〈要旨〉ラカンが言うところの第一のシニフィアン「
S
₁」を主題にする。このシニフィアンとの邂 逅のもとに主体は原的に誕生し、もうひとつのシニフィアンの現れにおける分割の後も、主体の 運命はこのシニフィアンを中心にして回っている。パロルのあらゆる行為において、常にこのシ ニフィアンが中枢となって機能しているが、主体はそのことを知らない。人間の倫理の根幹を成 すこのS
₁について、精神構造のいくつかの水準におけるその機能の現れを通して検討を試みる。Ⅰ 欲求と欲望
まず、『アンコール』から、ラカンの言葉を引こう。
話す存在の欲求4 4 4 4 4 4 4
besoins
はすべて4 4 4 4、一つの他なる満足4 4 4 4 4 4 4 4une autre satisifaction
に巻き込まれ4 4 4 4 4 4 ている4 4 4impliqués
という事実に汚染されて4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4contaminés
いるが4 4 4――「一つの他なる満足」 ces trois mots
に下線を引いて下さい――この他なる満足に欲求は欠如/不出頭4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4défaut
し得る4 4 4。(
49
1).
強調はラカン)ここで言われる「欲求」とは、「話す存在」である人間の生活あるいは人生における、様々な日常 的行為・営みを、つまり、ある具体的な意図と目標を持った行為・営みを指すと見て良いだろう。
他方、「他なる満足」の方は、欲求において禁止・抑圧された満足のことであり、欲望において、
対象
a
が禁止を越えて獲得された場合の満足のことである。以下に、この両者の関係を、フロイトが『快感原則の彼岸』において展開した「死の本能(死の欲動)」
の二側面について捉えることを試みてみよう。ただし、この二側面については他ですでに論究済み であるので、以下の説明は概略に留めたい2)。
死の欲動の二側面とは、「生の欲動」によって被った欲動緊張を、ゼロに至るまで放出しようと する「涅槃原則」と、そして、ある一定のレベルまでそれを放出しようとする「恒常原則」のことで ある。この両側面を図式化すると以下のようになるだろう。
片 山 文 保
S
₁ について――ラカン『アンコール』を読む( 2
)――この図において、縦軸は緊張の度合いを、横軸は時間を、そして、点線は緊張の或る一定レベル を表している。緊張の度合いを時間の経過とともに追えば、例えば図の波のように、時には恒常レ ベルを越え、また時にはこのレベルを切ることが、我々の生活において考えられる。そして、欲動 緊張が恒常レベルを越えたときに、この緊張を普段の水準まで下げて普段の生活を回復しようとす るのが恒常原則としての死の欲動である。これに対して、涅槃原則の方は、被った欲動緊張をゼロ に至るまで放出しようとする。もし、これが完遂されれば、原理的に、人は死に至ることになる。
原理的にと言うのは、現実にはそれは起きないからである。つまり、端的に、緊張放出という欲望 行為において目指される対象
a
は幻想であって実在せず、その獲得は不可能だからである。しかし、欲望は、原理的に、緊張ゼロ、従って、欲望ゼロの死の地点を目指していると言えるだろう。
さて、この図に、欲求と他なる満足をそれぞれ位置付けてみると、欲求は恒常原則の矢印として、
そして、他なる満足の方は涅槃原則の矢印として捉えることができるだろう。欲求とは日常的なパ
ロル
parole
の水準にある心的行為だが、本来の死の本能である涅槃原則の方向性の中にありながら、涅槃原則との差異の分の緊張量を恒常的な生活維持のために残している。つまり、欲求は欲望(こ こで、涅槃原則の死の欲動の方を欲望と呼ぶことにする)の緊張を恒常水準において恒常ラインま で放出する。欲望ほどに対象
a
への接近・実現を図らず、恒常原則水準に留まっている。言い換え れば、a
を禁じられたものとして恒常レベルラインの彼岸に置いている。欲求はすべて、欲望にそ の全体が重なる、すなわち、含まれる、言い換えれば、欲望に駆られるものとして欲望を前提とし ている(「巻き込まれているimpliqués
」)。さらに言い換えれば、欲求は自我レベルにあって意識化 可能だが、欲望は無意識であり、自我主体の知を免れている。他方、死の本能としての欲望は欲求 を前提としていない。つまり、原理的に、欲望のために欲求はなくても良い(「欲求は欲望に欠如 し得るpouvoir faire défaut
」3))。欲望である死の本能は、欲求の下を、密かに、対象a
を目指して、緊張の完全な放出に向けてまっしぐらに走る。こうして、欲求とは、死の本能という欲望に駆り立 てられた主体が、それを恒常水準に移動させてその緊張放出を図るところのひとつの方策であるこ とが見当付けられる。
しかし、欲望に重ねられた他なる満足の方はどうなるのだろうか。端的に言って、死の本能とし ての欲望は、欲求の主体から見れば「他なる満足」なのである。ひとつには、欲求の主体によって そのようなものにされるのである。欲求の主体にとって欲望が無意識であるというのはそのことで ある。
a
は不可能な対象であるが、禁止されることによって可能な対象とされるのである。主体に とってみれば、可能だが禁止されている限りにおいて、欲求における不充分な満足を越えるところ の完全な、理想的な満足、すなわち、もうひとつ別の他なる満足、いわゆる特権的な原父(特権的図-1
他者
a-utre
)のそれとして可能化、実在化されるのである。次いで、欲求と他なる満足との関係について、さらに検討してみよう。ラカンはこの他なる満足 について以下のように言う。
他なる満足
l’autre satisfaction
とは、[...]
