線型学校㈱を樹立したととろに ある。す底ri5ち中等教育の前段階における機会均等が実畢せられ,1特権的性格をもつた旧 . 制中学齢代りla国薙体に開放せられた中学校所言眠衆学校の誕生した4 eろlc e2,る・
さてわれ畝の珈の齢購嚇題はtの次鍛階・舜坊申等鮪の爾階摘 薪鵬騨鰍敵鋤られる・今噺鵬騨校は畔校曝く学校麟とし節らゆ
る境遇にあるもゐもその教育を受けることができる趣旨から,全日制の他に夜間制更に定 時制の制度が布かれているが,問題はことでも制度としては一応そうできているが実質的
保証がないためにそれが簸せられて伽とこ漸あろう・吟日高騨校響者醗
国平均で中学按卒業者の約三分の一となつている」がこの入学者も必すしも能力に応じて ではなくて主として経済的能力が進学決定の紫礎養格となつてk− 1),貧しき家の子弟1ま入
N
学競争場裡に立つを許されていない事築を認識する必要がある。かくして「学校特権化の ・ 問題が高等学校に於て保持されよ うとしてむり,ヒζを民衆中等学校の観念から分離して 註6
藩顧たものの学戯らしめようとする考えカレ般動鶴つてきてib− PJ ・4校徽の晴 礁となつている。課題の解決のためva lct,−r高等学校を普及させて誰でも容易にとこに進
戦鰍うにするばかりでなく掻貌素質をもつたものが轡的鯉由で灘を悪念
しているi実情を根本的に検討して, .これに対する最善の方法が立てられねばならない」で
、あろう・繍郊於て高騨校が龍としてとりあげ弊た帖主たる恥昧嶺ある
亀
中里;農村子弟の筒校進学の機会濃珊皆最肋関係に就いて 5
のであつて・講戦の都市磯山村に於け硯学の不均蝋域い胴一地域に於ても階 級的な就学の機会の不均等を打破してこれを一般大衆へ開放しようとする運動の一礎蕎た
らしめようとする意図が含まれているのである。
。樹新制高等学校を旧制中1等学校と同一段階に於て考察したことは,そのどちらも襲務 i致育絡了後自由進学の機会を与えられている学校として同一一一条件を具備すると考えられた 結:果にほかならない。
識L 文部省;舞一次米国綾育使節団報告露 7頁 . 「
,議i2・海後宗臣;教育の社会基眠 譜乱 同 上
言韮4・ 安藤蘂…左控ノ 教育f切度重堰要
Rl 5.醗髄・近代学校の髄
註6.同 上 註7・同 ・上
16S頁.
170頁
・ 7s頁 註22頁 318頁
:監22−:・S:,・1頁七
四、 農地改革の問題
日本の農民は何蘇に貧乏であるのか,という問に対して歪誕地改草前を問題とすれば,{1}
農家の経営規模が極端に小さいとと一小農制,{2)小作盤が多く,小作関係が近代化されてい 註L
ないとと一いわゆる「半封建的」小作制度という二つの点が進歩的な農業経済学者遽によ ノ つて異論なくあげられている。それほどに耕作面積の大小と小作関係は擬家の経済に大き な影響を与えていた。勿論厳密な意味で農家の経済を調査するには「盤家の耕している耕 単面積,家族数その性別・年令別・作物の種類,・各作物の牧穫商,牧覆作物の販売高と自
.魏臨蛭楓灘註興などの購瑞衣柵食料品の購入高・現餓出赦
支の関係,負1責,貯蓄など」を調査しなければなるまいが1決定的に重要なことは経営規 模の大小と小作関係であij ,農亀改革以肘は特にそれがはなはだしかつたわけである。そ 轍膿民の土地(瞳りは耕士也・それもmaX Oは岬)reSSkする輔iまはなはだしいもF のがあ1,その維持と増加に努力するととななみなみでない。一度或る特定の:艶ま所有と しセ固定すれば,毛の耕地は余程の事惰がなければ移動しないのが常である。提地改革葡 この耕地は農村の地主離i級に侃在し,多くの農家は小作百姓として高率な小作料、(現物納
+
で牧穫高の約二分の一)と地主の恣意的な土地取上のため困苦久乏のどんそこに魑いやら れ,経済的鼎礎条件から生する封建的i膏関係の中にしんぎんしていたわけである自 Stlma後 it日本の社会が虞にデモクラシーイヒするためtzは日本の国民経済の職監の脊稜を なすちの すなわち爆業がその組織酵造に於いて畢主主磯化され,畏村社会が民主化の基
{j 茨城大掌教育掌部紀要第三号 一
律li3.
