岡倉覚三とインド ―― 転回点としての渡印
清 水 恵美子
Okakura-Kakuzo and India : Trip to India as a turning point in his life
清水 恵美子
抄録
近代日本の美術思想家である岡倉覚三は、日本美術院の活動が停滞した 1901 年、突然渡 印した。帰国後、拠点を東京からボストンと茨城県五浦に移して再起を図った。岡倉の人生 は、渡印を挟んで挫折から再起へと転換しており、インドでの体験が、The Ideals of the East (1903) に見られるアジア観の構築だけでなく、生き方そのものの転機となったと考えられる。
本稿はこのような問題意識を持って、岡倉のインド体験の意義を再考する。まず、従来等閑 視されていた岡倉の仏教者としての側面を照射し、次に、ヒンドゥー教の僧ヴィヴェーカー ナンダとの交流について考察し、最後に、インド体験が帰国後の渡米と五浦訪問に及ぼした 影響について検討する。岡倉がインドを訪れたのは、仏教と日本美術の源流を探し求めるこ とによって理想に立ち返り、自己の使命を再認識する旅であった。渡印は、岡倉の人生にとっ て重要な転回点であったといえる。
はじめに
明治時代の美術行政家、美術教育家、思想家、「東洋」を「西洋」に紹介した人物として 著名な岡倉覚三(天心、1863-1913)は、1898 年(明治 31)3 月、いわゆる「美術学校騒動」
で東京美術学校校長職を退くと、同年 7 月に同校を連袂辞職した画家、彫刻家、工芸家たち とともに、日本美術院を設立した。「本邦美術の特性に基き其維持開発を図る」という主旨 のもと、新日本美術の創造を目指して研究制作、展覧会開設、絵画共進会への出品などの事 業を展開した[全集 3:442]。研究と試行錯誤の上、横山大観や菱田春草らによって生み出さ れた没線描法は、輪郭を描かず墨の濃淡で表現した没骨法を参考にして、西洋画における光 や空気の表現を取り入れようと意識した彩色であった。だが、日本画の伝統技法から逸脱す るものとして「朦朧体」と非難を浴び、日本美術院の財政は苦境に陥った。岡倉は、理想追 求の困難と日本美術院の経営難に直面し、挫折を味わうこととなる。
岡倉が渡印したのは、まさにこのようなときであった。1901 年(明治 34)12 月に日本を 出発した岡倉は、1902 年 10 月までインドで過ごした。1903 年 5 月頃に茨城県五浦に土地を 探し求め、翌年 2 月には渡米、ボストン美術館での勤務を開始する。さらに、米国から戻る
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と、岡倉は拠点を東京から五浦に移し、1906 年には日本美術院第一部を移転させる。ボス トンでの勤務を継続しつつ、日本美術院の再起を図ることとなる。
岡倉の渡印に関する先行研究は、滞在中に脱稿した初の英文著書
The Ideals of the East with Special Reference to the Art of Japan(邦題『東洋の理想』
1 1903)の分析や、美術史、日印文化 交流史の分野で蓄積されてきた2。ところが、インドでヒンドゥー教の僧スワーミー・ヴィ ヴェーカーナンダ Swami Vivekananda (1863-1902) と交流があったにもかかわらず、岡倉と宗 教という視座を中心に論じた研究は多くない。ヴィヴェーカーナンダは、1893 年(明治 26)9 月シカゴで開催された万国宗教会議で演説を行い、脚光を浴びることになったヒンドゥー 僧である。会議終了後、アメリカやイギリスでヒンドゥー教の伝道活動を展開し、多くの 信者を得た。The Ideals of the Eastの刊行に尽力したシスター・ニヴェディータ Sister Nivedita (1867-1911, Margaret Elizabeth Noble)もその一人である。一方、渡印と五浦移転との関係性 については、その影響関係が示唆されることはあっても、別々に論じられてきた傾向がある。
しかし、岡倉の人生が渡印を挟んで挫折から再起へと転換していることから、インドでの体 験は、そこでの宗教体験も含めて、アジア観の構築だけでなく、生き方そのものの転機となっ たと考えられよう。そこで本稿は、仏教者としての岡倉に注目し、ヴィヴェーカーナンダと の交流を中心にインドでの経験を照射する。さらに、インド体験が帰国後の五浦訪問に与え た影響を検討することで、人生の転回点としての渡印の意義を考察したい。
1.岡倉の渡印 1 - 1 渡印の動機
岡倉の渡印の理由は、いまだ明らかではない。先行研究や伝記を概観すると①人生におけ る挫折、②仏教者としてのインド訪問、③美術史観の構築という三つの理由に絞られる。
当時、岡倉は美術院の経営的苦境に加えて、上司であった九鬼隆一の夫人波津子(初子)
との恋愛関係によって家庭生活にも破綻が生じていた。堀岡弥寿子は、渡印は「当時東京か ら逃れたがっていた天心にとって絶好の逃避行」と位置づける[堀岡 1982:73]。だが、その 具体的目的は、日本で宗教会議の東洋版を開催するため、ヴィヴェーカーナンダを招くこと だったと述べた[堀岡 1974:159]。インドで岡倉としばしば行動をともにしたスレンドラナー ト・タゴール Surendranath Tagore (1872-1940) は、岡倉の渡印は「始めは仏陀の参詣のみが 目的だった」と回想しており、動機に仏祖の国への憧憬があったことがわかる[タゴール 1982:35]。1872 年以降、インド、スリランカ、チベット、ネパール、タイなど仏教文化圏の アジアへの日本僧侶の渡航は普通のものとなっていった[ジャフィ 2008:159]。このような 仏教界の情勢は、岡倉を仏跡巡礼へと向かわせる追い風になったに違いない。
一方、熊田由美子は、岡倉には中国美術とインド美術との影響関係を明らかにする目的が あったと述べる。岡倉は、パリ万国博覧会に出品する日本美術史編纂事業の中心的役割を任 されたが、「美術学校騒動」で免官となり、福地復一の主導で、1900 年『稿本日本帝国美術略史』
1木下長宏は、生前岡倉が書名に当てた訳語『泰東理想論』では「理想」の単数性が弱まっていると指摘し、東方世界の諸理想、複数の理想を指す 原著書名に近い訳として『東洋の理想態』を挙げている[木下 2005: 238-241]。執筆者は、岡倉自身の訳語と邦題への問題意識を重視し、本稿では 便宜上The Ideals of the Eastと表記することとする。
2現地資料を用いてインドでの交友関係を明らかにした堀岡弥寿子、ニヴェディータとの交流や日印美術交流における渡印の意義を追求し、岡倉の アジア観と東洋美術史構想を考察した稲賀繁美、インドでの古仏跡体験と美術史観の形成について分析した後藤末吉、『東洋の理想』執筆動機につ いて新知見を提示した熊田由美子諸氏そのほか多数の研究がある。
の仏語版
Histoire de L’Art du Japon
が、博覧会に出版された。『稿本』は、日本美術をアジア 諸地域の中に位置づけたThe Ideals of the East
とは対照的に、日本の皇統の一貫性が強調され、国民国家統合のための文化装置として、一国美術史の姿が集約されていた[稲賀 2001:199- 201]。それゆえ
The Ideals of the East