それは無意識の水準において満足させられるものの ことです――それも、無意識がひとつのランガージュとして構造化されていることが真実vrai
であるなら、そこで何ものかが語られse dire
、かつ、語られないという限りにおいてそうな のです。(49
)この他なる満足が無意識的な欲望と重ねられるとすれば、欲望は主体の知らないところですでに 満足し享楽している。他方、欲求水準に留まる主体にとっても、欲求の行為遂行において、欲望に 基づくところの、密かな満足がある。すなわち、欲望を禁じて他なる満足とすることに基づく満足 がある。
人は四六時中、愛の話ばかりしているのだが、ラカンは「愛の話をすることが、それ自体におい て一つの享楽である」と言う。愛の話をするとは、
a
の話をするということである。しかし、人はa
の話は出来ない。禁じられた欲望において禁じられているのはa
だが、話をするというパロルの 水準はa
を禁じることによってこそ成立しているだから、a
はパロルの外にあって外からパロルを 維持しているのである。従って、パロル内にいる主体にはa
の話はできない。ではどのようにして
a
の話をするのかというと、a
を禁じられたものとして、あらゆる話におい ていつもa
の話だけをしないという形でするのである。つまり、主体には愛の話しかできないので ある4)。ランガージュとして構造化された無意識とは、a
を周回する欲望反復が欲求水準において抑 圧された形でパロルとしてなぞられることである。言い換えれば、欲望がa
を獲得することなくた だa
を周回するだけであることを、a
の話をしないでただa
を周回することでa
の話をすることへ と移動するのである。パロルの享楽は、欲望S
₁-S
₂の反復の享楽を禁じられた享楽として密かに味 わうものだろう。これがランガージュ水準におけるJΦ
(ファルス的享楽jouissance phallique
)であ る。この点において、JΦ
はa/A
(S
₁を、その対立的側面であるa
とS
(A⁄)とともに「/
棒線barre
」 として表記することを筆者は提案してきた)の享楽としての欲望の享楽とは異なることになる。そして、本稿における議論を先走りして言うならば、そこにまた、主体が
JΦ
を越えて欲望の享 楽に立ち会うことが要請される余地があることになる。つまり、男の享楽も女のそれも、主体によ る欲望の語り方の違いと言えるだろうということである。欲望自体はそれ自身の享楽(a/A
のそれ)を持っているが、男の場合にはこの欲望における享楽を欲求に留まって語り(
JΦ
)、そして、女 の場合には、この欲求水準のJΦ
に加えて、S
(A⁄)をも語ろうとするもの(J
A⁄「他者Autre
」の享楽jouissance de l'Autre
)だろう。他なる満足なるものは、従って、欲求の主体が禁止によって機能させるものとしては、ラカンが 明言するように、現実には存在しない。この存在しない満足・享楽を、否定の使い方を変えて、在っ てはならない享楽として実在化させるのがパロルであり、その意味では確かにそれは存在しない。
しかし、ラカンが
J
A⁄の存在を、女のそれとして信じるとこれも明言するように、問題の「他なる満足」が、我々が図で見たように、欲望の存在に支えられているのであれば、それは欲望における満足と
して存在すると言うべきだろう。
実際、同じページに「この
[
欲求という]
用語(il
)は、この他なる満足から欠けて初めて捉えら れるものだからです」とある。つまり、欲求に当の満足が欠けているのではなく(欲求はこの満足 に巻き込まれているのだから)、当の満足には欲求が欠けているのである。つまり、当の満足は欲 求の越えられない禁止の彼方に在るのだが、この禁止の彼方に在るという表現の意味が両義的なの である。禁止の彼方に欲望の満足として、すなわち、a/A
の満足として在るとすれば、これは、欲 求というJΦ
がそれに支えを求める当の享楽としてJ
A⁄が在るという意味になる。Ⅱ 話しているのは何ものか
欲求と欲望を、まず、死の欲動の二側面に関連付けて検討したのだが、今度は、これを別の図式 をもって見直してみることにしよう。
ここに示した図は、筆者が、以前に、中枢化的組織化という自前の概念を紹介する際に用いた図 の一つである。この図に即して、当座の我々の議論を進めてみよう。
その都度の「今・ここ」における自我の経験としての「私は話す
je parle
」は、N2-N3
の水準にあ る長方形の枠――この枠はN1
を他の水準から分けるところの、ラカンの言う「枠cadre
」でもある――に位置付けられる。これはパロル parole
および欲求besoin
の水準である。自我主体の経験は 一般にパロルと欲求の水準に位置付けられるのである。従って、「私は話す」だけでなく、「私は考える
je pense
」も、ここに位置付けられる。そこで、「私は考える」をもって、
N2
上に「私je
」が存在すると結論する場合のことを考えてみよう。この場合、様々な場面における、個別的な、すなわち単発的・瞬時的な「今・ここ」における「私」
の存在を問題にしているわけではないだろう。そうではなく、そこに存在すると言われる「私」と は、各々の「今・ここ」を同一主体として貫き存在するところの主体のことだろう。しかし、この 主体である自我が個々の経験における同一主体として捉えられるのは、飽くまでも、それら各々の
「今・ここ」が、その都度、
S
₁を参照しこれに準拠しているからである(では、主体「私」はS
₁上に 存在していると言えるだろうか。少なくとも、自我がその主体であるとは言えない。言えるのは、ただ、
S
₁が自我主体というものが機能するための準拠点であるということだけだろう)。それら個々の「私は話す・考える」において、自我は自分がその充足した主体であると信じている。
しかし、自我主体の様々な「今・ここ」の経験を唯一の主体の経験として統括することは、
N2
水準 図-2上の自我には出来ない。それはこの水準を超えた
N1
水準の何ものかにしか出来ない。この自我水 準における個別の経験をすべて一挙に統括するのが「主人のシニフィアン」と言われるS
₁である。各々の「今・ここ」相互の関係が、バラバラな単なる継起ではなく、時間・空間の中の(相互浸透する)
有機的かつ統合的な組織関係になるためには、個々の経験の水準を超えた上位水準における中枢が なければならないのである(これが、筆者が中枢化的組織化として提唱した概念である5))。
「私は話す」は、一見、枠内の
N2-N3
の間に、すなわち、その根底においてS⁄である自我主体と その対象S
₂の間に展開するように見える。しかし、現実にはréellement
、S
₁とS⁄の間の欲望とし て展開している。N2-N3
が自我経験の場であるとすれば、N1-N2
は欲望の場である。ラカンは、この「私は話す」について以下のように言う。
[...]
