茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)34号(1985)87−110 87
「妖精の女王』における「正義」の概念(上)
小 紫 重 徳
(1984年9月29日受理)
Justice inτ乃ε・配zθア e C〃θθηθ(1)
Shigenori KOMURASAKI*
(Received September 29,1984)
Abstract
Although Book I of 7フ2θ・勘θア∫θ9配θθηθhas l)een unfavoura1)ly criticl医ed chiefly on account of its historical anegoly, the analysis suggests that the book should be read more as an representation of Spenser s ideal of justice than as a historical document. In this filst haユf of the essay of mine・it is shown that Artega聾 s Justice signifies not only particular justice, a moral viエtue, which is both the uprightness in a man s interior fbehngs and the outward actions rightly d姓ected by natulal reason, but also legal justice, which disposes of the oommon goo40f the commullity. These specific fbrms ofjustice are needed fol the regaining of oligillal justice which used to Iule the Paladise before the Fall. In the process of the pelfbction of Artega皿 s Justice, Talus fullctions as legal executive fbrce peffbrming acts of fbrming good habits in men, and his career i皿ustrates the initiation and maturation of positive 1aw・111 Spense1 s pohtics ・justice and law are identical to a degree. Other conceptions, such as ・q・ity ・ pi・ty ・ mercy ,・t・・, aτe t・be analyzed in th・n・xt half・f ths essay.
序
Gドマンド・スペンサー(Edmund Spenser,1552?−1599)の寓意・的物語詩, r妖精の女王』
(The Faerie Q ueene)の第五巻「正義の物語」(The Legend of Artegall or ofJustice)は,同じ作品 の他の巻との比較でいえば,どちらかというと否定的に批評されてきたことはたしかである。たと えばチーニィ(Donald Cheney)は,この巻の失敗は「その巻の,何ら単一の主旋律に主導されない 非常に複雑なイメジャリィ」( its very complexity of imagery, unguided by any single, dominant strain に起因すると考え1≧またその寓喩の素材について,この巻の「異様な程不運な歴史的相似の 選択」( asingularly unfortunate choice of historical analogy bに原因する「不快な概念的狭量」
茨城大学教育学部英文科 Department of English,Faculty of Education,Ibaraki University.
( arepellent narrowness of conception )を指摘し,かつこの物語の主人公であるArtegal1とそ の下僕のTalusの仮借なさのうちに「苛酷すぎるほど抑圧的な警察権力」( asternly repressive police force )の原型を認めて不快の念を隠さない2)。さらにその寓意の質については,オコンネル
(Michael O℃onnell)は,第五巻の山場であるMercillaのエピソードで,「スペンサーは,正義を 律する憐みという枢要な観念を表わすのに神話的フィクションを形成しないで,そのフィクション
にメアリィ・ステユアートの審理を忠実に寓話化させることを採った」( Instead of fashioning a mythic fiction to convey… the crucial idea of a mercy that tempers justice・Spenser chose to make his fiction allegorize closely the trial of Mary Stuart )として,寓意性と史実性の価値 的転倒を非難する3)。いずれの批判にせよ,つきつめればスペンサーの「正義の物語」の「失敗」,
とりわけ後半部のそれは,その歴史性,あるいは時事性に起因していることになる。ウェルズ(R.
H.Wells)のことばを借りれば,「スペンサーが弁護しようとした政策は現代の読者にとってはおそ ましいものである」( the policy which Spenser undertook to defend is an abhorrent one to mod一
ern reader )4)。 r妖精の女王』の第五巻は「一人物,一都市,一制度・組織という媒介を通じて の一つの倫理的理念の称揚」( the celebration of a moral ideal through the vehicle of a person,
acity or an institution )にまで高まってはいず,逆に,「特定の個人の性格行為あるいは政策 の弁護」( the defence of a particular individual s character, conduct or policies )にすぎない5≧
というのがウェルスが単刀直入に断じるところである。
たしかに,当該の物語がエリザベス朝当時のイギリスのとりつつあった内政・外交両面にわたる 政治,経済,宗教上のプロパガンダを含む,あるいは直接的に表明している,という考え方は正し いのかもしれない。しかしながら,フレッチャー(Angus Fletcher)が再考を促して述べているよう に,「第五巻はエリザベス朝的プロパガンダの衣をまとって現れるがゆえに,我々はそのもっと思索 的なねらいを擁らねばならない」( because Book V appears in the garb of Elizabethan propa一 ganda, we must defend its more speculative aims )のではないだろうか6)。解釈の立場の相違が 主題把握の方向を決定するのは当然であるが,そのアプローチのしかたは様々でも最終的な主題認 識は異らないはずである。もし異る場合には,いずれかが矯正されねばならない。小論の展開の過 程は,スペンサーの「正義の物語」が歴史のディメンションの上に特定の位置を占めることによっ てその意味をなすのか,それともそのような存在論的状態を持たずに,時空を越えた範型的存在と なり得ているのかを吟味してゆくことになるだろう。そのための一つの試金石として,たとえば,
トミズムとマキュアヴェリズムの緊張の図式が有効であるかもしれない。スペンサーが提示しよ うとしたのは,中世的・スコラ的な範型的・徳目的「正義像」の称揚なのか・あるいは近世的・
現実的な力学的「政治像」の賛美なのかを究明することは,「正義の物語」が過去の歴史の残字宰に すぎないのか,それとも一つのモニュメントとして今なお現在的価値を有して普遍に至っているか の基準となるからである。
1
?「政治思想の流れの源の一つはアリストテレス(Aristotle)に求めることができる。この哲学
rSー一ゴ
黹S
小紫:「妖精の女王」における「正義」の概念について(上) 89
者の主知主義的政治思想は,十三世紀にトマス(St. Thomas Aquinas)によって主意主義的律法思 想の洗礼を受け7),爾来様々の方向性を有する中世政治思想ないしは中世社会思想のいくつかの流 れとなって近代に流入するのである。この流れを一貫して特徴づけるのは,アリストテレスの,「人 間はその本性において政治的動物である」( man is by nature a political animal )という論理であ
る8)。このポリス的人間観は,「人間は本性的に社会的・政治的動物である」という表現となって,
ほとんどそのままトマスに受け継がれる。
Whell we co皿sider all that is llecessary to human life...it l)ecomes clear that man is natura皿y a social and pohtical animal, destined more than all other an㎞als to 1ive in community. Other animals have their food provided for them by nature,
and a llatural coat of hatr. They are also given the means of defence, be it teeth,
homs, claws, or at least speed in fhght. Man, on the other hand,is not so provided,
