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釜灘蝶鰹英国救館の糖史的意義
教育学研究室 三 好 信 浩
〔1〕序言一本研究の意図一
〔皿〕1834年の救貧法改正とその教育的背景
〔1)救貧法改正論と貧民教育論
② 王立委員会の報告書
〔皿〕ケイ・シャトルワースの救貧法学校改革案
(1)教育の視察と実験
② 地区学校計画案
〔IV〕救貧法児童の教育に対する救貧政策の展開
(1)救貧院学校の改善
② 独立学校と地区学校
〔V〕一救貧法児童の教育に対する教育行政の接近
(1)教員養成への助成
② 視学官による関与
〔VI〕結語一救貧法と公教育一
〔1〕 序 言一本研究の意図一
本稿は,「英国救貧法の教育史的意義」を,特に公教育制度の成立過程において考察し ようとするものである。英国の公教育制度は,1833年の国庫補助金交付を端緒として,18
39年の枢密院教育委員会(Committee of the Privy Council on Education)の設置以後
本格的に成立への過程を辿り,1870年代の初等教育法(Elementary Education Acts)に よって確立を見た。従って,本稿は初等教育法制定以前の30余年間を取り扱うことになる(1)
が,その中でも特に,1834年の改正救貧法(4&5Will.】V, c.76)以後の救貧政策の展開
及び枢密院教育委員会設置以後の教育政策の展開を中心にして,両者の初期における関連 の考察に主眼点を置くため,考察の時期は1830年代及び40年代が中心となる。本稿は,次の2つの研究意図から作成される。その第1の意図は,「英国における救貧 法と公教育の歴史的関連」を明らかにすることである。英国救貧法史の研究は,従来,社 会事業や行政学の立場から,また最近は,福祉国家や社会保障への発展の道程を明らかに
したり,社会政策の本質構造を明らかにする立場から,進められてきた。しかし,これを
(2)
公教育との関連において考察した研究は,少なくとも我が国においては,まだ公にされて
54 茨城大学教育学部紀要第十三号
いないように思う。それは救貧法と公教育の関係が,例えば救貧法と社会保障の関係のよ うに,直線的な論理や証拠で説明できないことに起因していると考えられる。それにもか かわらず,筆者があえてこの関係の考察を試みるのは,次のような一つの仮説に基づいて いるからである。即ち,古く14世紀にその起源を有する救貧法は,その長い歴史において 常に臆の問題をその中炮飢てきた・法鑓服受ける者の÷は・どのH寺代におい ても,17才以下の未成年者であり,彼らに対しては,救貧法の枠内において,何らかの意
味での教育的対策が講じられてきた。その教育的対策は公教育に先行し,公教育の成立期 (3)
にはそれと並行し,公教育の発展とともに漸次公教育の中に吸収されて解消して行った。
この意味から,救貧法の発展を単に公的扶助の系列においてだけ見るのではなく,それが
「予防的・建設的制度」の発達を促進した点に,より現代的意義を認めるとすれば,予防
(4)
的・建設的制度の典型である公教育制度へのそれの発展,つまり「救貧法から公教育へ」
の発展を問題として提起することは,いちおうの仮説として成り立ち得ると考えるからで
ある。
この仮説は,勿論,厳密な論証を必要とするが,その際,次の5つの画期的時点を取り
上げることが可能である。(ωと②については既に若干の考察を試みた。⑧は本稿において論述
し,ωと㈲は今後の研究課題である。)
(i)エリザベス救貧法の教育史的意義一1601年法を中心として,貧民教育に対する国家責任の理 念の萌芽,特に強制課税・強制徒弟等の諸規定とそれの教育への影響等。
(5)
(2)教区徒弟制度と1802年工場法一救貧法と教区徒弟と工場法の関係。1802年法の教育条項と教 育立法への影響等。
(6)
(3>改正救貧法下における院内救助児童の教育
倒初等教育法の制定と救貧法下の児童の教育(5)20世紀初期の救貧法の解体と公教育の発展
本稿作成の第2の意図は,救貧法補助委員(Poor Law Assistant Commissi oner)とし
て救貧法学校(Poor Law School)の改革に貢献し,引き続き枢密院教育委員会の初代の書記官長(Secretary)として,公教育制度の樹立に寄与したケイ・シャトルワース(J.R 齢
jay−Shuttleworth,1804−1877)の思想及び業績を明らかにすることである。ケイは,救 貧法補助委員時代,特に教育問題を担当し,内外の教育視察や教育実験をもとに救貧法学 校の教育改革をなすとともに,その改革案を救貧政策の中に反映させた。この体験は,彼
の公教育論の基礎となり,更にそれは教育行政官としての行政的諸措置の中に実を結んだ。
「英国公教育の父」「英国国民教育の先駆者」と呼ばれるように,公教育制度の樹立に幾 (7) (8)
三好・釜魏盤譜畑救鰍の鞘史的醗 55
多の業績を残したケイにとって,救貧法学校の改革はその出発点であると同時に生涯の課
題でもあった。しかも,ケイは,救貧法の改正と枢密院教育委員会の設置という,いわば,
救貧行政と教育行政の新発足の画期的な時点において,両行政分野に関係し,貧困児童の 教育の課題に取り組んだため,彼の業績を研究することは,同時に筆者の第1の意図であ
る救貧法と公教育の関連の考察に対して,幾多の重要な示唆を与えるであろう。
〔皿〕 1834年の救貧法改正とその教育的背景
(1)救貧法改正論と貧民教育論
B.サイモンは,1834年の改正救貧法を「マルサスの唱道した方法で貧民を処理し……
社会問題に対するベンサム学徒の方法を要約したもの」と評した。確かに,マルサスの人
(9)
口論及び賃金基金説の立場からの救貧弊害論と,ベンサムの立法及び行政に関する学説か らの救貧法改革論は,ともに救貧政策の転換を必然ならしめた改革原理であった。その詳
(10)
細については,いま立ち入って論ずることはできないが,本稿で特に注目したいことは,
これらの救貧法改正論の中において,救貧法下の児童に対する教育論が展嗣したことであ
る。
まずマルサス(T・RMalthus,1766−1834)について見れば,彼は主著「人口論(An
Essay on the Prlnciple of Population,1st ed.1798)」の第3版(1806年)以降,その第