私は話す、そのことを知らないままにje parle sans le savoir
、ということです。私は私の 身体によって(を用いて)avec
話すのですが、そうしながら、それle
を知らsavoir
ないのです。従って、私が語る
dire
ときはいつも、私は、それについてen
私が知る以上のことを語るので す。(108
)
まず、この引用文中で、「話す
parler
」「知るsavoir
」「語るdire
」が使い分けられて出そろってい ることを指摘しておこう。これら三つの言葉(用語)の関係については、また後に論じることにな るだろう。ここではまず、「私は話す、そのことを知らないままに」について見てみよう。「私は話す」は図の枠内でのことである。このS⁄は自己のパロルが
S
₁から、すなわち、身体に刻 印されたシニフィアンから、換言すれば、欲望に基づいて、初めてされるものであることを知らな い。そして、この事実について私が「語る」とき、語りは図の枠を超えるものとして、S
₁すなわちa/A
に向かう。「語りdire
」は、欲望同様に、つまり欲望の通り道を通って、シニフィアンを辿り ながら「無知ignorance
」の場であるS
(A⁄)を語る(語ろうとする)ものである(S
(A⁄)とは、簡略化 して言うなら、a/A
という二面性を持ったS
₁の「/A
」のことであり、知における純然たる欠如とし ての「他者Autre
」のことである)。この語りの持つ機能、すなわち、無意識の欲望をシニフィアン を頼りに遡り知ろうとする機能は、後に我々が扱う「承認」において重要な意味を持つことになる だろう。もうひとつ付言すれば(これも後に論じるが)、欲望について主体に自己知がないことと、この欲望という知が「無知
ignorance
」としての「他者Autre
」に位置づけられるということは同一 事象の異なる二面であると言えるが、それは上の図で見て取れる。先に、欲求の水準は欲望における
a
を禁止・抑圧することによって支えられていることを見た。この点を加味すると、「私は話す」の内実は「
a
が(私において)話すça parle
」である。しかし、私 はそのことを知らない。こには自己知の欠如があるわけだが、この欠如はa
を実在化させそのよう なa
に留まろうとする禁止・抑圧によるだろう。この抑圧はS
₁のそれが原抑圧だとすればやはり 事後抑圧だろう。だから、倫理的要請がされ分析される、つまり改めて語ることが要請されるこ とになるのだろう。主体は、知っている、すなわち、無意識的知(savoir
)S
₁-S
₂を通っているとい うことにおいて「知っているsavoir
」ということを知らないのである。分析はこれを知るようにと、倫理の要請に基づいて要請するのである。つまり、無意識的知を通っているという事実において無 意識的に「知っている」(そしてまた、同じ事実において「語っている
dire
」)のであるから、改めて分析的に知る(「語る」)ことが出来るのである。つまり、精神分析の倫理は
a
に留まること(アリ ストテレスの倫理学のように、とラカンは言う)を許さない。「私は話す」は「a
が話すça parle
」であり、
ça parle
は欲望(「→a/A
」と表記してみよう)によるものである(ただし、「話すparler
」はa/A
の抑圧の上に成立している点において欲望に依拠し欲望に発するのであって、抑圧無しに欲望 自体と重なる「語るdire
」とは水準が異なる)。私が分析を介してこの無意識の欲望について「語る」とき、私が「知る」ことの出来るものは
a/A
のうちのa
、すなわち「語られたもの」までであり、S
(A⁄)自体について「知る」ことは出来ない。しかし、語りはいつも
a/A
を目指しているのだから、私 が知る以上のS
(A⁄)を語る(つまり、語ろうとする)と言える。「話す」も「語る」もa/A
に基づく ものであれば、「話す」におけるa/A
についての自己知の欠如と「語る」における知の欠如(「/A
」)とはその根本において同じ
S
(A⁄)の発現である(「従って」)。つまり、これらの欠如は両方とも、自 我を超えた欲望・享楽の水準にあり、図のN1
に位置付けられる。こうして、「話す」と「語る」は異なる水準に位置付けられることが分かる。ラカンによれば、「語 り
dire
」は、欲望としてS
₁に向かうことから、S
₁に「他者Autre
」として位置付けられる神Dieu
を その場にするとされる。このことをラカンはdieur
(無理に訳せば「神語り」。つまり、神を語ると 同時に神が語る)と造語で書く。つまり、あらゆる欲望は「神語り」である。この点について、ラ カンは、無神論者であるのは神学者・聖職者たちだけだと言う。一般の人々は、何の話をしても無 意識の欲望レベルでしていることが「神を語る」ことであれば、結局それは「神について無意識的 に(つまり、隠喩的に)話す」ことになるが、神学者・聖職者の場合は、欲望レベルではなくパロ ルのレベルにおいて、その明示的な話題としての神について「話す」のであるから、パロルのレベ ルにおける存在ではない対象、非在の対象について話すことから、無神論者であると言われるので ある。つまり、神について話すというのは愛について話すのと同じく、a
