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福祉制度の源流の比較研究

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明星大学社会学研究紀要 March 1996

〈論文〉

ヨーロッパ社会と日本との 福祉制度の源流の比較研究

飯 原 久 弥

 現代の先進諸国では、「福祉国家」「福祉社会」

が共通のキャッチ・フレーズとなっているが、

その主軸とも云える、社会福祉、社会保障が体 系となって展開するのは、20世紀を迎えてから であり、ことに日本では戦前、社会事業や社会 保険の発足(tSl)はあるものの、戦後フレッシュな 感覚を持って迎えられた制度である。しかし、

洋の東西を別々として、また、その基盤となる 思想を異にしても、日本ひいては東洋社会の場 合も、ヨーロッパ社会の場合も、人間共同生活 体の中での「救済」「保護」の歴史は長い。そう して、このような源流や発芽が継承されてこそ、

現代の「福祉」制度が結実したことが等閑視さ れてはならない。こうした視点から、東西それ ぞれの「救済制度」の系譜を比較研究すること は、かねて筆者にとって有意義な研究課題とし て取り組んでいる。(注2)このような比較研究の中

で、日本とヨーPッパ社会の各古代からの発 想・変遷に、意外にも類似の共通性を見出し得 ると思われる。具体的には後述するが、共通性 と相違性の比較に立って、現代社会福祉学の成 立を理解しようとするがのが、 この稿の趣旨で

ある。

第1章 ヨーロッパ社会における     救済制度の原点と沿革

 (1)ヨーロッパ古代社会ローマには、既に組 織的救貧制度が出発していた。即ち、B℃.2世

紀頃に、農耕地を所有しない困窮市民に対し、

低廉か或いは無償で、予め備蓄された穀類を配 給して貧窮から生ずる飢餓に対応していた。「穀 物法」 Annona Civica と称せられた制度が、

これであって、農作物の凶作年から生ずる困窮 と飢餓にも備えていたと云われる。後述するが、

東西の文化・文物の何等の交流もない、同じ古       むらくら 代社会の日本に、B. C。29年頃から「屯倉」とい

う制度が発足しており、元来、天災が多く、年 単位に豊作と凶作が周期的に去来する風土の特 性から、災害や凶作の際の困窮農民の飢餓に備

    むら

えて、「屯」単位に、当時の主食(粟)を一定量 ストックしておいて、凶作時に放出して救済す る制度が発足していた事と対応すると、正に「同 時多発的制度」として、人類社会の「救済」の 原点の類似性を見出し得るのである。問題は、

ローマ以後、中世から近代初期に至るヨーロッ パ社会における「防・救貧」制度の発足と展開 の特徴にある。即ち、A. D.3世紀頃のローマ 帝国になると、キリスト教が国教となって定着 する中で、救貧は「皇帝」、「教会」、「聖職者」

が担い手となって、キリスト教の「兄弟愛」、「人 類一体1生」の思想に基づく Caritas が「救貧・

救済」の様々の制度を成立せしめるに至るので ある。この場合に、キリスト教が主流になって、

「貧民院」(Nenodicum)、「遺児保護院」(Bre・

photrophrium)、「孤児院」(Orphano prohium)、

「養老院」(Geneto Commun)、「施療院」(Par一

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amonari)による、施設保護が、都市単位に設置 されて組織的救済制度が普遍化し発展するに 至ったのである。従って、西欧型社会事業の「エ トス」として、キリスト教による Caritas の 伝統が確立されるのである。殊に、申世当初か

ら宗教改革までの「救済」は、カトリシズムに よる教会が「独占」するところとなった。宗教 改革後も、ヨーロッパ救済制度の基本には、国 より、カトリシズムであっても、プロテストで あっても、 Caritas が支柱となっていること自 体は否定できない事実であり、また、その「エ

トス」にこそ、現在までも含めて、西欧型福祉 の原点が厳存するのである。ただ、しかし、中 世カトリシズムに基づく、「救貧」制度には、や がて批判され、軌道修正させられる、次のよう な難点があったのである。

 では、その弊害とはどのような理由で、どの ような結果を招来したのであろうか。中世最盛 期における「教会」 ekklesia を通じての「救 済」とは、基礎に、「人間」の「原罪」を神の前 で、「貧困」。Armen という「身分」 Stand

に衣食を寄附することで、自らの免罪符を得る ことができるという「罪障消滅型」思想に至っ たのである。従って、「救済制度」。Armenpflege は、困窮する人々の福祉を目的とする客観的「救 済」。Anstalt と言うよりは、専ら、寄附・布施

を「与える」行為者側の「満足」のためが目的 であるという主観的・恣意的行為であったので ある。この結果、「救貧・救済」は、教会を通じ て、無秩序で放任的な「施し」の連続であり、

放漫・非合理な「慈善」の集積であった。この 時代の「神学思想」を象徴する諺に、「富める者 が神の国に入るのは、らくだが針の穴を通るよ

りも遙かに困難である。」(マタイ19−24)とい う思想があるが、「神」に資産を捧げた「貧者」

の方が、他人に寄附を与える資力をもつ「富者」

よりはるかに、キリストの教える諸徳に近づい

ていると考えられ、彼岸で「福祉」を得ると信 ぜられていたのである。

 こうした「慈善」思想の結果は、人間の労働 の価値を無視し、「乞食」。Bettler 、「巡礼」ニ「浮 浪者」 Vagabonden となって、ヨーロッパ全 土を、都市から都市へ、教会から教会へと移動 して、教会を通じて、「施し」を受け、生活の安 定を得る風習を慢性化させ、定着して行ったの である。なお、更に、この結果が極端になると、

16世紀初頭でも、「乞食組合」。Bettelorden と いう一団集団が組織され、「乞食」を「営業」と

して行い、「寄進」「施し」の蓄積によって巨額 の資産を共有して、それによって飽食安逸に耽

るとともに、その子女である児童を幼児期から

「擬似乞食行為」「詐欺」「窃盗」等と「教育」

し、さらに一般社会人に対して暴行・脅迫等を 恣にするという、驚くべき社会悪の出現となっ ている。因みに、この時期でも、ゲルマン社会 では、平均して、人口1,000人に対し、約260人 余、K61n市では人口4,000人に対し約1,000人が

「乞食組合」 Bettelorden を結成・集団として

「施し」や、反社会行為を反覆していたと諸文 献により伝えられており(注3)、また、オランダの Amsterdam市では、「乞食」犯罪の裁判が続出し たと、文献に述べられている。(ta4>

 このようにして、ヨーロッパ各都市を通じて、

やがて、排貧的警察行政が必要となり、既に、

1370年、Ntirnberg市の「乞食取締・追放条例」、

1478年の「乞食労役条例」、さらに1491年の Augusburg市の「浮浪児・者労役条例」の制定 をみるに至るのである。正に、「中世教会」を基 盤とした、前記「主観主義的慈善」の無責任・