3篇の第5章から第7章において,救貧法を批判し,「救貧法の第一の明白な傾向は,食 うべき食物を増加することなしに人口を増加せしめる」ため,「救貧法は労働階級の賃銀 を極めて顕著に低下せしめ,これらの法律の存在しなかった場合よりも,彼らの一般的状 態を劣悪ならしめる」と述べ,従って,救貧法を「徐々に廃止」し,労働者に対しては,
「唯一の道徳的手段である結婚における戒慎」を要求すべきだと結論づけた。このように
(11)
マルサスは人口論から出発して貧民救済が窮乏の減少に役立ち得ないことを訴え,真の対 策は救貧法によってではなく,貧民自身の道徳的抑制によって行われるべきことを説いた が,これらの真理を貧民に教える手段として,彼は教育の積極的な意義を認めたのであ
る。
「人口論」の第4篇第9章において,彼は貧民救助と教育に関して次のように述べた。
「我々は貧民について莫大な金額を浪費してきたが,それは常に彼らの貧乏を甚だしくする傾き があったと考えて間違いない。しかし彼らの生活条件を真に改善し,彼らをより幸福な人間,よ
り平和な人民にするために,我々のなすことのできる恐らく唯一の方法である彼らの教育と,彼 らに一番関係の深い政治上の真理を彼らの問に広めることについて,我々は憐むほど投げやりで
56 茨城人学教育学部糸己要 第卜三り畠
あった……人民の教育に反対してこれまで主張されてきた議論は,私の見るところては,狭量で あるのみならず,極めて根拠薄弱である……良き政治が祉会の下層階級の分別ある習慣と自尊心 の向上に効果あることは前に述べた。しかし,この効果も良き教育制度なくしては常に不完全で あって,事実,人民の教育を閑却した政治は決して完成の域に近づくことはできないと言ってよ
い。1
(12)
このような論旨から,彼はアダム・スミス(A.Smith)の提案した教区学校 (parish school)の設置を支持し,そこでスミスの提案した諸教科一幾何学及び力学の初歩一に加
えて,人口の原理や抑制の道徳を教えるべきだと主張した。即ち,教区学校は,「下層階 級の禍福は主として彼ら自身に依拠するという真理を説明するとともに,早期教育と思慮 ある報賞の分配によって,青少年に禁酒・勤勉・独立・戒慎の習慣及び宗教的義務の正し い履行の訓練をなす絶好の機会」となると述べ,「このような教育のもたらす利益を授け るのは政府の権限内にあり,それをなすのは疑いもなく政府の義務である」と主張した。
(13)
18α7年に書かれた「ホイットブレッドへの書簡」において,マルサスはホイットブレッ
ド(S.Whitbread)の教区学校法案を支持して,「貧民に教育の恩恵を拡大しようとする貴
殿の計画が成功することを,いかに私が熱烈に期待しているかは,貴殿も既にご承知のこ1 とと思います。」と述べた。この法案は,はじめは,1807年2刀19日に下院へ提出した救(14)
貧法改正法案の・一部に含まれていたが,4月17日に修正して提案された時には,4部から 成る法案の第1部としてまとめられていた。ホイットブレッドは,貧民教育を将来の救貧 法改正がもたらすであろうあらゆる利益の「第1動因であり巨大な基礎」であると見倣し
た。彼の計画では,各教区の貧困児童のために教区学校(parochial school)を設置して7
才から14才までの間に2年間の教育を与え,その費用は地方税から支出し,牧師や教区役員が監督し,治安判事が法の執行や教員の任命等にあたることになっていた。法案審議の経
過及び賛否両論についてはJ.E. G.モンモランシーの記述があるが,結局,法案は土院@ (15)
において否決され,その後の教育に関する立法活動を結熔の状態にする一因となった。
つぎにベンサム(J.Bentham,1748−1832)は,1797年に救貧法に関する2つの論文を公に した。その1は,W.ピットの救貧法改正法案に対する批判であって,その中で彼は貧民救済
(16)
が結局怠堕な貧民を作ることになると論じた。その2は, Young sAnnals of Agriculture
@ (17)
という雑誌に連載した Outline of a Work entitled Pauper Management Improved と 題する論文であって,パノプティコンと呼ぶ円形獄舎の原理を適用した作業場(industry一
house)に貧民を収容して合理的・科学的に貧民を管理することの原理と方法を詳論した。@ (18)
特に,その第2部第2章において,彼は,教育の効果を挙げるために児童を成人から分離
公教育制度の成 英国救貧法の教育史的意義 57三好: 立過程における
する必要があると述べ,また第12章では Pauper Education の見出しの下に, 「被救
(19)
済貧民(Pauper)の名称で呼ばれる民衆が社会の大部分を占めており…彼らの実情は普 通一般には教育論者から看過されている。その理由の一部は,これらの階級が教育論者の 注目に値しないこと,また一部の理由は,教育論者の理解する範囲内に彼らがいないこと
である・・教育の正しい目的は,人生の正しい目的,即ち,幸福(well−bei㎎)と異なるも
のではない。ここで問題とする幸福は,一部は教育される佃人の幸福であり,一部はCompany の幸福である」と述べた。
(20)
N.ハンスによれば,ベンサムの教育論それ自体には特筆iすぺき独創性は認められないが,
教育に対する立法及び行政の理論に関しては,彼は英国教育の偉大な先駆者であった。こ
(21)
の評価は彼の救貧法論に関しても妥当する。即ち,彼の提案した作業場は,J.ベラーズや
J.ロック等の提案した施設と共通する点が多く,特に彼の独創になるものとは言えないが,
(22)
彼の救貧行政に関する提案は,1834年の改正救貧法の指導原理であった。この意味から,
晩年の著作「立憲綱領」に示された中火政府の機構及び権限,或は中央と地方の調整等に
(23)
関する理論は,より一層重要な意義を■有すると考えられる。その中で提案された救貧大臣
(Indigent ReHef Minister)や教育大臣(Education Minister)等は「20世紀の政府機構
に通ずる先見の明あるもの」であった。彼の提案は,彼の理論の継承者,就中,救貧法におけるE.チャドウィックと,教育におけるケイによって,1830年代における両分野の行政 (24)
改革に移し入れられた。
(2)王立委員会の報告書