について話すことだが、欲求レベルにおいて人がしていることとは、そもそも、抑圧された
a
について無意識的に話すこと であって、a
を明示的な話の対象にしているわけではない。神をパロルにおける明示的な対象とす る限りにおいて、論理的に、それは無神論であることになる。これは例によってラカンの冗談のよ うなものだが、ラカンの冗談はいつも冗談に終わらない。つまり、ラカンはa
について「話す」と いうことの、もうひとつ別の意味を念頭に置いているからである。別の意味というのは、主体は構 造における立脚点を換えることができるということである。この点については後に触れる。「話す
parler
」というパロルparole
の水準が、欲望の水準を抑圧することで、しかし、その欲望における
S
₁に準拠することで、初めて成立するということを見てきたが、次に、このS
₁の在り方 についてラカンに従いつつ見ていこう。まず、ラカンの文言を引用する。この「他者」は以下のことに支えられた用語/境界標
terme
として[統括的準拠点・中枢として]提示されるべきです。すなわち、話しているのは私
moi
であり[パロルは自我水準の事象であ る]、その私は、一つの純然たるシニフィアンun pur signifiant
に同一化したものidentifié
と しての私[この「私」は自我moi
ではない。欲望の原因cause
となる主体である]がいるその 場所[S
₁]からd’où
しか話すことができないということです。(39.
[]内は筆者の註釈・解釈。
以下同様)。
私が話すときには
S
₁がその要として機能しているということだが、ここで、我々は、「私は[...
] その場所[S
₁]からd’où
しか話すことができない」という文言に注目しよう。つまり、自我である 私が話すときには、私はいつもS
₁を参照しS
₁に準拠しているということである。S
₁から4 4d’où
とい うのはそういう意味だろう。ここで思い出されるのは、『アンコール』の最終章を成す講義において、「私が話しているのは
それら/
S
₂(est-ce d’eux)
についてか?」という自らの問いに対して答えて言うところの、「私が話しているのはミツバチ分封群/
S
₁[essaim. S
₁と音がよく似ている]
についてであるC’est l’essaim dont je parle
」という文言である。この文言の形を変えて「私はS
₁について話しているje parle de l’S
₁」とすると、この文は、上の「から
d’où
」に倣って、「私はS
₁から話している」とも訳せる。すると、これは、〈(パロル上において)私は
S
₁から話す・語る、すなわち、欲望する〉ということ、言い換 えれば、〈私はS
₂上の個々の対象について、S
₁に準拠しつつ話す・語る、すなわち、欲望する〉と いうことだろう(そして、これは〈S
₁の話をする・S
₁を語る、S
₁を欲望する〉と同じ意味である)。そして、この事態は「数える
compter
」ということのそれと同じである。数えることとは、それ までに数えたものに、その都度、一つ加えることである。これが可能になるためには、新たな一つ を加える度に、それまで数えたものを保持しておくのでなければならない(つまり、時間の存在)。それらを保持するのは組織化の中枢、すなわち
S
₁だろう。そうして新たに付け加えることを可能 にするのもS
₁だろう。中枢の存在が「アンコール」を可能にするのである。「アンコール」とは現 在の「今・ここ」に新たな「今・ここ」を有機的に追加すること、そうして、後者が前者をその内に 有機的に含むことである。つまり、数えることである。欲望の反復は単一水準での無機的出来事で はない。反復が「アンコール」であるからには、そこには中枢の水準があるのでなければならない。組織化中枢がなければ、言い換えれば、個別の経験の水準しか存在しなければ、各経験はただ継起 する、つまり、互いに機械的に、無機的に、それぞれがバラバラに生じるだけである。
欲望反復は時間の中で、時間として、時間を刻みつつ、時間を成しつつ、なされる。中枢を巡る 欲望の反復が時間である。ラカンが援用するボロメオの輪で言えば、個々の環は継起的にそれら自 体の水準において互いに繋がるのではなく、個々の環がそれぞれに統括的・中枢的水準における(す なわち個々の環の水準における不在の)「一(
l’Un
)」に繋がることによって初めて互いに有機的に繋 がるのである。この意味で、中枢的「一」(すなわちS
(A⁄))は「時間」の根拠となるもの(時間性)で ある。これがなければ、個々の水準の〈一〉(uns
)が数えられることはない。こうして、
S
₁へのその都度の準拠とは欲望における反復のことである。ラカンが引き合いに出 すドン・ファンが1,003
まで数えているのも欲望の反復である。女を次々に愛することも、そして、愛した女たちを「一女づつ
une par une
」数えることも、欲望における反復、あるいは反復に基づ く行為なのである。それは、S
₁-S
₂という欲望を、S
₁-S
₃、S
₁-S
₄...