but having hlstead the power to reason must fashion such things for himself.9)
このアリストテレスートマス主義の基底にあるのは・人間本来の目的が,上の引用の言う,「人間性 活にとって必要なもの」と同義をなす「善」(good)の追求にあるという思想である。アリストテレ スの場合,その「善の追求」の可能的結果である自己充足性の度合を基準として,人間の社会的本 ポ リ ス
ォのあらわれである社会共同体を,家庭,村落,そして都市国家(city−state)の三段階を措定する。
家庭においては,食物,衣類といった「日常的必需品」が充足されると共に,人間の個体と種の維 持が可能となる。そして複数の家庭の集合体として村落が,さらに複数の村落の集合体として都市 国家へと発達する時,人間生活の充足性の程度からいえば,ほぼ完全の域に達する10)。しかし,ア
リストテレスにとって自己充足的完全共同体であった都市国家は,中世世界の形成の結果,もはや 単独で外敵の脅威から平和を守ることはできなくなる。それゆえ,トマスの共同体は,家庭,都市,
複数の都市の同盟としての「領国」(province)の三段階に分けられることになる。
In a city...there is a perfect community, provid血g all that is llecessary for the hlness of life;and㎞aprovince we have an even better example, because in this case there is added the mutual assistallce of allies against hostile attack.11)
この自衛についての考えは,トマスの最初の理解者の一人であるダンテ(Dante Alighieri)に同化 吸収される時,アリストテレスに始まる共同体論における追求の対象としての諸々の善は,世俗の 帝権による世界国家の建設に基づく世界平和へと収敏し,共同体の目的因は,トマスにおけるより
もはるかに鮮明な形で「平和」という概念に求められることになる。
...it is evident that the human race is most freely and favorably disposed toward
its own proper work...in the quiet or tranquillity of peace. Hence it is clear that
of all the th血gs that are ordered to our hapPiness, universal peace is the best.12)
ダンテにしても同時代のパドユアのマーシリアス(Marsilius of Padua)にしても,教皇権と皇帝権 という聖俗両権力の所轄の境界を明確にし,前者を全否定するには至らないにせよ,後者によるロ 一マ帝国の政治的再編と「普遍的平和」を希求するという点で,共同体の政治組織とその支配形態 については,都市国家の統轄には君主制(monarchy)が最善だとする以外,具体的には何も語らな いトマスの枠組を出ている13)。トマスにとっては,平和の達成は,直接的には「愛徳」(charity)の 仕事であり,政治は,「法的正義」(legal justice)として,間接的にしか平和には係わらない。
Peace is only indhectly the work of justice, ill that justice removes the obstacles to it. On the other hand it is directly the achievement of charity,which of its very nature causes peace. For love, as Dionysius says, is aπηヴン∫ηgノ∂7cθ,and peace is a uni。n。f。pP,tit・、 and t・nd・n・i・・.14)
小論では,上述の系譜を貫く「善の追求」と「平和の願望」がスペンサーにはどのように受け継が れてゆくかを考察することになる。
共同体理論の歴史を通じて見い出されるもう一つの興味深い点は,それは考え方としては既にア リストテレスにみられるのであるが,共同体という人間固有の概念の成立に,実は「自然」という 概念が深く係わっているという事実である。共同体の原理と自然の原理とのアナロジーは,アリス
トテレスにおける単なる比喩のレヴェルを越えて,宇宙的・天上的根拠を得て,中世社会の聖俗両 世界のハイアラキイをしっかりと支えることになる。トマス思惟の図式の一例である,神意一天体,
理性的存在一物体(生命体を含む),人間精神一肉体等の関係相互間の類比的理解は,人間社会の 内部にも同様の支配と被支配の関係,換言すれば,統一的原理の存在を導き出さずにはいない。
F。,thi、 reas・n, wh・neve・th・・e i・an・・dered unity ari・血9・ut・f a diversity・f elements there is to be found some such controlli且g influence. In the material universe, f・・ex・mp1・,th・・e i・acert・in・・d…fdi・in・p・・vid・nce und・・whi・Ml bodies are controlled by the first or heavenly body. Shnilarly all material bodies 肛ec。nt,。ll,d by・ati・n・1・・eature・. ln ea・h ma皿it is the s・ul whi・h c・nt・・ls the b。dy,・nd within th…ul it・elf・ea・・n・・nt・・1・th・faculti…fpassi・n・nd d・・廿・・
...S。 in。11 multipli、ity th,,e mu,t b…me c・nt・・11ing P・in・ipl・.15)
ダンテにとっても同様に,神の宇宙支配の事実は,共同体の統一的原理の存在を導く。
Th, t。t。lity it・elf theref・・e i・pr・P・・ly rel・t・d,・b・・lut・ly speaking・t・the uni一 verse or to its ruler, who is God and the monarch, by means of one principle only,
namely, a single ruler. Hence it follows that the monarchy is necessary to the world for its well−be㎞g.16)
西欧世界の単独支配(monarchy)をめぐって,皇帝の世界的規模の支配権を宣揚するダンテやマー
小紫:「妖精の女王」における「正義」の概念について(上) 91
シリアス,ウィリアムのオッカム(William Ockham)たちの帝権主義者の理論的根拠はまさしく自 然界と人間界の類比的関係にあり,彼らにあっては,秩序と統一が神意に発するかぎり,帝権は神 によって授けられたに等しいことになることは必然であろう17)。ここでスペンサーを思い起こす時,
このような発想が,反教皇主義とナショナリズムを共通項として,この英詩人にも認められてしか るべきではないか,という推論は正当であろう。しかし,その種の推論は正しいとしても,スペン サーの正義思想を帝権思想との同一視を前提にして論じることは正しくない。両者の間には,それ が世界であれ国家であれ,統一の主体のアイデンティティにおいて歴然たる相違があることは自明 である。この点については後の議論に譲るとして,ここではより基本的な支配と被支配の関係その
ものについて概観しておくことにとどめる。
言うまでもなく,共同体における支配と服従の関係は現実社会では様々の様相を呈して現象する。
しかし,この人間による人間の支配は,いずれにしても,「正義」(Justice)の観念を伴わないところ では積極的意味を有し得ないことは明らかである。そしてその場合の「正義」とは主として「法的 正義」を指し,それは常に「共通善」(common good)へと秩序づけられた正義の一形態である。っ まり,支配と服従の関係は,それが支配する側とされる側に共通する善に根ざすか,それとも支配 者側の一方的な善の追求を目的とするかによって,次のように二つの形態に分けられる。
..,the difference between a slave and a free man is thatα。かθε醒αη酌ゐθoα御3θo∫
海〃23θ玩as it says at the l)eginning of the Mααρhア5∫c3;whereas a slave is geared to the benefit of another. So someolle lords over another as a slave when he s㎞ply uses htm for his own, that is the lord s, purposes. And because everyone naturally values his own good, and consequently finds it grievous to surrender entlrely to another the good that ought to be his own, it follows that lordship of this kind callnot but be punitive tσthose subjected to it. For this reason man cannot have lorded over man in the state of innocence in that sort of way.