の執筆は、皇国史観的な日本美術史である『稿本』に対す る挑戦であり、美術史構築という理想のために渡印したと指摘する[熊田 2000:104-106]。岡 倉が日本美術源流の確認と美術史構築の発展という展望を持って渡印したことは、アジャン タ石窟やエロール石窟などの古蹟美術調査の実施、帰国後の講演会や雑誌論文における新た な日本美術観の提示からも明らかである。以上のことから、上記の三つの動機が結合して、岡倉の渡印を促したと考えるのが妥当で あろう。注目すべきは、宗教的な動機と美術的な動機が併存していることである。このこと は、「雪信」(岡倉の戒号)と美術思想家という二つの顔を切り離さずに、インドでの活動を 見ていくことの必要性を示唆している。
1 - 2 渡印の経緯
岡倉のインド行きには同行者が二人いた。ひとりは仏教者堀至徳(1876-1903)、もうひと りはヴィヴェーカーナンダを信奉するジョセフィン・マクラウド Josephine MacLeod(1858- 1949)である。この二人の記録から岡倉の渡印の宗教的目的を確認したい。
堀は、二十歳前後から真言宗室生寺の復興につとめた丸山貫長(1843-1927)に師事し、真 言宗の復興運動に従事していた。丸山貫長は、1884 年(明治 17)頃より仏教復興運動を起こし、
室生寺住職を辞した後も、真言実行会の主催者として運動を展開した人物である。岡倉にとっ ても丸山は師僧であり、1893 年 3 月 18 日、岡倉は真言実行院第二道場建立の資金百円を施 入して援助を行っている[春日井 1974:786-799] 3。
堀の日記には、1901 年 5 月 15 日に「前途ヲ思ヒ如何シテ真教興隆ノ目的ヲ達センカト其 レノミ也」、16 日に「洋行セントノ念昨日より起ル」と記される。「真教興隆」(真言宗の興隆)
の目的のために「洋行セントノ念」が起きたが、7 月 1 日に、堀が岡倉を訪問し「印度行キ ノコト」について話し合ったことから、それが具現化していく[堀 1971]。堀は丸山の運動 に関わる資金調達を行っていたことから、これ以前に岡倉と面識があったと推測され、7 月 9 日に二人が「真教興隆ノ為有力ナル談話」を行ったことから、両者がインド行きと「真教 興隆」で結びついていたことがわかる[中島 2010:324-325]。丸山は堀の渡航に難色を示したが、
8 月 12 日に「岡倉氏面談 発動的進歩ノ計画ヲ断ズ」とあるように、堀の決心は揺るがず、
10 月 17 日には岡倉に会い「印度渡航の事万事尽力セリトノコト」と記している[堀 1971]。
もうひとりのマクラウドは、ニューヨークで行われたヴィヴェーカーナンダの講演に深 い感銘を受け、熱心な信者となり、インドに赴いて彼を献身的に支えた[ニキラーナンダ 2010:190]。1901 年 2 ~ 3 月頃に来日した彼女は、岡倉と知り合う機会を得た。彼女は岡倉に 師の思想や成功を伝えたのであろう。岡倉はヴィヴェーカーナンダを日本に招くことを切望
3丸山貫長は、薬師寺、浄瑠璃寺、宇治平等院鳳凰堂の仏像、仏画の修復を手掛ける僧侶であった[池田 2006:139]。1908 年、岡倉は丸山貫長が住 職の奈良県大蔵寺にも弁事堂一宇を寄進した。大蔵寺には弁事堂と「明治廿六年陰暦三月廿一日釿始」「特別施主東京美術学校長帝国博物館美術部 長岡倉覚三」と記された寄進札と「弁事堂一宇 明治四十一年八月十五日 施主岡倉覚三」の寄進札が 2 枚現存する。2009 年 6 月 28 日、執筆者 が実見。
し、招待状と小切手を送付した4。小切手を受け取ったヴィヴェーカーナンダは、6 月 18 日 インドから岡倉に返事を送った。
あなたを友達と呼ぶことをお許しください。私たちは前世のどこかで出会っていたに違 いありませんから。あなたから 300 ルピーの小切手を間違いなく受け取りました。厚く 感謝申し上げます。私は日本に行くことを考えています。しかし健康状態が不安定で、
思うように物事がはかどらないだろうと、あれこれ考えています。私にとって日本は夢 です。――とても美しいので、絶えず思い浮かべております[CWSV 9:159]。
ヴィヴェーカーナンダは、万国宗教会議に向かう途中で日本に立ち寄ったことがある。彼 は、日本人の清潔さと立ち居振る舞い、美しい風景、組織化された軍隊、近代化の様子に目 を見張った。そして、多くの寺院に古代ベンガル文字で書かれたサンスクリットのマントラ があり、「日本人にとって、インドは今なおすべてが崇高で善良な夢の国」であることを知 ると[CWSV 5:8-10]、「東アジアにおけるインドの精神的思想の普及」に感銘を受けた[CWSV 3:440]。だが結局ヴィヴェーカーナンダは、健康不良を理由に来日を断念した。そこで、岡 倉は彼に会うため、インドに戻るマクラウドに同行することとなったのである。堀が岡倉に 接触を図ったのは、このような時であった。
堀は 11 月 4 日にマクラウド宅を訪れており、岡倉が、同行者である二人を会わせたもの と思われる。この後、岡倉は二人と会合を重ねて渡航準備を進め、12 月 7 日に門司からイ ンドに出港する。渡印の過程を見ていくと、岡倉が時間をかけて準備していることがわかり、
そこから「真教興隆」と「ヴィヴェーカーナンダ」という動機が浮かび上がってくる。
2.岡倉と仏教 2 - 1 仏教への帰依
岡倉は
The Book of Tea(邦題『茶の本』1906)では、禅以上に道教を高く評価しており、
東アジアの美術と深く結びついた宗教として儒教、仏教、道教を公平に扱っていることから、
岡倉がとりわけ深い仏教信仰をもっていたとは思えないという指摘がある[末木 2004:269]。
そこで、岡倉と仏教との関わりについて、時間を遡って見てみたい。
1885 年(明治 18)8 月、三井寺(園城寺)法明院第九代住職の桜井敬徳阿闍梨(1834-1889)
が上京して町田久成(1838-97)邸に投宿した際、岡倉はフェノロサ、ボストンの富豪ビゲ ロウとともに教えを受ける。同年 9 月 15 日、岡倉は敬徳に就いて菩薩十善戒牒を受けて「仏 子覚三」となり、さらに翌年 5 月 30 日、菩薩優婆塞戒と円頓一乗五戒を受けて、「雪信」の 戒号を敬徳から与えられることとなった5。
町田久成は、集古館建設を建言し、日本で最初の古社寺宝物調査(壬申調査)を行うな ど、古器旧物保存の文化政策に専念した人物で、博覧会事務局博物館が内務省(後に農商務
4ここから堀岡弥寿子は、岡倉やマクラウドが、ヴィヴェーカーナンダを招いて万国宗教会議の東洋版を開催する計画を抱いていたと推測する[堀 岡 1974:158-159]。
5 1885 年 9 月 21 日、フェノロサ Ernest Francisco Fenollosa(1853-1908) とビゲロウ William Sturgis Bigelow(1850-1926) は桜井敬徳より菩薩戒を受け、
法号を授かった。彼らを町田久成邸に滞在する敬徳に紹介したのは岡倉であったという。受戒後、ビゲロウはしばしば敬徳を訪問、あるいは東京 に招待して話を聞く機会を持ち、頻繁に書簡を交換した(山口 1982:437-444)。
省)に移管されると博物局長を務め、内国勧業博覧会の開催にも役割を果たした。1882 年 に、自ら建設を提議した上野の博物館の博物局長を解任されると、町田は出家を望むように なり、後に三井寺光浄院の住持となった。岡倉は、町田の文化財保護の構想を引き継いで発 展させたが、桜井敬徳に帰依したのも町田の影響があったと指摘される[吉田 2011: 14-28]
また、1883 年 11 月に創刊された『大日本美術新報』は、岡倉と今泉雄作が企画したもの で、主宰者は仏教者の大内青巒であった。刊行に際し、龍池会の河瀬秀治が援助をしている が、河瀬もまた大内青巒や浄土宗の僧、福田行誡らと交流して仏教帰依者となっており、聖 徳太子の顕彰のため、上宮教会を設立している[吉田 2011:39,59]。