と反復し、ラカンの言うその「享 楽の残滓résidus
」であるS
₂、S
₃、S
₄...
を数えることだが、これら残滓はすべて個々の「今・ここ」として
S
₁をその準拠点として持っている。ドン・ファンは女たちをS
₁から数えているのである。ラカンは、また、次のように言う。
男の、一人の女
une femme ――〈問題になっている/原因となる〉 en cause
女――に対するど んな関係においても、〈マイナスの「一女」〉l’Une-en-moins
の観点からこそ女は捉えられなければならないのです。このことはもうあなた方にはドン・ファンに関して示してある
[...]
。(116
)ドン・ファンは、「マイナスの「一女」」(すなわち、欠如としての
S
(A⁄))の代理であるa
を巡って 欲望旋回の反復をすることで女を数える。この「一女ずつ」の数え上げを成立させているのは根源 的中枢としての「マイナスの「一女」」であるS
(A⁄)と欲望の旋回反復である。この、一女ずつ数え るという点において、ドン・ファンは、a
を巡るJΦ
の典型を演じながらも、実は、女を、ある意味で、正当に扱っていることになる。つまり、数えるからには、その都度、「マイナスの「一女」」への参 照をしなければならないのである。つまり、一人ずつ数えられる女とは、受肉した
S
(A⁄)なのである。更には、この「数える」ということは、ラカンの言う「部分的「一」がある(「一」に由来するもの がある)
Y a d’l’Un
」にも関連がある。ラカンは「「一」を自らを維持するse tenir
何ものかに、すなわち、存在することなく数えられる
se compter sans être
何ものかにするという問題を措定する」(118
)と 言うが、ここで「存在することなく数えられる何ものか」としての「一」(l’Un
)とは、「すべてtout
」 の原理であるa
としてのそれではなく、S
(A⁄)のことである。この「一」は、ボロメオの輪につい て言えば、「要求demande
」の反復において、その都度、個物としての「部分的「一」de l’Un
」(個物uns
の言い換え)として数えられるが、各々の「部分的「一」」の環の連なりの水準上では存在しな いものとして(ラカンの言う「外在ex-sistence
」)、すなわち、そのボロメオの輪の見えない「結び 目nœud
」として、維持されている。Ⅲ 知る savoir、語る dire、欲望する désirer
ここで、「欲望する」、「語る」、そして、「知る」というラカンの言葉遣い(用語)について検討を 加えてみよう。まず、ラカンの文言を引用する。
無意識は一つのランガージュとして構造化されている、というわたしの語り
dire
は、言語学 の領域のものではありません。わたしのよく知られた不定期刊行物の次号[Scilicet, nº 4]
に「レ トゥルディl ’ Étourdit
」――d, i, t
と綴ります――という題でテキストを発表しますが、この語 りはそこで注釈されているものへと開かれている扉なのです。すなわち、昨年度、わたしが 数回にわたって黒板に書きはしたものの、その展開を一度も与えることのなかったあの文句――「人が語ろうとしているということは [L ’ Étourdit
ではこの接続法が強調されている]
、聞 き取られるものの中で、語られるものの背後に顧みられないまま残るQu’on dise reste oublié derrière ce qui se dit dans ce qui s’entend
」――へと開かれた扉です。(
20.
下線による強調は引用者)まず、「人が語ろうとしているということは、聞き取られるものの中で、語られるものの背後に 顧みられないまま残る」という文言について見てみよう。これは、そもそも、欲望のことである。
欲望は、これまで見てきたように、私見ながら、「→
a/A
」と略記できるものである。つまり、S
₁ へと向かう(あるいは、S
₁に発する。欲望はどちらにも表現できる)のだが、S
₁の二側面a/A
のうち、S
(A⁄)をそもそもの起源とするものだろう。そして、ここで問題になっている「語りdire
」は、先に 見たように、ラカンはdieur
(神語り)としてS
₁をその場であるとしている。つまり、欲望と語りは、その在り方において、ある意味で重なるのである。ラカンはこれら二語について、そのような使い 方をしている。どのような意味で重なるのだろうか。ポイントはおそらく、欲望が知であることに ある。欲望は根本的に、主体の分割における
S
₁-S
₂という、いわば、享楽の道とも呼ぶべき知の道 を通る。ラカンが享楽の「手段moyen
」と呼ぶものである。そして、語りもこの知を通るのである。すなわち、欲望自体が、すでに、語りであり知ることなのである。
先にも触れたように、語りは、欲望同様に、つまり欲望の通り道を通って、シニフィアンを辿 りながら、「無知
ignorance
」の場であり常に知を越え続ける「余剰en plus
」であるものとしてのS
(A⁄)を語ろうとするものである。言い換えれば、常に、S
(A⁄)に位置付けられる真理を語るもので ある6)。しかし、その都度、実際に「語られたものle dit
」は、知としてS
(A⁄)の手前に留まる。S
(A⁄)は「無知
ignorance
」の場として残り続ける。これが、「私は常に真理を語る:すべてではないJe
dis toujours la v é rité : pas toute...