But someone lords over another as a free man when he is directing h㎞to his own, the free man s, proper good, or to the common good. And such domina一 tion of one man by another would have existed in the state of innocence....18)
こうした「隷属」(slavery)と「家庭内のもしくは市民的(domestic or civil)服従」の弁別は,その 弁別の基準に関して明確にキリスト教的主題を含蓄していることがわかる。ひるがえって,その経 済基盤を奴隷制の上に置くことによって「完全共同体」として存立し得たギリシア都市国家の全盛 時代を回顧するアリストテレスにとっては,奴隷制的支配の是非を改めて問い直す必要はなかった。
共同体の最も小さく,最も自然な形態としての「家庭」において,その物質的充足のために既に主 人と奴隷の関係は「自然的」であったのである。
...one that can foresee with his mind is naturally ruler and natura皿y master,
and one that can do these things【i.e. one that can carry out labour】with his
body is subject and naturally a slave....19)
しかしトマスにとっては,原罪(original sin)以前の状態こそが人間の自然本性であるはずである。
その楽園の時代には,労働の必要はなく,従って労働力の一方的な提供を意味する奴隷的服従の必 要はなかった。あったのは「自由人」としての男女間の,共通善に基づく支配と服従だけであった。
いわば,奴隷制的支配関係は,本来神の恩寵(Grace)によって与えられていた人間の「自由」とい う自然本性の剥奪であるという意味で,原罪に対する一つの懲罰の形であった。こうしてトマスに よって明快に弁別された二つの秩序関係の混乱およびそこに起因する無秩序とその正常化のモティ 一フは,後に「天秤を持つ巨人」,Radigund, rIsisの宮」等のエピソードの示すところである。
以上の考察から導き得る結果は,中世の共同体理論の諸要素が「正義」にょって概念的に包摂さ れうるということである。第一に,「善への秩序づけ」という共同体の目的は,倫理的徳目(mora1 virtue)としての正義の目的とある程度まで重なり合う。徳性の本質の一つは「善への本性的な傾 向性」( the natural inclination to the good )だからである20)。のみならず,正義は,知徳(in一 tellectual virtue)にも属する「知慮」(prudence)を除けば,「勇気」(fortitude)と「節度」(temper一 ance)といった他の倫理的徳目に対して序列上優位を占めて共同体の存立により本質的に寄与する。
Fortitude and temperance are in the emotional appetite, that is in our spirited and desirous propensities respectively. These are affective or conative with respect to certatn particular goods, and correspond to sensation which is cognitive of particulars. Whereas justice is j㎞the rational appetite, which is able to love good as a universal or unrestricted value, which the milld apprehends. Consequently justice, rather than fortitude or temperance, can be a general virtue.21)
個人として如何に個々の善を追求するかということよりも,善を普遍的でしかも何らの制肘も受 けないものとして獲得することの方がより社会的であるという意味で,正義は節度や勇気よりも「一 般的な徳」(general virtue)であるというのである。
一般的徳の概念は,既にアリストテレスの,「完全」(perfect)で「徳の部分ではなくて徳の全体」
( not a part of virtue, but the whole of virtue )である「正義」22)の概念に発するのであるが,
ここで看過してはならないのは,このアリストテレスの「正義」の「一般性」が,より高次の,そ して以下の議論に深く係わることになる正義の概念を導き出すという事実である。この「個別的正 義」(particular justice)に対する「一般的正義」は,トマスの場合,「法的正義」と呼ばれ,後述 するように,他の倫理徳を越えるだけでなくそれらの徳目をその内に包摂する概念ではあるが23),
それは飽くまで他の倫理徳との比較において言えるのであって,対神徳(theological virtues)や知 徳との比較においてではない。ところが,フォーテスキュー(John Fortesque)になると,少くとも
ことばつかいの上では法的正義の優越する比較の対象は必ずしも倫理徳に限られてはいないようで
ある。
Human laws are none other than rules by which perfect justice is taught. But, to
be sure, the justice that the laws reveal is not that particular justice which is
caned commutative or distributive, or any other particular virtue;it is rather the
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perfect virtue that is called by the name of legal justice, which...is perfect because it ehmhlates an vice and teaches every vhtue, so that it is itself rightly called the whole vtrtue.24)
しかし,スペンサーの「正義」は,一方では「地上では」という制限つきで他のどの徳目よりも「神 聖あるいは神性」のものとされていながら,他方ではギリシアの神々を治めているという。
Nought is on earth more sacred or diuine,
That Gods and men doe equally adore,
Thell this same vertue, that doth right define:
For th heuens themselves, whence mortal men implore Right血theh wrongs, are fuPd by righteous lore Of highest Ioue, who doth true iustice deale To his inferiour Gods, and euermore
Therewith colltaines his heauenly Common−weale:
The sk∬l whe・e・f t・Pr血ces hea・ts he d・th・eu・訓e.25)(V,・h,1)
しかしながらギリシアの神々の神性はキリスト教神のそれとは同一視できないことは言うまでもな いし,もしその字句に正義の天上性を認めるとすれば,それは正義が神において範型的に存在し,
地上的正義はすべて神の「範型的正義」の発出になることの比喩的表現と見るべきであろう。スペ ンサーの「地上では」という限定は,対神徳は言うに及ばず,神認識に係わる知徳をも比較の対象 から外していることを示していると考えるのが妥当であろう。 、
最後に,「正義」に内包される第三の要素として「原正義」(original justice)の概念に触れておか ねばならない。そもそも正義は最も本質的な意味において「秩序の正しさ」(rightness of order)を 指すのであるが,原正義とは,原罪以前の人類に恩寵によって許されていた秩序正しさである。し かし堕罪以降にあっては,この原正義との関連性において,正義は「不正の状態から正義の状態へ
の一種の変容」( akind of transformation from the state of injustice to the state of justice )
を意味する2眺同様に,「正しい秩序」という観点からすれば,「一倫理徳としての正義」は「人間 行為における正しい秩序」 ( aright order in man s own actions )を律し,「法的正義」は「集 団の共通善に関して人間行為を正しさの規準に従って秩序づける」( orders according to standard of rightness man s actions in regard to the common good of the group )27)。原正義は,恩寵で あり,人間本性を超越するという点では限界はあるものの,自然的レヴェルでは人間本性を完全の 域にまで完成する。その完成は「意志」(will)による創造主との正しい関係の回復によってもたらさ れ,そのあるべき関係は「自然法」(natural law)によって指し示されることになる。
以上,「正義」の本質を分析してきたのであるが,以下の論の展開においては上述の「三つの正
義」に内包される,あるいは関連し合ういくつかの概念を整理・分析してゆくことになる。たとえ
ば,自然法との関連では実定法(positive law),個別的正義との関係では配分正義(distributive
juStiCe)と交換正義(COmmUtative jUStiCe),法的正義の構成要素として衡平(equity)と孝