一方、岡倉は古社寺調査を実施する過程で、仏像が美術的価値だけではなく、信仰の対象 として、人々と深い霊的結びつきを持っていることを認識することになる。1886 年に京阪 地方の古社寺調査を実施した際、調査報告書を作成し、十分な資力と権力を有する宮内省が 中心となり、多くの古美術品を収集して日本美術の全体像を示すべきだと述べる一方、「尤 モ全国諸寺ノ美術品ヲ尽ク採集スルノ意ニ非ズ。寺院美術品中ニ在テハ宗教上ニ必要ナルモ ノアリ。地方ヨリ移転シ難キモノアリ。又地方ニ保存スルコト有益ナルモノアリ」という見 解を示している[全集 3:345]。人々の信仰に必要な仏像や仏画などは、その地域から動かさず、
そこで保存したほうが有用である、と述べる姿勢からは、仏教美術品の持つ宗教的価値を重 んずる心情が見出せる。岡倉はこの古社寺調査の頃に、桜井敬徳より受戒しており、美術行 政官僚であると同時に、在俗仏教信者としての視点で、調査を行っていたことが窺える。こ のように、岡倉が仏教に帰依したのは、町田久成ら在俗仏教者の存在、桜井敬徳、大内青巒 ら仏教者の影響、古社寺調査で仏教美術に数多く接したことが背景にあった。
2 - 2 岡倉と仏教復興
1889 年(明治 22)12 月に桜井敬徳が示寂した後、岡倉は真言宗室生寺貫主の丸山貫長に 師事した。敬徳はその死に際して弟子たちに真言宗の長老のもとで修行するように遺言し たという[CEW 2:222]6。岡倉が敬徳の言葉に従って、天台宗と真言宗を学ぶことで、宗派 を超えた仏教の教えを理解しようと努めたことが推察される。岡倉が丸山と出会ったのは 1888 年の古社寺宝物調査の際、室生寺を訪れた時である[池田 2006:135]。岡倉の中根岸四 番地時代(1891 年冬より初音町に新居を構えた 1897 年冬まで)の中期、丸山は岡倉邸二階 の書斎に一ヶ月あまり滞在した。岡倉は丸山を「師父として尊崇し」、ともに毎朝五時に起 床し、床にかけた愛染明王の画像の前に結跏趺坐して、朝の勤行を怠らなかったという[岡 倉 1971:108]。岡倉は 1892 年 10 月 24 日に丸山に宛て、次のような書簡を送っている。
薬師寺ヘ差上タル書面御披見被下候や 其後静観スルニ真教の妙門自然ニ洞開スルモ ノヽ如し 諸法一もなく二もなし 第三義ハ即チ最勝義ニシテ心眼の中世間出世間の差 別相対ハ消滅セントス 後世仏道の衰頽アルハ出世間法ニ偏着シテ三一至妙の理ニ遠カ
6 1889 年春、ビゲロウは敬徳の生前に東京の伝道教化の場として円密(天台宗と真言宗)道場の建築を開始している。その後円密道場は東京美術 学校に移築された[山口 2010:6]。
リタルニ因ルナカランヤ 輪王ハ即法王ナリ 法王ハ即輪王ナリ 事理二相ノ真実ハ中 和ノ本体ヲ離レテ識得スヘカラス 真教ハ蓋し諸教法ノ従来偏欹スル所ヲ正し円満具足 セシムルニ外ナラサルへし 是レ余カ邪見カ将タ正見カ 正見ナレハ皆和上の賜なり 茲ニ大願ヲ発シテ謹テ和上ニ随テ無上ノ果ヲ証得セント欲ス 和上今年五拾才と雖トモ 未タ老ヒタリトナスヘカラス 覚三今年三十歳 請フ将来廿一年ヲ期しテ此願成就セン 初ノ七年ハ其種ヲ植スヘク中ノ七年其花ヲ見ルへく終ノ七年ハ其子ノ枝ニ満チテ後世蕃 殖の因トナルヲ知ラン 若し不幸短命ナラハ来世成道ヲ希フノミ 此念若悪念ナラハ和 上ノ垂示ヲ仰き候 若し善念ナラハ和上ノ加持力ヲ仰き候 行道の法果シテ如何 長夜 茫々唯々阿闍梨一燈の光ヲ待ツ 弟子覚三[中村 1991:345-346]
ここからは、彼の仏教理解と、修行に臨む誠意を窺うことができる。文中の「第三義ハ即 チ最勝義」とは、世俗・世間の判断を超えた仏教的真理、勝義(第一義、出世間)と世俗(第 二義、世間)の対立を超えた最勝義という意味に捉えることができよう。さらに「輪王ハ即 法王ナリ」(世俗の王即真理の王)「事理二相ノ真実ハ中和ノ本体ヲ離レテ識得スヘカラス」
という文言から、岡倉が俗と聖、世間と出世間、現象と真理、事と理など対立する二者の統 合を、真言の教えによって成就しようとしていたことが窺える。岡倉は、七年を種植え的な 活動、次の七年はその活動が花咲く時期、次の七年が次世代の育成、と祈願している。具体 的にどの活動を指すのか不明だが、現世の仕事を考えれば、美術教育の成就と発展を意味す るのであろうか。また、仏教が衰退した原因を「出世間法ニ偏着シテ」いるためとし、「輪 王ハ即法王ナリ」と述べていることから、岡倉は「仏法即王法」すなわち仏法と王法(世俗 の法律)は対立するものではなく、両者が並存・調和することで国家・社会は守られると捉 えていたと思われる。当時の真宗には、このような「真俗二諦」の考えが顕著にみられたの である[信楽 1982:11-12]。
国家と宗教とを結びつける岡倉の著述に「宗教行政ニ関スル私見」(1896 年)がある。東 京美術学校罫紙に墨書された岡倉の自筆草稿である。岡倉はこの中で、宗教は教育と同じよ うに、国民教化と公共の幸福において重要であり、国家は進んで神社、寺院、教会などを保 護し、かつその自由を認めなければならない、と説く。当時、宗教行政は「内務省ノ一小局 部」に属していたが、適当な機関ではないとし、行政の主義方針を一貫させるために、宗教 社寺の管理は、「文部省ニ属スヘキ」であると主張する。また、明治新政府が復古策を唱え、
神仏分離政策によって神社から仏教的要素を追放しようとしたために廃仏毀釈運動が起こっ たこと、現在も国家の保護が「神道ニ厚ク仏法之ニ次キ耶蘇教亦之に次ク」と偏重している ことを指摘し、我が国の宗教行政における仏教の重要性を説いた。
目ヲ転シテ仏教ヲ観ルニ欽明天皇以来殆ト二千年間歴世ノ皇室皆之ニ帰依シテ其弘道ヲ 助ケ政教相依テ国ヲ治メ教化深ク民心ニ徹シテ率土寺観ヲ覩サルコトナク僻陬誦経ヲ聞
カサルコトナキニ至リ 我国ノ宗教ハ近世ニ至ルマテ之ヲ外ニシテ一宗ヲ存セス政化文 物ヨリ器芸工匠ニ至ルマテ一モ仏教ニ関係セサルモノナシ 殊ニ文学美術ニ至テハ千古 貫穿スルモノ仏教ノ理想洵ニ之レカ伏繩タリ 一朝滅絶ニ委セハ我国ノ歴史ハ個々事実 ノ断片ト為リ了テ終ニ其真相ヲ求ムヘカラス 歴史上ノ関係ヨリスレハ仏教ノ消長ハ決 シテ之レヲ等閑ニ付スヘカラス(財団法人日本美術院所蔵)
このように、岡倉は日本文化における仏教の影響の大きさを訴え、仏教保護は国家の利益 に関係すると主張した。さらに宗教行政の重要点として「建築宝物ノ保存」をあげ、「美術 教育」と「宗教保護」を文部省が行う経済的かつ事務的な利点を訴えた。仏教の管理保護を、
文部省の管轄へと移すことを提言しており、そこからは自らの手で文化財保護とともに仏教 復興運動を推進しようとする岡倉の意図が窺われる。
また、岡倉はキリスト教についても、国家の保護が不十分で発達が妨げられていると改善 を促している。これは内村鑑三による不敬事件を契機に、井上哲次郎が『教育と宗教の衝突』
(1893 年)において、教育勅語を中心とした国民道徳に反するとしてキリスト教を批判した 態度と異にする。教育勅語に代表される国民道徳を、宗教を超越する秩序原理と位置づけた 井上の論に対し、岡倉は、大日本帝国憲法第 28 条で規定された信教自由の保証は「各人其 良心ニ随テ信仰スルノ自由」であり、その保証護持を「開明国ノ一ノ目的」と位置づけたの である。
ところがその 2 年後、岡倉は官職を失うこととなる。これは岡倉にとって最初の大きな挫 折であったろう。理想を掲げて日本美術院を立ち上げたものの、財政苦境と、波津子との関 係によって相手と家族に苦痛をもたらす結果となった。これはさらなる挫折に外ならなかっ た。1901 年 4 月 19 日、橋本雅邦に宛てた手紙には、公私ともに疲弊し、自責の念に駆られ る心情が綴られている。