」(Télévision, p. 9
)7)の意味するところだろう。ただし、この語り の根本的な在り方をどこまで主体が受容できるかは、まったく別問題である。つまり、S
₁を語ろう としながら、結果的にa
だけを語り、S
(A⁄)が顧みられないまま後に残されるという語りの在り方 が受容されるためには、ラカンの言う分析的ディスクールに立脚することが要請されるのである。つまり、ラカンのように「私は常に真理を語る:すべてではない」と語ることができるためには、
それなりの立脚点が不可欠なのである。語りとは、無意識の欲望を、シニフィアンによる知
savoir
を頼りに遡り、「知るsavoir
」ことを努めることである。すなわち、それは、すでに語りであると 同時に知ることでもある欲望を、改めて語り、知ることである。精神分析がその倫理として人に求めるのは、このことである。己の欲望を語り、知ることであ る。そうして、その語り知ろうとすることが、欲望とまったく同じように、いつも後に取り残す ところの場、すなわち、欲望の起源の場である
S
(A⁄)を「承認reconnaissance
」し受容することで ある。上の引用中に、「無意識は[…]構造化されている」という語りは言語学の領域のものではな いという指摘があったが、これは、言語学が欲望を「知る」という倫理的な要請に適正に応えてい ないという意味である。つまり、この語りが言わんとするところは、ランガージュとは「a
が話す(
ça parle
)」こと、すなわち、パロルが無意識を受け容れる仕方(JΦ
)であるということなのである。この語りが言語学の領域のものではないというのは、言語学は、無意識という真実に対する主体の 一種の欺瞞としてのランガージュに拘泥しているということである。倫理の問題についてはまた後 で述べる。
こうして、引用中の「無意識は一つのランガージュとして構造化されている」も、また、「この語 りはそこで注釈されているものへと開かれている扉なのです」も、そして、勿論、「人が語ろうと しているということは、聞き取られるものの中で、語られるものの背後に顧みられないまま残る」
も、欲望の真実についての「語り」である。特に三つめの語りは、それ自体が、
S
(A⁄)を語ろうとし てS
(A⁄)が取り残されるという、欲望と語りと知ることの宿命を実地に反復したものである。以下、この項のまとめの意味で、もうひとつラカンの言葉を引用しよう。
男
l’homme
、 ひ と り の 女une femme
は、 前 回 言 い ま し た が、 そ れ ら は シ ニ フ ィ ア ンsignifiants
以外の何ものでもないのです。彼らがそれぞれの機能fonction
を帯びるのは、そ こ[=S
1]からde là
、すなわち、性の異なる体現incarnation distincte du sexe
としての語りか らdu dire
なのです。」(39
)シニフィアン
S
₁はdieur
(神語り)としての語りdire
の場である。語りはそこから性別を帯びた 欲望・享楽として現れる。欲望・享楽はすでに語りである。男女の語り方の差は語りが通る無意識 の知の構造のa/A
における立脚点の差である。つまり、語り方とは、欲望・享楽が欲望・享楽す る仕方のことである。これが男女(生物学的性別としての男女とは必ずしも一致しない)によって 異なるのである。従って、当然、それを改めて語る仕方も男女で異なることになる。Ⅳ 承認
先に、欲求の水準におけるパロルと、そのパロルのすべての行為における中枢としての
S
₁につ いて検討した。もう一度、その点に戻って見直してみよう。ラカンは、『アンコール』の最終講義の冒頭節において、ランガージュの水準における「話す
parler
」の対象について、「ランガージュにおいて問題であるのは、確かにそれら/S
₂かest-ce
bien d ’ eux ? [est-ce d’eux
とS
₂は音が同じである]
」(127
)、あるいは「それça
が話すparler
のは確 かにそれらについて/S
₂についてかest-ce d ’ eux ?
