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生活科をめぐる諸問題 一教育研究所主事としての立場と意見一

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茨城大学教育学部教育研究所紀要21号(1989)1−8 1

生活科をめぐる諸問題

一教育研究所主事としての立場と意見一

赤 堀 哲 雄

は じ め に

 この特集を提案したのは,わたしなので趣旨説明をしておくことにする。

 わたしが教育研究所の主事になったのは偶然のことなのだが,なった以上は,それなりの仕事をしな ければならないと思うのは自然なことだろう。一仕事はしなくていいのだ,という先人からの忠告?

があったが,それはオカシイナと思った。ただ,去年一年間は入学試験問題の作成などで忙しかったこ ともあって従来の方針を受け継ぐことで勘弁していただくことにした。今年度は,すくなくとも特集に ついては課題を新規に設定しなければならないことになっていたので,研究部会に,かなり強引に働き かけて生活科を特集課題にさせていただいた。

 わたしは教育研究所の歴史についても組織についても不案内なのだが,教育学部の全教官と附属校園 の全教官とが,ともにその所員であることは,それなりの経過と意義があってのことではないかと想像 されたのであった。それを,どのように活かすかということについてのわたしの考えは,もしかしたら 見当はずれのことかもしれないのだが,常識的に考えて,それを活かさないということは宝の持ち腐れ に他ならないといえるだろう。

 わたしの見るところでは,この研究紀要などは,宝の持ち腐れもいいところで,おもしろくもないし 役にも立っていないように思われる。さしあたり,こうしたアップトゥデイトな問題を大学らしい形で 切り取り,教育/研究の二曲を守り,そして発展させたいと思うのである。

一生活科という「教科」が新たに誕生することになったということは,教員養成大学/学部にとっ ては重大な変化である。

 という指摘は,第一回の教育実習の一斉研究授業のときの学部教官控室での雑談のなかでもあった。

 それを教育研究所が取り上げるというのは筋違いで本来は教授会として対応策を考えるべき事柄だろ う。だが今日では,そんなことを正面から取り上げる教授会は稀になってしまっているのではないだろ うか。文部省で決められたらそのとおりにやるだけのことだというのでは大学とはいえないのではない か,と思う反面,そんなことを取り上げるのは大学らしくないという意見もあるだろうとは思えるので

ある。

 だが, (「大学」として)教員養成に責任を負うということを具体的に問うとすれば生活科の創設と 直接関係のある社会科や理科の教官だけではなく,また附属小学校の1・2年の担任だけの問題ではな く,やはりすべての教宮にとって無視することの許されない問題だというべきではないだろうか。

 文部省の学習指導要領の研究協力者会議のメンバーで,社会科の解体に反対して辞任したんだか,さ せられたんだかした大学の教官たちがいるらしい。だが,大学の教官を辞めたわけではないから,彼等

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2 茨城大学教育学部教育研究所紀要21号(1989)

は今後も反対運動を進めて行くのだろうし,ひょっとしたら生活科などというものは,やるなとかいう ことぐらいは講義するのじゃないかと思う。これは大変素晴らしいことで,大学の教官たちと文部省の 教科調査宮とが公開の席で,やりあうことにでもなれば最高である。文部省の研究協力者会議から外さ れた大学の教官たちのなかには,もとはといえば文部省の教科調査官だった者もいたようだから,これ は宗教裁判めいた暗闘になるおそれもあるだろうが……。

 社会科の解体や生活科の新設に反対した大学教官が学習指導要領が改訂になったので,反対意見をい うのはやめましたなどというのだったら,そういう教官には大学を去ってもらうのが筋だろう。そうい う教官とは同席したくないということで大学を去る教官もいるかもしれない。わたし自身は生活科が登 場すること自体には反対するつもりはないのだが,ずっと以前から文部省の学校教育にかかわる指導行 政については民主主義とは縁もゆかりもないものだと思っているし,国辱だと思うことすらあるので,

ついつい生活科そのものとは関係のないことに論点が移ってしまうかもしれない。

生活科をどうとらえるか

 生活科という教科は実は20年近く前からある。それは精神薄弱児養護学校でのことであったので,あ まり知られていなかったということだろう。だが,教員養成大学/学部の養護学校教員養成課程のなか ですらキッチリと取り上げられてきたとはいえないのである。大学の教育課程のなかに位置づけられた こともないだろう。養護学校教諭の免許状を取得するための必修単位にもなっていないのである。そう