無秩序な行過ぎは、「慈善」 Caritas の本来の 目的とは正反対の「怠惰」・「放浪」・「乞食」の 氾濫という社会悪を出現したのである。

 ここにおいて、従来の「救貧・救済制度」は、

その Caritas について、精神面でも行為面で

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March 1996

も厳しく批判・反省され、新しい理念のもとに 再構築されるに至る。その一つは、伝統的な、

カトリシズム内における思想転換であり、今一 っは、Martin Lutherや、 Calvinの宗教改革によ るプロテスタンティズムによる「福祉」制度で

ある。

 (2)先ず、カトリシズム内部で、上述のよう な、「乞食」奨励的な予想外の結果となった「教 会」至上的・教条主義的な、「主観的 Caritas 」 に軌道修正を与えたのは、Thomas Aquinas

(1225−・1274年)のスコラ哲学を噛矢とする。

トーマスによれば、「救済制度」は「道徳的・政 治共同体」( Corpus morale et politicus )に おいては、「施される側」即ち「要援護者(。Die Bedttrftiger )の「労働義務」こそ、「施す側」

即ち「救貧教会」の「慈善行為」と相交って、

「神」の前に価値高いという、カトリシズム神 学の別の面からの「エトス」を強調したのであ

る。即ち、正に、神聖な「労働」によって、人 間の自立を促して、「貧困」から脱却させること こそ、真の「救済」であるという、トーマスの 立論は、客観主義的「救貧」の必要といラ新機 軸と云えよう。こうした新しい「エトス」に立っ て、16世紀、StraBburg市では、新しい「救貧と 労働義務」について条例制定を行なったのであ

る。

 同じ、カトリシズム神学とともにスコラ哲学 を継承した、Geiler von Kaiserbergは、「真正 な救貧」(。echte Armenpflege )は、「教会」に よる無責任・無秩序な「布施」配分を避けて、

困窮の個別的分類を行い、それぞれに対応する 客観的保護と、年長児童を含めて稼働能力を備

える困窮者へ労働・就業を促すことこそ、「神」

の道に通ずると主張して、その組織的な担い手 は、「都市行政」であると提唱したのである。な お、Geilerは1490年代末から、都市行政当局に働

一 103一 きかけて、「慈善組織の近代化」、「救貧院」の管 理方法の改善等が、市民生活共同体の都市の義 務であり、ローマ法である「帝国法」を引用し て、同胞が助け合う人間性を動機とする「人間 性」からも救済行政が不可欠である事を強調し たのである。

 従って、Geilerとなると、カトリシズムに基く

℃aritas に、初期ルネッサンスの人文主義に 立脚した、自然法( Jus Naturalis )思想の融 合を基本としている。

 他方、カトリシズム教会のマンネリズムを否 定したのは、Martin LutherやCalvinによる「宗 教改革」そのものであって、彼らのプロテスタ ンティズムによれば、前記の「施す側」の主観 を重んじた「施し」行為による救貧は否定され て、教会の蓄財資産は没収されべきであり、「堕 落した教会」から、「救済」は移されて、 Car−

itas 共同体とも云うべき公私市民協会が、「共 同金庫」( Common Box )を通じて、「要保護 者」に対する合目的的・組織的防・救貧が行な

われるべきであると主張されたのである。ただ、

ここで要約して理解すべき事は、カトリシズム であれ、プロテスタンティズムであれ、西欧の

「防・救貧」・「救済」の根本となっている「エ トス」としての Caritas 自体は共通であり、

現代でも、「社会福祉思想」については「教派上 の対立のない( Paritatisch )基本理念」となっ ているのである。

 (3)さて、ヨーロッパ救済制度の第二の支柱 となっているのは、ノレネッサンス期において確 立した人文主義である。オランダ出身の、Eras−

mus(1465 一一 1536年)は、中世的「教会」ドグマ 的救済を批判して、人間復活による「救済」は、

現世における、「要援助者」個人の尊重と再発見 が根本思想であると述べている。また、中世か

らの移行期に、パリ大学神学部で教壇にあった、

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一 104一

John Majorは、 Thomas Aquinasの客観主義的

「救済論」をも「時代的限界」として批判して、

「人間」の、自然法的権利を基礎とした都市行 政による公的救済義務と、伝統的 Caritas の 二元論に立って、近代防・救貧事業の公共性を 唱くに至っている。この延長線に、後日の「フ ランス大革命(1779年)による「人権宣言」中、

「†専愛」  Fraternit6 があると思われるが後 述する。

 さらに、スペイン出身の、Juan Louis Vives

(1492〜1540年)は、人文主義と、 Caritas を 基礎として、「貧困救済」は現世における「個人」

の利益を向上させ、幸福、福祉を求めるところ に意義があり、これがためには、古代社会にお ける、ソクラテスやプラトン、さらにキケロや セネカの哲学を顧みて、「人間」発見の誇りと喜 びを実現するのが「救済」の理念( Idee )であ ると強調した。(注5)このような、ヒューマニズム は、近代社会事業の思想的系譜点の一つとなる のであって、Vivesの「救済思想」の具体的表れ は、ゲルマン社会を始めヨーロッパ各都市に波 及して、やがて、近代都市行政による「防・救 貧制度」が展開するのである。

 (4)他面、イギリスにおける、Thomas More

(1478〜1535年)は、ルネッサンス期における 人文主義の思潮の中に立って、当時の「貧困J の増加とモラルの低下に対して、「救済」制度の 確立の必要性とともに、次第に新興勢力として 経済力と発言力を増しつつあった新興商工業市 民が、「産業革命」前段階の初期資本主義の成立 の担い手となっていたが、その産業振興のため、

零細農民に対して「土地囲い込み」( Enclo・

sure

)運動を促しつつあったので、社会構造は 交錯・矛盾しつつあった現状を直観して、1516 年 Utopia を公刊するとともに、「困窮救済 法」(1532年)の制定を促し、さらに進んで、ラ

ジカルな「社会改革」を追求した。こうした、

思潮が、初期資本主義期における、英国「エリ ザベス救貧法」(1601年)の制定による義務救助 主義に連結すると思われる。

 なお、この人文主義による「救貧」思想は、

フランス社会における、都市行政としての救済 制度の展開となった。即ち、1350年に先ず「教 会至上主義」救貧のため多数発生した「乞食」

の俳徊を禁止して治安を維持するため「乞食禁 止法」を制定するとともに、政府が積極的な居 住救助制と、貧困者収容のための「慈善病院」

の公営化を行なっている。さらに、1612年に、

パリー市が条例を制定をして労働提供も行なう 収容施設を公営化し、やがて1656年には、労役

を通じて自治を促す「貧民保護院」( Hopital G6n6ral )を整備して、居宅保護との併用によ る救貧を行ったのである。この潮流は、やがて フランス大革命を真近にして、1870年人道主義 と博愛主義が高掲されて、市民による「博愛協 会」が結成されるに及ぶのである。このような 基盤が確固として培養されていたため、1879年 革命の混乱時にも、「救貧制度」・「救貧施設」は、