万々不得止情境ニ迫リ候て浮世の事柄唯々厭ヤに相成此上ハ行雲流水ヲ逐い世外の月ヲ 看度考ニ有之(中略)些々タル一家の私事より世の事業ヲ捨テ候ハ如何ニモ狭量ニ有之 如何ニモ愚昧ニ有之人の笑草と相成候儀ニ候へ共狭量愚昧なる小生の天性ニハ到底一家 の風波ヲ見ルニ耐え兼候 年来耐えへ来たり候へ共此両三日ニ到リてハ世の中つく へい や に 相 成 申 候 古 の 世 ヲ 捨 て 家 ヲ 捨 て 候 人 々 の 心 モ 被 察 候 事 ニ 御 座 候[全 集 6:139-140]
さらに「小生外ニ居リ候とも院の事ハ忘れ不申」、「会計上の事ハ総而整理致し有之 今月 末ニハ収入十分ニ有之 此辺ハ御安心被下度候」と伝えており、日本美術院の経営から退く 覚悟をしていたことがわかる。岡倉の内部には積年の苦悩が鬱積しており、それゆえ仏教の 世界に深く傾倒していったことが推察される[中村 1999:237]。岡倉がマクラウドに出会っ
たのは、おそらくこの頃である。岡倉がヴィヴェーカーナンダに会うことを渇望した背景に は、このような個人的事情も大きかったと思われる。
3.岡倉とヴィヴェーカーナンダ 3 - 1 仏教とヒンドゥー教
岡倉一行は、1901 年 12 月 29 日にコロンボに上陸、翌年 1 月 1 日にマドラスに着いた。4 日にはヴィヴェーカーナンダに会うため汽車で移動した。車中において、岡倉と堀は「真 教興隆上ノ打合セ」 を行っている[堀 1972:59-60]。6 日にカルカッタ(現コルカタ) に到 着、 近 郊 に あ る 宗 教・ 教 育・ 奉 仕・ 厚 生 等 の 活 動 を 行 う ラ ー マ ク リ シ ュ ナ・ ミ ッ シ ョ ン Ramakrishna Mission の本部ベルル・マト Belur Math にて、ヴィヴェーカーナンダと対面を 果たした。1 月、岡倉は真宗大谷派の僧、織田得能(1860-1911)に書簡を送り、ヴィヴェーカー ナンダについて次のように伝えた7。
過般来当地に参りビベカナンダ師に面会致し侯 師は気魂学識超然抜群一代の名士と相 見へ五天到処師を敬幕せざるはなし 而して師は大乗を以て小乗に先んじたるものと論 じ目下印度教は仏教より伝承せる事を説き釈尊を以て印度未曾有の教主となせり。師は 又英仏語を能くし泰西最近の学理にも通じ東西を湊合して不二法門を説破す 議論風発 古大論師の面目あり 実に得難き人物と存侯 出来得べくんば小生帰朝の際同伴可致考 に侯[全集 6:149]
岡倉は、ヴィヴェーカーナンダと直接会って「気魂学識超然抜群一代の名士」であること を認識し、「実に得難き人物」として日本の宗教界に必要だと即時判断したことがわかる8。 岡倉が注目した「印度教は仏教より伝承せる事を説き釈尊を以て印度未曾有の教主となせ り」という考えについて、ヴィヴェーカーナンダは、1893 年の万国宗教会議で同じことを 主張している。彼は仏教部会において「私は仏教徒ではありません。それでも私は仏教徒な のです」と宣言し「ヒンドゥー教(ヴェーダの宗教のことです)と今日仏教と呼ばれている ものとの関係は、ユダヤ教とキリスト教との関係とほぼ同じです。イエス・キリストはユダ ヤ人でしたが、シャカ・ムニはヒンドゥーでした」「彼もまた、イエスと同様に、完成する ために来たのであって破壊するために来たのではなかったのです」と、仏陀がヒンドゥー教 の完成者であることを説明した。そして、仏陀の偉大さは、無知な人々、貧しい人々に対す る深い慈悲心にあったと述べ、「ヒンドゥー教は仏教なしに存在しないし、仏教はヒンドゥー なしに存在しません」と語った[CWSV 1:21-23]。ヒンドゥー教を成就する仏陀の話に岡倉が 共鳴したことは、The Ideals of the Eastの記述から窺うことができる。
いずれの解釈に従っても、本質的に仏陀の教えは魂の自由の教えであり、これを聴聞し
7 織田得能(生田貢)は、越前の本願寺派の寺に生まれ、教員を経て京都の高倉学寮に入った。1887 年上京し島地黙雷に認められ、後に黙雷との 共著となる『三国仏教略史』を刊行する。1888 年シャムに留学、帰国後浅草宗恩寺に入って織田姓となる。1898 年巣鴨監獄教誨師事件に際し石川 舜台を批判して、役職を剥奪された。晩年は『仏教大辞典』の作成に没頭するが、完成直前に亡くなった。
8一方、ヴィヴェーカーナンダは、岡倉を「美術の教授」で「日本の文化と美術の母国たるインドを見るためやってきた」と認識した[CWSV 9:176]。
岡倉は、2 月半ば頃に織田に渡印を促す電報を送り、ヴィヴェーカーナンダにその旨連絡している[CWSV 9:178-179]。
た人々は、すでに『マハーバーラタ』と『ウパニシャッド』のうちにある清浄なる「絶 対性」をたっぷりと飲んできた、ガンジス河の自由の民であった。(中略)貧しい小作 農を人間性の貴族の一員にするカーストという精神的封建制度をものともせず、仏陀は 無限の慈悲心を持って、庶民たちが心を一つに合わせることを夢み、社会的束縛を破ろ うと立ち上がり、万人に平等と同胞愛を宣言したのである[CEW 1:46]。
3 - 2 多様性の中の単一とアドヴァイタ
さらに岡倉が感銘を受けたのは、ヴィヴェーカーナンダが「東西を湊合して不二法門を説 破」したことであった。ヴィヴェーカーナンダは、多岐にわたる思想にも中心や共通の基盤 があり、それがヴェーダであることを主張した[平野 2009:97]。ヴィヴェーカーナンダによ ると、ヴェーダは「異なる時代の異なる人々が発見した霊性の法則の宝庫」であり、インド で起こった多くの宗派は、全てヴェーダの信仰の中に吸収され同化されたという[CWSV 1:6]。
さらに魂の必然的な結論は“Advaita(unity)”「アドヴァイタ(単一)」であり、宗教の目標は「多 様性と二元性を経て究極の単一性に到達する」ことだと説く。これは、科学の目標と同じで あり、ヒンドゥーは「多様の中の単一」を認識してきたと述べる[CWSV 1:14-17]。アドヴァ イタは、神と魂と宇宙は一つのものであると説くヴェーダーンタ哲学の一派で、ヴィヴェー カーナンダは、二元論は不二一元論に至る一段階であり、不二一元論を通してのみ、人格神 という様々な二元論的観念が調和されると主張したのである[ニキラーナンダ 2010: 330]。
あなた方の中に、私の中に、万人の中に、「自己」の中に、「魂」の中に存在する唯一の 「無限の現実」のほかに、永遠だと認められるものはどこで見つかるでしょうか?魂の 無限の単一性は、あらゆる道徳が永遠だと認めるところです。それはあなた方と私が兄 弟であるだけではなく――自由を目指した人々の奮闘を表したあらゆる著述があなた方 に説いてきました――あなた方と私は本当にひとつなのです。これは語り継がれたイン ド哲学です。この単一性は、あらゆる道徳とあらゆる霊性の理にかなうものです。今日 ヨーロッパは、虐げられたわれわれ民族と同じように、それを欲しています。この偉大 な原理は、今なお無意識のうちに、イギリス、ドイツ、フランス、アメリカで出来上がっ た最近の政治的・社会的願望のすべての基盤を形成しているのです(講演「ヴェーダー ンタの使命」1897)[CWSV 3:189]。
ヴィヴェーカーナンダは、西洋の文明社会に生きる人々が、科学と技術の急速な発展によっ て助長された生活の機械的、物質的な概念によって、霊的活力が損なわれていく内的苦悶を 感じていた。そこには、岡倉が欧州視察旅行(1886 ~ 7 年)で、西洋思想の閉塞感を感じ、ヨー ロッパ哲学が前進するためには、科学ではなく神秘主義によるしかなく、その真実を認めな い限り、ヨーロッパは再建する力を持たないと結論づけた[Kellogg 1913:224]ことと共通の
視座が認められる。