した経過からすれば,今度の小学校の生活科も取るに足りないことだと思われてしまうのである。

 だが小学校の生活科は教科書も作るのだということを知るに及んで,わたしも教育学的関心を持たざ るをえないことになった。現在の教科書検定制度のなかで,生活科の教科書などというものが必要とさ れるとは思えないのである。社会科や理科の教育をしている人々にとっては,なおさらのことではない だろうか。以前に教えたことはチト,マズイことになった,などといったのでは,いささか犯罪的なニ オイがしないでもない。学校の教師たちだって「実は前々から問題だったんですよ。」とか, 「わたし はこれまでもやっていたのですよ。」とかいうことでゴマカスことになるのだろうか。

 これまでの経過からすると,いずれは……学習指導要領がわかったので……ということで済ますこと になるのではあろうけれども。

 生活科がモメているというわけではあるまいが,学習指導要領の発表そのものが遅れに遅れていると のことである。 (それが出て来るのを待っていたのだが紀要発行のタイムリミットが来てしまったので

この特集の本番は来年度になる。)

 教育研究所の幹事会(研究部会)で生活科についてやりたいのだけれども……といったときに真っ先 に附属中学校の幹事に降りられてしまった。一一中学校には関係がない,というわけである。社会科の 解体/再編とも関係があるといってはみたものの,そこまで届くには距離がありすぎる。それはそれと して取り上げなければならぬことなのだろう。それなら,これから小学校に入学する子どもを持つ親と しての立場でどうだろう,といってはみたものの,これは少数なのかもしれない。それに小学校の一,

二年などというものは親にとってはアッという間のできごとでしかないのである。

 しかし,とにかく既に生活科をやっている附属養護学校と,これからやろうとする附属小学校と,生 活学習を中心としている附属幼稚園というトライアングルは無理矢理に作りあげた。それに生活科に吸

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赤堀:生活科をめぐる諸問題 3

収される低学年の社会科と理科の教育法の教官を加えれば,なんとかなるだろうし,養護学校の生活科 では家庭科も吸収されてしまっているのだから,家庭科にも一枚加わってもらえばいいだろう。それに 教育学,心理学は欠かせない。さらには体育,保健も一一という構想だけは出来上がった。親の立場と いうのも棄てたわけではない。

 附属幼稚園,附属小学校,附属養護学校それぞれの行事日程をにらみながら,研究会を開くというこ とはかなり困難な作業であった。結局,7月19日という,およそ研究会を開くには相応しくない日に集 合ねがうことになってしまった。名目的には教育研究所の例会ということになるらしい。この例会とい

うのは,かなり長いこと開かれていなかったようであった。

 当日は予想していたことではあったが,こちらがお願いした方々以外で参集してくださった方は極め て少数であった。しかし,内容的には期待していた以上の成果があったと思う。

 生活科が合科ではなくて新教科なのだということだが,教科教育の立場としては,なぜ生活科が登場 することになったのか,ということよりは,なぜ小学校低学年の社会科と理科が廃止されるようになっ たのか,ということのほうが問題になる。

 もっとも極端な見解は,もともと低学年の社会科も理科も,授業としては成功していなかったのだと いうことだ。研究授業で素晴らしい授業に出会ったことがないというのである。しかし,実際には低学 年の社会科も理科も授業実践と指導計画の研究が重ねられて来たわけだから,その成果と使命について はキチンと整理される必要があるのだろう。

 生活科を続けている附属養護学校のほうからは,実際に子どもたちを指導していくためには必然的に 社会科や理科のような教科は,その影をひそめて生活科というようなものになってしまうのだというこ とであった。これに対して,現在は社会科と理科の授業をしており,やがて生活科をすることになる附 属小学校は,それが中学年以上の社会科や理科とどうつながるのかということを考えておくべきことだ

ろうし,また社会科と理科とが重なりあう部分は少なくて一緒にはしにくいのだという見解が述べられ た。このことは学校教育法施行規則における合科の規定が小学校が一,二年に限っているのに対して養 護学校のそれは小学部の全学年に及ぶということと対応しているものともいえる。

 附属幼稚園からは教科の学習のようなカタチではなく幼稚園では生活そのものが子どもたちの学習を 組織し深めていくことになるのだという実践を通しての指摘があった。それは幼稚園の段階だけではな く,さらに継続されてしかるべきものではないかということであった。生活科を教育の内容よりは方法 の問題として捉えるとすれば,子どもの活動を主体にした教育の方法では子どもたちが教科を意識する ことはないといえる。