破壊の圏外におかれ、絶対王制下から共和制下 への制度承継が行なわれたのみならず、1793年

「人権宣言」では「公の救貧は神聖な義務であ る。」と積極的位置づけが行なわれたのである。

 (5)さて、ヨーロッパにおける「救貧制度」

の第3の系譜として、Gilde, Zunftによる「共済 制度」がある。そもそも、ノレネッサンス以後、

「人間の教会からの開放」によって、商工業の 自由闊達な生産活動と振興が、全都市社会は国 より、ひろく、航海の自由による海外との貿易 を促すこととなったが、こうした生産組織の単 位として、GildeやZunftの、職業協同体(。Genos−

senschaft )が社会生活の基盤となっていた。本

格的資本主義開花以前の、生産構造、流通構造

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は、すべて、Gilde, Zunftを通じて行なわれたの である。そこには、「親方・従弟制度」 A(eister−

schaft という職住生活一体の協同組織が形作 られ、生活の費用は「賃金」の形で保障される とともに、子弟の教育・疾病・障害時の保護、

さらには教育に至るまでの全生活需要は、

。Meister によって保障され、さらに進んでは

「子女結婚持参金基金」や、「共同募金」(Com・

mon Box)等の制度を備えた、堅固な「共済組 合」的共同体となっていたのである。従って、

個々の構成員である従業者にとっては、重要な 生活保障の「とりで」となっていたのである。

従って、「共済型保護・救済」によって防貧と積 極的救済が行なわれていた。ところが、後に資 本主義の高度な発達と、「産業革命」による「テー

ク・オフ」が実現することによって、必然的に Gilde, Zunftは撤退・崩壊し、さらに「手工業」

Manufakuturistentor も、機械化された近代 巨大企業( lndustrie )の組織に圧倒・吸収さ れるに至り、その後の「産業社会」( Industriell・

Gesellschaft )の中で、「資本」(。Kapital )対

「労働者」(。Arbeiter )として、シビアな階級 対立の時代へと進行するのである。このように

して、最早、Gilde式「救済型保護」は崩壊して、

近代国家の成立とパラレノレに、「社会政策」

( Sozialpolitik )が成立することになるので ある。こうした「社会政策」の成立とともに、

補完的ないし補充的な意義をもって、近代社会 事業が展開することとなる。(注6似上のようにし て、Gilde的共済の崩壊は、やがて近代国家にお ける公的扶助と民間社会事業の発足を促すこと となるので、Gilde, Zunftが「福祉」の第3の系 譜と考えられるのである。

第2章 近代都市行政における救済制度の展開  (1)近世を迎えて、ヨーロッパ大陸で「救済 制度」の担い手になったのは、都市行政であり、

一 105一 合理的組織で営まれる事となり、背景となる社 会状態に応じて、必要な条例・法制下における 防・救貧の時代を迎える。中でも、都市行政の 救済史上、画期的な制度として注目すべきはド イッ社会における、 Elberfeld 制度である。

そもそも、Elberfeld市は、ドイツ・ライン州に あるが、この小都市で創設された「救貧行政」

が、普遍的となり、ドイツ各近代都市のみなら ず、イギリス、オーストリア、スイスとヨーロッ パの都国に影響・示唆を与え、さらには、明治 日本が範とするに至るのである。1850年、市条 例によって制定された、いわゆる。Elberfelder System の特徴について述べると、そもそも小 地域単位の「救助組織」を単元として、市行政 当局が、「貧救市民」の「救助籍」を明らかにし て、各家庭の実態に応ずるように、「友愛的」な 救済行政を行なう役割を有する「貧民監督員」

を民間篤志家に委嘱して、その責任は集約して、

市行政が負うとする特徴を有した。「貧民監督 員」のボランティアが、定期的(隔週に1回)

に、「友愛的」訪問を行い、被救助の貧困者に懇 切な生活指導を行ない、自立を促す役割を発揮 するには、最大4人の要救済家庭を包括する単 位の小地域(Ort)として、貧民監督員が貧困家 庭を(児童保護も含めて)熟知し易いような地 理的範囲に止めたのである。然しながら、これ らの Ort を合して、「中区」( Bezirk )を置 いて、「中区長」が救貧行政を監督して公的扶助 の標準化を図り、具体的諸事件の統一的解決策 を合議の結果、行政判断する仕組をおいていた。

さらに市全体における、救済行政の統一的運用 のため、市行政各部代表者で組織された中央行 政部を設置して、救貧行政の公平な運用を図っ たのである。 Elberfelder System における扶 助は、居宅保護主義( Aufenthanlts prinzip )

をとり、施設収容主義の原則をとらなかった点、

イギリス「エリザベス救貧法」(1601年)の「収

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容主義」( In−door−Relief )とは、正反対の原則 を採用したわけで、注目に価する。このような、

。Elberfelder System は、組織的救済制度とし てその評価が高く広く認められることとなっ て、やがて、次第に他のドイツ近代都市、即ち、

K61n市、 DUsseldorf市、 Kledorf市等に伝播し て、さらにBerlin市を始めとするプロイセン州 全体に普及し、1894年 PreuBische All・

gemeines Landsrecht の法制となるし、また、

1870年成立の「ドイツ帝国」救済制度として定 着するのである。。Elberfelder System は、こ

のように、ドイツ全土に普及するとともに、そ の長所が、国外でも評価され、隣国オーストリ アの1890年「救貧法」にも採り入れられ、また、

スイスの公共救済行政上も参考となり、特に同 国の法制上、特定した「市民籍」を有しないと 救貧の対象とならない原則の樹立する場合に示 唆を与えたのである。さらに、後年になって、

イギリス救貧法制定の改正にも参考となった し、また、遙か遠隔の、明治日本の救済行政に も、「済世顧問」「方面委員」の制度創設に影響 を与えたのである。ただ、しかし、隣国フラン スの救貧制度にも導入されようとして、特に、

Paris市の区行政内で積極的に検討されるが、フ ランスの伝統となっている「博愛主義的救貧法 制」が既に牢固として確立している強い認識が あったので、移入されなかった経緯はある。

 ドイツ社会に、このような展開の下に確立し た、。Elberfelder System による「公的扶助」

の「在宅生活扶助」は、やがて成立間もない近 代「ドイッ帝国」(1870年)による統一救貧法制

となって、1880年代における強制的社会保険

(、、Sozialversicherung )と並んで、ドイツ社会 政策( Sozialpolitik )の一つの軸となったと思 われる。即ち、近代防・救貧立法は、急速に「産 業社会」。Industriell−Gesellschaft へ、テーク・

オフする途上で、富の集積と貧困との階級対立

の中で、「貧困に対する保護を近代国家の政策課 題として義務を履行する思想系譜を明らかにし

たものと云える。

 なお、このような公的救済制度とはパラレル に、民間社会事業の拾頭もあったことは論を侯 にない。特に、北ドイツの近代都市は、何れも

「公共的博愛協会」。Philantrop−Gemein−

schaft が結成され、都市(。Gemeinde )との 協同事業に当たるのである。

 ただ、この段階でのドイツ保護制度の限界と して、市民の側からの市行政に対する保護請求 の権利は認められていないし、一定の場合のみ

「上級行政庁」に対する請願を認めるに止め、

また、都市は、「要援護者」( BedUrftiger )に 対する扶助を、本来、その扶養義務者の行なう べき保護を、これに代って行う性質のものであ るから、後日、扶養義務者が発見されるか、扶 養能力を有するに至った場合には、扶助義務者 から、扶助費を弁償せしめることと規定してい たのである。