礎条件を与えられね髄らぬ」観点から昭手脚年12月28日に改正跳課窪法が飾されて 第」次農地改革が,同21年10月21日に改正農地調亀法及び自作盤創設特別措置法が公布さ
1
れて第二次農地改革が実施されるととになつたe第一次のそれに於いては不在地主の貸付 地(小作地)と在村地主の五町歩以上の小作地を・第二次のそれに於いては更¢買牧対独 が張化せられて不在地主の小作地と在村地主の一町歩以上の小作地を「国家が張制的に買 牧し,これを小作入に亮却するととによつて自作農創設を大規模匠実施することと小作料 註4 の金納化と引下げ,耕作権の保設などによる小作関係の調整ζ・この二つを目標として」
笑施されたe 〜二の農地改革爽施の方式に対しては「この農地改革が(地主的土地所有)の 捌1除という点から見て,きわめて不徹底なものであり,かつ款礁的なものであり,官僚政 府は一応進渉的な改良をおζなうように見せかけつつ・じつは勉主制度を温存することに 汲ゐとしているとか・,在村地主に一町歩の土単を残したのは何故か・封建的土地所有を払 拭するためには,政府がいかなる理由をつけようとも,不耕作地主に保有を認める必要が ないとか,土地の無償波牧でなく有償買上の方式をとつていたとと,その買上価格が不当 に高すぎるととは改革の趣旨に合わぬとか,政麿の農地改革は上からの自作盤創設であっ 註5
て下かちの独立騨齪の撚でなかつたとと」等が誠いは「第一次のぞ桝二絶主の手
・によつて,農付の秩序を再建させようとするものであって,ブルs7・ヨア的であるとともに 地主的であり,第二次のそれは,地主的秩序を農村に再建することを明らがに否定するも のであるという点で,第一次のそれと質的な差を認めねばならないと思う。しかし,それ 1・は自雌主義という fi−t・ 第一蝦地改革と績的には覧郷ある』そしてそ硝とそr・
ζの幾地改革の鶉本的な反動性が潜むとヒろであること」等が批判せられている。実施後 の結果に対しては,「この農地改革によつては農業経営の零細性はいささかも解浩しない一L
で改鞭昧上つたものは従前と同勘・或蹴それ駄曙鰻業繹で畝力斗かるt
,過小自作農がそれ自休として高い疑業生産力をもつものでも,とくに生活が裕福であるわ けでもあり燃い〔㌦た「さらでだに日本磯家麟1町であったのが,・二+五年のセン
サスは,その勢が一一ma強められた。絡戦後,経営田畑の面積を増加したものは,絡戦時に 自作盤であつたものと,保有限度以上の貸付地斯有農家とに最も多く,小作農と小作襲自 謎8
作農…とでは,経営面積を増加した者もあるが・減じた者は増力llした者の2倍に蓮している」、
と批判されている。異施方式に対する批判はとも角として,その結果に対する批判は集証
的に究明細るととが必要であろう・ ・、 , 』J
ヒのよう鰍伽蘇として「翠はとの鰍と鞭傭改靴よ箭も・けりし咽,
W欠乏から解放さ肱かつたし磯村はけつして姓化されなかつた」と結論され7…O t・
あるが,この結論の背後には「もし人あ?てマルクス的方法のいみにおいて農業問題を研
1 中里;農村r梯の高校進学の機会濃察階EYの関係に就いて 7
究せんと欲するならば,けつして小経営は漫業において将来性を有するか否かという問題 のみを提起してはいけない。むしろわれわれは,農業が資本主磯的生産方法のなかにまぬ かれなかつたところのすべての変化を探求しなければならぬ。われわれは資本が農業を支 配し,とれを変革し,1古き生産形態および所有形態を存続しえざらしめ,かっ新なる形態 の必然性を生みだすか否か)・またいかにして資本がとれらのととをなすかを蝶究しなけれ、
ぱならぬ。そしてけρして農業を社会的生産の全機購から切断して,それだけ観察しては 註10
いけない」という資本主義と饗藁問題を結びつけて把握しようとする立場があることは明 らかである。しかし一方には「日本の半封建的土地制度を革めたことは,農地改革の大き い功績である.itt地所有総戸数の僅力、18.7%の地主va xつて,農地総面積の斗S.1娩支配 していた歌態レさらに総耕地面積の46.2妬に当る小作地(268万町歩)のうち,斗6.斗%まで 五町渉以上の貸付地途もつ地主によつて支配され,しかも牧稜米の42%をレある物納小作 料に縛りつけられてhた極指が,この改革によつて揚棄されたのである。ζの成果は,搾
, L
、取もしない代りに搾取もされない自作農が圧倒的多数をしめ,残された小作農も,一応,