19世紀に入ると,初期救貧法の欠陥や矛盾,例えば,救貧税の増大や救貧行政組織の欠 陥等が明白になり,産業社会に即応した新しい救貧法が要求され始めた。特に,経済的自 由主義が進展し,ベンサマイトの合理的行政による社会改良の思想が普及するにつれ,救 貧法改正は焦眉の問題となってきた。南東部に起った農業労働者の暴動や,選挙法改正に よる中産階級の政治権力掌握等が直接的な契機となって,1832年には,現存の救貧制度を 調査する目的で王立委員会が任命された。9名の委員と26名の副委員から構成されるこの 委員会は,直ちに調査を開始し,その調査結果及び改善策を1834年に一般報告書として公 にした。
(25)
ウェッブ夫妻(S.&B.Webb)によれば,この報告書は次の3つの原則に支えられて いた。即ち,
(i)全国的統一の原理(the Principle of National Ur旺fomユity)一貧国者の処遇を全国的 に均一化し,各教区の較差をなくすこと,従って,救貧行政を中央で統制する機関が必要となる
58 茨城大学教育学部紀要 第十三号
(2)低位処遇の原則(the Principle of Less Eligibility)一救助を受ける者の生活状態は,救 助なしで生活する最低階級の独立労働者のそれよりも低位であること。これは報告書の最も有名 な,最も基本的な原則であって,貧困は個人の責任であり,罪悪であるという見地から,労働能 力ある者及びその家族の救済を抑止するために樹てられた。
(3)ワークハウス制度(Workhouse System)一低位処遇の原則を実際に強要する唯一一の手
段として,ワークハウスの全国的設置をうち出した。労働能力ある貧民の救済はワークハウスに おいてのみ認め,一切の院外救助を禁止した。(26)
これらの3原則を中核にして,報告書は具体的な対策を提案したが,王立委員会の最大
の関心は,専ら労働能力のある貧民の求援抑制(deterrent)に1 Uけられていたため,それ 以外の一切の問題は完全に無視された。特に児童について言えば,「教師として行動するに
ふさわしい資格をもった人物」によって教育するため,彼ら児童をワークハウスから独立した監督下の独立した建物に収容すぺきことを証した以外には,何ら具体策には触れず,
僅かに報告書の末尾で,児童の教育問題に関してその重要性を指摘し,それを将来の課題
とする旨を記した。即ち,報告書は,「正しい原理と習慣を一般に普及せしめるためには,
経済的な制度や規則よりも道徳的・宗教的教育に注目すべきこと」を認めながらも,「有 効な救貧行政が,それ以上の改善を可能にするようになるや否や,立法府のなすべき最も 重要な義務は,労働階級の宗教・道徳教育を促進するための措概を講ずることである」と
(27)
述べ,具体的な教育対策は救貧行政改革後になすぺき第…の課題として残したのである。
しかし,たとえ具体策は示さなかったにせよ,委員会が教育の重要性に関して強い確信 を抱いていたことは否定できないであろう。これは恐らく,副委員として調査及び報告に あたったヴィラーズ(C.PVillers),コウェル(J. W. Cowell),タフネル(E. C. Tufnell)等
の意見が影響したものと考えられる。ヴィラーズは,「公的慈善(public charity)はその目
的の中に悲惨と貧困の予防を含む」ため,貧民救助のための資金は,「国民教育制度」のために利用されるぺきであると強く主張した。コウェルは,工場法監督官をも兼職し,その
(28)
経験をもとに,良き教育を受けた者は紀律・誠実・勤勉・節倹等において,教育を受けな かった者よりもすぐれていることを比較例示しながら,教育は救貧法の生み出す害悪,例 えば,独立心の欠如や道徳的な堕落等を治癒し予防する手段として,最も効果のあること
を強く訴えた。タフネルは後に言及するように,救貧法児童の教育改革のため,ケイの良 (29)
き協力者として活躍するが,彼が教育への関心を抱き始めたのはこの副委員時代であった。
これら有能な副委員達の意見は,単に貧民の救済のみを問題にして,それの抑制的対策を 講ずるのではなく,教育によるそれの積極的な予防を訴えるもので,委員会の一般報告書
三好・釜雛懲鱈姻救貧法の鞘史臆義 5・
には採用されなかったにせよ,以後の救貧法の発展を予示する先駆的な意義を有していた。
教育の重要性は,このように報告書の底流としては認められていたが,具体的な対策が 明記されなかったため,この報告書をもとにして制定された改正救貧法は,上掲の3原則 に関しては,「大胆かつ徹底的な改革」をなしたにもかかわらず,教育に関しては,僅か
にその15条に,「委員会(筆者註一中央当局としての救貧法委員会Poor Law Commissioners)
は,この法令の付与する権限を行使するため,必要と認める時は,貧民の取り扱い,ワーク
ハウスの管理,収容児童の教育のために,規則及び命令を作成し公布することを許され,かつ要求される」と規定したにすぎなかった。しかも,この規則及び命令の制定は,ワー
(30)
クハウスに収容される所謂「院内救助児童(indoor relief children)」に限定され,「院 外救助児童(outdoor relief children)」に関しては何らの配慮もなされなかった。それ
は院外救助の禁止という新しい救貧政策の基本原則の当然の帰結でもあった。〔H〕 ケイ・シャトルワースの救貧法学校改革案
(1)教育の視察と実験
改正救貧法により,中央当局としての救貧法委員会が成立し,委員・書記官・副書記官,
及び委員会の「目・耳」として査察業務に従事する補助委員が任命された。ケイは要請さ れて,1835年7月に補助委員となり,Norfolk及びSuffolk州を含む東部地区を担当した。
初め彼は,木綿工業地帯の実情や移民の問題,担当地区の救貧行政の実情等に関する報告 書を作成したが,彼の最大の関心は,ワークハウスに収容される児童の問題に向けられて
(31)
いた。晩年に書いた未刊の草稿には,当時における彼の担当地区の教育の実情が次のよう
に述懐されている。
「(当地区には)1900名の貧困児童をかかえる36の救貧区(Unions)があり,そのため彼らは50名〜60 名と分割されており,更にそれが男女に分けられていた。地方救貧委員会(Boards of Guardians)
は,これらの施設のもつ一切の弊害を明瞭に感じていなかった。彼らは,有効な教育制度の採用 に対して,それが自立労働者の子女の手の届くところにないという尤もらしい理由で反対した。.