 (2)近代都市行政の特徴の一つは児童・青少 年に関わる積極的保護にある。特に、ドイツ社 会における児童行政の体系とその思想を検討す

る必要がある。1844年、ドイツの都市では「幼 児保育制度」が確立されたが、就学前の「教養 的保護」が行なわれるとともに、さらに、別途 の就学後の「教養的児童監護制度」が実施され た。そもそも、就学前の「教養的保護」とは「保 育所」を整備して、労働者から就労時間等に乳 幼児の保育の委託を受け幼児保護と、労働力保 護となる社会政策的役割を担うことを基本とし

て出発しているのである。元来は、民間社会事 業協会の発想により、バイエルン州の諸都市か

ら始まった。

 続いて、「児童監護制度」が、1779年に、民間

社会事業協会の創業によるが、前者とは性質・

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March 1996

目的の異なった制度である。ただ、前者と同時 代の都市行政として展開された。

 「児童監護制度」は、先ず幼児から対象とす る点で、梢々もすれば、「幼稚園」( Kindergar・

ten )と混同され勝ちであるが、この制度は、「下 校後の児童に対して、その父母に代って、家庭 に準ずる「公序良俗」の教養を与え、リクリエー ションなり、さらには前職能教育施設の場を提 供して、学童の非行化・放浪化をしないよう、

留置監護する制度であり、1872年には、Augus・

burg市、 Mifnchen市の2つの都市で、都市行政 として行なわれるに至ったのである。やがて、

次第に他の都市を触発して、プロイセン州に及 び、Berlin市でも行政として行うべしとの建議 が度々なされ、ドイツ社会において、その公共 性が認識されることとなる。ことに、この制度 が、「庶民社会」の子弟に、食物を配給し栄養を 補給する事業と、前述のように、教養・健全娯 楽を促す精神的面での保護育成を併せ行なって

いたところが進歩的な児童保護行政と意義づけ られたのである。

 (3)しかし、こうした「児童監護行政」も大 きな変革期を迎えることとなった。それは、「産 業社会」が間近になってくるにつれて、貧困脱 却又は防貧のため、貧困家庭の児童を主な対象 として、職業教育と生活訓練制度を実施して、

彼等の自立・自活の途を準備する行政課題が不 可欠となったので、都市財政による補助費支出 が行なわれたのである。このような、制度は、

反面において、商工業の発達を助長する結果を も導くことになるので、児童・青少年自立促進 という社会事業的意図と、経済政策的意向との 二面性を併せ有したことになるのである。さら

に、この延長線上に「児童工芸協会」という名

称の全国公共団体が、「児童の手工業

(。Manifactur )の普及を、その機関誌によっ

一 107一 て広報し、ドイツ全土三百有余ケ所に、年長児 童・青少年を収容して、職業訓練を行う施設動 向への発展があった。

 成立後間もない、近代「ドイッ帝国」政府と 各州行政庁が、こうした「児童工業協会」の事 業に多額の補助金を支出することとなり、オー

ソライズされた制度となったのである。

 この制度に属する典型的例として、Berlin市 に隣接したWilmelsdorfに設立された「少年養 育所」や、Berlin市における女子対象の「工芸学 校」の制度を挙げることができる。

 もっとも、次第に機械工業の発達と、「産業革 命」期に入ると、工場内に、青少者労働保護施 設を付設する労働政策的要素を備えた制度に転 化するのである。さらにこうした一連の、児童・

青少年養護と職業教育の一体化制度は、やがて、

プロシア鉄道内においても行なわれ、また、大 企業「クルップ製鉄工場」における技能教育の ための「育英資金」事業となってその特徴が明 瞭になる。他方、Westfalen州の各工業都市で

は、多数の民間団体が公益法人を作って、庶民 の子弟のための職業養成機関を、その財団積立 金によって設置、整備して、児童・青少年に対 する専門技術の養成が、知識・職能を賦与する

ことになる。

 ドイツ都市行政では、これらの制度を、新し い「児童教養事業」と総称して、公認・促進す るのである。

 このような、児童保護・保健と実業教育の一 体化というドイツ固有の制度の背景には、近代 的育成という一面と、他面、イギリスに一歩遅 れて発足した、ドイツ「産業社会」の要請と一 致するところが見られると云える。

(4)上述の「児童教養事業」とはパランルに、

1893年以降のドイツ教育界では、初等・中等教

育から、高等教育への途が、広く庶民階層に門

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戸解放され、従来の階級別教育制度は廃止とな り、ドイツ教育制度の近代化が行なわれるよう

になる。

 なお、フランスにおいては、特に1881年以後 厳重に、義務教育を実施し、授業料を廃止し、

さらに学費給与制度を実施して、貧困家庭の子 弟の就学を励行させるとともに、就学前の無料

「保母学校」=「幼稚園制度」も行い、貧窮家庭 の児童の教育を支援するという固有な制度を開 設したのである。さらに、労働者の子弟で、下 校後家庭の保護者が労働のため外出不在してい

る場合には、児童を学校に留めてリクリエー ションの場を提供して非行化を防止することに した。さらに、学校給食制度によって、学童の 身体成長を促進したのである。このような普通 教育の上に立って、高等教育の門戸解放を行

なったのである。

 (5)児童・青少年保護の一環として、等閑視 できないのは、非行化、犯罪防止のための積極 行政である。「産業革命」達成後の、児童・青少 年をめぐる社会問題は、家庭環境の悪化、保護 者である労働者からの放任、「産業予備軍」と呼 ばれた失業者の増加、都市スラム街の深刻化等 を背景とした、非行グループ化である。荒廃し た「貧民窟」の生活の中で、生長する児童は深 刻な影響を与え、おおかたの場合、児童は知ら ず知らずの間に、日夜見聞する生活癖から、非 行習性を身につけることとなって、少年の非行 化、虞犯傾向、犯罪少年化の増加の温床となる のである。従って、既に16世紀に発生していた 児童感化事業にも、新しい社会傾向における青 少年問題発生という質的変化に対応することが 必要となって来た。特に、近代ドイツ都市の場 合が典型例であるが、従来の既遂の犯罪少年の 懲戒治療を主とした感化制度に加えて、悪習感 染のおそれのある児童に対しても、虞犯傾向を

防除するための都市行政の実施が不可欠となっ たのである。従って、従来の犯罪少年監禁制度 以外に、非行化しようとする少年に対する社会 事業的指導と、家庭環境の物的・精神的改善、

幼児期からの健全娯楽の機会の提供、品性の酒 養等、積極的で予防活動的な、公私福祉団体に

よる取組みが必要となって来た。この点で、1833 年、ドイッ各都市で行なわれた、「家庭的組織教 護」(。Laufeshaus )の制度は、画期的意義を有 する福祉制度であった。この制度は、児童の非 行化を防止するため、義務教育における知育的 指導と連繋の下に、家庭生活における、品性・