 これらのことについては,さらに具体的に報告してもらうことになる。また,こうした問題について の自由な討論も組織していきたいと思っている。

 生活科のなかに盛り込まれることになっている基本的生活習慣とはなになのか,あるいは基本的生活 習慣とはなにかということも問題になる。それは学校教育の問題ではなく家庭教育の問題なのだという 議論があるのは当然だとしても,子どもたちの基本的な生活習慣というものを要素化して指導内容とし て整理するということは精神薄弱児の教育では一般的な傾向のようである。そしてその指導の方法につ

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4 茨城大学教育学部教育研究所紀要2エ号(1989)

いても共通の理解があるようで,それは教科のような色彩を持ち授業のような形態をとっているらしい。

幼稚園でもEII課のなかで基本的な生活習慣にかかわる指導が計画的になされているのかもしれない。

 これらのことについても,いずれ紹介してもらうことになるだろう。

 基本的生活習慣といわずに基本的な生活のリズムというべきなのではないかという意見もある。基本 的な生活習慣というのは,もともと発達段階によって異なるもので小学校の低学年で教えたものが成人 の基本的な生活習慣と同じ内容だとはいえないだろうからである。学習指導要領などでも生活というも のを日常生活(家庭生活),学校生活,社会生活というふうに類別しているようである。小学校や中学 校の教科としての家庭科ではなく,もっと基本的な隼活技術としての基本的生活習慣というものがある

に違いない。また保健の教育としても問題になることが多いに違いないのである6

 教育学や心理学は,こうしたこととどうかかわるのか,いろいろな立場なり課題なりがあるのだろう が,こうしたことについての先導的な役割を演ずることは遠慮したいということらしい。いくらかの批 判的な解説が提出されることになるだろう。だが,将来,生活科についての教材研究をするとすれば否 応なしにその講義を担当させられることになるのかもしれないのである。社会科や理科でやるというの ならば別だろうけれども。

 生活科が教職員免許法の必須単位になるのだという解釈があるのだが,これについても研究しておか なければならないようだ。そうでなくても教員養成というのが具体的には現場に出たときに困らないよ うにしておくことだとするなら新三年次生が就職するときに「生活科については知りません」というわ けにはいかないだろうというのである。こういうのを尻に火がつくというのだろう。

教育学的に問題になること

 教育とはなにかということを,こんなところで論じてもしかたがないことだが,一人の人間が人間と しての生活をするようになるまでの過程を,教育の過程として捉えるというのは,もっともラディカル な方法だといえる。子どもが一人前のオトナになるまでの過程だといってもいい。

 一人前のオトナとして生活できるようになることが目標だとすれば,それはつまり教育の目標にほか ならないということになる。そこから生活というコトバが目標概念である場合もあることが理解される に違いない。風が吹くと桶屋が儲かる……という論法を援用するならば,この場合には,すべての教育 の内容を「生活科」といい,その教育を「生活科教育」ということもできるのである。これを,もう少 し教育学的な表現に改めると「生活教育」ということになる。小学校の一,二年生だけではなく学校教 育の全部にわたってのことである。この立場では小学校の一,二年に限り,一部の授業時間が生活科の ために割かれるだけだということは許されないだろう。

 古典的な詰め込み教育に対する批判として発生した,新教育運動の歴史のなかで生活教育は栄えるこ とになるのだが,その流れの一つであるドクロリー法では「生活のための生活による教育」というキャッ ッチフレーズが運動の表現として使われる。ここでは「生活」は目標概念だけではなくて方法概念でも ある。教育方法の革新ということが必要/不可欠なのである。目標概念と方法概念とを別々のものとし て捉えるのはドクロリー法とはあい容れないのだが,方法が生活的であるべきことについては小学生や 幼児にとっては当然のことだという生活経験主義は戦前の学校教育のなかでさえ市民権を持っていたの

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堀赤:生活科をめぐる諸問題 5

である。現在でもそれは,小学校の一,二年に限りいくつかの教科を合わせて指導する「合科」という 手続きを用いて実施することが可能になっている。生活科を教育方法の問題だとするならば,なにも教 科として新設する必要はないのである。つまり目標/教育内容が同時に問題になるのだというわけであ る。ここでの問題は小学校の一,二年だけで完結する生活教育というのは教科という概念とは馴染まな いということであろう。やるならば,すくなくとも精神薄弱児養護学校のように小学校の全期間を通じ てのものでないと始末に困ることになるだろうということである。世界各国の小学校の教育課程の比較 教育学的な研究の対象にするとすれば甚だ奇妙な存在となるに違いない。だが,それはともかくとして 似たような教科,たとえばフランスの「目覚まし教科」などを紹介しながら問題点を探っていく努力は 必要だろうと思われる。