ヴィヴェーカーナンダは、不二一元論の修業を通して霊性の生活を開発することを目的 に、1899 年ヒマラヤの山中マーヤーヴァティーに、 アドヴァイタ・アーシュラム Advaita Ashrama を設立した。そこを訪れた岡倉は日本美術院に宛てて書簡を認めている。
此処は尼ネ パ ー ル波羅国境を距る四十哩 比ヒ マ ラ ヤ馬羅耶山を隔つる六十哩 英領印度の最北郵便点に 候 連日山路を踄り日夕は日旦より高く今は七千尺の処に在り 窓に対する雪山の乱峯 天半に白玉屏を横ふるが如し 中にも難ナ ン ダ デ ビ陀提毘の嶽は海面を抜く二万六千尺 我が駒ヶ 岳を大にしたる観あり 空気清爽 朝夕は初冬の寒さを覚エ候 山深く候へば猿鹿往々 路を遮り夜半月中遠く虎の声を聞くことあり 同行印度沙門一人(阿毘羅難陀)と僕伽 楼あり 伽楼頗る老実 小子身廻りの世話能く届き何も不自由を感ぜず候 身体頗る強 健是亦御安神被下度候(5 月 18 日)[全集 6:150]
岡倉が、ヒマラヤの「山深く」、「空気清爽」な大自然の懐に抱かれて、「何も不自由を感 ぜず候 身体頗る強健」で、霊的活力に満ち溢れた生活を送っていたことがわかる。岡倉が ここで影響を受けたことは、The Ideals of the Eastに表れている。彼はアドヴァイタの理念に ついて次のように説明した。
「アドヴァイタ」という語は、二でない状態を意味し、すべて存在するものは、外見が 多様であっても、本当はひとつだという、偉大なインドの教義に用いられた名前であ る。それゆえ、あらゆる真実はいかなる単一の分化の中でも発見されねばならず、全宇 宙はあらゆる細部の中に含まれている。したがって、全てが等しく貴重なものとなるの だ[CEW 1:128]。
岡倉はこのようにアドヴァイタを理解した上で、これを明治期の日本美術の記述に援用し た。近代国家の生活を強いられても日本が自らを維持できたのは、この国が祖先から教育を 受けた「アドヴァイタの理念」の根本的原理があったからであり、東洋文化の本能的な折衷 主義によって、日本は現代ヨーロッパの雑多な要素から取捨選択の判断ができたと述べたの である[CEW 1:122]。ヴェーダが多くの宗派を吸収したように、日本も流入したアジア美術 を同化したため、日本という「単一の分化」の「細部」に、多様なアジアの理想や知恵が「発 見」可能であり、それらが「等しく貴重」であると岡倉は言おうとしたのだろう。ヴェーダー ンタが説くアドヴァイタという礎の上に、日本とアジアの霊的融合を感じ、多様の中の単一 性を意識したことは、「脱亜」の思想が日清戦争を経て国民意識として定着していく日本の 社会状況の中で、岡倉の思想が反対のベクトル、日本をアジア、「東洋」に位置づける方向 に向かったことを意味している。
3 - 3 宗教の調和
岡倉が感銘を受けた「東西を湊合」する思想には、ヴィヴェーカーナンダが説く宗教の調 和の理想も含まれていたと思われる。ヴィヴェーカーナンダは、万国宗教会議で「源を異に するさまざまな流れが、すべて海で混ざり合うように、おお主よ、異なる傾向を持つ人々が 辿る道はさまざまで、曲がったりまっすぐだったり、それぞれ異なるように見えるけれど、
すべてはあなたに通じています」という讃歌を引き、この地上を占領する宗派主義、頑迷行 為、狂信的言動を直ちに終わらせるように訴えた[CWSV 1:4]。そして「キリスト教徒がヒ ンドゥー教徒や仏教徒になり、ヒンドゥー教徒や仏教徒がキリスト教徒になるのではありま せん。ただ各自が他者の精神を消化吸収し、しかも自己の個性を保持し、かれ自己の成長の 法則に従って成熟すべきであります」と述べ、宗教の調和を訴えた[CWSV 1:24]。ヴィヴェー カーナンダにとって、あらゆる宗教はそれぞれの信者を等しく導く有効な道であり、同じ完 成という目標に至る数々の道に向かうものであった。彼は、祖先の真理を西洋世界に示しつ つ、東洋思想と西洋思想の持つ普遍的要素を認め、その健全な交流を願ったのである。
このような宗教調和の考えは、日本美術の気韻を保持し西洋美術の精華を消化して新しい 美術を創出するべく奮闘し続ける岡倉にとって、おおいに共感できるものであったに違いな い。岡倉が『茶の本』やボストン美術館での講演で、仏教と儒教と道教をアジアの思想とし て公平に重視したことからも、宗教の調和への共感が窺われる。
3 - 4 仏跡巡礼
仏跡巡礼の旅は、インドでの霊的生活とともに、岡倉に再び美術史構築に向かわせる活力 を取り戻させることとなった。1902 年 1 月 27 日、岡倉とヴィヴェーカーナンダは、釈尊成 道の地ブッダ・ガヤーに向けて出発した。当初岡倉は、世界中から集まった信徒たちが、釈 尊成道の聖地を見た感動から、平和と善意の共通の理想に奉仕していると想像していた。だ が実際に行ってみると、寺院は荒廃しており、その環境の悪さに衝撃を受けた。そこで、そ の土地を譲り受け、聖地にふさわしい集団礼拝の場にしようと行動を起こしたが、東洋人へ の土地移譲の法的手続きは困難と僧院長に断られ、幻想に終わってしまったという[タゴー ル 1982:35]。
翌 2 月、二人はヒンドゥー教の聖地ベナレス(バナーラス)へと到着した。岡倉は 7 日に 初転法輪の地サールナートを訪れた後、ニランジャン Swami Niranjanananda に同行を頼み、
9 日からアーグラー、グワリオール、アジャンター、エローラ、チットゥール、ウダイプル、ジャ イプル、デリーを巡る旅に出た[CWSV 5:174・9:177]。ヴィヴェーカーナンダはベナレスに残 り、岡倉は旅先から手紙を送った。なかでも、岡倉が訪れたアジャンター仏教窟は、紀元前 2 世紀頃から紀元後 7 世紀頃に造営され、インド美術の変遷を反映する場所であった。彼は 帰国後、日本美術の源流がインド美術に遡ることをアジャンターで確認し、帰国後「アジャ ンタの壁画は我が法隆寺金堂の壁画とテクニックを同じうして居る」「アジャンタの石窟は
第六七世紀の壁画ありて、法隆寺金堂のとは、その形式毫も異らず」と述べた[全集 3:263・
267]。また、仏教石窟、ヒンドゥー教石窟、ジャイナ教石窟など多様な宗教美術の遺跡から 成るエローラ石窟寺院群を訪れた岡倉は、「エロラの石彫の如きは支那洛陽龍門山の仏像、
又は我が薬師寺の三尊仏と様式を同じうする。是等は其当時、印度人が夥しく支那に伝道の 為めに入りし事、又陳那三蔵、真諦三蔵、玄奘三蔵其他が求法の為に印度に入ってその様式 を伝へた結果でもある」と、インド、中国、日本における宗教と美術の交流と伝達を確信し た[全集 3:263]。
インドを訪問した仏教者の多くは、岡倉のように仏跡の巡礼に関心を抱いたが、インドの 現状には関心がなく、渡印した仏教者の記録には、民衆に関する記述が欠如しているという。
インドの仏教衰退と非文明的な民衆は、仏教を継承する日本人の文明的優位性を確認するた めの装置として機能していた[中島 2010:342-343]。だが、岡倉の関心は仏跡だけでなく、当 時の民衆の生活にも向けられた。彼は
The Ideals of the East
で「アジアの簡素な生活は、蒸気 と電気によって今日に至ったヨーロッパと対照的だが、それを恥じる必要はまったくない」と述べ、「優しさと親しさが満ちている」インドの生活文化を叙述した[CEW 1:129]。イン ドの若い芸術家たちと交流して日印美術交流の道を作り、英国からの独立を目指す人々のナ ショナリズムに共感した岡倉は、多くの日本人仏教者と異なるまなざしで、目の前に存在す るインド文化とインド人に交わっていったのである。
3 - 5 宗教会議の計画