(piety)等が吟味の対象となるだろう28)。
皿
E 「正しい秩序」の回復・維持のモティーフは,r妖精の女王』の第五巻の序歌の主題として,以
下の「正義の物語」を導入する。そしてこの序歌は,人類の歴史の黄金時代の過去性と日々悪化し てゆく世情の慨嘆に始まり,
So oft as I with state of present t㎞e,
The image of the antique world compare,
When as mans age was hl his freshest prime,
And the first blossome of faire vertue bare,
Such oddes I fl㎞de twi文t those, and these which are,
As that, through long cont血uance of his course,
Me seemes the world is nlnne quite out of square,
From the first po血t of his appointed sourse,
And being once amisse growes da丑y wourse and wourse.(V,proem,1)
エリザベス女王を神格化することによってその治世によせる期待を第一篇以降につないでいる。
Dread Souerayne Goddesse, that doest highest sit In seate of iudgement, in th A㎞ighties stead,
And with magnificke might and wondrous wit Doest to thy people righteous doome aread,
That furthest Nations fi皿es with awfull dread,
Pardon the boldnesse of thy basest thral1,
That dare discourse of so diuine a read,
As thy great iustice praysed ouer al1:
The instrument whereof loe here thy.4πεgαZZ.(V,proem,11)
この「全能の座」にある「畏くも至高なる女神」として神格化された女王像の政治的意味について は後述に譲るとして,ここでは,序歌に支配的な今昔の対比と,その対比の視点とも言うべきスペ
ンサーの歴史観を展望しておこう。
スペンサーの歴史観は,一見するところ,ヘシオドス(Hesiod)やオヴィディウス(Ovid)の唱え
る歴史退行論に立脚しているようにみえる。たとえば,人類歴史の第一期が「黄金時代」( the
golden age )であり,今は「石の時代」( a stonie one )であることをスペンサーは疑っていないよ
うである(Vproem,2)。そして詩人がこの巻で提示しようとする「徳」( vertue )と「礼」(ciuil
小紫:「妖精の女王」における「正義の概念について(上) 95
vse)の規律は,「善が善であるゆえに追い求められて……正義が高額の報酬と引き換えに私用に供 されることはなく,単一なる真理が支配し,万人に崇められていた往古のもの」( of yore,/When good was onely for it selfe desyred.../When Iustice was not for most meed outhyred,/But simple Truth did rayne, and was of all admyred , V,3)であるという。しかし,スペンサーの いう「往古」については,現実にはそれぞれの立場から様々な解釈が施されている。たとえばジョ ウンズ(H.S.V.Jones)はその時代を「世界が過去のものとして経験した黄金時代」( a golden age which the world had outlived )29)と考えるし,チーニィはそれを「一つの精神の状態」( a state of mind )としつつ,その「状態」とは,「原罪に先立って存在した」( existed prior to the Fall ) 状態であるという。ただし,それは「比喩的には」( metaphorically )いつでも回復可能なのであ り,またそれを回復するためにこそスペンサーは「歴史的現実にうったえることによってそのとり わけr古典的な』徳を擁護することの必要性」( the necessity of defending its peculiarly classi一 car virtue through an appeal to historical truth )を認めていたのだという30)。もしそうだとす れば,その徳とは,前述のアリストテレスの言う「完全で,徳の全体としての正義」を指すことに なるのかもしれない31)。しかし,我々は,フレッチャーが説得力をもって説くように,スペンサー にとっての歴史は,「古代ギリシア人のサイクリカルな歴史学的方法( the cyclical historiography of the ancient Greeks ),「より試験的な歴史学的方法,つまり現代の歴史研究のそれ」( a more tentative historiographic style, that of modern historical study ),そしてルーウィス(C.S.
Lewis)の言う意味での「歴史主義」( historicism ),つまり「過去を学ぶことによって我々は歴史 的真理のみならず,歴史を超越した,あるいは超絶的な真理を学ぶことができるという信念」( the belief that by studying the past we can learn not only historical but also metahistorical or transcendental truth卿)の複合的三重層から成っていることを改めて思い起こす必要があるだろう32も フレッチャーがスペンサーに最も本質的であると認るのは第三の歴史意識なのであるが,その理由 は,彼にとってr妖精の女王』の第五巻に,「永遠的なるものと無常なるものを,不変の原理を移 ろい易い現実に対して均衡させながら,共存させておく」( to hold the eternal and ephemeral in simultaneous copresence, balancing stable principle against unstable reality )という「予言的 手法」( prophetic method )を認める必要があるからにほかならない33)。しかし小論の展開にとっ ては,フレッチャーによるスペンサーの歴史意識に内包される「予言性」の洞察は別の意味で示唆 的である。すなわち,その洞察は,「正義の物語」を理解するためには,それがいつであれ,歴史 的過去にのみスペンサーの「黄金時代」のパラダイムを求めることは正しくないことを示唆してい るのである。十六世紀という,「無常」で「移ろい易い現実」と天秤にかけられるのは「永遠」で
「不変」の,時間を超絶した「時」でなければならない。その意味では,プラトン(Plato)の「国 家」であれ,アリストテレスの「法的社会」であれ,我々の歴史と同一の時間と空間の座標に示す
ことができない性質のものであるはずである。
ともあれ,スペンサーの「往古」について言えることは,それが,序歌の示すように,「徳」,
「礼」,「正義」と「真理」の支配していた時代であるということである。その意味では,トマスの,
「楽園」( paradise )を「自然的な意味で」( in a physical sense )と「霊的な意味で」( in a spiri一
tual sense )との両相においてとらえるやり方に倣って34),スペンサーの「往古」を理解して障り
はないであろう。つまり「往古」も「徳性」もその「過去性」と「霊性」のゆえに現実世界には存
在はしない,という理解である。だからこそ,「現在」は徳と悪,正と邪が転倒してしまっている 時代であり,それは「天球の回転が原初に設定された軌道から遠く逸脱してしまったから」( for
the heauens reuolution/Is wandred farre from where it first was pight , V, proem,4)であ る。この言表の字句通りの,つまり天文学的な解釈は諸家の指摘するところであるが35♪,その比喩 的ないしは寓意的解釈は,人間の原罪,人間社会の堕落,自然界の廃退の相互の対応の論理を導き 出す。原罪のために黄金時代は原正義と共に去ったのであり,その「失われた時」こそがAstraea の治めた時代(V,proem,9−11)であり,またBacchusとHerculesが東西各世界を支配した時代
(V,i,2)である。この一且失われた状態の回復が「正義の騎士」としてのArtegallに課せられた 任務である。
ArtegallがGlorianaから直接帯びる任は, Irena(平和)を僑主Grantorto(暴虐)から解放する ことにあるが,最初の四篇において描かれるArtegal1とその従者の鉄人Talusによって克服され る反正義の諸類型は,主として,自然法,個別的正義,一般的正義または法的正義に深く係わるこ とがわかる。ただ,正義という概念をこのように明確に分けることは当面の問題としてはかならず しも必要ではなかろう。たとえば,個別的であれ一般的であれ,正義が一っの徳性である以上,そ れは「善への自然的な傾向性」と定義されることになるが,その「傾向性」とは既に自然法そのも のの本質を指していることがわかるだろう。そして自然法は,原正義の理において,人定法(human law)を規定し,かつそれに「正義」である保証を与えていることがわかる。
In human matters we call something just from its be血g right according to the mle of reason. The first rule of reason is natural law...thence in so far as it derives from this, every law laid down by men has the force of law in that it flows from natural law. If on any head it is at variallce with natural law, it w皿not be law, but spoilt law.36)