教育は世襲的な貧困を解消する最も効果的な手段であるという思想が植え込まれなければならな
o . ● ● o . . o ● o ● ● ■ ● ● ■ ● o o . ● ・ ・ ● ・ ● . ・ ・ … ● … ● ・ ・ . ● ・ ●
かった。」
(32)
ケイは貧困(pauperism)に対して,教育という「強力な武器」をもって,それの抜本塞 源的根絶の手段とした。即ち,教区の救済を受ける児童に,道徳的・技術的・身体的・知
(33)
的な教育を与え,独立した生計を営むことのできる能力と自立の精神を育成することが,
60 茨城大学教育学部紀要第十三号
何にもまして重要だと考え,1838年の救貧法委員会の報告書では,「教育は次の世代から pauperlsmの芽生えを根絶し,人民の精神及び道徳の中に,社会制度に対する最良の保障
を確実にする最も重要な手段の一つである」と主張した。彼は,直ちに担当地区にある救
(34)
貧法学校の改革に着手するが,その後の彼の教育実践がそうであったように,まず内外の すぐれた教育実践の視察から始め,次にそれを自ら実験してその実現可能性を確かめると いう方法をとった。自ら「科学的調査者」であろうとした彼は,この時期に3つの視察と 実験をなしたので,以下それを中心にして,救貧法児童の教育に関する彼の理論及び実践
を跡づけてみたいと思う。
その第1は,タフネルとともになした1837年のスコットランド旅行である。特にストウ
(L.Stow)の学園を訪問してクラス単位の一斉教授法(団multaneous method)を見た
際,ケイは,それが英国で採用されていた助教生制度(monitorial system)の相互教授法
(mutual method)の弊害を完全に克服した新しい方法であることを感じ,それを英国に 移入しようと望んだ。そのため彼は,スコットランドで教育を受けた若い教師達を招聰し て,彼の担当地区にある救貧院学校(workhouse school)を巡回させながら,学級編成や
(35)
教授法等に関して現場の教師を指導させることにした。この実践の中で彼は,一斉教授法 を採用するには,現存の救貧院学校があまりにも小規模であるため,その統合が必要であ
ると感じ,1838年にはそのための地区学校(district school)計画案を作成した。
第2は,教員児習生制度(pupil−teacher system)を視察するためになした1838年のオ ランダ旅行である。救貧院学校教員の数の不足とその資質の低さに対して何らかの処置が 必要であることを痛感していたケイは,Gressenhal1救貧院学校で見習生制度を着想し,
当時この制度を採用していたオランダにおいてその具体的方式を視察したのである。彼は,
この年の7刀以降,首都地区の担当となったため,帰国後新任地で見習生を中核とする大 規模な教育実験を始めた。従来首都地区では,救貧法児童を民間人に委託して扶養させる
方式が採旧され,委託学校(farm school)と呼ばれる施設が発達していた。例えば, (36)
Norwoodにおけるオービン(Aubin)の請負経営する施設はその代表的なものであって,
そこには6才から14才までの男女の救貧法児童が1,100人も収容されていた。管理者オー ビンは,彼らの教育を深く憂慮していたので,ケイはこの施設を利川して模範学校の経営 に着手した。直ちに見習生を採用してその実験をなしたが,それと同時に,一斉教授法を 採用するため,学級編成や施設・設備・備品(例えばgallery,作業場,通風装置,図書,
教具等)の全面的改善を図った。その実験は有名となり,多くの参観者が集まったが,就
@ (37)
中,内相J.ラッセルはそこを訪問して深く感銘し,大蔵省に対して年間500ポンドの国庫
補助金を交付するように指示した。
三好・釜難懲鱈姻救貧法の教育史的議 6・
第3は,1839年の大陸諸国の師範学校視察である。特にペスタロッチの原理を継承発展 させている師範学校を,スイスやプロシャにおいて視察した彼は,貧民教育に従事する教 員の本格的養成の必要性を痛感し,帰国後直ちにタフネルと共同出資してバターシー師範
学校(Battersea Training College)を創立した。ケイは,1839年4月に枢密院教育委員会 の書記官長に就任したため,彼がバターシー校に直i接関係していた時期,即ち,1840年2月
の開校から1843年3刀の国民協会への移管までの期間の彼の身分は,厳密には教育行政の 分野に属していたことになる。従ってバターシー校は,書記官長としての,つまり教育行 政の立場からのケイの事業と見倣すこともできるであろうが,しかし以下の理由から,そ れは彼の救貧法学校改革の発展計画であると見倣す方がより正鵠を得た解釈であろう。即 ち,バターシー校は私費で設立されたこと,彼は書誼官長就任と同時に救貧法補助委員を 辞任せず一時期にはこれら2つの役職を併せ荷っていたこと,バターシー校設立の日的は(38)
救貧院学校を中心とする貧民教育に従事する教員の養成であり,卒業生もこの方面に就職 したこと,師範学校入学者はNorwoodの救貧法学校の見習修了者をあてたこと,その報 告書は救貧法委員会に提出されたこと等がその理由である。「英国最初の師範学校」とし
(39)
て,以後の教員養成に幾多の伝統を残したバターシー校が,実は救貧法との密接な関連に おいて発足したという事実を,特に本稿では注目したいと思う。
(40)
(2)地区学校計画案
ケイは,視察と実験をもとに,救貧法下の児童の教育に対して,教授法・学級編成・施 設及び設備・教員養成等の新しい原理と方法を導入した。しかも彼は,自己の努力を視察 と実験の段階に終わらせずに,更にこれを行政にまで昂めるために尽捧した。視察・実験
・行政の3段階的努力は,後の公教育制度の樹立において典型的に示されるが,救貧法学 校の改革においてもその段階が辿られた。即ち,救貧法補助委員という公的資格におい て,救貧当局に新しい教育政策の採用を訴え,それを成功に導いたのである。就中,地区 学校政策に対するケイの貢献は注目に値するが,それを理解するためには,当時のワーク
ハウスとそこでの教育の実情を素描しておく必要がある。
(41)
「救貧法のバスティユ牢獄」「マルサス主義の狡猜な才能が考えだすことができるかぎ りの最もいとわしい住居」とF.エンゲルスが呼んだように,救貧法改正を契機に全国に
(42)
設立されたワークハウスの実情は,極めて悲惨であったようである。特に児童にとっては,
混成ワークハウス(mixed workhou se)における成人貧困者との接触による道徳的悪影響 によって,彼らの惨めさは倍加した。王立委員会の報告書では,彼らの独立分離が提案さ れていたが,改正救貧法に明確な規定がなかったため,混成ワークハウスは依然として存 続し,その中に,彼らは老人,虚弱者,精神障害者,労働能力ある貧民等とともに,所狭