教養の向上を目的とした、家庭に対する教化指 導を行う積極的対応策であって、こうした社会 事業が効果を挙げるためにも、社会事業専門職 の養成が必要となって来たことは、後述する。

 上記のような経過と由来を経て、やがて、「教 護院」における「家庭舎」・「小舎制」が普及を して、ヨーロッパ内は固より、1848年アメリカ 合衆国のMassachusett州に輸入され、「家庭舎」

制の「教護院」が設置され、また、イギリスに おける「小舎制」( Small Cottage )教護事業 が採用されることになるのである。

 児童非行防止の積極策として新しく展開され たのは、児童に対する普通教育の拡充の外、児 童が成長後も自立・自活できるよう、幼少時か

ら「労働」の価値の尊さを教育して、勤労にな じみ自主的精神を発揮するよう「実務学校」の 名称の下に感化する制度である。やがて、1900 年に至って、近代「ドイッ帝国」内では「保護 教育法」の法制度の下に、「後見裁判所」が都市 行政当局が緊密な連絡をとって、非行児童を公 私いずれかの「教護院」に収容して、「実務学校」

的機能も含めた教護を行うか、又は、個人篤志 家(社会教育従事者が多い)の家庭(「職親」)

に委託して、生活の保護・指導に加えて、職業

上の能力養成にも努めることとなったのであ

(9)

る。従って、近代都市における少年非行の取組 みの当初は、懲罰的・社会防衛的な刑事政策的 取組みから出発して、社会事業的処遇を原則と する「教護院」収容へ、さらに家庭単位の教化 へ、続いてこれに職業能力教育を加味する制度 に発達して、児童・少年の全人格形成的指導へ

と進歩した結果が、やがて、ワイマール共和国 下における1922年の「ドイツ児童・青少年福祉 法」の制度下における、「教護」という一つの近 代福祉体系を確立せしめたのである。換言すれ ば、19世紀的救済保護(。Ftirsorge )から、20 世紀的福祉(。Wohlfahrtspflege )へと展開し て、積極的な「公共福祉」行政・事業の中で位 置づけられるに至るのである。

 ⑥ 近代都市行政では、従来の「救済・保護」

制度の原点であった、「救貧事業(。Armenp・

flege )」の範疇に止まらず、広く「公共福祉」

( Gemeinwohl )を目指すこととなる。こと に、1779年の「フランス革命」によって、近代 市民社会で新しく公認された市民権、自由

(Liberte)、「平等」(Eqalit6)、「博愛」(Frater−

nit6)の基本的人権保障下では、「人権宣言」

(1793年)の中で「公共の福祉は、社会の神聖 な義務であり、各都市は困窮市民に職業を賦与 し、労働不可能な場合は公的扶助する義務を負 う。」と宣明したのであるが、以後、このような 思潮の下に、先ず近代都市の大きな課題は、庶 民の住宅提供に対する積極策の確立であった。

近代後期、1889年になって、ドイツでは、庶民 住宅整備のために、建設会社に低利融資を行ラ 保険金庫を「公共福祉行政」とする法制を制定

し、都市行政単位で、建設会社が、広大な面積 の建築用土地を購入する場合、市行政上定めた 設計に従い、低所得階層向けの庶民住宅を、一 定数量建設することを附帯条件とするととも

に、既存の低所得住宅に対しては、市立貯蓄金

一 109一 庫から、建設会社に、「目的融資」として低利子 で行なうことによって、市の公共住宅提供行政 を代行せしめ、「不良住宅地区Jの環境改善に努 めたのである。

 典型的例として、1898年MUnchen市の条例、

Bonn市の条例が挙げられる。また、 Schwein−

feld市始め、多くの都市では、さらに進歩的行政 として、市自体が公営住宅を建築して、これを 賃金労働階層に、20年間年賦償還の契約の下に 貸附け、賃借人である賃金労働者が契約通りの

「建築資金」年賦返済の義務を履行した後は、

その住宅の所有権を賃金労働者へ所有権移転す るとして、住宅保護とする条例を制定する都市 も現れたのである。なお、これらの「公共福祉」

行政は、「居住福祉」という社会事業上の目的と するものであるとともに、別の面から見ると、

「労働者は家に留まり、家も亦、労働者を留め る」という諺で表現されたように、善良な市民 の労働者を当該都市に定住せしめようとする目 的も併せ有していると言われ、要之、社会政策 的配慮と経済政策的需要の二面性に立脚した行 政であったと思われる。なお、賃金労働者の賃 金はその生活保障全般をカバーすべきものであ

るから、前述のような、都市行政からの貸付金 年賦償還の契約履行まで、額が及ばない場合も、

多々あったので、その場合には、労働者に、こ れを借家として提供する制度として、家屋の所 有権自体は、市が永久保持するという制度に方 針転換した例も見受けられる。けだし、如上の、

ドイツ都市の住宅福祉行政は、他のヨーロッパ 諸国でも、「出色の制度」として評価されている が、こうした積極的行政の背景には、同国の土 地政策の事情から由来する事情があったのであ

る。

 即ち、19世紀に入ってから、ドイツ社会にお

ける商工業の急テムポの興隆の結果、人口の急

激な都市集中化をもたらし、住民となった、賃

(10)

一 110一

金労働者は、「苦汗制労働」 SchweiBarbeit の 条件下で、その家屋取得の需要が異常な程、高

まったのである。しかるに、反面、これに反し て、「資本」による、土地の私的投機・不動産販 売による利益追求が過度となり、競って、土地 所有につとめた結果、住宅地供給の逼迫と、土 地価格の騰貴を招いていたのである。ここにお いても、近代「産業社会」の、「資本」対「労働」

のシビアな利害挑発があったのである。このた め、都市行政が、中立的立場から、さらに労働 保護という社会政策的考量に基いて、「資本」に

よる、土地の投機的取引を禁じ、土地購入者が、

自らの住居を含め、住宅建設用に使用する場合 でないと、都市行政が、空地売買を許可しない という規制を行なうことによって、労働保護、

低所得者住宅確保という社会事業的な要請に積 極的に応えることとなったのである。やがて、

「ドイッ帝国」成立とともに、1901年帝国法令 を施行して、「都市における土地投機・転売取引 は、秩序整然とした住宅改良制度の支障となる

ものであるから、これを禁止する。私人の投機 取引の対象とする『遊休地』については、土地 利用法によって、市が、占有・所有するものと する。而して、これらの土地が、住居建設又は 改良に使用される場合に限って、一定の条件の 下に、市当局が、私人に所有権を譲渡、払下げ

を認める。」旨の「政策宣言」を行なうに至った のである。

 このような、住宅福祉行政は、積極的な「公 共福祉」の概念・内容となるものであって、こ

こにおいても、現行「社会福祉学」の生成の一 端を見ることができると思われる。

第3章 近代社会における

    民間福祉と社会事業専門化の動向  (1)近代都市行政が、前述のように、。Elber−

felder System を支柱として、公的扶助や福祉

が巾広く展開されている中で、民間社会事業団 体(。Private Fiirsorge )はどのように展開し つつあったかが検討課題となる。イギリスでは、

既に1869年London市内で、「慈善運動組織協会」

( Charity Organization )(C.0. S.と略称)