」(126
)と問う。つまり、欲求の水準、すなわち、ランガージュの水準における「私が話す」という行為は、それが
a
の抑圧の上に成り立っている以上、現実には「
a
が話すça parle
」ということなのだが、この「a
が話す」というのは、先の我々の図に おけるN3
の水準に相当するS
₂(図−3
ではS
₂が位置付けられる縦線に表される水準)について成 されるのかという問いである。これに対するラカンの当該最終講義における答えは、これも先に引 用したように、「私が話しているのはS
₁についてである8)」である。この問答は次のように図式化で きる。すなわち、「私が話す」→「a
が話す」→「私がS
₁について話す」である。第一項から第二項 への転換は無意識の抑圧で説明される。第二項から第三項へのそれは、実は容易ではない。しかし、ラカンの狙いはそこにあるだろう。以下、この点を見ていきたい。
「
a
が話す」とは、a
がラカンの言うように「他者Autre
」の代理であれば、最終的には、この「他 者」が話すということでなければならない。つまり、a
は欲求において抑圧された無意識として機 能するのだが、この無意識の機能とはa/A
に位置付けられる欲望のそれ、すなわち、S
(A⁄)にその 起源がある欲望の機能のことであり、従って、その意味で、「a
が話す」とは、ラカンはそのような図-3(Séminaire XI, p.180の図を改変したもの)
言い方はしないが、不用意を覚悟で言うと、「
S
(A⁄)が話す」、つまり、「S
₁が話す」ということなの である。つまり、パロル水準の「話す」はS
₁に、いわば、その出自がある。その意味では、「話す」という行為は主体の行為ではなく、
S
₁の行為である。言い換えれば、「私」という自我主体はパロ ルの水準の住人であって、この住人はS
₁に自分の口と舌を貸すことによってしか話すことが出来 ないということである。しかし、ラカンは「私はS
₁について/S
₁から話している」と言うのである。ラカンにしても、パロルの住人であることに、自我であることに変わりはない。ここにはパロルの 水準と欲望の水準の差異があるだろう。この差異の距離は絶対的であり無限である。問題は、従っ て、どのようにしてこの差異を越えるかということである。以下、それを検討してみよう。
愛について話すことは出来ないと、ラカンが言っていることは先にも触れた。
a
はパロル水準に 抑圧されてパロルを外から支えているのだから、a
について話すこと、つまり、a
をパロルの対象 にすることは出来ない(先に触れた神の場合と同じである)。しかし、ラカンは以下のようにも言う。ここで、一息入れるために、しばらく前にわたしがあなた方のために書いた
écrit
ものを読 ませてlire
もらうことにしますが、何について書いたのでしょうか? ──人が愛の話をする/愛の言葉をささやく
parler d’amour
ことがそこから可能になる、ただただそういう場là
で 書いたのです。(77
)つまり、「話す」の水準にないものを対象にして話すというのである。それが可能な場というも のがあり、その場でこの対象について「書いた」と言うのである。「書かれたもの
écrit
」は、それを 構成する文字lettres
の先に、そこには現れないS
₁を指し示す。つまり、この「場」というのは、我々 の表記を用いれば、a/A
のことだろう。a/A
とは、見て分かるとおり、「/
棒線(barre
)」を軸として、a
からA⁄へと転回を図ることが出来る場のことである。ラカンはここにいるのだろう。この点を補足するために、もうひとつ引用しよう。ラカンは「
[...]
わたしが語るdire
べきこと をわたし自身が知らsavoir
ないと証言するtémoigner [
語源はtestis
睾丸]
ものは何もrien
ない[...]
」(66
)と言う。この文言は二重に取れる。①「わたしが語るdire
べきことをわたし自身が知らsavoir
ない」という語りの在り方はJΦ
(ファルス的享楽)であるが、私の語りがJΦ
であると証言する
témoigner
ものとはこのJΦ
自体である。しかし、そういうJΦ
に相当するものは私の語りには何も
rien
ない。②「わたしが語るdire
べきことをわたし自身が知らsavoir
ない」という語りの 在り方はJΦ
であるが、これを対象化して、その語りがJΦ
であると証言するtémoigner
ものとし てS
(A⁄)(rien
無)がある。つまり、ラカンが言っているのは、自分の語りは
JΦ
ではないということだろう(JΦ
は自分が無 意識の欲望において何を語っているのか知らない)。つまり、真理を語るということについて言えば、JΦ
は無意識的欲望においてa/A
を語る点において、すでに、常に真理を語っている。しかし、パ ロル水準の住人であるJΦ
の主体はそれを知らない。しかし、ラカンが「私は常に真理を語る:す べてではないje dis toujours la vérité : pas toute
」と語る場合には事情が異なる。無意識的な欲望もa/A
における「/A
」を語ろうとしながら、その都度、a
だけを語り、その後にS
(A⁄)が残るのである。その意味では、「人(つまり
JΦ
の主体)は、無意識において、常に真理を語る。しかし、すべてで はない」と言えるのである。しかし、ラカンは「無意識において」とも「人は」とも言わず、「私は…」と言うのである。ここには大きな差異があるだろう。
まず、
JΦ
の住人が、自分が無意識に常に真理を語るが、すべてではないということを「知る」た めには、その無意識の知の道を自ら通らなければならない。つまり、無意識的欲望の語りを、同じ 道を通って、すなわち、いわば、無意識の主体となって4 4 4 4 4 4 4 4 4 4、改めて語り直すのでなければならない。しかし、その段階でこの住人が言えるのは、自分の欲望の語り直しの体験である。これがおそらく、
分析主体
analysant
と言われる患者たちが、夢や症候のシニフィアン連鎖を辿り直すことで促されていることだろう。この患者たちの経験が一般化されれば、「人は、無意識において…」が言える ことになる。この段階で「私は常に…」と言う場合には、それは無意識の主体を代弁しているので ある。ラカンのこの文言も、その一面においてそうである。しかし、もうひとつ別の側面があるだ ろう。つまり、欲望の場である
S
(A⁄)に陣取っているのである。そこから欲望の在り方を語り、欲 望との関わりにおいてJΦ
を、そして、J
A⁄(「他者」の享楽)を語っている、すなわち、欲望の真理 を語っているのである。そして、この語りは欲望としての語りである以上、常に真理を語るがすべ てではないのである。これはパロルの住民に出来ることである。そうして、パロルの住人でありながら、自己の欲望を、
欲望が通ったシニフィアンを頼りに語り直し、欲望の場、真理の場に陣取って欲望を対象化するの である。しかし、こういった、自己の外の無意識を改めて捉え直すために、自己が棲み着いた
JΦ
をシニフィアンの道を辿って脱出・脱我するということを、一体、何が可能にするのだろうか。そ れは「他者Autre
」しかないだろう。自我から無限の距離の先に在る、主体がそこで最初に邂逅し、自己の原的な存在を得た、第一のシニフィアン
S
(A⁄)である。もうひとつだけ、補足の引用をしておこう。
Seuls ceux pour qui ce bouchon [=a] n’a aucun intérêt, les théologiens par exemple, travailleront dans la structure... si le cœur leur en dit, mais gare à la nausée..