近代的契約のるとに,収穫価額の0.年%』にしか当らない金納小作料をもつて耕作権を確保 している姿となつてしめされた。との域果は,日本民主化の基盤としてのゴ誕村の民主化に ・ 謎11
ふさわしく・農業改草への地ならしとして商く評価されなければならない」というその効 果をi素直に認めようとずる立場もあるととは見逃してはならないであろう。農地改革が理 想的な形で実施されたとはけつして云えないにしても,それどころか不満だらけのもQで あるとしか云えないにしてもその結果多くの自作農が創設され,約50%の現物小作料が 金納化されて3.7%程度に低下し,更に耕作椛が確立して小作幾の地位ぷ安定した今日,提†
村に昔のままの封蓮的諸関係及び鰻民意識が盗存され一と農村は民主化されす,農民は困苦 欠乏から解放されていないとはそbc)ままに受けとり難いのが農村生活を現実に体験しつつ F,
あるわれわれの契感である。,盤民は困苦欠乏からは解放されていなレ・dしかしその意識は・
昔のままの意識ではない。旧地主階級¢〜口から「昔世話になつた義理も人惜も忘れて懲の・
ためにはどんなつ均たいととでも平気でするレ・頭が商くなつて対等めつも})でいる」と 言われるだけでも農民の意識も生活態度も変つてきたのであつて,表面的には,ま.7e SH,z・
者にはそれとわからなくても,大きな流れのぞとには新し磯民意識が芽生えρつあ初.
■ コ コ ロ
π。理想的ではないがたしかに鰻地改革は襲村目体の民主化に寄与するとζろはあつたと 恵われる。しかし社会階級としての農罠,一全生産槻酵の中に位澄す多ものとしての農民の1 解放の間題はまた別であろうe 』 . 伺本論に於いて終地改革の肘後を分かつ時期を昭和2斗年と25年としたのは,農地改革が
「1♀47−−49年1昭和22−24覇1に行われ,「1949年(昭和24年)秋まで1こ嚇う完了.
8 茨城大学教肯学部紀要 第三号,
Rkl :Js
をみ殖」からである。その後も農地改革が引続き事後整理の形でおとなわれていることは VbうまでもなV㌔
農地改革を特に重覗したのは,研究の動機と目的に於いて述べたように耕地所有が農家
の繍焼嫁すると激たからであつて・これを騨驚ために(経渤が綿藩牧
入額に比例するものとして)第1表を掲げる。とれは改革後すなわち昭和26年の調査であ るため耕地備糀より醗醐榔蜷居が麟断得e−9し椴階づけている・しカ)し高 i
第1表 雛也所有階層別遅家戸数と濃菜 経営規模別農家戸数と農業所得状況 所得状況 (単位円) (単位円)
豊叢麟蜷{一戸鞠
\闘別跨塑Uの1灘醐
無所有
9反以下
.s反・−5反
5反一;町
1町一一1.5町
1・5町二2町
2町・−5町
計
711 :3256」S 9°i
コ ロ
10.4Ti 4.50 4100_8471 ・
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醐、僻ゆ時代はその逆ではなカ・つたかと思われるレかつとの段階がより以上はなはだ しかつたものと思われる回一
註L大内力∫日本資本主装の農柴問鮒 ・ 6頁 #li2・・国松久弥 学生葺舷の轡き方 :,』 4領 骸3.前掲書∫大内,農業問題 , ド219頁
瓢大内一 力 日本餓の糎 245頁
E.1 if.前掲es ;大内,鐸…業問題 240・251・254・260・270頁 ,
、 r
中鱈農村手弟の高核進学の壌会膿家階駆勅麗係に就いて
註6・卑藤康男 農地改革の諸問ge 註7・前掲掛∫大内,農業問題 註8・前掲犠}∫近藤,譜問嗣 註9.前掲韓あ大内,艮業問憩 註1⑪.同 」三
註1]・木村靖二距農地法精鋭 謎12・13前掲書;大内,母業問周 註14・資料は騙査のところで示ナ
8・20頁 2S4頁
3:S・:16頁 、
皿頁 v頁
:N
268. 217頁 ・
9
五、調査の地域、方法と資料
{1}地 域.F 1
との調i査は本縣西茨城郡南川捉村に於いτおこなわれた,その限りに於て毛の結果は此 の地城に於い七のみ正確臆味をもつもゐであり,一般論と勧えぬこと勿論である。本 地域を調査対象とした理由は・(1)本地城が義務数育絡了後進学すべき上級学校の所在地と して・水戸・・笠間・石岡,土浦を有して通学上特別な制約を受けていないこと,{z}立地条
件識業騨撫薦に於いて膿槻性樺榔かてそのモデルとして鰍曜る等