が、地区別にボランタリーな調査委員が、地区 内の「要援護者」を個別的に調査し、カードに 記録するとともに、組織的・合理的な救貧活動

を展開し、また、C. J. Boothの「ロンドン市民 調査」や、B. S. Rowntreeの「ヨーク市調査」

(1889年)による社会調査が行なわれており、

同時に、C.デニソン、 A.トインビーによる、

セッツルメント運動が展開されていた。また、

フランスでも、1870年、「博愛(charit6)協会」

が各種の社会問題解決の運動の討議を行なって おり、後のフランス革命後の「救貧事業」の礎 を築いていた。これら、各国の動向とパラレノレ な時期に展開された近代ドイツの民間団体につ いて考察することとする。、、Elberfelder Sys・

tem による「公的保護」が対象を、包括的な貧 困の救済においていたのに対して、民間社会事 業の重要課題は、児童福祉・障害福祉に対する 取組みであった。このような沿革的に分担関係 が生成されていたから、公的保護と、民間社会 事業との間には、摩擦のない協力関係が成り 立って、それぞれ、展開されたのである。

 また、公私の関係は、他の面からも促進され たことが指摘される。それは、 Elberfelder System の居宅保護が実施される中で、「要援 護者」。BedUrftiger をめぐる複雑な、市民権関 係、請求権関係の諸問題や、民法上の扶養義務 者との権利義務関係等の解決は、行政上の課題 であり、官庁の訓練を受けた公務員によっての み解決・処理できる法律問題であって、このた め、行政の限界から「扶助」は「硬直化」

(。Verbeh6rdlichung )に対して、民間社会事

業が、そのりベラルな立場から、「開拓性」を発

(11)

揮してケースの対応に当り得るので、公私の協 力補完関係に立っていたのである。以上のよう な、公私の補完体系の構造の上に、「社会福祉学」

の成立の一面が見られる。

 (2)さて、救貧制度上、1905年の「ドイツ帝 国」救貧法施行に当って新しく採り入れられた StraBburg Systern が、社会事業についての 公私協力関係、特に民間社会事業の展開に画期 的転機を迎えることとなる。。StraBburg Sys tem とは、救貧行政において貧困家庭の状 況・審査・審問のため「質問表」を予め作成し、

これに基いて科学的かつ公平に救貧を行うとい う制度であるが、この「質問表」は専門公務員 が技術的に作成した、マニアル的機能を有して

いた。その「質問表」に基く公務員の救貧行政 の上に立って、限定された定型的救済以上の保 護指導は、ボランティアである「民生委員」が 行なうことになって、伝統的な Elberfelder System に大巾な実質的改正をもたらすこと

になったのである。従って、「質問表」による定 型扶助の上に立って、自由に、自主的に展開さ れる民間社会福祉はそれ自体、技術性・科学性 をもった合目的的な機能を有つ必要があり、専 門性が要求されることになったのである。まし て、児童福祉や障害福祉には、公務員もボラン ティアも高度なケースワーク(。Sozial Ar−

beit )をもって取組む必要性が認識され、ここ に、社会事業の専門職化が強く要請されること

となった。

 (3)社会事業専門職制度の表われは、既に 1899年、ドイツでは最初の専門教育機関として Berlin市に、一年制の「女子社会事業学校」

( Frauenhochschule (der Sozialen Ar・

beit) )の設置がある。この社会事業専門職養 成の道程には、二つの方向からの運動目標の合

一 111一 致を見出すことができる。即ち一つは、上述の

ような。StraBburg System による民間社会事 業技術の高度化を求める流れと、今一つは、ド イツ婦人運動の女子職業開拓の社会活動とが合 流したところに注目すべきである。ことに、1880 年代に入って、「女子高等教育と女子職業開拓の 要請運動上、最も力が注がれたのは、慈善運動 以来の伝統があり、従来、婦人の公的分野に参 加が許容され易かった、児童教育・社会事業の 分野への進出であった」と言われている。既に、

こうした運動を基盤にして、1880年代以降の

。Elberfelder System の普及とともに、救貧行 政吏員へ女性を積極的に採用するという結実も あった。「婦人運動にとっては、新しく要請され た社会事業職は、従来の教師・看護婦・幼稚園 保母と等質・類似の、女性に最適な職業として 評価され、弥が上にも、女子に対する社会事業 専門教育の必要性が強調された。」のである。さ

らに、「ドイツ婦人運動の社会事業への積極的取 組みの姿勢は、Fr6belに始まる、『精神的母性』

(。geistige Mtitterlichkeit )による、婦人の幼 稚園教員・保育所保母等児童保護への定着、ド

イツ社会政策による婦人解放・婦人参加の思想 の確立によって高揚された。」と云われてい

る。(注7)Alice Salmonをリーダー格として、1893 年、Berlin市における、女子社会事業職業化への 画期的運動が展開される。他方、 StraBburg Systern は、男女を問わず、およそ近代的社会 事業に従事する人材は専門職として養成される

ことを必然的に要請したのである。やがて、20 世紀になって、女子社会事業学校が陸続と増設

されるが、時に、1920年、専門職としての資質

向上を目的に、公私社会事業のどちらにも、ま

た男女に共通な国家試験制度が施行されること

となって、社会事業専門職制がオーソライズさ

れるのである。ワイマール共和国成立後、1922

年ドイツ児童・青少年福祉法、1924年新公的扶

(12)

一 112一

助制度の制定によって、公私社会事業の活動分 野が拡大され、益々専門職の需要が増大すると

ともに、男子の専門職養成の必要性も高まり、

ここに、若干の総合大学(。Universitat )のカ リキュラムの中にも、社会教育学(。Sozial・

padagogik )さらには社会事業(。Wohlfa−

hrspflege )教育を行なうようになり、養成の門 戸が広まることとなったのである。このような、

社会事業の専門化・科学化・技術化の軌と、社 会事業専門職養成制度の確立史上にも、「社会福 祉学」の生成過程を見ることができる。

 (4)このようにして、歴史的に形成された「社 会福祉」は、20世紀を迎えると、ワイマール共 和国では、その憲法が「国民は『人間に値する 生存( Menschenwtirdiges Dasein )を営む権 利を有する。」と宣明することによって、新しい 基本的人権として「社会権」の思想が確立され るのに至ったのである。このようなドイツの潮 流とパラレルに、イギリスでは従来発達して来 た「救貧法」に基く防・救貧を「公的扶助」に 発展せしめ、元来ドイツ社会政策の一環として 生成して来た「社会保険」を導入してイギリス