(43)
62 茨城大学教育学部紀要 第十三号
しと収容されていた。ケイが1836年の報告書に記したように,「そこに生まれ育った児童 は,怠堕で不品行であった。大部分のこの種の施設では,良き道徳を促進する手段が完全 に欠けており,怠堕に対する報酬は多大で,悪徳への誘引は豊富であった。」
(44)
従って,児竜を成人から分離独立させ,彼らに適当な教育の機会を付与することが課題
となるが,しかし当時のワークハウス制度にはこれを阻害する幾多の要因が存在していた。
就中,ワークハウスの規模の問題は重大であった。即ち,当時のワークハウスの数は約4,000
にのぼり,そこに4万乃至5万人の未成年者が収容されていた。従って,1ワークハウス 当りの数は多くて100人,普通は10人前後であったため,学級編成や教師の雇用等を困難にしていた。ケイはこの実情を次のように述べた。
(45)
「そこでは,技術の訓練または教授がなされたような気配もなかった。児童は大人の貧民に委ねられ てきた…改正救貧法は,救貧区の貧困児童のために,独立した寄宿制学校を建築するように,救貧区 をグルーピングすることについて,何ら規定しなかった。その結果,改正された制度の下においては 大人からの児童の分離は,各ワークハウス内でしかなされなかった。学校には男女をあわせても平均 50人程度の児童しかおらず,男女を分離すれば20人を越えることはなかった。このような小規模学校 では,教員に適当な給料を支給することを議決するように,地方救貧委員会を説得することは困難で あった。児童は,最初は,最も異論のなさそうな同居する大人によって教えられた。」
(46)
その他,ワークハウスでの教育の阻害要因を,ケイは多方面から検討し,それを次の5
点に要約した。(1)児童数が少ないため学級編成が困難であること,②頻繁な入・退学のた めに教育に中断が生じること,(3>成人貧民との接触により悪影響を受けること,鮒児童が 自尊心を喪失していること,(5)財政難のため資格ある教員の招致が困難であること。
(47)
そこでケイは,これらの困難点を解決する方策として,次の2点,即ち,(1)成人貧民と
児童との接触が続くかぎり,流れは水源地から毒されるため,まず第一に児童を分離独立させること,②単独の救貧区では児童数が僅少であり,財政的に教員の雇用が困難である ため,救貧区の統合をなすこと,を挙げ,これを中央当局に訴えた。1838年には,そのた めの具体案を作成して委員会への報告書として提出したが,これが有名な地区学校計画案 である。それは,単独の救貧区による救貧院学校の限界を克服するために,救貧区または
(48)
教区を統合して,学区(school district)を設置し,そこに地区学校を設けることを論じた
もので,計画案では,各々が450人程度の児童をもつ100校の地区学校が新設されることに なっていた。翌年の報告書においても,彼はノーウッドでの6か月間の実験成果を論拠に して,地区学校の教育がもたらすであろうところの成果について,次のように述べた。三好・釜難態鰹姻救貧法の鮪史的醸 63
「ワークハウスに収容されている5万人の児童は,大人との汚れた接触の機会から切り離され,ワー クハウスの一切の装置が象徴していたところの依存(dependence)の教義を,日々教えられることは なくなるであろう。学校管理は,ワークハウスの型にはまった手順の干渉によって妨げられなくなる であろう。地区学校の一切の道徳的関係は,児童を独立への斗いにおける危険性と困難性に打ちかつ ことができるように準備することを,現状がなす以上により適切になすために,希望に満ちた,冒険 的な性格を帯びるであろう。」
(49)
彼の提案は後述するように,中央当局の政策として採用されるが,これ対して,地方救 貧委員会は強い反対の態度を示した。その反対論は,救貧法児童への過度の教育的配慮が 低位処遇の原則に反するという原則論を論拠としていた。これに対するケイの反論は,救 貧法児童へ低位処遇の原則が適用され,衣食住等において自立労働者の児童より低位に 処遇されればされるだけ,彼らの教育は重要である,何故なら,それだけが彼らを貧困か
ら救い出す唯一の残された途であるため,彼らの教育に対して政府は自立労働者の児童の それより以上に深い配慮をなすべきであるという,いわば貧困児童例外論を論拠としてい た。従って彼は成人に対しては低位処遇の原則を適用し,一切の慈恵的救助を拒否すべき ことを主張しながら,貧困児童に対しては,それとは逆に,国家の保護を要求し,国家関 与の腰性を強調し│こ硯解は詩にベンサムによっ帽道された論理一即ち・成
人労働者の保護には自由主義の立場から反対しながらも,児童は貧困の責任者となり得な いが故に,自由放任の「鬼子」としての貧困児童に対しては,「人為統合の原理」を適用 して,その労働を制限し教育機会を付与すべきであるという論理一を継承発展したもの であって,当時の進歩的中産階級の主張を典型的に代弁するものであった。
〔W〕 救貧法児童の教育に対する救貧政策の展開
(1)救貧院学校の改善
改正救貧法には教育条項鉢ないが,この法律によって設置された救貧法委員会は,教育
に関して「積極的な態度」を示した。しかし,それはあくまでも院内救助児童に対してで (51)
あって,その数の約5倍(25万〜30万人)といわれた院外救助児童に対しては,「完全な 不干渉政策」をとった。従って本稿の以下の論述では,院内救助児童が中心となるが,そ
れに先立って,救貧当局が院外救助児童を無視した理由について,若干言及したいと思う。
その1つは,王立委員会報告書において,「16才以下の児童に対して与えられる一切の救
済は,その両親に対して与えられたものと見倣されるべきである」 (P.262)と記したよ
64 茨城大学教育学部紀要第十三号
うに,児童はその両親の付属物であるため,親が責任を負うぺきであり,親が救済を受け るためにはワークハウスへ収容されるぺきであるという原則から,院外救助児童を救貧行 政の枠外に置いたことである。その他,救貧経費の増加を抑制すること,児童問題は社会 的価値と緊急性に乏しいと見倣されたこと等もその理由として挙げられるであろう。これ らの理由から,1844年に救貧当局は,院外救助児童の授業料補助及び学校出席を目的とす
る一・切の援助を禁止することになった。
(52)
これに反し,ワークハウスの一部として設けられ,扶養と同時に教育を与える救貧院学 校に対しては,救貧法改正を契機にして僅かながらも改善のための施策が進められた。こ の救貧院学校は,古くは17世紀にその起源を有し,ロンドンのBishoPgateやWoolwich,
或はPlymouth等のそれのように,若干のすぐれたものの記録も残っているが,しかし
@ (53)