に由るものである。
本地域は常磐線岩間駅の東方約6粁に中心地をおき,渦溜川南岸に副ρて擬ね短形歌を なしている。昭和26年の調査で総面積1769町渉(17.5平方粁),中水田187町歩,畑509町 歩・中林476町歩でその割合は約3・9・8で,水田は殆んど一毛作地である。農作物は米麦 作を主とし・「目『轄,.大豆・読茶類がとれに亥ぐ。近年畑地の中に相当樹園地として桑樹栽
.増がなされ養蚕業が煙草載培とともにおとなわれている。昭和28年の調査で世帯数820で その殆んどが農業を営む・入口男2177人・女2263人・言曲O人でA口1密度は一挙方粁.253 人の割合である。学校は小中各一校でほぼ村Q中央に位置している。経済力は茨城縣の農
村として中位であるが,思想的には保守的傾向がかなり強い歌態である。
㈲ 方法ζ資料 一 、 『 1
調査の条件規定や目的は研究の目的及び学校開放の現段階に於ける高等学校,農地改革 t
の問題等に於いて述べた程度で雀略する。
■ 調査の第一段階では昭和10年度以降28年旋まで19年間の本村出身の総べての旧制中等学 t
校(中1学,師範一部,農工商業学校,女学校等)及び新制商等学校進学者がその入学校名
入学年践家庭の現在め隙及び筆頭X名とともに調査さ締・その具㈱肪法は中学生
の全村家庭訪問謝込う依頼の形でおこなわれた。
10 茨城大学教育学部紀要 第三号
調査の第二段階では農地改革前の農家の耕地所有(水田,畑を区分)、 山林所有に就い ては村役場班藏の随租名寄側により,また改革前の耕作面積に就いては同じく「昭和 21年9月1日現在,・縫地調整法第十乖条ノニ第三項第一・二・三号昌依ル南川撮村農地委 員会選挙人名簿一により調査された。地租名寄帳の取扱いに就いては蟄家を基準としたため
に甦寺所有,村有地,トウヤ組所有の分を除いたとと勿論である。農地改革後の耕地,山 赫所有に就いては同じく「土地評価票,昭和26年度」により,耕作面積に就いては同じく
「昭和26年6月 1日現在,農業委員会選挙入名簿」により・.前述(四盤匝改革の問題詫 14)の農家所得に就いては同じく「昭和26年度農業所得金額調査台幌4によ,各農家に就 いて調査された。
調勤第鍛階で眼地改革轍蹴いて至農家齢地備,経営規ec・ thオ*fifr有1τ御 つて醗に分類し凝地改革前のものに第一麟で謹せる進轄の軋昭和o年xo昭
x和24年までの者の家庭を対照して位置づけし一改革後のものには昭和25年より28年までρ .入学者の家巌を対照して位置づけした。 ▼一 電
調査の第四段階では調査対薮全農家を自作,自作兼小作,小作兼自作及び小作に分類す るために,改鞘蹴いては前違の「疇・21年一勲委員会選挙人名簿を」改革後蹴
、いては「跳轄票」及び「小作ナ僻所鰍況調査劃欄査し・その・・kfil i i EL; c革繊の 入学者の家庭を対照して位置づけした。
六、調査の結果
1{1)昭和10年度以降の旧制中等,瓢制高等学校進学者に就いて。
1 コ
第2表 昭和10年以降進学者(数)(率)及び県の進学率との比較
■
轄…学鞘度数校数 年進小卒
障螂}県進学率
圭ド畳
836呂i74 聡τ鶉「蕪
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1 進学者数 コ び
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( )内の数字は非耀3ξ田身巻をモれだけ、含teことを示す。
申里;農村子弟の高校進学の機会と農家階層の関係に就いて 11
昭和10年度以降の巡…学者1数299名(うち非農1家拙身・者14名),これを饗ま池改革前後に分け ると前177名(うち非農家7名),後122名(うち非農i家7名)で,とれを年度聾llに進学者数,
率を見ると第2蓑の如くになる。都分的に縣平均と比較した。 一
進学率は調査の始期よりも昭矛旧2年になると急に向上レ・一且下つて17・1S年頃より再 び高くなつている。改革直後の25年は24年と比較して約2倍に遙し,若し理論通りならば 農地改革が農村子弟の進学に役立ったe.とになる。しかしとれを単純に読明することは危 瞼であろう。認年度は最高の31%に蓮しているが,縣平均と比較すると段違いに低い傾向 を示レている。 1
(2)改革前 . v
〈1)耕地所有階居別農家戸数と耕地,山林所有状況.