「国民保険」(1911年)によって、国家による積 極的保障の体系を確立することとなる。さらに

イギリスではこの二大支柱を国家による国民の 生活保障とするとともに、前述の「慈善運動組 織協会」(C.0.S.)の民間社会福祉活動を併行さ

せることによって、「福祉国家」への途を進める のである。こうしたイギリス福祉国家も亦、20 世紀的「社会権」思想を支柱とするものである。

なお、如上の、公的な制度、即ち、「社会保険」

と「公的扶助」の融合体の特質は「所得保障」

体系であり、これを「消防車」に警え、非経済 的ニードを充足させるための公私の社会サービ スを「社会福祉」( Social Welfare 又は

Social Services )と糸念称し、これを「消防夫」

とみなして、その両者の制度が補完し合って「社 会権」、「生存権」を保障するとの理論を提唱し

ている。(注8)

 イギリスの場合、1942年、「福祉国家」の支柱 となる、V刃. Beveridgeによる  Social Insur−

ance and allied Services 報告書で、新社会保 障・社会福祉の体系が再構築されるのである。

その具体的制度は、1945年戦後イギリスの各法 制㈹の制定を待って発足する。これに反してド イツの場合、ワイマール共和国は、前述の「社 会権」を支柱に、「社会国家」(。Sozialstaat ) の実現を志向したので、当初は「黄金の20年代」

と歓迎されたが、1930年代になると、未曽有の 不況とインフレーションに加えて、政治的不安 定が、国民生活を苦しめ、やがてナチス政権の 拾頭となり、極端な民族主義と帝国主義の独裁 制の下に、権力によって、伝統的な社会保険や 社会福祉は抑圧・排除され、基本となって来て いた、ヒユーマニズム・基本的人権尊重は完全 に拒否される結果となり、光栄ある歴史をもっ た福祉制度は戦時中歪曲されるか屏息せしめら れたのである。従って、戦後をまって、ドイツ 連邦共和国では、荒廃の中から、経済復興とと もに、社会政策、社会福祉を再出発させたわけ である。

 このような歴史の曲折はあるものの、20世紀 後半の現代社会福祉の共通的な「エトス」は「社 会権」にあると云えよう。現代の「社会福祉」

について典型的例として、近代イギリスとドイ ツを対比しながら論ずると、上記の「社会権」

思想史は他の現在国家にも同様、共通する潮流 である。

第4章 日本における救済制度の源流と展開  日本社会固有に発足、生成した「社会福祉」

は、どのような内容であったか、また、何が「エ

トス」となっているか、ヨーロッパ社会とは地

(13)

理的にも民俗風習的にも、異次元の発足である から、視野を新たにして検討する必要がある。

もっとも、明治以降は、近代国家として、思想 的にも制度的にも欧米から影響を受け、或いは 移入・消化したものが多いから、「社会福祉」は 東西共通地盤に立っているので「普遍的」と云 えよう。従って、固有なものと、普遍的な点と を仕分けて研究することとなる。

 (1)わが国の「救済制度」は、文献上、明ら かになっている範囲では、BC29年頃の上古時代

  むら  いな

に「屯倉稲置」という制度があったことを源流 とする。この制度は、凶作や天災時における飢 餓を防ぐため、予め、作物の種子を備蓄してお

き、困窮に際してこれを放出して救済に当る制 度である。前述のように、古代n一マに発足し た「穀物法」 Anonna Civica にその機能な り趣旨が極めて類似しているので、文物交流も ない古代において、正に同時多発的な発生であ ることは興昧深い。その後の古代日本は、後に

「班田農民」と称せられる農業経営を基盤とし た社会であったが、やがて、大陸との交流が始 まり、当時、東洋社会で最も先進的であり、す ぐれた文化を有つ、陪・唐を範とした「大和国 家」の成立がある。平城京を中心とした、日本 古代国家は中央集権国家として、「律令制度」を 施行するが、このいわゆる「律令国家」を支え

た制度が「大宝律令」(AD.701年頃)を基礎に して、救済制度を制定している。即ち、「令義解」

の「戸令」を基礎とするが、その内容は古代社       むら

会を形成する単位は「邑」であり、「邑」とは、

数戸から十数戸の集落体であり、一戸が20名か ら30名で成り立つ家父長的共同生活体・氏族共 同体であって、これらがグループ毎に「戸」と して「登記」されていた。従って、「戸令」とは、

その生活共同体における秩序を意味する。救済 制度もまた、「戸令」に基くものであって、その

一 113一 体系は先ず「戸」内での相互扶助を基礎として、

氏族共同体の中に扶養する近親者のない困窮者

   かんか

は、「鎌寡・孤独・貧窮・老疾ニシテ不レ能二自        むら _存」の場合、その「戸」の住居を管理する「邑」

が公的に扶助するという制度を整えていたので ある。さらに当時は、都と出身地を公用のため 従来する「運脚夫」や「役丁」が交通途上、疾 病に罹った場合、中央政府が、「郡司」に命じて

「行旅病人」として、現在地を管轄する「邑」

が公費で医療に当ることも、「戸令」による救済 である。「戸令」による救済制度の第三の型で、

       よしくら

最も重要な防貧的性格を有する「義倉」制度で

      よしくら       むらくら

ある。この「義倉」は、かつての「邑倉」の律 令国家版とでも考えられるが、一種の「備荒貯 蓄」の制度であって、年々の農作物収穫から、

その一部を田租とは別に、国に種子を収めて貯        よし 蓄しておいて、凶作時には、これを集積した「義

くら

倉」を開放して、放出食糧によって困窮農民を 救済するとともに、平年時でも、夏秋の間、収 穫前にストックしてある種子を希望者に、「低利 子」(現物即ち穀類)で貸与することによって、

農業生産力の平準化を図って、公的に、農作物 の平均的生産を保持する「防貧機能」もかね備

      よしくら        よし

えていた制度である。「義倉」制度の、「義」と は、「富を分かつて貧を救う情義」から由来する ものであった。けだし約1280年程もの前の古代 日本に、しかも外国からの移入制度ではない固 有の救済制度があった事は、驚く程、進歩的な 仕組みとして評価されるべきである。

 このような、律令国家における公的救済は、

これを支えた「エトス」面を注目する必要があ る。それは、AD522年頃、日本社会に伝来した

「佛教」による「慈悲」思想が、社会生活にお ける相互扶助を支える「エトス」となって定着 していたからである。そもそも、佛教思想によ る「慈」とは「真実の友情」、「悲」とは「愛隣」

を意味すると言われる。正に、ヨーロッパ社会

(14)

一 114一

における「救済制度」が、キリスト教の Car−

itas を「エトス」としていたことと比較する と、極めて類似の現象と言えるのではなかろう か。固より、相互交通も交流もない、東西古代・

中世社会の偶然の類似現象として、東洋では佛 教、ヨーロッパではキリスト教、即ち、それぞ

れ、「宗教」が「救済制度」を支えていたのであ

る。

 第4点の、「戸令」による制度は、施設保護で あって、「施薬院」、「悲田院」、「療育院」、「敬田 院」の4種類の収容施設が、公立で設置され、

これらの公的施設の実際の運営管理に当るもの は、国教である「佛教」の僧侶とされていたの である。ここに、聖徳太子を系譜点とする、国 営佛教社会事業が「一大山脈」を形成すること