多くは,ケイが報告したように,学校という名に値せぬ貧弱なものであった。そこで救貧 法委員会は,それの改善のために,1835年に出した最初の「命令及び規則」において,少
なくとも毎日労働時問のうち3時間,児童に読み方・書き方・キリスト教の原理を教授す るため教員を任命すぺきこと,加えて有益性・勤勉・徳行等の習慣を育成すぺきことを規 定した。ただし,この規定は「単なる試験的なものであり,特別の場合にのみ適用され
た」ため,その実効力には問題があった。
@ (54)
1839年に枢密院教育委員会が設躍された後は,それの打ち出す教育政策に呼応して,救 貧当局も若干の措置を講じてきた。特に,1846年に講じた,救貧院学校教員に対する2っ の施策は重要である。即ちその1は,枢密院教育委員会の覚書によって教員見習生制度が
成立を見たため,救貧当局は見習修了者(ex−pupi1−teacher)を救貧院学校へ採用するよう
奨励したことである。救貧法庁(Poor Law Board−1847年にPoor Law Commissioners が昇格)がその報告書において,「見習修了者は救貧院学校に全くふさわしかった。彼ら は5年間の訓練を受け,彼らの知識は見習期間の各年度に政府官吏によって試験されており,しかも彼らは児童の取り扱いに慣れていた。それ故,彼らはすぺての点で古い教員階級
よりも明らかにすぐれていた」と記したように,教員不足に悩む救貧当局にとって,見習@ (55)
生の登場はまさに救いであった。その2は,枢密院教育委員会の監督のもとで,救貧院学 校教員の給料に対し国庫補助金を交付することが議決されたことである。救貧法庁は直ち
に回状(circular)を発して,教員を新しく任用したり,また不適格な教員を適格者に置き
かえたりすることにより教員の水準向上を図るよう地方救貧委員会に通達したが,それに 加えて,「ワークハウス児童の正しい教育と訓練は,彼らの境遇の改善にとって不可欠で あると同時に,広く労働階級の社会的状態に対しても極めて重要であるため,救貧院学校 の能率向上は当局の多いに憂慮する問題である」と記した。この他救貧法庁は,1847年の@ (56)
●ぐ 三好・釜難騰総姻救貧法の鮪史的醸 65
一般命令(general order)によって,先に指示した諸教科に更に算術を加えることを定
(窃1849年には,櫨院鮪委員会の援助を得て・効果的轍科書轍財・これらの学
校に安価に供給する措置を講じた。
(58)
その結果,救貧法庁がその報告書で認めたように,救貧院学校の教育は徐々に改善され,
独立労働者の子女の通う各種の学校(例えばvlllage schoo1)よりすぐれたものも現われ
論例えばAtch㎜救餓学校は・特に注目蝶め・囎法螺官の報鵠・も讃され 翻しかしながら激餓学校の改謝こよる救貧法腱轍育には港本的な限界があっ
た。即ち,それはあくまでも混成ワークハウスの存続を肯定し,その管理経営を改善するこ
とにより教育水準の向上を図ろうとする,いわば現状肯定の改良主義に外ならなかった。従って,1861年に報告書を公にしたニューカスル委員会は,その弊害を鋭く指摘し,これ を地区学校に置きかえることを要求したため,これを契機に,救貧院学校は漸次衰微の途
を辿って行った。
② 独立学校と地区学校
改良主義的な救貧院学校改善の政策と並んで,救貧当局は既に早くからケイの提案に沿 った,より抜本的な教育改革の政策をも打ち出していた。それは現存のワークハウス制度 を越えた次元で,救貧法児童の教育を問題にした革新的な政策であって,その中には次の 2っの要素が含まれていた。その1は,混成ワークハウスの弊害を避けるため,ワークハ ウスから建物及び管理の分離独立した学校,即ちseParate schoolを建設すること,その 2は,更に進んでこれら単独救貧区が設置する学校の教育効果を挙げるために,若干の救
貧区を統合して・ケイの提案した大規模な学校,即ちdistrict schoolを建設することであ
った。後者には,前者の分離独立の要素が包含されているが,現実にはこの2種の学校が 出現を見たので,以下これらに対する救貧政策の展開を概観してみたいと思う。
1)独立学校(separate school)一先に述べたように,1834年の王立委員会報告書では児童 馬
の分離が提案されたが,救貧当局がこれを問題にし始めたのは1838年である。この年以 後,救貧法委員会は,機会ある毎に,地方救貧委員会に対して独立学校の設置を奨励した
が・しかし多くの場合・特別命令(special order)によってその設置を規定し,地方救貧
委員会にかなりの自由灘を認めたため,全国的な制度となり得なかった差1振く,設 置された学校は夫々性格や内容を異にしていた。その中には例えばManchesterの Swinton校のように極めてすぐれたものも若干はあった。このSwinton校は1844年に設 立され,タフネルの指導により,児童に対して1週間の中18時間は「学校」で学業に,他の 18時間は「労働」に従事することを要求し,その成果については査察官から最高の賛辞を 受けた。しかし,低位処遇の原則を理由に,この種の経費のかかる学校への反対は多く,66 茨城大学教育学部紀要 第十三号
1846年に地区会計検査官が「(Swinton校の経費は)子供たちの階級と矛盾する額に達し ていて…納儲の間に不満を靱出しつつある」と警告したのは・その例で Z、葛・なおこ
こで言う独立学校の名称には,ワークハウスの敷地内に設置されたが,しかし独立した管理 下にあって,しかも何らかの形で児童の教育が行われた学校をすぺて含んでいる。例えば,
Notti㎎㎝, Orm$kirk, Flimby, Chesterfield, Merthyr Tydfll等の学校は・ワークハウ
スに蠣する撒であったが・鯉面から見て独立学校であ
独立学校を奨励する政策は,間接的にではあるが,後に発展する各種の名称をもつ学校,
例えばcertified schoo1, barrack school等を生み出す結果になった・これは・偶然にも
1849年法の規定,即ち,請負契約によって貧困児童を委託された施設は,「その中で貧困児童を教育するために」利用されることができるという規定によって促進された。例えば,
民間の慈善施設を教育の場として用いることを認めた1862年のCertified School Actも・
これから生み出されたものである。
2)地区学校(district school)一ケイの地区学校計画案は救貧法委員会の強い支持を得た
が,救貧区統合が法的に可能になったのは,1844年になされた新たな救貧法改正(7&8Vic. c.101)によってであった。その40条において,中央救貧当局は,必要ある場合命令