岡倉から連絡を受けた織田得能は、2 月 22 日に横浜を出発した[春日井 1965:157]。4 月 2 日に岡倉は織田を伴ってベルル・マトを訪れ、ヴィヴェーカーナンダと堀に紹介した。この 日の堀の日記には「ウパニシャト等ニ付テ談話あ里 大乗非仏説云々ニ付て予ハ 或る経文 ニ於テ予ハ末法世智弁総ノ者大乗ノ仏説ナルヲ疑フテ非仏説ト云々記載シアリミツ 其他の 談話ハ スワミ氏と予と暗号セリ 織田氏ハ学者ナルモ教家ニアラザルカ此夜朝まで瑜伽」
と記され、四人がヒンドゥー教や仏教について談義し、朝までヨーガを実践したことがわか る。堀は織田に、教家よりも仏教学者の印象を持ったが、ヴィヴェーカーナンダは、マクラ ウドに「私は織田が好きです。彼は真剣です」と伝えている[CWSV 9:183]。
4月 19 日、岡倉、織田、堀は、ブッダ・ガヤーに出発した。22 日の夜は「岡倉君及織田 氏共二人の最要件ニ付テ」談話を行った。この時三人が話した内容は、7 月 21 日の堀の日 記から窺える。
九月上旬彼の織田氏等の発起ニカカル宗教大会いよいよ開会の事ニ付当地タゴール氏初 め岡倉等大凡二十人斗り日本へ至ル由キク 先般織田氏との話しの節其節予も帰国して 此ノ大会に臨み真教の正意ヲ演説して興隆の途中ニセント思ひ居りし候 岡倉君も左様 [堀 1972:75]
三人が釈尊成道の地で、「宗教大会」 の開催について話し合ったことがわかる。 織田は 1901 年 2 月、法要、布教、慈善を目的に発足した東亜仏教会の中心となって活動していた。
織田は日本の仏教者が中心となり、シャムや西蔵に気脈を通じ、仏教復興を成し遂げようと 考えていた。しかし、組織が弱体で活動不十分であったため、世間から批判され、活動は下 火になっていった[石井 2008:16-17]。マクラウドは来日時に東京で織田と知り合っており、
このことが織田の渡印の契機となったという[メダサーナンダ 2009:76]。ここから宗教会議 のヴィジョンが、渡印前の織田、マクラウド、岡倉との間で描かれていたことは十分に考え られ、ヴィヴェーカーナンダと堀の存在によって、より現実味を帯びたと考えるのが自然で あろう。堀は宗教会議の趣旨に賛同し、開催の折には帰国して「真教の正意ヲ演説して興隆 の途中ニセント」考えていた。「岡倉君も左様」の記述から、岡倉も会議で演説し、仏教復 興の推進に努めようとしていたことが窺える。織田は、ブッダ・ガヤーから戻ると、5 月 1 日にインドを発った。北京ではチベット仏教僧の阿嘉呼図克図と、南京では仏教研究家の楊 仁山に会い、同意と協力を得るなど会議の準備に奔走した[春日井 1975:452]。
しかし、ヴィヴェーカーナンダが宗教会議に出席することはなかった。4 月 21 日、ヴィ ヴェーカーナンダはマクラウドに、日本に行く計画はほぼゼロになったと告げ、「私は日本 人に十分精通していない」と語った[CWSV 5:179]。健康状態の悪化に加えて、彼が信徒の ブル夫人 Sara Bull (1850-1911) に「民族はまず、結婚の神聖化と不可侵性を通して、完璧な 純潔の理想に到達するまで、母性への大いなる敬意を養わねばなりません。(中略)近代仏 教――結婚の進化に到達していない諸民族の間で堕落してしまった――は、出家生活を滑稽 なものにしてしまいました。そのため、結婚について偉大で神聖な理想(互いの魅力や愛情 とは別にして)が日本で発展するまで、どうやって偉大な僧、尼僧が生まれるのか私にはわ からない」と告げたように、出家の理想と結婚生活の誠実さとの関係について、日本人に理 解されるかという疑問があったのだろう[CWSV 5:180]。もはや彼には、それを強く訴えか けるだけの気力も時間も残っていなかったのである。
堀の 5 月 11 日の日記に「三月スワミ帰りシヨリ彼ハ病気の為皆々多忙等ニテ休業セリ也」
とあるように、ヴィヴェーカーナンダの容態は 5 月に入ると悪化の一途を辿った。堀はベル ル・マトでサンスクリットの勉強を始めていたが、狭小な部屋に移され、6 月 2 日にはマラ リヤに罹って倒れてしまう。マーヤーヴァティーから戻った岡倉は、6 月 11 日ベルル・マ トを訪れ、身体衰弱した堀をスレンドラナート宅へ移す手配をした。堀はタゴール一家の庇 護のもとで、ようやくサンスクリット研究に打ち込む環境を得る。待遇の変化について堀は
「予の接待マッツニ於テ変セシハ岡倉君とスワミブベカナンダ氏との間に少々行チガヒアリ シ為メト岡倉君より話シアリ」と記した[堀 1972:72]。岡倉の言う「少々行チガヒ」とは、
宗教会議の出席をめぐってのことであろうか。来日を断ったヴィヴェーカーナンダと、会議 開催によって仏教復興運動を推進したいと願う岡倉との間に、当初とは異なる距離が生じた ことは容易に想像できる。
だが、ヴィヴェーカーナンダは 5 月 15 日マクラウドに「静寂という偉大な理想が訪れま した。私は永遠に引退するつもりです。――もう仕事はいたしません」と告げ、すでに肉体 の死を覚悟していた[CWSV 5:179-180]。ヴィヴェーカーナンダが理想としたのはサンニャー シン Sannyasin(神を悟るために世間を捨てた人)であった。彼はかつて弟子のグッドウィ ン J.J.Goodwin に宛てた書簡の中でこう語っている。「全世界――説教も教育も全てのものを 含めた――は、単なる子どもの遊びです。『憎むことも欲することもしない者はサンニャー シンだということを知りなさい』(『バガバッド・ギーター』第 3 章)悲惨と病気と死が常に 繰り返されるこの世界の小さな泥の水たまりの中で何を欲するのですか?『一切の欲望を捨 て去った者だけが幸福なのです』」(1896 年 8 月 8 日)[CWSV 8:383-384]。すべての仕事を放 棄して、永遠への旅立ちの準備を始めたヴィヴェーカーナンダが、会議が原因で堀の部屋替 えを指図したとは到底考え難い。
世間での役割を終えたと感じ、現世への無執着を深めるヴィヴェーカーナンダと対照的 に、岡倉はインドで自己の使命を再認識することとなった。日本美術の源流発見は、彼を日 本美術史執筆へと突き動かし、仏教復興の使命感は、宗教会議開催へと向かわせた。日本美 術院画家たちの活路を見出そうという思いも生じたであろう。橋本雅邦への手紙や、マーヤー ヴァティーでの霊的活力の回復からわかるように、岡倉の内奥に、世俗を捨て精神世界に生 きるサンニャーシン的隠遁生活への憧憬があったことは明らかだが、このときの岡倉に仕事 を放棄することは困難であった。「少々行チガヒ」は、放棄に対する二人の違いを示唆して いるように思われる。
ヴィヴェーカーナンダの病状は回復することなく、7 月 4 日にこの世を去った。岡倉は泣 き伏すニヴェディータを優しく介抱したという[タゴール 1982:41]。訃報は岡倉から堀に伝 わった。宗教大会には代わりに「当地タゴール氏」すなわち詩聖ラビンドラナート・タゴー ル Rabindranath Tagore(1861-1941) を招くことに計画が変更されたのである。
4.帰国そして五浦へ 4 - 1 宗教会議の挫折
岡倉は 10 月 6 日、インドから帰国の途に着いた。堀は、岡倉に何度も帰国を勧められたが、
研究に専念するためインドに残った。岡倉は 10 月 30 日に神戸に帰着後、宗教会議を開催す べく京都麩屋町の旅館柊屋に滞在し、織田とともに京都市長や府知事を訪ね、協力を求めた。
だがイギリスの干渉、内外からの誹謗中傷、仏教各派の諸事情が重なり、宗教会議の計画は 挫折してしまった[石井 2008:18]。11 月 9 日の『萬朝報』は「岡倉覚三と印度人」と題し、
次のように非難した。
近頃日本の勃興につれて無智なる印度の人民が帝国を宛さながら東洋の救世主たるが如く渇仰 するにつけ込み私利を営まんと謀り不埒の輩少なからぬことながら中にも岡倉覚三が演