いわば自然法は「理性」と同義であるということになるのであるが,その理性は,時として「感情 や悪習によって,あるいは人種的傾向性といったものにすら歪められるかもしれない」( may be distorted by passion or bad custom or even by racial proclivity )。ここにおいてはじめて人定 法というものが必要となるのである。
...some are bumptious, headlong㎞vice,not amenable to advice, and these have to be held back from evil by fear and force, so that they at least stop doing mis一 chief and leave others in peace. Becoming so habituated they may come to do of thehl own accord what earlier they did from fear, and grow virtuous. This school一 i皿gthrough the pressure exerted through the fear of punishment is the d捻cipline of human law.37)
上に明らかなように,人定法とは,端的に言えば,個別的事例に際しての正邪の判断を「習態化す
る」( habituate )ことによって自然法の一般性を獲得する道にほかならない。この「習態としての
小紫:「妖精の女王」における「正義」の概念について(上) 97
(人定)法」の考え方は,次節で述べるように,「習態としての正義」の考え方にも一脈通ずるとこ うがあろう。
このように法と正義の近似性を強調しすぎることは「正義の物語」の理解を曖昧にしてしまう危 険性を孕むかもしれない。事実オコンネルは第五巻の最初の六つのエピソードを自然法のはたらき の寓意的表現と受けとめるのに対して38),フィリップス(J.E.Phillips)は同じ部分に人定法,とり わけ実定法の厳格な拘束力の発動の寓意を読みとっている39)。この解釈上のくい違いは,どうも ArtegallとTalusを二人一組としてそこに単一の概念の表象をみることに起因しているようであ る。この場合の正しい寓意解釈は,Artegallの「自然法」とTalusの「法(的強制力)」という二 つの概念の相補的な関係をそこに読みとることを要求する。ただ,オコンネルの考えるように,
Artegallの冒険の最初のいくつかの任務には自然法則的傾向が特徴的であることは事実であるが,
忘れてはならないのは,自然法それ自体は「正義の騎士」の目的因とはいえず,むしろ正義の完成 の過程にあって質料因的にそれに資するべきものだ,ということである。このことは,自身の任務 の前段階においてArtegallが「秘められた意味を顕している,人の手の加わらない野性」( Sal一 uagesse sans finesse ,1▽iv,39)を称していることにも明らかである。第四巻のこの段階では,
Artegallはまだ「正義の擁護騎士」ではなく,「正義の素材」でしかない。加えて,その寓意的状 況としてのSatyraneの催すところのFlorimellの擁護騎士(champion)を決定するためのトーナ メント(馬上槍試合)の雰囲気も野性的で,その進行と結果も正しい秩序をなしているとは思えない。
ダンシース(T.K.Dunseath)の指摘どおり,このトーナメントはプリミティヴィヴィズムの示威の 場である4叱主催者のSatyraneは半人半獣の森の神サテユロス(Satyr)的好色を示すし,試合の 結果は,勝者のBritomartがFlorimellの擁護騎士の権利を放棄し,その場はAte(トロイ戦争の 元凶・不和)の支配するところとなる(Mv,23)。このトーナメントの混沌が象徴するように,第 四巻は「友愛」(Friendship)の完成を主題としており,その究極の目的は秩序的な共同体の基礎を 据えることであり,巻半ばのこの場面では秩序性よりも混沌の方が優勢を占めているのも道理であ
る。だから,Artegall自身,この段階では,前述のように仮の姿で登場せざるを得ず,自らの本名 一Art−egallつまり「公平の法」という「正義」 を顕示できないのは当然であろう41)。
Certes(sayd he)ye mote as now excuse Me from discouering you my name aright:
For time yet serues that I the same refuse,
But call ye me the、∫α1παge Kηな配, as others vse.(IV, vi,4)
第四巻のArtegallは野性の,いわば「なま」のままの自然法的存在であるといえよう。
Artegallの「正義」の形成が自然法ないしは自然法則の洞察と修得から始まることは, Astraea による「正義の騎士」の養成の過程の示すところである。
She caused him to make experience
Vpon wyld beasts, which she㎞woods did f㎞d,
With wrongfull powre oppressing others of their kind.(V, i,7)
トマスによれば,自然法は三段階において,つまり,第一に万物に普遍の「個体保存の欲求」( an appetite to preserve its own natural being )を通じて,次に動物の共有する「男女の結合と育児」
(・the coupling of male and female, the bringingup of the young )の欲求・最後に「理性的なるも のとしての本性による善の欲求」( an appetite for the good of his nature as rational )を通じて,
善への秩序づけを律しているという42)。第四巻のArtegallに特徴的なのは,その資質である自然 法的秩序は第二の動物的本能の完成段階の途上にあるという点である。Satyraneのトーナメントで 示す彼の欲求の対象は,ただ美しいだけの雪人形に向けられ,女性というものを軽蔑し( despise
them[women]a11 , N vi,20),やがて妻となる運命のBritomartに対して,トーナメントでの 敗北を遺恨に「仮借ない怒り」( dispiteous ire ちMvi,11)を向けることは, Artegallの「自然法」
は専ら自己保存的・防衛的な第一段階の状態にあることを示す。換言すれば,Artegallの「自然法 的正義」は「感情」 敗北に原因する遺恨 そして「悪習」や「人種的傾向性」一男女 の区別を種差として,女性に対する蔑視 による歪曲を免れない。この状態は,第四巻の第六 篇の第二十一連以下に描かれるArtegallとBritomartの和解によってようやく脱脚され,次の段 階へ秩序づけが確立されることになる。
皿
̀straeaによるArtegallの訓育は野性の動物を相手に善悪を見極めることから始まり,女神の 昇天後は彼女が地上に残したTalusが「正義」の完成を導くことになる。この鉄の巨人は,アプテ カー(Jane Aptekar)等の言うように,プラトンのTalosを神話的背景として創られており,その 神話的Talosがクレタの法が刻まれた銅板を保守していることから,実定法あるいは法の執行力,
配分正義,そして同罪刑法(lex tαlionis)等々の意味を表すと考えられてきた43)。またこの巨人が 武器としてふるう「鉄の殻竿」( yron flale , V, i,12)についても,ヘラクレス(Hercules)やマ ルス(Mars)の携行した武器にその神話的起源が認められ,その道具の収獲のイメジから,正邪の 選別,とりわけ神の審判の象徴性が指摘されている44)。しかし,小論の主題に即していえば,第五 巻の前半におけるArtegallの武者修業時代の寓意は自然法の完成から人定法への法的発達の段階を 示しているといえるだろう。すなわち,Artegal1の「自然法」がTalusの「法的拘束力」を伴うと いうことは,とりもなおさず,自然法から法典が成文化されて実定法として定着してゆく過程に必 要な条件を表しているのである。実は,このことに関してフレッチャーが興味深い考察を行ってい る。それは,法というものの有効性の条件についての経験的事実ともいえるもので,法令は「強制 され,慣例として認知され,そして記録にとどめられて」( enforced,acceptαl as Customary, and kept on record )はじめて効力を有するという指摘である45)。そしてそれと同じことがアリストテ レスートマスの法理念にも見出すことができる。
We have pointed out that virtue is twofold, acquired and infused. Constant
practice serves each, but differently, for the血rst it causes, whereas the second it
disposes to, and when possessed keeps it going and growing. And because law is
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given in order to direct human acts, then how far it makes me血good depends on how far these contribute to virtue. Thus Aristotle observes that 1εgご3Zα∫oア∫襯ακθ 漉θC痂Zθη89006〜ゐア!〜)7η2 η8肱わゴ∫∫加魏θ〃2.