拙訳:この栓
[=a]
に何の関心もない人々、例えば神学者たちは、構造の中において仕事をす ることでしょう…もし、その気にさえなれば、しかし、吐き気にご用心9)。先に、無神論者であるのは神学者たちだけだというラカンの言葉を検討した。ここは内容の上 でその続きである。神は「神語り
dieur
」として「語りdire
」の場であり、欲望を始めとするあらゆ る語りは神を語ることになる。しかし、a
である神はパロルの外からパロルを支えているのである から、パロルの対象として神について明示的に話すのは、パロルの住人が生きる水準に存在しな い対象について話すことになるから無神論者だという理屈だった。ここでは、神学者は、端から、S
(A⁄)という「穴」の栓であるa
(としての神)に関心がないというのである。つまり、神学者が「神 について話す」というのは、先の話と水準が異なる。愛にせよ、神にせよ、「a
について話す」とい うことの両義性である。すなわち、パロル水準のことか、それとも、S
(A⁄)水準のことかという両 義性である。ここでは、「構造の中において仕事をする」と言われているように、構造に陣取るこ とを言っているのである。構造に陣取った上で「(a/A
としての)神について話す」のである。ラカ ンが、愛について話すことが可能になる場ということを言うように、ここでは、欲求水準に生活し ながら、「/A
」に立脚することを言うのである。実際、ラカンが若い時分にその著作から大きなヒントを得たという、神学者ルスロ
Rousselot
が しているのはそれだろう。ルスロがアリストテレスに基づくトマス・アクィナス的な「自然的愛amour physique
10)」(JΦ
)に対して「脱我的愛amour extatique
」(J
A⁄)を論じるということはそのこ とだろう11)。ルスロは確かにa/A
の対比においてA
を論じていると言える。つまり、A
に立ってa
を対象化している。神を構造内に位置付けて、その上でそれを対象として話し4 4ているのであって、パロルにおいて、抑圧された欲望として語る4 4という仕方で(すなわち、隠喩的に)話し4 4ているので はない。ただし、本気でそれをすれば「吐き気
nausée
」に見舞われるだろう、サルトルのように。S
(A⁄)の現れは完全な無意味の現れだろう。
しかし、構造に、
a/A
に陣取るためには、先に見たように、自己の欲望を「知る」ことがなけれ ばならない。つまり、自己の欲望・享楽について知ること、欲望・享楽の要であるS
₁について、これが
a
ではなくS
(A⁄)であると知ること、すなわち、「承認するreconnaître
」ことである。知るとは承認することであって、無意識レベルで欲望することではない。知りたいという欲望は ないとラカンは言う。知るべき知はすでに在り、話す存在は話す中ですでに享楽している。だから、
存在はそれ以上何も知ろうとはしないというのが真実であると。言い換えれば、主体が自己の欲望・
享楽を知ることは、義務・倫理として要請されていることなのである。
ここで、知るとは、先に見たように、欲望が通った道
S
₁-S
₂を介して語ること、すなわち、道の 一次行使である欲望に対する二次行使である。それはまた同時に、無意識だった一次的「知る」を 改めて知ることである。分析的ディスクールの「転移transfert
」において主体に生じることは、主 体がこのS
₁-S
₂という無意識的な知において在ると、すなわち、知っていると想定されること、そ うして、この知において無意識の主体として立つことである12)。そして、この知を通して語ること を、S
(A⁄)を語ろうとすることを、すなわち、Bien dire
(善語り/
善く語ること)をすることを、言 い換えれば、これを承認することを要請されるのである。この欲望を知るとは、
JΦ
における主体にとって、どのような意味を持つのだろうか。ラカンの 二箇所の引用から見てみよう。ランガージュというのは、ララング
lalangue
とわたしが呼ぶものを説明する/勘定報告するrendre compte
ために、科学的ディスクールが練り上げるélaborer
ものに過ぎません。(126
)ランガージュとは、人がララングの機能
fonction
に関して知ろうsavoir
と務めているものの ことです。(idem
)まず、ここで言われるララングとランガージュとの関係について、図−
3
でおおよその見当をつ けておこう。すなわち、ララングがS
₁-S
₂を含むこれの反復としてのS
₁-S
₃、S
₁-S
₄...
に位置付けられ、ランガージュは
S
₂レベルのS
₂-S
₃-S
₄...X
に位置付けられるだろう。(図とは逆になるが)前者は垂直 方向の隠喩的運動性(ラカンが万有引力の法則にちなんで言う「それは落ちるça tombe
」)にあり、後者は水平方向の換喩的運動性(ラカンの言う「スリップ
glissement
」。また、a
を巡る周回として の「それは回るça tourne
」)にある。この二つの引用文で言われていることは、言語学という科学的ディスクールのしていること