を発して,15マイル以内の範囲において,「親に死別または遺棄されて,教区または救食 区の保護下にある16才以下の貧困児童を管理するため…教区または救貧区を統合して学区とする」権限を与えられた。続いて42条では,「学校または養育院(Asylum)の維持の ため,この法律に基づいて組織されるすぺての地区に委員会を設置」し,その学区委員会
(district board)の委員は,「貧民救助のため学区内で地方税を納入する者の中から選
出される」ことが規定された。43条では,その学区委員の権限と義務が明記され,その中 で,「児童の宗教教育を監督する」ため,「国教会の牧師(chaplain)を一人以上任命す る」こと,但し,要請があれば他の宗派の牧師も学校を訪問し,夫々の宗教原理を教授す ることが定められた。以下,44条では,土地の購入または借用に関する地方救貧委員会の 欄汲び学搬置のために支出される金額は,平均年間救貧税の÷以内であるべきことの規定がなされ,51条では,当該学区外に居住する児童でも地区学校から20マイル以内
の者は,その地区学校に入学することが認められた。
@ (64)
1844年の改正救貧法は,このように教育に関する重要な規定を含んでいて,後の教育立 法と対比して見れば,それの立法史上に占める先駆性が認められるであろう。しかし,法 の規定そのものに不備な面があったため,その実効力は極めて弱く,現実には何ら注目す
ぺき効果をもたらさなかった。その理由としては次の3点が指摘されよう。即ち,(1)地区
学校設置のための救貧区統合には,地方救貧委員会の同意を必要としたため,当然予想さ三好・釜纏襟譜英国救貧法の鮪史臆義 67
れるように,救貧税の膨張を懸念する彼ら地方救貧委員会は,低位処遇の原則を論拠にして
これに反対した。②学区の範囲を15マイル以内に限定したため人口疎密な農村地帯では統合の意義がうすれた。(3)学校設置及び維持の経費を救貧税平均額(過去3か年間の年間平均値)
の÷以内としたため適当な学校設置は財政的に騰であった・ これら3つの問
題点の中で,特に(2)と(3)については,1848年法で改善がなされたため,少なくとも法的に
(65)
は,救貧区統合のための条件は整えられたが,しかし地方の消極的態度のため,統合の進 渉は緩漫であった。たまたまロンドンにある民間の委託学校にコレラが発生したため,そ れを契機に1849年に6つの学区が構成され,救貧法庁はそれを管理するため,この年に一
般命令を発した。
以上,救貧法児童の教育に関する救貧政策の展開について述べたが,これがどのように 地方へ定着したか,またその結果各地に設置された救貧院学校,独立学校,地区学校等が どのような性格を有していたか等についての詳細な考察は,別の機会に譲らなければな らない。ただ,中央と地方との関係について,特にここで言及したいことは,本稿で再三
(66)
問題にした低位処遇の原則と,これに対する中央及び地方の救貧行政当局の態度である。
まず地方について言えば,彼ら地方救貧委員は,中央当局の教育への政策に反対する際,
必ずといってよい程,その論拠としてこの原則を挙げた。例えば,1836年にBedfordの
地方救貧委員会は,この原則を盾にして,院内救助児童には読み方だけしか教えるぺきでは
なく,従って書き方は除外すべきだという申請を出した。このような例は他にも多数ある(67)
が,これに対する中火当局の態度は,終始この原則の理論的根拠を否定することであった。
例えば,Bedfordの申請はこれを却下したが,その際,却下の理由として,ワークハウスで の紀律は十分に抑制されていること,自立労働者の子女も程なく同様な教育を受けるよう
になるであろうこと,院内救助児童は世に出る機会を与えられるぺきこと,彼らは永久的な
汚名を帰せられるような処遇を受けるべきでないこと等を挙げた。また1848年には,回状(68)
を出し,院内救助児童に良い教育を与えることは,親達の中に貧困を奨励する結果にはな らないとして,この場合低位処遇の原則は適用できないとした。その他,補助委員のケイ やタフネルが,この原則に対する反論を報告書に記したことは前にも述べた通りである。
(69)
〔V〕救貧法児童の教育に対する教育行政の接近
1839年に設置された枢密院教育委員会は,この国の中央教育行政機関の起源であったQ
それは,厳密には「院外委員会(extra−parllamentary comrnittee)」であって,ベンサ
(70)
68 茨城大学教育学部紀要 第十三号
ムの政府論に示されたような,専任大臣をもつ中央行政機関には遠く及ばないものであっ たが,しかし,委員会はそのSecretaryに,当時における「教育の第一人者」であったケ
イを迎え,徐々にではあるが公教育制度の樹立を図った。ケイは,宗教問題をはじめとす
(71)
る多くの困難にもかかわらず,公教育の実質的な,基礎的な階梯を構築するための努力を なしたが,晩年に述懐したように,当時の彼には2つの課題があった。即ち,教員養成制 度と視学制度の樹立がそれであるが,実は,これら2つの制度が,ともに本稿で問題とす
る救貧法児童の教育と関連があるため,以下これについての考察を試みたいと思う。
(1)教員養成への助成
ケイの教師・教師養成論は,彼の救貧法の体験の中から生み出されたことは先に述ぺた。
Norwoodにおける見習生の実験, Batterseaにおける師範学校の設置等は,いずれも,
救貧法学校その他の貧民教育に従事する教員の養成を目的としたものであった。「有能な
教員なくしては何事もできない」と,彼が屡々述べたように,教員養成は彼の教育論の「要
石」であった。従って,彼はSecretaryに就任後,直ちにこの課題と取り組み,1839年に (72)
委員会が公にした国立師範学校計画の立案に参画するとともに,その実現のため努力した。
(73)
彼が「1839年の公教育計画の挫折」と称したように,これが失敗に終わると,彼は,見習 (74)
生制度を中核とする教員供給計画の作成にあたり,1844年にそれを委員会に提出した。
その際には承認されなかったが,しかし2年後には,有名な「1846年の覚書(rninutes)」
(75)
として,彼はその計画を実現することができた。
この覚書は,8月25日に出された「一般覚書」と,それを具体化した12月21日の「見習 生及び有給助教生に関する規則」及び「師範学校補助」の3部から成っている。そこでは,
見習生,女王奨学生,現職教員,退職教員等,教員の一生に関する規定がなされたが,その
中核となるのは見習生に関する規定であった。それによれば,13才に達した小学校の優秀 (76)
な児童が,現職教員と5年間の見習契約を結び,pupiレteacherという・名が示すように,
pupilとして指導を受けると同時に, teacherとして教鞭をとるという二重の機能を果た した。彼らは各年度毎に視学官の試験を受け,合格すれば一定の報酬を支給された。5年間