になったのである。やがて、太子以降の社会は、

古代律令体制も次第に衰微し、皇室行政も衰退 するが、後代では、律令行政から分離されて、

佛教・寺院を主体とする社会事業が自立して、

その多くは寺僧によって伝統的に「救済」が行 なわれるのであり、現代でも、この佛教社会事 業が、民間社会福祉の担い手の一つとなってい

ることは、注目すべき事と思われる。

 なお、同じく佛教の「慈悲」の思想を「エト ス」として、行基等による民生安定のための治

      ふ せ や

山治水を始めとして、「布施屋」等の救済施設が 設置されたことは、在野社会事業が、今一つの

「山脈」として、後代にまで継承されているこ とも等閑視してはならない。

 ② わが国、中世封建期での「救済制度」は、

古代律令国家が崩壊したので地域分散の型をと らざるを得なかったし、必ずしも体系化した流 れをとっていない。即ち、分立する封建諸候の 各領地・領土内における自治的共同体単位の「救 済」が、区々まちまちに行なわれたと言える。

大別して、例えば、北条泰時時代の、領地内飢

餓貧民救済を目的とする、富裕階層からの「出 挙米」制度や、上杉謙信時代の、領民対象の、

凶作時を主とする救済や、防貧のための「備荒 制度」等のように、為政者の民生安定を目的と

した行政による「救済制度」と、鎌倉時代の「宗 教改革」を経た叡尊の、「乞食救済」、忍性の、

「常施院」、「悲田院」、「療育院」等の施設保護 が、前述の在野佛教の「慈悲」をエトスとする 社会事業と、第3のパターンとしては、表面上 宗教的「エトス」と一応結びついた寺院や神社 を拠り処とする、住民集団による「頼母子講」

等の、民俗的相互扶助の「備蓄・貯蓄」制度が、

この時代の「防・救貧制度」として挙げられる。

 (3)わが国の救済制度が、国家的に系統だっ た組織活動として、再登場したのは、江戸幕府 の、特に、後期封建時代の成熟期である。そも そも、江戸幕府期は、幕府を中央集権とする反 面、諸藩を地方分権とする、二重権力構造であっ て、その中で社会秩序が保たれ、産業経営が行 なわれる中で、社会問題として「防・救貧救済」

が制度化されるのである。その特徴は、江戸を 中心とする「都市型救済制度」であり、幕府の 法制を根拠としていたところにある。先ず、救        かんか 貧の対象は、古代社会の律令制を範に、「鰹寡孤 独」に限定した、常設の「窮民教育所」による 収容保護と、他方「町内会」システムに支えら れる在宅保護の体系としていた。この相互扶助 を支える「エトス」とは、家族主義的共同意識 と、この時代に高揚を見た「儒教」精神との結 合と言える。従って、家族制度を基本とした、

親族扶養→隣保扶助→「奉行」行政救済→「藩 制」救済又は「幕府」救済という、ピラミッド 型の救貧体制を確立していたのである。そうし た、この体系を基礎的に支えた連帯組織は、地 域社会における「五人組制度」であった。この

「五人組制度」とは、都市・村落を通じて、「身

(15)

March 1996

分」秩序の維持、納税確保、安全秩序の保持、

共同社会における「倫理」の維持を目的とする 地域単位の連帯であって、生産政策・経済活動 面の「単元」であったのでヨーロッパにおける Gilde, Zunft的組織の地域単位的制度にも似 通った社会組織であった。(固より、この組織自 体は日本社会で自主的に生成されたものであ

り、外国の影響なり、示唆で成立したものでは ない。)従って、「五人組」社会秩序の中から脱 落しようとする「落伍者」は必寛、窮貧に陥る 結果となるので、「落伍者」の矯正と保護一屡々、

「隣保共済」とか「隣保相扶」と称せられたが 一 を行なう、公的な救済制度上の「細胞」であ

る。さらに加えて、先ず江戸市内には、「小石川 療養所」が公的診療を行う「病院」として設置

され、また、「溜」や、「人足寄場」は、住居の ない労働者に対する「宿泊保護施設」としての 保護機能を発揮していたのである。さらに、当 時の労働尊重思想から、「石川島授産所」を要保 護者への職業訓練による自立促進への防貧施設 としていたのである。このように、「救済制度」

が社会事業的考慮から「要援護者」への就労促 進をも行なう役割も有することは、ヨーロッパ 社会における、イギリス救貧法制史と比較する

と、同様の現象と理解される。(ただし、この時 代のわが国の「授産」にはヨーロッパ社会で成 立した防・救貧制度の移入なり影響はない、独 自のものであり、ただ結果が東西類似の機能を 有していた事は比較研究上、興味深いと思われ

るからである。)

 なお、江戸時代に、復活したのは、律令時代 の主な救済制度の食料の備荒貯蓄制度である。

       しやくら

即ち、共済組織として、「社倉」が町内会、五人        よしくら 組制度を基盤として置かれ、古代の「義倉」の

例を一層合理化して、今年間の農作物収穫実績 を基準として、各年度毎に一定割合の食料消費 を節約(おおむね、5%節約と伝えられている。)

一 して、次年度に積立てておき、困窮して飢餓に        しやくら 陥る窮貧者が生じた場合、救1血用に、「社倉」の 備蓄を放出して、救皿のため食糧を供給する制 度を確立していたのである。

 (4)以上の、江戸時代における公の体系的救 済制度は、儒教的倫理を「エトス」とする「仁 政」概念に基礎を置く、「経国済民思想」(=経 済思想)によって支えられていたと言ってよい。

他方、この時代の民間社会事業は、支流にあっ たとは言え、伝統的な、在野佛教の「慈悲」と、

「休楊側隠の心」という「儒教的理念」に支え られて展開していたのである。

 なお、江戸時代開始前に、周知のように、(15 世紀)「大航海時代」の波に乗った、フランシス・

ザヴィエルが来日、キリスト教布教とともに、

高齢者・棄児・難民を収容保護する「救世院」

を設置するし、ルイス・デ・アルメイダが「育 児院」や西洋医学による「総合病院」を設置し て、キリスト教 Caritas を「エトス」とする、

民間社会事業が、わが国に定着しようとするの で、ここに、史上、日本社会は始めて、ヨーロッ パ・キリスト文明と出会い、小西行長・高山右 近・細川ガラシア夫人等指導者層が「キリシタ

ン」活動に積極的に共鳴、献身する人々が続出 するが、やがて江戸幕府の異教徒に対する弾圧

と、鎖国政策の下に、屏息せしめられ、その後、

幕末開国、明治近代国家の成立する迄の間には、

キリスト教主義に基く、社会事業が、第三のパ ターンとして存続することができなかったので ある。ただ、兎角、「閉鎖的」と断定され勝ちな、

わが国の近代国家以前の社会にあっても、この

ように、ヨーロッパ社会に生成された、キリス

ト教的救済制度の受容には意外にも寛容であっ

たことは再言忍識されるべき一$と思われる。むし

ろこのような日本社会が15世紀末で、ヨーロッ

パ文化と出会いこれを受け入れた経験から、や

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