農地改革前本村の耕地,山林はどのように所有されていたか,それを一表にまとめたのが 第3表である。本表を通して窮一に耕地(耕作地に非す)を持たない饗家,或囚ま3反以 第3表 農敬前耕也所有階層別堤家戸数,耕地及山林所有状況 (単位反)
一戸平均 所有耕地
L331 卜3.928
7.3s9
所有水田
_欝一 全水田に 対する男
・5L32}玉1 2、元 46.521}
1109、72S
O.4241
2.83 O.907
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1鼎9.5S):S
,:s.誘
3 :16.820 5.87
一戸平均 所有山林
2.5n
1.257 9,S.S27 2.55 14煬d・』59ドΩllilll
1町一1.5町
1.5町一:町
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2町一3町 1015,£4⑪43
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110S.0491 29 38.036
4.70 19,.24 5町一一一10町
Io町以上
計
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1003.907 14 ユ7.tjo 2.27
517.OO S 3
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617 100.00
9,02 57:s3.945 100.01
制5.167 11.f Ofi Is.56 72.。651糊。5!27.s79 20.98
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9.雪93 2{}壬.5〒4
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10.:IS 731.49ユ 18.S8 757,682 19.56 618.602 15.9 7 闘12.429
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5734.4go!
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10e・o⑪1
、
12 茨城大学教青学部紀要勢三号
下の農家がいかに多いかが認められよう。.全農家戸数617戸中210戸すなわち34%が耕地の 所有名義を持つていなかつた事爽である。とれらの盤家はその殆ん1どが純小作農家であつ
たことも認め難くない。3反以下の農家も戸数は19・ 61%の割合を有しながら所有耕稗の計 は全所有耕地の僅か2.81%しか占めえす,.その平均耕地所有面積が僅か1・331反であつた ととhgうかがわれる。第二に丁or−一町歩輩限界として,階暦が大になるにつれて戸数め割 合が減少して所有耕地の割合が増加し,階月}が小になるにつれてその逆の現象が認められ
る。2−3町級になると6.9フ%の戸数で・18.23%の耕地を占め,375町級になると2・27%の 戸数で17. 6e%の耕地を占めているeととから下贋階屈は必然的に小作農家となり・上府階 層は自作及び地主となつていたととは明瞭である。耕地のうち水田と畑の割合は階贋毎に
.特別の齪は認められない.山翻御ま3反以下硝居が耕地備の齢に多いというlk か大体均合いを保つている。総じて大きな階居に耕≠也,山林が偏在し・下暦に不足してい たととは事実であり,これがまた醗家の経済lz mo当反影していたと思われる。
㈲ 耕地所有階暦別にみた襲家戸数と進学者数。『
麟前の耕地所鶴窃膿家戸数と進学者数を年1;ES・]t・c組合せたの鱗帳である・本
Xrcよρて鉗仔弟の上騨難学の機会麟地備の多少と砒例鵬形で示さ麺い
た事が明らかである。特に調査の始期である昭和10年より16年頃まではとの傾向が張い。
1町以下の暦に進学者は僅か8名,これに反し1町以上の潜は44名を出し.tlnるeそれぞれ の戸数の創合は74. 32%と28.69%であつて進学者の割合とは逆である。とれによつてもい
かに耕地肺(従つて縣の経済力)カ・子弟礎学と密撫鵬しかた棚瞭である・
断・1S−19獺よ撫備及O・3反以下の脈礎学者が現棟るよう1噸つたがその
戸数の割合から云えばまだ問題にならない。しかし1の現猿は「職寧中1941年(昭和16年)
産米から供出のさい地主の保有米だけをみとめ,それ以外の小作米は地主米価で換筑して 代金納をおとなわせることIZよつて,ゴます小作料がなかば金納化されたのであるが,その 場合米ρ生産者価格がぜんじ引あげられたにもかかわらす地主米価はだいたいすえおかれ . 註1
たために,小作料の契質負担はかたb低下していた」ためではないかと推定される。また
此の醐に膿樹ンフレ湘当に灘レ・隙騒はそ獅いちじるしく増力nして.