じ出したる一場の劇こそ最も重大なるものなれ 人も知る如く岡倉ハ谷中美術院の長な るが今年の初め美術視察の為めと公言して世界漫遊を企て怪しき関係ありと伝へらる某 米国婦人を同伴して先づ印度に赴き右の米国婦人をして同地の公衆に盛に自己の勢力学 識ある日本紳士なることを吹聴せしめ 自己ハまた政府また政府特派の委員なり等公言 しけるより日本の事情に通ぜぬ印度人ハ煙の捲かれ到る処彼を歓迎して王侯の如き待遇 を彼に与えしかバ岡倉は印度人の与し易きを見て途方もなき大風呂敷を拡げ大胆にも彼 等を煽動して利する処あらんと企てたり 其企て如何にといふに彼ハ印度の諸新聞雑誌 に一の記事を掲載せしめて曰く本年十月日本東京に於て東本願寺中心となり東洋諸国の 宗教大会を開き印度へハ殊に郵船会社の船一隻を送りて来会者を招聘すべしと。これと 同時に印度の諸新聞ハ筆を揃へてこハ絶東帝国の新文明を見るに最上の好機会なりと論 ぜしかバ印度人の本邦に来遊せんとする者非常に多かるべき様子の見えたるが、其実宗 教大会の談ハ跡形もなきことなれバ岡倉は其法螺の当り過ぎたるに驚き、ともかく大会 やうのものを東京に開きて面目を保たんとてカルカッタより電報を以て東本願寺の有力 なる一僧織田得能を至急に招き寄せ自己が計画を打明けて如何にせんと相談に及びたる 結果織田ハ印度遑シ ャ ム羅支那等に遊説して諸派の高僧を日本につれ帰らんと企てしがここに 彼等にとりて不幸なるハ彼等の目指せし印度の一高僧並に支那のラマ管長が其頃死去せ しことにてこれが為めに彼等の計画は全く打破られたり。
新聞には、岡倉が「無智なる印度の人民」につけ込み「私利を営まん」との目的で、宗教 会議の開催を謀り、織田得能を加担させたことが書き連ねられている。事実を著しく歪曲し た内容から、「東洋諸国の宗教大会」開催をめぐる衝突の大きさが察せられる。仏教復興を 掲げ宗教会議開催を目指してきた岡倉にとって、計画の頓挫と云われなき中傷は、再び大き な挫折となった。
だが岡倉は、 逆風を受けながらも京都に留まり、 法相宗興福寺の住職大西良慶(1875- 1983)と、桜井敬徳の十三回忌法要への出席等を目的に再来日したビゲロウに会っていた9。 大西と堀至徳は渡印前より書簡を交わしており、大西はインドでの堀の行動を把握していた
[春日井 1975]。ビゲロウは、1885 年 9 月に桜井敬徳より受戒して「月心」の法号を得ていた。
以来、岡倉はビゲロウと桜井敬徳、三井寺法明院十世の直林寛良との往復書簡を翻訳し、二 度『天台小止観』を英訳して送るなど、二人の交流には仏教があった。岡倉は後に、インド 滞在中に、ボストン美術館理事のビゲロウに書簡を送り、同館所蔵の日本美術コレクション 研究の希望と報酬額を伝えたところ、ビゲロウから「可能」との返事を受け取ったため渡米 したと説明している「CEW 3:351」。とすれば、京都滞在時に二人の間で、渡米に関する話が 進展したと考えるのが自然であろう。1903 年 1 月、ビゲロウは日本を出発し、ヨーロッパ 経由でボストンに戻った。岡倉が渡米したのは翌 1904 年 2 月であり、4 月にはボストン美 術館の日本絵画および彫刻のエキスパートというポストを得ることになる。岡倉の新たな活
9 大西良慶は、1889 年奈良の興福寺に入り、1890 年には法隆寺の佐伯定胤に学び、1899 年に興福寺 231 世となった。1904 年には法相宗の管長に就 任し、後に京都清水寺の住職となる。大西の堀至徳宛て書簡には『スワミブベカナンダ』氏の事欽慕ニ不堪候一応面会の上万事物語致度」(4 月 30 日付)とある[春日井 1975:450]。
動の舞台となる米国ボストンへの足がかりは、こうして作られたのである。
岡倉はボストンで「東洋」文化を発信する活動を行っていく。だが、それを可能にしたの はインドでの体験があったからだと考えられる。岡倉が
The Ideals of the East
を執筆し得たの は、インドで日本をアジアの中に位置づけることができたからであり、執筆は日本と「東洋」とを再編成する事業であったと言える。インドで日本と「東洋」を「西洋」と対比させると いう再構築ができたからこそ、西洋社会において、「東洋」文化発信の活動を行っていくこ とが可能になったと言えよう10。
4 - 2 五浦の土地購入
1903 年の 4、5 月頃、岡倉は景勝の地を求める目的で常磐地方を訪れ、その過程で五浦を 発見した。そこは奇勝の海岸で、海に突き出た平台に、多賀郡の実業家が建てた観浦楼とい う建物が荒れ果てて放置されていた。一目見るなり気に入った岡倉は、早速土地の購入を決 めた。
岡倉がなぜ常磐地方に土地を求め、五浦が心に適ったのかについて、小泉晋弥は、岡倉が 中世でもっとも卓越した画家として、北茨城と福島で活躍した雪村を評価していたことか ら、常磐地方に雪村のイメージを持っていたのではないか、と推察する。また『八種画譜』
などに見る水辺の小さな草堂の画には、水の傍らに文人が佇んでいるイメージがあり、それ が五浦の風景と重なることから、岡倉が自分の住まいを文人の住まいに準えようとしたので あり、「自らの世界をはっきりイメージ化させる」意図で五浦を選んだのであろうと指摘す る[小泉 2010:165-167]。
五浦訪問はインド帰国後、半年余の出来事であった。旅行に同行した日本美術院研究会員 で多賀郡出身の飛田周山は、当日の岡倉の様子を「印度から還られたばかりの御様子で、髪 は蓬々、色は焦げて黒く、それに頭には風帽を戴き、身には道服を着け、六尺に余る竹の杖 を手にするといふ有様」と回想している[斎藤 1974:122]。この格好には自らを陶淵明に擬 して下野した人間だという立場を示す意図があり、岡倉は着用する服装によって自らの立 場を表現していたと指摘される[小泉 2010:165-166]。岡倉は 1899 年(明治 32)2 月、広島 の古社寺調査でも「道者の様な服を着て」おり、下野した後に道服を着始めたことがわかる
[吉田 2009:272]。岡倉はインドでは「自らのデザインによる、道服を模した外套と頭巾を中 国製プリント地でカルカッタの仕立屋に作らせてこれを着用していたのだが、それがまた周 囲の状況の中で、異様とも何とも言いようのない効果を生じ」させていたという[タゴール 1982:37]。カルカッタで仕立てた「道服を模した外套と頭巾」には、陶淵明とサンニャーシ ンという二つの隠棲者のイメージが重なりあう。岡倉が五浦訪問時に着用していたのは、イ ンド滞在時の服だったかもしれない。
岡倉が、ベルル僧院やアドヴァイタ・アーシュラムで経験した霊性に満ちた生活は、都会 への無執着を生じさせ、自然の中で静かに瞑想に集中し、霊的なインスピレーションを得ら
10 木村競は、岡倉の思想は「日本」と「東洋」対「西洋」という対比・二元性が表立って見えるが、裏側には「日本」の他者としての「東洋」が 透けて見え、この時期の思想を「再構築型ナショナリズム」と位置づけた[木村 1998:303-306]。
れる場所を求めさせたのではないだろうか。宗教会議の計画は挫折したが、同時にボストン という新たな活動の場を得た。岡倉はこの時放棄の道を選んだわけではなく、むしろ自分の 使命感を全うするため、新たな土地で、世俗の仕事に取り組もうとしていた。その仕事のた めに、自分に霊的活力を呼び戻すための特別な場――ひと時の静寂と平和を与えてくれる『茶 の本』で描かれた「茶室」のような日常の中の聖域――を探し求め、五浦を発見したように 思われる。
さ ら に、 五 浦 を 探 し 出 す 時、 岡 倉 の 脳 裏 に は タ ゴ ー ル の シ ャ ン テ ィ ニ ケ ト ン Shanti Niketan の学び舎もあったのではないだろうか。1901 年 10 月タゴールは家族を連れて、カ ルカッタから 100 マイル以上北にあるシャンティニケトンに移住した。父マハリシの瞑想の 地で「平和の住まい」を意味する大自然の一隅に、タゴールは自らの理想の教育を実現する ため、森の学校を発足させた。ベルル・マトから移動した堀は、そこでサンスクリット語の 勉強に集中した。シャンティニケトンの自然、瞑想、平和というイメージは、アドヴァイタ・