 小学校低学年の社会科と理科が,どのような問題を抱えていたのかという戦後のEil本の学校教育の歴 史のなかでの検討の方法については,いろいろな観点があろうが,社会科や理科を研究している人々の なかには廃止論を唱えた者はいないわけで,生活科の登場というのが唐突な感じがするということは否 めない事実であろう。

 だが,われわれ戦前の教育を受けた者は社会科教育は経験していないし理科は四年生になってから初 めて習ったわけだから,低学年の社会科や理科の廃止論というのは,あまり唐突だとも感じないのであ る。しかし,もしも教育に絶対というものがあったとしたら社会科の解体/廃止というのは人種か民族 の違いと同じくらいの人格的な差異が生ずる大事件だということになる。われわれの受けた学校教育は,

われわれの未完成な人格を勝手にイジクリまわし,ひどくネジマゲタことはたしかだからである。

 今の学生たちは社会科というのは万国共通の教科だと思い込んでいる。戦前の教育界で,社会科の存 在を知っていたものは教育学者ぐらいのものではなかっただろうか。戦前の教育学者の数はごく少数で そのなかでアメリカの教育を研究していたものは更にごく少数だったから,社会科そのものについての 紹介を見つけるのも難しいのである。そのなかでオモシロイと思ったのは田花為雄の説で,それはアメ リカの開拓者たちは無学であったが子どもたちのためには学校をつくり,そこでは読み書きのほかにフ ロンティアスピリットを伝えることを求めたのだというのである。それがアメリカにしかない社会科だ というわけである。歴史を教えるということになると,それはアメリカの先住民の歴史になってしまう し自分たちの先祖のことだと,それぞれの母国の歴史になってしまって,バラバラだから教科にはなら ないというわけだ。しかし,戦後に始まった沼本の社会科にはたしかに別の意味でフロンティアスピリ

ットがあふれていた。だが,今日の日本でフffンテイアスピリットに相当するものはなにかと問われれ ば答えに窮することになる。おそらく進学戦争に勝ちぬくことだとか,甲子園を目指すことだとかいう

ことになってしまうのではないだろうか。こうなれば社会科ではなくて歴史や地理を教科として独立さ せ改めて合科教育の方法を模索するのが筋ではないだろうか。

 社会科が社会科でなくなってから,すでに久しいということはいえる。

 学校教育を,一人ひとりの子どもの教育の過程から再点検すべきだということを生活科の新設との関 連で具体化するとすれば,それは教科論や教育内容論としてではなく子どもの発達について根本的に問 いなおすことによって可能になるだろう。例えば,小学校の低学年というコトバと生活科というコトバ とがセットになって使われている場合には,そこにある発達観や教育観が自ずと明らかになるに違いな いのである。これは小学校,中学校などの明治以来の呼称そのものの点検から始めるべきことではある

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6 茨城大学教育学部教育研究所紀要21号(1989)

が,そこまでは行かないとしても,そして小学/大学というような学問における階層的な区別もしくは 差別は別としても,一人ひとりの教育の過程を中心にした場合には小学校ではなくて一人ひとりの子ど もにとっての基礎共通の教育の学校,低学年ではなくて一人ひとりの子どもにとっての基礎共通教育の そのまた基礎教育の学年ということでなければならないのである。こうした基礎にあたる教育の過程を 低学年と呼ぶのは既にそこでの生活科なるものの性格を暗示することになるだろう。

 文部省生活科の子ども観や発達観こそ点検されるべきものなのである。

 今日の学校教育における子どもたちの疎外状況を,学校教育にあまりにも良く適応してしまっている 子どもたちの方から眺めっっ問題視するのは,これまでにも繰り返し繰り返し採られて来た方法であっ た。一人ひとりをダイジにする教育というのは,たった一人の子どもであってもs・その抱えこむことに なってしまった問題をダイジにすることから始まるのだという当然のことが無視され,その問題を解決 する方法を身につけ,それを磨くことがなおざりにされてきたのである。だから,たとえ問題の把握に 成功したとしても,それに対応する方法を見出すことができないということが問題になるのではないだ ろうか。生活科の検定教科書が登場するということは,既に一人ひとりの子どもの教育の過程,そのま た基礎の過程というものについての無知をさらけだすだけではなく無視することになるのを表明するこ