That men obey the law from the fulness of virtue is not always the case;
somet㎞es it is from fear of punishment, somet㎞es from the prompt元ng of mere reasonableness, which, as we have noticed, is a beginnhlg of virtue.46)
ここに明らかなように,トマスの考える「法の強制力」が,上に述べたような法律を守らせるため の強制的執行力という政治的な要素だけでなく,最初は自然法的な単に善に向かう傾向性でしかな かったものが「習態」( habits )を形成することによって市民を「善く」( good )するという倫理 的な要素をも同時に含意することを見過ごすことはできない。そしてスペンサーの物語では一徳目 としての正義が一習態であることと,自然法が慣習化によって実定法として定着させられてゆくこ ととは同一の寓喩で示されることになる。
ArtegallとTalusの関係は, Redcrosse KnightとDwarfe, GuyonとPalmer, Britomartと Glauceの関係と同様,主従の関係であると同時に師弟の関係にもあることがわかる。一般的に,主 従の関係は物語のリテラルなレヴェルで描かれるのに対して,師弟関係は,どちらかというと,寓 意のレヴェルで成立している場合が多い。つまり,寓意のレヴェルでは,各関係の後者のグループ は前者のグループの徳性の完成一習態化一の先導役として不可欠の役割を果すのだが,第五巻 の最初の四篇について言えば,Talusは「法的強制力」あるいは「法執行」としてArtegallの「正 義」が徳性として習態化してゆくのを助ける。以下においては,その「正義」の完成の過程の最初 の段階を分析することから吟味に入りたい。
Artegallが第五巻で最初に征圧するのはSangliereである。 Sangliereのエピソードが示すのは,
殺人という,自然法に反する罪の裁きと,損なわれた交換正義の回復の例である。聖ジャーマン(St.
Christopher German)の言うところの,自然法の中枢を成す「第一の理性の法」( lawe of reason primarie )は「殺人」を禁じる:
...by the lawe of reason primarie be prohibite in the lawes of Englalld, murther,
that is the death of him that is ilmocent, periurie, deceit, breaking of the peace,
and many other like. And by the same lawe also it is lawful for a man to defend him self agahlst an vniust power so he kepe due circumstance.47)
Sangliereは,一人の騎士の伴っていた婦人を略奪した際に,追いすがる自らの愛人の首を漸り落 とすのであるが,Artega11のソロモン流の裁きは48),自然法の禁ずる殺人罪だけでなく,交換正 義という「相互の取引に係わる」( which is engaged with their mutual dealings one with an一 other )49)正義に抵触する罪も裁く。つまり,騎士の愛する女性とSangliereの「元の」愛人の首 の「交換」ないしは「取引」の不当性が裁かれ,その結果,騎士には奪われた女性が,Sangliere には捨てた愛人の首が各自の「固有財産」( his own proper good ,肌i,23)として与えられる。
同様に,次のPollente(力)とMunera(賄賂)の不正もジャーマンのいう自然法に背馳する。何故
ならばMuneraの不正な手段による蓄財は,ジャーマンのいう「第二の一般理性の法」である「所 有の法」に触れるし,Pollenteの法外な通行税と不払い者に対する荷酷な罰則は,同じく「第二の 個別理性の法」に対する違法行為であることは明らかだからである。
St. German says+ト^+tbe lawe of secondarie reason ge且eral is called so because th,1、w。f p・・P・貢y i・k・pt in・n・・unt・i・・;he add・th・t th・ 1・w・・f・ea・・n
、ec。nd。,i, p。貢i・皿…i・d・・i・・d f・・m・u・t・m・and ・f diuers m・xim・・and
、t、tut,、。,d,in,d血this re曲・.・5°)
のみならず,Polle血teの税徴収とMuneraの富の独占は,「共同体の所有物の割当を律する」( gov一
,m、 th, apP。,ti。ni。g。f,。mmunity g・・d・・)「配分正義」にも反することがわかる51%
このように,上の二つのエピソードは,Artegallが既にAstraeaによる陶冶を通じて修得した 自然法的正義の発揚の例であるばかりでなく,Talusの法的強制力の示威の例にもなっている。法 というものの概念的発達の過程が示すよづに,素朴な自然法的善悪の区別・判断力は,「力」によっ て執行され,強制されることによって,正義として強化され,法令として認知されてゆくのである。
たとえばTalusは, Artegallの裁断に不平を唱え,不服従の態度をとるSangliereに愛人の生首 を一年間持ち運ぶことを強制し,
But 5ση8Zゴθアθdisdained much his doome,
And sternly gan rep血e at his beheast;
Ne would for ought obay, as did become,
To beare that Ladies head before his breast.
Vntin that 7セZε45 had his pride represt,
And forced him,maulgre, it vp to reare.
Who when he saw it bootelesse to resist,
He tooke it vp,a11d thellce with h㎞did beare.(V, i,29)
またMunera処刑に際していささかのたあらいもみせないで刑を執行する。
...he her drew By the faire lockes, and fowly did array,
Withouten pitty of her goodly hew,
That.4πθgα〃h㎞selfe her seemelesse plight did rew.