の見習期間を終了して,女王奨学生として師範学校へ進学しない者は,ex−pupi l−teacher と呼ばれ,多くは救貧院学校の教員として教職に従事した。これら見習修了者が救貧院学校 の教育改善に大なる寄与をなしたことは,先に言及した通りである。
1846年には,救貧院学校教員の給料補助として1万5千ポンド(翌年には3万ポンドに
増額)の補助金交付が議決された。この補助金の管理に関して,ケイは直ちに書状(paper)
を発表して,その有効な使用を監督するため視学官を任命することを明らかにしたが,そ (77)
三好・釜魏懲鍔姻救貧法の鞘史的轍 69
れと同時に,救貧法学校教員の養成に関して重要な提言をした。まず彼は,ワークハウス
で教鞭をとる教員の実情に触れ,彼らを,労苦の多い閉じこめられた隷属から救い,彼ら 魑
1 の権限・慰安・余暇・威厳・給料・休日等の改善をはかることを説き,続いて,その特殊な むずかしさをもつ仕事に対して専門的な教員養成をなすこと,即ち,そのための師範学校 を設立し,そこには,卒業後一定期間救貧法学校へ勤務することを条件に,すぐれた志願 者を無償で入学させることを提言した。救貧法学校教員の養成を目的とする師範学校は,
この年に,ロンドンカ・ら12マイル離れたTwickenhamに設立され・後にKneller Hall 師範学校と呼ばれた。それは年々国庫補助金の交付を受け,枢密院教育委貝会の監督下に おかれ,視学官H.モゼリーは1851年にこの学校に関する報告書を委員会に提出した。
@ ・ (78)
② 視学官による関与
教員養成と並んで,Secretaryとしてのケイにとって重要な課題は,視学制度の樹立で あった。それは,公的支配の一手段であり,礎石であった。国家による査察の原理は,べ ンサムの政府論で提示され,工場法や救貧法において既に実現を見ており,彼が勤めた救 貧法補助委員の役職も,後にその名称がinspectorとかえられたように,査察業務を担当 するものであった。彼は補助委員の経験をもとに,オランダの視学制度の方式等を参酌し て在任10年間に,この国の視学制度を成立に導いたが,いま,その経過を素描すれば次の 通りである。学校の査察は,補助金交付の条件として要求され,それと表裏の関係にあっ
(79)
た。まず補助金交付について、みれば,1833年に,「貧困階級の児童を教育する学校を建築す
るため,民間寄付金を援助する」目的で,2万ポンドの交付が議決されたことが端緒とな(80)
り,1835年には,「師範学校またはモデルスクールの建築」のために1万ポンドが議決さ れ,枢密院教育委員会発足後は,その額と適用範囲が大巾に拡大された。この補助金に対
(81)
して,委員会は,発足の翌日の覚書で,勅任視学官(Her Majesty sInspector)の査察権
を要求し,引き続き勅令や覚書等により,r委員会に査察権が留保されないかぎり,爾後師 範学校及びその他の学校の設置維持のためのいかなる補助金も交付しない」と規定した。@ (82)
そのため,学校管理権をめぐって宗教団体との間に激しい論争が展開され,結局は幾多の 妥協と修正を余儀なくされながらも,ケイの努力が集積され,視学制度の基本路線が敷設
(83)
されたのである。
視学官は救貧院学校に対しても関与した。それは,当然予想されるように,1846年の救 貧院学校教員給料補助を契機として始まるが,実はそれ以前に,救貧法自体の中で,視学 官の査察を許容する規定がなされていることは興味あることである。即ち,先に挙げた18 44年の改正救貧法の42条において,統合された地区学校での宗教教育に関する規定に引き 続いて,「枢密院において国王によって任命される視学官が,いつでもかかる学校を訪問
70 茨城大学教育学部紀要第十三号
し,在校する生徒の熟達を試問する」ことが合法と認められたのである。その実効力は乏
(84)
しかったが,地区学校の教育水準を向上させるために,視学肖を導き入れようとした意図 は注目に値すると思う。実際に救貧法学校担当の視学官が実現したのは,上述のように18 46年以降である。この年の補助金の管理に関して,ケイが書状(paper)を出したことは先
に述べたが,その中で彼は,枢密院教育委員会の監督のもとで,救貧当局の管理する学校 の一切の教育問題を指導助言する,4〜5名の視学官の任命が必要であると説いた。これ
(85)
により,1847年には4名の視学宜が任命され,救貧法学校を査察することになったが,ケ イは彼ら視学官に対して,1847年に諭告(instructions)を出して,その職務・権限を明
示した。救貧当局も規学官の関与を認めることをその報告書に誼し,視学官による救貧院 (86) ●
学校教員の試験実施も認めた。このようにして,補助金の有効な管理と,教育水準の向上
(87)
が図られ,早くも1848年には,救貧法庁は補助金の好ましい影響が既に現われ始めたこと
を報告することができた。
(88)
救貧法学校に対する視学官の関与については,1862年の改正法典(Revised Code)の
Chapter皿, Part皿,Section皿において明確に法文化されている。この法典は,それ以前
に出された枢密院教育委員会の覚書及び規則を集大成したものであるため,以下関係する
(89)
条項を掲げることにより,当時の救貧法学校担当視学官の職務や救貧行政と教育行政の関
係を明らかにするための一助としたい。
Section皿.Schools lnspected for tlle Poor Law Board.
139条救貧法庁は,救貧法学校男女教員に対する地方税の負担を軽減するために,議会が救貧法庁に 対して年々交付する補助金を分配するに際,枢密院教育委員会の助言を受ける。
140条救貧法学校は,視学官によって定期的に訪問を受け,視学官はそれについて枢密院教育委員会 に報告書を提出する。視学官は,本法21条に従って任命され,公教育に対する補助金の責任を負う。
141条救貧法学校に勤務する教員は,彼らのメリットに応ずる4つの等級でもって,枢密院教育委員
会により特別に免許される。142条救貧法庁の命令に基づき,各救貧区に対して大蔵省から交付される補助金は,教員が枢密院教 育委員会から得る免許の等級及び学校の児童数により,下表(略)に従い規制される。
143条救貧法庁は,以下の支給条件を規定する。
(a)大蔵省により各救貧区に与える金は,地方救貧委員会によって教員に支払われるべきである。
⑤ 地方救貧委員会が教員と契約した給料が,大蔵省から与えられる金額を越える場合には,その 差額は,(中略)地方税から教員に支払われなければならない。
(c)若し教員がワークハウスに居住せず,(糧食の)支給を受けないならば,地方救貧委員会は,
それにかえ,地方税から年額15ポンドを支給しなければならない。