Vるがと囎雌物鮒曜町もと一9:くもの働」mva「難撚がと炸い轟じる
・しく∵しかも昭和16年以降は農撒入を紳として鮒最大゜u入源となつてib 7・」』燭 零細艇,小作農の立揚が些か安定したため とも推濫される。至体的傾向では一町以下の唐 が戸数71.32%セ蓬学者24.71%,一町以上の居戸数28.69%で進学者75.29%であつて・昭 和24年までの間,この村では耕地を多く.所有している農家の子弟は教育の機会に恵まれた が,所有せざる農家のそれは教育の機会に恵まれないζぐが立証された。
「裡 農村 彿の高校進学の機血と農家蘭のOS係に就いて 田
第4衷.農改前耕埴所有階厨別最家戸数と年度別進掌審数
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如 経営規模(耕作面積)別盤家戸数と耕作面積,耕地,山林所有歌況
:改革前の農家経営規模別に農家戸数胡好乍PtPt,耕地,山1*の所有駅況を分類したのが
第5葬である・本表によつて獄の経営規模易囎層は纏備齢と異勧・阪司町・.
1町一一1・ 5町の居に集中し七おり,この居の中には耕地は塗く所有せずに小作農家としてこ こ ge位置する者が多いととがわかる。階居頭1町から上暦に向うに従い戸数の制合に耕作 面積・聲地!山桝所有の劇合が増し・下層に向うに従い戸数が多くなり灰有が減少するこ
とは{イ)の場・合と同様である。 一
㊥ 経営規模別農家戸数と年度別進学者数
改革前の経営規模別襲家戸数と甦学者数を年度別に組合せたのが第6表であつて,これ によると経営規模と進学者数が比例している.阪以下の届では昭和17年まで1名の進学春 もなく,3 St−一一5反の層で唯1名である.とれに反して5反以上になると進学者が多くなり 特に1.5町一一2町の居に甚だ多.くみられる。全休的傾向は(ロ)の場台と同様で経営規模の大き
14
\
.獺大学鮪糊骸第ξ号
第5表 濃i改前謹営規模(耕作面桜)別渓i家戸数,耕作面顧・耕地,
山林所有状況 (単位反)
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第6表 f…地改革前経営規模・(耕作面桜)・別農家戸数と年度S4進学者数
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中里;鮒子弟の高校進学の融膿郷皆幽関係に就いて 15
豪徹の鞭となつ嬢猷聯121年9月1日現在のものであ肋めに讃潜分類が聯II。
年頃と比較し相当1写開きがあると類推されるととであるeすなわち,地主にして耕地の大一 部分を貸付けし・不耕作又は極く僅かを耕作していπ農家が改革前に耕地の返還を要求し て,相当の耕作をするようになつた傾向があるから,厳密な意味では経営規模が小さくて も,駐の場合は響者縄つと多く現われたろうと思隷る.とれ1鉢表によ擦船
れない。
{*}山林所有階暦刎雌家戸数と山林所有釈況並びに年度別進学者数
ノ改革前の11淋駈有階居別ts家Ji数と 山林所有歌況並びに年度別進学者数を組合ぜたのが 第7表である。とれによるとやはり山林所有が極めて偏在していた都は一目瞭然である。
一町歩を限界にして戸数∫と所有の割合は逆比例的な形を示すととω⑭と同じ。もつとも極 端なのは無所有が262戸で至体の42.斗6%の戸数を有し,3町一一5町の唐では26」:i , 4.21%の ,
戸数で山林は18・23%を占め,5町以上が23戸で3・73%の戸数で斗1・37%の山林を新有し,極 端に山林所有が或る特定農家に集中していたわけである。
山林所有階暦と一蓮学者数の紅合せをみると,やはり一町歩を限界として上下に於いて戸 . 第7…表 濃埴改革前,山林所有階層別農家戸数と年度別進学者数 .
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