とにもなるのではないだろうか。

 一人ひとりの子どもの発達の過程からではなく,教科の側から生活科について問うとしたならば,そ れぞれの教科が就学以前の段階で,子どもたちと出会うことになる原体験とその発展の過程を明らかに していく必要があるだろう。それらはおそらく教科としての論理や方法の体系をもったものではなくて 生活そのものだということになるだろう。それが教科としての明確な体系を持つようになるのはずっと 後のことで,小学校の最初の学年から教科としての体裁はともかく体系を持つことになるような教科は 少ないだろうし,それが不明確な教科のほうが多いのではないだろうか。小学校の段階になって俄かに 登場することになる教科があったとしたら,それは子どもたちの生活とは無縁な知識を詰め込むだけの 教科にならざるをえないだろう。だが,どんな教科であれその原点を就学以前の時期に持っていないも のはない筈で,それが見つからないとしたら,それは教科教育の研究者たちの怠慢のせいであって,そ のような教科の教育が小学校の段階で学業不振の溜り場になってしまうのも当然のことだといっていい だろう。

 それらは例えばドクロリーの生活概念のなかなどに一つの典型として見出すことができるだろう。全 ての教科は全体的な複合された生活そのもののなかにある。これはいいかえれば就学以前の子どものな かに,それぞれの教科の根が育ち茂るかどうかだということであり,教科の体系は最初は子どもたちの 外側にあるのではなくて内側に形成されるものだということである。しかしながら,それが形成されな いままに学校教育を迎えるとすれば,それは教育する側の問題としてではなく子どもの個人的な問題だ とされてしまうのである。小学校の最初の教育の段階でもなお教科的であるよりは生活的であることが 望ましいのは教科教育の方法の問題であるよりは子どもの学ぶ権利の問題なのである。ドクロリーが医 者として精神薄弱児の教育にあたるなかで,まさに生理学的な現象として観察したのは幼い子どもや知 恵遅れの子どもたちにおける注意力の少なさと,その使用に当たっての浪費ぶりであった。たださえ少 ない注意力を学校に来るまでの間に使い果たしてしまった子どもたちに教育するなんていうことが可能 であるわけがないのである。だが,その僅かな注意力であっても,それが一つの課題に集中されたとき

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堀赤:生活科をめぐる諸問題 7

には,その注意力/集中力は減るどころか逆に増加していくことが認められるのであった。そればかり でなく,そこで増幅された注意力/集中力が,さらにまた一つの課題に集中し問題を解決したときに増 幅されるという生理学的な事実にぶつかるのであった。これを「生活による生活のための教育」の方法 として一般化したときには,幼児や精神薄弱児の教育だけではなく,すべての子どもたちにとっての主 体的で充実した学習の体験こそ学校教育が子どもたちに保障すべきものであることを明らかにするので

あった。

 遠山啓という人物とその業績をどのように案内すべきかわからないのだが,彼がその晩年,東京工業 大学を定年で退職する頃から東京都立八王子養護学校でかなり重度の精神薄弱児の算数の教育と取り組 むようになった時代があった。彼が開発した,いわゆる「水道方式」で指導をすればすべての子どもは 算数の計算ができるようになる筈であった。しかし,八王子養護学校の子どもたちは「水道方式」を受 け付けなかった。こうした場合「なるほど精神薄弱とはこういうことであったのか/」ということで納 得して引き退くのが普通だが,かれは退職後の余生を賭けると宣言して八王子養護学校に入り浸ること になる。そして「水道方式以前の算数の学習は何か」ということを実践的に探求していくことになる。

 もっとも幼い,もっとも重度な発達の遅れを持った子どもたちにも,とうとう子どもたちが主体的に 取り組む課題が見つかったときに彼はそれを「原数学」と名づけた。算数/数学の教育の原点だという わけである。それは「水道方式」の教具ではなくてモンテッソーリの教具を改良したものだった。モン テッソーリもまだドクロリーと同じく医者であり同時代の精神薄弱の教育者でもあった。モンテッソー リの方法とドクロリーの方法とがきわだって異なるところは,モンテッソーリの教具が生理学的ではあ ったが生活的とはとてもいえない抽象的な課題を解決することを要求されるものであったことであろう。