アーシュラムに通じるとともに、六角堂の建てられた五浦の風景に重なり合う。岡倉が一目 見て気に入ったことから、五浦の景観に、自分の理想とするいくつかの心象風景が重なった ことは十分首肯できる。岡倉は自然の中に住まいを求めた後、やがて理想を実現すべく、日 本美術院第一部を五浦に移転させることとなる。
岡倉は五浦の土地購入を進めながら、11 月には第一回二十日会において講演を行った。
岡倉は画家に「精神教育」を図ることを求め、「画筆を執らんと要せば、須らく古の宗教家 の如き熱心を以てせよ」と、宗教家のような求道の精神で、日本画の改良に臨むことを求め た。描く対象や画家自身の精神性を写した作品を求める岡倉によって、芸術を創作する精神 は宗教の域にまで高められた。岡倉は、「精神の安住は絵画に取りて必要の事たり。作画の 危なげなるは畢竟其心危ければなり」と述べ、画家にとって精神が安定し制作に集中できる 環境を整えることが最優先されると説いた[全集 3:280]。新しい日本画の創造に宗教家の 如き精神性を求めたことは、インドでの経験が岡倉の美術教育に与えた影響と見ることがで きる。このことが、1906 年五浦に日本美術院第一部を移転させ、制作に集中できる環境で 研鑚を積み、再起を図ろうとする意志につながっていく。
1903 年 12 月 9 日、渡米を二か月後に控えた岡倉は、娘の高麗子に手紙を送った。
父も理想ニ棲ミ其理想も幾度か破れて今は世ニもあられぬ身なれとも当初よりの天然の 誠ニ至りては終始一貫の積り 古今万国の道も此外ニあらずと存候 真情を忘るへから す忘るへきは真情ニあらす 欲しき物を何物ニても被申越へく候 思ふ事何事ニても被 申越へく候 真実自然を保ちて世は安穏ニ御座候 呉々も情真誠を尽さるるヲ望ミ候 [全集 6:156]
岡倉が「理想も幾度か破れて」も、初志を忘れず、心を偽らずに生きることを決意したこ
とが素直に綴られている。挫折を繰り返しながら理想を捨てず、隠棲者への憧憬を抱きなが ら放棄の道を取らず、岡倉は自己に再度使命を課し、再起を図ったのである。
おわりに
以上、岡倉の仏教者としての側面を照射しながら、ヴィヴェーカーナンダとの交流を考察 し、インド体験が帰国後の渡米と五浦訪問に及ぼした影響について検討した。
岡倉にとって、インドは仏祖の国であると同時に、日本美術の源流を解く国であった。綿 密な渡航準備が示すように、それは衝動的な逃避行動ではなく、むしろ苦境に追い込まれた 現状から脱するため、活路を求めて踏み出した一歩であった。「真教興隆」、ヴィヴェーカー ナンダ、仏跡巡礼という渡印の目的が、日本美術源流を確認する旅と重なっていたところに、
在俗仏教者であり、美術思想家でもあった岡倉の特徴があろう。岡倉がインドで、芸術と宗 教の一体性を確信し、アジアとの関係の中で日本を再構築した意味は大きい。
さらにインドで岡倉が得たのは、ヴィヴェーカーナンダやタゴールをはじめとする人的交 流であった。特にヴィヴェーカーナンダとの出会いは、岡倉の宗教観、アジア観、芸術観に 影響を与えることとなった。
インドから帰国後は、宗教会議開催の失敗から脱却を図るかのように、岡倉は新天地アメ リカへの足がかりを得、自己の理想的空間として五浦を発見した。渡米後は、ボストン美術 館の東洋美術コレクションや著述を通して、西洋社会に東洋文化を紹介し、「東洋」と「西洋」
の調和を図る活動を行っていく。五浦訪問は、後に日本美術院を移転させる礎となり、岡倉 を新日本画創造の使命に再び向かわせることになる。浄土真宗の僧七里恒順(1835-1900)は「真 俗二諦」について、真諦は世俗を捨て往生を願うことで、俗諦は世間にとどまって渡世職業 に力を尽くすことと捉え、真諦と俗諦の関係は、絶対的に矛盾対立するものでありながら、
しかも同時に即一するものであり、両者は相互に助成すると説いた[信楽 1982:23-26]。岡倉 は晩年の十年間、アメリカと日本という二つの拠点で世俗の仕事に力を尽くし、同時に五浦 で隠棲的な生活を送った。そこに仏教者「雪信」の「真俗二諦」の生き方を見るのである。
人生の挫折を味わった岡倉がインドを訪れたのは、自己の源流を探し求めることによって 理想に立ち返り、人生の再起をかける旅であったと位置づけられる。それゆえ、渡印は、岡 倉の人生にとって重要な転回点だったといえよう。
本稿では紙幅の関係で割愛せざるを得なかったが、岡倉の思想に影響を与えたインド体験 として詩聖タゴールとの交流があったことは言うまでもない。また、その後の彼の活動を考 える上で、ヴィヴェーカーナンダの信者である西洋人女性たちと、ベンガル・ルネッサンス の旗手である若き芸術家たちとの交流は重要である。稿を改めて考察したい。資料の遺漏や 仏教解釈の誤りに関しては、諸家のご教示とご指摘を乞いたい。
謝辞
本稿執筆にあたり、様々な御教示と貴重な資料を御提供いただきました稲賀繁美、木下長 宏、スワーミー・メダサーナンダ、中村愿、山口静一、吉田千鶴子、和田真理子の各氏、財 団法人日本美術院、日本ヴェーダーンタ協会、日本ボストン会、お茶の水女子大学比較日本 学教育研究センター近代比較思想研究会に感謝を申し上げます。
付記
本稿は、科学研究費(課題番号 21520364)の助成を受けたものである。
参照文献 一次資料
『岡倉天心全集』(文中「全集」と略記)3 巻、1979 年、平凡社。
『岡倉天心全集』(文中「全集」と略記)6 巻、1980 年、平凡社。
Okakura Kakuzo Collected English Writings (文中 CEW
と略記), vol.1, 2, 3. 1985, Tokyo: Heibonsha.岡倉覚三「宗教行政ニ関スル私見」(草稿)財団法人日本美術院所蔵(『全集』3 所収)。
The Complete Works of Swami Vivekananda (文中 CWSV
と略記), vol.1, 3, 5, 8, 9. 1973-1997, Calcutta:Advaita Ashrama.
Kellogg, Clara L., 1913, Memoirs of on American Prima Donna, NY:G. P. Putnam's Sons.
「岡倉覚三と印度人」『萬朝報』(明治 35 年 11 月 9 日号)
研究書、二次資料
井上哲次郎 1893『教育と宗教の衝突』敬業社。
池田久代 2006「岡倉天心と奈良―室生寺の丸山貫長と堀至徳―」『知に遊ぶ教養』皇學館 大学出版部。
石井公成 2008「明治期における海外渡航僧の諸相―北畠道龍、小泉了諦、織田得能、井上 秀夫、A・ダルマパーラ―」『近代仏教』15 号、日本近代仏教史研究会。
稲賀繁美 2000「ジョセフィン・マクラウドとシスター・ニヴェディータ『天心・岡倉覚三』
を 国際市場に売り出したふたりの白人女性」『異国への憧憬と祖国への回帰』明治書院。
2001「日本美術史の変遷―印象主義日本観から『東洋美学』論争まで」『環』6 号。
ヴィヴェーカーナーンダ・スワーミー 1983『わが師』日本ヴェーダーンタ協会。
岡倉一雄 1971『父岡倉天心』中央公論社。
春日井眞也 1965「インドと日本(二)―岡倉天心の果した役割」『仏教大学研究紀要』47 号、
仏教大学学会。
1974「私の中の日本人―丸山貫長(1843―1927)の仏教復興運動」『井川定慶博 士喜寿記念:日本文化と浄土教論攷』井川定慶博士喜寿記念会出版部。