Yet for no pitty would he challge the course Of Iustice,which in 7hZμ3 hand did lye;
Who rudely hayld her forth without remorse,
Sti皿holdhlg vp her supPhant hands on hye,
小紫:「妖精の女王」における「正義」の概念について(上) 101
And knee血g at his feete submissiuely.
But he her supPliant hands, those hands of gold,
And eke her feete, those feete of si1uer trye,
Which sought vnrighteousnesse, and iustice sold,
Chopt off, and nayld on high, that aH might them behold.(V,五,25−6)
しかし,法による強制が正当だとすると,Pollenteの通行税徴収の強制は何故不法なのか,という 疑問が生じるかもしれない。トマスは,r倫理学注解』(α)mrnentαry on the Ethics)において,「法 は強制力を内包する」( the law includes coercive power )ことを認め52),『神学大全』(8α醜mα 餓θoZo8 αε)では,法の力を「規定・命令」( to prescribe or to command ),「禁止」( to for一 bid ),「許可」( to permit ),「罰則」( to punish鯵)に細目化している53)。しかし,ここで看過し てはならないのは,r倫理学注解』の上記引用部に続いて「それが為政者もしくは国王によって発 令された限りにおいて」( inasmuch as it is promulgated by the ruler or prince )という条件が付 されていることである54)。この立法者の権威による発令という条件に照らせばPollenteの通行税 は,「自分達の法の慣習」( the custom of their law , V, ii,9)に基づくに過ぎず,何らオーソラ イズされたものではないことがわかる。そのような勝手な法慣習は,単にArtegallという「正義」
につき従っているTalusの「法的強制力」とは明確に区別されねばならない。 Pollenteは偽政者で もなければ国王でもなく,僑主,あるいはアプテカーの指摘するように,テユーダー朝の「権力を 持ちすぎた臣下問題」( the problem of the over−mighty subject )の象徴なのかもしれない55)。
Artegallによって克服されることになる次の反正義は,一種の平等思想である。この,一見近代 的共産主義思想を先どりするかに見える平等主義を体現するのは,巨大な天秤を持つ巨人である。
この巨人は,宇宙,自然人間社会に遍くいき渡っている不平等は神の創造時の状態からの逸脱歪 曲にほかならないと喧伝し,
For why, he sayd they all vnequall were,
And had encroched vpPon others share,
Like as the sea(which plaine he shewed there)
Had worne the earth, so did the f圭re the a廿e,
So all the rest did others parts empaire.
And so were realmes and nations rull awry.
All which he vndertooke for to repa廿e,
In sort as they were formed aunciently;
And all things would reduce vnto equality.(V, h,32)
無数の群集が,「彼によって多大の利を手中にし,無制約の自由を獲得することを期待して」( In hope by him great benefit to gain,/And vncontrolled freedom to obtain , V, ii,33)巨人を教
祖にまつりあげている。彼の思想の正誤は,一つにはおそらく,原罪と原正義という一対の概念に
係るもので,問題は,巨人が言うように,はたして創世の時には,地上は山も海もない平坦な状態
を呈していたか,また人間は平等でそこには支配と服従の関係はなかったか,に尽きよう。もし巨 人の言う「平坦」と「平等」が原正義の秩序性であるならば,彼の所信は正しい。
Therefore I will throw downe these mountaines hie,
And make them leuen with the lowly plaille:
These towrl㎞g rocks, which reach vnto the skie,
Iwill thrust downe into the deepest maine,
And as they were, them equalize againe.
Tyrants that make men subiect to their law,
. hwill suppresse, that they no more may rame;
And Lordillgs curbe, that commons ouer−aw;
And all the wealth of rich men to the poore will draw.(V, ii,38)
一 しかしr創世紀』(Genesis)が伝えるように,陸と海は天地の創造に際して分けられたのであるし,
アダム(Adam)とイヴ(Eve)の間には,原罪に先立っても「家族的または市民的」な支配と服従の 関係は既に存在していた。
Subjection is of two kinds;one is that of slavery, in which the ruler manages the subject for his own advantage, and this sort of subjection came㎞after sin. But the other kind of subjection is domestic or civ丑, in which the nller manages his subjects for痂θかadvantage and benefit. And this sort of subjection would have
。bt。in,d even b,f。,e、in. F・・th・hum・n g・・up w・uld hav・1ack・d th・b・n・fit・f
。,d,, h。d、。m,。fit、 m,mbers n。t been g・v・・n・d by・thers wh・w・・e wi・e・・56)
ただ,もし他に対して服従を強いる者が,先の引用で巨人が言うように,「暴君」である場合には 服従の義務はない。トマスも言うように,その支配形態は「共通善」を目的とはせず,支配者の一 方的な「私的善」を指向するからである。しかしそのような「暴政」に対してすらも無条件には 抗えない。
Atyrannical government is unjust because it is not directed to the common good,
but to the private good of the ruler, as Aristotle says. Consequently, disturbl㎞g such a government has not the nature of sedition, unless perhaps the disturbance be so excessive that the people suffer more from it than from the tyrannical
,eg㎞・.57)
「暴政」による「共通善」の損失は反乱による「混乱」と相対的な関係にあるというのである。
以上からも明らかなように,巨人の誤謬はArtegallの眼には明白である。「正義の騎士」の観る
ところ,「天上的正義」( heauenly iustice )はいまだ自然,宇宙を支配しており,万物が「自らに定
小紫:「妖精の女王」における「正義」の概念について(上) 103
められた限度」( their certaine bound )を知り,その内にとどまっているのは,その「天上的正義」
のゆえであるという(v,ii,35−6)。ここでも「正義の騎士」の態度に一貫するのは,自然法的命 題であり,自然と人間本性を共に律するのは位階性であり,その階層的秩序こそが原正義の原理な のだという信念である。
The h五s doe not the lowly dales disdai血e;
The dales doe not the lofty h∬s enuy.
He maketh Kings to sit in souerainty;
He maketh subiects to their powre obay;
He pulleth downe, he setteth vp on hy;
He giues to this, from that he takes away.