だが,そこに起こった生理的な現象そのものは同じで,課題を解決したときの充実感こそ子どもを聞き 分けのよい考え深い存在に変えていくということであった。精神薄弱が改善されたということではない。

これが精神薄弱か,と思われるような事件が発生したといったほうがいいだろう。

 こうして辿り着いた「原数学」は実際には数学だけではなく,すべての教科の学習の基礎になると思 われたので八王子養護学校の教師たちはこれを「原教科」と名づけた。しかし,こうして教科の学習の 原点をもとめて辿り着いた経路が,逆に教科の系統になっているのかというと,決してそうではなくキ チンとした学習課題と出会ったときには,一気にいくつもの段階を飛び越していくことができるのであ る。だから,「原数学/原教科」だとはいえないのである。わたしは「原授業」と呼ぶほうがよいので はないかと思っている。そういう体験そのものが子どもを育てるのであって,そういう体験を持たない 子どもと持った子どもとの問には生活/行動の面で質的な差異が認められるからである。遠山はモンテ ッソーり教具の内包する課題に注目して,それが生存していくための最も基本的な反応であることから 生存から生活そして科学へという体系を見ようとしたような形跡があるが,これは教科の体系そのもの

としては重要な指摘だと思われる。生活的な学習の限界や生活的な認識と科学的な認識との違いという ものについてキチンと把握しておくことが必要だということである。子どもの発達に即した教科の体系 というものこそ,真の教科の体系だろうからである。

 ドクロリ一一とモンテッソーリという二人の医者の生理学的教育方法を取り上げたのは,生活科が取り 上げようとする基本的生活習慣の形成の問題もまた同根ではないだろうかということである。基本的な 生活習慣に問題がある子どもたちは,生活のリズムが乱れている子どもたちと同義であるといってもい

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8 茨城大学教育学部教育研究所紀要2ユ号(1989)

いくらいである。基本的な生活習慣の形成とは,聞き分けのない落ち着きのない子どもを落ち着いた考 え深い子どもに育てるということだろうからである。どうして生活のリズムを取り戻させることができ るかということは障害を持たない子どもの場合であろうと障害を持った子どもであろうと変わることは ないのである。落ち着きのない子どもの行勤を投薬することによって抑制することはできるが,それは 治療でも教育でもないということである。投薬こそしないものの,あたかも即効薬であるかのようにし て子どもたちの行動を抑制しようとすることは,結局は子ども自身のなかに自らの行動をコントm一ル する力を育てることにはならないのである。

お わ り に

 茨城大学教育学部の大学院は「教育学研究科」だという。この場合の教育学というのはどういう学問 なのだろうか。ほかならぬ教育学の研究者にとっては気になる問題である。大学院のおかげで教育学科 というのも学校教育という講座になってしまった。事情を知らない人は教育心理学科などと合併したと 思うに違いない。学校教育という名称になると教育学としても心理学としても研究領域が狭まったよう な気がして窮屈である。どなたも,こうした所属を直訳の英文にしてみたら,あまりにも自分のやって いることと違うのでビックリすることになるだろうと思われる。大学院を修了した者は教育学修士にな るそうだが授与する方も授与される方も恥ずかしいとは思わないのだろうか。教育学部の出身だから教 育学士というのとは違うんじゃないかと思うのはコチラだけのことだろうか。

 教育研究所が,教育学研究所ではないのは救いだが,教育についての研究を進めるということになる と教育学の役割は大きくなるだろう。教育学のもっとも基本的な課題は教育とはなにかということであ って,それは子どもを一人前のオトナにまで育てることだといっていい。それは普通の科学の実験のよ うにある手続きをとるとそれに対応した結果がでてくるといったものではない。結果はさまざまだとい うことは始めからわかっている。それは,それでいいのである。ただ問題なのは,ある一つの方法があ たかも最上の方法であるかのようにして押しつけられることが多いということである。始めから結果は 多様だとわかっているのにである。それに,それぞれの子どもの教育の過程で発生する問題もまた多様 なのである。だから方法もまた多様なものとして用意されなければならないし,多様であるのが自然な のである。それに多様だからこそ研究が発展する可能性があるのである。いたずらに教育を複雑にして いるのは,この方法は一つで不可変のものだとする強制と誤解である。

 子どもたちには,それぞれの個性があり,それが生かされるような仕事や趣味や生活の方法をわがも のとする権利がある。教育の研究はそのためのものでなければならない。

参照

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