For all we haue is his:what he Iist doe, he may.(V, ii,41)
この命題に照らせば,「平等」とは「無秩序」と同義となることは必定であろう。エリザベス朝にお ける位階的秩序の正統と巨人の平等思想は相容れないのである58)。
平等主義について注意せねばならないのは,正義が「その名が示すように,一種の等しさの均衡
を意味する」( implies a certain balance of equality, as its very name shows )と言われる時の正 義と平等の異同である59)。上で巨人が主張するのも,彼の持つ天秤が象徴するように,「一種の等し さの均衡」の論理ではないとは言いきれないように思えるからである。この問題の解決の鍵は「算 術的平等」と「幾何学的平等」という二種類の平等の種差である。
Equality is the general shaping form of justice, and here both distributive and commutative justice agree, but in the first it is taken accordillg to geometrica1 proportionality, while in the second accord㎞g to arithmetical.60)
交換正義においては,売買,貸借の対象そのものの価値の等しさが重要な意義を持つが,配分正義 に関しては,配分を受ける者自身の価値相応に地位や名誉,財産が比例配分的に決定されねばなら ず,従って配分を文字どおりの意味で均等に行うことは逆に不平等だ,というのがアリストテレス とトマスの「平等」と「正義」の相関関係における意味である61)。そうすると,天秤の巨人の主張 する「平等」は「富全体」の配分にかかわる以上,それは配分正義に従って,平等にではなく,等 比的にと解釈するのが正しく,巨人の論理はその根拠を失うことになろう。そのことは直接ArtegalI が指摘するところとはならないが,少くとも政体にあってその秩序を脅かし,地位財産の再配分を 餌に民衆の反乱を煽動する巨人は,正義論と真理論において「正義」に敗北し(v,ii,34−49),自
らが「正義のパロディー」であることを暴露する。そしてTalusによって罪にふさわしい刑罰の執
行を受けることは言うまでもない(v,ii,49)。
@ w
@これまで,「正義の擁護騎士」と「法の僕」の行動様式の中に「正義」と「法」の理念と機能の 寓意を観てきた。とりまとめれば,スペンサーの「正義」は原正義的秩序の回復の一つの形態であ
り,機能面からみれば,法的正義と個別的正義に分化し,さらに後者は配分正義と交換正義として 別様のはたらきをすることと,「法」は自然法に秩序づけられ,その発効には強制力を必要とする こと,そして「正義」と「法」の関係についていえば,前者は倫理的な徳性としては習態であり,
後者は慣習であるという平行的な関係にあることが議論の中心となってきた。しかし第五巻の第三 篇の,FlorimellとMarinellの祝婚のトーナメントは,それ以前に描出されるいくつかの反正義と 不法の個別的矯正の例を総括する形で,パジェント的に正義と法が様々な局面で示す力を誇示する
ことになる。このパジェント性は,最初に触れた構想上の不首尾の原因と見倣される構造の複雑さ を助長しているかもしれない62)。にもかかわらず,ダンシースの「r妖精の女王』の大(小)のテー マは第五巻で解決される」( many major(and minor)themes in ThεFαθr θQωθθπθare resolved by the poetry of Book V )という指摘は正しい63)。
FlorimellとMarinellの物語自体,第三巻の第一篇から様々なエピソードと絡まりながら現下の
「正義の物語」に脈絡を通じているが,このことの論理的必然性はおよそ次の二点にあると考えら れる。その第一は,節度や貞節といった,個人の倫理的徳性は,多くの場合,自己完結的であるに とどまらず,外的に拡張しつつ社会的価値を帯びてゆくのが常であり,その社会性が第五巻の文脈 内で得られるという点である。第二は,正義,厳密に言えば法的正義が他の全ての倫理徳の完成を 前提とする,という点である。その第一の点に係わる寓意は,物語上「所有権の回復」のモティー フを中心に示される。トマスによれば,不当に奪われたものの「返還[または賠償]は交換正義の機 能である」( restitution is an act of commutative justice )64もその典型的な例を成すのが,第二
巻でBraggadocchioによって盗まれるGuyonの愛馬Brigadoreの返還と,第四巻のSatyraneの ト_ナメントで偽Florimellに与えられるCestus(「腰帯」:貞節を象徴する)の返還である。こ の二つの返還は,FlorimellとMarinellの祝婚のトーナメントの結果, Artegallの裁可によって 実施される。そしてそれらの寓意的意味については,その返還の対象である「もの」そのもののや
りとりであるからには,それが交換正義の行為であることは自明である。しかし,観点を変えて,
その「もの」の「象徴的価値」を考えれば,その返還が配分正義の行為にもなっていることがわか る。Brigadoreは語源的に「黄金の馬勒」を意味し,その象徴的意味は「節度」であることは周知 ナあるし65),またCest。、はその神言舌的背景から,「貞節」を象徴することもまた同様である66)・
そうしてみると,上の二例の「もの」の返還は,「節度」は「節度ある者」に,「貞節」は「貞節な 者」に,と所有するものとされるものの価値的一致に従って,つまり配分正義の定めるところに従 って執り行われたことになる。このことは,上述の二つの徳性がGuyonとFlorimellの備えると ころであることが「正義」を通じて社会的に認知され,とりわけFlorimellの「貞節」はMarinθll との結婚という共同体の成立へと秩序づけられていることが示すように,その徳の自己完結性は社 会性へと拡張をみせるのである。
次に,上記の第二の点はArtegallの内的成長に係わる。上述のArtegallによる倫理徳の認知は,
その認知の主体である「正義」にある種の質的変化を生じさせる。Artegal1の「正義」は,たとえ
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ば,GuyonとBrigadoreの価値的一致を洞察することによって,「節度」の本質を正確に認識し,
同時にその特性を自らのものとして包摂していくのである。それは,フレッチャーやノーンバーグ
(James Nohnberg)の考えるような,正義と節度という二つの徳目の単なる相似ではなく67),両者 の関係に明確な価値的秩序を読みとらねばならないことを意味する。もう一つの例をあげれば,盾 の交換に端を発する衆目のArtegallとBraggadocchioの誤認の是正の寓意である。その名が表わ すように「法螺・空威張り」を本質とするBraggadocchioがトーナメントの覇者としてその「勇気」
を称えられること自体は一種の反正義であるが,まもなく,真の覇者としてArtegal1が名乗り出 て真相が明らかにされる時(v,iii,20−22),「勇気」という倫理徳に概念的に対立する「法螺・空 威張り」は「正義の騎士」によっていとも容易に克服されることがわかる。このエピソードでは,
どちらかというと,物語のリテラルなレヴェルで,正義が勇気を包摂せねばならないことが明らか にされている。こうして節度と勇気という二つの倫理徳を包摂して,正義は「法的正義」の基礎的 資格を有したことになる。
...general or legal justice, which is ordered to the commoll good, is more capable than particular justice, which is ordered to the good of another illdividual person,
of extending to hmer feelings affecting a man in himself. General and legal justice,
all the same, covers the other virtues chiefly in respect of their outward deeds, in that, as 110ted in the E 配c∫,油εZαw ooη2η置αηd5漁θρθηわrη霊αηcθo!wo酌50∫α ゐ脚ε,・r・アα θ卿θ履θ,…ア・8・・ 1θρθ・….68)
こうして培われた法的正義は,FlorimellとMarinellの結婚に社会的意味を与えていることがわか
る。